Page:成吉思汗実録.pdf/393

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らんや。又 太宗紀の末に「帝有寬弘之量、忠恕之心、量時度力、擧無過事。華夏富庶、羊馬成羣、旅不糧、時稱治平」とあるは、元の史臣の作れる太宗 實錄の頌讚の語をそのまゝに寫したるにて、「擧無過事」の諛詞は、太宗の自ら承くるを屑しとせざる事なるべし。訶倭兒思の蒙古史に曰く「斡歌台は、寬仁 大度の君なりき。

太宗の逸︀事

常に曰く「人人は、この世の旅客なれば、人の記憶にその名を永からしむるは善し。」「貨幣は、死を止むること能はず。然して我等は彼の世より還られざる故に、我等の財を我等の民の心に置くべきなり。」喀喇 科嚕木を築ける頃、ある日 庫に入りて、貨幣の滿ちたるを見て、「この貨幣は、我に何の用かあらん。之を守るは、困みなり」と云ひて、銀貨を要むるものは誰にても來て取れと命じけり。商人どもを勵まして來させんとの主意にて、買物の價を高く拂ひ、又給與に用ひんが爲に、ある商人より貨物を殘らず買ひたりき、大氣(惠施)の出來心にて、巴固荅惕より來つる乞食に銀貨 千巴里施を與へ、それを運ぶに馬を與へ、長旅に護衞を附けて還したることありき。その老人 路にて死にたれば、その貨幣をその女に送らしめき(多遜二、九〇)。ある日 獵せる時、貧しき人 水瓜 三つを斡歌台に與へたるに、貨幣をもたざりしかば、合屯 蒙噶に、(元史 后妃表の正宮 孛剌合眞 皇后か。)その耳に懸れる大 眞珠 二つを與へよと云ひき。蒙噶 答へて「彼は、眞珠の價を知らず。明日 拂ふ方 善からん」と云へば、合罕は「貧しき人は、明日まで待たるゝものか」と云ひて、眞珠をすぐに與へさせけり。それを直ちに安く賣りければ、買へる人、眞珠の來歷を知らずに、合罕に獻上し、合罕はそれを蒙噶に返しき。發兒思の使、眞珠 二瓶を獻りし時、斡歌台は、その一函を出し、夜會の客どもに進物として杯に入れて出さしめき。成吉思の法にては、春夏に流水に浴する者︀は死刑に當てられき。ある日 兄 札噶台と獵より回る時、貧しき木速勒蠻の浴するを見て、札噶台は、直ちに斬らせんとしければ、斡歌台は、窃に銀貨を流れに投げ入れて、木速勒蠻に敎へて「貧しきものにて、貨幣を流れに落したれば、御赦下され」と言譯せしめけり(多遜二、九三)。木速勒蠻を惡める人、斡歌台の處に來て、木速勒蠻を絕やすべきことを申さんが爲に、成吉思より遣されたりし事を云ひき。斡歌台は、しばし考へて「成吉思 汗は、譯人を用ひしか」と問へば、「否」と云ひき。「然して汝は、蒙古語を知れるか。」「たゞ禿兒克 語を知れり」と云ひき。「然らば汝はうそつきなり。成吉思 汗は蒙古語のみを知れるから」と云ひて、その人を死に處しけり(多遜二、九四)。ある日 支那の見せ物師ども、斡歌台の前にて彼の名高き影繪を見せて、その繪の一つに、馬の尾にて頸を曳かれ行く白髯の老人あるを、支那人は、誇りかに指さして、蒙古の騎兵に木速勒蠻のさいなまるゝ圖なりと云ひき。斡歌台は、彼等に罷めさせて、支那 製 珀兒沙 製の貴き品物を庫より出して、支那 製の劣れることを示し、且 曰く「富める木速勒蠻の多くは、支那 奴隷を多くもてども、支那人に木速勒蠻の奴隷をもてるものなし。成吉思の法にて、木速勒蠻の命は四十巴里施の價あれども、支那人のは驢と價 同じきことを汝等 知らん。然らば汝等は、何ぞ敢て木速勒蠻を辱むる。」斡歌台は、相撲を甚 好み、珀兒沙より名高き力士どもを呼び寄せたる中にも、闢勒は殊に賞せられき。合罕は美女を妻として與へしに、闢勒はそれと寢ねざりき。何故と問はれて、「朝廷にてかゝる大名を得たれば、力を保ちて、合罕の寵を失はざらんことを願ふ」と答へければ、合罕は「我は、汝の種族を增さんことを願ふ。將來の爲に汝の力を分つべし」と云ひき(多遜二、九六)。斡歌台の正妻は、