て最 美しきものを己と官人 等との分として摘み出し、その次は娼家に送り、殘りみなは兵士どもに摑み取りせしめけり。この事を彼等の父夫兄弟の前にてせしに、一人もぶつぶつ言はざりきと云ふ」とあり。これも同事の異聞なるべけれども、左翼の諸︀部を北方の斡亦喇惕 部とし、女を取るを他の部落に嫁がするとし、人數もあまりに多く、淫暴もあまりに甚しければ、疑はくは傳への誤りにて、話の大きくなり過ぎたるならん。又 耶律 楚材の傳に「侍臣 脫歡 奏𥳑㆓天下室女㆒。詔下、楚材尼㆑之不㆑行。帝怒。楚材進曰「向擇㆓美女二十八人㆒、足㆑備㆓使令㆒。今復選拔、臣恐㆑擾㆑民、欲㆓覆奏㆒耳。」帝良久曰「可㆑罷㆑之」」とあり。この事は、傳に八年 丙申 天下の賦稅を定むるの續にて、工匠の糜費を考覈する次に載せたれども、類︀似の事を丙申の法令の後に連ね擧げたるにて、その實は、九年 丁酉 左翼の女を括したる後の事なるべし。謂はゆる美女 二十八人は、斡惕赤斤の領地より取れるものなるべし。然らば室女を括するの非なることを悟れるも、楚材の諫に因れるに似たり。)
又マタ 朶豁勒忽ドゴルクを害ガイしたるは、一ヒトツの過アヤマチ。いかに過アヤマてると云イへば、我ワが皇考スメラミオヤの正主セイシユの前マヘに働ハタラける朶豁勒忽ドゴルクを害ガイしたるは、過アヤマてる非違ヒヰ。今イマ 我ワが前マヘに誰タレかしか働ハタラきてくれん。我ワが皇考スメラミオヤの、眾モロ〳〵の前マヘに道理ダウリを愼ツヽシめる人ヒトを察サツせず圖ハカり合アひたるを己オノレを過アヤマチとせり、我ワレ。(太宗紀に「二年夏、朶忽魯 及㆓金兵㆒戰、敗績。命㆓速不台㆒援㆑之」とあるは、朶豁勒忽なるべし。この敗績も、朶豁勒忽 罪を得る一因となりしならん。然れども太宗の何を惡み何を怨みて殺︀したるかは知るべからず。)
又マタ 天地アマツカミクニツカミより命ミコトありて生ウマれたる獸ケダモノを兄弟アニオトヽの處トコロに往ユかんとて貪ムサボりて、圍カコヒの墻カキを築キヅかせて止トヾめて居ヰたるに、兄弟アニオトヽより怨言ウラミゴトを聽キきたり、我ワレ。過アヤマチと[これ]もなれり。(この事は、他の書に見えず。この圍の墻は、文の儘に解すれば、雙溪集に禁地 圍場と云へる多遜の翁奇の園ひとは、目的 異にして、それよりは規模 大きく、例へば東方は拖雷の諸︀子の領地の界、西方は察阿歹の領地の界などに墻を築きたるが如し。)皇考スメラミオヤに後ノチに四ヨツの事業ジゲフを添ソへたるぞ、我ワレ。四ヨツの事業ジゲフは、過アヤマチとなりけるぞ」と宣ノリタマへり。(古人 曰く「人誰無㆑過、能知㆑過爲㆑貴。」太宗 自らその四功を知り、又 自らその四過を知りて、功を匿さず、過を諱まず。その自知の明あるは、古來の帝王に類︀ 希なる事なり。過を改むるの效は、未 至らざる所あるに似たれども、悍然として過を飾りその非を知らざるものに賢れること遠し。淸の高宗は、十たび武功を立てたりとて、自ら十全の記を作りて、一過一失をも言はざるは、太宗に慙づること無か