は無し。不哩の事は元史 憲宗紀 元年 卽位の大會の條に「諸︀王 也速忙可 不里 火者︀ 等、後㆑期不㆑至。遣㆓不憐吉䚟㆒率㆑兵備㆑之」とあり。
也速忙可は、世系表なる察合台 太子の子 也速蒙哥 王、火者︀は、世系表なる定宗の子 忽察 大王なり。喇失惕に據れば、失喇門(定宗の姪 失烈門 又 昔列門)闊札 斡古勒(卽 忽察)納古(忽察の弟 腦忽)三王の謀反せる時、不哩も謀に與りたれば、一二五二年(憲宗 二年)に巴禿の處に送られ、巴禿の命にて斬られき。かくて巴禿は、不哩が嘗て爛醉の狀にて吐ける惡口に對し復讎を爲せり(多遜 二、二六九)。この事につきて、嚕卜嚕克は又 次の如く言へり。この旅僧︀は、一二五四年(憲宗 四年)に突︀兒其思壇を通りて還りし時、「我また不哩の獨逸︀ 奴隷どもの居りし塔剌思の町にて問ひき。不哩の事につき、兄弟(敎會の同僚)安篤列亞思 語れり。安篤列亞思に、又 我は、會議所にて撒兒塔黑と巴禿との事を問ひき。彼等の主人なる不哩の、ある折に殺︀されたりし事の外は、何事をも知ること能はざりき。不哩 己れは、好き牧場を有たざりしかば、ある日 醉ひて居りし時、その臣屬に語りて「我は、巴禿の如く、成吉思 汗の子孫ならずや。(原注。不哩は巴禿の姪 又 は從弟なりき。)いかで巴禿の如くも、額提里 河の岸に徘徊して、そこに遊牧すべからざらんや」と云ひき。それらの言は、巴禿に吿げられき。その時 巴禿は、みづから不哩の臣屬に書を贈︀りて、その主人を縛りて送ることを命じければ、その事を臣屬は爲しけり。その時 巴禿は、かゝる言を言ひしかと不哩に問ひ、不哩はみづから承服せり。然れども不哩は、「その時 酔ひて居りしから、醉人を寬恕する習ひなるから」とて分疏せり。然るに巴禿は、「いかんぞ汝は、醉へる時に敢て我が名を呼びし」と答へて、その頭を斬らしめけり。」)
§278(12:36:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
又マタ 斡歌歹 合罕オゴダイ カガン 勅ミコトありて、「成吉思 合罕チンギス カガン 我ワが父ミオヤの處トコロに行ユき(おこなひ)たる宿衞シユクヱイ 箭筒士セントウシ 侍衞ジヱイなる眾モロ〳〵の番士バンシの行オコナヒを新アラタにせん」と諭サトし給タマふ聖旨オホミコトを傳ツタへけらく「合罕 額赤格カガン エチゲの聖旨オホミコトに依ヨり前サキにいかにか行オコナひたりし。今イマその(その儘の)法ハフに依ヨり行オコナへ」とて、勅ミコトあるには「箭筒士セントウシ 侍衞ジヱイは、前サキの法ハフに依ヨり、晝ヒルその道道ミチミチを行オコナひて、日ヒあるに宿衞シユクヱイに讓ユヅりて、外ホカに宿ヤドれ」と勅ミコトありき。
「夜ヨルは我等ワレラの處トコロに宿衞シユクヱイ 宿トマれ。門カドの處トコロに家イヘの周マハリに宿衞シユクヱイ 立タて。斡兒朶オルドの後ウシロに前マヘに宿衞シユクヱイ 巡マハれ。日ヒ 落オちたる後ノチ、夜ヨル 行ユく人ヒトを宿衞シユクヱイ 拏トラへて宿トマれ。眾モロビト 散チりたる後ノチ、宿トマれる宿衞シユクヱイより外ホカに、內裏ダイリを指サして入イる人ヒトをば、拏トラへ