如ゴトく[思オモひ]、速別額台スベエタイ 不者︀克ブヂエク(睿宗 拖雷の子、憲宗 蒙格の弟、世系表の撥綽 大王)二人フタリの蔭カゲに行ユきて、多オホ斡羅阿兒き眾モロ〳〵にて力チカラを合アハせて、斡嚕速惕オルスト 乞卜察兀惕キブチヤウトを降クダ斡囉兀勒して、一二ヒトリフタリの斡嚕速惕オルスト 乞卜察兀惕キブチヤウトを得エ斡勒て、羖䍽クロヒツジ額失格〈[#二文字目「翔のへん+櫪のつくり」はママ。「元朝秘史」§277(12:35:04)の傍訳は「「翔のへん」+「「暦」の「日」に代えて「心-丿」、U+53AF」」]〉の蹄ヒヅメをも得置エオかざるに丈夫マスラヲ額咧木失 振ブりて、一ヒトたび家イヘより出イでて、何ナニも獨ヒトリにて爲果シオフせたるが如ゴトく、言聲コトバコヱを惹ヒきて來キぬ、汝ナンヂ。(「來ぬ」は、原文に「來て」とあれども「て」は「ぬ」の誤ならん。𦍩〈[#「翔のへん+古、U+26369」はママ。「元朝秘史」§277(12:35:04)の傍訳は「翔のへん+殳、U+7F96」]〉䍽 以下の句を明譯には你ナンヂ 自己ミヅカラハ 𦍩䍽クロヒツジ〈[#「翔のへん+古、U+26369」はママ。「元朝秘史」§277(12:36:07)の総訳は「翔のへん+殳、U+7F96」]〉 的ノ 蹄子ヒヅメヲモ 不ザルニ㆓曾置得カツテオキエ㆒、逞フリマハシ㆓好男子ヨキヲトコヲ㆒、初ハジメテ 出イヅレバ㆑門モンヲ、便スナハチ 惹ヒク㆓是非ヨシアシヲ㆒と譯せり。)忙該モンガイ 阿勒赤歹アルチダイ 晃豁兒台コンゴルタイ 掌吉シヤンギ 等ラに亢アガ迭克迭克先りたる心コヽロを前マヘ迭兒格の伴トモとなりて止トヾめて、沸ワ迭不勒灰きたる鍋ナベを寬ヒロ迭列該き柄杓ヒシヤクとなり(水をさし)て靜シヅまらせられたるぞ。これは野ノの事コト[なれば]、巴禿バトを[して裁サバかしめん]と云イへり。古余克グユク 哈兒合孫ハルガスン 二人フタリを巴禿バト 知シれ」と宣ノリタマひて遣ヤりぬ。不哩ブリをば察阿歹 兄チヤアダイ イロセ 知シれと宣ノリタマへり。(古余克 二たび西に往きたる後いかに處分せられたるかは、祕史に載せられざれども、大汗の長子の事なれば、巴禿も任せられては、むごくは取扱はざりしならん。かくて祕史の成りし(太宗 十二年の)翌年(一二四一年)の十一月、太宗 崩じ、その翌年の春、西征の諸︀軍は、洪噶哩亞を引上げて東に進み、高喀速 山の北なる地方に數月 畱まり、乞魄察克の殘黨と戰へり。喇失惕の史に據れば、途にて一夏一冬を過したる後、諸︀王は、一二四三年(朶咧格捏 合屯 稱制の二年 癸卯)に各その領地に歸れりとありて、その諸︀王の內には庫余克も加はれり。
されども巴禿と古余克との不和は解けざりしと見えて、古余克の母なる攝政 合屯、大會を開きて合罕を擇び立てんとしたる時、巴禿は、合屯の意 古余克を立てんことを欲すと聞き、馬の足 弱れりと稱して出發を延引せり。この時 巴禿は、諸︀王の中にて威望ある人なりし故に、朶咧格捏 合屯は、巴禿を待ちて大會を延ばし居たれども、巴禿 竟に至らざるに由り、一二四六年(合屯 稱制の五年 丙午)の春、巴禿なしに大會を開きて、古余克を合罕に戴けり。一二四八年(古余克 合罕の三年 戊申)の春、古余克 疾ありて、潛邸の時より領し居たる額米兒の地方に赴きたるに、拖雷の寡婦 莎兒合黑塔尼は、西巡の目的は巴禿を襲ふにあらんと疑ひて、使を遣りて巴禿に注意を與へたれば、巴禿はみづから朝謁︀せんと思ひ、阿剌克塔克 山に至れる時、偶 古余克 合罕は途にて崩じたり。この巴禿 古余克の不和の事は、喇失惕の史に由りて傳はれるのみにて、元史 本紀に