Page:成吉思汗実録.pdf/380

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​如​​ゴト​く[​思​​オモ​ひ]、​速別額台​​スベエタイ​ ​不者︀克​​ブヂエク​(睿宗 拖雷の子、憲宗 蒙格の弟、世系表の撥綽 大王)​二人​​フタリ​の​蔭​​カゲ​に​行​​ユ​きて、​多​​オホ​​斡羅阿兒​き​眾​​モロにて​力​​チカラ​を​合​​アハ​せて、​斡嚕速惕​​オルスト​ ​乞卜察兀惕​​キブチヤウト​を​降​​クダ​​斡囉兀勒​して、​一二​​ヒトリフタリ​の​斡嚕速惕​​オルスト​ ​乞卜察兀惕​​キブチヤウト​を​得​​エ​​斡勒​て、​羖䍽​​クロヒツジ​​額失格​〈[#二文字目「翔のへん+櫪のつくり」はママ。「元朝秘史」§277(12:35:04)の傍訳は「「翔のへん」+「「暦」の「日」に代えて「心-丿」、U+53AF」」]〉の​蹄​​ヒヅメ​をも​得置​​エオ​かざるに​丈夫​​マスラヲ​​額咧木失​ ​振​​ブ​りて、​一​​ヒト​たび​家​​イヘ​より​出​​イ​でて、​何​​ナニ​も​獨​​ヒトリ​にて​爲果​​シオフ​せたるが​如​​ゴト​く、​言聲​​コトバコヱ​を​惹​​ヒ​きて​來​​キ​ぬ、​汝​​ナンヂ​。(「來ぬ」は、原文に「來て」とあれども「て」は「ぬ」の誤ならん。𦍩〈[#「翔のへん+古、U+26369」はママ。「元朝秘史」§277(12:35:04)の傍訳は「翔のへん+殳、U+7F96」]〉䍽 以下の句を明譯には​你​​ナンヂ​ ​自己​​ミヅカラハ​ ​𦍩䍽​​クロヒツジ​〈[#「翔のへん+古、U+26369」はママ。「元朝秘史」§277(12:36:07)の総訳は「翔のへん+殳、U+7F96」]〉 ​的​​ノ​ ​蹄子​​ヒヅメヲモ​ ​不​​ザルニ​​曾置得​​カツテオキエ​、​逞​​フリマハシ​​好男子​​ヨキヲトコヲ​、​初​​ハジメテ​ ​出​​イヅレバ​​門​​モンヲ​、​便​​スナハチ​ ​惹​​ヒク​​是非​​ヨシアシヲ​と譯せり。)​忙該​​モンガイ​ ​阿勒赤歹​​アルチダイ​ ​晃豁兒台​​コンゴルタイ​ ​掌吉​​シヤンギ​ ​等​​ラ​に​亢​​アガ​​迭克迭克先​りたる​心​​コヽロ​を​前​​マヘ​​迭兒格​の​伴​​トモ​となりて​止​​トヾ​めて、​沸​​ワ​​迭不勒灰​きたる​鍋​​ナベ​を​寬​​ヒロ​​迭列該​き​柄杓​​ヒシヤク​となり(水をさし)て​靜​​シヅ​まらせられたるぞ。これは​野​​ノ​の​事​​コト​[なれば]、​巴禿​​バト​を[して​裁​​サバ​かしめん]と​云​​イ​へり。​古余克​​グユク​ ​哈兒合孫​​ハルガスン​ ​二人​​フタリ​を​巴禿​​バト​ ​知​​シ​れ」と​宣​​ノリタマ​ひて​遣​​ヤ​りぬ。​不哩​​ブリ​をば​察阿歹 兄​​チヤアダイ イロセ​ ​知​​シ​れと​宣​​ノリタマ​へり。(古余克 二たび西に往きたる後いかに處分せられたるかは、祕史に載せられざれども、大汗の長子の事なれば、巴禿も任せられては、むごくは取扱はざりしならん。かくて祕史の成りし(太宗 十二年の)翌年(一二四一年)の十一月、太宗 崩じ、その翌年の春、西征の諸︀軍は、洪噶哩亞を引上げて東に進み、高喀速 山の北なる地方に數月 畱まり、乞魄察克の殘黨と戰へり。喇失惕の史に據れば、途にて一夏一冬を過したる後、諸︀王は、一二四三年(朶咧格捏 合屯 稱制の二年 癸卯)に各その領地に歸れりとありて、その諸︀王の內には庫余克も加はれり。

​巴禿​​バト​ ​古余克​​グユク​の不和

されども巴禿と古余克との不和は解けざりしと見えて、古余克の母なる攝政 合屯、大會を開きて合罕を擇び立てんとしたる時、巴禿は、合屯の意 古余克を立てんことを欲すと聞き、馬の足 弱れりと稱して出發を延引せり。この時 巴禿は、諸︀王の中にて威望ある人なりし故に、朶咧格捏 合屯は、巴禿を待ちて大會を延ばし居たれども、巴禿 竟に至らざるに由り、一二四六年(合屯 稱制の五年 丙午)の春、巴禿なしに大會を開きて、古余克を合罕に戴けり。一二四八年(古余克 合罕の三年 戊申)の春、古余克 疾ありて、潛邸の時より領し居たる額米兒の地方に赴きたるに、拖雷の寡婦 莎兒合黑塔尼は、西巡の目的は巴禿を襲ふにあらんと疑ひて、使を遣りて巴禿に注意を與へたれば、巴禿はみづから朝謁︀せんと思ひ、阿剌克塔克 山に至れる時、偶 古余克 合罕は途にて崩じたり。この巴禿 古余克の不和の事は、喇失惕の史に由りて傳はれるのみにて、元史 本紀に