Page:成吉思汗実録.pdf/373

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庫裕克 曼古 庫勒勘 不哩は、顏の城を圍みて三日にて取れり」とある顏は、哩牙贊を云へるならん。裕哩の弟 囉曼の守れる科羅姆納の城も、哩牙贊と同じ禍︀に罹れり。喇失惕の史に「亦客の城を攻むる時、庫勒勘 傷つけられて死せり。遂にその城を破りて、嚕西亞の君長の一人なる兀兒曼を殺︀せり」とあり。亦客の城は、斡喀 河の畔にある科羅姆納を云ひ、兀兒曼は、囉曼を云へるならん。兀剌的米兒の大公 裕哩 第二の子 兀剌的米兒は、抹思克哇を守り居たりしが、蒙古に破られ、擒となれり。主吠尼の史に抹闊思の城攻の事あるを、多遜は抹思科に當てたり。又 喇失惕の史に「木思喀甫の城は、五日 攻められて落ち、額米兒 兀來 提木兒 殺︀されたり」とあるは、兀剌的米兒の擒となれるを誤れるなり。大公 裕哩は、その子 兀薛佛羅惕 木思提思剌甫を畱めて兀剌的米兒を守らしめ、兵を率ゐて昔提 河(抹羅噶 河の支河)の濱に陣して、その弟 奇額甫の牙囉思剌甫 珀咧思剌甫勒の思委阿脫思剌甫の約束せる援兵を待てり。一二三八年 二月 二日、蒙古人は、兀剌的米兒を圍み、八日に城 破れ、住民は屠られ、大公の一家は皆 死せり。喇失惕の史に「大 裕兒奇の城を取るに八日かゝれり」とあるは、大公 裕哩の都︀なる兀剌的米兒を云へるならん。その後 蒙古の軍は、數隊に分れて、諸︀方に動き、城を破り邑を荒して、殺︀掠を肆にせり。大公 裕哩は、猶 昔提 河の濱に居て、三月 四日に攻められ、その兵の多數と共に殺︀されたり。巴提の軍は、諾物果囉惕に向ひしが、一百 嚕里 計の處に到りし時、遽に回りて科在勒思克に向へり。その城の民勇にして善く禦ぎ、七週にて始めて降れり。巴提は、その民を屠りて、その城を卯 巴里克(惡き城)と名づけたり。この後 豪古人は、玻羅物次(卽 奇魄察克)の國に還り、大公 裕哩の弟 奇額甫の君 牙囉思剌甫は、兀剌的米兒に往き、大公の位を襲ぎ、徹兒尼果甫の米海︀勒は、奇額甫の君となれり。」

元史なる​斡羅思​​オロス​ 征伐

憲宗紀に「復 與諸︀王 拔都︀、征斡羅思 部、至也烈贊 城、躬自搏戰破之」とあるは、哩牙贊の戰を云へるなり。

​昔里鈐部​​シリ ガンボ​の傳に鈐部 從諸︀王 拔都︀ 征 兀魯思 至 也里替 城大戰七日拔之とあり 替は賛の誤なり

速不台の傳に「辛丑、太宗命諸︀王 拔都︀等、討兀魯思 部主 也烈班、爲其所敗、圍禿里思哥 城、不克。拔都︀ 奏遣速不台戰。速不台 選哈必赤 軍 怯憐口 等五十人之、一戰獲也烈班、進攻禿里思哥 城、三日克之、盡取兀魯思 所部而還」とあり。也烈班は、嚕西亞 諸︀侯の宗主なる裕哩 大公を云へるに似たり。洪鈞 曰く「俄史謂錫第 河之戰、蒙古 軍亦受創、或係先敗後勝。」禿里思哥は、科在勒思克の訛なるべし。但 此等の戰は、喇失惕に依れば一二三七年 卽 太宗 十年、喀喇姆津に依れば一二三八年 卽 太宗 十一年の事なるを、傳に辛丑(太宗 十三年)と云へるは、誤れり。

​篾客思​​メケス​ 城の攻め取り

〈[#直前の「開き鍵括弧」はママ。昭和18年復刻版も同じ。ここではなく後続の「一二三八年の秋」の直前にあるべき]〉喇失惕に依れば、一二三八年の秋、□□ 喀丹は、昔兒喀思を征し、その冬 酋長 禿勘(か)を殺︀せり。失班 不者︀克 不哩は、臣察克の一部なる篾哩姆の國を侵せり。巴兒孩は、奇魄察克を敗り、篾克哩惕の酋長を擒にせり。その冬、□□は、(蓋 曼古ならん。)不理 喀丹と共に曼噶思の(米客思とも讀まるゝ)城を攻めて、六週の圍の後に取れり。一二三九年の春、庫克歹は提木兒 喀哈里亞(鐵門)を拔き、近傍の諸︀國を取れり。」曼噶思また米客思の攻擊の事は、元史に屢 見えたり。太宗紀に「十一年己亥冬十一月、蒙哥率師圍阿速 篾怯思 城、閱三月之」とあるは、春を冬とせり。昔里鈐部の傳に「己亥冬十一月、至阿速 篾怯思 城、負固久不下。明年春正月、鈐部 率敢死士十人、躡雲梯先登、俘十一人、大呼曰「城破矣。」眾蟻附而上、遂拔之」とあるは、甚 委し。但 落城の時序は、集史より一年後れたり。土土哈の傳に、父 班都︀察「從征麥怯斯功、」拔都︀兒の傳に、兄 馬塔兒沙「從憲宗麥各思 城、爲前鋒將、身中二矢、奮戰拔其城」などあり。

南 嚕西亞の征服

〈[#直前の「開き鍵括弧」はママ。昭和18年復刻版も同じ。ここではなく後続の「巴提は」の直前にあるべき]〉嚕西亞の史に依れば(喀喇姆津 四六頁 以下)、巴提は、玻羅物次を平げたる後、再 嚕西亞を