Page:成吉思汗実録.pdf/372

提供:Wikisource
このページはまだ校正されていません

りたれば、こゝに卜咧惕施乃迭兒に據りてその事蹟の槪略を補ひ述べん。「抹哈篾惕 敎徒の記述に依れば(多遜 第二 第六一九頁 以下)蒙古の軍は、一二三六年の全夏の閒 進みて、秋には不勒噶兒の國の近傍、佛勒噶 河の畔なる拙赤の子どもの斡兒朶に達せり。その冬、蒙古の諸︀王は、阿昔 不勒噶兒の國を擊たしめに速不台を遣りき。速不台は、不勒噶兒の都︀に進みて攻め落し、その民を屠り又は奴隷として引き去れり。その時 酋長 二人 自ら來て諸︀王に降り、赦されしが、その後 叛きて、速不台は再 平げに遣られたり。嚕西亞の史(喀喇姆津 第三 第二七〇頁)には、巴提(卽 巴禿)は、一二三六年の冬、佛勒噶 河に近く、不勒噶兒の都︀より遠からざる處に駐冬し、その都︀は、一二三七年の秋に破壞せられたりとあり。喇失惕に依るに(多遜 二、六二三)、蒙古の諸︀王は、軍議の後、その軍を擴げて、圍獵の時の如く廣がりて進まんと決したり。曼古は、海︀(裏海︀)に近く左軍を率ゐ、乞魄察克の豪酋の一人なる巴出曼と阿薛の民に屬する喀察兒 斡果剌とを擒にせり。巴出曼は、久しく追兵を避けて、盜賊 逃民の軍を聚め、常に蒙古の軍を苦めて、時時 掠奪を行ひたりき。その住所を屢 變へて阿提勒 河の畔の林に身を匿せる故に、それを捕ふること難︀かりき。曼古は、小船 二百艘を作らしめて、一艘に百人づゝ載せ、弟 不者︀克と二人、各 船隊の半を以て兩岸の林を捜したり。ある處にて蒙古 人は新に棄てたる陣營の遺物を見出し、一人の老婦は、巴出曼の島に入りたることを吿げたり。その處に舟一艘も無かりし故に、巴出曼を追ふこと能はざる折しも、俄に强風起りて水を吹き去れり。蒙古の軍は、河を徒渉りして、巴出曼を不意に捕へ、その眾を溺らし又は殺︀せり。巴出曼は、曼古の手に殺︀されんことを願ひたれども、曼古は、不者︀克に命じて斬らしめたり。阿薛の酋長の一人なる喀察兒 斡果剌も斬られたり。蒙古の諸︀王は、一二三七年の夏をその國にて過し、その年に巴禿 斡兒荅 巴兒孩 喀丹 不哩 庫勒勘は、孛克沙 不兒塔思を攻めき。」巴兒孩は、喇失惕に依るに巴禿の弟なり。普剌諾 喀兒闢尼は、別兒喀と云ひ、元史 憲宗紀には西方 諸︀王 別兒哥とあり。孛克沙は、蓋 抹克沙にして、今 佛勒噶 河の中流の西に住める部族にその名あり。嚕卜嚕克は、額提里亞 河の邊なる抹克薛勒と云ふ民のことを言へり。不兒塔思は、馬速的 亦思塔黑哩の巴兒塔思 別兒塔思にて、第十 世紀には、阿帖勒 河の畔、合咱兒の鄰に住めり。

元史に見えたる​八赤蠻​​バチマン​

巴出曼 擒殺︀の事は憲宗紀に「嘗攻欽察 部、其酋 八赤蠻 逃于海︀島。帝聞、亟進師至其地。適大風刮海︀水去、其淺可渡。帝喜曰「此天開道與我也。」遂進屠其眾、擒八赤蠻、命之跪。八赤蠻 曰「我爲一國主、豈苟求生。且身非駝、何以跪爲。」乃命囚之。八赤蠻 謂守者︀曰「我之竄入于海︀、與魚何異。然終見擒、天也。今水廻期且至、軍宜早還。」帝聞之、卽班師、而水已至、後軍有浮渡者︀」とあり。速不台の傳には「乙未(太宗 七年)、太宗命諸︀王 拔都︀、西征八赤蠻、且曰「聞八赤蠻 有膽氣。速不台 亦有膽勇、可以勝之。」遂命爲先鋒、與八赤蠻戰。繼又令大軍、遂虜︀八赤蠻 妻子於寬 田吉思 海︀。八赤蠻 聞速不台 至大懼、逃入海︀中」とありて、擒殺︀と云はず。蓋 八赤蠻を先に破りたるは速不台にて、後に擒にしたるは憲宗ならん。昔里鈐部の傳に「乙未、定宗憲宗皆以親王、與速卜帶西域、明年啓行、鈐部 亦在行中。又明年至寬 田吉思 海︀」とあるは、年序 正に合へり。

​嚕西亞​​ロシア​ 史の記載

「喀喇姆津の嚕西亞 史(三、二七二以下)に依れば〈[#「依れば」は底本では「依れは」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉、不勒噶兒の都︀を破壞せる後、塔塔兒 人(卽 蒙古 人)は、一二三七年の末に、嚕西亞の境に入り、普欒思克 別勒果囉惕 等の城を取りて、哩牙贊に至り、十二月 二十一日に攻め落して、その民を屠り、その君 裕哩は家族と共に殺︀されたり。喇失惕の史に「一二三八年の秋、