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侵し、大公の國を嚇し、俄に南に轉じて珀咧思剌甫勒を破り、徹兒尼果甫を破り、奇額甫に使を遣り降服を勸めたるに、その使 殺︀されたり。蒙古人 近づける時、米海︀勒は洪噶哩に逃れ、驍將 篤米惕哩 守禦の任に當れり。蒙古の大軍は、四方より圍み攻めて、遂に奇額甫の大城を拔き、篤米惕哩を擒にせり。巴提は、篤米惕哩を殺︀さずして伴へり。篤米惕哩は、巴提に勸めて、富饒なる洪噶哩に攻め入らしめて、嚕西亞の蹂躪を緩めたりと云はる。喇失惕に依れば、諸︀王 庫裕克 曼古は、斡歌台 汗より歸朝の命を受けて、一二三九年の秋に軍を去り、巴禿の王は、その兄弟 等と、諸︀王 喀丹 不哩 不者︀克と共に、嚕西亞 人と喀喇 喀勒帕克(黑帽)人とを征伐し、九日にて民格兒勘の大城を、その後 兀剌的米兒の諸︀城を攻め取れり。到る處に地を荒し城を破れる後、軍を合せて兀剌的米兒の子 兀徹思剌甫の城を攻めて三日に取れりとあり。別咧津は、喀篾捏惕の君 亦匝思剌甫 兀剌的米囉委赤を云へりと考へたり。」民格兒勘の大城は、卽 本書の蠻 客兒 蠻 乞瓦にして卽 奇額甫の城なり。

​古余克​​グユク​ ​蒙格​​モンゲ​の凱旋

本書に「荅嚕合臣 探馬臣を置きて回れり」とあるは、全軍 回れるに非ず、喇失惕の庫裕克 曼古 卽 古余克 蒙格 等の回れるを云へるなり。然れども元史 太宗紀に「十二年庚子春、皇子 貴由 克西域未下諸︀部、遣使奏捷。冬十二月、詔貴由師」とあれば、二王の回りたるは、奇額甫を平げたる後にして、十二月に蒙古に歸着したるならん。この後 巴禿 速不台 等は、一二四〇年(太宗 十二年)の末、別軍を遣り波蘭に入らしめ、一二四一年(太宗 十三年)全軍 洪噶哩に入りたる大侵略あれども、本書の記事の外なるが故に略けり。

​女眞​​ヂユチン​ 高麗の征定

​先​​サキ​に​主兒扯惕​​ヂユルチエト​ ​莎郞合思​​シヨランガス​の​處​​トコロ​に​出征​​シユツセイ​したる​札剌亦兒台 豁兒赤​​ヂヤライルタイ ゴルチ​の​後援​​ゴヱン​に、​也速迭兒 豁兒赤​​エスデル ゴルチ​を​出征​​シユツセイ​せさせたり。「​探馬​​タンマ​に​居​​ヲ​れ」と​勅​​ミコト​ありき。(この主兒扯惕は、女眞の僭王 蒲鮮 萬奴の國を云ふ。

​莎郞合思​​シヨランガス​の名稱

莎郞合思は、高麗人を呼べる蒙古語 莎郞合の複稱なり。元史 忠義傳 四に「朴賽因不花、字德中、肅良合台 人」とある肅良合は、卽 莎郞合、台は「の」の義にして卽 高麗の人と云ふに同じ。后妃傳に「順帝 完者︀忽都︀ 皇后、奇氏、高麗人」とありて、その册文に「咨爾 肅良合 氏」とあり。錢大昕 曰く「元人稱高麗肅良合、康良合 氏者︀、高麗氏也。猶河西人稱唐兀氏、擧其部、不其族。或謂奇氏肅良合者︀、蓋未于國語。」普剌諾 喀兒闢尼の鎖闌格思と云ひ、嚕卜嚕克の鎖闌噶と云ひ、中世 抹哈篾惕 敎徒の記錄に速郞喀と云へるは、皆 高麗を指せるなり。然るに喇失惕は、蒙古の十二 行省を記して、出兒扯(卽 女直)と鎖郞喀とを第二 行省とし、高麗を第三 行省とし、高麗の外に鎖郞喀ありて別の行省をなせるが如く書きたることにつきては、白鳥 博士 嘗て(歷史 地理 第八卷 第五號「新羅の國號に就て」と云へる論文に)その誤を辨ぜり。搠米惕の蒙古 字引には「鎖龍豁思は、北 高麗人 又は索倫 人」とあり。高麗の上に北の字を加へたるは、喇失惕の文に泥みて斟酌したるに非ずや。又 今の索倫 人は、契丹の遺種にして、黑龍江 省の地に住み、韓人とは關係なきものなるを、その音の近きに由りて附會したるに似たり。果勒思屯思奇の蒙古 字引には「鎖欒果思 鎖欒果惕は、高麗、高麗人」とありて、北の字を加へず。蒙古と女眞 高麗との關係は、元史の紀傳と高麗史の世家 列傳とに見ゆれば、今 二書の文を節︀約して、その大要をこゝに述べん。

元史 高麗史の摘錄

元太祖︀七年壬申、契丹 耶律 畱哥 聚眾于隆︀安、自爲都︀元帥。太祖︀命按陳 那衍、行