Page:成吉思汗実録.pdf/182

提供:Wikisource
このページはまだ校正されていません

「​使​​サセバ​大業、當諸︀人甘苦。苟​渝​​カヘバ​此言、有河水。」將士​莫​​ナカリキ​​不​​ザルハ​感泣これは、飮渾水の如くも聞ゆれども、水を飮めるに非ずして、馬を啖へるなり。濁水の誓に非ずして、馬肉の誓なり。然るにこの傳は、誤りだらけにて、信じ難︀し。札八兒は、西域の族長なるに、西域 征伐の十餘年前に蒙古に仕へて克烈 征伐の役に加はれるは、已に怪むべく、又 居庸關の戰は、者︀別 等 紫荆關より入りて居庸の南口を破れるを、札八兒の前導にて居庸の閒道より軍を進めたりとしたるなど、疑はしきこと多ければ、馬肉の誓もいかゞあるべき。││

​朮赤台​​チユチタイ​の​傳​​デン​なる​班眞 海︀子​​バンヂン カイシ​

朮赤台の傳​怯列亦​​ケレイヲ​、自​罕哈​​ハンハ​、​歷​​ヘ​​班眞 海︀子​​バンヂン カイシヲ​、閒關萬里、每戰陳、必レリ先鋒罕哈は、合勒合 河なり。班眞 海︀子は、巴勒主納 湖なり。合勒合 河より巴勒主納 湖に至れるを閒關 萬里と云へるは、形容に過ぎたり。この傳にも誤り多し。合剌合勒只惕の戰を叙べて、「怯列亦 哈剌哈眞 沙陀 等、帥眾來侵」と書き出し、沙漠の名を人の名としたるは、最も笑ふべし。「單騎陷陳、射殺︀ 鮮昆」と書きたれども、單騎には非ず、兀嚕兀惕を率ゐたり。射殺︀には非ず、腮を傷けたるのみなり。客咧亦惕の亡人なる札哈堅普を乃蠻の主としたるは、太祖︀ 本紀の札阿紺孛なるを知らざるに似たり。││

​速不台​​スブタイ​の​傳​​デン​なる​班朱尼 河​​バンヂユニ ガハ​

速不台の傳太祖︀ ​在​​イマシヽ​​班朱尼 河​​バンヂユニ ガハニ​​時​​トキ​、​哈班​​ハバン​ 嘗羣羊以進、遭​被​​ラル​。​忽魯渾​​フルフン​ ​與​​ト​​速不台​​スブタイ​、以。人馬皆倒、餘黨逸︀。遂レサセ難︀、羊タリスルヲ於行在所この事の後に、闊赤檀 山の戰。赤は亦の誤りにて、卽ち闊亦田の戰あれば、この事は、成吉思 汗の巴勒主納に到りし時には非ずして、客魯嗹の上流なる不兒吉 岸 又は古咧勒古に居たる時の事なるべし。速不台の傳の複出なる雪不台の傳にも、この事を載せて、太祖︀初興都︀于 ​班朱泥 河​​バンヂユニ ガハニ​、今龍居 河 也と云へり。泰定帝 紀に「癸巳、卽皇帝位於 龍居 河」とありて、その大赦の詔に「九月初四日、於成吉思 皇帝的 大 斡耳朶 裏大位次裏坐了也」と云へれば、泰定 卽位の處は、客魯嗹 河の闊迭額 洲の大 斡兒朶なるべく、龍居 河は、金史 完顏 奴申の傳なる龍駒 河、長春の西遊記の陸局 河にして、卽 客魯嗹 河なり。然らば班朱尼も班朱泥も客魯嗹の誤りにして、興都︀とは客魯嗹 河の上流なる成吉思 汗 駐營の地を稱したるなり。││

​鎭海︀​​チンハイ​の​傳​​デン​

鎭海︀の傳​鎭海︀​​チンハイ​、​怯烈台 氏​​ケレイタイ ウヂナリ。初以軍伍、從太祖︀​飮​​ノミキ​​班朱尼 河​​バンヂユニ ガハ​。││

​哈散納​​ハサナ​の​傳​​デン​

哈散納の傳​哈散納​​ハサナ​、​怯烈亦 氏​​ケレイ ウヂナリ。太祖︀時、從シテ王罕功。命ジテシメ​班朱尼 河​​バンヂユニ ガハ​之水、且曰「與我共メル此水者︀、世爲ラン。」││

​阿朮魯​​アチユル​の​傳​​デン​

阿朮魯の傳​阿朮魯​​アチユル​、​蒙古 氏​​モング ウヂナリ。太祖︀時、命ジテシメ​班朱尼 河​​バンヂユニ ガハ​之水、扈親征シテ功。││阿朮魯の孫なる懷都︀の傳にも