Page:成吉思汗実録.pdf/177

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仍畱我地上乎、抑埋我地下乎」とあり。)​忽察兒​​クチヤル​を​汝​​ナンヂ​を「​捏坤 太石​​ネクン タイシ​(親征錄​捏羣 太石​​ネクン タイシ​、元史 聶坤)の​子​​コ​」と​云​​イ​ひて、​我等​​ワレラ​より「​汝​​ナンヂ​、​罕​​カン​と​爲​​ナ​れ」と​云​​イ​へば、​爲​​ナ​らざりしぞ、​汝​​ナンヂ​。​阿勒壇​​アルタン​を​汝​​ナンヂ​を「​忽禿剌 罕​​クトラ カン​こそは、[​國​​クニ​を]​管​​ウシハ​き​行​​ユ​きけれ。その​父​​チヽ​ ​管​​ウシハ​き​居​​ヰ​たるに​依​​ヨ​り、​汝​​ナンヂ​ ​罕​​カン​と​爲​​ナ​れ」と​云​​イ​へば、​亦​​マタ​ ​爲​​ナ​らざりしぞ、​汝​​ナンヂ​。​上​​ウヘ​より(長房より數へての意なり。明譯 在上輩。親征錄にも上輩とあり。)「​巴兒壇 巴阿禿兒​​バルタン バアトル​の​子​​コ​(壇は、合黑の誤りにして、卽ち合不勒 罕の長子 斡勤 巴兒合黑なり。これは、原本の初より誤りて、修正 祕史も、その誤りを承けたりと見えて、喇失惕の集史も、これに同じ。親征錄は、その誤りを覺りけん、​八兒合 拔都︀​​バルカ バード​と改め、元史は、それに據りて、​我伯祖︀​​ワガオホヲヂ​ ​八剌哈​​バラハ​と書けり。八兒合も八剌哈も、卽ち斡勤 巴兒合黑なり。また子は、孫に作るべし。但し孫をも子と云へるかも知れず。元史は、八剌哈 之 裔と書けり)」と​云​​イ​ひて、​撒察​​サチヤ​、​台出​​タイチユ​(親征錄 元史​薛徹​​セチエ​、​大丑​​タイチユ​)​二人​​フタリ​を「​汝等​​ナンヂラ​、​合惕​​カト​(罕の複稱)と​爲​​ナ​れ」と​云​​イ​ひて、​能​​アタ​はざりしぞ、​我​​ワレ​。​汝等​​ナンヂラ​を「​合惕​​カト​となれ」と​云​​イ​ひて​能​​アタ​はずして、​汝等​​ナンヂラ​に「​汝​​ナンヂ​、​罕​​カン​となれ」と​云​​イ​はれて、​管​​ウシハ​き​行​​ユ​きたるぞ、​我​​ワレ​。

蒙古の臣道

​汝等​​ナンヂラ​ ​合惕​​カト​となりたるならば、​多​​オホ​​斡欒​き敵に​先鋒​​センポウ​​阿勒斤赤​に​走​​ハシ​らせられば、​上帝​​アマツカミ​に​祐︀護​​イウゴ​せられば、​敵​​テキ​​荅亦孫​の人を​虜︀​​トラ​​荅兀里​ふる​時​​トキ​、​腮​​ホヽ​​合察兒​ ​美​​ウツク​しき​少女​​ヲトメ​、​妃​​キサキ​​合屯​ ​婦人​​ヲミナ​を、​臀節︀​​シリブシ​​合兒含​ ​好​​ヨ​き​騸馬​​センバ​を​取​​ト​り​來​​キ​て​與​​アタ​ふるなりしぞ、​我​​ワレ​。​野​​ノ​​兀喇阿​の​獸​​ケダモノ​に​先驅​​サキガケ​​兀禿喇​せさせられば、​崖​​ガケ​​合荅​の​獸​​ケダモノ​は、その​前脚​​マヘアシ​​合兒​を​一竝​​ヒトナラビ​に​寄​​ヨ​せて​與​​アタ​ふるなりしぞ、​我​​ワレ​。​懸厓​​キリギシ​​昆​の​獸​​ケダモノ​は、その​後脚​​アトアシ​​忽牙​を​一竝​​ヒトナラビ​に​寄​​ヨ​せて​與​​アタ​ふるなりしぞ、​我​​ワレ​。​曠野​​アレノ​​客額兒​の​獸​​ケダモノ​は、その​腹​​ハラ​​客額里​を​一竝​​ヒトナラビ​に​寄​​ヨ​せて​與​​アタ​ふるなりしぞ、​我​​ワレ​。(親征錄に「假汝等爲君、吾當前鋒、俘獲輜重、亦歸汝也。使我從諸︀君、我亦將獸迫崖、使汝得從便射也」とあり。「汝等 合惕となり」以下の語の意を約めて書きたるなり。)​今​​イマ​ ​我​​ワ​が​罕 額赤格​​カン エチゲ​に​善​​ヨ​きに​伴​​トモ​と