Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/20

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た寺の中で名高いのは、 (法隆寺) 大和の法隆寺で、そのおもな建築は、今も昔のまゝであるといはれ、わが國で一ばんふるい建物である。 (人々が太子をお惜しみ申した) かやうに、太子は、内に於ても、外に対しても、大いにわが國の利益をおはかりになつたが、まだ御位にお即きにならないうちに、御病のため、とうとうおなくなりになつた。この時、世の中の人々は、親を失つたやうに、皆なげきかなしんだ。


第七 天智天皇と藤原鎌足 蘇我氏の不忠 推古天皇の御代の前後に、最も勢があつたのは、蘇我氏である。蘇我氏は武内宿禰の子孫で、代々朝廷の政治にあづかつてゐたため、勢の盛なのにまかせ、しだいにわがまゝなふるまひが多くなつた。蘇我蝦夷は、推古・第三十四代舒明・第三十五代皇極の三天皇にお使へ申したが、たいへん心のおよからぬものであつたから、勝手に大勢の人民を使つて生前から自分たちの墓を作り、おそれ多くも、これを陵といつた。この時、聖徳太子の御女は、「天には二つ日なく、國には二人の君はない。しかるに、なぜかやうなわがまゝをするのか。」と、大いにこれをおしかりになつた。蝦夷の子入鹿は、父にもましてわがまゝなふるまひが多かつた。殊に、自分に縁のある皇族を御位にお即か