Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/19

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も非常に進んでゐたから、日頃高ぶつて、他の国々を属国のやうに取りあつかつてゐた。けれども、太子は、少しもその勢いにお恐れになることなく、かの國に送られた国書にも、「日出処の天子、書を日没する処の天子にいたす。恙なきか。」とおかきになつて、どこまでも対等のおつきあひをなさつた。支那の国主は、これを見て腹を立てたが、ほどなく使をわが國に送つてきた。そこで、太子も、あらためて留学生をおつかはしになつた。その後、引つゞいて互にゆききをするやうになつたから、これまで朝鮮を通つてわが国に渡つて来た学問などは、これからは、すぐ支那から伝はることとなつた。 (仏教をおひろめになつた) さきに、太子の御祖父でいらつしやる第二十九代欽明天皇の御代に、仏教がはじめて百済から伝はつて来た。太子は、深くこれを信仰して、多くのお寺をお建てになつたり、またしたしく教をお説きになつたりして、熱心に御力をつくされたので、これから仏教はだんだん國内にひろまつた。かうして仏教がひろまるにつれて、建築やその他の技術なども目立つて進んだ。太子のお建てになつ