Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/14

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ることとなつた。 (蝦夷を平げになつた) 尊は、なほも軍を東にお進めになつたが、蝦夷どもは、御勢に恐れて、弓矢を捨てて降参した。かやうにして、尊は國々をお平げになつたが、都へお帰りになる途中、御病のため、とうとうおなくなりになつた。 (尊の御てがら) 尊はたふとい御身でいらつしやるのに、つねづね兵士といつしよに難儀をおしのびになり、少年の御時から、西に東にわるものどもをお討ちになっつて、少しも御身をおやすめになるおひまがなかつた。さうして、天皇の御位にお即きにならぬうちに、おなくなりになつたのである。けれども、尊の御てがらにより、遠いところまで平いで、世の中はたいそうおだやかになつた。尊の御子が、後になつて、天皇の御位にお即きになつた。この御方を第十四代仲哀天皇と申しあげる。

第四 神功皇后

(熊襲をお討ちになつた) 仲哀天皇の皇后を、神功皇后と申し上げる。皇后は御生まれつきお賢く、またをゝしい御方であつた。天皇の御代に熊襲がまたそむいたので、天皇は皇后と御いつしよに九州へ下つて、これをお討ちになつたが、まだよくしづまらないうちに、おかくれになつた。 (新羅をお討ちになつた) この頃朝鮮には新羅・百済・高麗の三国があつて、これを