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鹿兒島縣史 第一巻/第二編 國造時代/第三章 遺蹟遺物上よりの考察

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第三章 遺蹟遺物上よりの考察

 こゝに石器土器及び貝塚・古墳等、古代の遺蹟遺物を中心として當時の住民の有様を一暼して置きたい。

 石器時代が金屬器使用以前である事は云ふ迄もないが、文化の相違により、優良種族が既に金屬器を使用する時代に於いても、劣等種族は猶ほ石器時代の状態であり得た譯で、石器使用人は、必ずしも凡て金屬器使用人以前の者ではなく、又全國一律に石器時代を同一年代とする事は出來ない。又繩文式土器と彌生式土器との關係の如きも、若し之を使用した種族が確然と違つて居たと考へるならば、それのみによつて各の種族の屬する時代の先後を定める事も全く困難なことであらう。 更に同一地點の上層出土と下層出土との相違によつて時代の先後が決定される場合でも、それは地方的の問題であつて、直ちに他の一般を論ずることは出來ない。 本縣内に於ける遺蹟分布の状態を見るに、高塚式古墳は、後述の如く大隅半島の有明海に臨む大隅平原に多く存在し、その他の地方には殆んど之を見るを得ないのであり、一方この平原に
囎唹郡大崎村出土彌生式土器 京都市 京都帝國大學所藏
揖宿郡指宿出土彌生式土器 京都市 京都帝國大學所藏
於ては、國分地方以西に比して、繩文式土器の分布が極めて稀薄である。 この事は國分地方以西薩摩各地は、大隅方面に高塚式古墳の築成が盛行する際にあつても、猶ほ且つ石器時代、若しくは金石併用期を彷徨してゐたと考へせしめるのであるが、更に此等の地方は太古より可なり後世にまで石器時代或はそれに近い状態であつたと考へられよう。

 本縣に於ける繩文式土器と彌生式土器との關係は指宿町十二町字下里の遺物包含層の示す遺物の層位的事實から如實に説明することが出來る。此の地は開聞岳に近く、地下約十二尺以下は稍や黄色を帯びた火山灰であるが、其の上部の地か約十尺以下の層からは繩文式土器や石斧・骨・木炭等が發見され、その上部、地下約六尺以下は再び火山灰の堆積をい見るのである。 此の火山灰は恐らく鰻池の噴火に基づくものと考へられるが、この火山灰層の上部、地下三尺の間からは、彌生式土器・凹石・石斧・祝部土器などが發見され、その上に泥流盤層、その上が再び火山灰層に終つて居る。 之は最初、繩文式土器を使用した此の地の住民が噴火に依りて絶滅、或は他に避難した後、噴火の恐怖が薄らぎかけた時代に、彌生式土器を使用した人達によつて占據され、更に再び噴火による災害を受けたと見るべきである。 又最近同地で曾ての上層出土の土器と同形式の彌生式土器を伴うて鐡劍が出土し、その鐡劍は明かに古墳時代のものと考へられるから、指宿上層文化は少くとも古墳時代に及ぶものと言ふことが出來る。

 本縣に於ける石器時代遺蹟中、最も早く學術的調査を經たものは出水郡出水町上知識字尾崎貝塚である。 發掘報告に依れば、繩文式土器・石斧・石盤・錘石・凹石等の石器・骨角器及び貝輪等の貝製の装飾品などが、三十八種の貝と、多くの獣骨とを伴うて發見され、十一個體分の人骨が發掘調査され、その報告も既に發表せられてゐるが、繩文式土器・石器・骨製の針・貝輪及び貝製の装飾品などが出土し、可成り複雑した文化様相が窺れる。 鹿兒島市の吉野町吉野石ノ郷遺蹟も古くより知られた石器時代の遺跡であり、更に姶良郡福山村福山中學校の敷地からは石製人物像その他多くの遺物を出して有名であり、伊佐盆地にも石器時代遺跡がある。

 南島方面に於ては喜界島・大島・徳之島等に貝塚が發見され、その遺物の示す様相は縣下他地方のものと相連絡するものであることが闡明されて居る。 最近薩摩半島に於ても調査が進捗し、川邉郡阿多村にも貝塚が發見され、その示す様相は本縣の石器時代遺蹟中最も原始的なものである。更に最近報告された加治木町郊外日木山洞窟遺蹟も、略ぼ阿多村貝塚に近い様相を示すものであつて注意されてゐる。

 その外、從來の調査に依れば石器時代遺蹟は全縣下に亙って存在してゐると云つてよいのである。 ここに繩文式土器出土の地域を擧げると、先づ薩摩地方では出水郡出水町・高尾野町、日置郡上伊集院村、鹿兒島市唐湊・同田上、川邉郡知覧町、伊佐郡大口町・羽月村・菱刈村・本城村・山野村等であり、大隅地方では囎唹郡志布志町・大崎村・西志布志村・松山村、肝屬郡鹿屋町・垂水町・姶良村・大姶良村などである。

 彌生式土器遺蹟は全縣下に亘つて廣く分布するが、その形態は他の地方に比して可成りの變化が認められるのは、本縣が有する特殊な地域性に依るものであらう。 指宿上層に彌生式土器と共に鐡製の劍が出土したことは、甑島手打貝塚に於ける鐡製利器の使用を示唆する骨角製品の存在と相俟つてその年代が考へられてくるのである。因に手打貝塚は指宿上層と全く並行する彌生式土器を中心とするものである。

 此等の事實は何を語るか、又は文獻に現はれたる神話・傳説並に史實と如何なる交渉を持つかは今後の研究を俟たなければならない。 或はその分布の上から繩文式土器と熊襲と又は肥人とを關連せしめ、次に彌生式土器と隼人とを連繋せしめて考察し、殊にある時代、隼人が彌生式土器を使用したであらうと想像することも可能であらうが、縄文式土器の使用と彌生式土器の使用との別によつて、直ちに以てその使用した種族を確然と定めることは危險であると云はなければならない。

 次に土器を中心として遺蹟の分布を考へると、大體三つの地域を想定することが出來るのである。 一は西海岸地方であり、二は大口盆地を中心とする地方、三は大隅平原及びその外縁をなす地方である。 この内、海岸地方では阿多貝塚に出土する所謂阿多式及びそれの發展せる形式と考へられる市來地方の土器、それに肥後國阿高貝塚に出土する土器と系統を同じとする末期型

式とが存在してゐるのに對して、大口盆地では阿高式の盛行と共に、日勝山・塞ノ神に於いては、やゝこれと異なるものの存在を見るが、市來式の絶えて存在しないことは第一の地域との相違を示すものである。 大口盆地のものは、その地が大淀川を經て宮崎縣へ連り、更に北方球磨に續く地理的な事情から、海岸地方との關係よりも、肥後地方に連繋する多くのものを有してゐるのである。第三の地域のものは第一の地域に見ると著しい相違を示さないが、宮崎縣の海岸遺蹟とその様相が近似してゐるのは、第一の地域と同じく、その文化の移動徑路を示唆するものであらう。

〈 [補説] 本縣下の石器時代遺蹟の分布に就いては、山崎五十鷹氏が「鹿兒島縣下石器時代の遺蹟並に古墳分布の大系」(鹿兒島縣史蹟名称天然記念物調査報告書二輯)に於いて、A鹿兒島灣系、B有明灣系、C西薩海岸系、D北薩及北隅系の四大系に分類し、その遺蹟及び遺物を表示させてゐる。然るに最近三森定男氏が、九州地方に於ける土器調査の結果「先史時代の西部日本」(人類學先史學講座第一編)なる論文に於いて、九州に十二種の土器の存在を主張されてゐるが今主として本縣下に於ける分を簡單に紹介すれば左の如きものである。

(1)阿多式土器 本縣阿多貝塚を標準として、また肥後宇土郡轟村宮荘貝塚から多量に發見されたる種類で、器面にアナダラ屬の貝殻腹縁による條痕が横走し、隆起絹帯文或は點線文を有するものである。 大口盆地に廣く分布し、大隅各地にも散見するが、南薩に多く、大體、阿多貝塚より轟貝塚へと發展したらしく考へられる。
(2)市來式土器 突角形をなす口縁部を有するのが特徴で、器の内外面にアナダラ屬貝殻條痕のあるものが尠くなく、薩南より海岸地方に沿ひ、出水尾崎貝塚を經て肥後・肥前にかけて存し、鹿兒島灣沿岸地方では、指宿遺蹟・鹿屋町中の原遺蹟等に出土するが、伊佐郡の如き山間地方には全くない。
(3)阿高式土器 肥後阿高貝塚より多く出で、指頭或は箆を以て太き凹線を描いて各種の文様を構成するのを特徴とする物で、太形凹文土器とも呼ばれて居る。肥前五島より本縣出水、大口地方まで即ち内海に沿うた地に多く、それ以南は稀である。
(4)日勝山式土器 伊佐郡山野村小木原日勝山及び肥後宇土郡花園村曾畑貝塚の基調をなすもので、阿高式の太形凹文土器に對し、やゝ細き沈線を以つて直様文様を構成する。肥後より北薩に多く、其の並行集線文は朝鮮各地の櫛文式土器に似て居る。
(5)徳之島土器 徳之島貝塚より發見される爪形文を有する土器で、肥後轟貝塚からも相當出てゐる。
(6)轟式土器 爪形文類似の諸種の文様要素にて文様帯を作つてゐるが、特徴は文様要素及び文様構成よりも、文様帯間を指頭によつて凹めて、突帯文的効果をあげて居る點にある。肥後轟貝塚を中心として有明海沿岸に汎く存し、本縣では伊佐郡の山間に分布してゐる。

(7)塞の神式土器 伊佐郡菱刈村市山塞ノ神遺蹟より發見されたもので、口頸がく字形になつて居る。大口盆地より日向國大淀川流域に及び、更に薩南にも肥後球磨にも存して居る。
(8)御領式土器 肥後東阿高御領貝塚の基調をなすもので、本縣ではまた大口の羽月村瀬の下より出土したが、他には未だ知られてゐない。
(9)鐘崎式土器 筑前宗像の鐘崎貝塚より多量に發見される磨消繩文的手法を有する一群の土器で、海岸地方に分布し、球磨地方から伊佐郡等の三巻では斷片的の出土のみである。
(10)西平式土器 肥後八代西平貝塚から多量に出で、器面滑澤、御領式に比しやや多彩な文様を有する點に相違がある。 合志川流域・八代灣沿岸に分布し、球磨を經て伊佐に入りて其の跡を斷つて居る。

 之を要するに本縣の石器時代遺蹟の基調をなす土器形式の内には、阿多式・市來式などの如く、アナダラ屬貝殻による條痕を有して、遥か南方印度支那方面と聯繋を有すると考へしめるものの三系統が考へられるのである。 これ等の三系統の外に、現在學界に問題となつてゐる所謂押型文土器が廣く點綴されてゐるが、すべてこれ等が薩隅といふ地域的環境の下に統括されて特殊な形式を各々の系統に於て發展させてゐるのが認められるのである。

 次に古墳について考察を試みなければならないが、高塚式古墳は實に我が國原史時代の遺蹟として最も顕著なもので、即ち國造時代前後の大觀を示すものである。たゞ地理的關係上必ずしも他地方のものと同一視することは困難なことは言ふまでもない。

 本縣に於いて古墳は大隅平原に密集して居る。 凡そ大隅半島の西海岸に沿ひ、高隈山脈より南走する丘陵地帯以東の平原、即ち鹿屋・姶良・高山・串良・東串良等より囎唹郡の大崎村に及ぶ諸地方に多く、それより志布志町の海岸を經て日向の福島に連つて居る。此の古墳散在地方は、北西南の三方山で圍まれ、東方のみ海に開けた地であつて、肝屬川以下の諸河川が之を潤してゐる。古墳は宮ノ原・東迫・塚崎の如く、山岳丘陵の縁邉に存するものも尠くないが、多くは平地に存して居る爲、開墾されて痕迹を失つたものも尠くない。現存するもので最も顕著なるは、塚崎と唐仁町との兩古墳群及び横瀬の古墳である。 塚崎は高山町野崎の小字であつて、國見山に續く丘陵地帯に前方後圓墳四基と圓墳二十七基が群をなし、その西の東迫及び其の北の稲荷迫等を合すれば六十餘基に達してゐる。 副葬品は詳かでないが嘗つて當地の小圓墳より鏡を發掘し、又附近の民家には同地方に於いて採集せる匂玉を藏してゐる。當地方何れかの古墳より出でしものとすれば、この地方としては珍稀の事である。

 唐仁町は東串良町新川西にあつて、其の古墳群は縣下第一にして、古くは百八十五基を數へ、現存するものにても百三十二基に及んでゐる。 其の内、最も大なるは大塚と稱せらるゝ前方後圓墳で、高さ八間の後圓部に大塚神社が鎭座し、縱徑百間に及ぶ、但し社地となつて以來、或は社殿建造のため、或は参拝路を造るために變更された部分が多く、原形は知るによしないが、現在は七反三畝餘で、周圍に幅約十二間の湟が繞つてゐる大古墳である。 神殿と拝殿との渡り廊下の下には石槨の蓋石五枚露出し、槨の内部は長さ約二間、幅約五尺であつて、其の中に凝灰岩より成る家形の石棺が安置され、棺外に甲が置かれてゐる。尚ほ又社殿の状下にも石室一個が露出しているのを見ることが出來
横瀬古墳 囎唹郡大崎村

肝屬川沿岸古墳分布圖

肝屬川を挟んで北と南に唐仁町と塚崎とにある古墳群の分布圖にして、唐仁町の古墳群は既に史蹟に指定されてゐる。
この圖は昭和四年現在のものを上田三平氏所蔵のものによつて製圖したものである。

る。此の大塚に近く、前方後圓墳(役所塚・薬師堂塚等)と、福留塚以下の圓墳が百餘基密集し、小なるは高二尺、徑一間に過ぎない。 而して大塚以外にも幅二間の湟を有するものがあり、また大塚より採集せし土器の破片には埴輪の残片があつた由である。副葬品は前記大塚古墳内の甲の外餘り詳かでないが、大塚神社所収の鏡鑑は右の古墳中より出でしものかと傳へられて居る。而してこの一帯の古墳群は既に史蹟に指定されてゐる。

 以上塚崎・唐仁町の兩古墳群は肝屬川を隔てゝ相對して居る、蓋しこの川は古墳時代盛んに利用され、當地方は當時聚落として最も繁榮した地域と想像され、後に説明するが如く、此の地方は奈良朝以前には大隅郡であり、次いで大隅國の建置された土地であるから、兩古墳群附近は大隅國の中心地域であり、恐らく此等の古墳地域は大隅國造一族が繁衍した地域であつたかと推測される。 この國造は、薩摩の、阿多氏が君姓なるに對し、早くより他の地方の國造と同様に直姓を賜はり、天武天皇の御代賜姓の際にも、この國造のみが薩隅地方に於て唯獨り忌寸姓を賜はつた事は、早くより中央に接近した爲と考へざるを得ない。從つて早く中央文化を採用し、大塚の如き廣大なる古墳を經營したと考へられるのである。

第二圖 横瀬古墳出土埴輪

 横瀬古墳は唐仁町より直徑約一里半、北方より少しく東海岸に近い地に存し、今大崎村に屬し、小字をエサイと云ひ、此れも亦大塚と呼ばれて居る。 後圓部の高さ八間三尺、前方部の高さ七間二尺の前方後圓墳で、縱徑約六十五間に及び、猶ほ埴輪圓筒が並列して居た事など、往時の荘麗を忍ばしむるものがある。 古墳は現今周圍の田畑耕作のために侵蝕されし形迹もあり、埴輪の如きも多くは破壊され、或は他に持去され、唯破片を残すに過ぎないが、樹木鬱蒼として遠望するに形状甚だ整美である。附近には陪塚らしきものも存して居たと傳へられ、又石槨の上部が露出して居るけれど副葬品は詳かでない。 なほ最近、志布志の東方約一里の夏井部落より南方に突出するダダリ崎の飯盛山が前方後圓墳である事が發見された、横瀬・唐仁町等の大塚に次ぐ巨大なものとされてゐる。

 以上は特に前方後圓墳のみを記したのであるが、圓墳に至つては大隅平原の各地に存し、又明治まで存在したと傳ふるものも尠くない。 しかし以上の地方を除けば、縣下殆んど封土を有する古墳を見ないのである。 只僅に國分地方及び出水郡に圓墳らしきものが現存するが、果して然るか未だ詳かでない。尚ほ種子島にも三四圓墳らしいものがあるけれど、いづれも不確實と云はねばならぬ。

 しかし、封土を設けざる地下式古墳に至つては、大隅平原及び北薩に多く、これは地下式土壙と組合せ石棺との二種類に分つ事が出來る。 前者は地下に横穴式古墳を摸せしが如く思推せらるゝものであつて、地下に深さ數尺の竪穴を設け、それより横に羨道ありて玄室に通ずるのである。 大隅平原に於いては、富山・檢見崎・姶良の麓・塚崎・岡崎・大塚原等に多數存在せしも、地下の事なれば、多くは道路開鑿の際、或は陥没によつて發見されたのであつたため、原型を留めるものは殆んどなく、僅に斷崖上に遺蹟を残す丈であるが、此の土壙は古墳時代末期のものらしくそうぞうされるのである。北薩にては伊佐郡の菱刈・大口・西太良等の諸地方に存し、大口なる一士壙は比較的完全に保存されて居るが、内部は空虚である。尚ほ此の式のものは出水郡及び都城方面にも存在すと云ふ事である。

 次に組合せ石棺を有する式のものは伊佐・出水・薩摩の諸郡に多く散在し、形は多く楕圓形又は長方形で、巨大な蓋石で覆はれて居るのが常であつて、前者よりは、もつと古いものでないかと考へられる。

 叙上のごとく、大隅平原を中心とする地域には高塚式古墳が認められるのに對して、薩摩地方には簡素な地下式土壙及び組合せ石棺を有するも封土なき古墳がある許りであることは、薩摩地方に於ける古墳文化受容の仕方の一班を推知せしめるものである。


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