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鹿兒島縣史 第一巻/第二編 國造時代/第二章 隼人と肥人

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第二章 隼人と肥人

 隼人は古事記・日本書紀共に火闌降命の後裔と傳へ、新撰姓氏録も同様のことを載せて、之を天孫の部に収めてゐる。しかし其の昔長阿多君並に其の一族は、或は命の後裔であったらうが、全隼人族が總べて其の後裔とは考へられぬ。令集解の賦役令の中、夷人雑類の説明のために引用せる古記には隼人を毛人等と共に夷人中に數へ、又肥前國風土記は松浦郡値嘉島の條に、「此の島の白水郎の容貌は隼人に似て、恒に騎射を好み、其の言語俗人に異なれり」と載せて居り、其の他、古事記・日本書紀以下の隼人に關する記事によるに、隼人は本州 人とは多少、容貌・風俗・習慣・言語を異にし、上古には異種族と見做されて居たらしく想像されるのである。或は黒潮に乗つて薩・隅の南端に渡來した南方のものであらうと説くものもあるが、未だ首肯せしむるに至らない。たヾ仙覺の萬葉集註釋巻十に引用する大隅國風土記に、海中の洲を隼人の俗語で必志と云ふとあるが、之は「ヒシ」と云ふ隼人の俗語の一端を傳へたものとして實に貴重なものである。

 隼人の名稱に關しては、古事記傳等何れも隼人はハヤビトにて、勇猛迅速なる性質より起つたと説明してゐる。 ハヤトがハヤビトの省略である事は、萬葉集、和名抄等に照して明自であるが、他の種族名、熊人・多禰人・夜句人・國栖人・越人等の例に照して、ハヤに特種の意味を持たせる事は果して適當であらうか。 喜田貞吉博士は、ハヤを他の種族名と同様に地名とし、唐書倭國傳に「邪古・波邪・多尼三小王」とある波邪に當てられた。邪古は國史の掖久、今の屋久島であり、多尼は國史の多褹、今の種子島である事は云ふ迄もない。

此の隼人には古事記・日本書紀以下の古典に、大隅・阿多・日向・薩摩・甑等の部族が見える。この内日向隼人と云ふのは、僅に績日本紀和銅三年正月の條に日向隼人曾君細麻呂と云ふのが見えてゐるが、當時は大隅がまだ日向國に屬して居る時分故、所謂日向隼人は、やはり大隅の隼人であつたかもしれぬ。 又阿多は南薩の地である。 それ故、隼人は薩隅兩國及び其の附近の島嶼に多かつた事が知られるのである。 此の事は文獻のみでなく、考古學上、古墳の分布などから見ても同様に云へるかも知れない。 即ち日向に多い古墳群は太平洋岸に沿うて南下し、志布志地方より大崎地方に至つて大に發達し、更に唐仁町・野崎地方の古墳群に連なつて居るが、大隅半島を縦貫する山脈以西から薩摩國一圓には、山陵以外には未だ墳土を有する古墳が發見されてゐないが、伊佐郡より出水・薩摩等北方諸郡に、地下式土壙及び組合せ石棺を有するも封土なき古墳の存在が報告されてゐる。 この事は、古く此の地方が久しく隼人族の地であつて、未だ中央の文化を傳へて古墳を營むことがなかつた事を暗示するものではなからうか。

 隼人は、古くは阿多隼人と大隅隼人との二によつて代表されたが、續日本紀には、大寶以後、薩摩隼人の名が頻出して阿多隼人の名に代り、大隅隼人と共に隼人族を代表して居る。 けれども他の典籍には、なほ大隅隼人に對して阿多隼人と載せたものが多く、新撰姓氏録にも、大隅・阿多の二隼人を擧げてをり、又延喜式の如きも、大隅隼人に對するに阿多隼人の語を以つてして居る。 此等に據つて考ふれば、古く隼人の根據地は、薩摩では阿多地方であり、大隅では大隅郡であつた。即ち其の中心地は最初共に薩摩・大隅兩半島に在つたのであるが、後その中心が薩摩では阿多より薩摩郡地方に、大隅では大隅郡より國分地方に移つたと考へられるのである。これ等は交通上からの結果であらうが、一方に、大隅に於いては依然大隅隼人の名を残し、薩摩に於いては阿多と薩摩と全く轉換したにも拘らず、中央に於いては尚ほ阿多隼人の名を残して居る事は、蓋し中央に於ける朝儀等の上では、永い習慣、古い傳統に基くもので、天孫瓊瓊杵尊がまづ阿多に到りましたと云ふ神代紀の傳へには、簡單に看過すべからざる問題の伏在するを感ぜしむるのである。

 隼人族は何時皇化に服したかは詳かでない。 天孫瓊瓊杵尊が當地方に到りましたのは、隼人征伐の爲であつたと説く學者もあるけれど、もとより根據であつての説ではない。國造本紀には景行天皇の御代に隼人征伐の事が見えるが、之は熊襲征伐の傳説と混同してゐるかも知れない。又新撰姓氏録の額田部湯坐連の條に、其の祖先が允恭天皇の御代に、薩摩国に遣はされて、隼人を平げた事を載せて居るが、これを史實としても、これより先日本書紀履中天皇即位前紀に仁徳天皇子住吉中皇子の近習の隼人刺領布サシヒン古事記には隼人曾娑加里)と見え、仁徳天皇の頃既に隼人は他の諸國と同様に、舎人・帳内としてその族人を朝廷に貢してゐる。 更に、新撰姓氏録の秦忌寸の條には、雄略天皇の御代、小子部雷が大隅・阿多の隼人を率ゐて、諸氏族に却略せられた秦の民を検括鳩集した事を載せて居り、日本書紀に、雄略天皇崩じ給ひて丹比高鷲原陵に葬り奉るや、隼人晝夜陵側に哀號して、食を與ふれとも喫はず、七日にして死す、よりて墓を陵北に造り、禮を以つて葬すとある、この隼人が天皇近習の隼人であつた事は云ふ迄もない。 これらの事は隼人が比較的早くから皇化に服し、朝廷に仕へ奉つたことを示すものに他ならない。

 其の後、日本書紀清寧天皇四年の條、欽明天皇元年の條及び齋明天皇元年の條等に、隼人が衆を率ゐて上京した事が見える。 記事甚だ簡單であるが、これ等は、天武天皇の十一年七月、隼人多く來りて方物を貢し、大隅隼人と阿多隼人とが朝廷で相撲したること、天皇崩御の際に、大隅・阿多の隼人の魁帥が、各其の衆を領して誅を奏し奉り、持統天皇は此等三百三十七人に賞を與へ給ひたること、又同三年正月に筑紫太宰府から隼人一百七十四人、並に布五十常、牛皮六枚、鹿皮五十枚を 獻じたこと、又は九年五月には、隼人の相撲を御覧ぜられた事等に併せ考へたならば、同様な事があつたと思はれる。

 而して前述履中天皇や雄略天皇の御代に於ける近習の隼人の事を考へ、又日本書紀敏達天皇十四年八月の條の、三輪君逆が敏達天皇の殯庭防衛の事に隼人をして當らしめた事などから、隼人の中には常に在京して居る者も多かつたことゝ思はれ、天武天皇十四年六月に、大隅直が忌寸姓を賜はつて居るが、當時、賜姓の他に諸氏の例から推して、大隅國造家の人も大和に於て此の榮に浴したものと考へられるのである。 斯様に在京の隼人も多かつたから、犬養部・日下部・坂合部等の品部に編入せられるものもあつたと見えて、新撰姓氏録には、右京神別に、阿多御手犬養を火闌降命六世孫薩摩若相樂の後と載せ、攝津神別に、日下部を阿多御手犬養と同祖、火闌降命の後と云ひ、和泉神別に坂合部を火闌降命七世孫夜麻等古命の後とし、右京神別に坂合部宿禰を火闌降命八世孫邇倍足尼の後と載せてゐる。 此等他の品部に入れられた者以外、單に隼人として、京畿の近くに住んで居たものも尠くない。延喜式には、隼人が五畿内、並に近江・丹波・紀伊等に住んで居る事を載せて居り、正倉院文書の天平七年の國郡未詳計帳は、或は山背國綴喜郡大住郷のものかと推論されるのであるが、これによつて當時可成り多くの隼人が移住してゐたことが知られる。 更に新撰姓氏録には山城神別に阿多隼人を、大和神別に大角隼人を収めてをり、なほ二見首を富乃須洗利命の後として居るが、これも亦隼人族の氏であつたと考へられる。而してこれらの隼人の内には大化以後移住の者もあらうが、其れ以前から居たものも多い事であらう。

 而して朝廷に奉仕した隼人の職能に就いて見るに、日本書紀の海幸山幸神話の條に、或は俳優の民と載せ、或は今に至る迄天皇の宮墻の傍を離れず吠狗して事へ奉ると云ひ、また犢鼻を着し、赭を面と掌とに塗つて溺れ苦しむ種々の態をなし、今に及ぶまで廢絶なしと見え、又は古事記に盡夜の守護人と爲つて奉仕せんなどあるのは、古事記・日本書紀の編纂當時の状態であつて、之を大寶令に隼人司を衛門府の被管とすることと併せ考へれば、隼人は武勇を以つて朝廷に奉仕し、宮墻を守護し奉るとゝもに、隼人特有の風俗歌舞を演じてゐたものと思はれる。

 なほ、隼人は前述の如く古く阿多隼人と大隅隼人とによつて代表されて居たが、その内、阿多隼人の首長なる阿多君を、古事記・日本書紀が特に尊貴なる家系を有する氏として載せたるを思へば、阿多が隼人の本源池で、後に大隅にも移つたものかと考へられ、神武天皇の皇妃阿多の小椅君の妹吾平津媛は、大隅二移りし阿多君の一族の御方かと思はれるのであつて、隼人の歌舞も或は阿多地方の海岸に發達したらしく感ずるのである。

 隼人が薩摩大隅兩半島を中心とし、次第に北方に繁衍したのに對し、肥人は主として薩隅の北方より日向・肥後の南部に亘る山地に居たらしく考へられる。隼人族の如く文獻に多く顕はれてないが、古くは相當勢力のあつたもので、播磨國風土記の賀毛郡山田里猪養野の條に、仁徳天皇の御代、日向肥人朝戸君なる者が猪養野の地を賜はつて猪飼を始めたと載せて居る。 こゝに謂ふところの時代は傳説に過ぎまいが、兎に角、肥人が、かの地で猪を飼養して居たのは事實であらう。又日本書紀雄略天皇十三年の條に、播磨國御井の隈人文石小麻呂が謀反した事を載せ、春日小野臣大樹が敢死の士一百を率ゐて之を誅伐したとある處を見れば、それ程、多人數でなかつたらしいが、猪養野以外の地方に移り來たつたものもあつたと思はれる。 正倉院文書天平五年の右京計帳に阿太肥人床持賣と見え、同十年の駿河國正税帳に遠江國使肥人部廣麻呂なる者が載つて居る、以て肥人が相當廣い範圍に移つて居た事が察しられよう。

 而して此の肥人も夷人として取扱はれ、令集解に引用する古記に、夷人雑類とは、毛人・肥人・阿麻彌人等の類と載せて居る。 肥人が如何なる種族に屬したか詳かでないが、隼人族とは別記されゐたことは間違ない。 播磨の肥人が猪の飼養をして居た事は前に述べたが、古事記安康天皇の條に、山代の猪養の老人の事が見える、或は之も肥人であらうか。 なほ肥人といふ名稱は熊國、即ち後の球磨郡に多かつた爲に出來たのであり、また肥の字を宛てたのも肥國に多かつた爲であらう。 尤も薩摩にも少くなかつたと見えて、天平八年の薩摩國正税帳には肥君の名が多く見えるのである。

 熊襲の傳説は甚だ古く、その眞相は詳かならず、簡單に隼人即ち熊襲なりとの見解を取るものもあるが、古事記に熊曾國を建日別と云ふが、その地理的説明なく、却つて日本書紀や風土記にある熊襲征伐の地理的記事を考へるならば、その地域は肥人の根據地と同一の様に考へられるから、或はこれも肥人の叛亂の如くにも見られまいか、即ち熊津彦兄弟や襲國の渠帥厚鹿文・迮鹿文等の熊襲の八十梟帥もこの族でなからうかと思ふ。

 思ふに肥人は山間の險地に據り、朝命に應ぜなかつた爲に屢々討伐されて次第に勢力を失ひ、他國に移れる者は猪養等を業とし、又肥人部なる特種の品部を定められたものがあり、其の故郷に在るものは肥君等の土豪に支配されたものと考へられる。

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