- 勘三郎は一日絕へて音信不通となり居りし我家へ歸り來りしが前とは變り打ち萎れたる樣子にて妻のとめ子に打ち向ひ一時は迷いにてつらき仕打ちのみ爲せし上離緣せよとまでいひしも今まは夢も覚めつく〴〵後悔の念に堪へずその生活に追はれて、この寒空に外套一とつ買へぬ境涯も皆な自分から求めし事とて誰れを恨まうやうも無けれどこれよりは斷然信子の事は思ひ切り今まで通り家にも歸りべければ若干かの貯へもあらば外套一枚買ひたければ貸してくれと哀れげに云ふにとめ子も夫がこの心となりしは我よりも子供の仕合せと心の喜びに疑ひの念も起さずいふまゝに二十何圓の金を取出せしに勘三郎は直ちに其金を納めて今より直ぐに買ひに行くといふ性急にとめ子も別に留もせずそれならば久し振りにて子供も連れ行き何か手玩でも買ふてやつて下されといはれ勘三郎も辭まれず小供を連れて共に家を立出でしが暫らく立ちて小供は泣々我家に歸り來れるにぞとめ子は大に怪しみて何した事ぞと問へば途中にて阿父さんに別れしといふにさてははぐれたる事ならんと夫の歸りを待てどもつひに歸り來らざりしにぞ初て欺されしを知り再び情なさの悲嘆の涙に暮れたりといふ子迄ある妻を棄て且つ金を欺き取るが如き勘三郎が卑劣なる心性はこの一事を以ても察せらるべしとめ子と勘三郎との間は通常夫婦仲にはあらずしてとめ子の爲に幾度か其の窮迫を救はれし恩と義理に對しても普通の情を有するものならば到底かゝる情けなさ所爲を妻に仕向けらるべきにあらず今夫婦が抑の初めを記さんに勘三郎といふは慶應義塾出身で元姓は外丸といひ上州舘林の出生なるが明治二十三年頃栃木英學校の敎員となり居る内親と親との相談熟してとめ子を妻に迎へしがとめ子は佐賀藩にて女子師範學校をも卒業して相應の學問もあり實家は可成の資産もありしに嫁せし當時は勘三郎は貧困を窮め居たるに親元より金を貢ぎて財政の助けをせし事少なからず二十六年五月中勘三郎は東京へ出で益田英吉氏の周旋にてクヰンスランドの移民事業に従事し同地に渡航して三年ばかりも居りしが其間は無論妻の許へは一文の金を仕送らず却つて時々の衣服などをとめ子より仕送り爲し居りし有樣なるもとめ子は幸ひ身に職あれば家には子供と夫の妹とを引受けて自分は高等小學校敎員となりて生活を立て居り勘三郎が二十九年中歸國せし時は二百圓ばかりの貯金も出來ゐたるが勘三郎は家に歸りても其當座は糊口の道を求めんとは爲さずして遊び暮し且つ酒と女の二道樂ある事とて妻が節儉の末貯蓄せし金も時の間に費消し盡すに至れり
この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
Public domainPublic domainfalsefalse