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鎌倉丸の艶聞 (六)

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本文

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かんらうは一日絕へて音信不通いんしんふつうとなりりし我家わがやかへきたりしがまへとはかはしほれたる樣子やうすにてつまのとめむかひ一まよいにてつらき仕打しうちのみせしうへ離緣りえんせよとまでいひしもまはゆめめつく後悔こうかいねんへずその生活くらしはれて、この寒空さむぞら外套ぐわいとうとつへぬ境涯きやうがいみん自分じぶんからもとめしこととてれをうらまうやうもけれどこれよりは斷然だんぜん信子のぶこことおもいままでどほいへにもかへりべければ若干いくらかのたくはへもあらば外套ぐわいとうまいひたければしてくれとあはれげにふにとめをつとがこのこゝろとなりしはわれよりも子供こども仕合しあはせとこゝろよろこびにうたがひのねんおこさずいふまゝに二十何圓なんゑんかね取出とりいだせしにかんらうただちに其金そのかねおさめていまよりぐにひにくといふ性急せいきふにとめべつとめもせずそれならばひさりにて子供こどもなに手玩おもちやでもふてやつてっくだされといはれかんらういなまれず小供こどもれてともいへ立出たちいでしがしばらくちて小供こども泣々なく我家わがやかへきたれるにぞとめおほいあやしみてどうしたことぞとへば途中とちゅうにて阿父おとつさんにわかれしといふにさてははぐれたることならんとをつとかへりをてどもつひにかへきたらざりしにぞはじめだまされしをふたゝなさけなさの悲嘆ひたんなみだれたりといふまであるつまつ金をあざむるがごとかんらう卑劣ひれつなる心性しんせいはこの一もつてもさつせらるべしとめかんらうとのなか通常つうじやう夫婦仲ふうふなかにはあらずしてとめため幾度いくたび窮迫きうはくすくはれしおん義理ぎりたいしても普通ふつうじやういうするものならば到底たうていかゝるなさけなさ所爲しよゐつま仕向しむけらるべきにあらずいま夫婦ふうふそもはじめをしるさんにかんらうといふは慶應義塾けいおうぎじゆく出身しゆつしん元姓もとのせい外丸とまるといひ上州じやうしう舘林たてばやし出生しゅつせいなるが明治めいぢ二十三年頃ねんごろ栃木ときぎ英學校えいがくかう敎員けうゐんとなり内親うちおやおやとの相談さうだんじゆくしてとめつまむかへしがとめ佐賀藩さがはんにて女子師範學校ぢよしゝはんがくかうをも卒業そつげうして相應さうおう學問がくもんもあり實家じつか可成かなり資産しさんもありしにせし當時たうじかんらう貧困ひんこんきはたるに親元おやもとより金をみつぎて財政ざいせいたすけをせしことすくなからず二十六ねん五月ちうかんらう東京たうきやう益田ますだ英吉えいきち周旋しうせんにてクヰンスランドの移民いみん事業じげふ従事じうじ同地どうち渡航とかうして三ねんばかりもりしが其間そのあいだ無論むろんつまもとへは一もんかね仕送しおくらずかへつて時々とき衣服ふくなどをとめより仕送しおくりし有樣ありさまなるもとめさいはしよくあればいへには子供こどもをつといもととを引受ひきうけて自分じぶん高等小學校こおうとうせうがくかう敎員けふいんとなりて生活くらしかんらうが二十九年中ねんちう歸國きこくせしときは二百えんばかりの貯金ちよきん出來できゐたるがかんらういへかへりてもその當座とうざ糊口ここうみちもとめんとはさずしてあそくらさけおんなの二道樂だうらくあることとてつま節儉せつけんすえ貯蓄ちよちくせしかねどき費消ひせうつくすにいたれり

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。