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通俗正教教話/信経/第十二か條

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(十二)第十二か條

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ならび来世らいせい生命いのちを「アミン」』


問 『らい生命いのち』ともうしまするのはなんことなので御座ございますか。

答 『らい生命いのち』ともうしまするのはハリストスおほやけなる審判さばきの以後のち復活ふくかつしたるじんたましいくるところなが生命いのちのことなので御座ございます。


問 そのなが生命いのち』とはくはしくもうしまするとようなもので御座ございますか。

答 『なが生命いのち』とはじんたましいくるきざるよろこびのことで、そのよろこび何様どんなものでるとふことはいまかんがふることも出来できないもので御座ございます、せい使徒しとパエルはコリンフしょうちべてもうしまするには『われハリストス一人ひとりる、此人このひと楽園らくえんげられてがたことばひとかたあたはざるものきしをる』〔コリンフ後書十二の二、四〕。


問 其様そんがたよろこびところからるので御座ございますか。

答 それ神様かみさましたしくまた神様かみさま体合たいがふするからなので御座ございます、聖書せいしょもうして御座ございまするには『いまわれかがみりてるがごとし、ること朦朧おぼろなり、其時そのとき復活ふくかつのち)はおもてあはせてん、いまわれることまったからず、其時そのときられしがごとらん』〔コリンフ前書十三の十二〕『ときじん其父そのちちくにおいごとかがやかん』〔馬太十三の四十三〕。


問 復活ふくかつときひとくる身体からだ身体からだ御座ございますか。

答 それしゅイイススこの御居おいでになったときファオル(タボル)のやまかたちをおへになったことが御座ございましたが、其時そのときしゅのお身体からだようもっと立派りっぱもっとさかえあるもので御座ございます、其時そのとき身体からだのことを聖書せいしょもうして御座ございまするには『われつちぞくするものかたちを(このおいて)たるがごとまた来世きたるよおいては)てんぞくするものかたちん』〔コリンフ前十五の四十九これつまびらかにもうしますれば復活ふくかつときわたくしども身体からだは『さかゆる』『つよき』『かみぞくするからだとしてく』〔コリンフ前十五の四十三〕るので御座ございます。


問 復活ふくかつとき善人ぜんにんけますむくいたれかれおなじで御座ございますか。

答 おなじでは御座ございません、其人そのひとこのおいおこなったとくしょうによって各々おのおの差別けじめるので御座ございます、聖書せいしょにはその差異けじめ日月じつげつ星辰せいしんひかりことなることにたとへてもうされて御座ございますには、『にはそのさかへあり、つきにはそのさかへあり。ほしにはそのさかへあり、またほしほしそのさかへことにす、死者ししゃ復活ふくかつまたくのごとし』〔コリンフ前十五の四十一〕。


問 それではこのってわることばかおこなってもの復活ふくかつときばつくるので御座ございますか。

答 其様そんひと其時そのとき永遠えいえんかぎりなきわたさるるので御座ございます、これへいもうしまするなれば、其様そのようひとあくともながくるしみしょせらるるので御座ございます、聖書せいしょもうして御座ございますには『およ生命いのちしょしろされざりしものかみによってそのおこないよみせられざりしもの)はいけながくるしみ)にとうぜらる』〔黙示録二十の十五〕『だいなり』〔同二十の十四〕と。


問 何故なぜ神様かみさま其様そんな罪人つみびと厳重げんぢゅうばっしになるので御座ございますか。

答 それなに神様かみさま其様そん罪人つみびとほろぶることをおこのみになるためではないので、まったかれ罪人ざいにんうしてもかたくなであって、おのれすくいため真実まことあいれない』〔フェサロニカ後二の十〕からなので御座ございます。


問 ひとつねぶんのことや、その復活ふくかつことや、このおはり審判さばきのことや、永遠えいえんよろこびくるしみのことをかんがふるのは、なにえきになることがるので御座ございませうか。

答 りますとも、わたくしどもつね其様そんなことをむねからはなさずかんがへてましたならばわたくしどもわるいことをおこなはうとおもってもおこなはれませぬばかりでなく、そうじてこのいちたのしみよろこびへんすることなく、らいかぎりなき幸福こうふくのことをかんがへてつねこころ立派りっぱってくことが出来できるので御座ございます、それ御座ございますからわたくしどもくるにもるにもつね其事そのことわすれず、いまにもごとかんがへてこころつねうつくしくつみなき立派りっぱなものとしてかねばなりませぬ、此事このことわたくしども人間ひと第一だいいちこころけてかねばならぬ大切たいせつなことで御座ございます。


通俗正教教話中巻(信の巻)終