諸原理について/I/第6章
第1巻
第6章
[編集]- 終わりまたは完成について
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[編集]終わりや完結は、物事の完全性と完成のしるしであるように思われます。そして、ここで私たちに思い出させるのは、このような困難で重要な主題を読んで理解したいという願望に駆り立てられた人がいれば、おそらくこの種の問題の経験がない場合は、それらの問題が無駄で余計なものに思われるかもしれないので、その努力に完全で教養のある理解をもたせるべきだということです。あるいは、他の点に関して先入観や偏見で心がいっぱいであれば、それらの問題を異端で教会の信仰に反するものと判断し、理性の確信よりも偏見の独断主義に屈するかもしれません。実際、これらの主題は、確固とした確実な決定というよりも、調査と議論という形で、私たちは非常に注意深く慎重に扱っています。なぜなら、私たちは前のページで、三位一体について語るときに私ができる限りのことをしたように、明確な独断的な命題で提示されなければならない問題を指摘したからです。しかし、今回の場合、私たちの演習は、厳密な定義ではなく、できる限りの議論のスタイルで行われることになります。
そして、世の終わり、そして最終的な完成は、すべての人が罪に対する罰を受けるときに起こります。それは神だけが知っている時であり、神が各人にふさわしい報いを与える時です。確かに、私たちは、神の慈悲がキリストを通して、神のすべての被造物を一つの目的に呼び戻し、神の敵さえも征服し、従わせることができると考えています。聖書はこう言っています。「主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右に座していなさい。」[1] そして、ここでの預言者の言葉の意味が明確でない場合は、使徒パウロがより率直に次のように語っていることからそれを確かめることができます。「キリストはすべての敵をその足元に置くまで、支配しなければなりません。」[2] しかし、使徒のこの率直な宣言でさえ、「敵を彼の足元に置く」とはどういう意味なのか十分にわからない場合は、次の言葉で彼が言うことに耳を傾けてください。「すべてのものは彼の下に置かれなければならないからです。」それでは、すべてのものをキリストに従わせるこの「従わせる」とは一体何でしょうか。この従わせこそが、私たちもキリストに従わせたいと願うものであり、使徒たちも従い、キリストの追随者であったすべての聖徒たちも従ったものであると私は考えています。なぜなら、私たちがキリストに従わせる「従わせる」という名前は、キリストから来る救いが、ダビデの宣言「私の魂は神に従わないはずがあろうか。私の救いは神から来る」と一致して、キリストの臣民に属することを示しているからです[3]。
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[編集]したがって、すべての敵がキリストに屈服し、最後の敵である死が滅ぼされ、王国がキリスト(すべてのものはキリストに服従する)によって父なる神に引き渡されるときが終わりであるのだから、このような終わりから物事の始まりを思い巡らそうではないか。終わりは常に始まりと同じである。したがって、すべての物事には終わりが 1 つあるように、始まりも 1 つあったと理解すべきである。そして、多くの事物に一つの終わりがあるように、一つの始まりから多くの相違や多様性が生じ、それらはまた、神の善良さによって、キリストへの服従によって、聖霊の統一によって、一つの終わり、すなわち初めに似た終わりに呼び戻される。すなわち、イエスの名にひざまずき、そのようにしてイエスへの服従を知らせるすべての者たちである。これらは、天と地と地の下にある者たちである。この三つの区分によって、事物の宇宙全体が指し示され、すなわち、その一つの始まりから、それぞれの行動の多様性に応じて、それぞれの功績に応じて、さまざまな秩序の中に配置されてきた者たちである。なぜなら、神とそのキリスト、そして聖霊におけるような、本質的な存在による善は、彼らにはなかったからである。なぜなら、すべてのものの創造主である三位一体においてのみ、本質的な存在としての善が存在するからである。一方、偶発的で消えやすい性質としてそれを持っている人たちもおり、神聖さと知恵、そして神性そのものにあずかって初めて祝福を享受する。しかし、そのような参加を怠り、軽蔑するなら、各人は自分の怠惰のせいで、ある人はより速く、ある人はより遅く、ある人はより大きく、ある人はより小さく、自分自身の没落の原因となる。そして、すでに述べたように、個人が自分の立場から転落する過ちは、心と意志の動きに応じて非常に多様であり、ある人はより容易に、ある人はより困難に、より低い状態に落ちるので、これは、各人の行動の多様性に応じて、その人の退廃と背信の罪に比例して起こるべきであるという神の摂理の正当な判断であることがわかる。確かに、私たちが来たるべき終わりに似ていると描写したあの始まりに残った人たちの中には、世界の秩序と配置において天使の地位を得た人たちもいた。ある者は影響力、ある者は君主権、ある者は権力を授かり、権力を必要とする者に対して権力を行使した。またある者は王位の位を受け、これを必要とする者を裁き、支配する職務を担った。またある者は、疑いなく奴隷に対する支配権を授かった。これらはすべて、神の摂理によって公正かつ公平な裁きのもとに、その功績と、神への参加と模倣において彼らが成し遂げた進歩に応じて授けられたものである。しかし、本来の祝福された状態から引き離された人々は、回復不能に引き離されたわけではなく、私たちが述べた聖なる祝福された秩序の支配下に置かれました。そして、これらの助けを借り、有益な原則と規律によって作り変えられることによって、彼らは回復し、幸福な状態に戻ることができます。これらすべてから、私が見る限り、この人類の秩序は、イザヤが語った新しい天と新しい地がある未来の世界、または来たるべき時代に、主イエスが弟子たちに代わって父なる神に祈ったときに約束された統一に回復されるように定められたものであると私は考えています。「私は彼らのためだけではなく、彼らの言葉によって私を信じるすべての人のためにお願いします。父よ、あなたが私の中におられ、私があなたの中におられるように、彼らも私たちの中に一つとなるためです。」[4] また、主はこう言われます。「それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。わたしが彼らの中におり、あなたがわたしの中におられるように。彼らは一つとなって完全にされるためです。」[5] このことは、使徒パウロの言葉によってさらに確証されています。「ついに、わたしたちはみな、信仰の一致によって完全な人に至り、キリストの満ちあふれる徳の高さにまで達するのです。」[6] また、これと調和して、同じ使徒は、この世においても教会の中に置かれているわたしたちに、この同じ一致の似姿に励むよう勧めています。「みな同じことを語り、あなたがたの間に分裂があってはなりません。かえって、同じ思い、同じ考えで完全に結び合わされなさい。」[7]
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[編集]ただし、私たちが語った一つの始まりから堕落したある存在は、無価値と邪悪の深みに陥り、人類が肉体にある間に天の力の助けを借りて訓練され教えられる訓練と指導に全く値しないとみなされ、それどころか、この指導と教えを受けている人々に対して敵意と反対の状態を続けているということを心に留めておく必要があります。そしてそれゆえ、この死すべき人生全体が、少しも振り返らずにより良い状態から堕落した人々の反対と敵意によって引き起こされる闘争と試練に満ちているのです。彼らは悪魔とその天使、および使徒が反対勢力に分類したその他の悪の階級と呼ばれています。しかし、悪魔の支配下で行動し、悪魔の邪悪な命令に従うこれらの階級の誰かが、自由意志の能力を持っているために来世で正義に改心するかどうか、または持続的で根深い邪悪が習慣の力によって自然に変わるかどうかは、読者のあなた自身が承認できる結果です。ただし、これらの現在の目に見える一時的な世界でも、目に見えない永遠の世界でも、その部分が物事の最終的な統一性と適合性から完全に異なることはありません。しかし、その間、目に見える一時的な世界と目に見えない永遠の世界の両方で、すべての存在は、規則的な計画に従って、その功績の順序と程度に従って配置されています。そのため、彼らのうちのある者は最初の時代に、他の者は二番目の時代に、またある者は最後の時代に、より重く厳しい懲罰を受けた後、いわば長い期間、何世代にもわたって耐え、この厳しい訓練方法によって向上し、最初は天使の教えによって、その後はより高次の力によって回復し、こうして各段階を経てより良い状態へと進み、ある種の訓練によって天の力のあらゆる職務を経た後、目に見えない永遠のものにまで達する。そこから、あらゆる理性的な性質は、一つの秩序から他の秩序へと移る際に、それぞれからすべてへと、すべてからそれぞれへと進むことができるという推論が導かれると思われるが、その一方で、自由意志の力を享受するために自らの行動と努力に応じて、さまざまな程度の熟達と失敗の対象になる。
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[編集]しかしながらパウロは、あるものは目に見える一時的なものであり、他のものは目に見えない永遠のものであると言っているのだから、目に見えるものがどのようにして一時的なのか、さらに調べていくことにしよう。それは、来世のすべての期間において、その分散と分離がひとつの始まりからひとつの同じ目的と類似性へと回復する過程を経ているときに、目に見えるものの後には何も残らないからなのか、それとも、目に見えるものの形態は過ぎ去っても、その本質は腐敗しないからなのか。そしてパウロは後者の見解を裏付けているようで、「この世の様式は過ぎ去るからです」と言っている[8]。 ダビデもまた、「天は滅びるであろうが、あなたは存続されるであろう。それらはすべて衣のように古び、あなたはそれらを着物のように変え、それらは祭服のように変えられるであろう」という言葉で同じことを主張しているようだ[9]。 というのは、もし天が変化するとしても、変化するものは確かに滅びることはないし、世の流行が過ぎ去るとしても、それは物質的実体の消滅や破壊が起こるということではなく、一種の質の変化や外観の変化である。イザヤもまた、新しい天と新しい地があると預言的に宣言して、間違いなく同様の見解を示唆している。なぜなら、この天と地の再生、現在の世界の形のこの変化、そしてこの天の変化は、間違いなく、私たちが上で指摘した道を歩み、敵さえも従うと言われている幸福の目標に向かっている人々のために用意されているからであり、その幸福においては神は「すべてであり、すべての中にいる」と言われているからである。そして、もし誰かが、最後には物質的、つまり肉体的な性質が完全に破壊されるだろうと想像するなら、彼は、これほど多数で強力な存在が肉体なしで生き、存在できるという私の見解にまったく同意できない。なぜなら、いかなる物質的実体もなしに、またいかなる程度の肉体的付属物もなしに存在することは、神の性質、つまり父、子、聖霊の属性だけであるからだ。また、おそらく、最後にはすべての肉体的実体はエーテルのように純粋で精錬され、天の純粋さと清らかさを持つようになるだろうと言う人もいるだろう。しかし、物事がどのようになるかは、神と、キリストと聖霊を通して神の友人である人々にのみ確実に知られている[10]。
脚注
[編集]- ↑ 詩篇 110:1
- ↑ 1 コリント 15:25
- ↑ 詩篇 62:1
- ↑ ヨハネ 17:20-21
- ↑ ヨハネ 17:22-23
- ↑ エペソ 4:13
- ↑ 1 コリント 1:10
- ↑ 1 コリント 7:31
- ↑ 詩篇 102:26
- ↑ [この章と前の章でオリゲネスが使用した言語は、事実や意見を述べる際の時折の行き過ぎ、および聖書の意味に関する奇妙な想像や突飛な推測の顕著な例であり、これらは後に彼に重大な誤りと異端の堕落の罪を負わせることとなった。ネアンダーの『最初の3世紀のキリスト教と教会の歴史』(ローズ訳)第2巻、217ページ以降、およびハーゲンバッハの『教義の歴史』第5巻、102ページ以降を参照。また、前掲のオリゲネス著作への序文 、235ページも参照。S.]
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