聖金口イオアン教訓下/第3講話

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第3講話[編集]

<<聖書せいしょただ書籍しょせきとして所持しょぢするは充分じゅうぶんなり>>


われ聖書せいしょあたへられしはわれこれをたゞ書籍しょじゃくとして所持しょぢせんがためあらず、われこころきざまんがためなり。誡命かいめいをたゞ書札しょさつうちとぢめて、かゝるたぐいのものをんことはこれたゞ猶太イウデヤじん高慢こうまんぞくするのみなり、しかれども最初さいしょわれ律法りっぽうあたへられしはかくごとくならず、こころにくしるされたりき〔コリンフ後書三の三〕。これふは書籍しょじゃく〈聖書を〉るをさまたげんとにはあらず、かへつこれ嘉奨よみし、かつ此事このことねがふなり、たゞねがところは、書札しょさつよりしてそのことばその意味いみとがわれ心霊しんれいうつらんことこれなり、さらば心霊しんれい書中しょちゅう智慧ちえをもておのゆうとなすべくして、かくのごとくしてきよめられん。もし魔鬼まき福音書ふくいんしょのあるいえ侵入しんにゅうするをあへてせずんば、まして聖書せいしょ意味いみおのものとなせる心霊しんれいには魔鬼まきつみれざるべく、またおそはざるべし。ゆえ聖書せいしょつねくちにもこころにもゆうして、なんぢ霊魂たましいきよむべくまた身体からだきよむべし。けだしづべきことばわれけがして、魔鬼まきぶならば、聖書せいしょ心神しんしんにてむはわれせいにして、聖神せいしん恩寵おんちょうかんことあきらかなり。