聖金口イオアン教訓下/第27講話

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第27講話[編集]

<<われとうかならずしもらざるは何故なにゆえか>>


かみときとしてあたふれども、ときとしてあたへざることあり、しかれどもかれこれともえきのためにすなり、ゆえなんぢはうくるといへども、またけずといへども、けざるにおいてもなんぢはこれをうくるなり、なんぢのぞむところをたつすといへども、またたつせずといへども、たつせざるにおいてもなんぢはこれをたつするなり。けだしねがふところをけざるは、うくるより有益ゆうえきなることしばしばこれあればなり。もしねがふところをうけざるはわれためしばしばえきあらずんば、かみかならずいつもあたたまふならん、しかれどもえきあるがためにうけざるならば、これすなはちねがふところをたつすといふべきなり。ゆえかみたまもの遷延せんえんしてわれくるしめんことをほつせざるも、えんによりつねかわらずしてけんなる注意ちゅういわれおしへんとして、われねがひすをゆうすることしばしばこれあり。けだしわれねがふところをうけて、其後そののちとうおけ熱心ねっしんよわむることしば〳〵これあるにより、とうおけわれ熱心ねっしんつよめんとほつしてかれたまもの遷延せんえんするなり。あいなる父母ふぼかくごとこうするなり、らんにして嬉戯あそびふけところ許多あまたたまもの約束やくそくして、これをおのれかたはらとどむることしばしばこれあり、ゆえときとしてはたまもの延引えんにんすることあり、ときとしてはまったあたへざることもまたこれあり、われおのれためなに有害ゆうがいなるものをもねがふことなきにあらず、さりながらかみわれため有益ゆうえきなるものをわれよりなほるがゆえに、われため有益ゆうえきなるものをわれらしめずしてはかり、われ祈求いのりげしめざるなり……。さればわれおのれこころつることごとくせん、かみねがふところのものをあたへんか、あるいあたへざらんか、かれこれとのためひとしくかみ感謝かんしゃせん。けだしかれこれとのあいおいかみわれためえきあることをなせばなり。それあたふるはかれけんにあらば、あたふるときなにあたへんもまたあたへざらんもかれけんにあるべし。なんぢみづかおのれためえきあるものをかみごとらざるなり。なんぢえきなるもの、また有害ゆうがいなるものをもねがふことしばしばこれあり、しかれどもかれなんぢすくひことおほおもんばかり、なんぢねがひずして、かへつてこれにさきだちてなんぢためつねえきんとす。それ肉身にくしん父母ふぼねがふところのことごとあたへざるは、かれ注意ちゅういせざるがためにあらずして、かれためおほいおもんばかるによる、いはんわれおほいあいし、おほいえきあることをるのかみかくごとこうせんとす。さらばたゞに日中にっちゅうのみならず、かんおいても、えずとう練習れんしゅうせん……とうおほいなる武器ぶきなり、とうおほいなるかざりなり、防禦ぼうぎょなり、みなとなり、万善ばんぜん宝蔵ほうぞうにしてうばふべからざるとみなり。