第四編 吉野朝時代

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     一 立谷澤城主足達時重と子長覺

 建武中興より南北朝に亘る約六十年間に於ける史實は、羽黒山の東麓立谷澤城及び西部の藤嶋城に於て南北兩黨の戰爭あつたことは顯著のことであるが、其中間に介在する羽黒山に何等の史實を殘さぬことは却て疑はしいのである。されど直接史實には關係無いが、二三件について述ぶることがある。
 三山雅集に羽黒山伏雲景建武三年(一九九六)僧兵を率ひて北畠顯家に隨つて上洛したとあるは、太平記の顯家奧羽の大兵を率ゐて上洛したのと羽黒修驗雲景未來記によりて附會したのであつて信ずるまでも無いことである。
 顯家の弟北畠顯信は興國以降陸奧に下り北朝方吉良・石塔・畠山諸氏を多賀城に攻め、常陸に於ける父北畠親房の危急を救はんとし、興國四年田村莊宇津峰城に至りしが、同年十一月常陸の關大寶二城陷り親房以下は吉野に歸へり、守永親王は遁れて宇津峰城に入らせらる。守永親王は後醍醐天皇の第一皇子尊良親王の長男であらせらる。正平二年五月の頃北軍宇津峰城を攻め城陷り、顯信は親王を奉して出羽に走りしが、此時莊内の形勢北軍有勢にして容易に莊内に入ること叶はなかつたものゝ如く立谷澤城に據る。立谷澤城は羽黒山の東麓にて立谷澤川上流の工藤澤に在り、城主を安達四郎左衞門時重といつた。時重の父安達四郎左衞門時長は齊力衆に勝れ長刀を以て名あり、執權北條貞時に仕へた。貞時の外祖である安達泰通が貞時の家司平頼綱と權を爭ひしに、頼綱及び其子宗景の讒訴により貞時は安達氏一族の謀計あるの理由を以て、弘安八年十月急に兵を遣はして安達氏を攻めた。泰通並に其一族は皆其の厄に罹りて誅せらる。時長も免る能はざるを知りて自刄した。其子時重は未だ幼にして母の懷にありしかば、母子共に出羽國に流罪に處せられた。
 時重出羽に生長し正和四年土豪平時義の娘と結婚した。時重は何時頃よりか羽黒山の東方立谷澤川の上流に城を築いて之に居つた。興國元年八月時重の妻男子を産む。時重五十六七歳の子で末子である。幼名を梵天丸と云つた。梵天丸は即ち後ちの長覺である。
 正平二年北畠顯信奧州宇津峰に敗れ守永親王を奉じて出羽に走り立谷澤城に據つた。同年白河城主結城親朝の男顯朝等追撃し來りて顯信を立谷澤城に攻め、顯朝の部將松田太郎戰死を遂げたことが親朝より足利尊氏に差出した報告書に載せてある。この戰の顛末は明かで無いが立谷澤城は北軍の爲めに陷れられ、顯信は莊内方面に潜伏して再擧を謀つた。城主時重はこの戰に於て戰死を遂げたでは無いかと思ふ。立谷澤城のある工藤澤部落の東南方上流に大中島部落ありて、この部落の田中に人家大の大石ありて「御所の腹切石」と昔から呼んでゐる。御所とは當地方では立谷城主の外に該當するものが無い。次に焚天丸の母も同二年に死んでゐるを見るに、或は時重と共に戰禍に遇つたではないか、梵天丸時に八歳である。十一歳の正平五年梵天丸は羽黒山の僧良圓に諮り湯殿山長宣の弟子となつた。長覺傳には父時重の取計ひにて長宣の弟子としたとあるも、正平二年父母共に戰禍に遇ひて梵天丸は孤兒となり羽黒の弟子となつたであらう。
 同七年得度して本智房長覺と號した。同十年十二月十六歳にして更に修業を志ざし湯殿山寺坊を出發し、鎌倉を經て同十一年高野山に着いた。之より高野山東禪院に入りて八年間事教二相の研鑚に傾注し、更に廣人各宗教理を研究せんが爲めに、正平十九年二十五歳にて諸國巡錫に出て鎌倉無量寺に入り留まること一年餘にして、下總を經て羽黒に歸つた。長覺羽黒及び越後蒲原郡東福寺に長く留錫し、文中の初年に高野山に歸り勤學院に於て問答を開講し、文中三年推されて講士となつた。次て天授五年再び講士を命ぜられ一山の大衆は競つて長覺の講座に集つた。弘和二年九月十三日東禪院にて悉曇を傳授し、元中三年五月和州に巡錫し、同四年五月山城國東福寺照元禪師の請により阿字觀の秘事を説き、同五年南禪寺にて祖裔禪師と禪門の第一義諦を問答し、應永の初年無量壽院方として道範阿闍梨の系統を承傳し、學徳共に深厚を極め且つ論談暢達にして、壽門方三千の末徒は長覺を中心として一大曼荼羅を搆ふ。寶門の俊傑宥快の如きも其徳行を慕ふて兄事した。應永九年八月二十日より二十五日に至る間洛陽東山莊嚴寺に於て悉曇字記鈔を講じ、翌十年十月五日無量壽院門主頼圓入寂したれば、長覺遺言により又大衆に推されて壽門々主となる。應永二十三年十一月十五日遷化す年七十七、著書釋論十二鈔、大日經指南鈔、悉曇快※[#「てへん+鰐のつくりのようなもの」、上p49-7]鈔あり。

     二 太平記の羽黒修驗雲景未來記

 太平記二十七卷に雲景未來記と題する一編ありて、羽黒修驗雲景が未來記を作りて、足利尊氏に献白した。この未來記の内容を述ぶるに先立つて、太平記の史的價値を述べんに、同書四十卷は尊氏歿後約五十年に小野法師の編著であつて、戯作小説であるとする説と、南北朝に於ける重要なる史實であるとの兩説あり、之を雲景未來記の一編について見るに、全くの戯作であつて、編者が假想人物の雲景に托して尊氏に對する私見を漏らしたに過ぎぬもので、尊氏に献白したもので無い。依て未來記は長編であつて且つ前に述べた如く戯作であれば大意を左に掲ぐ。
 (太平記未來記の大意)
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羽黒山の修驗雲景正平四年閏六月熊野より京都に遊びしに、一老僧に遇ひ誘はれて西郊嵯峨野の天龍寺に詣り、更に愛宕山に登つた。時に愛宕本堂の後ろ座主の坊内にて、衣冠或は袞龍の衣を着けたる高貴の人々多數集りて會議中である。その人々は歴代不遇の天皇及び武將僧侶等であつて、崇徳院淡路廢帝同上皇后御鳥羽後醍醐院源爲朝僧玄※[#「日+方」、第3水準1-85-13]以下である。その評議を開くに天下を亂さんとする大評定である。其中より一人の山伏出て來りて雲景に京師の近況を問ひ問答を開始し其大要は、源瀬朝[#「頼朝」か]より北條高時に至る十一代の間蠻夷の賤しき身を以て天下の政權を握つたのは、下剋上の澆季の然らしむる所である。後醍醐天皇高時を滅ぼしたのは聖徳の至りにあらずして自滅の時が來たのである。然るに又高時にも劣る足利氏の世となりて尊氏直義兄弟怨讎を結び、高師直君主に叛き、道義廢れて是非を辨ふる由も無い。之れ皆足利兄弟か一人の君王を輕んずるより執事家人も武將を輕んずるに至れるもので因果の道理に外ならない。更に天下の安危國の治亂を問はんとしたるに俄かに猛火起りて、衆人門外に走り出つると見る間に忽然と夢醒めたる心地して、日は西に傾きたれば京に歸り宿坊に着いた。是は只打ち捨つべき事にもあらすと思ひたれば、末代の物語或は當世の用心にもなれかしと、我身の刑を顧みないて、委細に書き熊野の牛王の裏に告文を書添へて貞和五年閏六月三日付にて傳奏に差出して進奏した。
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 此の記事は一讀して戲作であつて、雲景も假想の人物であること明かであるに關らず、羽黒の舊記には雲景を以て、羽黒山官職の綸旨を受けた鼻祖であるとか、或は修驗道神仙道の秘奧を傳へたとは大平記[#「太平記」か]の記事に附會したものである。更に又手向に雲景の子孫と稱する家あるも元より信ずることできぬ。

     三 燈籠の棹

 羽黒に青銅製の燈籠の棹一基あり。火袋笠臺等は紛失して無い。この棹の高さ三尺六寸七分、口徑一尺三寸四分あり。之れに倶梨迦羅龍を前後面に二を鑄出し、其間に銘文を陰刻した。上中下に節ありて各節に無數の星状突起を配列し、中節には二列の星状突起あり。
 (燈籠棹)
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 奉施入
 寂光寺
 鑄造大澄爐
右勸進十方施主欲
祈各々所求而己
  文和元年七月廿五日
      大工沙彌淨圓
          家吉
      大勸進聖弘俊
           家守
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 文和元年は北朝年號にして、南朝正平七年(二〇一二)である。此頃莊内に於ける南北兩黨の形勢を見るに、正平六年北畠顯信は守永親王を奉じて藤島城に在りしが、陸奧探題吉良貞家は伊賀盛光等をして藤島城を攻めしめたが、容易に陷るゝことできなかつた中に、同年七月尊氏・直義兄弟不和を生じたるに乘じて、顯信莊内の南軍を率ひて陸奧に登り多賀城を攻略した。然るに翌七年二月直義殺害さるゝに及んで、陸奧の北軍勢力を挽回し、顯信敗れて陸奧の各地に轉戰して居つた。前記の燈籠棹銘文の意義は大勸進弘俊は廣く十方の施主に喜捨金を求めて、此燈籠を鑄造したもので、十方の施主は各々祈願する所あつて喜捨したことを記してある。大勸進の弘俊は當山第二世弘俊と同名であるを見るに、羽黒修驗はこの燈籠棹銘の弘俊とあるを附會して第二世弘俊として修驗道を役小角に學び當山執行の鼻租とし、拾塊集には弘儁、傳持血脉(暦代執行別當名簿)には弘俊とありて、儁と俊は通字である。倶利迦羅不動の劍に龍が卷きつき、其劍先を龍が咬へたる技巧は精致にして生動の妙趣あり。銘文の字体も流暢にして能書である。この燈籠は元と二基あつたに相違無いが、只一本の棹のみ殘り、棹には數ケ所に疵跡と貫通彈痕のやうな穴あり。之れは廢佛毀釋の時破壞して賣拂はれた殘りであらう。大正四年三月國寶に指定せられた。
 最後にこの燈籠を鑄造した大工沙彌家吉について私見を試みるに、莊内地方の古い鑄物は、田川郡大山町鑄物師伊藤助右工門の鑄造に係るもの頗る多い。同家は鎌倉時代よりの鑄工と傳へ、文祿慶長年間の鑄物の銘に 伊藤助右衞門家次、寛永年間は家勝家清とあり、依て前記の沙彌淨圓家吉は伊藤氏の先代では無いか、同家の子孫は今猶大山に住し鑄物を業としてゐるが系譜の見るべきものを傳えないのは遺憾である。若しも此燈籠が大山伊藤氏の鑄造であるとすれば、其技は中央に讓らない優秀の作である。
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