第六編 桃山時代

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     一 莊内領主の更迭と羽黒探題の長吏法頭職

 莊内の史實は天正以降より稍々明かで、隨つて三山の變遷も之れに關聯して知ることが多くなつた。
 莊内は鎌倉初期より大寶寺武藤氏の管領する所であつたが、室町末頃より山形の最上氏、越後の上杉氏次第に勢力を北方に進展して、恰も莊内は上杉・最上兩氏爭奪の地となつた。永正中飽海郡砂越城主砂越氏兵を擧げて田川郡に攻め入りしより莊内は大動亂を起し、天文元年(二一九二)砂越氏維は武藤義増を大寶寺城に攻めて之を陷る。之より武藤氏は尾浦城(大山)に退いた。この戰亂は越後上杉氏の仲裁にて和解し、之より兩氏とも上杉氏に※[#「疑のへん+欠」、第3水準1-86-31]を通じ、一時小康を見たが、天文末期に至りて再び亂れた。この再亂の原因經過は明かで無いが、山形の最上氏が砂越氏を使嗾して武藤氏に兵端を開いたやうだ。
 之より先き大寶寺城主武藤氏は羽黒山に三長吏を置いた。三長吏を置いた理由は前にも略述したやうに、羽黒は多數の衆徒を有し、村山・最上及び莊内の三郡に跨がつて居れば三郡の領主は羽黒衆徒を支配下に置くことは政略上の有利である。就中羽黒は莊内領に入込んで居れば羽黒を他に占めらるゝことは莊内領主の大脅威である。依て古來より武藤氏では羽黒に三人の長吏を置き、一ケ月を三期に分けて三長吏交替して、羽黒の寺務に關與させた。長吏は即ち探題である。三長吏の居館を手向村三ケ所に設け、上旬館は添川村の南方山上、中旬館は金剛樹院と的場小路の間、下旬館は上裏町と稻荷山の間で、壘壕を繞らした小城郭であつた。斯くの如く三旬長吏は武家で監視の爲めに置いた探題で多少の兵備があつたのであれば、羽黒衆徒は之に絶對服從したのは當然であらう。羽黒衆徒は武家に探題を置かるゝことは一山の恥辱であれば、探題長吏を以て北條時頼の置いた一山の總司職であるとか、或は莊内武藤氏又は藤嶋土佐林氏を別當であるとか唱へてゐるのである。地方の領主が別當なる僧職を勤めらるゝものでないのは當然である。
 天文十八年砂越氏維は最上氏の使嗾によりて武藤義増を攻め、先づ羽黒に置いた武藤氏の三何長吏を討つて四月十二日下旬長吏父子は戰死を遂げ、上旬・中旬長吏は逃亡し、羽黒は滅んだ。
 (砂越來迎寺年代記)
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天文十八年三月一日日※[#「虫+飮のへん」、上p74-8]未申時天下黒暗 同年四月十二日羽黒下旬生害父子 同上旬中旬越山 羽黒悉滅亡
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 (羽黒山暦代記)
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天文十八年巳酉羽黒山 下旬父子追討
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 この三旬長吏を三山雅集には北條時頼巡遊の時に置いたので、其家老職の子孫は眞田・吉住・小關・太田・三澤・神林氏であり、下旬長吏の子孫も近代まで殘つたなどゝあるのは、毫も信ずるに足らぬ。只拾塊集後記に三長吏は武藤氏の古くより置いたことを簡單に述べてゐる。
 (拾塊集後記)
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一蘇馬子之後胤武藤|良氏《義カ》男武藤孫一郎光安自[#二]上古[#一]羽黒別當也依[#レ]之手向添川置[#二]三臣下[#一]名[#二]三長吏[#一]滿山隨[#二]下知[#一] 其後越後之養藏坊雖[#三]爲[#二]卑官凡下身[#二]始建[#二]別當職[#一]不幸而當山去
一別當職者武藤屋形自[#二]神代[#一]于[#レ]今至迄相傳也三長吏定[#二]雜務[#一]滿山共隨[#二]此權威[#一]名[#二]三旬[#一]何俗躰也自神代如[#レ]斯
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 之によれば三長吏は武藤氏の置いたもので俗躰を爲して僧侶でない。一山其權威に服從したのを見るも探題であることを知ることができる。武藤氏滅んで越後上杉氏の領となれば養藏坊清順を別當としたことは後に述ぶる。依つて最上氏の莊内領有の時には最上氏にて三旬長吏を置いたことも首肯できる。三旬長吏は一山衆徒の監視の外に峰中をも勤行した。
 (拾塊集後記)
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一九度勤[#二]行峰中[#一]三長吏并執行代學頭披露號[#二]權僧都[#一]
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 九度勤行峰中とは毎年七十五日間の入峰修行を九ケ年九度び勤行することにて、九度の修行を終えた者に始めて一僧祇、權少僧都の僧位を授與する。この授與式に三長吏以下列席して披露するとのことである。入峰修行は三十六度まであつて、之を卒業した者は大越家、律師、權大僧都の僧位を授與され、位階に應じて、袈裟素絹の色彩を異にし職掌も自ら違つてくる。
 永祿頃より山形城主最上義光遽かに武威を張り、村山・最上兩郡は悉く其領となり奧羽の強豪となつた。莊内に於ては尾浦城主武藤義増歿して子義氏嗣ぐに及んで河北を併領し元龜天正間は義氏の全盛時代である。この外米澤の伊達輝宗、越後の上杉景勝、津輕の津輕爲信、秋田の湊城主安東愛季は何れも英傑にして、互に領土を接し虎視耽々[#「眈々」か]として戰國時代の状勢を示してゐる。隨つて之等の諸豪は互に合從連衡を結んで野心を包藏してゐる。永祿十二年(二二二九)四月津輕爲信は使を最上義光に送りて和親を結び、翌元龜元年(二二三〇)春爲信親臣十五人を伴ひて出羽羽黒山と越後彌彦に詣でゝ宿願を祈り、然る後に義光を訪ひて津輕に歸つた。
 (津輕藩史)
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元竈元年春與[#二]親臣十五人[#一]微服間行至[#二]越後[#一] 祷[#三]宿願於[#二]矢彦及出羽羽黒祠[#一]遂訪[#二]最上義光[#一]結[#レ]※[#「疑のへん+欠」、第3水準1-86-31]約[#二]機事[#一]而歸
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 此頃藤嶋城主土佐林氏慶其將竹中時友と武藤義氏に叛いたが、永祿十二年十一月羽黒山三長吏に頼りて義氏に謝罪を申込んだ、之より土佐林竹中は義氏を援けて河北を鎭定し莊内を統一した。
 (秋田諸家文書)
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態々音問殊先日之返禮具披見被申越條々懇意本望候由令存候 仍竹次再亂之儀難儀之子細も候歟到干近日は抛萬事三長吏へ相憑頻佗入之間乍意|外三郡中爲《(莊内三郡)》可取靜候條無餘儀可及赦面の由申候 昨日大寶寺之地迄罷越今日|當城《(藤島か)》へ罷出候川北之儀も時宜落着候 (下略)
   霜月十七日   義氏(花押)
 鮎川殿(角間川城主鮎川山城守)
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 三長吏は武藤氏の羽黒に置いた探題であつて、上旬・中旬・下旬の三長吏である。
 天正七年(二二三九)八月最上義光病に罹る。同月二十八日湯殿山に來年四月八日に斗帳神馬及び紅花一貫二百匁を納むることを約して病氣の平癒を祈る。
(關根源治氏文書)
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   敬白湯殿權現へ立願之事
此度煩氣就然重而福泉坊爲代官 來年四月八日ニ斗帳神馬上紅花壹貫仁百匁差添可奉相捧候 如存平癒之所謹而奉拜々々
   天正七年〈巳 / 卯〉八月廿八日   源 義光(花押)
   (宛名切斷)
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 明年の奉納を約して病癒を祈願することは古今、其例を見ざる所であつて、最上義光にして始めて爲し得たことであらう。
 天正十年四月八日藤嶋城主土佐林杖林齋は秋田の湊城主湊愛季の重臣大高筑前守に書を送りて、羽黒山本堂造營の木材を秋田地内より海送するに付、湊津役錢の免除を請ふ。
 (湊文書)
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此間御正□※[#変体仮名え]申達之條令啓候 (中略) 今度鐵砲の者共卅人可差下の由申付候處 去三日清水へ致調議不慮ニ相當 則彼|物主《城カ》義氏〈○清水義氏〉を抱取候 (中略) 然者爲羽黒山造營板柾其外材木等可相求候條 小船を指下可申候 湊津并山川之口諸役預御免許候之樣可預御心得候 此口之儀も津湊在之條如此之類被越 不可有疎儀候恐々謹言
   四月八日               杖林齋
                         禪棟(瓶印)
 大高筑前守殿
       御宿所
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 此文書は天正十年三月武藤義氏最上郡清水城主清水義氏を攻めた。最上義光は鮭延愛綱をして授けしめたことあれば天正十年と判定したのである。此年武藤義氏は土佐林禪棟をして羽黒權現堂の造營に着手せしめたのは、武藤氏と最上氏との形勢逼迫によりて義氏の戰勝祈願の意に出たものと思ふ。大高筑前守は湊城主安東愛季の臣であつて、湊は今の土崎港である。前編に掲げた文安二年(二一〇五)土佐林和泉守の羽黒本社建立より百三十八ケ年を經たばかりで、改築には早過ぎる。永正三年(二一六六)武藤義増本社修覆あつたが火災に遭つたことも此頃に見えない。或は羽黒記録の誤記であつて、天正十年を文安二年としたかも知れない。
 此頃執行宥源は砂越城主砂越次郎を説いて秋田湊攝津守の臣大鷹四郎右衞門尉と談合せしめて、湊攝津守と武藤義氏と和解ぜしめんとした。
 (秋田諸家文書)
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   尚々五明御祝儀目出渡申候
雖未申通候以書状申入候仍去年も自此方以使者令申候處色々御懇之儀過分存候當山御祈祷之札進入候御頂戴可目出候彌於御神前可抽懇祈候砂越次郎殿大鷹四郎右衞門尉殿御談合いたし可然樣ニ屋形樣※御取合奉願候處春|着《?》下申度候へ共其元之儀不存候間當年者延引申候萬々可然樣奉願存計候猶期後音時候恐々謹言
   五月吉日                宥源(花押)
 湊攝津守殿
       御宿用
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 湊攝津守は愛季なるべく大鷹四郎右衞門尉は大高筑前守ならん。此頃は武藤義氏の盛んなる時にして天正六年河北を併せ、更に由利より秋田に勢力を張らんとしたる時のものならん。
 天正十年最上義光莊内侵略を企て河北の諸城主を使嗾し、最上郡鮭延愛綱清水義氏をして攻めしめた。武藤氏の將前森藏人叛いて尾浦城を圍み、翌十一年三月城燒かれ義氏自刄した。國人越後上杉景勝に應援を求め、最上勢の侵略を阻止し、義氏の弟丸岡兵庫頭義興を立てゝ跡を繼がしめ、更に上杉氏の部將村上城主本庄繁長の次男千勝丸を義興の養子と爲し義勝と云つた。この戰に村山郡寒河江大江堯元及び其支族白岩四郎八郎〈大江備前守〉は莊内武藤氏を援けたが、義氏自刄するに及んで兩氏は軍を退いた。この時堯元は莊内より佛畫を齎らして白岩慈恩寺内の彌勒堂に納めた。其中の一幅は今彌勒堂に殘存し、左の背記あり。
 (慈恩寺所藏佛畫背記)
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      三千佛
右此本尊者目[#二]庄中亂物[#一]大檀那大江之堯元令詢望彌勒尊奉寄進云々仍如件
唯我性々々々釋迦獨尊、无方城天上天下教主々々薩陲常樂
  天正十一癸未六月廿一日
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 義光は翌十二年六月二十八日大江堯元氏を攻め、中野原に戰ひ堯元以下戰死し、大江氏亡ぶ。
 莊内は之より上杉・最上兩氏の爭奪交戰地となつた。天正十五年(二二四七)五月義光再び武藤義興を攻め、酒田城主東禪寺筑前等義光に通じ尾浦城を攻め義興敗れて自殺し、養子義勝小國城に遁れ村上本城繁長に據る。是に於て義光は莊内を占領し中山玄蕃を尾浦城に置いて鎭撫せしむ。この時之迄武藤氏で置いた羽黒の三旬長吏を罷免して新に最上氏の三旬長吏を置いたらしい。
 天正十六年七月越後村上城主本庄繁長莊内に進撃し、頻りに南部の諸將を陷れ、尾浦城を攻撃した。之れが十五里ケ原の戰爭である。最上勢利無くして東禪寺右馬頭父子以下多く戰死し、尾浦城陷り中山玄蕃光直最上に走つた。この時羽黒の三旬長吏も本庄勢に攻められて、上下旬長吏は最上に退いたらしい。依て義光は八月二十五日上下旬長吏に書を送りて、庄内の干戈意の如くならざるを謝し、添川に退かずして最上に避けたのは神妙の至りであると譽めたのを見れば、中旬長吏は添川に下りて本莊勢に降つたのかも知れぬ。
 (義光文書) 正善院所藏
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     (裏書)〈上/下〉旬長吏
早速可致音信之處 依兎角遲延之至意外存候 隨而今度添河へ不相歸 再進退引切被罷退 我々手前一篇可相守ニ存分神妙之至不及是非候 自今南|※[#変体仮名え]萬《口カ》機遣致之付而 庄中之干戈ニ不入念を向旁失面目候 乍去此方へ雖被引除之事は□[#□のなかに「涯」]《?》分目とも可相懸候間可心安候委曲有海八郎左衞門殿可申候間令略候恐々謹言
 八月廿五日                義光(瓶印)
  〈上/下〉旬長吏□
追啓佛師東福坊へも別紙相理度候へ共無相更儀候間此由心得待入候以上
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 義光は本庄繁長の莊内攻畧を豊臣秀吉に訴えたからして、天正十七年十二月繁長を京師に蟄居を命じ、武藤義勝を信州に移し、莊内をば上杉景勝に賜つた。景勝は佐渡奉行川村彦左衞門を東禪寺城主と爲して河北を管せしめ、立岩喜兵衞をして河南を管せしめた。
 羽黒には最上氏の長吏を逐つて下野佐野の養藏坊清順を派遣し、法頭職とした。文祿五年の黄金堂擬寶珠銘に寂光寺法頭清順法印とあり、羽黒衆徒は法頭の名稱を喜ばないので、舊記には別當又總別當と書いてある。
 (羽黒山舊記)
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天正|十四戌年《(七ノ誤リ)》羽黒上旬長吏永春ヲ上杉景勝ヨリ追討之 上杉景勝ヨリ養藏坊清順ヲ羽黒ノ別當トス 瀧水寺光明院居住妻帶 此清順ハ景勝祈祷師也
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 三旬長吏の名稱は天正十七年上杉氏の莊内併領と共に廢され、法頭と改稱された。之迄は三長吏であつたのを一人の法頭と爲し、その居所は之迄下旬長吏の居つた下旬館であつて上裏町と稻荷山の間の光明院である。この地は二王門外の南方高地であつて、五重塔を中心とする瀧水寺の境内であるやうだ。
 (三山雅集)
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      下旬館
 この所は光明院主住給ふにて院主屋舖とも云 今は別當里坊屋舖となれり 上下旬の事は上にゆつる
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法頭は長吏と實質上の變化は無いので、只一人で羽黒五別當の總監督であつて、一山僧侶の探題檢行である。
 (自坊記録)
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院主職
  養藏坊清順
妻帶也越後上杉景勝より押而惣別當ニ成ス 庄内出羽守義晃領ニ成時米澤※[#変体仮名え]逃歸ル
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 (同書)
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當山惣別當職者從初昔庄内之所司代々別當職也 中興武藤左衞門尉景頼以來飽海屋形義氏迄二十代別當職相續 然ルニ義氏惣別當職瀧水寺光明院慶俊※[#変体仮名え]附屬也 惣別當と云儀ハ山内ニ五別當在故也 所謂月山別當執行 本堂別當は寶前坊 黄金堂別當正善院 下居別當實藏坊 女別當ハ常善坊ナリ 徃古者五別當三長吏等其職ニ有之ナリ
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 總別當は又院主とも云つたやうだ。月山執行別當・羽黒本宮別當の上位を占めたやうで、執行別當以下穗別當の支配を受けたらしいが、法務に關しては三旬長吏と同じく、深く關係したもので無いらしい。
 上杉氏莊内併領後天正十八年七月豊臣秀吉の奧羽檢地を施行したるに、莊内河北河南に一揆起り、河南では藤島城を根據として容易に鎭定しなかつたが、翌年悉く平定した。是に於て上杉氏は莊内に於ける諸所の城又は館を悉く毀ち、之等の城主・館主は皆上杉氏に仕へた。依て宇内は豊臣氏に統一され、莊内は諸城郭は悉く毀たれたからして、從來の如き紛爭は一掃された。依て羽黒に於ける監視も三旬長吏の必要は無くなつて、一人の法頭を置くことゝなつた。
 羽黒山の西北麓にて添川村永鷲寺墓地に五輪塔あつて、その臺座に左の銘を刻す。
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羽黒山前中旬長吏
梅津中將
俗名重右衞門
  梵字爲菩提也
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 この銘に梅津中將とあるは頗る疑問に屬するものであるが、前に掲げた天正十六年八月二十五日の上下旬長吏に宛てた義光の文書に、今度添河へ不相歸云々とありて、中旬長吏は添川に逃げて本莊繁長に降つたやうに見えるのである。現今添川村に斯波重右衞門と稱する農家ありて、梅津長吏の子孫と稱してゐる。寛永十六年(二二九九)は天正十六年(二二四八)より五十年後であつて、中旬長吏の死去年月に建てた供養塔であらうか、梅津中將は羽黒舊記に據る虚構であらう。斯波氏は最上氏の本姓であつて最上氏の置いた三旬長吏の一人であるよりして、本庄氏の領内に在りて最上氏を唱ふることを憚り、斯波氏を姓としたでは無いか。同氏は明治前まで五七桐を家紋とした。之れは最上氏の紋である。明治後に至りて笹龍膽《さゝりんどう》の紋に更つた。

     二 上杉氏の將直江兼續の麓橋造替と湯殿山立願寄進

 上杉氏の將直江山城守兼續は天正十九年春莊内の一揆を討平し、翌文祿元年(二二五二)に檢地と一揆平定後の整理を行つた。同二年五月兼續は羽黒山麓の橋を造替寄進したのは莊内鎭定を羽黒山に報謝したものであらう。麓の橋とは荒澤寺の橋であつて、當時は澤深く橋も大きかつたものゝ如く三山雅集に挿繪あり、今石の小橋を架けてある。
 (莊内物語)
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一羽黒山の南に荒澤と云所有小橋一條を渡せり 擬寶珠唐金にて(銘文後出)と鑄付 これ舊物也
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 (擬寶珠銘)
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梵字  奉建立
      出羽國羽黒山
      麓之御橋
      施主直江山城守
            兼續
      本願下野佐野養藏坊
              清順
        天下一道仁作
      文祿二年〈癸/巳〉五月吉日
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 兼續寄進の橋は藩政初期に架替へられ、擬寶珠は羽黒山上の寶庫に保存されて二基だけある。銘文は二基とも同文である。天下一道仁は京師三條の鑄物師であつて、山形寺町專稱寺の慶長十一年の鐘も同人の銘あり。本名は藤原國次戒名道仁である。文祿五年黄金堂擬寶珠銘も清順の本願とあり。
 文祿三年七月十八日直江兼續尾浦城下次右衞門に令して、湯殿・羽黒山代參の施物を上人に交付させた。
 (山形縣史)
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   湯殿去年立願之分
一七石四斗壹升    去年
 足立申上候公私三百人之御代參壹日ニ三度之賄料
一三貫文       代物
 同右之三百人ノ施物但一人ニ付百文ツヽ 已上去年分成就也
   當年之領分
一湯殿へ六人之代參
   其ざうさ
一壹斗四升八合貳勺  六人之まかない如上
一六百文代物     同 施物
  已上
一羽黒へ七人之代參
一壹斗七升三合    七人之代參
一七百文代物     同 施物
  已上
   此外
 湯殿へ當年自千日代官行之事
一壹右五斗ツヽ  毎月卅日分
  上人同宿共ニ拾人之臺飯
一壹右ツヽ    毎月之御初尾
  已上貳石五斗ツヽ毎月々初にて可相渡也但壹年十二月分には合三拾石也
右之通彼上人へ即米可相渡者也
  文祿三年七月十八日   兼續
    下次右衞門殿
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以上文祿二年中の麓の橋造替寄進の大工人夫の賄料及び代參施物と湯殿山に代官の千日行の賄料初尾である。

     三 酒田城主甘糟景繼の黄金堂改築

 黄金堂の創建は室町中期と推定さるゝことは前編に述べた。其後百四十餘年を經て、慶長元年(二二五六/文祿五年)に至りて酒田城主甘糟備後守は亡長女の追善の爲めに黄金堂の再興に着手し、同年四月十一日完成した。
 (甘糟備後守景繼公略歴)
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三年《(文祿)》公ノ長女卒ス 法謚榮薫禪定尼ト號ス
公其冥福ノタメ坂田城邊羽黒山ノ黄金堂ヲ再興ス 堂一名應化堂 源頼朝ノ時土肥實平建ツト云 破壞スルコト年久シク人敢テ收ムルナシ 公因テコレヲ再興シ玉フ 尊崇今ニ至テ盛ナリ 土※[#「工+刀」、第3水準1-14-59]几ソ三年ニシテ成ル 文祿五年四月十一日入佛供養アリ 執行者寶善坊宥源 山主ハ養藏坊清順 別當觀喜院尊英 大工棟梁羽黒式部少輔 其棟銘ニ曰
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夫羽黒山麓有[#二]黄金堂[#一] 破壞而年久 爰越後住甘粕備後守景繼當國坂田城主有[#レ]女任[#二]老少不定[#一]令[#二]病死[#一] 被[#二]別慈[#一]爲[#二]追善[#一] 件一宇建立 磨金像處孝子榮薫禪尼奉[#レ]備 爲[#二]|碩《(頓)》證佛|景《(果)》[#一]也 利益拔災
  干時文祿五丙申稔四月拾壹日
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 此棟札は既に所在を失ひ棟札の形式を缺ゐてゐる。羽黒には其寫さへ無い。此文義によれば黄金堂破壞年久しきにより亡女迫善の爲めに一宇建立したとのことであるが、其破損の程度は明かで無い。僅かに創建以來百四五十年では再建する程破損したとは思はれぬ。又建築上より見るも文祿の補修と見るべき所所々にあるも、全く破壞したとは見えぬ。創建後年々の屋根の茅葺を怠れば雨漏の爲めに破損を來たした程度であらう。されど内陣に安置した三十三體の觀音像は雨漏りの爲めにか朽損したので、新造せざるを得なかつたものゝ如く、文祿五年(慶長元年)八月末日金色觀音像を新造安置し大法會を行つたことは觀音像腹籠り文書により知ることができる。
(黄金堂觀音腹籠文書)
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梵字(バク) 奉讀誦大乘妙典一千部
經主二十八人各無一成佛速而極樂淨土來迎之處也殊者羽黒山之名佛金佛之觀音御本尊新ニ奉造立意者花顏榮薫之御菩提爲也寔志深而如山海依之現世安穩後世善住無疑也即此妙文日記觀音之御首奉納處嗚々後々末代馮敷悲願彌々重々也
  于時文祿[#「祿」は□囲み]五[#「五」は□囲み]丙[#「丙」は□囲み]申八月末日敬白
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 此文書は正善院覺研が文政十二年堂宇を修理した時に、觀音の體内より發見したもので、覺研は深一尺二三寸幅約五寸の杉箱を造り、之に觀音經普間品、法螺貝、舍寶、五香、藥、五穀等を入れて再び胎内に納めたもので、覺研の留書に左の通り記してある。
 (覺研書留)
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文政十二丑二月ヨリ七月ニ至成就也
其時深秘奉拜五香無過半五藥皆
無之仍記之
奉大修覆
  時貫主楞伽院山海
 黄金別當
正善院覺研代
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 前記の腹籠文書につき私觧を試みるに、梵字(バク)は童女身の種子であつて、景繼の亡愛女である。この祈願文書及び供物を三十三體の内の中央座像觀音の首に納めたものである。其後ち百三十三年を經て文政十二年の堂宇大修繕の時には五香は過半殘り、五藥は全部無くなつてゐた。
 景繼の黄金堂修築は堂宇より三十三體觀音像に至るまで大工事であることは明かである。屋根の擬寶珠も新造であるが、其疑寶珠は文政十二年の大修繕の時に所在を失ひ、銘文の拓本が殘つてゐる。
 (黄金堂屋根擬寶珠銘)
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  羽黒山長壽寺
  金堂寶形之事
    令建立
 大施主直江山城守
 藤原朝臣兼續
 同施主甘糟備後守
寂光寺法頭清順法印本願
於大浦伊藤助右衞門
        家次作之
  文祿伍年丙申早苗月三日
            敬白
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 之について私見を試みるに、金堂寶形之事とあれば當時は金堂と書いてコガネ堂と云つたらしい。寶形は屋上の擬寶珠のことである。或説には黄金堂は寶珠の形ちを爲してゐるので寶形を堂宇と解した人もある。大修築の資金を投じた大壇那は甘糟景繼であつて、本願即ち發起人は法頭清順である。元來法頭又は大法頭といふ職名は一山の僧尼を檢行する役であつて、此頃當山には使用しないのであるが、上杉氏が清順を羽黒に差遣した本分は、一山衆徒を監視檢行するによるので、總別當の名稱も當らないのである。依て法頭が本職名であらう。次にこの寶珠を鑄造したのは大浦即ち大山の鑄工伊藤助右衞門家次である。子孫今猶同業を繼續してゐる。三山雅集に黄金堂の前に昔は惣輪塔有けるよしとあるも今は無い。
 以上の資料によりて文祿五年の甘糟景繼の修築程度を考ふるに、大破損したるにより改造したかも知れないが、新に再建したものでは無い。隨つて工事に三ケ年を費して再興したといふ記事は當らないと思ふ。

内陣三十三觀音安置(現在)    同上(文政以前)
[#図版(007.jpg)、本文は回り込み、内陣三十三觀音安置]

 三十三躰の觀音は悉く木彫金塗りであつて三十躰は等身大で左右に五體つゝ三壇に安置され、座像三體は中央の壇上に左右と相並んで安置されたらしい。後世内陣の彼方に三尺許り突出して佛壇を造りて三座像を安置した。前記の首の所に文書を納めたのは中本尊であるそうだ。右方前列左端の觀音立像一體の脊部には朱漆にて左の銘を書いてゐる。
[#ここから3字下げ]
當國住人藤原朝臣
進藤三郎左術門[#「左衞門」か]尉
妻女了明釋定尼
   永祿九年 〈丙/寅〉
      八月吉日
[#ここで字下げ終わり]
 永祿九年(二三二六)は文祿五年の三十年前である。三十三體の觀音は悉く金色燦然と輝き修理又は時代色は見出すことできない。或は文祿五年以前に破損したのに修理を加へたものもあつたかも知れない。金色は文政十二年の堂宇大修繕の時に塗替されたであらう。

     四 直江兼續の羽黒社領と湯殿山寄進

 元龜元年(二二三〇)四月莊内武藤義氏の將九雲齋明三より米澤伊達輝宗の將遠藤内匠助に使僧を遣はして、米澤領内の羽黒領の所得を寶奇坊に取らせないで、羽黒普請に付使僧に收納せしめた。
 (山形縣史)
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(前文略)
一羽黒之御神領事寶奇坊任貴意申付間敷候 造營ニも可罷成候間此客僧に所當可預置之候由被申候 御取成尤候
一(略)
   四月廿三日                  九雲齋
                             明三
    遠内
      御宿所
[#ここで字下げ終わり]
 羽黒造營は本社の普請であらうと思はるゝが、羽黒年代記には本社の改築を屡々載せてあるも、一々立證すべき資料が無ければ輕々に信ずることできない。且つ元龜中の本社修築は見えぬ。
 文祿三年(二二五四)八月十八日上杉景勝莊内の檢地は成就し一揆も平定したるを以て、立岩喜兵衞を田川郡の代官、河村彦左衞門を飽海郡の代官に任じ、金穀出納を掌らしめた。同年九月大寶寺大山小國各城の在番將士の食俸を定め、又羽黒山の神領を定めて明鏡院清順に交付した。
 (文祿三年定納員數目録)  山形縣史
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一(略)
一八百六拾一石三斗九升    羽黒山社領
  右ハ明鏡院奉之
一(外略)
  文祿三年九月  日
[#ここで字下げ終わり]
 領主が替れば檢地を行ふのが普通である。檢地は新舊田畑を測量して面積と等級を定め、租税を割直し、新墾地には新に課税を行ふ。依て新領主は社寺領を新反別に改めて、新に社寺領を寄進する形式を取るのが恒例である。文祿檢地以前の羽黒領の高が明かで無いからして、新反別の増加額は明かで無い。
 文祿四年(二二五五)六月二十八日直江兼續立岩喜兵衞に命じ、米十石を昨年來の祈念料として湯殿上人に寄進した。
 (山形縣史)
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    已上
彼湯殿上人去年已來祈念被抽精誠候就而米拾石進之候從其方手前則可相渡候彌祈念之事可申談候謹言
   文祿〈二/二〉六月廿八日       兼續
    立岩喜兵衞殿
[#ここで字下げ終わり]
 兼續は昨文祿三年八月より立岩喜兵衞をして田川郡櫛引郡の檢地を施行せしめ、四年一月に至りて櫛引郡の檢地を終了した。依て湯殿山に米十石を寄進して、昨年來の祈念成就を謝したのである。湯殿山上人とは大日坊が注連寺の別當を指したものであらう。櫛引郡とは赤川上流地方一時の稱呼である。

     五 羽黒山の檀家地域

 我國修驗道の本山は紀州熊野と大和吉野であつて、何れも役小角を開祖とした。足利時代以前は兩山の宗派別區別は判然しないで兩宗派混同して修行道場としたらしい。足利時代の初めに於て、熊野派の勢力に壓せられて久しい間振はなかつた吉野派は、その本寺である醍醐寺三寶院が幕府を助けてから同派修驗を總管することゝなつた。之より兩派の區別が判然するやうになつた。即ち熊野三山は天臺宗本山派で京郡[#「京都」か]聖護院を本寺として、近江・三井・園城寺長吏が三山檢校を繼承することゝなり、吉野は眞言宗當山派で京都醍醐寺を本寺とした。熊野派の入峰經路は熊野より玉置山に登り葛川に下り、螺吹嶽・行仙嶽・沼田宿を經て幣持に宿り、五鬼村より大日嶽・神仙嶽に至る、之を順峰と唱ふ。吉野派は金峰山寺より大天井嶽・小天井嶽を經、蛯腹峠を超へて山上ケ嶽の大峰に至るもので、之を逆峯と唱へる。
 諸國の山寺では前記兩派の何れかに則つて修驗道の道場を開き、地方の修驗信徒を檀家とした。熊野吉野の外で重なる所は、出羽の羽黒山・豊前の彦山・加賀の白山、之に次ぐものは伊豫石槌山・伊豆の走湯山・常陸の筑波山・信濃の戸蔭山・美濃の伊吹山・上野の二荒山などである。以上の山々では天臺・眞言何れかの入峰行規を定めて、毎年夏期に入峰道場を開いて地方の修驗信徒を集めて抖※[#「てへん+數」、第3水準1-85-5]修行を遂ぐるのである。俗に之を峰中又峰入といひ、峰中修行の度數によりて位階を昇進する。各山寺には多くの宿坊あつて、檀家を分割して各自持つてゐる。冬期間には己が檀家を巡廻して、牛王や祈祷札を配布し、或は新檀家を募集する。斯の如くして各山寺の檀家區域は定まつた。羽黒山は熊野・吉野に次ぐ隆盛にして、檀家區域は關東奧羽と越後の一部を包有した。斯る大勢力を占むるを以て熊野又は吉野に從屬することを厭ひ初め熊野天臺系であつたのが鎌倉初期に吉野眞言系に改宗し、更に室町初期に獨立して羽黒修驗道を立てゝ開祖をも變替したのである。
 地方の檀家を霞とも唱へ一山及び衆徒宿坊の財源である。衆徒宿坊の檀家は羽黒本寺より授與さるゝもので、左記の文書は天文十九年(二二一〇)閏五月二十日羽黒御師寶壽坊慶山より置賜郡成嶋三十三郷の霞を山城に授與したものである。
 (藤井氏所藏文書)
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羽黒山より|なりしま《(成島)》卅三|かふ《(郷)》の|ちしき《(智識)》事|ねんらい《(年來)》のことく|あいたかわす《(相違)》候此|はん《(判)》を|さき《?》として|まつたい《(末代)》において|ちぎやう《(知行)》たるべく候
             時之御師  寶壽坊  慶山 (花押)
                 山|しろ《(城)》殿
                    わたし申候
   天文拾九年〈かのへ/いぬ〉潤五月廿日
[#ここで字下げ終わり]
 羽黒の御師職は神の使令を司とる役であつて、衆徒の山號補任をも出した。
 永祿七年(二二二四)十月六日米澤地方の山上・福田・笹野三郷を御師大貳に授與し、之も慶山より渡した。
 (同上)
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羽黒山|ちしき《(知識)》の事
※[#変体仮名わ]きて|山かミ《(山上)》|ふくた《(福田)》
|さゝの《(笹野)》 三|※[#変体仮名か]う《郷》 大貳
末代わたし
申候 何事も々とも
不可 |ちかう《違》 候 仍
如件
          慶山(花押)
   永祿七年十月六日
     御師 大貳公
[#ここで字下げ終わり]
 假ひ關東・奧羽は羽黒の檀家區域であるとは云へ、徃古は熊野の霞であつたのを羽黒にて漸次蠶食したものらしい。隨て互に檀徒の爭奪あつたことも想像さるゝ。天正六年(二二三八)七月熊野派の本寺聖護院では陸奧田村郡の熊野修驗に書を發して、近年出羽奧洲の檀家が大峰修行を止めたものが多い。依て今後檀家を先達して大峰に來るやうに勸誘したのは、羽黒派に奪はれたものと思はる。
 (青山文書)
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出羽奧州兩國輩當院御霞近年修行之道退轉之樣無勿体之間大峰先達事被仰付候上者國中被相催年々可被守此道之由若王子前大僧正御房所仰候也仍執達如件
  天正六                   鎭乘
    七月六日                快弘
   蒲倉
    大祥院御房

出羽奧羽兩國輩當院御霞之間近年修行之道仁退轉之樣無勿体候間大峰先達事蒲倉大聖院仁被仰付候條各被得其意可被相付候 由若王子前大僧正御房所仰候也仍達如件
   天正六                  鎭乘
     七月六日               快弘
    出羽奧州
       諸年行事 御中
[#ここで字下げ終わり]
 斯く羽黒の隆盛となつた理由は羽黒修驗の努力と三山境内の靈境と相俟つて盛んとなつたことは勿論であるが、又關東・奧州は熊野・吉野には遠く隔たり羽黒は近距離に在りて參詣修行に便利であるにも據ることである。然るに最も近距離に在る吹浦兩所宮の太夫は羽黒に從屬することは好まない。其理由は鳥海山即ち大物忌神は月山神と共に蝦夷征討時代より朝野の崇敬厚かつたので、夷亂其變ある毎に位階を進められ、平安朝の末には月山神社を吹浦村に立て大物忌神社と並んで兩所宮と云つた。延喜式には兩社共に大社に列せられ、上下無かつたのである。然るに中世に至りて羽黒三山は隆盛と爲つたとは云へ、吹浦兩所宮の太夫は之に從屬することを喜ばないのは當然であらう。況してや戸ノ太夫等は神佛混淆を厭つて修驗道に入ることを拒絶して來たのである。是に於て羽黒方では下三十三ケ國の勢力範圍を主張して慶長三年(二二五八)五月十三日羽黒法頭清順は吹浦の戸ノ内太夫に書を送りて羽黒に歸屬すべしと彈壓した。
 (羽黒大帳寫 鷄肋編)
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本書竪帋  字配リ朱點ヲ以テ示ス
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河北中吹浦兩所之大夫於羽黒山大峰ニ當山出仕之處相定所ニ爲如何吹浦斗出仕有間敷由承候其故如何と申ニ下卅三ケ國之大神所と申殊更出羽奧羽者羽黒山之敷地ニ御座候之所を兩所之大夫斗昔より羽黒山※[#変体仮名え]出仕なき由在廳被仰越候乍去最上長井會津越後迄之御師御在廳之仕置有之ニおいては旁々後日まてのいき通とくへき歟爲如何と千手院方へハ出仕せられ候哉いわん哉足下ニ乍被居御師在廳を用間敷由承候左候ハヽ庄内のかすみ惣て自昔羽黒山之仕置可被相砌か霞之儀はこなたの物たるべし又ハ油利十二頭ニ御師在廳を定候ニ庄内ニ居なから箇樣之執行被候ニおいては何ケ度も委可申儀也仍如件

  慶長三年             光明院 黒肉判
   五月十三日             法印 清順 〈居/判〉
      吹浦大夫との内殿
              參
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 吹浦戸ノ内太夫は進藤氏であつて、其子孫は出羽風土略記の著者進藤重記である。この時羽黒に如何なる回答をしたかは不明である。この文書によれば御師在廳は羽黒にて各地に任命して置いて、其地方の檀家の所務を司らしめた。御師は神の使令を承けて信徒の祈祷を司どり、在廳は信徒の訴訟を司るものである。依て兩所大夫の檀家は羽黒のものであると強剛に談判したのであるが、他の大夫はいざ知らず戸ノ内大夫は應じなかつたと思ふ。羽黒の檀家地域は下三十三ケ國と云つてゐるのは、我國六十六ケ國の半分は羽黒方であるとのことであるが、之れは羽黒方の跨張[#「誇張」か]の言にして、其實は關東・奧羽と越後の一部である。其中にも熊野・吉野派の者多少混在するやうである。

     六 最上義光庄内併領後羽黒探題を置かず

 上杉景勝は越後春日山城に居つて越後佐渡及び庄内を領した。慶長三年(二二五八)一月豊臣秀吉は諸城主の交替を行ひ會津城主蒲生秀行を宇都宮に移し、景勝を越後より會津百五十萬石に移し、其領地は會津四郡仙道七郡出羽國長井郡庄内二郡及び佐渡である。三月二十四日景勝會津城に着し、將士に城邑を頒ち與へ、庄内では東禪寺城主甘糟景繼を伊達郡白石城、志駄修理亮義秀を東禪寺城主と爲し、直江山城守を米澤城主と爲して長井郡と庄内大寶寺領を與へた。此外尾浦城に下次右衞門、藤嶋城に木戸元齋を居らしむ。
 之より先き最上義光は庄内恢復の志を抱いて居つた。慶長三年八月十八日豊臣秀吉薨じ、幼子秀頼嗣ぐに及んで、舊臣諸將不和を生じ黨を結んで軋礫[#「軋轢」か]した。此間徳川家康陰然勢力を關東に扶殖し、豊臣氏の諸將と相峙持することゝなつた。是に於て景勝・前田利家・石田三成等と秀頼を援け、家康を東西より狹撃[#「挾撃」か]せんとし、同四年八月景勝國に就き諸城を修理して軍備を整へた。家康之を探知して同五年三月景勝討伐の令を下し、最上義光を先鋒と爲し、陸奧出羽の諸城主を應援たらしめ、七月家康小山に出陣した。是に於て三成等兵を擧げて、八月一日伏見城を陷れたからして、家康關東の大軍を率ひて西上し、美濃關ケ原に於て西軍と決戰を交へた。出羽に於ては景勝の軍頻りに最上氏の諸將を陷れ、上ノ山・寒河江・白岩・谷地・長瀞を占領し、今や將に山形城を包圍せんとした。然るに關ケ原の戰況は西軍不利にして九月十五日東軍の勝利に歸した。此報二十八日上杉氏に到着したるを以て、景勝は遽かに軍を徹した。そこで最上義光は長谷堂城主志村伊豆守をして東禪寺城を攻めしめたが、時既に冬期に入りたれば攻撃を中止し、翌六年四月上杉氏の降將下次右衞門をして志駄修理亮に開城を勸めしめた。志駄之を容れ城を渡して、櫛引大鳥山道より米澤に退いた。是に於て莊内は十四ケ年目にて再び義光の領となり、村山・最上・田川・飽海四郡を合せ其高七十萬石と稱せらる。景勝は會津百二十萬石より米澤三十萬石に轉封を命ぜられた。家康慶長八年(二二六三)二月十一日征夷大將軍に任じ、江戸幕府を開いた。
 慶長六年の最上勢庄内占領に當りて、雜兵羽黒に亂入して暴行したことを羽黒記録に書いてあるが信ずることできぬ。羽黒法頭清順は上杉方の探題であつたのが、最上氏領となつたからして米澤に引揚げた。
 (羽黒山中興覺書)
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此山別當院主長吏夏一職等越後勢ノ大將直江山城守爲下知 養藏坊清順ヲ押テ別當ニ定一山ノ執柄執行ス 清順ハ妻帶タルニ依テ瀧水寺ノ内院主屋敷ニ移住ス 麓ノ衆徒ニ深役ヲ掛 米打〈打ハ舂ノ誤リ〉普請等迄相觸ル 衆徒修驗等法衣ヲ着威儀ヲ不亂相詰ル 依之非義ノ新法ヲ止ム 此年ノ前後此山越後ト最上双方へ被掠奪及滅亡 本堂ノ内陣迄破リ寺ノ家財等被奪也
[#ここで字下げ終わり]
 (羽黒山舊記)
[#ここから3字下げ]
慶長五年子十月養藏坊清順羽黒辭別當米澤エ走ル庄内由利共最上義晃領トナル
[#ここで字下げ終わり]
 中興覺書の記事は信ずることできぬ事多く、羽黒修驗は清順の法頭を悦ばぬことは當然である。又最上氏の雜兵羽黒本社内に暴行したことも他に傍證すべきものが無い。此時莊内河南に兵戰無くして上杉勢は引揚げたからして、雜兵の亂入は信ぜられぬ。
 最上家の莊内併領後の羽黒は、周圍最上氏の領となつたので、三山は最上氏の外他領主の領地と境を交ふること無いからして、從來の如く探題長吏又は法頭を置く必要が無くなつた。依て爾後最上氏では之を置かない。
 上杉景勝は庄内を失つたと雖も、羽黒三山の信仰は變り無く、慶長十三年秋米澤領の農村の凋弊に關らず、羽黒の午王札には初尾を出さしめた。
 (式目)
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      條々
一諸勸進可爲停止但羽黒の牛王御札前代より有來由ニ候間存次第御初尾可出來
一外略ス
   慶長十三年秋
[#ここで字下げ終わり]

     七 羽黒修驗の不和と學頭尊量の切腹

 當桃山時代には出羽陸奧及び越後の諸城主が戰爭を交えた軍記が俄かに多くなつた。其重なるものは北越軍記・東國太平記・羽源記・永慶軍記・最上義光物語等であつて、何れも戯作本であつて多少の史實を根據として虚構附會したものである。依て之等の戯作本より其史實を摘出することは困難であるばかりで無く、正史と小説と混淆して正史を誤るものが頗る多いことを遺憾とするのである。依て之等の戯作本の記事は一切採用しない。
 次に羽黒の執行別當の系譜に二種あつて、一は羽黒山修驗廣法灌項[#「灌頂」か]傳持血脉、二は密法傳持血脉と題するものである。前者は天保中に編纂したもので、三山執行別當七十七世までを列擧してゐるが、慶長以前は信ずることできぬのが多い。且つ寛永以後に三山執行別當は妥當で無い。湯殿山別當は眞言方となつて分離したからである。後者は寛永中の宥俊に至るまで四十四世を擧げ、執行別當と云はないで金剛佛子大僧都法印としたのは前者に比して信ずることできる。左に當時代に於ける兩系譜を掲ぐ。
 (密法傳持血脉)
[#ここから3字下げ]
金剛佛子阿闍梨弘俊尊法坊
   (中略)
金剛佛子權大僧都慶海延命坊
金剛佛子權大僧都正法印盛永澤内坊
金剛佛子權大僧都正法印永慶澤内坊
金剛佛子正大僧都正法印永慶花藏坊
金剛佛子正大僧都法印慶俊寶善坊
金剛佛子正大僧都法印元慶薩曼坊
金剛佛子正大僧都法印宥源寶善坊
金剛佛子正大僧都法印源慶空照坊
金剛佛子正大僧都法印宥俊寶善坊
   (以下無し)
[#ここで字下げ終わり]
金剛佛子とは密教の灌頂を受けたものゝ稱である。
 (羽黒山修驗廣法灌頂傳持血脉)
[#ここから3字下げ]
三山開基驗道宗祖能除聖 (下略)
大法頭三山執行第二世金剛佛子尊法坊弘俊僧都
   (中略)
三山執行法頭第卅八世權少僧都延命坊慶海法印
三山執行法頭第卅九世澤内坊盛永法印
三山執行法頭第四十世權少僧都澤内坊永慶法印
三山執行法頭第四十一世權大僧都法印寶前坊慶尊
三山執行法頭第四十二世權大僧都法印華藏坊永慶
三山執行法頭第四十三世權大僧都法印寶前坊慶俊
三山執行法頭第四十四世權大僧都法印薩摩坊元慶
三山執行法頭第四十五世空照坊源慶大徳
三山執行法頭第四十六世權少僧都寶性院尊良法印
三山執行別當第四十七世寶前坊慶俊〈再任〉
三山執行別當第四十八世寶前院權大僧都法印宥源
三山執行別當第四十九世寶前院權大僧都法印宥俊
三山別當執行第五十世寶前院權大僧都法印天宥
   (以下略)
[#ここで字下げ終わり]
 古系譜では灌頂を受けた順序を以てしたので、金剛佛子とした。天保系譜では之を三山執行法頭又は執行別當と改めた。斯く改めた理由は寛永以降の湯殿山別當眞言四ケ寺の分離に對して、羽黒方は之を恢復せんが爲めに種々なる工作を爲したので、三山の執行別當なる稱呼は斯くして必要が起つたのである。依て三山執行別當なる稱呼は古くには無いことで、寛永後と雖も其稱呼の妥當を缺くことは、寛政年間の立札訴訟に於ても眞言四ケ寺にて抗辯した所である。
 執行《シギヤウ》とは一山の長官である。夏期九旬の間月山々上に登りて、日次の祭祀を勤行する役であつて、一夏中の山上祭祀を執行するにより夏一とも云つた。隨つて執行とも云つたのである。別當は五別當ありて各受持の集團寺院の經營に當る。執行別當なる名稱は古くよりあつたらうが、慶長頃に至りて始めて棟札記録などに見えた。執行と別當とは別人を以て任じたらしいが、慶長・元和の頃より一人にて兼任した。寶善坊は後ちの寶前院であつて羽黒本社の別當坊である。薩摩坊は後ちの智憲院、空照坊は後ちの正穩院であつて、何れも山上に在つて先達職である。天保系譜に法頭なる職名を用ひたのは最も不合理であつて代々の執行に斯る職名あつたのでは無い。
 之より先き羽黒衆徒は二派に分れて不和軋礫[#「軋轢」か]を生じた。之れが原因は天正以降莊内は最上・上杉兩氏の爭奪行はれ、其間に衆徒の間に最上派と上杉派を生じ不和を釀すことゝなつた。上杉方の首領は上旬永悦夏一代學頭寶勝院尊量で、他の一派は執行宥源・同宥俊である。此兩派は最上家の内訌にも關係あるものゝ如く、宥源は義光の長子駿河守家親の祈祷を司り尊量は三男清水大藏の祈祷を司つた。家親は關東方で大藏は大坂方で互に不和である。内部の實状は明かで無いが、斯る雰圍氣の中に軋礫[#「軋轢」か]を續け、尊量は終に慶長六年義光の莊内併領した頃に宥源・宥俊等を義光に讒訴した。之が爲め義光は宥源・宥俊は羽黒離山を命ぜられ、仙臺領松山に至り居住した。松山は陸前志田郡にあり。
 (羽黒山別當所大帳ノ寫)
[#ここから3字下げ]
慶長元和の頃迄ハ天下大に亂れて 武家の胸中不定 依之義光公の長男駿河守家親は大將軍家康公へ出仕 次男清水大藏大輔は大坂の秀吉公へ出仕なり 扨義光公より此山へ御祈祷被仰遣候ニハ 兄駿河守をは別當宥俊へ 二男大藏大輔をは學頭尊良へ被仰遣ニ付て 別當學頭不和の次第ニ相成騷動無止時 此故ニ學頭尊良謀計を企 最上へ出て義光公へ讒訴の次第有しかば 悲ひ哉宥源并弟子宥俊共に無實の罪に沈みて 無據離山して仙臺領の松山と云所へ閑居せり 然るに宥源・宥俊の怨念自然と義光公の枕元に立添て兩僧の俤毎夜夢幻にあらはれ 此爲に義光公いつしか御病煩狂亂の躰にて御座候故 最上諸寺社へ御祈祷有之といへとも其驗なし 義光公ふと胸中に思ひ當り玉へる一事有之 羽黒山の宥源・宥俊歸山致され候やう被仰越ニ付て 兩僧歸山有之 夫より彼御病腦平癒の御祈祷右兩僧相勤候に 間もなく御快氣有之 彌以御歸依不淺 依之重て被仰遣候ニハ 向後羽黒山長吏職院主夏一法頭職等に至迄別當兼帶せしめ 猶麓の諸仕置等可爲先規之通若違背の族有之は別當にて仕置可致の旨御印書被置候事
[#ここで字下げ終わり]
 (羽黒山舊記)
[#ここから3字下げ]
慶長六丑年羽黒山上旬永悦也夏一代學頭寶性院尊量執行寶前院宥源同弟子宥俊兩僧ヲ義光※[#変体仮名え]讒訴ヲ申上 離山サス 仙臺松山ト云處※[#変体仮名え]居住
[#ここで字下げ終わり]
 宥源・宥俊離山の年月は明瞭を缺き、慶長十年頃であらう。隨つて兩人の歸山の年月も明かで無いが、歸山後の山内は兩派の軋礫[#「軋轢」か]は愈々烈しかつたやうで、其最後の斷罪を述ぶる前に學頭寶勝院尊量について左に述ぶる。
 尊量は尊良ともあり、寶勝院は寶性院・寶星院ともありて、皆同一人である。學頭は修驗の學問所の頭である。
 (拾塊集)
[#ここから3字下げ]
      學頭室事
寶勝院爲[#二]學頭室[#一]智才道徳兼備之衆徒住[#二]居此院室[#一]兮修驗入護摩供并授[#二]持戒[#一]最於[#二]此院室[#一]修[#二]事之[#一]
[#ここで字下げ終わり]
尊量は羽黒の學頭職として最初に記録に見へた人で、傳記は左の通りである。
 (拾塊集)
[#ここから3字下げ]
      尊量事
尊量者紀氏人子 産[#二]常陸藥師寺[#一] 居[#二]千妙寺[#一]薙髮名[#二]宰相公[#一] 稟[#二]密乘尊増[#一] 不斷誦[#二]不動明王慈救咒[#一]耳 積[#レ]臘竟 居[#二]住寶勝院學頭跡[#一]耳 或時尊量附別行 曉時入[#二]道場[#一]加[#二]持本尊[#一] 阻[#二]障子[#一]移[#二]燈明[#一]照[#二]兒影[#一] 從[#二]全身[#一]生火炎 廼縛[#二]不動明王尊容[#一] 二徒有[#二]院室[#一]鮮視之語 聞人作[#二]奇異[#一]耳
[#ここで字下げ終わり]
 學頭尊量の居つた寶勝院は、三山雅集には五重塔の邊に在りて、道智尊量等の諸僧此所に居住した。又手向荒川寶勝院に住すとあり、手向荒町學頭屋敷福性寺は兼帶ともいひ、村山郡大井澤大日坊[#「大日寺」か]も尊量の兼帶だと傳ふ。 
 慶長十九年一月十八日最上義光病死し、子駿河守家親家督した。之より家親と最上郡清水城主清水大藏義親との不和爆發して、家親庶兄義親を殺害せしめた。之が羽黒にも影響して家親派の宥源・宥俊は勢力を挽回して義親派の尊量を極刑を以て處分するに決した。此刑は石子責《イシコゼメ》と云つて佛家にて行ふ刑であつて、其一二の例を擧ぐれば、奈良の寺院では鹿を殺した者を石子責の刑に處するので、土に穴を掘り、罪人の手足を縛ばりて之に入れ、僧徒は傍らに立つて讀經を爲しつゝある間に、衆徒は多くの石を投じて殺すのである。又越後上杉氏天文二十二年下知文に「強奸盜賊穢多と交りし男女双共 以上石子責」とありて、その方法は從來繁き道路の傍に穴を掘り、罪人を眞中に立たしめ杭に縛りつけ肩より上を出させ、其餘は石にて埋め、朝夕の食事は番人をして賄はしむ。凡三晝夜位にて免さる。然れども生涯不具者たるを免れずといふ〈越後風俗考〉。羽黒の石子責は往來繁き道路傍に穴を掘り、※[#「木+怱」、第3水準1-85-87]《タラ》木の刺《トゲ》あるを以て簀を作り、之にて罪人の身体を卷き、穴に入れて石を詰込むのである。
 尊量の石子責の處刑は慶長十九年四月某日と決した。然るに尊量は石子責の慘刑に遇はんより切腹するに及かずと決心し、四月十五日在廳眞田式部の宅で切腹を遂げて歿し、其徒黨を離山せしめた。
 (羽黒山古記抄)
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元和元乙卯年寶性院尊良斷罪有べき由にて たらの木の箔に卷き 石籠積に可行段 山麓ハ勿論庄内末派の山伏 たらの木一本石一つ宛持參すべし 若遲參の者共ハ同罪の旨別當所より觸相達す 仍て尊良自身ら切腹す 別當より檢使として役人差出す 眞田式部にて切腹させ 徒黨の輩離山可仕由申渡す 宥源宥俊慈愛にて漸く山麓治るなり 寶性院後住良譽移住す 其後宥俊代良譽病死す
[#ここで字下げ終わり]
 眞田式部は羽黒の在廳である。在廳は訴訟を司どる役で主典代廳官の宿老を以て任ずと拾塊集にあり、尊量の眞田宅にて切腹したのは之が爲めである。尊量の墓碑は荒町學頭屋敷と稱ふる福昌寺趾に立つてゐる。
[#ここから3字下げ]
      慶長十九年
(梵字) 學頭寶量院尊量
      四月十五日
[#ここで字下げ終わり]
 此碑は臺棹とも天然河石であつて後世に建てたものらしい。
 之れで羽黒騷動は解決した。是に於て最上家親は同十九年七月十八日寶前坊執行宥源に法三條を達して一山の事は寶前坊執行に一任して、庄内の城主奉行は一切關渉せざること、寶前坊の命に服せざるものは追放に處することを嚴達し手向百石松尾村五十四石八升の田畠を寳前坊宥源に授與した。
 (正善院記録)
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羽黒山別當職宥源※[#変体仮名え]被仰付候日取上駿河守殿御判寫本書は尊重院御代南谷にて燒失之由
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一羽黒山手向之儀養藏坊異見如申候寶前坊職被宛行候條羽黒一山中庄中奉行不可手入事
一於一山中寶善坊職諸異見違背之輩は則山中可致追放事
一まとう村之内百石手向之内田畠共ニ五拾四石八升寄進之儀至子々孫々迄致知行有之間庄中より外にては鳥鹿可爲自用事
右之條々宛行所實正也仍状如件
  慶長十九甲七月十八日             家親 判
    寶前坊職執行宥源
[#ここで字下げ終わり]
 此文書は多少疑問の存するものであつて、執行に一山の權力を保持せしめんとする僞書であらう。殊に本書は燒失したといひ、又山上の修驗僧は無妻の清僧であるに家親寄進の田畠を子々孫々に至るまで自家用に供せよとあるは最も疑はしい。
 前記の羽黒山別當所大帳に向後羽黒山長吏・院主・夏一・法頭の諸職を別頭兼務すとあるは、古來武藤氏・上杉氏・最上氏にて置いた長吏・法頭・院主等の探題職の廢絶したるを取りて別當兼帶としたので、同山の不名譽を糊塗せんが爲めの方策に出たものである。羽黒山舊記の上旬永悦も其名ばかりで實務は廢絶したものであらう。

     八 最上義光月山・羽黒山の諸堂塔を修築す

 慶長五年以後は天下は徳川氏一統の世となり、領主の版圖は固定し、再び戰爭を見ること無くなつた。義光は新領土庄内の整理に着手し施政上見るべきもの多くある中に、當山に關する重なるものは、社寺の修築、檢地、新田開發、社寺領寄進などである。
 義光の最初に堂塔修築に着手したのは、慶長六年であつて、月山社の造立で七月末日に竣功遷宮を行つた。
 (棟札寫) 棟札の殘存するものは(棟札)と題し、現存せざるものは(棟札寫)と題す以下之に從ふ。
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(表面)
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聖主天中天迦陵頻伽聲  地門天時遷王  棟梁稼彫刻添削取持本願
            新殿並數號照  喜吽時大工小澤五郎兵工光祐判
哀愍衆生者我等今敬禮  内殊不動長代座 脇大工濟主計判
梵字 (彌陀の眞言)
右奉爲月山御社御造立意趣者天長地久殊者篤信大檀越源朝臣最上出羽守義光修理太夫義康息災延命武運増進威光自在十二郡中悉皆掌裏上和下睦子孫繁昌一一求願如意滿足攸
 干時慶長第六〈六歳/辛丑〉暦夷終日時之御祈祷僧御遷宮法主
   湯殿月山羽黒三山執行宥源並山麓大衆敬白
[#ここから3字下げ]
(裏面)
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一切皆善   一切宿皆賢  諸佛皆徳
羅漢皆行滿  以斯誠實言  願我成吉祥 文[#「文」はベースライン右寄り]
[#ここで字下げ終わり]
 出羽國十二郡を悉く掌裏にしたいの祈願は戰國の武將らしい志望である。義光は月山々上御室より工事に着手し、次第に麓に及ぼし、同十年三月三日羽黒本社の修覆に着手した。普請奉行井上午之助・大工頭小澤七郎以下山形より差遣し、最上・莊内・由利より大工百五捨餘人を募りて工事を起し、翌十一年五月廿八日棟上ゲを行ひ同年中に完成した。
 (羽黒山舊記)
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慶長十巳年羽黒山本堂義晃修覆 三月三日より始 同十一年五月廿八日棟上 普請奉行井上午之助大工頭山形住人小澤七郎 此時大工小屋にハヅシ置タル繪馬噺ク今本堂左右ニ掛ケアリ
[#ここで字下げ終わり]
 (羽黒山中興覺書)
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一慶長十年乙巳義光公羽黒本堂御修覆事始有 材木杣取人夫六百人山上運送最上莊内由利ノ人夫詰ル 三月三日ヨリ十六日マテニ引調普請奉行井上牛之助也 此人下對馬守力士也 大工惣頭山形ノ住人小澤七郎 後ニ小澤若狹ト改名ス
[#ここで字下げ終わり]
 (羽黒本社棟札寫)
[#ここから3字下げ]
 (表面)
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        出羽大泉莊羽黒寂光寺
聖主天中天  大行事帝釋天王  時之執行寶前院宥源
迦陵頻伽聲  碑文珠師利菩薩  時之夏一寶星院尊量
[#ここで字下げ終わり]
(梵字) 奉泰物戒師聖觀自在尊御堂修造大檀那出羽守源義光 敬白
[#ここから9字下げ]
表愍衆生者 惣行事普賢菩薩 大工[#「大工」はベースライン左寄り] 五郎兵衞光祐
我等今敬禮 證誠我承仕大梵天王    羽藤次郎家久
 羽黒開山能除大師照勝四年戊辰申慶長十一稔〈丙 / 午〉迄千十九年
[#ここから3字下げ]
(裏面)
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  頭領 八郎左衞門實重  小屋之大工  〈與右衞門/彌左衞門〉
  并  次郎左衞門    日帳筆取   助五郎
惣番匠衆 最上莊内油利郡合百五十餘人而貳季之成就也
 時奉行      肝煎 〈甚兵衞/七郎左衞門〉
  氏家雅樂尉安滿
  大河原十郎兵衞重安  手膓奉行 〈眞田式部少輔/眞田七郎左衞門〉
  小出三彌|出《?》政
[#ここで字下げ終わり]
 前記月山社の棟札と共に現存しないで寫が殘つてゐる。棟札は建築年月、領主、社寺職、奉行、棟梁などを知るに於て有力なる史料である。時の執行は宥源で、夏一は尊量であるを見るに、執行と夏一は古くは同一人であつたのを後に至りて執行と夏一を別人とし、後には夏一なる職名は無くなつたものらしい。梵字(サ)は觀音で羽黒山本尊である。大工五郎兵衞光祐は山形の小澤若狹であり、大工波藤次郎家久は塗師であつて、波藤次郎の子孫今手向に殘り石井を姓としてゐる。裏面の手腸[#「手膓」か]奉行は手帳奉行であらう。眞田式部少輔は手向の醍醐坊、同七郎左衞門は玉藏坊である。
 羽黒山より月山に登るに、吹越峰中堂より少しく荒澤に下たる。古松老杉鬱蒼として繁れる間を流るゝ溪流を影見川といひ、月山登山者の心神を清むる所としてゐる。不動堂を中心として庚申堂・大日堂・十王堂・常行堂・地藏堂等ありて、不動堂は慶長十一年七月上旬義光再建の棟札あり。
 (荒澤不動堂棟札寫)
[#ここから3字下げ]
   時代 源朝臣出羽守義光公
奉再建御室同本尊不動 本願經堂崇春敬白
   干時 慶長十一丙午七月上旬
[#ここで字下げ終わり]
此外地藏堂御影堂(開山堂)及び羽黒荒澤諸堂社の修覆を行ひ、用材は羽黒本社の古材木を用ひた。
 (羽黒山中興覺書)
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
一慶長十一年本堂ノ古材木ニテ荒澤地藏堂御影堂御修覆 其外羽黒荒澤堂社御破損有
[#ここで字下げ終わり]
 三山雅集にも開山堂・釋迦堂・地藏堂は義光慶長中の再興とあり、但し釋迦堂は慶長十四年十月十六日義光の新造なれば後に述ぶる。
 一般に社寺の棟札の形式は一定し、狹長なる板の上を三角にし、上幅より下幅を狹くし、右に聖中天云々、左に迦陵頻迦聲云々の文字を書き、其他所要の文句を書くのが普通である。此形式は修驗道の諸書に棟札の雛形字句を載せて、弘法大師の創作としてある。聖中天、迦陵頻迦以下の四句は本尊の佛徳を稱讃したものである。
 羽黒本社の落成した慶長十一年六月義光は羽黒山に參詣すと舊記にあるは信じられない。羽黒の諸堂塔は燈火並に護摩柴燈盛んであれば、時々火災に罹り、麓の五重塔・黄金堂を除いた外は徳川以前の建物は一切無いのである。屋根の茅葺であるのも其一因であるに相違無い。慶長十三年荒澤の堂三棟燒失した。同十四年十月義光は釋迦堂を新造したのは其一つであらう。其他も義光再建した。
 (羽黒山舊記)
[#ここから3字下げ]
慶長十三荒澤堂三ツ炎上拂川五重塔義晃修覆也
同十五荒澤堂三ツ義晃公再興
[#ここで字下げ終わり]
 (荒澤北ノ院内釋迦堂棟札寫)
[#ここから3字下げ]
(梵字)〈秦物戒師釋迦牟尼如來御堂/新造大檀那出羽守源義光敬白〉
[#ここから7字下げ]
慶長十四年巳酉十月六日 荒澤山荒澤寺北之宿日情
            時之大工 若狹守光祐
[#ここで字下げ終わり]
 義光の堂塔修築は此外にもあらうが明かで無い。五重塔の修理については別に述ぶる。以上の諸堂塔の大工棟梁は山形住人小澤五郎兵衞と云て、若狹守に任じ、最上家の御用大工で、義光が莊内に下だして羽黒を始めとして田川郡金峰山本社等の工事に當らしめた。

     九 最上義光五壁塔を修築す
          附 義光の慈恩寺三重塔新造

 五重塔の創建は正和元年(一九七二)か或は永和二年(二〇三六)であつて、何れが正しいかは判斷できぬが、鎌倉末期より室町初期の新建であることは前編に述べた。其後慶長末には二百八九十年を經たからして、修繕を要することゝなつたのは當然である。慶長十三年(二二六八)義光は羽黒五重塔の修理と村山郡慈恩寺三重塔の新築に着手し何れも同年中に完成した。
 (羽黒五重塔棟札寫)
[#ここから9字下げ]
聖主天中天  大行※[#「古/又」、第4水準2-3-61]帝尺天王
迦陵煩迦聲  碑文殊師利菩薩
[#ここから3字下げ]
(梵字)奉參物戒師聖觀自在尊御塔修造大檀那出羽守源義光敬白
[#ここから9字下げ]
愛民衆生者  惣行※[#「古/又」、第4水準2-3-61]普賢菩薩
我等今敬禮  證戒師大梵天王
〈出羽國大泉莊羽黒山/塔之開白尊藏上人〉 瀧水寺時願主寶生院尊量
應安二年發願同十月晦日柱立永和ノ四月廿七日九輪上又慶長十三戊申同九輪上同十月四日成就畢
         大工    五郎兵衞光祐
         羽戸    藤次郎家久
         同     治郎左衞門
[#ここから7字下げ]
 大工奉行     手膓奉行  眞田式部少輔
  氏家雅樂尉    日帳判取 助五郎[#「日帳判取 助五郎」はベースライン左寄り]
  小出三彌
惣番匠 庄内由利郡合八拾四人一年成就
 善浪五郎 
 後部彌治右衞門  眞田七郎左衞門 〈甚兵衞/彌治右衞門〉
 治賀井治右衞門
[#ここで字下げ終わり]
 (羽黒山中興覺書)
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
一慶長十三年戊申瀧水寺塔修覆人夫庄内中ヨリ詰ル 大工頭小澤若狹也 一ノ坂ヨリ塔ノ五重迄梯ヲ渡足代自由ニシテ眞柱ヲ引上下シ立ル
一同年秡川欄干橋掛直ル 大工頭小澤若狹也 本堂修覆ヨリ橋ニ至迄大工惣肝煎ハ石井羽渡次郎荒澤大工孫右衞門也
[#ここで字下げ終わり]
 今次の五重塔修覆の程度は詳かで無いが、前記の記録によりて推考するに、大工事であつて、塔より羽黒に登る東方一ノ坂より懸梯を設けて材料を上層に運搬したのは、地形を利用したことであらう。殊に心柱を替へたので之も懸梯にて運び五層上より中央に卸したとは果してできることであるかを疑ふのである。只心柱を取替へたことだけは知ることができる。屋頭の九輪も此時に替へたので、懸梯に※[#「てへん+處」、上p111-9]る[#「據る」か]外無いであらう。最部の構造について今回の修繕箇所については、第五編第四章を參照されたい。
 手向芳賀氏に五重塔風鈴一個を所藏してゐる。鈴の高さ八寸、口徑四寸八分、鐵製鑄物で左の鏨銘あり。
 (五重塔九輪風鈴)
[#ここから3字下げ]
羽黒山瀧水寺
     塔之鈴
 慶長十三季七月〈二十/七日〉
    九輪上
[#ここで字下げ終わり]
 奈良法隆寺宇陀郡室生寺の五重塔は九輪に鈴を吊してあり、室生寺五重塔には九輪水煙寶珠の上に天蓋ありて天蓋の周圍にも鈴を吊してある。羽黒五重塔の鈴には九輪上とあれば天蓋やうのものに吊したか、現在の九輪は元祿修繕の時のもので、慶長十三年の露盤銘の傳はらぬは遺憾である。五重塔棟札に左の寫を傳えてゐる。
 (庄内物語)
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     出羽國大泉之庄内羽黒山五重塔棟札
天慶年中平將門以本尊地藏※[#「くさかんむり/廾(右下に丶)」]之像荒澤安置之 其後平高時正和二年建立 大寶寺武藤讃岐守藤原政氏再建 人皇百一代圓融院之御宇永和二年六月入佛 本尊大自在※[#「くさかんむり/廾(右下に丶)」]南部運慶作 慶長十三年七月廿七日出羽寺義光修造志村伊豆守光安下對馬守康久
[#ここで字下げ終わり]
 此棟札寫の眞僞は明かであつて、普通の棟札の樣式を爲して居らぬ。然らば前記の信ずるに足る所の棟札寫があるに係らず、何故に斯る棟札を造つたかは其目的は明かであらう。左に參考の爲め羽黒五重塔修覆完成と同時に新建完成した村山郡白岩慈恩寺三重塔の棟札を掲ぐ。
 (慈恩寺花藏院文書)
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  敬白         大工   菊地紀左衞門
  奉造立三重寶塔一基  脇大工  菊地源左衞門
  太歳         大導師  華藏院法印宥參
慶長十三年夷則廿八日大施主源朝臣出羽守義光
  戊申         本願   寶藏院法印※[#「土/口/十/口」、上p112-14]良
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右造立意趣者奉爲信心御願主出羽國主義光公息災延命武運長久御子孫繁昌國家安全萬民豊樂總者現當二世悉地成就
一々吉祥皆令滿息仍意趣如件
[#ここで字下げ終わり]

     一〇 最上義光の社領寄進

 義光の社寺修築に次ぐものは、莊内の檢地である。飽海郡の檢地は龜ケ崎城主志村伊豆守の臣進藤但馬守、田川郡は大山城主下對馬守の臣日野備中守をして檢地奉行とした。慶長十六年五六月頃より着手し同十七年八月頃完了した。天正十八年豊臣氏の檢地より二十年後である。義光所領の檢地を行つて新墾地に税を課し、租税の増收を圖り、又立谷澤川より灌漑堰を開鑿して最上川南岸地帶の原野開田を企圖した。之れが狩川城主北舘大學の擔當で完成したれば大學堰と呼んだ。檢地と古來の社寺領との關係を檢討するに、各社寺には古來地方の領主より寄進された領地を所有して居つた。義光は悉く之を檢地測量して反別高と租税高を定め、改めて社寺に寄進する形式を取つた。夫々義光の認めた寄進状を社寺職に交付した。依て其社寺領を義光黒印地、寄進状を義光黒印と呼ぶのである。義光黒印地を有する莊内の寺社數は五十箇所であつて、黒印地の總高三千四百七十三石七斗六合で、其中の最高は千五百石二斗九升一合の羽黒山寂光寺領である。其外は悉く百五十石以下である。最上氏領内では二千八百十二石二斗慈恩寺が最高で羽黒は第二位、千四百二十石の山寺立石寺が第三位である。
 (羽黒山古記抄)
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一最上出羽守義晃庄内由利郡等を伐取國中無爲の以後羽黒山衰微のよし被聞召 古來より羽黒山へ由緒の地之内高千五百餘の所を寄附せらる 高の内村杉料高三百石別當料 其外清僧之衆徒禰宜社人神子等ニ至迄配分御黒印の御證文被成下 其頃最上莊内之寺社料被下候 庄内領の檢地を竿打有之 羽黒領分地行等の書付別當所へ納置
[#ここで字下げ終わり]
 (羽黒山舊記)
[#ここから3字下げ]
慶長五年子十月養藏坊清順羽黒辭別當米澤※[#変体仮名え]走ル 庄内由利共最上義晃領とナル 此時羽黒社領千五百石余ノ處黒印出ル
右社領は往古ヨリ附來也
[#ここで字下げ終わり]
 文祿三年(二二五三)九上杉景勝庄内を領した時に定めた羽黒領高は八百六十一石三斗丸升であつた。其後十八ケ年を經て慶長十六年(二二七一)の檢地にて千五百石二斗九升一合となつたとせば六百三十八石九斗〇一合の増加となつたのは多過ぐるやうに覺ゆ。假令新田開發あつたとしても斯く多くなつた理由は他にあるだらうが明かで無い。
 義光黒印の寄進状は別當以下の衆徒に配分して祈祷掃除其他の料に寄進したので、其黒印状は約六十通あつた。之等の黒印状は寛文年中徳川幕府にて朱印下附の爲め領地調を差出す時に、各寺院の義光黒印状を悉く羽黒本社に差出さしめた。之より本社に保管したのが本社火災の爲めに烏有に歸したとのことである。依て今本書は一通も殘存しないで、只僅かに寫二通あるばかりである。
 (自坊記録)
[#ここから3字下げ]
九石五斗五升四合
但半物成附置候於山中之役不可及由斷候者也仍如件
  慶長十七年             出羽少將(印)
     六月四日
       羽黒山  的立
爲灯明供物等之料九石旨但半物成寄進候彌以祈祷不可有由斷候者也仍如件
  慶長十七年六月四日       少將出羽守
                    義光 (印)
    羽黒山大善坊
[#ここで字下げ終わり]
 前記の的立は手向池中町の南裏にある自坊のことで、羽黒三ノ坂八幡社の流鏑馬を手向的場小路にて毎年四月八日に行ふ時に、的を立つることを司つた。依つて的立と云つたのである。
 社領千五百石餘は田地であつて、其所在地は庄内各地に散在してゐるが、其部落名は徳川時代以前には書いたものは無い。只左記の寫一通あるばかりだ。
 (莊内史料)
[#ここから3字下げ]
  無音村年具之覺

一四百四拾四石七斗升者
    此内
  貳石壹斗七升八合ハ    算用違引
  壹石六斗ハ        苗代 付引
  六拾九石七斗一升ハ    羽黒塔別當領引
 當納三百七拾壹石三斗貳合ハ
    右之内
 百九拾六石ハ御加増之分
    (外略)
右地所相渡者也仍如件
  慶長拾七年           進藤但馬(花押)
     十一月廿七日       原 美濃(同)
   北舘大學殿
[#ここで字下げ終わり]
 以上の田川郡|無音《ヨバラズ》村は狩川城主北舘大學の領地であつて、慶長十七年の檢地にて百九十餘石増加した。其總高の内六十九石は羽黒塔即ち五重塔別當の領分である義である。

     一一 羽黒修驗道の組織

 慶長元和以前の羽黒の修驗道組織を知ることは至難である。何んとなれば當山の修驗道に關する記録は悉く徳川時代のものばかりであるからである。然るに拾塊集[#「拾塊集」に黒丸傍点]といふ書ありて元龜年中夏一職清順が六所神社の文箱より發見したと稱するものであるが、後世の僞書であることは前編に述べたのである。此書に羽黒開山修驗道の開祖及び傳統職別などを述べてあつて、著者は元龜以前のものとして僞作したものであれば、此書の内容を元龜以前のものと見ることができると思ふ。されど後世の僞書であれば悉く信ずることできぬは當然である。依て慶長元和以前のことを考ふべきものは此書ばかりであれば、此書について徳川期以前の當山修驗道の輪廓だけも知つて見たいと思ふ。
 拾塊集の所説では本地佛埀神説と本地神垂佛説を更に混淆したのであつて、眞身を玉依姫《たまよりひめ》、垂跡を月山|葉山《はやま》寂光《じやくわう》山(羽黒山)として三社權現と唱へ、眞理原本を彌陀(月山)・藥師(葉山)・觀音(羽黒山)とし、以上三尊は何れも毘盧舍那佛(大日)の内證とした。斯く湯殿山を除いて葉山を三山に入れたのは、寛永・寛文訴訟にて湯殿山別當四ケ寺分離後の僞書である所以である。此書に三山を開いたのを蜂子皇子とし、皇子が羽黒より月山に登る經道を縷説したのは、室町期の羽黒山縁起に據つたものである。同書に起修驗と顯して修驗道の秘奧は蜂子皇子(能除太子)に開かれ、役小角・弘儁・聖寶・宗圓に傳へ、聖寶は大和金峰山に入り宗圓は月山補陀落山に入つて道場を開いたとあるは信ずるまでも無いことであるが、聖寶は眞言宗で宗圓は天台座主三井寺阿闍梨位也とあれば、羽黒修驗道を以て眞言・天台兼綜とした。この僞書の主旨は眞言・天台兼綜にあるので湯殿山分離を恢復せんとするのが目的である。
 總べて修驗道は種々多數の行事を設けて、修行者は此多數の行事を一々順を追ふて修行して行く間に、自ら精神の統一ができて、即身成佛の最後の目的に到達するのである。斯る多數の行事を悉く修行するには、多數の年數を要し、其修行年數に應して位階服裝を異にして行くのである。
          寺院坊宿
 羽黒は山上と山下に分れ、山上とは羽黒山上にて、山下は手向部落である。寺及び坊は山上と山下にありて、山上に住居する者は清僧であつて修驗を兼ね僧躰にて無妻※[#「くさかんむり/冖/木」、第4水準2-14-42]食である。山下に住するのは修驗で妻帶肉食である。山下にも二三の寺あつて清僧も居つた。修驗を概して衆徒と云つた。寺坊の數は古來變遷あつて、古へは山上十二坊山下七坊であつたが、慶長元和の頃には、山上二十八坊山下三十六坊となり、衆徒數三百六十餘人となつた。山上の荒澤三坊は二十八坊の外で清僧である。依て清僧の寺院は弟子が嗣ぎ、麓即ち手向の修驗は子孫代々家督する。手向には又一世行人の坊舍あり。
          入峯《にふぶ》と位階
 羽黒衆徒は僧と修驗を兼ねたもので、僧位と修驗位は別であるが、兩位連繋して同時に授けられる。又職名も同樣にして、皆漸次に昇進する。
 修驗になるには小兒の時に得度即ち出家する。得度の作法は吉日を選んで龜鶴臺を飾り酒美を備へ衆徒を招請し、高僧を選んで師と爲して薙髮し、公名と諱を師より貰ふ、之れで始めて太業の位を授けらる。氏名を大板に篆字にて書き本社に掛け大業誌符を受ける、之より神前の祭事に勤仕し峯中を勤める。法華三十講を修持すれば傳燈阿闍梨に任じ、官は權律師、職は權少僧都となる。爾後は峰中勤行の度數によりて昇進する。
 太業《タイギヨウ》、番乘《バンノリ》、入峰《ニウブ》を三役と云つて修驗と爲るには最初に必ず此三役を勤めなければならぬ。太業は修驗になつた資格で、番乘は五人づゝ本社の輪番を勤め、入峰は七十日の峰中修行にて別に述ぶる。この入峰は一年秋期一回づゝ三十六回まであつて、繼續して勤行すれば三十六ケ年を要する。左に入峰度數による階位と入峰終了後に於ける僧位修驗位の昇進、之に準ずる袈裟の位階別を述ぶ。僧位は法橋、法眼、法印、僧正などで、修驗位は法師、律師、阿闍梨、僧都、上人、僧祗、大越家、先達などである、左記は拾塊集に據る。
          入部次第
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初入     新發心    新客
二度     入峯     大徳
三度     度衆     山栖
四度     入位     結縁
五度     住位     我見
六度     修行位    觀音力
七度     誦持位    道分
八度     滿位     峯居
九度     法師位
     一僧祗
右九度の入峰を修むれば始めて 一僧祇 權律師 權少僧都に任し 上人 の行人位に進めらる
     二僧祇
十八回の入峰を終えたるもの  二僧祇 律師 權少僧都 法橋 に進めらる
     三僧祗
二十七回の入峰を終えたるもの 三僧祇律 權少僧都 法橋 に進めらる
     大越家《ダイオツケ》
三十六回入峰を終えたるもの  大越家 律師 權大僧都 行人位は法印

受大業誌符   官 權律師   職 權少僧都
入大版篆書   官 律 師   職 權少僧都 
勉五六講事   位 阿闍梨  〈官律 師/職 權少僧都〉
   ○五六講は三十講である
阿闍梨法印權大僧都  松仙  和尚
  袈裟     金襴   五條   七條
  素絹          白色   木蘭色
阿闍梨法印權大僧都  小先達  和尚
  峯中役者導師小木閼伽|驅《(狩)》
大阿闍梨法印權大僧都  碩學  和尚
大阿闍梨法印權大僧都  大先達 和尚
  袈裟     金襴   五條   七條
  素絹          白色   柿色
大阿闍梨法印權大僧都  夏一  大和尚
  袈裟     金襴   五條   七條
  素絹          白色   柿色
大阿闍梨法印大僧都  執行  大和尚
  袈裟     金襴   五條   七條
  素絹     黄色   青色   柿色
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 三十六回の入峰修行を終えたものは始めて金襴袈裟を允さる。其前は普通の袈裟である。修驗の袈裟は結袈婆と云つて、素地は絹で黄青柿の三色で、幅狹い帶状のものを輪にして、五六ケ所に束房(直垂の菊綴の如きもの)を着け、之を篠懸《スヾカケ》の上に首より前に垂れ、後方に結紐を垂れる。篠懸とは素襖の如き半衣にて兩袂の端に絲總を着け、山路を分け行くに便にした。
          要職と職掌
 羽黒の職名にも變遷あつて、長吏又法頭などの職あつたことは前編に述べた。次に徳川時代に前後を通じて用ひられた執行別當以下の職名の起原は明かで無いが、徳川時代以前より用ひられたことは明かである。左に拾塊集により要職について解説を試みる。
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〔執行《シギヤウ》〕 一山の長官である。古へは衆徒の戒臘次第によりて此職に任ぜられた。戒臘とは受戒經歴の古いことをいふ。中世には五先達の中上坐を以て執行定位と爲した。四季の入峰行事中で夏期のみは月山々上で施行するので最難行事としてある。この夏期九十日の月山廣前に於ける日次の祭祀は執行の勤行である。之を夏一職といふのである。若し執行事故ありて月山々上の勤行できぬ時には、他の職のものが夏一を勤むるのである。七月十三日柴を焚いて天を祭る。之を執行するよりして執行といふ職名ができたそうだ。
〔五先達〕 五先達宿と云ふのが本名で、先達とは先きに其道に達した尊稱である。山上の坊が之に當り世襲である。其五先達の坊名は左の通りである。
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寶善坊宿  後ちの寶前院    華藏坊宿  後ちの華藏院
薩曼坊宿  後ちの智憲院    空照坊宿  後ちの正穩院
澤内坊   天宥の時廢す
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徳川時代には三坊となり大先達と唱へた。
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〔夏一職《ナツイツシヨク》〕 前に述べた通りで執行の役であるが、若し闕役の時には衆徒の中より秀智有徳の人を選任す。夏入峰にて九十日間月山々上にて祭祀を勤行する最重の役である。月山々上の日次の祭祀を執行するより役名執行と云つたのである。拾塊集に 七月十三日焚柴祭天是即曰執行 とあるは山上の焚燒は最も重い行事であるからである。焚柴祭天は佛教の柴燈を支那書經舜典の更岱宗柴に復古したので吉田神道の影響である。
〔座主會《ザシユヱ》〕 五先達の中より一年中の座主一人を定め、又所司ともいふ。所司先達より四先達宿にて順次に地天泰の行事を行ひ、三月三日會合して式宴を設け天長地久を祈る。之が春の峰中である。式の内容は極秘とす。
〔學頭〕 一山の學府であつて瀧水寺寶勝院を以て學頭室とす。才徳兼備の衆徒此院室に住居し修驗護摩供持戒等は皆此室にて修學す。五先達以下秘密の行事及び儀規は學頭より相傳を受く。
〔在廳〕 山内の訴訟裁判を司る。
〔御師《オシ》〕 神の使令を司る。
〔阿闍梨《アジヤリ》〕 太業が太業誌符を受領し、峰中勤行大殿官仕を遂げ、三十講を修持する。三十講とは無量壽經一卷法華經二十八品普賢觀經一卷合計三十卷を三十日に講ずることである。精しいことは睡中問答に記してある。五六講とあるは三十講のことである。太業が三十講を修講すれば、傳燈阿闍梨に任じ、官は權律師、職は權少僧都となる。
〔鍵取《カギトリ》〕 本社内陣の鍵を取扱ふ。山上荒行十二坊より選ばれ、在役中は拂川より外に出ることを禁じ、金襴地裟袈を着用す。
〔別當〕 拾塊集に別當職者武藤屋形自神代干今至迄相傳也 三長吏定雜務滿山共隨此權威名三旬何俗躰也 自神代如斯とあり。之によれば別當は始めて武藤氏の置いたもので、武藤氏又は藤嶋土佐林氏別當を勤めた。又三旬長吏を置いて雜務に當らしめ滿山其權威に隨つた。依て案ずるに別當長吏は僧侶修驗にあらずして俗躰を爲したので別當長吏法頭は皆領主の置いた探題職である。城主の別當は明かに探題であつて全山を政略上總管したので法務に與つたもので無い。長吏は領主が手向に置いた監視役で法頭も同じである。依て古くは羽黒は別當といふ職名無く、後世の領主の探題名稱にできたので、之を三山執行が取入れて三山執行別當長吏法頭などゝ唱ふることになつたが、別當以下の實務は無いのである。徳川時代に羽黒に五別當又は七院主とあるは何れも數ケ寺の總管の義である。
〔頭髮〕 執行學頭は除髮、五先達は初めは髮を蓄へ一寸八分の長さとす。九度峰中勤行後は除髮さる。其他の山上山下の修驗は蓄髮で十二月大晦日の松打《マツウチ》には皆除髮する。
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          入峯《にふぶ》と碑傳《ひで》
 修驗道の最終目的は即身成佛にあるが、此目的を達成する方便として複雜なる行事を作つた。徳川時代になつてからは之を規定したものに年中行事と峰中記があつて、年中行事には一ケ年日々の祭祀祈祷を規定し、峰中記には秋峰中の行事を規定してある。然るに徳川期以前には之等の行事を記載したものが無いのである。羽黒は古來修驗山として名あるものであれば、之等の行事を規定したものは必ず在つたのである。文祿・慶長中に年々の峰中行事終了と同時に吹越《ふきこし》に立てた碑傳の銘文を見ると、峰中行事は徳川期と略々同じであつた。依つて徳川期以前の行事規定は古い時代より在つたのを漸次修正増補を加へられて後世に至つたもので、後世の行事規定の骨子は古代のものであらう。斯く思はるゝが古代の行事を書いたものが無ければ、今茲に古代の行事として述ぶることはできぬ。依て左に羽黒修驗道の信仰的觀念と組織を述べて見る。
 修驗道も密教であれば大日如來を本尊とすることは同じである。大日如來は原名|摩訶毘廬遮那《まかびるしやな》で、大日は其譯で、又|光明遍照《くわうめうへんぜう》とも譯す。修驗道の最終目的である即身成佛は大日如來の信仰によりて達することができる。即身成佛とは肉身のまゝに成佛することである。人身は身心兩部より成るを以て、此兩部の慾を根絶して始めて佛道に入ることができる。兩部の慾を絶つには人間界を離れて、粗衣粗食即ち木ノ葉の衣を着け、穀物を絶ちて木ノ實を食とし、深山幽谷に籠りて各自尊崇する所の諸佛を會得修法に努力し、其本尊佛の力を借りて信念を強固にし又天然の追害を避くるのである。天然の迫害とは寒暑・雨雪・動物・病氣等をいふ。依て諸佛には各別種の佛徳を備ふるのであれば、之等の諸多の迫害に耐ふるには多くの佛を尊崇する必要あるので、身には胎藏界曼荼羅、心には金剛界曼荼羅となるのである。其中にも不動明王は大日如來の化身で火焔利劍羂索を以て難行苦行の護持者である。
 羽黒修驗道の重要行事は峰中《ぶちゆう》であることは何れの修驗道に於ても同じである。峰中は入峰《にうぶ》といふのが本名で、春夏秋冬の四期に行ふが春夏冬は羽黒の重役だけで行ひ、秋期のみ一般信徒と行事を行ふ。依て普通峰中といへば秋期を指すのである。春峰《はるみね》は正月五日より九日に別當大先達其他にて行ふ座主會《ざしゆゑ》である。夏峰《なつみね》は九旬の間執行、即ち夏一職は月山山上の勤行にて、一般民衆の登山參詣あり、秋峰《あきみね》は即ち七十五日の吹越峰中堂で行ふ所の難行苦行である。冬峰《ふゆみね》は十二月大晦日に羽黒山上にて行ふ所の驗競《けんくらべ》であつて俗に松打《まつうち》ともいふ。
 以上の四季峰中を始めとして年中行事の儀規は秘密であつて、細かい事は口傳である。總て羽黒の行事は寶勝院學頭で調査を遂げ、學頭より山上の五先達を始めとして山上山下の衆徒に傳受する。
 (拾塊集)
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一當山秘密修驗護摩自[#二]先規[#一]五先達其從[#二]學頭[#一]受[#二]相傳[#一]
一山上十二坊修驗護摩燈移[#二]任坊舍[#一]※[#「古/又」、第4水準2-3-61]寶性院受相傳
一山上二十八坊手向三十六坊舍之衆徒何修驗護摩燈※[#「古/又」、第4水準2-3-61]手向福生寺受[#二]相傳[#一]
一當山一派之修驗道驗者祕密之法要神道仙術之秘法白[#二]五先達[#一]受[#二]相傳[#一]也
一當山峰中記修驗法儀等學頭五先達七院主令[#二]勤學[#一]滿山之衆徒挑[#二]法燈[#一]前々如[#レ]斯
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 峰中七十五日の行事は大体徳川時代の峰中記と同じであらうが、古い峰中記無いから述ぶることできない。只其組織を述ぶれば羽黒山・月山は修驗道修行の山であつて、湯殿山は即身成佛の靈地である。吹越峰中堂《ふきこしぶちゆうどう》に於て七十五日間の難行苦行を遂げ、羽黒山・月山の間に於ける靈境を巡詣して、各本尊に念持修法を爲し、最後に湯殿山に參籠して即身成佛の佛界に入るものである。依て年々多數の參詣道者は最後の目的は湯殿山にあるので、湯殿山の本地佛は大日如來で、大日の護持によりて現身のまゝ成佛するのである。斯く心身の慾望を絶つた佛界であれば、道者は月山を下りて湯殿山に至る間に裝束場と稱ふる所あつて、此處にて草鞋を新草鞋に穿き替へ、心身を清淨にして下だり、湯殿山の靈境に於ては唾大小便を禁じ、落し物を拾はず、雜言を語らずに、只一に南無歸命頂禮湯殿山大靈權現 慚愧懴悔六根罪障滅除煩惱滅除業障の咒文を聲高らかに唱へるばかりである。湯殿山の垂跡神は靈湯湧出する巖にして、之が本地佛大日如來である。依て堂宇拜殿無く、道路其他一切人工を施してはならない。數百年間道者の撒いた賽錢は別當寺先達者と雖へども拾つてならぬ、之れ人間界にあらずして佛界であれば、人間慾を滅除する主旨に出たのである。
 羽黒舊記は徳川時代のものばかりで、其以前のもの即ち寛永の湯殿山分離以前の記録は故意に無くしたものと思はる。依て後世の記録には修驗道と湯殿山の關係を書いたものは無い所以で、不言不語の山とか戀の山として一切記述することを禁じたのである。只寛政元年八月羽黒修驗の書いた羽黒三山古實集覽記に湯殿山と修驗道の關係を記してあるばかりである。
 (羽黒三山古實集覽記)
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一乍恐修驗道の儀は修生と申而自然本元修し生し即身成佛修驗一道の極意に候依之形體も生れ付の髭髮其身其儘不惜身命の修行即身成佛を本期目當に仕候故峰行の儀も羽黒月山の二山に於て自然本來擧手動足皆成密印言語音聲皆足眞言の致修行湯殿山寂光に至事は修力に因て修生即身成佛を顯したる修驗道極意本來法身の山に入る事に候是故湯殿權現の眞體は乍恐國初以來自然本來の眞相好に御座候て人力人作手入等不相成是神都の制律に御座候左候はゝ羽黒月山は不惜身命修行の山湯殿山は修行成就即身成佛證得の山に御座候三山同し修驗山と申内にも別而湯殿山の儀は修驗道極意の本山に候處神都制律に相背鑓鐵立置又賽華錢等取仕舞私欲の働神都を穢し其上修驗道證得の場所差支有之迷惑仕候其上自然本來修生の儀故山路も自然の山路にして不用人作踏分修行仕る是又修驗不惜身命の修行制度に候故從合清水湯殿山迄の山路は徃古より任神慮曾て不用人作捨身修行の靈山に候處近來本道寺大日寺方にて湯殿山表口本道寺と申立候巧事の心底と相見へ淨土に前鋪石道普請致し候得は右修驗山の制律を破り我意不届神慮可恐事に候
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 この古實集覽記は寛政中の羽黒方と眞言四ケ寺との湯殿山爭奪に關する訴訟の立證材料として羽黒方修驗の書いたもので、舊來の例を破つて羽黒修驗道と湯殿山の關係を斯くまで書いたことは、前後に未見のことであつて、之を要するに羽黒方訴訟を有利に導かんが爲めに古來の實状を書上ぐる必要に迫つたのである。
 當時の羽黒修驗道は眞言宗修驗道であつて、即身成佛の現在成佛であれば、其修養行事は最も積極的である。即ち心身兩部の慾望を除却して困苦缺乏に堪ふるのが、峰中行事の修養である、依て多くの諸佛の護持に據つて、以上の障害を除去することは前にも述べた。次に眞言宗にては佛前に護摩壇を設けて火を焚く修法あり、修驗道では最も盛んである。護摩は梵語で焚燒の義で、柴燈は其譯である。俗に柴燈護摩《さいとうごま》と云ふのは重復である。火を焚く修法は獨り佛教中の密教ばかりで無いので、神にも燈明を供へ、古くは支那にて皇帝が五嶽を周りて祭祀を行ふに岱山に登りて柴すとあるは柴を焚いて天地山川を祭る義である。期く祭祀に火を用ふる理由についての研究は略す。密教並に修驗道にて柴燈護摩を行ふ理由は、一切の煩惱心垢を燒き盡くして佛地に入るにあるので、即身成佛に達する方便である。柴燈護摩は乳木《にゆうもく》と稱する箸の如き薪を壇上の火爐にて焚くもので、主僧は壇上に座して乳木を焚くに諸多の儀法ありて柴燈偈を唱へる。其偈は 四大和合[#(ノ)]身 骨肉及[#(ト)]手足 如[#二]薪盡[#(キテ)]火滅[#(スルガ)][#一] 皆共[#(ニ)]入[#(ル)][#二]佛地[#(ニ)][#一] であつて煩惱罪業を燒盡くす義である。之は法華經の釋迦涅槃に入る時の句である。この柴燈護摩には不動明王を念持加護の本尊とするのであつて、多くの侍僧は主僧の柴燈儀法を修する間常に不動の眞言(陀羅尼)を唱ふるのである。其眞言は 嚢莫《ナウマク》〈歸/命〉 三蔓多《サンマンダ》〈平等/普遍〉 縛曰羅赧《バサラタン》〈諸金剛〉 戰拏《センダ》〈暴/惡〉 摩訶路灑拏《マカロシヤナ》〈大忿怒〉 薩破叱也《サハダヤ》〈破壞〉 吽《ウン》〈恐怖〉 ※[#「りっしん+且」、上p126-12]羅他《クラタ》〈堅固〉 憾※[#「合(口にかえて牛)+合(一にかえて爪かんむり)」、上p126-12]《カンマン》〈種子〉 であつて、之を繼續繰返して幾萬返でも唱ふるのである。更に羽黒修驗道では峰中堂の屋外にて開山堂の前に石を積み護摩壇を設けて、七十五日の峰中終了日に之れにて柴燈を行ふ。又羽黒山上の開山堂の前にも大柴燈の石壇ありて執行一代一回の大柴燈を行つた。
 前記の峰中は執行又は五先達より一人を選出して大先達と唱へ、峰中の主司者となる。年々の峰中が終了すれば、大先達以下の峰中諸役の坊名人名を刻んだ碑を峰中堂南方の母理屋敷《ぼりやしき》に立てる、此碑を碑傳《ヒデ》といふ。碑傳の字義は修驗者一流の解釋あるが、碑に刻んで後世に傳へる義に外ならない。此碑傳は形状並に銘文に一定の形式あつて、長方形の板石にて頂部を方形にしたのは春峰の胎藏界碑傳、三角にしたのは秋峰の金剛界碑傳である。方形は胎藏界大日の(梵字ア)、三角形は金剛界大日の(梵字バン)の種子に形取つたものである。之等の碑傳は臺石を用ひないで土中に挿込むもので、吹越南方の月山參道西側には明治以前までは多くの碑傳が立つてゐたそうだが、明治後悉く取除かれて、今僅かに吹越峰中堂(今籠り堂)の前に二基だけ移し立てられてある。三山雅集に山上開山堂前の大柴燈石壇と母理屋敷の碑傳を左の如く述べた。
 (三山雅集)
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       大柴燈石壇
天下國家五穀豊登の祠として執行職先達職是を修業せる事あり柴燈大柴燈の事吹越の下に粗しるす峰中の行事ゆゝしき秘事なれバ畧之執行職衆交の時於開山堂大饗あり
      母理《ホリ》屋鋪
籠堂より南の方にあり母理宿修行の地なりすこし行て松の木陰に石牌幾つも並ひ立たり是ハそのかみ入峰修行の先達建置侍る柴燈護摩の石札也是を札柱といふ雨濺ぎ風磨して牌文いと幽に殘れり近世は板札をもて峰中修行の打切札を本社に納め奉る。
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 今吹越峰中堂前に移建した二基は文祿四年と寛永(不明)年であつて、何れも頭部を三角形にした秋峰の碑傳である。又正善院に殘存せる秋峰本帳には慶長七年以降の碑傳木製打切札の年々の寫を載せてある。依て案ずるに母理屋敷に建てたのは悉く秋峰ばかりであると思ふ。
 (吹越峰中堂前文祿四年碑傳)
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[#図版(008.jpg)、吹越峰中堂前文祿四年碑傳]
吹越峯中堂碑傳
文祿五年九月五日
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    干時文祿第五
  除魔 〈時度衆中禪寺住僧福生寺數ケ度/時度衆加賀寺住□福□□□五度〉 都合山伏一百五十〈余人/敬白〉
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(梵字) 吹越鎭護當峰大柴燈護摩供成就大先達寶善院執行法印宥源
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  童子 〈時度衆寂光寺住曼陀羅堂數ケ度/時度衆瀧水寺住僧橋本坊數ケ度〉 時寂光寺〈清藏坊/數ケ度〉
   □九月五日

[#ここから3字下げ]
棹石 高五尺五寸、上幅二尺三寸、下幅二尺二寸、厚五寸余、火山岩
[#ここから三段組]
 寛永
(梵字)
 寛永
[#改段、二重波罫あり]
  時度衆中禪寺住安養坊□□度同荒澤寺住北之坊十二度□□□
當峯大柴燈護摩□□□□寶善院執行宥俊數度敬白
子 時度衆荒澤寺住經堂坊九度同寂光寺福藏坊第□度北之坊數度

  時度衆荒澤寺住北之坊□三度同寂光寺福藏坊八度瀧水寺住呂
當峯大柴燈護摩供大先達法印寶善院執行宥俊數度敬白
子 時度衆中禪寺住正善院第六度同來迎山金剛乘院九度北之坊數度
[#改段]
(〈棹高六尺一寸、上幅二尺四寸、下幅二尺二寸、厚八寸〉)
[#ここで字下げ終わり]
 以上は現存せる二基であつて、次に秋峰本帳によりて一二例を左に掲ぐ。
 (〈從慶長十四己酉/至文政八乙酉〉 秋峰本帳)
[#ここから3字下げ]
     慶長十五〈庚/戌〉 〈時導師中禪寺住安養坊第十四度/時小木千勝寺住金剛乘院第六度〉 都合山伏
(梵字) 奉修當峰成就摩訶先達法印寶善坊宥俊 〈敬/白〉
     菊月下旬 〈時狩中禪寺住呂蓮華坊第四度/時閼伽寂光寺住僧愛染院第六度〉 一百三人
[#罫線あり]
     元和六年〈庚/申〉 〈時導師中禪寺福藏坊第四度/時小木寂光寺薩曼坊八度〉 都合山伏
(梵字) 奉修當峯成就大先達寶善坊宥譽數ケ度
     菊月吉祥日 〈時狩寂光寺且所院三度/時閼伽荒澤寺經堂坊七度〉 五拾余人
[#ここで字下げ終わり]
 大柴燈護摩とあるは羽黒山上開山堂前の大柴燈石壇にて施行したので、之を行ふには多大の經費を要することであれば後世には執行と雖屡々施行しない。當時代には執行宥俊の如きは大柴燈を屡々行つてゐる、一代一回と限らないやうだ。大柴燈と無いのは吹越峰中堂前の護摩壇にて行つたものらしい。文祿五年の碑傳の末尾に時寂光寺住清藏坊とあるは上杉氏にて置いた法頭清順であつて、峰中には役名を持たないで單に列席してゐる。此法頭は即ち探題である所以である。元和六年碑傳の大先達宥譽とあるは天宥の舊名である。峰中の大先達は七十五日の難行苦行であれば老人又は病身ではできないことである。大柴燈は寛永末以降に施行したことは見えぬ。
 笈は修驗者の缺くべからざるもので、殊に峰中には笈に關する諸種の行事あり。此塔婆文笈は高二尺三寸一分、幅一尺八寸七分、奧行九寸八分、足の高さ二寸六分あり、箱材は杉を用ひ之に生漆をかけ、その前面には諸種の金銅金具を飾る。即ち上段には天人并に鳳凰、中段には五重塔二基、中段の下段には輪寶の透彫金具を左右に貼し、下段には龍文を鎚刻した金銅板金を張る。中段の上の扉は左右兩開きである。此笈の兩側并背面にわたつて左の墨書銘あり、笈の製作年代を推定するに足る。
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(左)      十羅刹女上野|□□□《(之住一光?)》
(裏)(梵字) 奉納法華六十六部
(右)      三十番神 弘治二年文《(八カ)》月
[#ここで字下げ終わり]
 此墨書銘によれば上野の住人某が此笈に法華經六十六部を入れて羽黒山に納めたものである。(梵字)バクは釋迦の種子で、十羅刹女及び三十番神は之を保護する佛と神である。此笈は手向政所坊の舊藏であつたのが後に芳賀氏に讓つたものである。此笈を羽黒の入峯に使つたか否やは明かで無いが、序でに述ぶれば笈は入峰中先達の負ふもので例年の七月十八日は峰中行事の初日で笈緘《おひからげ》の行事は此日より始まる。此笈は昭和十五年一月十八日文部省より重要美術品に指定せらる。(口繪參照)
[#改ページ(上巻終了)]