第八編 明治時代

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動


     一 戊辰戰爭と羽黒農兵の白石口出陣

 明治元年二月二十日莊内藩主酒井忠篤は江戸を引拂つて仙臺を廻り、三月九日莊内に着いた。四月七日朝廷忠篤の官爵を褫いだ。是に於て戰爭は避くることできないことになつたので、莊内藩は戰備に着手した。莊内藩では羽黒は最上、村山地方の要路に當り、且つ修驗農民の向背は莊内軍備に關係を有するを以て莊内藩では手向村民の鐵炮調練を開始した。閏四月頃より鐵炮稽古を坪暮《ツボクレ》山にて始しめ、鶴岡より關甚兵衞出張して教育した。之に加入したのは最初は手向の平修驗であつて、御恩分は別當に附屬して之に加はらない。隨つて羽黒は兩派に分離して多少軋轢を起した。鐵砲組の主役は百瀬敬助、小關源六郎、平井覺彌等にして人數は農民を合せて六七十人である。鐵砲は莊内藩より渡され、稽古費用は山上本坊より借入れた。六七月頃に至りて鐵砲組は山上山下の御恩分に加入を強要し、且つ法務に欠席するもの多くなつたからして、別當靈山院官田は莊内藩に願書を差出して鎭定を請ふ。
 (仙場蝦夷地用留)
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
        覺
一當年中より小關源在衞門眞田文内何等の用向有之候哉御城下※[#変体仮名え]度々往來之事
一閏月下旬頃より五人のもの申合鐵炮稽古支度金百兩山上老分中※[#変体仮名え]借用申入五拾人貳兩宛の積にて借受五月四日拂川護摩堂におゐて壹兩貳歩宛三拾人位も相渡申候歟尤其節白紙連判帳相仕立下座之者※[#変体仮名え]は追て議定可相認旨爲申聞萬一役人は勿論他※[#変体仮名え]申觸し候もの有之候ハヽ仲間征伐可然と口固めいたし候哉之事
一五月七日の年寄役原田監物病氣申立下宿諸用向は相勤不申候得共鐵炮爲催促何れ※[#変体仮名え]も無沙汰百瀬敬助と申もの度々御城下※[#変体仮名え]差遣候て御郡代御役所※[#変体仮名え]差越願爲致候哉の事
一此頃家來分追々不勤ニ相成候得とも一向異見をも不加却て尻押いたし候事
一五月廿八日夜本坊家老部屋※[#変体仮名え]大勢忍入狼藉有之候を年寄役聊も詮義不致不審之事
一五月晦日勘助方より近々鐵炮御渡可申旨被申遣候ニ付兼て御示談申上置候通り御渡の上は夫々儀定書等差上萬端可得御差圖之處御|教《?》示方ニ如何申入候哉病氣中本坊※[#変体仮名え]は届も無之我儘ニ五人之世話方申付悉皆爲取扱渡方等專ら偏頗之事
一不埓之義有之愼被申付罷在候もの我意を以鐵炮稽古之場※[#変体仮名え]差出候事
一六月五日鐵炮連正善院※[#変体仮名え]會合の處宮田午左衞門と申者罷出先刻忰覺助鐵炮請取度旨申入候所親父役場※[#変体仮名え]内通いたし候事有之ニ付父子共鐵炮渡事不相成趣平井覺彌申聞候由拙者は内通の覺無之爲是非渡呉候樣強て申入候處傍に有之本間孫兵衞と申もの内通いたし候ニ相違無之彌白状於無之は首刎可申間用心可致抔申聞專ら迷惑相振ひ候事
一同所ニおゐて百瀬敬助申聞候ニは一同能も聞候らへ玄妙坊義鐵炮連※[#変体仮名え]相加ハり候ニ付持役等迄被差上是て社は天晴忠臣共可謂歟抔と申觸らし別當所用向は追々御免願等爲申出候事
一六月九日僧正より使僧差上候由何等之義ニ可有之哉僧正始役人一同存不申監物謀斗作略の事
一的場築立小屋相掛候ニも我儘ニ山林を伐採懸り役※[#変体仮名え]も一向沙汰不致候事
一月山詰定例人數夫々申付候處彼者も最寄々々を以相支候只々差支候而己相企候事
一家來共追々病氣或は退役等申立既ニ社役等にも差支之樣ニ成行神慮の程恐入候段被歎息僧正辭職退山の外有之間敷と山上老分等※[#変体仮名え]被及内談候折柄原田監物正穩院※[#変体仮名え]罷越候ニ付老分三人相談申懸候は當年柄不道者旁々相續方必至と難澁故事起り候樣被相考候間就ては右人數※[#変体仮名え]手宛米ニても差遣猶在勤の者※[#変体仮名え]は夫々金子にても差遣候ハヽ相治り辭職ニも及申間敷哉の旨申聞候處監物申候は左樣の沙汰ニハ乘り申間敷と申破談いたし候事
一町兵共拾六人兼て鐵炮所望にて追々監物迄申入候處殊の外被致賞美恐多くも 徳川家再興の旨趣書付苗字長刀等勝手儘ニ相免し猶如何樣の事申含候事哉是迄相勤來候家役人足等迄爲相勤不申候事
一此頃ニ至夜分猥りニ發炮之事
一監物鐵炮方※[#変体仮名え]米壹表ツヽ被下旨申出候得共五月中も惣家來分※[#変体仮名え]米百表差遣無間も事故且心得違の者も間々有之旁見合居候處今度出陣支度金として貳千兩分米百五拾表借受度願甚以難題之事
一僧正辭職退山之義ニ付手替淨心防方より監物ニ何とか無之義山麓治方有之間敷哉及内談候處迚も 御領主樣より深御惡しミ被得候上は退山の外有之間敷旨被申候ニ付以之外ニ存如何樣之義御下墨ミ相成候哉幾重ニも御詑言申上度候間其許も同道可被致旨申聞候處兎角挨拶遁れ退役願差出候事
[#ここから3字下げ]
      以書付奉願上候
此度諸方被爲在御手配候ニ付當山爲警衞家來共※[#変体仮名え]鐵炮稽古被仰付候段奉畏候然ル處右稽古出情之儀は神外ニ奉存候得共原田監物如何の所存ニ候哉我意相募諸事一已之取斗而己多且此頃病氣申之下宿乍罷在鐵炮稽古場※[#変体仮名え]罷出且又稽古の者共※[#変体仮名え]色々申含小役のもの共迄病氣退役等爲申出此方用向相勤候者無之樣ニ相成當惑至極仕候既ニ七月廿八日之夜院内※[#変体仮名え]大勢忍入致狼藉候もの有之候得共一向穿鑿も不申付其儘ニ相捨置候段歎敷次第奉存候此末如何樣之狼藉等有之候ても法中の事故防方も無之候間御時節柄恐多奉存候得とも迚も御領主樣御威光ニ無御座候ては難相治奉存候間何卒格外の御沙汰を以早速御役人御差越被成下候ハヽ邪正忽相分り山麓安穩ニ相成可申奉存候右之趣深御憐察の上別紙ケ條書御賢覽被成下宜御取斗被成下置度偏ニ奉願上候 以上
  辰七月
[#ここで字下げ終わり]
 莊内藩は之に對して如何なる回答をしたかは明かで無いが、別當の進退は莊内藩の關知する所で無く、時局は戰備の急を要することであれば此儘にて進行したやうだ。口碑によれば御恩分も追々に加入して、本防に詰めるものは僅かに源正坊と大澤金之丞の二人のみとなつた。
 莊内藩出張姓名簿によれば、關甚兵衞組手向農兵七十一人ありて世話役百瀬敬助、同平井覺彌、同小關源六郎、同本間孫兵衞、同眞田文内とありて以下人名は略す。
 四月廿五日清川口の戰鬪開始さるゝや、莊内藩諸隊は羽黒立谷澤に出張警備に當り、手向農兵隊は荒澤口を守備した。其後六十里越より寒河江方面に出張し、七月四日白河應援の爲め一二番隊鶴ケ岡を出發したが、十一月一番隊は新莊秋田藩の裏切により上ノ山より軍を返した。之より關甚兵衞の發機隊農兵六十五人は上ノ山に滯留して警戒に當つた。八月八日莊内藩の軍議にて白河に出兵するに決し山口八郎兵衞隊士廿五人、北楯小八隊卒三十六人と上ノ山の關甚兵衞隊六十五人を合せて八月十三日白石に着。十八日諸藩の兵と攻口を議し、角田に向ふ。此時白河口は敗れて敗兵其他白石に走り、上野日光宮も城内に入らせらる。莊内軍は相馬國境に出でゝ戰つたが、仙軍敗退し、十一月白石に退き、九月十三日仙兵總引揚げとなり九月七日謝罪に決す。依て莊内三小隊は十五日仙臺を出立し關組は十六日岩手山、山口北楯隊は下宮に泊り、十九日船形より清川に着き、山口隊は關川口關隊は立谷澤の内瀬場村を守衞すべしと命せられ、廿日鶴岡に着し廿一日各守備に着く。廿七日莊内謝罪の報に接し廿八日三小隊鶴岡に引揚げた。

     二 神佛分離と三山神社

 明治元年三月十二日朝廷神佛を分離せしめ、神に菩薩又權現と唱ふるを止め、佛像を以て神體と爲すことを禁じた。時に當地方は戰爭將に開かれんとしたるを以て之が布達はできなかつた。同元年九月二十六日莊内藩は謝罪し戰爭は終つた。酒田に軍務局を開き、同二年一月西岡周碩酒田民政局長官となり二月廿日東京より着任した。四月より追々明治朝廷の布告を諭達された。神佛混淆禁止の始めて當地方に達されたのは同二年五月である。
 (莊内史料)
[#ここから3字下げ]
今般諸國大小神社に於て神佛習合之儀 御廢止相成候ニ付別當社僧の輩等の稱號相轉還俗の神主社人等の稱號等相轉神道を以勤仕可致候若又無據差支有之且つ佛教信仰にて還俗之儀不心得輩神勤相止立退可申事官位の儀ハ追て 御沙汰有之候間當分の所衣服ハ風折烏帽子淨衣白差貫着用勤仕可被致事
右之通御布告有之候間社寺并末々迄不洩樣可相達者也
  巳五月                  酒田民政局
   御料所 飽海郡
       由利郡
       村々役人
       惣百姓
[#ここで字下げ終わり]
 同二年八月五日民政局を廢し酒田縣を置き、知事は缺員にて大參事西岡周碩權知事津田山三郎事務を執る。之より先き六月廿八日天臺宗總本山の比叡山延暦寺より朝廷の神佛分離布告は佛道を廢止する義で無いから密乘の住山修學を怠らないやうとの一宗布告を出し、之れが羽黒に到達したのは十一月六日である。
 (莊内史料)
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
      一宗布告
一先般一宗御取締之儀從 朝廷妙法院宮青蓮院宮梶井宮三御門跡※[#変体仮名え]被仰出候
一佛門ニ於て復飾之儀ハ先般從 朝廷再度被仰付之御趣意も被爲在候所心得違の者往々有之哉ニ相聞以之外事ニ候神佛混淆無之樣被仰出候得共素より廢寺絶釋の御趣意ニハ不爲在候趣兼て御布告被爲在候ニ付ては其一國一宗の寺院互ニ申合御趣意ニ致乖戻候ものハ勿論猥ニ致復餝一寺可及頽廢向ハ其國觸頭及其組合寺院ニ於て篤と取調一宗御取締坂本御殿代※[#変体仮名え]早々可申出事
一從 太政官兼て御布告被爲在候處其寺院國郡寺號及寺格分限巨細調帳其國觸頭より本山※[#変体仮名え]差出可申候事
一内外曲藉一日三分之法規之天裁山家之遺訓破邪顯正之僧家本分之勤王三室興隆之基礎ニ候條各寺各院弟子所化ニ至迄其本分ニ勉し國家の御用に相立候樣精々心懸可有之候追々御用有之候間内外之學業密乘之修力其他一藝ニ長し候者一寺住職弟子所化ニ不抱急々取調國郡寺號年或ハ實名早々可申出候事
[#ここから6字下げ]
附住山修學ハ寺家之條制ニ候條其向々申合登山入學可有之候事
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
一天下安康寶祚延長御祈者本家第一職務ニ候條朝暮無怠慢兼修可有之候事
                大觀心院大僧都行全 花押
                    寶光明院大僧都亮惇 同
                    大遠成院大僧都完洞 同
  出羽國天臺宗
      諸寺院
別紙之通被仰付候に付てハ舊弊一洗法幢振起の爲不日篤實厚志之僧差向可申候條誠言熟談可有之候
右ハ今般三御門室より蒙仰天機伺一宗取締兼用在ニ付申達候間得其意配下末門寺中ニ至迄不洩樣通達可有之候已上
            三御門室
             延暦寺執事
               行光防[#「行光坊」か]大僧都韶舜 花押
  六月廿八日
    出羽國
      天臺宗諸寺院
右之通被仰出候間此段厚相心得可被在候己上
  巳十一月六日           羽黒山年行事
                       福乘院 印
                       護摩堂 印
[#ここで字下げ終わり]
 同三年一月廿二日酒田縣知事大原重實着任し、九月六日酒田縣を廢し山形縣酒田出張所となる。羽黒三所大權現は文政六年七月二十二日に出羽神社改稱敕許となりたるを以て、明治二年五月の神佛分離社僧復飾の布達によりて、羽黒修驗は復飾せざれば神社に出仕することできぬことゝなつた。明治二年十二月吹浦大物忌神社々人は神祗官より復飾を認知せられ、同四年六月大物忌神社は國幣中社に列された。酒田民政局及び酒田縣では復飾を羽黒修驗に迫つたが、別當官田を始めとして容易に復飾の意は無かつた。然るに復飾せざれば神社を去る外無かつたので終に表面の復飾を爲し許可を受けて、官田名を羽黒寶前と改め、出羽神社宮司に任じ、智憲院以下十八坊の内能林院、積善院(以上は山上)、金剛樹院(手向)、の三坊を殘して復飾し、氏名を替へたが手向修驗三百坊は未だ復飾しない。之迄本社其他の寺坊に在つた佛像佛具を前記三坊に移し、多くの寺坊は破毀した。然るに宮司以下神社に出仕する時のみ神職の服を着けるが佛式を改むることをしない。眞言四ケ寺では之より先き復飾を拒み屡々大泉藩を經て其の※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]に湯殿山佛道奉仕を願出たが、同四年六月神祗官より湯殿山は神山であるから佛道奉仕を禁止された。續いて教部省權大椽石丸八郎出張して七口の先達等を集めて神職とならんことを説諭した。本道寺、大井澤、岩根澤、肘折は復歸[#「復飾」か]したが注連寺、大日坊は復飾しない。之より本道寺外三所には出羽神社出張所を設置した。
 明治五年二月七日羽黒寶前(官田)は所用ありて鶴岡に至り歸途野荒町にて急死した。翌六年三月五日教部省出仕大講義西川須賀雄(肥前小城の人)出羽神社大宮司に任ず、三月七日出羽神社を國幣小社に列せられた。西川は八月十二日赴任した。西川は羽黒の實状を見て神佛分離の徹底せざる事を憤り、手を盡くして手向修驗に復飾を説諭したが、約千年來の信仰と慣習は容易に之に應じないばかりでなく手向三百坊は天臺宗に歸入した。同年七月手向衆徒の代表櫻林坊は天臺宗務廳に書を出して開山堂を其儘とし、月山權現を山頂北方百間の御峰に安置存續の取計ひ方を依頼した。
 (明治維新神佛分離史料)
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
      羽黒山方今所置御尋に付乍恐以書付奉申上候
一羽黒元別當靈山院官田儀復飾之上神勤罷在候處神佛分離之規則未確定無之内昨申年死去被致候其後地方廳より別當所什器等不殘禰宜へ相渡可申旨御達ニ付夫迄取扱罷在候者より夫々取調引渡申候處寂光寺々務之必用之品々に至迄其儘引渡申置候ニ付今般種々御調御坐候ても諸事不都合有之殆當惑仕候此度幸出羽神社宮司權宮司等御方御差越相成候ニ付而定而分離可有之義と奉存候其期に至り混雜等有之候而者深恐入奉存候間至當處分御座候樣其御筋へ御依頼被成下度奉願候
一開山堂之義者本社近所ニ隔有之候へ共更ニ門戸柵等を建立し深隔境界從前之通ニ差置申度義ニ奉存候尤堂後ニ開山皇子御廟も有之事ニ御座候
一月山之義ハ元權現ト稱へ往古より安置致來候彌陀之佛像并に十三佛等有之候往古よりの佛像石室へ埋置候も歎敷存奉候間同山之内百間餘北之方御峰と申所へ隔境界小堂を建立し安置|仕義《度脱カ》と奉存候尤彌陀佛來迎も有之候地處に御座候
右之趣其※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]へ奉願度奉存候間前件御賢察被下何分宜敷御依頼被成下度伏而奉願上候 以上
  (明治六年)              羽黒山麓
    酉七月                  櫻林坊
[#ここで字下げ終わり]
 八月延暦寺宗務廳執事金勝院は日光山照尊院深海に書状を托して羽黒に來り、衆徒の願望に付宮司と示談せしめた。
 (同上)
[#ここから3字下げ]
未得御面話候へ共殘暑之節各位彌御堅固珍重之御事に御座候寂光寺末徒修驗之者先般御趣意ヲ奉し本宗天臺歸入ニ相成候就而當九月九日より入峰之義本宗不戻苦行候間從前之通爲致候ニ付執事名代爲大先達照尊院差遣候百事御示談可及候間厚預御協議度且先般兼而惣代之者願出有之候社堂判然併神佛器分離等之義別紙之通ニ有之候間照尊院より詳細御熟談可及旨申付候逐一御承知可然御所分所希候也
                  延暦寺宗務廳執事
                       金|照《勝カ》院
  明治六年八月
    宮司 西川須賀雄殿
    權宮司 兒島高光殿
[#ここで字下げ終わり]
 十月に至り手向二十七坊は開山能除太子の號及び神祭執行に反對の書を西川宮司に提出した。
 之より西川宮司は徹底的なる廢佛毀釋に着手せんとして、教部省より中録常世長胤宮崎晴海等の出張を請ひ、然る上に石工を雇ひて石造物並に鑄製佛像を破壞し、木彫佛像佛具類は隨所に集めて焚燒に付し、石碑類は溪谷池沼の中に投捨した。次に寺院堂塔の破毀に着手し、月山、羽黒より手向に至る總數百十三棟の内二十八棟を保存し、八十五棟は廢墟となつた。〈神佛分離史料に據る〉以上の毀釋斷行は明治六年九月より同七年の間に行はれた。破毀を免れた大なる建物は羽黒本社を始めとして、二ノ坂上寂光寺、華藏院、積善院、黄金堂、鐘樓、其他小堂宇にして、開山堂も廢毀に遇つたのは建築が佛式であつた爲めであらう。羽黒本社及び諸寺院の主要なる佛像佛具は羽黒山上の能林院、積善院、手向の金剛樹院、荒澤の北之院、聖之院、經堂院に移した。後に荒澤三院は火災に遇つて佛像は悉く燒失し其他の寺院に移されたものも散逸した。
 五重塔も寺院方に與へられ他に移轉することに承諾したが、移轉するには多大の經費を要するを以て遷延しつゝある間に神社有となつた。又五重塔前に念佛宗道榮寺があつた。住持は複飾[#「復飾」か]せざるにより移轉を命ぜられ、野口に寺地を貰つたが移轉費用無いが爲めに移轉すること能はずして破毀した。山上の三先達智憲院、正穩院、華藏院の内華藏院のみ殘して他の二院は破毀するこゝと[#「ことゝ」か]なり、智憲院は間口十六間、奧行十六間、建坪二百五十七坪五合、正穩院間口十四間半、奧行十五間半、建坪二百四十一坪九合の大伽藍である。正穩院は取り毀ちて積み重ね置きしも用材大に過ぎて買ふもの無く、後に僅かに金拾六圓にて全部を賣拂ひたりといふ。序でに南谷別院は構築過大なるを以て舊幕中期に取毀ち其跡に玄陽院を建てた。次に二ノ坂上の別當寂光寺(後に若王子)は最大の建築にして間口二十九間、奧行三十七間、建坪六百六十二坪四合四勺あり。一部を手向に移して社務所と爲し他は賣拂つた。
 羽黒本社を始めとして各寺院の佛像は其數夥しく多かつたが、破毀燒却或は散逸して見るべきものが殘存しない。且つ本社を始めとして各寺院は火災に遇ひし爲めか古佛像は殆んと見當らない。只月山の彌陀原にあつた元徳四年(元弘二年)六月在銘の阿彌陀坐像(銅鑄)は月山御田之無量壽佛の銘もありて、地方に散在せる三山佛像中の最も確實なるものである。此佛像は排佛毀釋後廻館村銅屋に賣却され、將に鑄つぶされんとする所を手向早坂氏之を聞いて買入れた。明治二十八年中鶴岡骨董商に賣却し更に酒田鈴木久彌(元松嶺人)に七拾圓にて賣られ、今同氏の子孫が持ち傳へてゐる。此外に地方に羽黒の佛像と唱ふるものあるも果して羽黒のものであつたか、今日になつては疑問のものが多い。神佛分離資料に月山羽黒山の伽藍堂塔百十二棟の破毀存續を掲ぐ。之に各伽藍塔堂の廣袤間數建坪等を記載せるは羽黒本社所藏の寛政三年の全山寺院堂塔圖に據つたものである。
 明治五年九月十五日太政官全國の修驗宗を廢し天臺、眞言兩宗に歸入を命ず。同七年六月二十四日天臺、眞言兩宗並に舊修驗の者町並又は借宅にて寺院號を唱ふるを禁じ、又寺院無くして寺院號を唱ふるものを停止す。
 (太政官第二百七十三號布告) 明治五年五月十五日
[#ここから3字下げ]
                      府  縣
修驗宗ノ儀自今被廢止本山當山羽黒派共從來ノ本寺所轄の儘天臺眞言ノ兩本宮へ歸入被仰付候條 各地方官ニ於テ此旨相心得管内寺院へ可相達候事
[#ここから5字下げ、地から1字上げ]
但將來營生ノ目的等無之ヲ以歸俗出願ノ向ハ始末具状ノ上教部省へ可申出候事
 (教部省第二十七號) 明治七年六月二十四日
[#ここから3字下げ]
                      府  縣
天臺眞言兩宗中舊修驗三派ノ儀往々町並借宅等ニ居住し寺院號唱來候向有之不都合ニ候條 各管内限リ精細取調全ク院跡無之分ハ寺院廢止ノ儀可伺出 此旨相達候事
[#ここから5字下げ、地から1字上げ]
但追テ寺院ノ稱ハ廢止候トモ僧業相營候分ハ可爲從前之通儀ト可相心得事
[#ここで字下げ終わり]
 之より先き同六年十二月九日西川宮司は湯殿山神社を出羽神社の支配と爲さんことを教部省に願つた。教部省は之を酒田縣に照會したるに、酒田縣大參事松平權十郎は地方廳を經由しないで直接本省に出願したるに反對したるを以て不認可となる。
 手向修驗等は別當復活の計畫を立て、岩根澤の如きは復飾後は同地通過の道者は著るしく減少し、本道寺口は却て増加を見た。依て岩根澤衆徒も手向に加擔して岩手縣平泉中尊寺住職三衣靈源を招き山形縣廳に運動請願して、岩根澤に中尊寺別院を置くことの認可を得た。三衣靈源は慶應年間日光山某寺に居つた時に岩根澤日月寺に客分として滯留したことあつた縁故にて應援を頼んだのである。是に於て手向でも靈源を迎へて羽黒寂光寺住職と爲さんとした。
 斯のやうに手向修驗等の意向強固であるを以て、西川宮司は同六年十一月五日羽黒を出發して東京に登り教部省に請ひて開山堂を神社に改め神祭執行の認可を得。之を以て修驗等を威壓せんとした。翌七年二月七日開山堂を蜂子神社と改正し、照見菩薩の宣下状をば返上することゝした。
 (太政類典) 第二編 第二百五十八卷 第四類 教法九、神社七
[#ここから3字下げ]
十二月二十八日 六年
      教部省伺
出羽神社境内開山堂へ相祭候照見菩薩之儀ハ崇峻天皇皇子蜂子命ニ相違無之候ニ付更ニ神祭致度段同社宮司共別紙壹印之通願出尚地方官ヨリ已二印之通具状致シ候 右ハ歴代皇靈御祭典モ悉皆古式ニ被爲復候儀ニ候得ハ願之通聞届不相當之筋無之ト存候 此段爲念相伺候也 十二月十八日教部
(朱書)「伺之通 十二月廿八日」
   出羽神社宮司西川須賀雄同權宮司兒島高光願 教部省宛
壹印
酒田縣管内羽前田川郡羽黒山出羽神社境内ナル開山堂ノ儀事實取調候處謚號ヲ能除太子※[#合字「トモ」]照見菩薩共申シ 其實ハ崇峻天皇之皇子峰子[#「蜂子」か]命ニ渡ラセ給ヒ御容貌甚陋醜ニ座スカ上ニ蘇我馬子讒ヲ推古天皇ニ入奉リ北海ノ濱ニ放チ奉リシヨリ頻リニ厭離穢土ノ佛情ヲ起サセラレ羽黒山皇野ニ籠ラセ給ヒ 其後月山湯殿ニモ修行祈誓アラセラレ 夫ヨリ三山ノ神徳ヲ益赫カセラレ候由 社傅ニモ古老ノ口碑ニモ相傳候因テ古典ト實地ヲ相考候處 峰子[#「蜂子」か]命ハ崇峻天皇大伴糠手連女小手子ニ御合座テ生シメ給ヘル由日本書記ニ相見 今以皇野鉢子村ノ地名顯然ト相存シ諸人ノ信仰モ拔群ニ御座候 就テハ臣等本社赴任神佛御引分ノ御趣意篤ト相考候處 右開山堂ノ儀其儘ニテハ社頭ノ鎭座如何ニ御座候 サリ迚引離候テハ三山ニ功勞オハシマシヽ御事績ニ對シ奉テ安カラサル所候ヘハ更ニ神號ヲ奉リ改正仕度御座候ヘ※[#合字「トモ」]何ヲ申皇子ニ坐スカ上先年元別當覺淳代既ニ菩薩號ノ宣下モ候ヘハ私ニ改候儀ハ恐怖ノ至ニ候條 右宣下状御返シ申上候上乍恐御改正被爲在度奉懇願候 尤社號ハ別紙ニ書載仕度候也 十二月二日教部
 開山堂改正神號
 蜂子命
 右之通奉願候也
   酒田縣上申 教部省宛
二印
當縣管下羽前國田川郡羽黒山開基能除太子ヘ文政年中元羽黒山別當莊嚴院覺淳住職中出願之上照見菩薩ト宣下相成候處 今度神號ニ御改稱ノ儀御省ヘ出願仕度旨出羽神社神官申出候 於當縣差支ノ筋モ無御座候何分御沙汰被下度此段及上申候也 十一月七日教部
      法制課議案
別紙教部省上申開山堂ノ儀審案候處日本書紀崇峻天皇紀ニ立大伴糠手連女小手子爲妃生蜂子皇子錦代皇女トアリテ蜂子命ハ崇峻天皇ノ皇子ニ御相違無之候ヘ共北海ノ濱ニ放ツ云々ノ※[#合字「コト」]正史ニ不見 然※[#合字「トモ」]其御遺跡社傳並ニ土人ノ口碑ニ存シ疑ヲ可容儀モ無之候間 伺之通御允可ニ相成可然被存候 仍テ御指令案取調仰高裁候也 十二月二十二日教部
[#ここで字下げ終わり]
 之にて照見菩薩號は返上し、蜂子命の神號を唱ふることを裁可された。照見菩薩の宣下状は返上したが曩きに宣下状を納めて京都より下だした内筥、外筥、菊紋章付の内筥、覆絹は今も神社に保存されてある。この宣下返上によりて修驗等は益々紛擾を起した。同七年七月三十日西川氏が教部省大録足立正聲、同中録常世長胤に送つた書状に「羽黒山之義は容易ならざる場所にて恐らくハ此日本國中にて第一之佛之巣窟と見認候此度歸入之輩増々強情を押張り云々」とあり。依て宮司は百方苦心し蜂子神社を中心にして赤心報國敬會を設立し、修驗等をして教會の事業に當らしめんと計畫を立てつゝあつた際に、三衣靈源は山形の客舍に病死した。山形縣大參事薄井龍之は靈源の死骸を山寺山立石寺に葬り碑を建てた。龍之は信州飯田出身にて元治中水戸浪士に加はり筑波山に兵を擧げ、敗れて日光山に隱れ、同山僧徒に漢藉を教授した。此時三衣靈源は日光に居つて龍之と相知の交りあつた縁故で、龍之は靈源の便宜を謀り死後は理葬建碑までも取謀つた所以である。手向修驗等の計畫は靈源の急死に遇つて頓挫して悉く西川宮司の計畫した教會に加入し、敬神愛國の義により敬愛教會と改稱した。
 同七年八月三十一日月山神社は國幣中社、湯殿山神社を國幣小社に列せられ、出羽神社宮司西川須賀雄は三山神社宮司となり、權宮司兒玉高光、禰宜留守長秀、權禰宜宮崎晴海、主典西山磐根、華岡安記、黒羽此面菅原長禰、黒羽岩記、大泉賢順が任命された。敬愛教會は神社附屬の一講社となり、修驗三百餘人は遂に神社の祝《ハフリ》となつた。岩根澤の中尊寺別院も自ら徹廢となり、岩根澤、本道寺、大井澤、田麥俣口に三山出張所を設け、各郡長を置いた。是に至りて多年曲折を重ねた神佛分離は解決して三山は神社となり、僧侶修驗は神職祝となつたのである。
 眞言、天臺宗時代に三山各拜所にて唱ふる所の南無歸命頂禮懴悔々々六根罪障云々の咒文は、此頃に改められて左の三語三山拜詞となつた。
[#ここから3字下げ]
    三語
諸の罪穢レヲ秡身禊キテスガスガス
遠津神咲ミ給ヘ伊豆の御魂を幸ヘ給ヘ
天津日嗣キノ榮ヘマサン事天壤のムタトコシヘナルベシ
    三山拜詞
アヤニアヤニクスクタフト 月山大神ノ御前ヲヲロガミマツル
アヤニアヤニクスクタフト 出羽大神ノ御前ヲヲロガミマツル
アヤニアヤニクスクタフト 湯殿山大神ノ御前ヲヲロガミマツル
[#ここで字下げ終わり]
 此三語拜詞は田川郡大山町椙尾神社の神職にて三山神社主典宮野鐵鐸の作であるそうだ。
 西川宮司は明治九年三月二十七日安房神社大宮司に轉任し、同年五月二十六日星川清晃三山宮司に任した、鶴岡人で鈴木重胤門人である。同十年八月廿七日三山及び鳥海山に女の登山參詣を許す。當年丑年にて三山參詣者頗る多し。同十二年二月物集高見三山宮司となる。此頃猶山内に佛式の佛堂にて神社となつたもの多く在つたが、高見は之等の破毀を中止して保存することゝした。同十五年三山社務出張所を廢す。同十七年内務省三山に先達無く自由登山を達す。同十八年四月二十二日月山神社を官幣中社に昇格す。
 羽黒社領は明治二年上地となり、衆徒の檀那場は舊來の通り存續し、明治十四年十月三山神社より改めて檀那場知行状を授與した。
 神佛分離後の三山年中行事は佛式を神式に替えたのみで大なる變替は無い。其中の重要なる行事の二三を擧ぐれば、十二月大晦日夜の大明松|驗競《ケンクラベ》は今も猶之を行ひ松例祭と唱へ年中の最大行事である。陰暦七月二十五日より一週間吹越峰中堂に於て行ふ修驗道の峰中行事は入峰式と唱へ神式に替へて今も之を行ふ。此行事は手向の祝《ハフリ》にて組織する三山敬愛會の事業にして、年々信者は之に入りて入峰修行を行ふ。荒澤の天臺宗荒澤寺にても佛式の峰中を行つてゐる。手向の祝は舊來の通り關東奧羽に信徒の檀家を所有し、年々冬期間は各家にて己が檀家を巡廻して祈祷札即ち神札を配付し夏期には檀家を己が家に宿泊せしめて三山の案内を取扱ふことは舊時の宿坊に異なること無い。神札は三山敬愛教會にて發行する。
 明治以降に於ける三山沿革或は神式行事に關しては省略の外無い。
 明治以降三山神社宮司の歴代任免左の如し。
[#ここから4字下げ]
一 西川須賀雄  明治 六年三月 五日……同  九年三月廿七日
二 星川清晃   同  九年五月廿六日……同 十二年
三 物集高見   同 十二年二月廿九日……同 十六年
四 波多野春万侶 同 十六年     ……同二十二年四月十九日
五 岡部光澄   同二十二年四月十九日……同二十五年一月廿三日
六 朝比奈泰吉  同二十四年     ……同三十五年
七 窪田畔夫   同三十五年二月 三日……同四十四年六月 丗日
八 宮澤春文   同四十四年七月 五日……大正 四年三月二十日
九 中島博充   大正 四年三月 廿日……同  五年五月 一日
[#ここから3字下げ]
一〇 宮尾 詮   大正 五年五月 一日……同  十年三月廿九日
一一 菊地武文   同  十年三月廿九日……同 十一年三月 四日
一二 大和田貞策  同 十一年三月 四日……昭和 六年十二月十日
一三 齋藤英夫   昭和 六年十二月十日……同  九年四月十一日
一四 寺田密次郎  同  九年四月十一日……同 十二年十月廿八日
一五 遠山正雄   同 十二年十月廿八日……現在
[#ここで字下げ終わり]

     三 湯殿山の神山確立と注連寺大日坊の絶縁

 明治二年一月酒田民政局の神佛分離の諭達に對して、眞言四ケ寺の主張は湯殿山は佛の山にして、大權現と稱し、開基は弘法太師[#「大師」か]で、四ケ寺にて別當を勤めて來た。依て神佛を混淆して居らぬから御布令に牴觸しないといふにあり。同三年三月注連寺大日坊名代大泉院より大泉藩に願書を出して政府に其主旨を申達されんことを願出た。本道寺、大井澤でも同主旨にて其兩代表は東京に登り、願書を神祗官に出したのは、同三年三月二十二日である。
[#ここから3字下げ]
      乍恐書取申上候
御支配地羽前國大泉湯殿山之儀者表口は注連寺、大日坊、裏口は本道寺、大日寺四ケ院之外守護仕者無御座 別紙由緒書中羽黒山出入之節舊幕府御裁許之通りに御座候 勿論弘法大師開基以來佛道一遍に執行罷在神佛混淆仕候儀聯以無御座候 然處今般別當社僧之輩復飾神勤之儀御布令之趣より湯殿山大權現之儀村山郡※[#変体仮名え]酒田縣より御出張之御役人樣より裏口兩院へ御尋有之候間其節前段之通佛法一遍にて唯佛山之趣奉申上候處 猶於東京表委細其御※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]御役向※[#変体仮名え]も申上候樣被仰達御添簡をも御渡相成至急罷登候段傳承仕 拙兩寺方におゐても右佛通一遍之譯柄不取敢奉申上候置度其段大泉表御役所※[#変体仮名え]奉願上 愚僧儀兩寺爲名代罷登候間 別紙由緒書取之趣篤に御明閲被成下 當一山之儀は從古來之通佛法一遍執行山務罷在候樣仕度 此段速に御聞濟之程御沙汰被成下度奉願上候 以上
   午《(明治三年)》三月      湯殿山表口兩寺名代  大泉院
    大泉御藩公御用人中
      乍恐以書付奉言上候
酒田縣支配所羽前國村山郡本道寺同國同郡大井澤村大日寺謹而奉言上候
大政御復古御一新に付神佛混淆不致樣別當社僧之輩復飾神勤可致旨御布告之趣支配より御達の上湯殿山大權現の儀御尋有之に付 唯佛山の旨申立候處 御筋に御伺可申上候段被申聞添簡被相渡 尤湯殿山四ケ院の内大泉藩御支配田川郡大網村注連寺大日坊儀は別段御伺奉申上候趣申聞候間 今般拙兩寺出府致し乍恐廉々左に奉申上候
一湯殿山と唱る事 略之
一大權現と唱る事 同
一當山開基の事 同
一湯殿山者唯佛山の事 同
前書奉言上候之靈場大日如來應化權現之唱を以て湯殿山大權現と相唱候而已 全の佛山四ケ院にて如從來山務仕指障は無之儀と尤奉存候得共 此段御伺奉申上候 恐惶謹言
         酒田縣支配羽前國村山郡本道寺村  本道寺
         同國         大井澤村  大日寺
  神祗官御役處
[#ここで字下げ終わり]
 神祇官は三月二十四日附を以て月山、湯殿山は元々神山であるとの指令を發し伺書は却下された。
[#ここから3字下げ]
御管轄内羽前國山村郡[#「村山郡」か]本道寺村本道寺儀月山湯殿山は從來佛山云々之伺書御添書を以出願致候得共右月山湯殿山儀は素々神山にて當國一の宮なる事判然に付右伺書差返候依而此段申入候
   午《(明治三年)》三月二十四日        神祗官
    酒田縣
[#ここで字下げ終わり]
 其後注連寺大日坊より湯殿山は古來佛山にして神山にあらざる旨を認めたる伺書を大泉藩に差出し、三月二十八日同藩より辨官に申達した。未だ其筋の指令無かりしが本道寺大日寺よりも同樣の伺書を酒田縣東京御廳に指出した。
[#ここから3字下げ]
      乍恐以書付奉願候
羽前國村山郡本道寺村本道寺大井澤村大日寺奉申上候 先般神佛混淆不致樣布告に付當湯殿山儀は佛山之旨長岡局※[#変体仮名え]申上御添|管《(簡カ)》受 先月二十二日神祗官※[#変体仮名え]伺書指上候處 翌廿三日御呼出之上僧分之儀は御取扱無之段御申渡御添|管《(簡カ)》御指戻に相成何方※[#変体仮名え]御伺可申上哉當惑仕 其段當御役所※[#変体仮名え]申上候處 同日神祗官より當御役所へ月山湯殿山之儀は羽前國一の宮にて神体之由被仰達候趣御申渡相成 乍去月山之儀は神社有之天臺宗寺院神勤仕候得共湯殿山之儀者大日如來に而眞言四ケ院佛事に罷在候儀に而 湯殿山四ケ院之内大泉藩御支配地田川郡大網村注連寺大日坊より唯佛山之旨御同藩※[#変体仮名え]申立 同月廿八日辨官に被仰立相成未だ御沙汰以前の處承知仕 右に付ては拙兩院儀も同樣之御伺に付乍恐別紙を以申上候廉々辨官御傳達所に被仰立 四ケ院一樣之御沙汰御座候樣被成下度奉願上候
                羽前村山郡本道寺村  本道寺
                     大井澤村  大日寺
    酒田縣東京御廳
[#ここで字下げ終わり]
 月山は國史に月山神として位階神戸を授與されたので明かに神山である。然るに湯殿山は國史に一切所見無く、寛文六年三月の裁判に湯殿山は眞言宗と裁斷されたので佛ノ山であるが、神祇官の方針は排佛に決してゐるとは云へ神の山である立證は容易に發見されない。大泉藩より辨官に對する催促書について辨官では神祇官並に民部省に移牒して速に調書を出さしむ。
 (太政類典)
[#ここから3字下げ]
    神祇官へ掛合 辨官
去月廿七日湯殿山ノ儀大泉藩ヨリ申出有之候ニ付テハ明細御取調御申越ノ樣申入置候處今ニ御答無之右ハ早々否哉御報承度此段猶又申入候也 庚午八月二日
    民部省掛合 辨官宛
先般御下ケ相成候湯殿山月山羽黒山神佛混同ノ儀ニ付テハ兼テ神祇官ニ於テ夫々取調候後未タ畫一ノ考證不相立儀ニ有之然ル上ハ於當省一躰ノ見込取調兼候間何レニモ神祇官へ御達ノ上神佛ノ區分確定致し候末當省へ關り候分見込可取調旨御達有之候樣致し度依之別紙書類相添此段申進也 庚午 十二月四日
[#ここで字下げ終わり]
 湯殿山が神の山である資料は神祇官並に民部省に於ても發見すること能はざるものゝ如く、民部省では畫一の考證相立たざるにより神祇官の方針にて神佛何れかに决定したる上にて、民部省より當省關係ある分につき取調を命ぜられたしと辨官に回答したのである。
 是に於て神祇官にては同三年十二月二十五日意見書を辨官に指出した。此意見書は未た發見しないからして内容は明かで無い。
[#ここから3字下げ]
湯殿山神佛區別之儀に付別當大日寺申立之趣再應取調別冊御回申候其外始終手續之書類册々四括に致各朱書を以て大意書拔等一袋相添此段申進候也
  庚午《(明治三年)》十二月二十五日       神祇官
   辨官 御中
[#ここで字下げ終わり]
 此頃注連寺大日坊は大泉藩(舊莊内藩主酒井氏知事)支配、本道寺大井澤は酒田縣支局長岡局(寒河江長岡山に在り)の支配、岩根澤日月寺は館藩(舊松前藩主松前氏知事)の支配で東根地方は其領地である。辨官は太政官の庶務を司る所である。
 神祇官又太政官の辨官でも容易に確定し兼ねたものゝ如く、大泉藩の照會に對する同答は遲延した。依て大泉院及び本道寺大井澤の代表は昨三年三月以來一ケ年東京に滯在したが容易に回答無きを以て同四年四月歸國した。是に於て同四年四五月中岩根澤日月寺より館藩を經て伺書を出したものゝ如く、五月には神祇官より辨官に速に商議決定の上回答あらんことを催促に及んだ。
[#ここから3字下げ]
羽黒山湯殿山云々事件於當官取調見込詳細相立舊臘其御官へ申進置候處何分之御商議に相成候哉今般館藩より願出候儀も有之候に付御評決候處早々御回答有之候樣致度候也
  辛未《(明治四年)》五月           神祇官
   辨官 御中
[#ここで字下げ終わり]
 神祇官にては昨年末に最終の意見を具して辨官に回送したが、已に半歳を經過したが未だ何等の裁決を見なかつたので前記の督促となつたのであらう。此神祇官の意見書は見ることを得ざるも飽くまで神道本意であつて、湯殿山を合せて他の二山と共に神の山とすることに決したものらしい。只太政官の決裁を待つばかりである。そこで辨官では神祇官の調査意見に基き五月四日附を以て神の山に決し、十三日神祇官に廻附した。
[#ここから3字下げ]
神祇官へ通知 辨官
湯殿山神佛混淆ノ儀ニ付大泉藩伺書左ノ通當月四日御差圖相成候間爲御心得申入候也 辛未五月十三日
朱書
[#ここから4字下げ]
「湯殿山佛道ヲ以保護セシハ中世以來ニシテ往古ハ全ク神地タル※[#合字「コト」]相違無之ニ付復飾神勤可爲致事」
[#ここで字下げ終わり]
 然るに大泉藩の東京詰役人は五月十二日左の書を辨官に出して、湯殿山は古來神ノ山であるといふ證據は無い。神ノ山である證據並に其神名を示されんことを請ふた。
[#ここから3字下げ]
湯殿山之儀に付兼而奉伺候處佛道を以て保護せしは中世以來にして往古は全く神地たる事相違無之に付復飾神勤可爲之旨今般御付紙を以被仰出候に付早速藩地へ可申達候得共上古如何樣の神名鎭座に而何れの書藉へ相著れ候事哉判然不達候而は何分巨多愚愍之僧侶共天長年間より佛道一遍執法罷在候得は彼此申立間敷にも無之候間御確證の程
何卒委細御達被下度此段尚又伺奉候 以上
  辛未《(明治四年)》五月十二日         大泉藩
   辨官 御中
[#ここで字下げ終わり]
 依て五月十三日辨官は神祇官に通牒して大泉藩に回答すべき神山たる確證を取調へ差出すべしと掛合つた。
[#ここから3字下げ]
神祇官へ掛合 辨官
別紙ノ通大泉藩ヨリ湯殿山神佛混淆ノ儀ニ付再伺イタシ候間確證至急取調御差出可有之此段及御掛合候也 辛未五月十三日
[#ここで字下げ終わり]
六月二十二日神祇官は左の調書を辨官に差出した。
[#ここから3字下げ]
湯殿山神道を以て保護云々旨大泉藩へ御達の處東京詰合藩吏之心得に而徴古之神迹確證伺度申出候趣承知致候右一件に付庚午十二月廿五日申進候神佛區別之儀大日坊申立之趣再度取調始終手續書類之内尚考證書拔別紙一册并に本紙相添此段申進候也
  辛未《(明治四年)》六月廿二日         神祇官
   辨官 御中
              酒田縣支配 湯殿山別當 大日寺
                    同     本道寺
              大泉藩支配 同     注連寺
                    同     大日坊
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
一湯殿山ノ儀社殿ハ無之温泉澤中巖室ヲ寶前ト崇敬致シ弘法開基ニテ大日如來應身權現ト稱し當山ニテハ羽黒月山ニ關係無之一山眞言宗一流神佛混合ノ儀無之唯佛地ノ旨願面縷々申立ニ有之 然ル處羽黒月山ニテハ三山一躰ト申同所三所權現ト相唱本國近國參詣ノ道者行人作法ニモ同樣相唱候儀全古代ヨリノ傳習ニテ獨立ノ佛地トハ難申則國誌奧羽觀迹聞老志出羽國風土記等祭神大山祇命本地大日如來ト相見エ 其外現今先達行人ノ作法法衣ヲ着セス白衣ニテ注連ト名ケ木綿欅ノ如キ物ヲ着ケ道者等悉如斯ナラシメ神咒ヲ唱シメ形裝及温泉寶前始所々ノ拜所幣帛ヲ供シ大梵天ト唱候物モ幣帛ヲ用ヒ 加之當山第一ノ別當寺號注連寺ト號シ一寺ハ注連掛坊ト號シ候等唯佛地ニ於テ注連ヲ以テ寺號ニ呼候儀等四ケ所申立ノ處大ニ齟齬イタシ何分三山一躰ノ神地相違無之候 此故ニ羽黒月山ニテ當山ヲ佛躰ト申候儀神代舊地ノ所以ニ候處當山ヲ以羽黒月山ノ奧院ト稱候ハ全兩部習合ノ癖ニテ寛政度三山道者行人入組ノ事爭論ニ及 則舊幕ニ於テ双方裁許ノ上宗門區別等ノ儀モ有之候 但是等ハ更ニ古ニ徴スル譯ニテハ無之一時ノ裁斷ニ候ヘ※[#合字「トモ」]湯殿山ヘ關係無之證據トハ可申 依之湯殿山別山ノ儀ハ當時ニテモ四ケ寺申立通ニテ相濟可申 神佛區別復正ノ儀ニ於テハ三山一躰神代舊地ニ一洗可致 前件四ケ寺申立ノ儀御聞濟ニ難相成早々御處置可有之儀ニ候 祭神異説有之候儀ハ更二牽強スルニ不及 凡御一新以來神佛區別ノ趣旨神跡ニシテ佛地トナレルヲ區別復正爲致候譯ニテ祭神事歴太古※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58]焉タル所不可知者不知而可也、唯神佛混淆證跡確然タル者是ヲシテ純一ニ歸セシメ候儀則復古ノ御趣意ニ候 當山等前件ノ通弘法開基以往ノ舊地ヲ著眼ト可致儀勿論ノ事ニ候也
[#ここで字下げ終わり]
 之を以て湯殿山は神山に決し、大泉藩とても之に服する外無かつた。又眞言派寺院は數百年間湯殿山を以て、本地垂跡の靈境として尊崇し來りしを是に至りて全く湯殿山と絶縁することゝなつた。只眞言派は神道に復飾するに於て湯殿山に奉仕することを得るの一途あるのみとなつた。
 同六年六月十二日教部省は湯殿山を湯殿山神社と稱し祭神を大山祗神と定め、佛像佛具を取除き神式を以て奉仕すべく、社僧の復飾は任意たるべしと酒田縣に達した。
[#ここから3字下げ]
 酒田縣へ達 教部省
其縣管内羽前國飽海郡湯殿山ノ儀ハ辛未五月元大泉藩ヘ御達ノ通湯殿山神社ト相心得社格見込相立更ニ可申立尤佛像佛具ハ取除社僧復飾等ハ可任望事 六年六月十二日
  但祭神ハ大山祇神卜可心得事
[#ここで字下げ終わり]
依て酒田縣では同六年八月二十二日湯殿山神社々格を國幣中社に列せられんことを請ふ。
[#ここから3字下げ]
 酒田縣伺 教部省宛
當縣管下羽前國田川郡湯殿山ノ儀今般湯殿山神社ト被仰出 社格見込更ニ可申立旨御達御坐候 仰湯殿山ノ儀 淳和天皇天長年中僧空海以來佛道ノ一遍ニ執行保護來差向社格來歴確證ヲ以可取調樣無之 試現今景況ニ寄上申仕候ヘハ同山ノ儀別ニ宮殿ヲ設ケ金銀裝飾スル等ノ事無之山嶽ノ上熱湯湧沸スル天然ノ靈場ヲ以拜所トシ衆庶群參崇慕スル一回來賽スレハ必ス再躋ヲ期スルヲ以 古ヘ戀ノ山ト稱スルハ蓋シ其信念思慕ノ深キニ取ルト申傳ヘ候 近クハ兩羽ヨリシテ三陸信越ノ間常野ノ遠ニ至ルマテ連ヲ結構ヲ立陸續來詣スル者殆ト數萬人ニ及ヒ 或ハ山號ヲ石刻シ村外又ハ田畔ニ建稔秋ヲ祈リ疾疫ヲ除スル等遠國諸州ニ至ル迄枚擧スルニ不遑 實皇國稀有ノ靈場ニシテ人民ノ崇敬尊信スル殆ト東北諸州ノ名山ニ冠トシテ遙ニ管下大物忌出羽兩國幣社ノ上ニ出ルト雖モ星霜千五十年來專ラ佛道ヲ修居候ニ付天長以前社格祭式ノ振古史舊籍中所見無御座候處 今般更ニ神祭被仰出社格御取究ニ付テハ現今相當ノ處ヲ以永世ノ格式御確定相成候外御座有間敷哉ニ候條 國幣社中第一等ノ格被仰出相當可仕哉ト奉存候 乍併即今國幣大社相缺居候ニ付無止事ハ同中社可被仰出哉 右ヨリ相下リ候テハ大ニ人民ノ望ヲ失ヒ自然民心ノ歸向ニ拘リ可申儀ト奉存候條此段見込取調相伺候也 六年八月廿二日
[#ここで字下げ終わり]
 湯殿山は既に神社と決したるを以て、出羽神社宮司西川須賀雄は同六年十二月九日湯殿山は古來月山、羽黒山と離るべからざる縁故あるにより湯殿山を出羽神社支配と爲さんことを教部省に請ひ且つ酒田縣にも其旨を通じた。
[#ここから3字下げ]
酒田縣管下羽前國田川郡湯殿山神社之儀者往古より宮殿も有之全く當羽黒山出羽神社へ合祭致來候に付佛家所謂奧院と申姿に相成居殊に別紙繪圖面之通同|國《?》郡月山神社と三山は是迄不相離場處柄に御座候上は今後も其儘連合致し當社より支配仕候方相當と|致候《(存カ)》此段相伺候尤此旨地方官へも申立置候間此段申上置候 以上
                出羽神社權宮司 兒島高光
                同社宮司    西川須賀雄
  明治六年第十二月九日
[#ここで字下げ終わり]
 之について教部省は十二月十二日酒田縣に右は於其縣差閊無之哉實地篤と調具状可致旨を達した。酒田縣參事松平親懷は此の如き事は地方の状況に對して不條理である旨を回答した。且つ西川が酒田縣を經由しないで直接教部省に申出たのは不都合であると不平を申立てたので、一時此事件は延期となつた模樣である。
 湯殿山の社格は翌七年になりても何の指令無きを以て、同七年二月二十二日酒田縣は縣社指定の噂あるを聞きて重ねて國幣中社を強張し、若しも國幣中社以下に指定せらるゝに於ては、從來の如く佛道修行の靈場たらしめられんことを陳言した。
[#ここから3字下げ]
 酒田縣伺 同省宛
當縣管下湯殿山ノ儀今般湯殿山神社ト被仰出社格見込取調相伺候樣御達ニ付 同山ノ儀ハ淳和天皇天長年中僧空海着手爾後星霜千有餘歳佛道一遍ニ修シ 神式ノ儀ハ古史舊籍所見無之 就テハ社格等ノ舊例一切難相分ノミナラス祭神ノ儀モ夫是諸説申唱ト雖※[#合字「トモ」]上古※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58]焉何等ノ據ル所有テ其説ヲ可定哉 畢竟近世國學者流牽強ノ説不過 要スル所無双ノ靈山ニシテ四方人民ノ尊崇不啻候ニ付改テ神社御確定至當ノ御事ニ可有御座 隨テ官祭被仰出候段異論無之筈ニ候ヘ共國幣ニモ社格三等有之 差向右等格至當ノ見込相伺候儀ト心得當今實地ノ景況ヲ以取調候ヘハ遙ニ管下大物忌出羽兩社ノ上ニ出 蓋シ國幣社中稀有ノ靈場ト可申ニ付大社ノ格相當ニモ可有御座哉ニ候ヘ共 即今大社欠居候ニ付テハ中社ニ可被仰出哉ト先般相伺候事ニ御座候處 豈計ランヤ先縣社ト可定旨御指令ノ趣頗ル驚愕ノ至ニ奉存候 抑湯殿山ノ儀千有餘歳佛道ヲ以保護仕來候トハ乍申兼テ及上申候通 名山ノ聲譽皇國ニ遍ク信越常野ノ遠境至迄陸續來詣群參スル實況既ニ先般伺書ノ文意新聞誌上ニ掲載天下ニ傳播シ 衆ノ見ル處敢テ不然トスル者有御座間敷 然ル處今般改テ神社被仰出候上ハ同山尊信ノ者共一層特殊ノ社格被仰出モ可有之儀ト遠近目ヲ掛テ相望居候情態ノ處 縣社ニ御定相成候テハ大ニ民心ノ望ヲ失ヒ從前貴重ノ佛地一個輕卑ノ神社相成方今敬神ノ御趣意モ如何可有之哉ト自然疑惑ヲ生シ往々御布教ノ障碍共可相成儀ト深ク恐入候間彌即今官祭ノ御沙汰難被及次第モ候ハヽ 却テ從前ノ通當分佛道修行ノ事ニ被成置候方神人共ニ其宜ヲ得可申哉 左モ無御座候ハヽ一層顯乎タル社格ニモ不被仰出候テハ先以神佛混淆引分方等御指令御座候共頑固ノ民情分離方於テ甚無覺束心痛罷在申候 尤御指令ノ趣迚モ先縣社云々トノ事ニ御座候上ハ斷然御確定ノ事共相心得不申候間前文ノ事情篤ト御汲取被分更ニ國幣中社被仰出候樣厚ク御詮議被下度 一旦御指令ノ處遮テ彼是申上候段如何ニモ恐入候ヘ共地方の情状不得止此段猶相伺候也〈二月廿二日/(明治七年)〉
[#ここで字下げ終わり]
三月七日酒田縣は吹浦村大物忌、月山兩神社の社格申請書類を教部省に差出して湯殿山神社々格指令を催促した。
[#ここから3字下げ]
同縣上申 同省宛
當縣管下羽後國飽海郡吹浦村鎭坐月山神社ノ儀別紙ノ通大物忌神社正權宮司出願ニ付出羽神社神官ヲモ相糺候處 是又別紙ノ通申出候ヘ共延喜式神名帳所載ハ則吹浦村鎭坐ノ月山神社ニモ可有御座哉 兩社神官申立ノ儘差出候間猶鑿定ノ上社格ノ儀何分御沙汰有之候樣致度 客歳太政官第四百二十一號御布告モ有之候へ共既ニ去十月中指出置候儀ニ付 此段及上申候也 〈三月七日/(明治七年)〉
 大物忌神社宮司犬塚盛直外一人願 酒田縣宛
(略)
[#ここで字下げ終わり]
 五月三日教部省は月山神社を國幣中社、湯殿山神社を國幣小社に列し、出羽神社と三社を合し一社分としての經費を定められんことを太政官に請ふ。
[#ここから3字下げ]
 教部省伺
酒田縣管内羽前國月山湯殿山羽黒山ノ儀ハ別紙第一號圖面ノ如ク(圖面略ス)月山ハ中央ニ聳ヱ湯殿山ハ其左ニ立チ羽黒山ハ其前ニ横ハリ 山脉連亘峰嶺接續何レモ衆庶ノ崇仰不啻候處 羽黒山鎭坐出羽神社ノミハ辛未《(明治四年)》五月已ニ國幣小社ニ被列候へ※[合字「トモ」]湯殿山神社ハ昨六年ニ至リ始テ神佛區別先ツ縣社ノ列ニ爲据置候處 同山ハ遠近罕比ノ靈山ニテ萬民ノ尊崇遙ニ管内諸社ノ上ニ出候ヘハ國幣社中第一等ノ格可相當哉ニ候ヘ共即今大社ハ相闕居候ニ付無止事ハ中社ニ被仰付度云々 地方官ヨリ別紙第二三號ノ通連々及具状且又今般月山神社々格ノ事ニ付大物忌出羽兩神社神官願書相添別紙第四號ノ通申立候 然處月山ノ儀ハ出羽神官申立ノ如ク羽後國飽海郡吹浦村ニ有之 當今ノ神社ハ全ク後世遙祭ノ社殿ニテ本社ハ即月山々上ノ祠ニ相違無之候ヘ共 〈本文月山ノミナラス大物忌神社モ第一號圖面ノ如ク吹浦村ナル社殿ハ口宮ニテ是又本社ハ同國鳥海山々上ノ祠ニ有之候〉古來大物忌神社ト相並テ御崇敬被爲在候ハ兩社神官申立ノ通歴々史冊ニ見在シ互ニ優劣無之事ニテ前條湯殿山ノ具状共何レモ當然ニシテ今此ヲ取リ彼ヲ閣キ候テハ殆ト偏頗ニ渉リ實ニ不都合ニ候條 願クハ今般更ニ月山鎭坐月山神社〈式内名神大〉ヲ以テ國幣中社ニ湯殿山鎭座湯殿山神社〈式外〉ヲ以テ國幣小社ニ被列而出羽神社ト三社ヲ合シ一社分ノ經費ニ相立候樣被仰付度 左樣《(候カ)》ハヽ僅ニ小社神官ノ定員ヲ中社ノ數ニ増シ祈年新嘗ノ幣帛二座分ヲ加ヘ候迄ニテ上敬神ノ道ニ協ヒ下衆庶ノ望ニ副候次第ニ付厚ク御評議有之度 仍宜旨按等取添 此段相伺候也 五月三日
  宣旨按
月山神社 〈羽前國田川郡月山鎭坐延喜式内/飽海郡月山神社〉
右國幣中社ニ被列候事 太政大臣
湯殿山神社 〈羽前國田川郡湯殿山/鎭座〉
同上文小社
 地方官等へ御達按
今般羽前國月山神社國幣中社湯殿山神社國幣小社ニ被列候處一社事務ノ儀ハ同國出羽神社ト合併取扱可爲致 此旨相達候事 太政大臣
[#ここで字下げ終わり]
太政官は此伺書に朱印にて八月三十一日附を以て認可した。此指令は後に掲ぐ。
 月山神出羽神は國史に見ゆる所にして神山なることは明かである。中世佛教盛んなるに及びて本地垂跡の影響を受けて、月山は彌陀、羽黒山(出羽神)は觀音となつたが、月山神出羽神を無視したものでは無い。然るに湯殿山は國史にも延喜式にも見えない山であつて、初めから佛の山として佛教の靈場であつた。今茲の神佛分離に當りて湯殿山の神佛何れなるやについて出羽神社宮司西川氏と酒田縣役人との間に見解を異にした。西川氏は神ノ山、酒田縣は佛ノ山であると主張したことは前記の往復文書によりて知ることを得。太政官が湯殿山社格の指令を遲延したのは、前記の神佛分離の際に於ける神佛何れなるやに疑問を抱いた爲めである。依て同七年五月八日太政官は教部省に湯殿山の神佛分離に關する一切の書類を廻はさしめた。
[#ここから3字下げ]
 教部省へ掛合 内史
酒田縣管内月山湯殿山兩神社格ノ儀ニ付今般御伺出ノ處右書中湯殿山神社ハ昨六年ニ至リ始テ神佛區別先ツ縣社ノ列云々ト有之 然處右區別相立候節ノ旨趣不分明ニテ取調相成兼候付考證可相成書類一覽致度候間御廻有之度此段御掛合及候也 〈五月八日/(明治七年)〉
[#ここで字下げ終わり]
五月二十九日教部省は左の考證調書を太政官に送つた。
[#ここから3字下げ]
 同省回答 内史宛
酒田縣管内月山湯殿山兩神社格ノ儀ニ付先般伺出候處 湯殿山神社ハ昨六年ニ至始テ神佛區別云々 其節ノ旨趣不分明ニ付考證可相成書類差出候樣御掛合ノ趣致領承候 右ハ徴證可相成書類少ク候條當時取調ノ考證書一通御廻申候 此段及御廻答候也 五月廿九日
 出羽國湯殿山ノ儀ニ付考證
酒田縣管内出羽國田川郡湯殿山ハ太古ヨリノ神山北國ニ比類ナキ靈場ニシテ諸人ノ信仰モ他ニ異ナル※[#合字「コト」]ヨリ人ノ知ル所也 此神山ニ鎭坐ノ神ハ正史ニ見エタル※[#合字「コト」]無シト雖稗史野乘ニ載ル處ヲ以テ之ヲ古典ニ徴スルニ 祭神大山祗命《オホヤマツミノミコト》ナル※[#合字「コト」]一定ナリ 其ニハ三山雅集ニ權現ノ垂跡|大山津見《オホヤマツミ》ノ命也 或云[#二]大己貴[#(ノ)]命[#一]又謂[#二]彦火々出見尊[#一]也言[#二]其中之正意[#一]最初[#(ノ)]説大山祗神也 マタ羽黒ノ事ヲ云ル條ニモ月山ハ月讀尊湯殿ハ大山祗命 〈一説ニ彦火々出見ノ尊又大己貴ノ命〉 ト云ヒ傳ヘタリトアルニテ素ヨリ大山祗神鎭坐ナリシ事著シ 然ルニ靈山神地ニ攀登テ佛龕ヲ設ケ種々ノ妄誕ヲ取唱ヘテ遂ニ神地ヲ奪ヒ佛場トスルハ僧徒ノ常ナルニ合セテ此神山ニモ附會説ヲ唱タリト聞ユル※[#合字「コト」]アリ 同書ニ引或記日養老六壬戌年八月八日行基菩薩湯殿山月山羽黒參籠アリ 一千体ノ地藏木像ヲ造立シ荒澤ニ安置シ玉フ湯殿靈場ニテ祝言秘記親授リ玉フ由古傳ニ見エ侍ルトハ行基參籠ノ時湯殿ノ神〈即大山積神〉ノ教ヲ受テ祝言秘記ヲ授リシ故ニ佛像ヲ造立シタリト世ヲ欺キシモノナレド固ヨリ神ノマサヌ山ナランニハ爭デカ如此云ハン 是ニテモ太古ヨリ大山祗神ノ鎭坐マシヽコトヲ知ルベシ 其後空海モ此地ニ至リツト聞エテ一記ニ大同元年弘法大師湯殿山ニ參籠矣トモ見エタレハ ヤヽヽヽニ奸僧等カ狡意《サカシラ》モテ能除太子ナトノ説ヲ構造セシモノナル※[#合字「コト」] 譬ヘハ空海ガ丹生都姫ノ神教ト僞リテ高野山ノ神地ニ金剛峰寺ヲ建テ最證ガ大比叡神ヲ尊崇スルニ託テ日吉延暦寺ヲ建立セシニ思合スベシ カノ能除太子ノ※[#合字「コト」]如何ニシテ構造セシ※[#合字「コト」]ヲ知ルゾト云ニ 舊記曰人王三十代欽明帝御宇至[#二]崇峻帝王|參拂里《サンフリ》[#一] 〈前文ニ崇峻天皇第三王子一名參拂里トアリ即能除太子ノ※[#合字「コト」]ナリ〉依[#二]天童誥[#一]至羽州時片羽八尺靈烏蜚來而導登[#二]于羽峰[#一] 拜[#二]生身觀世音菩薩[#一]時讃曰善哉聖者修[#二]勇猛行[#一]一身善業普利[#二]于他[#一]當[#レ]感[#二]見彌陀大日所[#レ]居土[#一]則化成[#二]靈烏[#一]蜚[#二]揚月山及湯殿山[#一]且虚空誥曰我是羽黒神社也永欲[#レ]使[#三]汝興[#二]吾山[#一]即授三面寶火珠云々太子此寶火珠以自燒[#レ]之時不動明王自臂放瑞光加[#二]被之[#一]則清淨常火是ナリ今ノ世ニ到テモ湯殿行者コノ常火ヲ用ヒサレハ登嶺叶ヒ難シト見エタル文ニ因テ知ラルヽヲ次々ニ云ン 先ツ崇峻帝ノ御子ハ蜂子皇子、錦代皇女二柱ノミナルヲ蜂子皇子ヲ第三王子ニシテ參拂里一名能除太子ト云リトハ杜撰ノ妄説ナレト〈此皇子ノ出羽ニ下リ玉ヒシ※[#合字「コト」]正史ニ徴ナケレド其有旡ノ蹟ハ計リ難シ〉 羽黒神ヲ稻倉魂神ト云ヨリ宇賀能賣神ト名ノ似タルヲ以テ丹後風土記御鎭坐傳記ナドニ豊宇賀能賣神云々善釀酒飮一杯吉滿病除也トアルヲ思ヒヨセテ能除〈吉《ヨク》萬病ヲ除クノ儀〉ノ字ヲ充タルニハ非ジカ 欽明帝ハ崇峻帝ヨリ以前ノ君ナルヲ此ニユクリナク欽明帝云々ト云ルハ僧徒ノ常言ナレハ咎ムルニ足ラス 八尺靈烏ハ神武天皇熊野ヨリ大和ニ出マス時頭八咫烏ノ瑞アリシヲ取リテ熊野山伏ノ※[#合字「コト」]ニ附會シタルモノトミユ 〈羽黒ニ烏崎ト云所アリテ烏ニ由縁アル※[#合字「コト」]モミエデ烏ハ權現ノ使者トモ云傳ヘ祭傳ニ分羽黒熊野彦山三山之品彙修驗立于左右爭前後也日本西三十三箇州東三十三箇州勘辨於年穀之登所司山伏者羽黒權現一二三者熊野權現四者彦山權現也云々トアル※[#合字「コト」]ヲモ思ヒヨセテ附會セシナリ〉又彌陀大日所居土トハ月山ノ本地佛ヲ阿彌陀佛トシ湯殿ノ本地佛ヲ大日トシ羽黒ノ本地佛ヲ觀世音ト云ヨリ云出セル妄誕ナカラ三面寶火珠マタ不動明王自臂放瑞光トアルハ大山祇神ノ御父神軻遇突智神ノ故事ヲ取レルモノ也 其ハ書記一書ニ至[#二]於火神軻遇突|之《(智脱カ)》生也其母伊弉冊尊見焦而化去 于時伊弉諾尊恨[#レ]之曰云々遂拔[#二]所帶十握劔[#一]斬[#二]軻遇突智[#一]爲[#二]三段[#一] 此各化成[#レ]神[#一]也 マタ一書ニ伊弉諾尊斬[#二]軻遇突智[#一]爲[#二]三段[#一] 其一段是爲[#二]雷神[#一] 一段是爲[#二]天山祇神[#一] 一段爲[#二]高※[#「靈」の「巫」にかえて「龍」、第3水準1-94-88][#一]トアル 爲三段云三面寶珠ヲ附會シ マタ一書ニ伊弉諾尊軻遇突智命爲[#二]五段[#一] 此各化成[#二]五山祇[#一] 一則首化爲[#二]大山祇[#一] 二則身中化爲[#二]中山祗[#一] 三則手化爲[#二]麓山祗[#一] 四則腰化爲[#二]正勝山祇[#一] 五則足化爲[#二]離山祇《シキヤマツミ》[#一] 是時斬血激越染[#二]於石礫樹草[#一] 此草木沙石自含[#レ]火之縁也卜アル 手化爲[#二]麓出祇[#一]マタ草木沙石自含[#レ]火ト云ニ不動明王自臂放瑞光、加被之則清淨常火是ナリト附會セルニテ太古ヨリ此山ニハ大山津見神ヲ祭レル故ニ土俗ニモシカ云傳ヘ僧徒カ種々ノ妄誕ヲ云フニモ又其故實ニ據リテ構造セル※[#合字「コト」]ヲ知ルヘキナリ モシ然ラズハ彼僧徒カ云出セル荒唐不經ノ談トカク※[#「月+分」、下p237-9]合スヘキ謂レアルヘキカハ 斯テ火ト日ハ通音ナルヨリ火ヲ日トシ本地佛ヲ大日トシ其寺ヲ大日寺ト號セシ※[#合字「コト」]モ知ラレ 一説ニ彦火々出見尊ヲ祭ルト云モ火神ノ火ト云ヨリ謬リシ傳ナル※[#合字「コト」]知ルベク 火神ノ御躰ヨリ生坐スル大山祇神ノ鎭リ坐ス靈山ナル故ニ登山スル者殊ニ火ヲ重ンスル例ナリシガ本ニテ修驗等モ火ヲ愼ミテ常火堂ト云ヲ設ル※[#合字「コト」]トナリシナルベシ 其常火堂ハ古縁起ニ能除太子大日如來ヲ頂禮シ奉ラントシテ登嶺ノ砌合向ニシテ生身ノ尊像ヲ拜ミタマフニ御身ヨリ火出テ太子ノ膚ニ燃付キ煩惱苦ノ三毒ヲ消滅シ玉ヘハ火ハ則昇天シ尊像御膚ノ火ハ則寶珠トナリ此玉ヲ心ニ隨ヘテ所作セヨトノタマヒ或ハ温泉ノ五味ヲ湧出シタマフ 依之湯殿山ト名ツケラル 其時太子五味ヲアヂハヒテヨリ以來湯殿別行ヲ始メ一期ノ間別火ヲ用ヒ群生利度ノタメニ寶珠ヲ荒澤ニ納メ玉フ 于時大聖明王ノ左臂ヲ切タチ玉ヒテ法火ヲ出シ永クコノ火ヲトヾメ玉フニヨリ萬世不退ノ常火トナリテ三山往詣ノ行者此火ヲ以テ行業ヲツトムト記セルモ此故ナラン 又此文中ニ能除太子温泉ノ五味ヲ湧出シ玉フ 依之湯殿山ト名ツケラルトハ今山上ニ自然湧山ル温泉ノ靈場ヲ云ルニテ湯殿ト云ルモ此ニ起レリ 湯殿山トハ湯處ノ山ト云義ニヤアラム 又※[#「竹/甫/皿」、第3水準1-89-74]※[#「竹/艮/皿」、第4水準2-83-69]傳ニ乙丑ノ年乙丑ノ日ハ法身大日垂跡和光出羽國大梵字川上五味藥湯ノ源ニ置居《ヲキスヱル》湯殿權現ト顯レ給フ日也云々、號湯殿山マタ本山ノ祭神ヲ或云大已貴命ト云説アルヲ伊豫風土記ニ湯ノ郡大已貴命見悔耻、而宿奈毘古那命欲治、而大分速見湯自下樋持度來、以宿奈毘古那命、而浴漬者、※[#「斬/足」、第4水準2-89-45]間有治起居云々、伊豆風土記ニ大已貴尊與少彦名我秋津州憫民夭折始製禁藥湯泉之術云々トミエ 諸國ノ温湯ニ大已貴命ヲ祭ルガ多キヲ以テ思フニ極メテ後ニ大已貴命ヲ配祭リシナルベシ カヽレハ湯殿山ハ太古ヨリノ神山ニテ大山祇命ノ鎭坐ス靈場ナルガ温湯ノ奇驗モアルニヨリテ大已貴命ヲモ合祭レル神社ナリシヲ後世僧徒修驗等ノ恣ニ種々ノ附會説ヲ取唱ヘテ羽黒月山湯殿ヲ合セテ三所權現ナリト申シ遂ニ神地ヲ佛場トセシモノナル事明カナリ
[#ここで字下げ終わり]
此教部省ノ考證は三山雅集の記事を根據としたので、三山雅集の杜撰にして典據雜駁なることは一々之を評論するまでも無いことである。この三山雅集の記事を批評考證した教部省の意見即ち湯殿山を神山と爲す根據も薄弱なるを免れない。依て著者の私見では湯殿山の温湯湧出は天然自然の現象である。之を最初に發見して尊崇したのは神道信者であるか或は佛教信徒であるかに因りて、神山又佛山何れかに決することであらう。
 六月五日教部省は太政官より酒田縣との往復文書を差廻はすべしとの命により一切の關係文書を差出した。
[#ここから3字下げ]
 教部省回答 史官宛
湯殿山神社治定の節酒田縣へ達書御入用ニ付御掛合ノ趣致承知候則別紙達書並關係ノ書類共悉皆御廻申候也〈六月五日〉
[#ここから5字下げ]
本件掛合書ノ寫差廻し候樣庶務課ヘ申遣候處寫無之旨返答有之  榮秀
[#ここで字下げ終わり]
此時太政官に差廻はした酒田縣達書は前に掲げたれば略す。
 同七年七月七日教部省は湯殿山を國幣小社に列し、月山神社、出羽神社と三社を合せて經費を一にせんことを式部寮左院に伺出た。
[#ここから3字下げ]
 庶務課議按 〈式部寮左院/内務課歴査〉
教部省伺、酒田縣管下羽前國月山湯殿山羽黒山イツレモ衆庶ノ崇敬不啻候處右ノ内羽黒山鎭座出羽神社ノミ已ニ國幣小社ニ被列候ニ付今般更ニ月山湯殿山兩神社共國幣社ニ被列而出羽神社共三社ヲ合シ一社分ノ經費ニ相立度趣審按仕候處湯殿山ノ儀ハ天長年中僧空海開基以來佛道ヲ以尊崇致來祭神等ノ儀ハ古典正史ニ所見無之候へ※[#合字「トモ」]往古ハ神地タルニ相違無之考證有之僧侶復飾神勤可爲致旨辛未五月中大泉藩へ御指令相成尚昨六年六月中教部省ヨリ湯殿山神社ト相心得社格見込相立可申立尤佛像佛具ハ取除社僧復飾等ハ可任望祭神ハ大山祇神ト可心得旨酒田縣へ相達候趣モ有之既ニ神社ニ決定ノ上ハ近國無雙ノ靈山人民尊崇ノ實況ニ對シ縣社ニテハ不相當ノ趣縣官具状ノ旨モ尤ニ相聞候問同省見込ノ通リ國幣小社ニ可被列哉左候ヘハ月山神社ハ式内大社ニテ古來大物忌神社ト同樣ノ社格ニ付是又伺ノ通國幣中社ニ列セラレ就テハ三社經費等ノ儀モ申立ノ通御許可可相成可然哉仍テ御指令並御達按等相伺申候
〈七月七日/(明治七年)〉
[#ここで字下げ終わり]
 八月三十一日太政大臣は月山神社を國幣中社、湯殿山神社を國幣小社に列し、出羽神社と合せて經貴一途の指令を發した。五月三日教部省伺書に朱書にて左の如く達した。
 (朱書)
[#ここから3字下げ]
伺ノ趣聞届候條三社合併一社分ノ經費ニ相立候儀者其省ヨリ酒田縣ヘ可相達事 八月卅一日
 八月三十一日 七年
   教部省酒田縣へ達 各通
  月山神社 〈羽前國田川郡月山鎭坐/延喜式内飽海郡月山鎭坐〉
  右國幣中社ニ被列候條此旨相達候事
   同上   同上
  湯殿山神社 羽前國田川那[#「田川郡」か]湯殿山鎭坐
  右國幣|中《(小カ)》社ニ被列候條此旨相達候事
[#ここで字下げ終わり]
 之れで湯殿山に關する案件は一切解決したが、殘る問題は眞言四ケ寺の去就である。湯殿山が神山と決してからは以上の四ケ寺は全く湯殿山と縁を絶たねばならぬことゝなつた。古來湯殿山を本尊として多數の信徒を吸收して來た四ケ寺は本尊を奪ひ取られては死活に關する重大事である。是に於て大井澤本道寺の僧徒は複飾して羽黒山出羽神社宮司の支配となつたが、注連《シメカケ》の注連寺大網の大日坊は複飾を拒み眞言二寺として現在に至るまで存續してゐる。然るに湯殿山と關係を絶つた二寺は衰微するばかりである。只舊來の慣習にて三山に參詣する者は此二寺にも參詣又は宿泊するを以て之等の收入にて寺を維持してゐるばかりである。
[#ここから3字下げ、地から1字上げ]
以上二編は鷲尾順敬氏の明治維新神佛分離史料と明治四十五年四月八日發行佛教史學第二編第一號所載の無能生氏稿湯殿山事件の眞相に據る。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]