第五編 室町時代

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     一 羽黒山三所大權現の懸佛

 當山の史實は之より漸く資料多くなり、文献並に遺物の見るべきものあるが、羽黒の古代記録である暦代記の記事は眞僞混淆にして判定頗る因難[#「困難」か]である。その中で顯著なる例を擧ぐれば黄金堂は鎌倉初期に土肥實平の建立、五重塔は天慶中平將門又は北條高時の建立とあるも、今日之を建築學上又は文献上より見るに、何れも當室町期の建築である。羽黒山上の三所權現堂は最も重要の本堂であるが、その創建は元より詳らかで無く、長年月の間屡々火災に遭ひ屡々改築された。修築年月の確實となつたのは慶長十年以降からである。
 三山の山神の本地佛は當山の修驗道の創始と同時に定められたと思ふが、之が確實なる記録に現はれたのは當時代である。次に羽黒山上の本社又は本堂の名稱は何んと云つたかは、之亦當時代に至りて始めて明かに知ることができたが、之に安置する本地佛は羽黒山の本地佛の外に月山神・湯殿神の本地佛であつた時には、本社又は本堂の名稱は何れが妥當であるか。以上の實質的問題は當時代に入りて始めて發生したのであつて、當山に在りては最も重要なる事である。
 三山雅集に永享二年(二〇九〇)八月一日將軍足利義教の管領細川時之の寄進した大懸佛の繪を載せてある(寫眞參照)
 この懸佛は寛政八年二月十五日夜の火災にて燒失したが、諸記録によりてこの懸佛に對する諸家の意見を知ることができる。先づこの懸佛の大さは徑八尺で、中央は聖觀音、右座は阿彌陀、左座は大日である。この三尊は三山神の本地佛であつて、觀音は羽黒山、大日は湯殿山、阿彌陀は月山の本地佛で、之を同懸佛内の額銘に南無羽黒山三所大權現と題してある。この懸佛について有力なる諸家の意見は左の如くである。
 (羽黒山暦代記)
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永享四年壬子相國寺之勸進船渡唐阿吽※[#「さんずい+云」、第4水準2-78-25]山伏將軍ノ御判ヲ捧ケ爲造立御正体ヲ羽黒ノ大堂ヘ掛之
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[#図版(005.jpg)、本文は回り込み、本地御正躰圖 附畧縁起]本地|御正躰《ミシヤウダイ》圖 附畧縁起
御正躰之内額銘[#図版(006.jpg)、本文は回り込み、御正躰之内額銘]
 (出羽風土略記)
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伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波の神社も國中の式座なれば、祭神往古は玉依姫命一座と見るべし。羽黒三所權現と稱するは、後世の事成るべし。義經記七卷に羽黒權現の御正躰ハ觀音にておわしますとあり、此頃までは三所と云事なしと見へたり。今の如く羽黒・湯殿・月山三所にして、彌陀大日觀音なりといはゞ、何ぞ義經記に觀音一躰を羽黒權現の御正躰といふべきや、能々思慮すべき事也。三百三十二年前永享二年の納物に羽黒山三所權現とあれは、近代の事とも見へず、然れとも三所は羽黒一山の内ニおゐて別々にありて同殿に祭るの號にはあらずにや、たとへば熊野三所權現と一連に稱すれども同殿にはあらず、本宮新宮那智格別也。近くは吹浦兩所も同殿にはあらす格別也。羽源記を見るに、大堂御手洗の前ニ建並へたる堂社の内ニ月山大權現・湯殿山大權現あり、是を以見れば羽黒大權現と同殿ニ月山湯殿兩權現を祭るにはあらず、巨細の事は末に記す。
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 (同書)
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内外陣の上に本地御正躰とて、竪横八尺餘にて唐金にて佛像三躰鑄付たるものあり、其内に額あり南無羽黒山三所大權現と銘す。二行ニ大將軍義教大檀那細川|持氏《之カ》永享二年八月一日本願律師とあり、永享ハ百三代後花園院の年號にして、當年まで三百三十二年〈○出羽風土略記の著は寶暦十一年〉義經記七卷辨慶か詞ニ羽黒山權現の御正躰觀音のおわしますにとあり、然れは御正躰とて佛像を用る事も久しき事也。大堂にかけ置たる御正躰と云ものも觀音なりとぞ、元祿十七年東叡山一品公辨法親王の書せ玉ふ額に、羽黒山三所大權現とあり。世人是を拜して羽黒月山湯殿三所の神躰同殿に御鎭座也と思へり。寺家衆徒も又如是にや、また秘傳等もあるにや、予按るに月山大權現ハ月山の頂に社あり、湯殿山には社なしといへども、湯出る所を神躰とし、別當も別山にして東叡山の御支配ににあらず[#「にあらず」か]、大堂の内に祭る月山湯殿の二所は奈良の春日を諸國に祭て、春日の社と云が如きか、俗是を勸請の社と云、此例に准すれは羽黒權現ハ…………より移坐したる一社にして、二神は後代の勸請と見へたり。天宥以前荒澤經堂院の草案したる羽源記を見るに、月山湯殿兩權現を勸請したる神殿は別殿に二柱あり末に注す。月山湯殿の兩山は高山深澤にして夏月ならでは參詣ならず、故に朝日拜禮の爲に勸請せしと見へたり。然れとも大堂の内に二山の神を勸請とはゞ又別殿に二山の神を勸請するには及ばざる事歟、又二山の祠別殿にあれば、大堂のうちに兩山を勸請には不及事にや、是を按るに羽黒三所と書は、羽黒一山の内別に社ありて大堂は三所の神の本地佛を建並べて大衆會席の道場にや (中略) 古は神祠と本地堂格別也しにや (中略) 大堂に向つて右に六所の社辨才天の堂地藏堂東照權現山神の堂藥師堂鐘撞堂愛染堂觀音堂大黒堂あり、左には天宥の遺影堂役ノ行者堂能除堂辨才天稻荷の社あり。御手洗の前に慈覺大師堂庚申堂彌陀堂虚空藏堂五智如來堂釋迦堂月山大權現あり、其數堂舍數多あれども繁けれは略之
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 出羽國風土略記の著者進藤重記は吹浦兩所宮の祠官であつて熱心なる神道家で、此書は寶暦中の著である。前記の重記の意見の要旨は羽黒山祭神を玉依姫としたのは吉田神道に據れるものにして、且つ月山神・湯殿山神を羽黒本社に勸請し三所權現と稱した。然るに三尊佛をも本社に三神の外に安置して三所大權現と云つたこともあつたでないかと云つてゐる。
 之について著者の私見を述ぶるに、羽黒山上の本堂に本地佛の觀音を安置することは當然である。次に月山・湯殿山の本地佛を羽黒本堂内に三體並べて安置したのは、月山・湯殿山は高山深澤にして夏期の外は參詣できない、又老幼婦女の參詣は夏期とてもできぬ、依て羽黒本堂内に安置して、廣く民衆の參詣に便にしたに過ぎぬのである。山上の堂庭及び參道筋に諸多の堂塔を建立し、其中に月山又は湯殿山の祠堂あるも、之等は時代の民衆の信仰に迎合せんが爲めに隨時に建てたもので深く穿議するに及ばぬことゝ思ふ。
 羽黒本堂に三山の三尊佛を安置したからして、懸佛内の額銘にあるやうに羽黒山三所大權現と云つたのは妥當である。只この名稱は元享二年の懸佛に始まつたものにあらずして、之より前の名稱であつたに相違無いが、其起元は吉田神道である。依て本堂の名稱は羽黒山三所大權現であつて、之を略して羽黒權現堂と云つたのである。次に三尊佛を權現と云つた理由については次編に述べる。

     二 吉田神道と羽黒山縁起

 我國の宗教史を見るに、平安朝初期に佛教最も隆盛を極め、就中天臺・眞言兩宗は全國を風靡した。且つ此兩宗は兩部習合本地垂跡を唱へたので、神佛合一して神社に佛經を飜讀せざる所無いことゝなつた。藤原時代の初期に完成した延喜式を見るに、神道の復興を企圖したやうだが、藤原氏は代々佛教の尊崇最も盛んであつたのであれば、延喜の神道振興は永續しなかつた。鎌倉時代も同じく佛教隆盛を極めた。
 後醍醐天皇北條氏を滅して建武中興を遂げさせられたが僅かに三ケ年にして、足利尊氏の叛逆によりて室町幕府の時代となつた。斯く建武中興は端期間であるとはいへ、政權を幕府より回收して王政復古を遂げ、延喜天暦の治を爲さんとした。之迄我國の神道は僅かに伊勢神宮の祠官によりて細くも維持されて來た所、北畠顯房に至りて獨り政治上ばかりで無く、神道復興に大なる衝動を與へ、足利時代初期に忌部正通一條兼良が出で、次で京都吉田神社の祠宮である吉田家の唯一神道に至りて大成飛躍を爲すに至つた。この吉田家唯一神道の内容は吉田|兼倶《かねとも》の著書によりて知ることができる。その大意は唯一とは兩部習合に對する語で、神道を以て諸教を超越する大根本に立て、儒教、佛教は其枝葉華實である。顯露の淺義では、佛を以て本地と爲し、神道を垂跡と爲せども、隱幽の密義では、神を以て本地と爲し、佛を以て垂跡と爲すのである。故に全く佛を排斥したのでは無く、著るしく密教の行事を加味して神道行事を定めた。
 依て本地佛垂神説は平安朝よりあつたが、本地神垂佛説は吉田家の唯一神道に始めてできたのである。權現といふ名稱は最勝王經に世尊[#(ノ)]金剛體 權[#(リニ)]現[#二]於化身[#一]とあるによりて、我國の僧徒は我國の諸神は世尊の權《か》りの現れ即ち權現であると説き、平安朝の中頃より神に權現號を付することが行はれた。出羽三山に於ける權現號の創始は修驗者が三山を開いた當初にあることゝ思ふが、之れが確實なる資料に現はれたのは元享二年(二〇九〇)の懸佛である。この懸佛は三山資料として最も貴重なるものであるが、寛政八年二月十五日夜の火災にて燒失したのは遺憾である。幸に三山雅集に繪圖銘文を載せてあれば、其形躰を知ることができる。
 この懸佛の三尊佛並に額銘文は前に掲げた如くであつて、三尊佛は觀音大日阿彌陀の鑄出しで、この懸佛の内にある額銘に羽黒山三所大權現と鑄出してある、即ちこの三尊佛を權現としたのである。從來の本地佛垂神説では神が垂跡で權現であつたのが、この懸佛では本地神垂跡佛であつて、吉田神道と一致するものである。恰もこの懸佛を鑄造寄進した元享二年は吉田神道の發生時期に相當するのであれば、この懸佛は同神道の影響を受けたことは明かである。
 次に當時代の記録に羽黒山縁起と睡中問答あり、縁起は本地神垂佛説にして、睡中問答は本地佛垂神説であつて、當山に於ける神道家と佛教家との經緯が窺知される。先づ縁起を見るに、その本地神垂佛説は吉田神道と一致し、又佛權現説は元享二年の懸佛と一致するものである。その本地神は三山の神にして未だ神代の神を配祀したもので無い。
 (羽黒山睡中問答並縁起)
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      出羽國羽黒山建立之次第
夫當山縁起者一山同心[#(シテ)]唐櫃封[#二]入權現御寶殿[#一]奉[#二]籠置[#一]處 建保六年三月六日當社回祿[#(ノ)]時令[#二]紛失[#一]畢 然間以[#二]舊本[#一]拜[#二]見之[#一] 古老物語如[#レ]形令[#二]注記[#一]也謹勘[#二]舊貫[#一]當山者崇峻敕入之勝利觀音涌出ノ靈場[#「觀音涌出ノ靈場」に白丸傍点]也聖徳太子松容出則能除上人草創去 以來鎭[#(ルニ)]王城之北[#(ニ)]峙[#(チ)]專鬼門之方[#(ヲ)]守護[#(ス)]數百余回之星霜雖[#二]年舊[#一] 三所權|扉《現カ》之威光惟日新[#(也)] 因[#レ]茲累代勅補貫首□王一垂妙經講讃之寶物也 長久令持 五百余宇住侶鳳帝三塵神咒勤行 奉[#レ]祈[#二]國家安全[#一] 然蜉因龍□日束夷蜂起云雖[#レ]及[#二]度々代々逆亂[#一]天下靜謐[#(ニ)]屬[#(スル)]事只是當山驗徳也 誰人我山[#(ヲ)]歡仰[#(シ)]令[#レ]之□[#□のなかに「乎」] 抑仁王卅三代崇峻天王御年〈□/死〉聖徳太子甲斐[#(ノ)]黒馬[#(ニ)]令[#レ]乘給而日本國中駈廻[#(リ)] 佛法繁昌[#(ノ)]靈地[#(ヲ)]令[#二]尋求[#一]給[#(フ)]處 出羽州謌連里打通[#(リ)]給[#(ヒ)] 暮黎峰[#(ニ)]當[#(テ)]紫雲[#(ノ)]聳[#(ノヲ)]御覽[#(アツテ)]佛菩薩[#(ノ)]御座所[#(ノ)]社[#(ニ)]紫雲立物思食[#(シ)]馳寄御覽[#(スルニ)] 大椙[#(ノ)]本[#(ニ)]正觀音[#「正觀音」に白丸傍点][#(ノ)]靈像令[#「靈像令」に白丸傍点][#二]湧出[#「湧出」に白丸傍点][#一]給[#(フ)] 希異成[#レ]思任[#二]渇仰[#(ノ)]心[#一] 切[#レ]木苅[#レ]草 有[#二]一日一夜御逗留[#一]令[#二]勤行[#一]給 而崇峻天皇第三御子御顏醜[#(ク)]眦長[#(ク)]髮中[#(ニ)]入[#(リ)]口腋深[#(ク)]耳[#(ノ)]根[#(ニ)]通[#(シ)]鼻下一寸面之長一尺如[#レ]是 替[#(リ)][#レ]人給[#(フ)]間不[#レ]備[#二]帝位[#一]春日不[#レ]立 非[#二]□人[#一]名號[#二]參弗梨大臣[#一] 而父王治世五年〈壬/子〉曾我爲大臣被[#レ]弑 依[#レ]之參弗梨大臣出家遁世 令[#三]修[#二]行山林斗藪[#(ノ)]行[#一] 彼大臣者般若心經[#(ヲ)]信[#(シ)]出息[#(ニ)]一卷入氣一卷讀誦[#(リ玉フ)] 云々 其聲無[#二]他[#(ニ)]聞[#一][#(ユルコト)] 但能除一切苦眞不虚[#(ト)]云[#(フ)]所[#(ロ)]計[#(リ)]自聞[#(セリ)] 故名號[#二]能除[#一] 爰聖徳太子彼能除上人[#(ニ)]語[#(テ)]曰[#(ク)] 出羽國歌連里暮黎[#「出羽國歌連里暮黎」に白丸傍点][#(ノ)]嶺觀音涌出[#「嶺觀音涌出」に白丸傍点][#(ノ)]靈地[#「靈地」に白丸傍点]在[#レ]之 彼[#(ノ)]所[#(ヲ)]尋下[#(リ)]令[#二]勤行[#一]給曰 上人早隨[#二]太子教[#一]出羽國歌連里不[#レ]見下[#(リ玉フ)]處[#(ニ)]尊曾無[#レ]之 而八尺靈鳥俄飛來 上人出暮黎峰根本椙本[#一]奉[#二]引導[#一] 彼[#(ノ)]處[#(ハ)]觀音涌出之[#「觀音涌出之」に白丸傍点][#(ニ)]靈地[#「靈地」に白丸傍点]也上人感涙|巾《?》[#二]慈眼[#一]拜 此非[#レ]木亦非[#レ]金縮生身以[#「以」に白丸傍点][#二]御躰[#「御躰」に白丸傍点][#一]佛[#「佛」に白丸傍点][#(トセン)]神[#「神」に白丸傍点][#(トセン)]※[#「ひとやね/忝のあし」、上p59-4][#「※」に白丸傍点][#(ルニ)]可[#「可」に白丸傍点][#二]垂跡應化[#「垂跡應化」に白丸傍点][#一]云 上人尊像御前[#(ニ)]安坐[#(ノ)]令[#二]勤行[#一]處[#(ニ)] 以前[#(ノ)]靈鳥開[#レ]翅根本[#(ノ)]上[#(ニ)]居[#(メ)]上人[#(ヲ)]奉[#レ]覆 而[#(ル)]間風雨[#(ノ)]懸[#(ルコト)]無[#レ]惟[#(シ)] 爰歌連里有[#二]一人獵師[#一]爲[#レ]狩[#一]畜類[#一]東山[#(ニ)]入處[#(ル)] [#(ニ)]手負熊付[#二]其跡[#一]追行程 [#(ニ)]暮黎峰上[#(ノ)]人見[#(ヲ)]付[#(ケ)]人倫[#(カト)]思[#(ヘバ)]手足不[#レ]動 身躰諸生[#レ]苔石巖疑者眼忽眸[#(マシロケ)] 經讀聲如[#二]虫音[#一]成[#二]不思儀[#一]問云 汝何人 答曰我是求法※[#「くさかんむり/廾(右下に丶)」、上p59-7]也 重問曰何食爲法味何衣爲法衣 其後上人默然不語 又獵師熊追去畢 而推古天皇治世天下[#一]時[#(ニ)]藤原[#(ノ)]降季卿申[#(ス)] 出羽國司[#(ト)]成[#(リ)]下向[#(シ玉フ)] 一人四ケ年間國□之政[#(ヲ)]取[#(リ)]行[#(ヒ)]然爲[#レ]□[#□のなかに「閑」][#二]國内狼藉[#一]且爲[#二]國産食[#一]國中郡郷次第令[#レ]廻給處[#(ニ)] 歌連里介川[#(ト)]曰[#(フ)]所[#(ニテ)]俄[#(ニ)]腰萎痛[#(ヲ)]請[#(ケ)]少[#(モ)]不[#レ]動御座[#(ス)]間 初湯治炙治藥治針治 □術治以[#レ]之雖[#レ]治不[#レ]得[#二]少減[#一] □今有[#二]法治計頼[#一] 若佛神[#(ノ)]尤[#(メ)]物[#(ノ)]崇[#(リ)]何度在覽請[#二]貴僧[#一]祈見宣給共 其頃法師希[#(レニ)]無[#二]貴僧[#一] 如[#レ]是已三ケ年歴[#二]春秋[#一]畢而以前[#(ノ)]獵師國司御館[#(ヘ)]參[#(ル)]事有 其砌[#(ニ)]侍申[#(テ)]曰[#(ク)] 某[#(コソ)]貴僧[#(ヲ)]見爲[#レ]參候 暮黎峰[#(ノ)]上人[#(ノ)]御事[#(ヲ)]委細語申[#(ス)] 隆季卿大喜獵師先立令[#レ]進[#二]使者[#一] 國宣成[#(ル)]樣[#(ニ)]早有[#二]御下向[#一]痛患可[#レ]令[#二]加持[#一]云 上人返答曰吾依[#レ]求[#二]佛法[#一]無[#二]寸隙[#一] 豈痛者加持[#(センヤ)] 御下向無[#レ]惟 二度國宣[#(ニ)]云[#(ク)]王地[#(ニ)]乍[#レ]懷[#(シ)]國宣依[#レ]不[#レ]用既違勅[#(ノ)]仁也 然早國内不[#レ]可[#二]跡[#(ヲ)]留[#(ム)][#一]云 又御返事曰數年諒燠雖[#レ]逆吾未[#レ]費[#二]一蓙國産[#一] 敢國宣非[#レ]可[#レ]恐云無[#二]御下向[#一] 第三度國宣恐惶畏慇懃被[#レ]申 佛法※[#「不/見」、第3水準1-91-88][#(メ玉フ)]事偏衆生利益[#(ノ)]爲[#(メナリ)]菩薩行[#レ]□豈我等不|爲《?》可然者有[#二]御下向[#一]令※[#「りっしんべん+(離−隹)」、上p59-15][#二]痛加持[#一]者利[#二]益衆生[#一]御願彌成就 佛意[#(ニ)]相叶冥慮[#(ニ)]可相叶由丁寧被[#レ]申 其時上人納受早可[#レ]在[#二]入御[#一]之由有[#二]御領掌[#一] 守護大悦成御乘物被[#レ]進[#二]四方輿[#一] 上人此[#(ヲ)]不[#二]受取[#一]脛巾藁履而國司使者歩連令[#二]下向[#一]給 既國司館近付給 但未三町計近付神火出來國司館則燒失 猛火洞然押覆而三年床臥沈不[#レ]動 人此火驚立馳走辨□自在 然後暫此見火則消舘更不[#レ]燒 腰痛忽平癒 隆季卿成不思儀大悦給無限 其後上人到來□吏向[#二]上人[#一]曰家不[#レ]燒腰痛平癒被[#レ]申梟[#(ル)] 土人笑曰吾般若智火先遣 於今痛惱更不[#レ]可[#レ]有[#二]子細[#一]云 感涙[#(ヲ)]押[#(ヘテ)]響應[#(ノ)]爲[#(メニ)]雖[#レ]奉[#二]舘[#(ニ)]請入[#一] 上人曰吾佛法[#(ヲ)]※[#「不/見」、第3水準1-91-88][#(ムルコト)]暫時無[#レ]隙寸陰不[#レ]可[#レ]送 則軈令[#レ]登[#レ]山 然條國司大歡喜上人[#(ノ)]安座[#(ノ)]上[#(ニ)]御室造係 是則當山坊舍堂舍初也 其後良田寄進日々供養梟[#(ル)] 爰上人|擔《歎カ》願五躰等身皆共涌出[#(シ)]衆生[#(ヲ)]利益[#(シ)]給[#(フ)]祈念有 上人之勸請翻忽尊容五躰等身不[#レ]殘悉皆涌出[#(シ)]給[#(フ)]又上人宣給[#(フ)]觀音三世諸佛大慈大悲集[#(ヲ)]一躰[#(ニ)]持[#(シ玉フ)] 一佛[#(ノ)]慈悲無量無邊也 況於[#二]三世[#(ノ)]諸[#(ノ)]慈悲[#一]乎 故今令[#二]衆生憐愍[#一]事父母等[#二]痛子思[#一] 見[#二]彼慈[#一]此見[#レ]悲 末代々衆生 惡不善誑惑之物成[#(ラハ)]且[#(ハ)]此[#(ノ)]威且是徴而大慈大悲餘[#(アリ)] 神意[#(ニモ)]不[#レ]可[#レ]叶佛意不[#レ]可[#レ]進 而脇士奉[#(ランハ)][#二]加造[#一]思食[#(シ)] 衣木《ミソキ》求給而過去□莊嚴劫以來有[#二]北海[#(ニ)]浮木[#一]〈即桑木也〉毎[#レ]夜放[#レ]光 上人件令[#二]靈木[#一]妙見菩薩軍茶利明王[#「妙見菩薩軍茶利明王」に白丸傍点]二像奉[#二]加造[#一] 夫妙見大※[#「くさかんむり/廾(右下に丶)」]者外面如[#二]美女[#一]青柳聳[#二]微風[#一]尚[#(ホ)]和[#(カ)]也 滿月東山端出妙見給内心惡渡給不信懈怠輩誠罰 汗穢不淨之族|尤《トカメ》給 殊精進間瞋恚起者深神罰 軍茶利明王外面如[#二]夜叉[#一]住[#二][#定本では[#一]]暴惡相[#一] 三面六臂現形青黒色 上下互食遠方[#(々)]御足蹈下方[#(々)]御足立惡魔降伏給也 内心慈悲深重而衆生憐愍給 是則中臺觀音現智[#(ノ)]二|世《也》[#(カ)] 三尊南方教主三變寶珠坐 故福智無量也 然※[#「言+比」、上p60-11]餘佛陀超過 彼々合號[#二]三所權現[#「三所權現」に白丸傍点][#一] 謬[#(テ)]此山[#(ヲ)]望[#(ムノ)]人立所[#二]離[#二]生死古郷[#一] 戯彼踏[#レ]地族親至[#二]菩提新都[#一] 三禰[#二]我名[#一]徳起[#二]千萬倶脛那由化如來稱[#一] 一時禮拜[#(ノ)]福[#(ハ)]六十二億恒沙劫[#(ノ)]菩薩不靈禮 諸人願望成就[#(スル)]事如[#二]永隨[#レ]器 正[#二]萬類[#一]預御生[#一]※[#「古/又」、第4水準2-3-61]似[#二]鏡形取[#一] 從[#二]開山古[#一]至[#二]當代今[#一]神徳嚴重[#(ニメ)]|謁焉《?》也 委細記不[#レ]遑而豊葦原得[#レ]生類誰人不[#レ]仰[#二]權現威光[#一]乎 秋津島得[#レ]形輩何族[#(カ)]吾山[#(ノ)]預[#(サラン)][#二]利生[#一]哉而己
 (外略)
   永祿三年〈庚 / 申〉霜月上旬書之   自賢院 ○
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 此縁起の行文拙劣にして意通ぜざる所多いが、羽黒山の縁起にて今日殘存するものは之れが最古のものであるから、當山にて此縁起を作つた動機、開山、本地垂跡を知るに最も重要なる資料である。
 平安中期以降我國は本地佛垂神説隆盛を極め、當山も同じであつた。室町初期に至り吉田神道起るに及んで、本地神垂佛説は大なる勢力を以て行はれ、元享二年の羽黒山三所大權現の懸佛は幕府の管領細川持之より納められた所以である。次にこの縁起を見るに大日彌陀觀音の三尊佛を以て三所權現と稱した。只懸佛は三山の埀跡佛を三所大權現とし、縁起には羽黒山の正觀音と脇士妙見軍茶利[#「軍荼利」か]を以て三所權現とした差あるばかりで佛を權現としたことは同じである。次に羽黒山の徳を述べて東夷蜂起云雖及度々代々逆亂、天下靜謚[#(ニ)]屬[#(スル)]事只是當山驗徳也 誰人我山[#(ヲ)]歡仰令[#(ン)][#レ]之乎とありて神とは云はないが山神の徳を述べてゐる。この羽黒山より湧出したのが即ち觀音であつて、山ノ神が觀音となりて現はれたので、本地神垂跡佛である。依て脇士と合せて三所權現と云つた。當山の修驗道を熊野又は吉野より獨立して、羽黒修驗道の一派を立てたのは此の時代ではあるまいか。之を要するに當縁起の主旨は本地神垂跡佛であつて、開山は蜂子皇子とした。羽黒の三所權現について懸佛は三山の埀跡佛、縁起では觀音妙見軍茶利[#「軍荼利」か]であつて一致せぬことゝなつたが、之れは一般に本尊に脇士を付くることが普通である。又細川持之が寄進した懸佛は、三山佛を一枚の懸佛に鑄せしめて三山に寄進したものであつて、三體別々の意志であつた。然るにこの一枚の懸佛を安置する場合に羽黒權現堂に安置したから羽黒に三山佛を合祀した形となつたので無いか、縁起にある如く本尊觀音に脇士二體を附隨せしむることは普通行はるゝ所であつて、本尊脇士を合せて三所權現とすることは寧ろ當然である。三山雅集の懸佛繪圖の傍らに本地御正躰圖と題したのは、雅集編者の所爲であつて額銘と一致しない、本地御正躰とは本地佛のことである。

     三 羽黒山の本地佛と權現神

 當山の最古の文献は前編に述べた羽黒山縁起であつて、之に次ぐものは睡中問答である。この書は羽黒山學頭尊増の著であつて、尊増は文明六年(二一三四)四月の示寂である。依つて懸佛縁起と睡中問答は三四十年の間にできたもので同時代である。この書は問答躰十葉内外であつて、其主旨は本地佛垂神説で、本地を觀音、垂跡神を伯禽州姫《シナトリシマヒメ》とした。本地佛垂神説は唯一神道の羽黒山縁起に反してゐるが、我國の神代の神を埀跡神としたのは、この書が始めてであつて、羽黒山に神を配祀した創始である。斯く山に神代の神を配祀したのも吉田神道の刺戟の受けた結果であると思ふ。次に睡中問答の主要なる部分について檢討を試みん。
[#段落冒頭一字下げか]冐頭に神は佛の心にして衆生を度せんが爲めに跡を埀るとあり。
 (睡中問答)
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夫神者佛心也度[#二]衆生|殘《?》執[#一]垂[#レ]迹 法者□□也 (中略) 爰有[#二]老若二人[#一]立向□□問答 聞[#二]其詞[#一]眞俗源分善惡稍異矣 歳廿計之□[#□のなかに「若」]僧現[#二]優敏之像[#一] 次年八旬餘老僧顯[#二]□[#□のなかに「豪」]邁姿[#一]□□路頭阻[#レ]衢言辭久在[#レ]之 若僧問曰抑當山者曰域名稍之靈地也 權現者本朝宗廟之明神 而衆徒爲躰※[#「ノ/几」、第3水準1-14-56]卑住山老若卑劣 此則權現僻※[#「古/又」、第4水準2-3-61]歟 住僧錯謬歟 老僧答云當寺者無雙勝地也□□權現者高貴大聖也而[#(ルヲ)]衆徒無[#レ]行失[#二]神之威驗[#一]無[#二]權現力[#一]現[#二]寺家衰弊[#一]矣 非[#二]他人之造作[#一]依[#二]衆徒横行[#一] 更非[#二]權現之捨誓[#一]任[#二]貫首之愚計[#一]也
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此記事を見るも當時の修驗衆徒と庶民の信仰の程を窺知することができる。
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若僧問(略)
老僧答曰衆徒之意□令現前之間被申者也 權現之悲願合存知之旨所答也 誠諸人參詣[#(シテ)]所[#レ]祈者已[#(カ)]身[#(ノ)]榮耀[#(ナリ)] 權現之利生檢昔誓約狐疑思絶 然尊神爲[#レ]救[#二]我等[#(ク)][#一]遠出[#二][#(ノ)]彼極樂之土[#一] 埀[#三レ]迹托[#二]羽黒峰[#一] (下略)
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羽黒權現は伯禽州姫であつて、姫は鵜草葦不合尊で母は玉依姫であれば、神武天皇と御兄弟であらせらる。
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若僧問云(略)
老僧答曰汝今問可[#レ]※[#「ひとやね/忝のあし」、上p63-5]但自[#二]愚案[#一]起 羽黒權現者豊受神宮五世之廟裔玉依姫娘伯禽州姫也 本地補陀落世界教主 神周遍法界躰也 誓垂[#三レ]迹於[#二]此山[#一]億載不[#レ]盡形也 其像似[#三]明鏡待[#二]琢磨[#一]増光云々 寺僧磨[#二]塋五分法身[#一] 權現必増[#二]照明光[#一] 住侶喰[#二]五辛酒完[#一] 神明埋[#レ]輝闇□ 無學乏[#二]廻向[#一]神躰憔悴 不善踈[#二]法樂[#一]新單悲泣 (下畧)
謂觀世音※[#「くさかんむり/廾(右下に丶)」]遂作[#二]阿彌陀□□弟子[#一] 但淨土娑婆相隔 聊和光同塵權[#(リニ)]作[#二]大日本國豊受神宮五世廟裔[#一] 玉依姫胎[#(ニ)]宿[#(リ)]申[#(ス)][#二]伯禽州姫[#(ハ)][#一] 此[#(レ)]羽黒[#(ノ)]御事也 本地已最尊也 垂迹又崇廟也 寺僧無智也貫首愚朦也 不[#レ]崇[#二]敬權現[#一]不[#三]勤[#二]修佛法[#一] 社檀顛沛堂舍損壞而已
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 この睡中問答は自問自答であつて、文章拙劣主旨透徹せざる所多く、只本地佛垂神説であることは明かである。吉田神道の本地神埀佛説では從來の羽黒修驗道を根底より崩すことゝなるので、之に反對説を主張する必要が起つたことであらう。次に從來羽黒山の山ノ神を神として來たのを伯禽州姫を以て山神としたのは、睡中問答に於て始めて見ることができた。之れは吉田神道の刺戟によるもので、自然崇拜より人格神の崇拜に移つたのは此時である。羽黒山の本地佛は觀音で、埀跡神即ち權現は伯禽州姫となつたが、羽黒本堂に何れを本尊に安置したかは明かでない。睡中問答には觀音堂とあれば觀音を安置したやうに見ゆる。又羽黒權現者云々ともあり、代[#二]觀音[#一]説[#レ]法號[#二]寺僧[#一] 代[#二]權現[#一]興[#二]正法[#一]名[#二]此[#(レヲ)]貫首とありて、寺僧は修學講説を專務として寺務を興行し法會を缺いてはならない。貫首は已得にありて東西に奔走して道者の經營利得を計ることを專務とすと説いてゐるが、論旨卑俗である。

     四 黄金堂

 手向村の中央にて羽黒山第一鳥居の北側に黄金堂ありて、附近に小堂多く立ち、黄金堂の前に正善院あり、黄金堂の別當である。黄金堂の意義は往古の寺院の七堂の一つであつて、金堂《こんどう》といふのが本來の名稱である。金堂は七堂中の最も重要なる地位を占め、本尊佛を安置し、堂内を金色に塗るを以て此名稱あり。黄金堂又は金色堂とも云つた。黄金堂の文祿五年擬寶珠の銘に金堂寶形之事とあれば古へには金堂と云つたらしい。奈良平安朝には七堂の配置は自ら定まつてゐるが、後世には亂れ又山寺には地勢により參道の景致を主眼として立てられた。
 黄金堂は南面の五間四面、單層四柱造り茅葺である。屋根の形状高く尖り、頂上に寶珠を載せ、屋根の勾配頗る急なるは積雪の被害を避けんが爲めである。軒端四隅は少しの反轉を認むるばかりで、大体の外觀は美であるとは云へない。
 次に細部の構造を見るに、正面に一間の向拜を附し、其柱は大面取りの方柱で、中に蟇股を置き、平面の透彫りて眞中に圓に十萬の文字を現はし、兩脇に澤潟を配した。この紋章は酒田城代甘糟備後守景繼の紋にて、文祿五年備後守修覆の時のもので、同年の修築については後節に述ぶる。
 堂の床下は高く石組壇上に建てたのも積雪の多きを顧慮したらしく、四方に椽を繞らし、椽端に支柱を立てゝ軒端を支持す。堂の柱は圓柱にして粽を有し、柱上の組物は三斗の※[#「木+斗」、第3水準1-85-53]※[#「木+共」、第3水準1-85-65]で四隅に木鼻を出した。前面中央の間には棧唐戸を建て、兩脇間には火燈窓を設けた。大体の樣式は唐樣佛式である。兩側と後面は板壁にして、兩側後面に一箇づゝの※[#「木+靈」、第3水準1-86-29]子窓を設く、内部は外陣と内陣に區劃され、悉く板敷となつて内陣は外陣より三寸許り板敷が高い、内陣は三間二面であつて、前面三間は格子戸、兩側前面に五尺づゝの引戸より、奧中央に須彌壇を設けて彼方に突出したのは明治後の改造である。改造前の佛壇の状態を推考するに、突出した須彌壇は無く、板壁三間の所に中央一間に高さ約三尺の壇を設け之に三体の觀音を安置し、其左右に三壇を設けて各十五体を三列に安置した。三十三體の觀音像は等身大である。
 外陣の天井は普通の化粧屋根裏で繋虹梁を用ひ、内陣の天井は之と異なり、中央に正面と平行に一本の大虹梁を架し、それに小梁と根太をかけて上から板を張つた。
 黄金堂の建築年代については、羽黒舊記には鎌倉時代土肥實平の建立と傳ふるも、今日の建築學者の意見では室町中期である。且つ所々に修繕の跡ありて、其著るしき點を擧ぐれば、向拜の木鼻と内陣の大虹梁とが後修で、虹梁の鼻と外陣の繋虹梁とが衝突するので、繋虹梁の方を切斷して一方の鼻に取りつけてある。之れは文祿五年の修補らしい。次に棧唐戸火燈窓蟇股上の實肘木等は文政十二年の修補、大虹梁の拱※[#「木+斗」、第3水準1-85-53]の實肘木は文祿のものであらう。
 之を記録上より見るに、三山雅集出羽風土畧記等には源頼朝の將土肥實平の建立とあり、又黄金堂に安置する實平の木像胎内より出たといふ文書を傳ふるも信ずることできない。黄金堂は其後に至り破損荒朽の儘放捨されたものゝ如く、棟札其他の文献史料は殘存しない。桃山時代文祿五年に至りて大修築を加へたことは後編に述ぶる。

     五 五重塔

 手向部落より二王門(後の隨身門)を入り繼子坂を下りて拂川の清流に出で、橋を渡りて右方に不動瀧を見る。この邊りに不動堂護摩堂、普賢堂、次に五重塔あり、之等を總稱して瀧水寺と稱す。
 塔は梵語率都婆の略にして、佛の舍利を納むる爲めのものである。印度支那には石又は磚を以て積んだ數層の塔あり、朝鮮には石造塔多く、我國には木造の二層より數層に至るものばかりである。塔も金堂と共に七堂伽藍の一つである。
 羽黒五重塔は西面の方三間で、屋根|柿葺《コケラブキ》、五層の屋頂に相輪《さうりん》を冠す、軒端に相當の反轉あり、腰廻りに廻縁を繞らし、二層より上には組高欄を設け、柱は圓柱にして、各層四方の柱間中央に唐戸、兩脇間に粗い盲※[#「木+靈」、第3水準1-86-29]子窓《めくられんじまど》あり、二重の繁※[#「木+垂」、第3水準1-85-77]《しげたるき》、斗拱は和樣三斗先斗拱尾※[#「木+垂」、第3水準1-85-77]を備ふ。隅の斗拱の間には三所に間拱束を備へてゐるが、上層に上るに從ひて、平面落の爲めに※[#「木+斗」、第3水準1-85-53]拱が接近するので、四層目では兩脇間の※[#「木+斗」、第3水準1-85-53]斗を省いて中央だけとし、五層目には之も省いてゐる。
 初層内部の構造を見るに、中央に須彌壇を設け、天井は折上小組|格天井《ごうてんじやう》で、其下方に横※[#「木+靈」、第3水準1-86-29]子を入れてある。
 各層の座面の幅を見るに、第四層と三層との差が、他に比べて少ない。隨つて座面の面積は一層より五層に至る比が均等で無い。心柱(※[#「木+察」、第4水準2-15-66])は上より吊り下りて二層目で終つてゐる。
 建築年代は棟札及び記録には古く書いてあるが、今日の建築學者の意見を綜合するに、大体室町期のものであつて後世の補修が加はつてゐるとのことである。細部について見るに、初重佛壇は唐樣建築の影響を受けた和樣建築で、羽目板の格狹間は鎌倉・室町時代に流行したもので、其中央の薄肉の獅子は後補である。佛壇上の勾欄を除いた大部分は當初のものである。初重内部外陣天井下の連子は、鎌倉・室町時代に流行したもの、四天柱上の外側及び内陣天井の横連子は後補である。心柱の二重目で終つてゐるのは、慶長大修理の時に切斷したもので、元來は下まであつたものである。各屋根の勾配緩く、軒端に反轉を見、且つ柿葦[#「柿葺」か]なるが爲めに著るしく輕快に見える。されど軒の出が少なく各層間高く見えるのは時代の相違である。
 文献より建築年代を檢討するに舊記は眞僞混淆にして、之れが是非を取捨せされば眞の建築年代を明かにすることできない。
 天慶年中(一五九八/一六〇六)平將門本尊地藏卉[#「卉」は「くさかんむり/廾(右下に丶)」か]を荒澤に安置し、北條高時正和二年(一九七三)五重塔を建立したとする説は、慶長十三年(二二六八)最上義光修造の棟札の前書にあることであるが、此棟札は僞作である。承平中(一五九一/一五九七)平將門建立説は中興覺書三山雅集にあることであるが、平將門の建立説は何れも信ずるに足らぬことで、羽黒衆徒の縁起を古からしめんが爲めの僞構であることは、黄金堂の土肥實平建立説と同じである。次に應安五年(二〇三二/南文中元年)建立説は寛文五年(二三二五)天臺改宗の爲めに羽黒衆徒と眞言四ケ寺の訴訟の時に、羽黒方より提出した證據資料にあるもので、訴訟中に徃古羽黒の天臺宗である證據の必要に迫り、夢によりて五重塔本尊の腹籠りの文書あることを發見したものである。
 (羽黒山古記抄)
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應安五年正月十一日天臺沙門勸學院尊藏大日本國羽黒山五重塔本尊建立檀主天津兒屋根二十一世孫大職冠十二世之廟裔大政大臣藤原道長末流前駿河守藤原朝臣氏家
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 此文書は訴訟を有利ならしめんが爲めの僞作であつて、訴訟も敗れたのである。次に正和元年(一九七二)建立説は稍々信憑するに足るものである。
 (來迎寺年代記)
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正和元年羽黒塔柱立
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 (羽黒山中興覺書)
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正和元年壬子六月十七日巳之時羽黒山塔の釿立有り
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 (莊内物語)
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   出羽國大泉之莊内羽黒山五重塔棟札(僞作)
天慶年中平將門以 本尊地藏卉[#「卉」は「くさかんむり/廾(右下に丶)」か]之像荒澤安置之其後平高時正和二年建立大寶寺武藤讃岐守藤原政氏再建人皇百一代圓融院之御宇永和二年六月入佛本尊大自在※[#「くさかんむり/廾(右下に丶)」]南都運慶作 (下略)
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 (羽黒山暦代記)
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永和四年戊午八月八日羽黒山塔ノ供養有り
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 (來迎寺年代記)
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康暦二年八月廿二日羽黒塔供養
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 慶長十三年僞作棟札は以上の舊記によりて眞僞混淆の棟札を作つたもので、大寶寺城主武藤政氏は應仁文明中の人であつて、永和二年(二〇三六)より百年後である。之等は地方又は中央の有力者と縁故關係をつけんが爲めの僞構である。
 以上の記録によりて稍々信ずるに足る建立年代は、正和元年(一九七二)の創建であつて北條高時の代に當る。其後ち六十餘年を經て、永和二年(二〇三六)に再建入佛を行つたのは疑はしい、火災に遇つたとも見えぬ。正和と永和の誤記混淆したもので何れが正しいとも判斷できぬ。されど鎌倉末と室町初期であれば、前記の建築學上の見地と略々一致する。康暦二年(二〇四〇)八月二十二日羽黒塔の供養を行つたのは四ケ年後である。羽黒の燈籠棹銘の文和元年(二〇一二/南正平七年)は永和二年の二十四年前であつて、此頃は南北朝の戰亂は略々終了して、足利幕府の治政となつたので、羽黒山の再興を圖つたものゝやうである。
 慶長十三年の僞作棟札に大寶寺武藤讃岐守藤原政氏再建とあるより羽黒の舊記には政氏を以て羽黒別當の初代とか、或は社務職として年々上洛して官位を授領したと傳へるのは信ずるに足らぬことである。更に以上の棟札によりて僞説を布衍してゐるのは、羽源記などで、荒澤念佛堂過去帳は誤信の一つである。
 (筆ノ餘)
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十三代
左京太夫《(武藤)》政氏 文明四年より長享二年ニ至
  又號讃岐守 (中略)
  羽黒山荒澤念佛堂過去帳ニ云
   羽黒山別當職命日近代之覺
  武藤左京太夫政氏戒名淨雄道號法山命日三月七日 (下略)
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 武藤氏は大泉氏とも稱し、莊内大寶寺(鶴ケ岡)城主にして、大泉次郎氏平の後裔である。羽源記には政氏、子晴時、孫義増の三代とも羽黒山別當となり官位を授領すとあり、武藤氏は莊内の領主であれば、古來羽黒とは種々纒綿せる關係を結んで來たのであつて、羽黒領は莊内武藤氏の領地に入込んだ寺領である。依て羽黒衆徒は必ずしも武藤氏の支配を受くる義務は無い。又羽黒では地方の領主の信仰によりて堂塔の建築寄進或は寺領の寄進などは最も歡迎する所である。然るに羽黒三山は最上村山二郡にも境を接して居れば、羽黒三山は恰かも四隣の領主の關渉地帶とも云ふべきである。依て武藤氏は衆徒の敵と通ずることを警戒して、探題を羽黒に派遣して寺務に關陟する必要あることは前編にも述べた所で、之を探題長吏又は別當と稱するのである。羽黒衆徒は地方の領主に監視さるゝことを忌んで法務上の別當職の如く附會したのである。
 次に藤島城と羽黒との關係についても、中興覺書羽黒山暦代記などに種々の關係を記してあるが、毫も典據を發見するものが無い。藤島城主土佐林氏は大寶寺城武藤氏の部將にて、武藤氏は土佐林をして羽黒の監視に任したらしい。文安二年(二一〇五)土佐林和泉守羽黒本社を建立したのは、武藤氏の寄進ではないか。
 (羽黒山暦代記)
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文安二年乙丑羽黒山御本社修造有り 當國主土佐林和泉守殿御建立有り 御師權律師鏡山法印
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 他に之を立證すべき棟札又は文書もなければ眞僞の判斷は困難である。桃山時代に至れば稍々見るべきものあり。

     六 道智と尊増

 羽黒記録の最古のものは縁起睡中問答にして、之に次ぐものは拾塊集である。拾塊集の内容は部門別に羽黒開山同修驗道の開發、行事、僧職、高僧傳に至るまで簡要を盡した。この書の傳來について左の奧書あり。
 (拾塊集奧書)
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夏一清順于[#二]元龜年中[#一]此書藉自[#二]御殿箱底[#一]乞下[#(シ)]奧州長井庄有[#レ]之由緒祐仙傳聞頻作[#四]墾望今所[#レ]令[#三]書[#二]寫之[#一]也矣
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 この奧書の意義は元龜年間に夏一職の清順が六所御殿の御殿箱より拾塊集を取出して奧州長井庄即ち米澤に持去つたことを、羽黒の喜樂院祐仙が聞いて懇望して之を書寫した。之について私見を述ぶるに清順は下野佐野の人で、天正十七年越後上杉景勝莊内を併領した時に、羽黒長吏永春を放逐して清順を別當と爲した。元龜年中は天正十七年より約二十年前であつて、清順が元龜中に羽黒に居つたことは無い。之が拾塊集の僞書である理由の一つである。次に内容記事を通觀するに、湯殿山のことは一切書かないで、葉山を入れて三山としてゐる。之れは寛永十六年の湯殿山分離後の著であつて、僞書である第二理由である。或は祐仙の僞作かも知れない。祐仙は延寶天和頃の人である。斯の如く寛永十六年以前の書で無いことは明かであるが、記事中には參考に資すべきものが尠なくない。
 拾塊集に羽黒の高僧六人の傳を載せてある。弘儁・妙達・宗圓・道智・尊増・尊量であるが、弘儁・妙達・宗圓三人は傳記に信ずべからざる所ありて實在の人物で無いと思ふ。道智以下は室町以降で信ずるに足るやうだ。只神變不可思議の事蹟は修驗者の常である。
 (拾塊集)
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      道智事
羽黒山住侶道智和尚者居[#二]曼荼羅堂[#一]感[#二]悟密乘[#一] 六時修[#二]地藏尊秘法[#一] 又刻[#二]彫地藏像一百躯[#一]耳 又兼[#二]帶男鹿新山權現社官職[#一]兮 不[#レ]闕[#二]當社之勤事[#一] 而毎日不停[#下]參[#二]社男鹿權現[#一] 設[#中]祭詞法味[#上] 奉[#二]其道憲[#一]遙阻[#二]三日路[#一] 夜歸[#二]居羽黒山曼陀羅堂[#一]後道智居[#二]最上大井澤縣[#一] 其室名[#二]地藏坊[#一]耳 文正六年六月二十四日寂化 載八十一矣
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 道智の居つた曼陀羅堂は、三山雅集に山上の正穩院の續きに寂光寺山ありて、その邊に泉識坊・曼陀羅堂・澤内坊などありけるよしとあり、晩年隱退した最上郡大井澤は西村山郡大井澤大日寺であつて、湯殿山七口の一つである。
 (同書)
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尊増者會津庄蘆名氏人也 幼稚而尚[#二]佛乘[#一] 聰明博學 積[#レ]藹宰[#二]學頭職事[#一] 居[#二]寶勝院室[#一] 毎事持[#二]※[#「咤−宀」、第3水準1-14-85]枳※[#「てへん+危」、上p71-9][#一]兮坊領一村有[#レ]阻[#レ]境 做[#二]雜事[#一]音聲便通[#二]村里[#一] 故稱[#二]其村里[#一] ※[#「口+奧」、上p71-10]俗曰[#二]無音村[#一]耳矣 文明年中天下大旱 草苗稙※[#「禾+童」、第4水準2-83-6]※[#「禾+官」、上p71-10]※[#「禾+龍」、上p71-10]枯※[#「てへん+高」、第4水準2-13-37]而丹葉 便做[#二]※[#「くさかんむり/九」、第4水準2-85-88]原[#一] 國人※[#「りっしんべん+稻のつくり」、第4水準2-12-66]※[#「りっしんべん+催のつくり」、上p71-11]憂悲 因[#二]尊増[#一]頻願[#二]祈雨降法[#一]耳 尊増不[#レ]獲[#レ]止應諾 底持[#レ]加籠[#二]池陲[#一] 廼作[#二]祈雨秘法[#一] 焚[#レ]香招[#一]大千界諸龍神等[#一] 到[#二]第三日夜[#一]雷電閃鳴而洪水霑[#二]大土[#一]耳 文明六年四月二十一日夜向[#二]彌陀像[#一]合掌而頭北面西右脇而寂化年六十二載矣
尊増文明年中以[#二]御※[#「門<龜」、上p71-14][#一]伺[#二]神慮[#一] 從[#二]記録[#(ヲ)]御内殿[#一]拜下兮 前文末紙綴[#二]陋毫[#一] 收[#二]納御内殿裏文箱[#一]畢矣
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 學頭は衆徒修學の頭で學徳兼備の者を以て之に充てた。その學頭尊増の居つた寶勝院は此頃には五重塔のある瀧水寺内の一院であるらしい。寶勝院は後には手向櫻小路に移つたらしく、寶星院ともあり、尊増は尊藏ともありて睡中問答は其著である。拾塊集の尊増の傳記の末文に、尊増文明中神慮によりて記録を編纂して御内殿の文箱に納めたとあるのは、拾塊集の奧書に清順が元龜中に此書籍を御殿箱の底より乞下して長井庄に持去つたとあると附合するもので、拾塊集及び其奧書は共に祐仙の僞作である。祐仙は月山・葉山・羽黒山を三山として、其本地垂跡を神佛何れとも解し難きものにし、開山を蜂子皇子とする三山縁起を立證せしめんが爲めの計畫的僞書である。
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