第二編 開山傳説時代

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     一 我國修驗道及び本地垂跡の起原と出羽國諸神の影響

 月山は初め神道の山であつたが、後に至りて佛教が參加し、終には修驗道の山となつた。この經過を述ぶるに先立つて、支那並に我國の山嶽佛教及び修驗道の發達を述ぶる必要がある。
 支那の開國以來の山嶽崇拜については前編に述べた。次に佛教の印度より支那に傳つたのは後漢明帝の代で、我國十一代埀仁天皇(七二七)の朝に當る。我國に佛教渡來は之より四百五十五年後の繼體天皇十六年(一一八二)で支那より傳來した。之より歴代の天皇厚く佛教を信仰せられたからして、我國の佛教は急速なる發展を遂げ、終に聖武天皇の朝に全國に國分寺を建てしめて、神社と共に國守の祈祷所と爲し政教一致の隆盛を見た。佛教傳來後約二百年である。出羽國に佛教の始めて這入つたのは國分寺建立後であらう。出羽國は我國の北端に在りて蝦夷征討中であれば、國府で國分寺を建立しない前に佛教は這入らなかつたと思ふ。此頃は神道と佛教とは截然と區別を爲し混淆しなかつた。之が混淆して神社に佛經を讀ましむることゝなつたのは、矢張り其根源は支那にあるのである。
 支那の佛教以前の神は自然崇拜であつて、五嶽は最も尊崇されたことは、出羽國初の山嶽其他の自然崇拜も著るしく似てゐる。支那で山嶽に佛寺と道教の天尊祠を建てたのは、隋の文帝二十年十二月で、我國推古天皇八年(一二六〇)である。
 (隋書 帝紀第一 高祖下)
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開皇二十年
十二月辛巳詔曰佛法深妙 道教虚融 咸降[#二]大慈[#一]濟[#二]度調羊品[#一] 凡在[#二]含識[#一]皆蒙[#二]覆護[#一] 所[#下]-以雕[#二]鑄靈相[#一]圖[#二]-寫眞形[#一]率土瞻仰用申[#中]中誠敬[#上] 其五嶽四鎭節宣[#二]雲雨[#一] 江河淮海浸[#二]潤區域[#一]並生[#二]養萬物[#一]利[#二]益兆人[#一] 故建[#レ]廟立[#レ]祀 以[#レ]時恭敬 敢有[#三]毀壞※[#「にんべん+愉のつくり」、上p24-5]盜[#二]佛及天尊像嶽-鎭海-涜神-形[#一]者以[#二]不道[#一]論 沙門壞[#二]佛像[#一]道士壞[#二]天尊[#一]者以[#二]惡逆[#一]論
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左に主要なる字句につき私解を試む。
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五嶽   泰山、衡山、華山、恒山、嵩山
四鎭   會稽山、泝山、醫無閭、霍山
海涜   海と大河。四涜は江水、河水、淮水、濟水。
高祖   文皇帝姓楊氏諱堅弘、陳を滅して南北を統一し隋國を立つ。
道教   支那秦漢の後ち南北朝の分裂となり小國の分合戰亂絶ゆることない状態となつた。斯る世態に飽いた世人は厭世的なる思想に傾き、清淡隱逸を好む風潮を生じた。此思想は老子莊子の虚無説と佛教によりて涵養されたもので、其極端なるものは神仙道であつて、遠く人寰を離れて高山靈窟に入り、人慾を去つて天地の靈氣に接して無慾無病不老不死の境に入らんとするのである。
天尊像   不明 泰山々上の碧霞元君一名娘々廟は之れか。
嶽鎭海涜神形   不明 泰山々麓の濟南城内にある岱廟の神像は之か。
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 此詔文の要旨は、五嶽四鎭及び江河淮海は萬物を生養し兆人を利益する靈徳を有するにより、廟を建て祀を立てゝ、之に佛像、道教の天尊像、山河海の神形を雕鑄したるもの又は繪畫像を安置して萬民をして恭敬せしめ、之等の佛像天尊像を毀壞偸盜する者をば嚴罰に處するとのことである。廟祀は佛像山河海の神形、道教の天尊像を安置する寺院廟堂であらう。之等の廟祀は山嶽の麓河海の岸に建てゝ萬民の恭敬に便にしたものらしい。之れが支那の山川の自然崇拜と佛教道教の三教一致融合とは云へないが、山嶽信仰と佛教とが融合し、又山嶽信仰と道教とが融合したと云へるであらう。之れ即ち支那の山嶽佛教の濫觴であつて、之に道教が融合すれば我國の修驗道となるものである。然るに支那河南省嵩山には其西麓に嵩岳寺といふ寺院ありて、十二角十五層※[#「土+專」、第3水準1-15-59]塔あるを以て有名である。此寺の創建は北魏孝明帝正光四年〈(一一八三)繼體天皇十七年〉と傳へられてゐる。隋文帝開皇二十年より七十七年前である。之れは純佛教の寺院であつて山嶽佛教のものでは無いであらう。令ひ山又は山麓に佛寺があつても必ずしも山嶽信仰を加味したものでは無い。山東省泰山には麓及び中腹に多くの佛寺あり、濟南市に岱廟ありて泰山遙拜の處らしく、其本殿内に泰山神として巨大なる孔子のやうな黄金色塑像を安置す。頂上に泰山娘々廟(一名碧霞元君)ありて兒を授げ子孫繁昌又縁結びの神として最も信心されてゐる泰山は萬物生育を司とるより來たであらう。
 隋文帝開皇二十年は我國推古天皇八年で支那佛教盛んに傳來し、佛教の最も盛んな時代である。殊に聖徳太子は厚く佛教に歸依して多くの佛寺を建て、憲法十七條を制定して其二條に篤く三寶を敬すべしとあり、我國と支那との交通は推古大皇が隋に使者を送つたのが始まりであり、又百濟との交通も頻繁であつて佛僧經典佛像の渡來盛んである。此頃我國に役小角が大和國葛城郡より出でゝ修驗道を開いた。修驗道とは支那傳來の佛教と道教と我國の山嶽崇拜とを融合したもので、其根本思想は矢張り支那傳來であつて、隋文帝の山嶽に佛教道教を配祀した所の三教主義を取入れて、更に三教を融合同化したのである。即ち役小角の修驗道の骨子は大和より紀伊に連立する山嶽の葛城山より金峰山に至る山々を道場と定め、人跡未踏の高嶺溪谷を粗衣粗食にて踏破し、苦寒暑雨に堪え、動物の迫害に勝ち、此間常に佛具佛像を念誦し、數十日間の修行を遂るものである。之れ迄我國の山嶽崇拜は遙かに高山を望んで其山靈を尊崇したのであって、山頂に登ることは却て山靈を冐涜するものとして恐怖の念を抱いたものらしい。出羽の山嶽崇拜は全く之れであつた。然るに一度び役小角の三教融合の修驗道を開き、各國の山嶽に登りて修驗道を布いた。之より役行者を慕ふ所の衆徒は各地に生じて、高山名嶽を探踏することゝなつた。之れが即ち修驗道の行者であつて、始めて人跡未踏の山に登ることを山を開くと云ひ、即ち開山である。役小角は舒明天皇六年(一二九四)に生れ、三十二歳で葛城山に籠ること三十餘年、文武天皇三年(一三五九)五月讒訴に遭ひて伊豆大島に流され、大寶九年(一三六一)赦免となる、爾後終る所を知らない。始めて越後國に出羽郡を置いた和銅元年(一三六八)を遡ること八年前に赦免となつた。
 平安朝の初めに至り、最澄・空海の二高僧出て、最澄は延暦七年比叡山に延暦寺を建てた。之れも山嶽佛教の影響と見ることができる。延暦二十三年(一四六四)最澄・空海は共に支那唐に渡り、最澄は浙江省天臺山の道邃、空海は陝西省西安(長安)の青龍寺慧果に學んだ。最澄は翌二十四年歸朝して天臺宗を開き、空海大同元年(一四六六)八月歸朝して眞言宗を傳へ、弘仁七年(一四七六)紀伊高野山に金剛峰寺を建てた。最澄の弟子圓仁(慈覺)承和五年(一四九八)支那に渡り天臺山に學び同十四年歸朝した。之より天臺・眞言兩宗は全國に傳汎し、各地の寺院神社は慈覺(圓仁)か弘法(空海)の開基で無いものが無いのである。斯く多數の社寺が悉く兩高僧の開いたもので無いことは當然であつて、天臺宗又は眞言宗を奉ずる社寺は、遙かに後世の創建でも兩高僧の何れかを開基とする慣例である。
 最澄圓仁及び空海の傳ふる所の天臺・眞言は共に純佛教にして高山の上に寺院を建てたので、此思想は支那の山嶽佛教を傳へたものである。之より先き我國では役行者の山嶽修驗道あるが、純佛教と三教融合の修驗道の違ひである。我國古來の山嶽神は朝野の信仰である。圓仁・空海は自己の奉ずる密教を山嶽神と融合することは、布教上頗る有利であるを看破した。其説く所は即ち神佛同體本地垂跡であつて、本地とは無始無終の絶對なる印度の佛にして、人間界を濟度せんが爲めに我國に跡を垂れて神となつた、獨り山嶽神ばかりで無くて總ての神は佛の垂跡である、之れが古來の我國の信仰を排斥せずに融合一致の好感を以て迎へられたのである。之れが國法となりて文献に見えたのは、續日本紀承和三年(一四九三)十一月丙寅敕して、護[#二]持神道[#一]不[#レ]知[#二]一乘之力[#一] 轉[#レ]禍作[#レ]福 亦憑[#二]修善之功[#一] 宜[#下]遣[#二]五畿七道僧各一口[#一]毎[#二]國内名神社[#一] 令[#レ]讀[#一]法華經一部[#上] 國司檢校務存[#二]潔信[#一]必期[#二]靈驗[#一] とあるを始めとする。出羽國の名神は延喜式によれば大物忌神社と月山神社であつて、兩神に佛僧をして佛典を讀ましめたのは之が始まりで、隨つて他の小神も之に準じて附近の寺僧を請じて佛典を讀ましむることゝなつたであらう。承和十一年(一五〇四)比叡山圓仁(慈覺)の弟子|安慧《アンヱ》出羽の講師となりて派遣された。此時羽州は唯識宗(法相宗)のみであつたのが、安慧によりて國人は天臺宗に歸した。
 (元享釋書)
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安慧事小野寺廣智(下野國都賀郡)廣智俗之號菩薩者也 智異其才器 携附臺嶺傳教々寂 從慈覺 承和十一年爲羽州講師 時管内皆學唯識不知臺教 自慧開講 州人棄相歸徃
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 之によれば出羽の神佛融合本地垂跡は、安慧の赴任開講によりて始めて實現されたであらう。講師は初め國師と唱へ文武天皇大寶二年(一三六二)二月諸國に國師を任じ、大上國に大國師一人小國師一人、中下國に國師一人とした。延暦十四年(一四五五)八月國師を改めて講師とし、毎國一人を置き、六ケ年を以て任期とした。

     二 出羽夷征前の開山説

 出羽國に承和十一年(一五〇四)安慧の赴任ありて始めて同國に天臺宗が弘まつたので、之が朝廷の命で國府にて安慧をして開講せしめたのであれば、國内皆天台に歸したのは當然である。この比叡山の最澄・圓仁の天臺宗の教義は神佛融合本地垂跡であつて、月山神大物忌神の名神を始めとして其他の七小神は皆本地佛の垂跡の神として、神官・僧侶共同して奉仕することゝなつたであらう。是に於て寺院に於ては古くより本尊佛を安置したが、他の諸國の神代の神を祭神とする神社では御靈代の鏡又は御幣を廢して、佛寺に傚つて神像を造つて安置した所もできたと思ふ。然るに出羽國は悉く自然崇拜であつて、人格的の神は無いのであつて、社殿の有無も明瞭で無かつた。承和以降神佛融合となり從來の神に寺院に傚つて日々讀經供養をすることゝなつては、社殿の必要もでき、社殿に安置する祭神の必要も起つたことであらう。然るに出羽の九神は悉く自然崇拜であれば、神像を造るべきやうも無い、御靈代として、鏡か御幣を奉安することにしたでは無いかと思ふ。
 出羽國に始めて天臺宗の這入つたことは、以上の史料によりて稍々不確實ではあるが知ることができた。次に眞言宗の進入については全く徴すべきものが無い、然れども天臺・眞言は略々同時に全國に傳汎したのであれば、天臺と前後して出羽に這入つたと見るが至當である。比叡山延暦寺は皇室歴代の信仰最も厚かつたので、隨つて朝廷では全國に天臺弘教に力を注いだ。承和三年十一月全國の名神に僧一口を遣はして法華經を讀ましめたことは前に述べたが、法華經は天臺宗の所依本經であれば、僧一口は天臺宗の僧であつたと思ふ。眞言宗の勢力は天臺宗に劣らぬが朝廷の信仰が天臺の如くで無かつたから文献に見えぬのであらう。
 月山神大物忌神其他の出羽の山嶽神は、承和以降佛教と融合したとは云へ、神官又は僧侶が山上に登つて、所謂山を開いたもので無い、山を開くのは佛僧よりも修驗道の行者の仕事であると見るのが眞實に近いであらう。然るに出羽三山の開山者を見るに、慈覺・弘法より役小角・蜂子皇子其他に至るまで、各宗各方面の開祖又は神代の神を開山としてゐる、開山は多數あるべきもので無く一人であらねばならぬ。斯く多數ある理由は、長い間の三山に變遷あつて、又時世の信教の盛衰によりて、三山の宗旨を變更した、例へば天臺を奉ずれば開山を慈覺と爲し、眞言に變更すれば弘法とし、神道が盛んとなれば蜂子皇子其他の神と爲すので、社家は時代の庶民の信ずる所に迎合して開山を變更したのである。依て三山の舊記を見るに區々にして、今日誰れが眞の開山であるやを決定することは至難のことである。左に開山諸説につき私見を試む。
         イ、蜂子皇子説
 蜂子皇子は三十二代崇峻天皇の御子で、母は大伴糠手連の女小手子といひ、蜂子皇子と錦代《ニシキテノ》皇女とを生んだ。崇峻天皇は兼てより大臣蘇我馬子の專横を惡み、密かに之を除かんとして厩戸皇子に謀る、厩戸皇子諫めて曰く、陛下只少しく忍び給へと、天皇之を堪ふることできなかつた、事顯はれて馬子は五年十一月三日東漢直駒をして天皇を弑逆を行はしめた。之より馬子は欽明天皇の第三皇女〈敏達天皇の皇后〉を皇位に即かしめて推古天皇といひ、聖徳太子〈厩子皇子〉を皇太子となして政を攝せしむ。天皇は蘇我氏の出であれば、馬子の權威は益々盛んとなつた、それで蜂子皇子は不幸の御子であつて薨去の場所年月も不明であつて、正史には蜂子皇子の傳記は左記だけである。
 (日本書記[#「書紀」か])
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崇峻天皇
元年春三月立大伴糠手連女小手子爲妃是生蜂子皇子興錦代皇女
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 崇峻天皇の弑逆に遇はれたのは、出羽の蝦夷征討の始めて行はれた慶雲和銅を遡ること百餘年前である。羽黒衆徒の蜂子皇子を三山の開山と唱ふることゝなつたのは、遙かに後世ではあるまいか。我國古來の神道は佛教渡來より壓せられて、神社でありながらも佛像を安置して本地佛と唱へ、僧徒の讀經を以て奉仕して來たのは實に長年月のことである。室町中期に至りて京都の吉田氏は神道復興を唱導して、本地垂跡を逆用して神を本地とし佛を垂跡とするに至り、之を吉田神道又は唯一神道と云つた。この説が羽黒にも波及して蜂子皇子を開山と爲すことゝなつたのではあるまいか。皇子が北海の濱に流されて出羽の羽黒に住居せられ、三山を開いたことは三山雅集に記述してゐる。
 (三山雅集)
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     能除堂
太子の御事異説紛々たれともそか中の正統をいはゞ 舊記曰崇峻天皇第三皇子一名|參拂理《サンフリ》依[#三]形質頗爲[#二]慕荒相[#一]放[#二]北海濱[#一] 然太子直歸[#二]佛門[#一]詣而師[#二]于聖徳太子[#一]以薙髮染衣焉 法名弘海心性勇猛偏有[#二]凌雲志[#一]且離[#二]京域[#一]※[#「てへん+妻」、上p30-7][#二]遼濱[#一] 徃々攀[#二]羽山[#一]修[#二]捨身行[#一] 住[#二]阿久谷[#一]三秋衣以藤皮食以樹果 平日無他辭特信般若經カ誦[#二]能除一切苦之文[#一] 故時俗呼曰[#二]能除仙[#一] (下略)
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 舊記とは室町期に羽黒修驗の造つた縁起をいふので、同縁起は室町期に述ぶる。
         口、役小角説
 役小角は俗に役行者と稱せられ、大和國葛城郡茅原村に生れ、その生年月に異説あつて確しかで無いが、舒明天皇即位六年(一二九四)正月の誕生が有力である。恰も聖徳太子薨去前十三ケ年、崇峻天皇弑せられてから四十二年後に當る、依て蜂子皇子より僅か後ちの人である。
 小角は葛城山より金峰山に亘る山々に籠ること三十餘年にして始めて修驗道を開いたので、我國修驗道の開祖である。之より小角は全國の名山高嶽に登り人跡未蹈の山頂を極め、修驗道を弘めた。行者は金峰山の大峰山籠中に金剛藏王を感得したるより、行者の開いた山には必ず金剛藏王を尊崇する。金剛藏王とは釋迦の變化身であって、忿怒の相を成し、右手に三鈷を握り、臂を怒らし、左手は五指を開いて腹を押へ、三眼怒つて降魔の相を成し、兩脚を擧げ垂れて天地を經緯する相を顯はしてゐる。行者の事歴は神秘不可解のこと多く容易に信ずることできぬものばかりである。行者の出羽羽黒山に來り月山・湯殿山を開いたのは天智天皇九年(一三三〇)ともあり、又持統天皇四年(一三五〇)ともあり。
 (役行者本記)
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天智帝九年《小角三十七歳》庚午七月發大峰三日而到出羽國羽黒山 從其[#(出羽)]月山・[#(同)]湯殿・[#(同)]金峰・[#(同)]鳥海・[#(奧羽)]秀峰等 經歴二十二日而歸[#二]山和州[#一] 凡里數三千百里
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 (同書)
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持統帝四年《五十七歳》庚寅三月赴[#二]出羽國羽黒[#一] 經[#二]歴近峰[#一]數員 三日之頃彫[#二]作大日觀音不動・※[#「足+多」、上p31-8]吉※[#「示+尼」、上p31-8]天・大黒天五尊之像[#一]皆安[#レ]之 各放[#レ]光談話 ※[#「足+多」、上p31-9]吉※[#「示+尼」、上p31-9]一天不[#レ]至[#二]菩提之談[#一] 小角彈呵欲[#三]斫[#二]-斷之[#一] 彼天走而至[#二]於假峰[#一] 小角笑云 汝有漏天 不[#レ]至[#二]度群生[#一] 我歎[#二]汝[#(ノ)]無力[#一] 住五十餘日 一日歸[#二]干芳野[#一]
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 (役行者顛末秘藏記)
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一行者登[#二]出羽國羽黒山[#一] 九箇月間修秘法[#一]也 羽黒與[#二]南都[#一]脩程而人皆經[#二]七十餘日[#一]往[#レ]之 然行者自[#二]羽黒[#一]三日間歸[#二]南京[#一]故世俗諺云不思議神道第一[#(ノ)]小角也 爲[#二]弟子[#一]者惟夥焉 雖[#レ]然小角在[#二]洛中村里[#一]則相從之 入[#二]嶺上[#一]則不[#レ]克[#レ]伴[#レ]乏
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 (役君徴業録)
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安[#二]居于羽之羽黒山[#一] 神出而設[#レ]食〈密録、秘藏記〉
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 以上の記事を通覽するに、何れも信ずることできぬことのみで、且つ出羽の蝦夷征討開始前に三山に登ることできぬことゝ思ふ。依て羽黒にて蜂子皇子を開山とした後ちに於ても、從來の役行者との關係を絶たないで、三山雅集に役行者は蜂子皇子を慕ひて月山に登りたるに、皇子は權現老翁となりて現はれ、中途より行者を歸らしめた。此所を行者|戻《もどり》と名づけて名所としてゐる。又同書に「兩山〈○月山、鳥海山〉の祭祀年中行事等後優嬰塞慈覺大師の遺風、今に草を靡して符合すること分厘も差はず」ともありて、役小角・慈覺・弘法其他の多くの高僧智識と關係を絶たざるは、廣く庶民の信仰に迎合せんとしたるものに外ならない。

     三 熊野派修驗の三山開山説

 出羽の夷征前の三山開山の信ずるに足らぬことは前に述べた。夷征後和銅元年(一三六八)始めて出羽郡を置いた後ち奈良朝末に至る八九十年間は、北邊の蝦夷未だ悉く歸服しないし、飽海郡井口國府も假廳舍であつたらしく、國内未だ整頓しなかつたと思はる。依て三山の開山は奈良朝末に至るも徴する資料を發見しない。平安朝に入りて始めて考慮を要する資料を見ることができた。之れは紀州熊野修驗の三山開山説であつて、この事を述ぶるに先立つて修驗道の開祖役行者の後ちに修驗道は如何に發達したかを述ぶる必要を認む。
 役小角の修驗道は支那の山嶽佛教の影響を受けたことは當然であつて、小角のあと山伏五代即ち義覺・義玄・義眞・壽元・芳元に至る間は天臺又眞言の宗派別は無かつた。大和吉野を本山として抖※[#「てへん+數」、第3水準1-85-5]修行が盛んとなり、之を大峰修行と云つた。平安朝初期に至りて延暦二十三年三月最澄・空海は支那に渡り、最澄は翌二十四年歸朝して天臺宗を傳へ、空海は大同元年(一四六六)歸朝して眞言宗を傳へ、弘仁七年(一四七六)高野山を開いて金剛峰寺を建つ。續いて最澄の弟子圓仁(慈覺)入唐し承和十四年(一五〇七)天臺を學んで歸朝した。之より我國に天臺・眞言の二大宗派ができた。然るに吉野の修驗道は何れの宗派にも屬しないで、兩派の僧徒は大峰の山嶽修行を遂げた。紀州熊野山三社權現も抖※[#「てへん+數」、第3水準1-85-5]修行の道場であつたので、追々には大峰と熊野山を一帶として一大道場を形成したやうに見ゆる。即ち大峰より登るものは多くの山々を經て熊野山に至り、熊野山より登るものは大峰まで行くのである。大峰とは大和諸山の總稱である。
 吉野と熊野の修驗道に未だ宗派別の無い時に當りて、役行者のあと熊野派八代に黒珍といふ行者あり、出羽の人とも云ふ。延暦四年(一四四五)四十五歳にて大峰修行を遂げ、役行者の法系を嗣いだ。出羽の羽黒山を開いたのは黒珍であるとの説あり。又羽黒に熊野權現を勸請したともあり。
 (聖門御累代記)
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黒珍 桓武天皇延暦四年四十五歳大峰修行」 縁起相傳」 出羽國熊野權現勸請」〈一云古記曰羽黒山開基卍云羽黒山爲別山故此説更勘〉七十歳入滅〈一云 聖武天皇天平十三年誕生〉
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 (深仙灌頂系譜)
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黒珍 出羽國人 羽黒山開基
 延暦四年大峰修行縁起相傳 四十五歳 出羽國石脇嶽熊野權現勸請 弘仁元年入滅〈七十歳〉
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 (修驗傳記)
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黒珍尊師 不[#レ]知[#二]何許人何氏[#一] 桓武帝延暦四年乙丑四十五歳入峰 灌頂縁起相傳 出羽國熊野權現勸請 |嵯峨皇帝弘仁元年庚寅《イ平城皇帝大同三年戊子》七十歳入滅
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 以上の系譜を見るに山伏五代より助音・黒珍・日代・日圓に至る九代は各國に一ケ所づゝ熊野權現を勸請してゐる。中世吉野は衰へて、熊野獨り盛んな時代が永く續いた。羽州石脇嶽は石湧にて湯殿山では無いか、黒珍が羽黒を開いたとすれば延暦の末頃に當るので、此頃に至りては出羽國府は井口に建設されて三山の登山も可能であると思はる。前に掲げた役行者の系譜によれば、三山の開山は役行者ともあり、又黒珍が羽黒に熊野權現を勸請したとも或は開基であるともありて、役小角と黒珍何れが眞實に近いかと云へば、黒珍の開山が眞に近いであらう。之れ迄羽黒には黒珍開山の資料は一切發見されなかつたが、近年羽黒本社前の御手洗池(舊名鏡ケ池)より多數の古鏡を發掘した。其中に儀鏡數面あり、儀鏡とは奉納の爲めに造つた實用にならぬ粗造の模僞品である。其一面に毛彫にて「敬白、熊野御正體、飯高國元」とあり、此鏡は何れの時代に納めたか、飯高國元は何人なるやは明かでないが、百九十餘面の發掘鏡の年代を通覽するに藤原時代のもの最大多數を占め、鎌倉時代之に次ぎ、徳川時代のものは二三面に過ぎない。此鏡を羽黒本堂前の池に納めた意義は、或る願望を熊野御正體に祈つたのであつて、熊野御正體は即ち羽黒權現であることになる。三山雅集に「觀音本社、西殿に熊野權現を勸請し崇めた」とありて、明治前に至るまで、觀音の右に熊野權現を安置してあつたといふ。長い間には宗派の變遷神佛の消長あつたが、熊野との關係は濃厚であつたらしい。
 黒珍の羽黒を開いた頃は、修驗道は未だ天臺・眞言の宗派別は無く、其後約四十年を經て承和十一年(一五〇四)叡山慈覺の弟子安慧出羽國の講師となりて赴任開講し、始めて天臺宗を弘めた。而しながら猶まだ修驗道は宗派色は無かつた。恰かも此頃役行者法系十一代圓珍あり、圓珍は讃岐那珂郡金倉郷に生れ、天長五年(一四八八)延暦寺座主義眞の弟子となり、承和十二年(一五〇五)大峰及び熊野三山に入り傳燈大法師となり、其後入唐して歸朝し、貞觀元年(一五一九)三井園城寺長吏となつた。園城寺は天臺宗で、延暦寺を山門と云ふに對して園城寺を寺門と唱へ寺門派の本山である。之より熊野の修驗道は天臺派となり、其後十七代増譽に至りて天臺修驗道を確立した。増譽は寛治四年(一七五〇)白河上皇熊野御幸の先達を勤めて始めて熊野三山檢校に補せられてから、熊野は遽かに盛んとなり、三井長吏は三山檢校を繼承することゝなつた。熊野派修驗は寺門方聖護院に屬する本山派と唱ふることゝなつたのは之れからである。聖護院は京都に在りて院主は三井長吏で熊野三山檢校を兼帶し、天臺修驗を管した。
 吉野修驗は役行者以來久しく衰微して振はなかつた。貞觀延喜の頃に至りて東蜜を學んだ京都醍醐寺の理源大師聖寶吉野に入り役行者以後荒廢した 大峰の山々を開き、寛平中(一五四九/一五五七)吉野現光寺の座主となつてからは、吉野派の修驗者は現光寺の規範を受くることゝなつた。之れが眞言宗修驗道の創始であつて、熊野本山派に對して當山派と云つた。然れども眞言派の修驗は天臺修驗に壓せられて鎌倉時代に至るまで集團的組織が十分でなかつた。足利時代の初醍醐寺三寶院が此派の山伏を管するに至りて大峯檢校と號する傳統的觀念を以て、諸國の修驗又山寺でも之に屬するもの多くなつた。各國の修驗は各々獨立であつて、二派に統制されたもので無く、吉野又熊野に於ける儀禮行事は足利氏時代以後に至りて漸次に整頓され形式を具備することゝなつた。地方の修驗は之に入峰修行を遂げて、地方の山寺に適應した儀禮行事を作つたものらしい。
 羽黒の修驗道は最初熊野派の修驗によりて開かれたらしく、この開山は黒珍であるか、又其末派の修驗であるやは疑問の存する所であるが、熊野派であつたことだけは云ヘると思ふ。羽黒三山古實集覽記に、當山は「徃古天臺宗、中興は眞言宗の處」云々とあり、黒珍が羽黒山を開いたのは延暦の末頃であつて、其後約四十年を經て慈覺の弟子安慧が始めて天臺宗を出羽に弘めたのであれば、羽黒修驗道の天臺宗に歸したことは餘りにも當然である。
 之を羽黒の舊記によりて檢討することは至無である。何んとなれば、羽黒の記録は悉く後世のものにして其間に數度び宗派開山を替えたからして各宗各派の開基を開山としてゐる。之等の舊記の所説を一々批判を加へることはできないが、其主要なるものについて私見を述ぶることゝする。羽黒舊記の最古のものは羽黒山縁起と拾塊集であつて、何れも室町時代に羽黒修驗の著述である。この二書の著述目的は古來の本末關係を斷つて羽黒修驗道の獨立を企てたもので、之れが爲めに開山を蜂子皇子とし又羽黒修驗道の開祖とした。蜂子皇子以後の傳統を見るに弘儁を以て最初の當山執行とした。
 (拾塊集)
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     弘儁事
弘儁者信夫縣令橘川成子也 幼稚聰明博學也 弘海〈○蜂子皇子〉爲[#レ]師 薙髮稟[#二]華嚴經菩薩戒[#一] 小角肇而設入蜂[#「入峰」か]道場[#一] 而從[#レ]果何[#レ]因 從[#レ]因至[#レ]果 分[#二]兩峰[#一] 即徒屬誘諭而授持戒[#一] 精[#二]胎内五位[#一] 修行説[#二]十二因縁[#一] 自[#レ]此修驗宗嗣法甚熾也 以[#二]弘儁[#一]爲[#二]當山執行最初[#一]耳 天平勝寶二年十月二十日寂化八十五載矣
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 之によれば弘儁は弘海即ち蜂子皇子の弟子で、役小角が羽黒山に始めて入峰道場を設くるに及んで、弘儁之に從屬して持戒を受け、之より當山の修驗道は熾んとなり、弘儁を以て最初の執行と爲した。拾塊集に蜂子皇子役小角並に弘儁の修驗道の傳統を述べてゐるが其所説頗る徹底を欠いてゐる。
 (拾塊集)
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優婆塞者在家也 佛弟子於[#二]四衆中[#一]覺如來始成之高趣 五時説法者從[#二]華嚴[#一]始 法華涅槃同[#二]醍醐味[#一]而開[#二]-觧十界十如妙理[#一] 故修驗宗奧秘難[#レ]欲[#二]通達[#一]耳 能除太子肇修驗起[#レ]※[#「古/又」、第4水準2-3-61] 役氏小角修驗著[#レ]事 弘儁阿闍梨極[#レ]※[#「古/又」、第4水準2-3-61]耳 遙後聖寶阿闍梨入[#二]金峰[#一]目宗圓阿闍梨兮 苅[#二]荊※[#「くさかんむり/(悠−心)」、上p36-16]月山[#一]分[#二]入補陀落山[#一] 此等先哲者聊生産而聰明博學而覺[#二]悟佛種[#一] 何薄智未哲比丘或又唖聾惑癡優婆塞等得[#二]修驗智水汲[#一]
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 (同書)
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     當山記
因 神勅能除聖者起[#二]修驗宗法幢[#一]兮 役小角著[#二]修驗法躰[#一]兮 弘儁極[#二]修驗法理[#一]
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 以上の記事によれば羽黒修驗道は蜂子皇子を開祖とし、小角之を明かにし、弘儁極意を究明し、宗圓月山を開いた。之について私見を述ぶるに、蜂子皇子の事歴は日本書紀にある外は一切不明であつて、弘儁宗圓は實在の人なるやは疑はしい。或は儁と俊とは通字で弘俊は文和元年の燈籠竿にある弘俊を以て蜂子皇子修驗道の承祖としたものらしい。羽黒最古の記録である羽黒山縁起並に拾塊集は室町時代にできたもので、吉田神道の影響を受けて本地神權現佛を唱導し、從來の本地佛權現神説を覆へしたのである。且つ從來の熊野系修驗道を捨てゝ羽黒派修驗道を獨立せしむるを目的としたものである。猶之については室町期に至つて詳述する。
 以上述べた如く三山は最初に熊野派修驗者によつて開かれたが、三山一時に開いたもので無く、羽黒山より月山・湯殿山に漸次に開かれたであらう。三山の中で月山のみは月山ノ神として夷征開始時代より遙拜されたことは前に述べた。次に三山の名稱を檢討するに、月山は月の出る山であるによりて附與された名稱であることは、最も妥當であり、湯殿山は湯の湧出する神であるよりして、殿の敬稱を附與して湯殿としたものであらう。次に羽黒山の名稱については不可解にして隨つて諸説あるが何れも首肯できぬ。左に有力なる説について私見を試みるに、吾妻鏡の出羽國黒山とあるは羽黒山の誤寫であることは明かである。次に鷹の羽を産したるより出羽の名稱ができ、羽黒山も鷹羽に關聯ありとする説は、出羽が鷹と關係無いと信ぜられるにより、隨つて羽黒の鷹羽關聯説は同意されない。次に鶴岡の歌人池田玄齋の説は樹木繁茂して黒く見ゆるとあるは傾聽するに足る。
 (弘采録) 池田玄齋著
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一友人又問、羽黒山の號の徠翁の説〈可成談なり〉にいはく下野國にくろはねと稱する處あり、出羽に羽黒の山あり、古の黒齒國にやと、此説によれば此山も齒黒山なるべし、義經記に齒黒の山と書せり、是又據あるに似たり、此説いかゝと、玄齋答へて穿鑿に過たり、字ハ元より假説にして奴隸の如し、字に依て義を害すはとらざる所也、又齒黒國の説爰に用なし、こはたゝ此山古木蓊欝として遠く眺望する時は、山の端黒みわたりて見ゆる事、今猶古のことし、されば打見たる山の端の黒みたるゆゑ端黒山と容易に名つけたるならん、かく説くときはいと穩かに當れるにあらずやと、友生大に服せり。
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 現今の羽黒山は杉及び雜樹欝蒼として繁り、遠く之を望めば一段黒く見ゆ、古へもさあらんには、端し黒よりも葉黒山が妥當であらう。
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