第二期 寛文九年より天明八年に至る

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     一 東叡山羽黒を改革す 天宥派十五人追放

 天宥大島流罪後の羽黒の状況は、天宥派衆徒の處罰又智憲院派と天宥派の暗鬪で暫らくの間紛擾が續いた。
 寛文八年四月天宥の流罪となるや、天宥の股肱衆徒等は羽黒の神寶及び寺の什物五十二駄を最上の岩根澤に隱くしたとの疑にて、幕府評定所の取調が開始された。依て寺社奉行は東叡山に令して羽黒役人眞田主計、眞田式部、眞田隼人の三人に上府を命じた。三人は天宥派であつて、四月十九日手向を出發した。
 (酒井家世記)
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扨又手向ノ眞田式部眞田隼人太田主計三人之衆江戸寺社御奉行同御門主樣より御用之由召状到來ニ付 |申ノ《(寛文八年)》四月十九日此方出立罷登 但清川御關所出判平右衞門殿御裏書表證文は眞田四兵衞華藏院正穩院山田四郎左衞門殿加判但目安方衆徒※[#変体仮名え]御相談の上上下八人荷物欠箇右清川※[#変体仮名え]出判出ル 則正穩院花藏院北之宿主計式部四兵衞鶴岡へ參 加々山安太夫殿山田四郎左衞門殿之兩人御家老中※[#変体仮名え]被申上出判之御相談相究 右之通ニ御座候よし
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 太田主計等三人は天宥の股肱であれば、天宥處罰後は當然處罰さるゝとは一般に豫想したものゝ如くで、三人の清川口出判については莊内藩では愼重に取扱つたやうだ。太田眞田等の上府の頃に東叡山では普門院を別當代として羽黒に下だし、騷擾後の羽黒の整理に當らしめた。普門院は之より先き天宥が江戸十ケ寺を指定して羽黒の行人頭と爲し、輪番を立てゝ江戸方面と羽黒との連絡機關とした其一院である。五月十八日普門院は江戸より岩根澤を經て羽黒に着いた。普門院に隨伴して來たのは山中十郎右衞門、加藤源兵衞、堀八郎右衞門、南泉坊以下で、先づ別當所の納戸役丸岡利右衞門、智城坊、下寺の納戸役安達源兵衞等を立會はしめて、若王寺下寺等の諸道具を調べて目録を作り、會計簿の檢査を行つた。然る後に普門院の家來富田八郎兵衞に會計を擔當させて衆徒の知行配當を取扱はせ、山中十郎右衞門を目付役人と爲した。普門院は羽黒の整理を遂げて七月二十五日江戸に歸り、山務は眞田四郎兵衞、若王寺下寺は南泉坊に取扱はせた。八月普門院は東叡山に報告し、更に東叡山より寺社奉行に報告した。
 (羽黒山中興覺書)
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同八年中三月本多治左衞門江戸に登り評定所へ罷出委細ニ申上候所 四月四日 御條目を以て別當天宥并大乘坊豆州大島へ遠流被仰付候 羽黒ニは別當無仰付留守として東叡山衆徒の内普門院可被遣旨被仰出 五月十八日着公事以來双方異隔相止向後無違亂和睦候樣仰渡され候
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 (酒井家世記)
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上野御門主樣より爲御名代普門院當五月十七日に羽黒※[#変体仮名え]御下着 但最上岩根澤より月山※[#変体仮名え]御越御下りのよし 右ニ付眞田四兵衞より岡田九右衞門殿※[#変体仮名え]書状來ル 同廿二日普門院之家老山中十郎右衞門と申仁此方御家老中方※[#変体仮名え]使者被遣候 岡田九右衞門殿先立にて平右衞門殿〈○家老石原〉權左衞門殿〈○家老長谷川〉片山市太夫殿杉山七郎左衞門殿〈○以上二人郡代〉※[#変体仮名え]出る 鱸清太夫殿〈○鶴岡町奉行〉※[#変体仮名え]は川上〈○町大庄屋川上四郎右衞門〉先立にて御見廻相濟 御關所出判之儀先規のことく羽黒山別當寶善院加判之表書にて通路いたし候筈 清川口六十里ハ如先規別當一判にて通路致筈ニ候由 此定普門院ノ家老山中十郎右衞門より岡田九右衞門殿※[#変体仮名え]書通有之出判如先規相定候事(川上記)
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 天宥流罪後三ケ月を過ぎたが、羽黒には未だ別當後繼者も無く、且つ騷動後の山内は兩派の闇鬪があつた。依て七月中愛染院、竹之坊、華藏院、正穩院名代月藏坊は江戸に上り寺社奉行に出頭して、當山の所務につき奉行の指揮を請ふた。奉行は羽黒の所務は本山である東叡山より下知ある筈だと達され、東叡山に出頭したるに東叡山では近々中に別當を決定し然る後に諸法度を布く方針であつた。八月東叡山では院家尊重院圭海を羽黒の執行別當を兼ねしめた。圭海は寛文五年中天宥の弟子となり後繼内約を遂げたことは前に述べた。圭海は江戸に留まり弟子圓鏡坊圭純を名代とし増山兵部の家來平尾傳右衞門を附添として羽黒に下り山務に當らしむ。
 古來羽黒の執行別當は山内の戒臘の者が擧げられて來たので、山上の五先達はその候補者である。然るに天宥は寛文五年に東叡山院尊重院圭海を後繼者に内約したについて智憲院等は反對であつて、同七年の訴状の第一項に述べてある。智憲院等の天宥排斥運動の端緒は之れからであるとも見られる。
 十月東叡山は寺社奉行と協議して羽黒諸法令を制定し羽黒に施行した。普門院の調査した材料によつて作製したらしい。之れは御繼目下知状 羽黒山掟 社領定書 社領配當帳 覺書の五通であつて、何れも重要なるもので全山の取締りは之れで細大となく規定された。其中で主要なるものを擧ぐれば、一山の寺院は四十一坊あつて、其中十坊は廢寺であれば殘りは三十一坊である。之に十坊の知行を配分し、一ケ寺に米八俵一斗八升七合一毛である。執行別當は多く在府に付十人の輪番を立て、夏峰には執行上座をして勤めしめ、月山の最華三分一を執行代の收入とした。
 (中興覺書)
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寛文八戌年七月に至愛染院竹ノ坊華藏院宥尊月藏坊コレハ正穩院名代也江戸へ罷登當山古例之覺書取調へ諸仕置等重而 公義へ及訴訟之處諸仕置之儀は其本寺ヨリ申付候事故 東ヱイ山へ可差出旨寺社奉行御下知ニ付 右之書付共上野へ差上ル 公義へ御相談の上同年十月從上野御條目御下知状覺書數通并社領御配當帳共ニ此山へ被成下 但此時迄一山衆徒四十一坊有之處ニ無主寺十ケ坊是潰レ寺也 依之三十一坊ニ究り別當衆徒之譯明細ニ相定ル 尤右廢地十坊之寺料霞場ともに衆徒三十一坊へ爲加増配當被仰付ける 但一坊へ米八俵壹斗八升七合一毛ツヽ永代被下之 殊ニ夏峰執行代上座十人輪番ニ右之内より一人ツヽ被仰付 月山最華三分一ハ執行代輪番之者へ被下之 權現修理料と相立事 右五人の粉骨の働誠に衆徒の中興なり
廢寺十ケ坊名目
觀喜院 閼伽井坊 寶性院 福乘寺 曼陀羅堂 威徳院 北之坊 泉藏坊 正覺坊 瀧本坊
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 次に掲ぐる東叡山下知状の要旨は、羽黒山は元來天臺宗であつたが、中頃眞言宗となり、天宥に至りて天臺に復舊したのである。一山は天宥の爲めに繁榮するものであるによりて天宥の功徳を忘れてはならぬ。
 (自坊記録其他)
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      東叡山御掟御下知状寫
羽黒山者初昔大唐天臺山移顯密禪の三宗ヲ兼來猶中興慈覺大師以來專天臺宗タリ然ニ中頃寛永年中まて密宗の法流を繼或ハ高野住山或ハ關東密宗の談所經暦一山末寺共ニ眞言宗立リ時別當宥譽兩開山の排法澄一山繁昌の志願深寛永十八辛巳年奉拜天海大僧正尊師高弟の御儀在故ニ天之一字被下宥譽改天宥と御附與則天宥於東叡山被行遂密灌大阿闍梨一山天臺宗ニ改自是東叡山御末寺ニ定仍從日光御門主樣御掟目并御下知状此山へ被成下得一山繁榮時也末々輩ニ至まて謹而可敬拜御威光且可思天宥尊師謝徳也
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左の掟は法務並に取締に關する規定である。
 (酒井家世記 自坊記録其他)
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        條
一別當并山上衆徒如有來天下安全之御祷不可懈怠附堂社之出仕峰中之儀不可闕事
一東照大權現御法味毎月十七日別當并山上之衆徒令出仕法華懴法可有執行事
一四度之加行護摩之儀は不及申灌頂を相懸大阿闍梨候樣隨分可懸心若護摩等修行輩坊職不可相抱事
一惣衆徒一向非學之由沙汰之限ニ候自分以後附弟之分ハ勿論其外も學問可相勵事
一密教方曼陀羅供等連々稽古致し可令執行事
一專戒律不亂威儀柔和忍辱可爲本意事
一於峰中は格別無左候ては向後不可帶刀杖并武具不可相貯事
一諸牢人惣而無行衞者寺内ニ不可抱置事附切支丹宗門之儀門前并寺領中毎年急度相改可取手形置事
一止奢侈萬事可用儉約事
一企徒黨繼連署公事沙汰不可致之尤不儀之輩於有之は別當可沙汰之若於自分裁判難成儀は御門主※[#変体仮名え]可相伺扨又雖爲別當於有私曲は又其旨可申上事
一山中之僧侶等不可違背別當下知事
一從拔川内※[#変体仮名え]鳥魚一切不可入事
一亂舞遊興堅停止之事
一從諸國別當衆徒※[#変体仮名え]參候道者先規之通如有來不可混亂事
一神木は勿論山林猥ニ不可伐採事
右之條々至永代不可有違犯之旨依輪王寺一品大王仰執達仍如件
  寛文八戊申年               住心院 實俊
   十一月一日               圓覺院 ※[#「言+甚」、第3水準1-92-13]泰
     羽黒山
      寶前院
        惣衆徒中
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 以下三條令は主として一山の經濟に關するものである。
 (同上)
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        定
一羽黒山領高千五百石配當如先規別紙帳面之通無相違可配分候出目高六百貳拾三俵余之儀今度配分被仰出候如帳面可相守事
一年行事之事從衆徒之内毎年輪番兩人宛并別當家來兩人以上四人にて可相勤事
一十ケ寺明寺領之事清僧衆徒三十一坊※[#変体仮名え]爲加増令配分事
一神木之儀は不及申堂社近邊之山林縱雖爲別當猥ニ不可伐採但支配は其別當職之者可致之若本社末社破損之節は衆徒中※[#変体仮名え]令相談可伐用事
一毎年納萱之儀堂塔之破損ニ可用之但くつ萱之儀は可爲如先規事
一執行職之儀任先規之證文ニ別堂寶前院永可令兼帶併爲峰中役義衆徒上座十人之内にて輪番ニ一ケ年ニ壹人宛戒※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1-91-26]次第順次ニ執行代別當より可申付候爲御役料月山權現之最華三分一宛別當より執行代※[#変体仮名え]可遣事
一山麓衆徒霞場之事前々之通相違不可有事 附明坊之霞之儀觀喜院霞場へ別當隱居所※[#変体仮名え]相附殘る九坊之霞清僧之衆徒三十一坊※[#変体仮名え]可配分事
一山麓人足之儀堂塔通橋修造之外別當方※[#変体仮名え]我儘ニ不可仕之但爲町役壹軒より一ケ月壹人宛別當※[#変体仮名え]可出之但私用之時は右の外人馬可出之附百姓猥リニ不可仕之但有來人馬等可出之事
一山麓面々之境内ニ有之樹木可爲自由併表向之分不可伐採事
一神寳并寶前院什物帳面之通不可紛失事
右之條々堅相守此旨不可有遠背者也
  寛文八戊申年               住心院 實俊
                       圓覺院 ※[#「言+甚」、第3水準1-92-13]泰
   羽黒山
     寶前院
       惣衆徒中
      覺書
一正月七種祭禮之事前々より有來事ニ候ハヽ輕可相勤事
一麓之町人三役令捨事
一麓在家屋敷賣買之節禮錢之儀は其役人※[#変体仮名え]只今迄之通可出之事
一寒中雪之内薪橇寶前院※[#変体仮名え]出し候儀令用捨事
一死人送り候道之專堂社※[#変体仮名え]穢無之方を見合候て其道を可相定事
一山麓之者共一山の爲として七年以前衆徒より致各出候銀子之事向後は四人之年行事承り切定致し次之役人※[#変体仮名え]手形帳面可相渡事
一拔川橋之事參詣之住來道も近く其上石壇も有之候得は彌其分ニ可指置事但荷物杯通し候事不自由ニ候ハヽ最前之道輕く繕ひ候て可致往行事
一羽黒山より月山迄之間新小屋之事小屋共多く候へは道者風雨之時分能有之候間其時分ニ可指置事
一麓町中※[#変体仮名え]畫休候道者只今迄ハ問屋六人之所※[#変体仮名え]相定休之候へ共其向後ハ町中※[#変体仮名え]可致散着事
一麓より羽黒山迄送り荷物運賃令赦免事
一月山權現之最華之儀別當并脇々※[#変体仮名え]着候道者も無高下鳥目四拾八文宛可出之事
一三京舊之年貢就收納於鶴ケ岡藏敷并役人參候入用拂候儀は羽黒領惣高ニ掛毎年可出之事
一東照宮ハ令出仕者正月四日九月十七日ニハ爲賄一汁三菜之齋於別當所可相賄事
  寛文八年                 住心院 同
   申十月一日               圓覺院 同
      出羽國羽黒山領千五百石餘配當帳
納方俵二〆四斗六升俵
  米貳千三百五拾表九升四合五勺五才壹毛
     但本府出目通
一米拾七俵八升壹合六勺五才     羽黒權現御供料
一同三拾五俵            同   燈明油料
一同三俵              同   燈明蝋燭料
一同五俵       六月十五日  同   御祭禮料
一同四俵              同 九月九日祭料
一同餅米三俵            同 十二月年籠料
一同八俵              東照宮御祭禮料
一同六拾俵六升七合九勺       五重塔修理料
一同三百俵             別當臺所入
一同四拾八俵壹斗八升七合壹毛       華藏院
  内八俵壹斗八升五合壹毛ハ今度加増
一右同斷                 正穩院
一右同斷                 智憲院
一米四拾俵三斗八升七合壹毛        圓珠院
一同四拾四俵貳斗八升七合壹毛       能林院
  内貳表貳斗  御開山御供料
一同四拾貳俵八升七合壹毛         壇所院
一右同斷                 聖坊
一右同斷                 經堂坊
一右同斷                 北之坊
一右同斷                 正善坊
一右同斷                 金剛樹院
一米貳拾五俵三斗八升七合壹毛       福圓院
一右同斷                 義本院
一右同斷                 玄陽院
一右同斷                 南要坊
一右同斷                 竹之坊
一右同斷                 愛染院
一右同斷                 寶徳院
一右同斷                 東光院
一右同斷                 見善院
一右同斷                 三學院
一右同斷                 福泉院
一右同斷                 寶積院
一右同斷                 明了院
一右同斷                 威徳院
一右同斷                 善臺坊
一右同斷                 福乘坊
一右同斷                 護摩堂
一右同斷                 南染院
一右同斷                 普賢院
一右同斷                 積善院
一米拾貳俵貳斗              承仕役料  慶かひ坊と云今ハ西性坊
一右同斷                 常善坊
一米三拾壹俵               眞田式部
一同三拾壹俵               太田主計
一拾五俵                 自坊
一貳拾三俵貳斗六升            常善坊
  内貳表貳斗五升 寶藏坊取分
    霜月九日大夫神子神託料
一同拾貳俵貳斗              玉川大夫
一同拾俵                 左神子
一同八俵三斗               寄木神子
一右同斷                 藤島太夫
一右同斷                 柳久瀬太夫
一米六表壹斗               三ケ澤大夫
  神子大夫俵數合
  高合五拾四俵貳斗
一同拾俵三斗貳升壹合五勺   曲師花折敷 權三郎
一同貳俵貳斗         別當小遣へ 權右衞門
一同七俵貳斗         橋守料   不動院
一同五十壹俵壹斗七升五合五勺  大工   七兵衞
惣高合千七百貳拾七俵三合六勺壹毛
  餘米六百貳拾三俵九升七勺二才
一米百俵                 東照宮御供米別當所※[#変体仮名え]收納
一同貳百六拾壹俵貳斗四升五合四勺八才   修理料
  但四人之年行事立合毎年收納之金子致別當并四人之者立合可預置也
一同貳百六捨壹俵貳斗四升五合九勺九才   寶前院
  但此内貳百三俵貳斗八升五合四勺九才  寶前院領
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高三百石村杉村手向村之出目也殘米五十七俵貳斗六升八合九勺六才ハ右之村府内也兩村之出目本府合米五百七拾八俵五升四合六勺三才有之内最前米三百俵寶前院ニ令配當也相殘ル所寶前院本府出目故附置也
合六百貳拾三俵九升九勺二才
兩口合
  惣高米貳千三百五拾俵九升四合五勺五才壹毛
右之通配當米永代不可相違收納之儀ハ衆徒之内年行事四人立合遂檢見可納候且又修理料三百貳拾壹俵三斗餘之儀相勤之上別當所※[#変体仮名え]預置被損之節別當之指圖を受可修理之尤遂勘定毎年帳面嚴密ニ可致候於違背は可爲曲事之旨被仰出所也依而如件
  寛文八戊申年               住心院 同
      十月朔日             圓覺院 同
    羽黒山別當
       寶前院
         惣衆徒
[#ここで字下げ終わり]
 寛文九年四月圭海始めて羽黒に着き、十月十五日鶴ケ岡に至りて藩主酒井忠義に別當繼目の挨挨[#「挨拶」か]を述べ、閏十月羽黒を出發し大日坊に一泊し六十里越より江戸に歸つた。
 古來羽黒の執行別當は山内の戒臘の者が襲職して來たのが、天宥流罪後よりは東叡山の兼務となり、院代を派遣して山務に當らしめた。之に依つて羽黒は全く獨立性を失つて、法務に於ても變態の現象を見ることになつた。されど内外の事件は東叡山にて處置することであれば總て平穩なる解決を見るやうになつた。
 天宥派衆徒の奉行所の裁判は寛文八年十一月に至りて終決を告げ、十五人を羽黒山追放に處し、其中で羽黒に居つた玄陽院以下七人の判決は奉行所より東叡山、東叡山より尊重院に、尊重院より羽黒在住の圓鏡院に傳へ、十一月一日圓鏡院より七人に言渡しをした。天宥と共に江戸に登つた寶積院等五人と本年四月手向より召された眞田式部等三人には十二月十三日寺社奉行井上河内守役宅にて寺社奉行二人と東叡山役僧二人列席にて言渡しを行つた。
 (自坊記録)
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羽黒山衆徒
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寶積院  |眞田《寶前院家來》式部  眞田隼人  太田主計
粕谷又右衞門  |眞田《麓修驗》與左衞門  常善坊  順京坊
[#ここから3字下げ]
右八人者天宥法印一味の罪科ニ依て羽黒山十里四方御追放の旨寛文八年十二月十三日井上殿被仰渡候
[#ここから5字下げ]
玄陽院    經堂院  眞田四兵衞  勝木平左衞門
田村嘉兵衞  覺成坊  安養坊
[#ここから3字下げ]
右七人の者同罪ニ被仰付於羽黒山十一月朔日申渡候
[#ここで字下げ終わり]
 以上の追放衆徒の家族及び使雇人の人名を鶴岡寺社方に届出でしむ。
 (酒井家世記)
[#ここから3字下げ]
十一月四日
羽黒追放之面々召仕之男女相違無之由岡田九右衞門方迄圓京坊より書付被越候樣可申遣事
  申十一月四日
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 追放處分は家族と共に追放されたので、前記十五人は最上尾花澤に住居して赦免の日を待つた。

     二 湯殿山賽錢盜人の取締

 寛文六年三月の裁斷に「湯殿山法流は眞言宗たるべし」と決定した後ちの——羽黒、月山、湯殿山の關係は如何なる結果になつたかを檢討して見る。古來羽黒衆徒は眞言宗であつて、三山を修驗道の道場とし、湯殿山を以て即身成佛の靈境とした。次に大日坊、注連寺、本道寺、大井澤の四ケ寺は羽黒派と同宗であるが、獨立して湯殿山のみを信仰し羽黒山、月山には關係を持たない。何れも眞言宗であるからして湯殿山の本地佛を大日として即身成佛を目的とすることは同じであるが、其修業方法は異つてゐる。羽黒派は修驗道であつて、四ケ寺は修驗道で無いので行道である。行道とは密教修業の方法で之を修業する人を行人又は行者と云つた。依て湯殿山は羽黒派と四ケ寺の入合の山である。
 羽黒派では一般民衆の參詣の便宜を計りて、羽黒本堂に三山の本地佛を安置した。何時頃から三尊を安置したかは明確でないことは前編に述べた。然るに寛永十八年羽黒派は天臺に改宗し湯殿山法流をも改宗せしむる方針であつたが、寛文六年三月の裁斷にて「湯殿山法流は眞言宗たるべし」と決したのである。是に於て湯殿山の法流である四ケ寺は眞言宗であることで湯殿山は從來の通り眞言宗の山である。依て湯殿山は羽黒派とは完全に分離した。羽黒派では湯殿山を失つては大打撃であるが、湯殿山と全く關係を絶つては羽黒派の死活に關することであれば、舊來のやうに入合山として參詣を斷たないのである。然るに湯殿山とは宗派を異にすることゝなつたので他宗派の山に參詣するので頗る不合理となつた。眞言宗の目的は即身成佛であるが、天臺宗では娑婆即寂光淨土で、前者は個人的であつて後者は社會的の差あり。羽黒の修驗道の組織にも大龜裂を生じた。そこで羽黒派では湯殿山をば不言不語の山又は戀の山と唱へて一切語らぬことゝし、年中行事峰中記なとにも一切湯殿山を除いた。されど一般參詣人は湯殿山を目的として登山するのであれば、羽黒派では道者の先達となりて湯殿山にも參詣する。羽黒修驗等が湯殿山に詣れば眞言宗の法儀によりて光明眞言其他の咒を唱ふることは眞言時代と變りはない。
 羽黒の天臺改宗後の庄内に於ける寺院の宗派別を見るに、莊内の眞言寺は羽黒末が大部分であつて、大日坊、注連寺末が少しあつた。羽黒改宗後二十六年の調を見るに、天臺宗三ケ寺あるばかりで、眞言寺は五十ケ寺である。左の調は寛文七年五月巡見使廻國に付調査したものである。
 (酒井家世記)
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      庄内惣寺高之覺
一三ケ寺ハ天臺宗   一五十ケ寺ハ眞言宗 一三百拾六ケ寺ハ禪宗
一拾六ケ寺ハ淨土宗  一六ケ寺ハ法花寺  一拾七ケ寺ハ門徒宗
一三百八拾餘  山伏社人比丘尼
右は御巡見使御尋も有之節御返答申上候
  心得之爲其向役人※[#変体仮名え]被相渡
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 關東奧羽の古來羽黒末寺院も庄内に順じて改宗しない寺が多かつたに相違無い。但し山伏社人は羽黒末が多いだらうが明かで無い。各地方で羽黒末派が大峰派又は熊野派と爭論を惹起した例二三を擧げて見る。
 萬治二年仙臺領名取地方で大峰派(眞言)の山伏入込んで羽黒派の山伏を壓迫し、名取の行藏院教學院は大峰派に逐出されて羽黒に來た。羽黒では行藏院を大越家《ダイオツケ》に任じて名取に歸らしめ、教學院をば羽黒に留めて一世行人と爲し、尊重院圭海に至りて南陽坊を與へた。
 仙臺領伊具郡の大峰派山伏が羽黒派の霞場を侵略したことを羽黒に訴えて來た。羽黒より使僧を遣はし仙臺藩奉行に交捗し大峰派山伏を羽黒一世行人と爲さしめて歸つた。
 寛文三年秋最上楯岡村にて熊野派山伏と羽黒派山伏と爭論を起し、羽黒に訴へた。兩派を江戸に登せて東叡山を經て奉行所に訴へ、双方和解した。
 同十年南部にて羽黒派山伏と熊野派山伏の訴訟あり。翌十一年六月上旬奉行所の裁斷にて熊野派は羽黒派霞場に立入ることを禁ぜられた。
 湯殿山は人間界を超越した即身成佛の靈境であれば、境内に一切人工を施してならぬことは前に屡々述べた。依て古來數百年間の參詣人の撒いた費錢は誰でも一切拾つてはならないから靈湯の涌出する所及び瀧壺は勿論附近の賽錢は堆積して、古いものは漸次腐蝕しつゝあるのである。何時頃よりか此賽錢を盜取るものが増加して來た。年々夏期數萬人の道者が秋期に入りて絶え、參道所々にある笹小屋從業者も引揚げた頃を見計りて、降雪前に錢盜人は湯殿山に入込むのである。之等の錢盜人は附近の山の中腹に笹小屋を造り携帶せる米を焚いて食しつゝ幾日も寢泊りして、麓の賽錢を叺に入れて山腹の小屋に持運び、腐朽したものを捨て通用錢を選り集めて歸るのである。一種の山窩である。若し發見さるれば山を傳たひて逃ける。之が爲め山腹に小屋を造るのである。之は古人より行はれたことであらうが、始めて記録に現はれたのは寛文八年であつて、注連寺、大日坊は錢盜人次右衞門、三藏二人を捕へて鶴岡寺社方に届出た。此二人は鶴岡の徒組であつて足輕の家の宿借りである。宿借りは普通保證人を立てゝ借れるので、之を請人と云つた。二人は取調の上六月十四日耳を斬りて六十里越口より追放に處し、宿主請人も入牢に處分された。
 (酒井家世記・文化古老記)
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        覺
一注連寺大日坊仕配之湯殿山※[#変体仮名え]入まき錢御當地之次右衞門三藏と申者盜取申候ニ付右兩寺より岡田九右衞門方※[#変体仮名え]斷ニ付彼者召捕則白状仕候兩寺※[#変体仮名え]當檜物町久次郎と申者訴人仕候會所にて會合之衆度々相談仕彼徒もの兩人耳をそき六十里口追放仕候事
一加藤彦兵衞組御足輕與次兵衞家※[#変体仮名え]徒者之次右衞門宿かし與次兵衞も人之家屋敷を借り剩右之通ニ付樣々穿鑿仕月行司石井新右衞門江口四兵衞末松彦太夫立合色々せんき被申候所最兵衞才兵衞と申者請人ニ立申ニ付宿借り候由與次兵衞才兵衞不念之由會所にて何も聞濟候ニ付彼兩人爲過怠廿日迄籠舍申付落着如此ニ候并錢盜人三藏儀も檜物町又右衞門と申者徒者之宿仕候付右同斷廿日迄籠舍申付候事
一錢盜人兩人ケ樣之首尾一山之作法も候ハヽ相渡可申由九右衞門注連寺大日坊※[#変体仮名え]斷候へ共相替挨拶も無之ニ付右之通申付候與次兵衞不念無之ニ付會所※[#変体仮名え]之取次新右四兵彦太被申立候 以上
   |申ノ《(寛文八年)》六月十四日         會所
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 湯殿山錢盜人は最上、村山、莊内の各方面より入込んだらしいが、莊内藩の徒組のものより出たことは藩の体面に關することで、今後取締りを一層嚴重にする必要を認めた。依て寛文九年六月より莊内一般に嚴達する所あつた。
 (酒井家世記)
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寛文九年六月四日
湯殿山錢さらいのもの詮儀の爲御代官出郷村々五人組人數水呑山伏寺院とも穿鑿被仰と云々
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 (萬書集抄)
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        覺
一於湯殿山金銀錢古來より不取儀神前を恐るゝ故也 大山場廣成ル所へまき捨有之を今程不恐神前惡人其山へ入候間 最上大日寺へ申合湯殿山支配方より自今以後金錢支配いたしとられ候ハぬ樣に年々急度仕置可申付候態と道者宿坊方へ申合右之通仕置たるべく候 以上
   酉《(寛文九年)》霜月廿五日       [#((家老))]長谷川權左衞門
                     末松吉左衞門
                     石原平右衞門
    注連寺
    大日坊
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當夏湯殿山へみたりに入神前之金銀錢盜取候ニ付當人共御法度ニ被相行候儀堅被仰付候此旨注連寺大日坊へも被仰出候之旨頭衆より支配之者五人組有之は申合右之盜人無之樣ニ可申付候若盜人之訴人有之は急度可被仰付候 以上
  酉極月四日              吉左衞門
                     權左衞門
                     平右衞門
      右之書付渡方
一御組頭衆へ壹通 一御郡代衆へ一通 一御小姓組へ壹通 一御歩行頭衆へ一通
一御足輕月行持へ一通 一大御目付へ一通 一御徒目付へ一通 一鶴岡御町奉行へ一通
一寺社方へ一通 一龜ケ崎御在番衆へ一通 一御中間頭へ一通 一酒田町奉行へ一通
一龜ケ崎御物頭へ一通
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 斯く取締りが嚴重となるに隨つて間道より山越えして入込むものできた。依て村山郡本道寺大井澤とも連繋して之が取締りを嚴にした。寛文十一年十一月四日山濱通戸澤村伊之助最上大日寺に捕へた。同十二年十一月八日角左衞門、八左衞門、清三郎の三人同罪にて赤川渡場前にて斬首。延寶五年四月二十一日彦次郎、吉兵衞二人注連寺にて捕へ五月廿一日斬首。六月十三日鶴岡白銀町肝煎久左衞門、宿借勘兵衞斬首。鶴岡法春寺内市兵衞は四人の錢盜人を宿泊せしめたる科により斬首、四人も同上。同千壽庵寺内の彌右衞門伜甚太郎、聟權三郎兩人逃亡に付彌左衞門は追放、妻子家財ハ欠所處分に付された。斯く錢盜人の多くなつたのは取締りが嚴重になつた爲めであつて、古くは之より更に多かつたであらう。湯殿山の別當は眞言四ケ寺であつて、羽黒派は入合に過ぎない。依て錢盜人の取締には羽黒派は關係が無いので、四ケ寺と莊内藩の取締りである。

     三 峰中三十日を十五日に短縮す 南谷別當寺燒失

 別當尊重院圭海は毎年夏期に一回づゝ羽黒に來り、一二ケ月滯留して江戸に歸つた。寛文十年五月廿七日圭海羽黒に着し、七月二十日より始まる所の秋峰中の大先達を勤め、八月五日で終つた。峰中日數十五日である。古來秋峰中は七十日間であつたのが、天宥の代に三十日に改め、圭海に至つて十五日に短縮した。斯く短縮した理由を考ふるに、眞言修驗道は多くの行事を設けて之に伴ふ佛像が又頗る多い。一々この行事を修行して行く間に精神の統一ができて即身成佛の域に達するのである。依て之を終行するに七十日を要したであらう。然るに世態は漸次多忙となり、斯く多くの日數を費して修行する人が少くなつて來た爲めに短縮したことで、天臺改宗を動機としたらしい。以上は天宥の七十日を三十日とした理由と思ふ。次に圭海の十五日に短縮した理由は、元來峰中の大先達は別當か又は五先達後ちの三先達より出るものであつて、大先達を勤むる前に三ケ年の母理宿《ボリシユク》を勤むるのである。母理宿とは峰中の豫習であつて、峰中と同時に吹越に母理宿の假小屋を設けて施行するので、行事は本峰中と同じである。三年の母理宿を終了した翌年に本峰中の大先達を勤むる。大先達は峰中の主司者てあつて行事に通曉したのでもなければならぬことは當然であつて、又身體強健でなければ三十日の難行苦行に耐ゆることできない。然るに圭海に至りて東叡山兼帶であつて羽黒に於ける法務行事に通曉しない。又多年の修行の功を積まないから三十日間の難行苦行に耐ふることできないのが主因であつて、此外世態の進運に伴つて三十日では入峰者が減少して來たのも原因を爲したであらう。
 (羽黒山中興覺書)
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一羽黒山峯中の事往昔秋峯の日數七十日といふ七月七日より九月中迄出席 中興以來三十日ニ成る 寛文中上野より別當代尊重院代に日數十五日ニ成る 七月廿日より往昔五先達共ニ入院の年母理宿を執行し 其年より三ケ年峯修行して大先達を名乘也 是を役の峯といふ 三宿成就せさる内ハ先途先達とハ名乘らず 三峰成就は先達職の位階也 依之太業の上座とす宥俊代迄は是を修行せられし也 天宥以來ハ別當職役の峯止む 是より代々の別當入院の年大宿修行し役峰と稱す 三先達も延寶年中迄ハ三峰の役峰立る也 元祿年中より母理宿斗立三役の峰修業ハ略せり 同二巳年より峰役者料者新ニ改之
一別當代不入峰ノ内當峰の時分は三先達の内にて當峰役相勤也 別當代はしめ入峰也右座ニ居大先達ハ左座なり
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 圭海は寛文九年と同十年の二回峰中大先達を勤め、七月廿日より八月五日まで十五日間である。峰中終了後羽黒本堂に納めた打切り札に左の如くあり。打切札は昔の碑傳である。
 (羽黒山峰中累歳修行輯)
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寛文十庚戌年七月廿日着揃 大先達大僧都寶前院法印圭海
  大善坊《導師》  喜樂院《小木》祐仙  圓鏡坊《閼伽》圭純  玉泉坊《狩》澄海
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 喜樂院祐仙及び圓鏡坊圭純の二人は圭海に隨從して羽黒に來た。祐仙は拾塊集の僞作者であることは前に述べた。祐仙羽黒に留り寛文十年九月寶重坊に住し十月正善院に移り遷化した。圓鏡坊は寛文十年十月岩根澤日月寺の住職となつた。
 先達職は羽黒最高の役であつて、山上の本堂前に大寺院を構へ、古くは五先達あつて寶善坊華藏坊薩曼坊(後ちの智憲院)空照坊(後ちの正穩院)澤内坊であつた。寶善坊は寶前院であつて別當寺の坊名である。澤内坊は天宥の時に廢寺となつた。依て殘りは四先達であるが別當は東叡山より兼帶或は赴任することゝなつたからして、寶前坊は別當寺と定まり先達とは云はぬことゝなつた。それで天宥後の先達は華藏院、智憲院、正穩院の三人となつたのである。觀喜院も先達となつたやうだが天宥之を毀ちて若王寺に合併した。
 圭海の羽黒に來たのは寛文九年、同十年の二回に過ぎぬ。同十一年の峰中は圓鏡院圭純大先達を勤めたが、峰中終えた後ち圭純も江戸に歸つた。斯く別當不在の間は正穩院盛海が一山の總務に當り、寛文十年九月より家老を命ぜられたと川上記にあるが名稱は明かで無い。
 羽黒は圭海の別當兼帶となつて一變したのである。峰中其他の法務は簡易となり、圭海に隨伴して來た圭純等が勢力を占めた。之に對して不平なのは智憲院以下の衆徒である。又一山の衆徒にも天宥派と智憲院派の二派ありて融和を缺いた。圭海が正穩院を家老と爲して一山の總務に當らしめたのも前例の無いことである。要するに山内の政務は變態になつたとは爭はれない。智憲院等は以上のやうな關係よりして別當圭海に不平を抱いたらしい。そこで圭海は寛文十一年三月十八日智憲院の罪過七ケ條を認めた訴訟を北之坊に持たしめて莊内藩寺社方に届出たのである。圭海は三月廿一日清川口より江戸に歸つた。この訴状は殘存しないので内容は不明の外無いが、同年秋智憲院は吹浦口より追放に處された。
 (川上記)
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一羽黒山智見院追放之儀對院家度々不届有之故寛文拾壹年ノ亥三月十八日罪過之書付七ケ條有之 此條目北ノ宿坊同十九日ニ持參岡田右衞門殿〈○寺社奉行〉へ被遣伊右衞門先立にて當番吉右衞門殿權右衞門殿條目懸御目に被成候 智見院秋田へ吹浦口へ被參候由承候 但羽黒よりすくに被參候出判も此方にては調不申候羽黒之判にて參候事に可有之候 條目の寫四郎右衞門〈○町奉行川上〉手前ニ手札を付有之候 以上
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 恰かも圭海の江戸に出發した三月二十一日に能林坊、竹之坊は羽黒を出奔した。其理由は借金の爲とあるが、二人は智憲院と天宥の罪状を幕府に訴へた五人の中であつて、天宥排斥の智憲院派であれば、天宥派との軋轢の結果茲に至つたものであるらしい。別當圭海は天宥派であり、正穩院も同派であつた爲めに羽黒總務を命ぜられたらしい。
 智憲院、能林坊、竹之坊は其後一二年を經て皆羽黒に歸つた。又天宥と同時に追放に處された十五人の中にも歸つたのは七人位あるやうだ。
 寛文十二年十月二十四日南谷別當寺火災に罹り什寶悉く燒失した。時に別當圭海も圭純も江戸に居つたので留守居の過失だそうだ。
 (川上記)
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一羽黒南谷尊重院の寺寛文十二年子之十月廿四日の夜半時分ニ燒申候 別當|住《(什)》物家才寶物共ニ寺々二階ニ上置不殘燒申候 別當尊重院當秋より在江戸同|常《(淨)》圓院も在江戸留主居ニ勤行坊南谷ニ罷在勸行坊さうり取十四五のてつち其夜せんちんへ燈を仕參 其燈より火余り火事出來申候 以上
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 明かに南谷別當寺もあれば、三ノ坂下の若王寺では無い。此頃別當は南谷に居つたのであらう。天宥創建してから二十五年で宏壯を極めた大伽監[#「伽藍」か]は燒失し、什寶悉く烏有に歸した。義光黒印寛文以前の古記録の燒失したのは此時であると傳へてゐる。
 羽黒社領の中で田川郡京田地方は最も多い、之より年々粗米を羽黒に送るには鶴岡市中を通らねばならぬ。そこで羽黒では聖坊正穩院の年貢米高を認めた證文を鶴岡郡代役所に出して、郡代の裏判を受けて、之を以て鶴岡の新潟口、高畑口、新町口より搬送し各木戸にて表印を受け、更に紙漉町、野荒町等にて出判を受ける。羽黒に送る雜貨食料品なども同樣である。手向に搬送した年貢米は二王門前に藏屋敷あつて之に入れる。今の三山社務所々在地である。
 延寶元年は家老正穩院盛海の役峰三年目であつて、峰中大先達の當番である。之より先き別當圭海は松山藩酒井大學頭忠恒より金二百七十五兩の借入金あつた。同年之を返濟せんとして盛海をして松山に遣はした。盛海乘馬にて松山に至る間に此金を落して紛失した。是に於て盛海は七月十八日峰中の笈緘《オヒトヅ》の神事終るや出奔した。依て別當圭海代理淨圓院圭純俄かに大先達を勤行した。同年の母理宿は智憲院圓堯が勤めたので、約二ケ年で追放赦免にて歸山したらしい。正穩院盛海も一ケ年未滿で歸山し廷寶二年七月の峰中大先達を勤めてゐる。

     四 天宥の嶋文と遷化

 天宥と大乘坊は寛文八年四月伊豆の大島の内の新島《にいじま》に流され、延寶二年まで七ケ年になるが、其間の生活状態は明かで無い。羽黒には多數の天宥派が居つた。同時に追放に處された人々も追々に歸つて來たので、天宥の爲めに衣服、食料品を常に送つて居つた。隨つて時々文通も交はしたらしいが、後世に傳はるものは島文と稱する天宥の書翰一通だけである。この島文は年月も宛名も無いので明かで無いが、別當覺諄の添書によれば荒澤經堂院に送つたものである。經堂院は天宥派で追放された十五人の一人である。島文の内容は天宥以下の處罰された原因、羽黒内部の紛紜などを細々と書いてあるが不可解の事も多い。依つて左に全文を掲げて著者の註解を鼇頭に施した。延寶元年頃の書翰らしい。
 (自坊記録)
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天宥法印大島より被遣候文有之御本坊※[#変体仮名え]秘置何方※[#変体仮名え]參候文が名當不見爰に序故記置 私曰此前文今一紙もあるべし末にもあるべしと覺ゆ
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□被申候 共元より状をもくれ候へハ御所への外聞ニもかゝハ 無調法にて見捨られ候と可存候 古哥にあわれけに憂時つるゝ友も哉人の情ハ世に有し程と候ニ和泉故心□去とは難有候 万一此文ニ行當候ハヽ|山ふもとの《(羽黒)(手向)》樣子鶴岡迄の樣子ヒま々々書遣尤ニ候 今の名ハしらず候前の名書そへ可遣候 善も惡も聞度候
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一赦免の事ハ神も思ひ切候歸山候といな山の躰見候ハんハ口惜候山居の樣子にて心靜中々能候
一我等の時より寺中ヒまかなる支置の由太身の小身たるは家を失と申候 我等は一代知行臺所迄勘定見聞不申候覺へ可有候
 此状おかしく思ひ候 其旨に斗持候ても難晴候間たはことなから書遣候 以上
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於禁中多春|友《?》と申御製被下良基□哥一首并序上られ候珍布事に候間山に殘さんため老筆見苦候へ共書送り候 若よめ兼候ハんもしれす候間内書ニ假名して遣候 閑樣の事其方ヘハいやなから遣すべき處無之候間遣候 其故ハ其方ハ大道のちがいたるものに候 去夏も月山より大乘所《(大乘坊)》へ状遣候 子共ひろひみせ候 其文に種々祈願候て札二枚遣候 其文ニ天宥ハ息災かと斗候而餘事一も無之候 [#((一))]大乘をは大切ニ仕我等をは百ニ一も不存候 これはわか身を經堂に取合候事忝と申事にて候はん 又[#((二))]大乘目大道|ちかい《(違ひ)》の者に候 我等にしらせす候而取合候事かやうの事天下ニ有物か 其さき覺樹院《(宥海)》に坊主めをも我等にかくし取合候道のちかひたる事に候間首尾不調候 なやうの事七度候と山を出申とてわめき候 我等とめ可申かと思へ候へ共 一圓かまい不申候 [#((三))]何方へ參候ても羽黒に居候樣成事ハ有間敷思□なをし人もとめぬにしらぬつらにてとまり々々々候 其方も覺へ一度二度可有之候 七度候て一圓かまひなく居候事は覺樹院遣たてたるものに候間かまひ申不候 [#((四))]其惡共つもり五人者とも大乘徒者《(イタツラモノ)》に候間はらいくれ候へとて目安上候 さらは對決仕候ヘハ書物にてはらひ給ふ由 我等申ハ書物斗にてきわめ候事無天下ニ候 出候へと申付候へは出不申 それにては山ニ逗留不成候而候處 伊藤九右衞門より公儀へ[#((五))]目安上候 あつかい申候間御かへし可然由被申越候條 衆徒あつめかやうに候間かへし可然由申候へは 何も不便ならは御かへし候へ 何も山を可罷出候と申候聞かへし不申候 就夫かへし候へは云事無之候 大乘一人御はらる候へは無申分候と何も異見申候へ共 我等申分ニハ尤の異見《(意カ)》申候へ共 我等申分ニは尤の異見《(意カ)》に候 併無對決きわめ候事無天下候處 我等左樣に候ヘハ世間の沙汰口惜 大乘とも々々如何に成候共不及是非候と申かやうに成候 然に島に參候てより傍輩あるしらいにて散々に候へ共一圓かまい不申候へ共 つもり々々候てありかね[#((六))]別に罷有候 それより自今以後出入無用と申付候|ぬし《?》故我等をかやうに仕候上ハいよ々々神妙に奉公も可申事ニ候 他人成共同所より參老躰に候間念頃可申事に候をあいしらい散々に候 左程惡人其方念頃成事に家《?》を友と云事誠に候 主師より傍輩を大切にする事聞なれす候 されとも天のとがめハ軈て候ハん 曹子語に汝ニ出る物ハ汝ニ歸と有 惡一ツしぬれは百千にて歸 善ヲ一ツしぬれは善百千にて歸ルト也 大乘ニも 惡歸り候 其方もやかて惡身ニ歸らん 酒井長門をきかぬか 天下一の惡人に候へ共普代人に候とて一命御たすけ家財迄被下候へとも天より御ゆるしなふて[#((七))]盜人共集打ころし家|族《?》一類絶候 侍の盜人ニうたれ候事天下ニ無之候 右惡人程大惡名取候名を思ひ腹を切候事世の習に候處惡名見られ候 近臣にて[#((八))]石原源左衞門をはみす候や 手向東林も親代より目をかけ|念頃《(懇ろ)》候所此度五人ニ云合我等を惡人ニ申立かやうに仕候 庄内にてかくれなき[#((九))]東林五年の内ニすりきり春中火事ニこやかけすへきやうもなきよし 又飯米も一升二升ツヽかりくらい候由 馬さへ十疋廿疋立たる東林五年之内ニ左樣ニ成候事も道ちかいたる故と覺ニ候 はやく如其ニ成候事ハ庄内中無隱者ニ候間はやくめくり候手本にて無之か 乍去あさましく候 其方も何と用心仕候ても天の御ゆるしハ有間敷候 日本の神ハ山ニ執心無之候 其故ハ其方覺ニ可有 私煩をはなれ建《?》立に精入候ても神慮かやうにめされ候又上下の人民大切がりたる我等をいつれもにくみ なき事を申かやう仕候 さそ々々皆嬉しく候ハん これも汝ニ出る物ハ汝ニ歸ルにて候ハん間 やがてそろ々々皆身にかへるべく候 あさましく候 又風聞ニハ山も散々|すいび《(衰微)》候よし申來候 そろ々々汝に歸候と修理に念を入たる我等を御きらい 山の古法を覺へたるもの一人も無之 然は山は有にてなく候 上下の者共山破滅さするものにくみしなとする事も 皆天よりめされ候生命の内ニかやうの事見聞候事 牢人《(天宥)》百ばいかなしく候て人目しらずに夜晝涙をなかし候 我身も聞候ハんか 愚老事に付て天下無双の難有事數多候ニ かやうにめされ候事神佛も皆うそつきにて候へば何の頼も無之候 次第々々に我等の手あてを思ひ候ハん事可有か 當代の手あてさん々々のやうに申候 誠か僞か誠ならハは笑止ニ候 又左も可有か 我等方へ手あて島中にてかくは難有と申候 左《?》無樣ニ無之と申候へ共嶋宿にて聞候由申候間不及是非候 又尊重院[#((一〇))]千二三百の借金候由 我等太分の掃除候へ共左程借金無之候 是又天のわぢと覺へ候 四五年之内ニ左樣なる事只事ニ無之候
一我等ハ出候ても隱居ニ候間此分ニ候間此分にて不苦候へ共十五人の者共あさましく候 され共我等故ニかやうになると人もしり候はん間外聞ハ能候 左樣に成來候事も天のわさにて 羽黒破めつのためにて候はん間後悔申間敷事に候
一去年我等赦免ニ極り候而御老中尊重院ニ御|とい《(問)》候は十五人の者出し候而ハ 其方ため能か惡布かと御尋候所 あいさつのがれ候間 扨ハあしきと聞へたる由思召[#((一一))]赦免も無之申候 是も尊重院とがはあらす天のわざに候 長命故惡事を聞口惜候夜晝くやみ候間後世もよかるまじく候
一五人之者共[#((一二))]大乘め故心ならずなき事共申たて我等をかやうにし候事 今程ハ後悔するものも候はんか 何の|ゑき《(益)》もなきに山を破滅させ骨を折り何の|とく《(徳)》有や 我等かやうにし候もかたきにてはなし 對決せすと申を意趣ニ存候や それは非道にて候五人之者共の行末も能見可然候汝に歸るにて候はん
|一喩《(タトヘ)》にて申候蚤蚊蛇鼠是等ハ人をいため候へは |ミ《(見)》る人毎にころしたかり候 能奉公をし學文手習に氣をつめ候へは譽有事に候 是又汝に歸ルに候
一先年末寺公事是又我等しいださず候 [#((一三))]最上慈恩寺より申出候間不及是非候 それも衆徒ニ|て《?》ハかやうに候が可申か申間敷候 不申候へは末寺すたり候と申候ヘハ 宥俊初ていつれも是非可申由ニ候間 一命ニ懸申候へ共 證據も不[#レ]入[#(レラ)]候て[#((一四))]眞言ニ成二ツニ成候 是又破滅の第一ニ候 別山を取そへてこそ難有たうとく候 今程ハ權現きへはてめされてたつとき事|けし《(芥子)》程も無之候 來迎なとの事ハ行者の念力故ニ候 湯殿月山羽黒たうとき事ハさう々々無之候百年以前迄ハ庄内油利仙北迄社領に候處今ハ千五百石是もやがて有ましく候 天道の大乘と云徒者をよひよせ山の破滅させめされ候 嶋ことも大乘をはせきものゝ隨一とわらひ事ニ仕候 其方覺へ候はん 我等萬事役人共ニまかせまかい不申 修理公儀ニ斗心懸居候世間ニ見聞あはせ可恐候 もはや惡心の者共に天よりあてられたるもの候はん 東林斗ニハ有ましく候
一尊重院も分別ちがい候は 山の大敵者たる者を[#((一五))]家老ニしつ|念頃《(懇)》之由 依之門徒之者共皆述懷候而心々と成候由笑止ニ候 是又道ちがい候 さる程に入院十日も立候ハぬに[#((一六))]堂社寺院數多火事 又十日も不立に南谷にて死人三人とやら申候 [#((一七))]南谷の火事手向の火事 道ちがいたる故に天より被成候や 又あとためよくめされんとての事か 天の心はしられす候 乍去山の敵を出頭にめされ候事ハ神慮もあしく思召候はん笑止々々 其方|經堂《(經堂院)》ニ取合かくし候共其方ハなせにかくし候 大道ちかい候間あしかるべく候不便に候
一尊重院より見次不似合とならぬに極候て[#((一八))]代官神主宮川惣左衞門一人ツヽにてやしない候はんよし神文にて被申候其外卅四十の者何用成共申候へと度々被申候へ共 尊重院ために候間 何もことかけず候よしにて頼り不申候 此方ハいかにも慈悲ふかき所に候 有か中に我等をハたつとみ申げに候 代官神主ハ此方の故にて候
一此方見舞とて嶋宿作左衞門迄手形もらにニ參候由 是も大乘方への見舞九ツ我等方ヘハ一ツに候はん 今度ハ合力迄遣候由 去年ハ不有合候間後便ニ可遣由の紙面ニ候 大乘其元にては不|辨《(便)》なるよしをつくり|ため《?》をき 大嶋の伊藤勘右衞門と申人をたのみ理《?》ばいにてつゝけ申候 是又我等恩にてハ無之候か 我等を捨候事いよ々々末を見べく候 汝に歸るにて候はんかそ れに[#「それに」か]中能候事に我《?》を友と申たとい尤ニ候 やかて其方に歸り可申候
一取立たるもの念頃の者共方へ文を可申候へ共 山執心有かと思ハれ候はん 一ツニツハ牢人よりの状いやなる物ニ候間無其儀候 之にハ切文の一ツもくれす候間禁申候 |果子やいつミ《(粕谷和泉)》は年々の心入去とは天下無双に候 今時の人ニハ珍布候 去年ハ[#((一九))]上々引茶二度頭巾帶|きぬ《(絹)》の|あわせ《(袷)》|もめん《(木綿)》ゆかた |はま《(濱)》なつ豆三曲物 太白の砂糖二斤 |けむりだしをしたるすいふろ《(煙出し付の風呂カ)》 ゆべし十三 其外ハ忘申候 今年ハ上々の味噌二樽醤油一樽すり納豆一樽 引茶一 なつめ 太白砂糖貳斤 ごま一斤 けし一升 ほし大根廿本くれられ候 これハ何のよしミも無之候へ共あらましはなし申ニ付ての事 殊ニ現世後世のためそれも物入ハいかゝもあれ可遣と思れ候心底難有事ニ候 去々年八月大風之砌|こし《(腰)》を打候ニ惡ニ惡かさなり 同所を三度打行歩成兼居候ニ吹風呂被送候間取草にてさい々々入候ヘハすきと能く而 五月五日に三年とて初て社參候 それより|郷《?》中一樣□候是又和泉※[#変体仮名お]かけ忝候(下欠)
 此書面は從伊豆之大嶋天宥師經堂院精海方※[#変体仮名え]被差越候也麓小山某方に持傳罷有候故請焉永本院附置者也
   文化十二亥年十月
                  羽黒貫首現住中興
                      大僧都覺諄記
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【註】
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(一)大乘坊は宥海の從僧である
(二)智憲院等大乘坊をして宥海に天台改宗を中止せしめんとしたか
(三)大乘坊は表面天宥方で裏面は智憲院等と通じ天宥を陷れたか
(四)智憲院等五人の訴訟
(五)智憲院等鶴岡に移りて訴訟を出す
(六)天宥大乘坊と不和別居
(七)酒井忠重寛文六年九月廿四日盜賊の爲めに殺さる
(八)石原源左衞門父子長門守の密謀に參畫して櫛引に郷入最上にて強盜に殺さる
(九)手向東林坊
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(一〇)別當圭海の借金
(一一)圭海十五人の赦免を拒む
(一二)智憲院等大乘坊の爲めに騙されたか
(一三)寛文五年眞言四ケ寺の訴訟
(一四)白岩慈恩寺天台方と關聯あり
(一五)寛文十年正穩院盛海を家老に任す
(一六)寛文九年五月五日寺院多く燒失
(一七)寛文十二年十二月南谷別當寺燒失
(一八)圭海は天宥を養ふ計畫を立てたるか
(一九)粕谷和泉の天宥に送りたる物品
[#ここで字下げ終わり]
 此書翰は延寶元年頃のもので天宥の遷化した前年頃に羽黒の某に送つたものである。その内容は不解の事多いが羽黒の紛紜の裏面のことを知ることできるので有力なる史料である。最も重要なるのは天宥と大乘坊との關係であつて、元と大乘坊は覺樹院宥海に隨伴して來た僧で、宥海は天宥の天臺改宗に反對して羽黒を去り、大乘坊留りて天宥を補佐し留主居とまでなつた。然るにこの書によれば天宥の斷罪中に大乘坊は天宥に不利なる申立を爲し、之れが爲めに流罪となつたやうに見ゆのである。或は寺社奉行の吟味にて先師宥海の羽黒を去つた事情より天宥の羽黒に於ける秘密のことを白状したものとも見らる。
 天宥流罪中の消息は此天宥の書翰以外には知るもの無い。別當圭海を始めとして羽黒の天宥方の衆徒は年々衣食品を送り、水風呂まで送つたのであれば、其方面にては不自由無人生活したと見られる。延寶二年十月二十四日天宥八十一歳にて新嶋に遷化した。
 (羽黒山中興覺書)
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一寛文元辛丑年四月執行下タ寺にて遷化八十二歳也 宥俊天宥二代現住之内山麓堂塔造立數多なり 松杉を植立石坂の工みに至迄其功徳筆紙に盡しかたし 中興開基の師たり 別て天宥師ハ才智世に聞へ誠ニ權化の再來共いふへきか 然とも近臣賞罰不正邪佞を專にして舊例を亂る 其罪せめて一人に歸すならひいたましいかな 行年六十五歳の時寛文八申年遠流の罪に沈み終ひに伊豆の大嶋に於て延寶二申寅十月廿四日八十一歳にして寂す 嶋の僧徒其臨終をすゝむる時端座合掌して
  出る息入る息も皆法の聲何あらためて六字題目
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 (弘釆録) 鶴岡 池田玄齋
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一天宥ハ延寶二年申寅十月廿四日嶋にて遷化有り行年八十一歳なり 同月十九日より風氣の所指重り廿四日朝に禪宗日蓮宗淨土宗の三ケ寺尋來られ 淨土宗眞光寺念佛を勤めければ 天宥手を清め端座合掌して永訣の歌一首を詠す
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  (同略)
夫より手に定印を結ひて晝時眠るか如く往生せり 玄齋云天宥高力忠兵衞〈○莊内家老〉なとは活才有用の英物なれとも明哲保身の道にくらく晩節を全ふせさる事は遺恨の事也 天宥の書畫とて世に賞翫すれ共書跡なとは古法帖を習へるものとは見へす 然れ共磊落縱横にして嫩媚の躰無く眞心畫成るを知らる
[#ここで字下げ終わり]
 (大嶋流人帳) 元村役場
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      流人覺
伊奈兵右衞門樣御支配
一寛文八申四月流罪 〈出羽國羽黒山御料良徒〉
延寶貳寅十月廿四日病死 公事出入 寶前院
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 天宥は剛膽なる傑僧であることは之迄述べた所の事業について明かであるが、又書畫彫刻に至るまで凡工の及はざる技
[#改ページ]
天宥彫刻板扉 三枚ノ内
[#図版(011.jpg)、天宥彫刻板扉]
[#地から2字上げ]手向芳賀七右衞門氏所藏
〔解説〕
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手向隨身門(古へは二王門)外の南方高地に別當下屋敷あり、三山雅集に下旬舘後に別當里坊屋鋪とあるは之れなり、此扉は此下敷に立てありしものなり。
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[#改ページ]
能を持つた。而して之等の藝術は何人について習つたことを聞かないので天稟の偉才ともいふべきである。石彫では荒澤常火堂の石鳥居の龍の彫刻は最も大作であつたが、明治二十五年大風にて松倒れて鳥居を破壞したゝめに數個に折れた。蜂子神社及び東照宮前の石の水鉢、手向六字橋は天宥の作で、其他書畫は所々に殘つてゐる。
 天宥は傑僧であつて、羽黒内部の改善には大なる功績あつたと云へるが、他面に於ては羽黒に大なる損失を與へた。天臺改宗の爲めに多くの檀家を失ひ、且つ湯殿山を失つた。湯殿山を失つたことは如何なる功績も之を償ふことできぬと思ふ。羽黒の衆徒には天宥方と智憲院方の二派できて長く闇鬪を續けたのであつて、天宥方は天宥を中興開基として何時までも慕つた。中興覺書の如きは其一派の著述であつて、經堂院精海又は粕谷又右衞門の著であると傳ふ。
 大乘坊は元祿元年九月赦免されて終る所は明かで無い。
 (流人帳)
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      流人覺
一〈寛文八申四月流罪/元祿元辰九月御赦免〉  〈右同斷/御料右同斷〉  大乘坊
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大嶋の嶋人は流人を養ふ義務制度があるともいふ。

     五 別當胤海の羽黒整理

 尊重院圭海は羽黒別當を兼帶すること八ケ年にして、延寶三年九月京都愛宕山長床坊に轉任した。其後任は日光門主兼東叡山貫主一品守澄親王が羽黒別黒[#「別當」か]を兼ね、別當代壽命院實胤を下だした。
 (峰中記)
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寛文九年酉の夏尊重院御入院|卯ノ年《(延寶三年)》ニ此山被指上京都愛宕山長床坊被代付彼所ニテ死去 其後御門主樣御抱御名代壽命院實胤|卯ノ年《(同三年)》極月下着 |巳ノ年《(同五年)》迄被勤同年八月六日此山ニテ死去
[#ここで字下げ終わり]
 東叡山門主が羽黒別當兼帶で名代壽命院を派遣したことは明かだ。爾後院代を派遣したのは皆門主の別當兼帶である。壽命院は附添中村平兵衞を伴ひ延寶三年九月羽黒に着き、眞田七郎左衞門を正穩院盛海に代つて家老に任命した。延寶四年の月山夏峰執行代は華藏院清海勤めたが實は竹ノ坊が順番であつた。元來月山夏峰は執行の勤むべき古例であるが、近年別當執行は江戸に居ること多いのであれば、夏峰秋峰は別當以外で勤めることゝしたらしい。そこで竹之坊は智憲院、良眞坊、寶徳坊、護摩堂の五人連判にて東叡山に訴状を出した。七月八日五人の申立は採用されないで七月八日五人は追放された。之れも天宥派と非天宥派の軋轢の結果に外ならない。次に同年の秋峰となつたが、當年の大先達は智憲院圓堯の順番である。然るに三先達の正穩院、智憲院は無住、正穩院盛海は死去したので、大先達を勤むるものが無い。別當代壽明院が峰中の大先達を勤めた。之迄壽明院は母理宿も入峰も勤めたこと無いのが峰中大先達を勤めたのは先例の無いことである。母理宿は華藏院清海勤めた。當年の入峰山伏は二十六人で地方の外仙臺南部龜田より來たが頗る人數少ない。
 同四年九月九日は羽黒の流鏑馬の神事にて、鶴岡藩より騎士、鶴岡町より三十五人の人足を出すことが恒例である。之を行ふ場所は手向的立小路であつて、之に要する道具類も鶴岡藩より借りた。手向自坊は毎年の流鏑馬の弓の的を立てることを司どり、依て最上義光慶長十七年六月の黒印九石五斗五升四合は的立料として給與された。その黒印の宛名は的立となつてゐる。羽黒領松尾村は的村であつて的を出す村だそうだが信じられない。
 別當代壽明院實胤は延寶五年八月六日羽黒で病死した。在職一ケ年九ケ月に過ぎない。同五年十一月別當代明光院圓海羽黒に赴任した。十二月圓海に隨伴して來た信解院行海を岩根澤日月寺住職としたのは恒例である。同六年七月の峰中は圓海が勤むべき所であるが、圓海は未だ一回の入峰もしたことないにより華藏院清海代つて大先達を勤め、小木役は竹之坊信辨である。信辨は羽源記二十餘卷の著者で、俗稱を金平質之助といひ最上氏の遺臣ともいふ。羽源記は羽黒と莊内の史記であるが小説である。同六年七月明光院圓海別當代を辭し、東叡山學頭凌雲院胤海羽黒別當を兼ね、九月別當代惣持院周海を下だした。日月寺は信解院の弟子見明院を兼ねしめた。同七年五月經堂院精海江戸に登り胤海を迎へて羽黒に下だり二十五日着いた。同七月の峯中は胤海未入峰と老年に付大先達を勤めたが日數を減じ中途で終えた。入峰者六十人で盛んであつた。母理宿は之迄は同一人三年の役峰を勤めて、其翌年に峰中大先達となる規定であつたが、胤海より各年一人づつに改めた。次に別當又は別當代が東叡山より赴任することゝなつては、別當又別當代は羽黒の母理宿及び峰中の行事に通曉しないので、峰中は漸次古式を失つて簡略となりつゝあるを痛感するやうになつて來た。依て今後の峰中大先達の資格を改正し、別當が始めて補任入部した年は、峰中大先達を勤むるのが古例であるが、三先達の内にて大先達を勤め、其座席は大先達は左座、初入峰別當又は別當代は右座を占むることゝした。
 別當胤海は延寶七年五月より同八年九月迄、寛文十年五月より翌十一年三月迄二回羽黒に滯在し、前記の改革の外諸般の改革を行つた。延寶七年八月十七日毎歳除夜に行ふ冬峰中の驗競《ケンクラベ》の行事に出仕する太業の座位を定め、太業補任の年次に據ることゝし、補任状紛失の者は後年に廻はすことゝした。
 (酒井家世記)
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      定札
一太業之補状不可致疎略事
一補任状火災盜賊等凶失之輩裏府有分之者可爲一ケ年後年事
一補任致凶失裏符ニも不書載有分之者太業成之於有之者可爲三ケ年後年事
[#ここから3字下げ]
右今度松打之次第及異論補任裏府遂穿鑿之上如斯申渡もの也以來此旨急度可相守者也
  延寶七巳未年八月十七日
                 羽黒山執行別當 胤海僧正
    衆徒中
[#ここで字下げ終わり]
 驗競とは大松明二本を造り、十二月晦日之に切火を點じて焚く行事であつて、冬ノ峰中の紫煙[#「柴燈」か]護摩である。之を行ふに當年七月十五日より手向太業中より十二人を選び、二十日迄に其中より松聖《マツヒヅリ》二人を決定する。この二人の松聖を左右に分け、左を位上《イジヤウ》右を先途《センド》と唱へ、多數の衆徒も二つに分れ、十月中より莊内中を巡回して松ノ勸進と唱へ貝を吹いて米錢を集め、十二月廿八日本社に於て明松卷の式を行ふ。左右に分れて一本づゝの大松明を造る。之が松打である。十二月の大晦日夜之を本社より競爭にて引出し、本社前の庭に立て、別當三先達以下の修驗は峰中裝束にて出仕し、諸多の儀式を終えた後ちに左右に分れて鑽火を以て松明を燒くのである。この二本の大松明を鏡松明といふのである。往古より本社前の池の傍りに鏡堂あつて、此鏡堂の前を三回周つて然る後ちに焚くから鏡松明と云つたが、享保頃に鏡堂は廢されて後ちも名稱は鏡松明と云つた。この鏡堂は古來鏡を池中に納める爲めの堂であつたらしいが、納鏡の信仰癈れたから癈毀したものである。
 同八年十二月二十五日東叡山は胤海に命じて 吹越行者堂 鐘樓 峰中堂 大宿屋 荒澤橋を修復せしめ、年行事鍵取の役料米を定め、又本社五重塔の修理を命じた。
 (酒井家世記)
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       追加
一吹越行者堂并鐘樓峰中拾貳間の大宿屋荒澤橋修復之事
一米六俵年行事兩人※[#変体仮名え]爲役料可遣之事
  但壹人ニ付三俵宛
一同五俵權現御内陣鐙取※[#変体仮名え]爲役料可遺之事
[#ここから3字下げ]
右本社并五重塔以修理料加修復且又役料可遣事
                 (寛永寺執當)
  延寶八庚午年              觀理院 寂盛
     十二月廿五日           信解院 行海
    羽黒山別當兼
      凌雲院僧正
        衆徒中
[#ここで字下げ終わり]
 古來秋峰冬峰の大先達は別當先達にて勤め導師、小木、閼伽、狩の四役も山上の清僧のみを以て勤めた。延寶中より之を改めて山上清僧不足の時には手向の妻帶修驗入合にて勤めしむることゝした。追々には山上山下妻の有無に關らずに年寄次第に四役を勤むることゝなつた。
 導師は四役の首位であつて、小木、閼伽、狩の三役を勤めた者でなければ勤めぬこと、又小木、閼伽、狩の三役は太業、入峰、堂番(番乘《バンノリ》)の三役を勤めたものでなければならぬは古例である處、延寶七年の峰中に導師となる資格の者が缺けた。依て向後は小木、閼伽の内何れか一回勤めた者にて年齡順にて導師を勤めしむることゝした。
 天和元年五月廿五日幕府巡見使保科甚兵衞、佐々喜三郎飯河傳右衞門の羽黒參詣あつた。此時莊内農民は羽黒領の境界である手向西方の中ノ坂まで道路掃除を行つた。羽黒衆徒は松原西端の神路坂まで掃除を行ひ、茲に又雙方の境界爭を蒸し返すことゝなつた。送迎も同樣である。
 別當胤海は天和二年九月辭し、同月十三日別當代周海も江戸に歸り、東叡山貫主の別當兼帶となり院代を派遣された。胤海辭任後山門藥王院に隱居した。胤海羽黒の山務整理に功献あり。和歌を好み三山雅集に數首を載せてある。

     六 熊野派本山羽黒を訴ふ 羽黒派山伏は本山派支配となる

 別當胤海辭任後は東叡山貫主天眞法親王羽黒別當を兼ねた。親王は後西院天皇第五皇子であらせらる。別當代覺前院良※[#「言+甚」、第3水準1-92-13]天和三年五月附添服部忠兵衞を伴つて羽黒に入院した。此年南谷を執行寺、若王寺を別當寺とし、別當代は若王寺に居つたらしい。此年若王寺改築長屋門を建てた。又貞享二年東照宮を改築した莊内酒井忠眞の寄進である。
 貞享元年四月東叡山より法令十五條を達され、衆徒の學問を奬勵し、衆徒持の堂塔修理、惡風矯正、峰中並に出仕の裝束の區別、三先達に衆徒等の私の出仕を禁じた。
 (羽黒山別當所大帳ノ寫)
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      御追加
一天下安全之御祈祷彌不有怠慢事
一公義御法度之儀有來品々彌可相守之事
一切支丹宗門之儀御制札之通急度可相守之事
一浪人は勿論雖爲商人行衞不知者一團不可拘置事若由緒有之無據者拘置候ハヽ役人打寄遂吟味候上別當所へ致斷候而差置可申事
一四度之護摩加行者不及申遂灌頂大阿闍梨候樣隨分可心懸事
一惣衆徒一向非學之由沙汰之限ニ候自今可勵學問事
一密教方曼陀羅供等連々致稽古可令執行事
一衆徒中持來候堂塔加修復可相守之旨先ヰ之御下知状之趣彌可守之若修理難成輩者預り之堂社本坊へ可差上之事
一常火海號補任別當之外彌脇々より不可出之若相背輩有之而令露顯者可爲曲事事
一山麗僧侶共ニ博奕堅可爲禁制縱少々之事たりとも諸勝負不可致若違背之輩於有之は可被處最科事
一衆徒中峰中之役儀式於寺中有來修驗道之出仕は格別其外常々之出仕は修驗之裝束可爲無用白衣素絹五條可着用事
一衆徒之中三先達門中之筋目有之由にて致支配候之由 往古は如何樣候共三十一坊各之衆徒ニ被仰付候上は向後各之可爲衆徒尤三先達※[#変体仮名え]私之出仕被停止之畢 但峰中之用事は年寄次第頼候而可相調事
一常火薪之用として毎年大木等伐採山林荒候由不可然候 自今以後常火本買調可用之 但木之大小只今迄之通之木可相調事
一衣食之事應分限輕可用之膳部之儀道者馳走は可爲有來通 其外寺中之參會は不及申候雖爲講筵不可過一汁三菜酒三献但入院得度初護摩之饗應は可爲二汁五菜酒は可爲五献事
一東照宮は格別ニ候之間社堂修復又は勤行等義從本坊可致之然は愛染院預り差上可申事
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右箇條之内寛文八年之御下知状ニ被相載候儀雖有之無沙汰之由相聞不届ニ候 就中護摩灌頂顯密之學行疎略之由非法中之本意向後隨分可勵修行其外今度追加之趣可相守之若違犯之輩於有之は可爲曲事之旨依 輪王寺宮御氣色仍而執達如件
  貞享元甲子年            轉法心院 宥快
     四月             大圓覺院 公雄
    羽黒山別當
    寶前院
     惣衆徒
[#ここで字下げ終わり]
 此法令は三先達以下の權限を緊縮して本山並に別當の法權を重からしめたものである。行人の位階は天宥の時に羽黒にて出すことゝしたのであるが、荒澤常火堂に授與することゝなつたのは之からか。同年五月別當は左の三條を達した。
 (同上)
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        覺
一出家士中參詣之人に對し非義を不仕時宜に依てはかむり物をはづし馬より下り可申事
一町中商賣之舛先年從 公義被仰出之寸法を以可致賣買惣而公義爲御掟之條諸賣買利潤他郡之相場を聞合せ以其相應可相定事
一往來之人無滯樣ニ人馬可出之以非法之理不可令難澁并駄賃以下相應に取るべき事
右之條々急度可相守之者也
  貞享元年子五月   羽黒別當
[#ここで字下げ終わり]
 慶長十八年六月徳川幕府では全國の修驗を本山(熊野天臺)と當山(大峰眞言)の二派に隸屬せしめた。そこで打撃を受けたのは羽黒である。翌十九年三月徳川氏は天臺宗を第一位として、眞言以下の諸宗を次位とし、江戸上野に東叡山寛永寺を建立して天海を開山と爲し關東天臺宗の總本山とした。是に於て天宥は之を好機として羽黒を天臺に改宗して寛永寺末と爲した。之に依つて羽黒の獨立命脈を保つことを得たが、從來の關東奧羽の末派に改宗しないものあつて熊野派と大峰派に所屬するものできて動搖を來たした。兩派互に軋轢すること六七十年に及んだ。天和三年四月に至りて終に表面化して熊野派本山より羽黒を幕府に訴ふるに至つたのである。
 之を述ぶる前に此頃の莊内に於ける大峰派(眞言)、羽黒派(天臺)の消長を見るに、天和三年一月莊内に滯在せる國目附に出した調書を左に抄出する。
 (酒井家世記)
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      領分中山伏之數
一大峰派山伏百九十人内三十七人鶴岡城下有之 同十二人龜ケ崎城下有之 同百四十一人領分中有之
一羽黒派山伏百七十五人 内十七人鶴岡城下有之 同十八人龜崎城下有之 同百四十人領分中有之
一鳥海山峰山伏六十九人 内三十二人蕨岡村松岳山衆徒 同廿五人吹浦村兩所山衆徒 同八人新山村新光山衆徒 同四人下塔村釼龍山衆徒
都合四百三十四人
      領分中社寺
一堂社合   三十五ケ所
一淨土宗   十八ケ寺
一眞言宗   三十ケ寺
   内八ケ寺 鶴岡域下     同三ケ寺 寺領有之
   同三ケ寺 龜ケ崎城下    同十九ケ寺 領分中ニ有之
一曹洞宗   三百四ケ寺
一日蓮宗   六ケ寺
一時宗    一ケ寺
一尼寺    二十ケ寺
惣寺社合   四百十七ケ寺
   内五十一ケ所ハ寺社領有之
   同二百六十六ケ所ハ寺領有之
[#ここで字下げ終わり]
 以上は羽黒山内を除いた莊内藩の調べであつて、羽黒派山伏の數は總數の約四割に過ぎぬ。左に寛文七年の調書との増減比較を掲ぐ。
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     寛文七  天和三         寛文七  天和三
天台宗    三    〇    眞言宗   五〇   三〇
曹洞宗  三一六  三〇四    淨土宗   一六   一八
法花宗    六    六    門徒宗   一七    一
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 天和三年の頃になりて天臺宗は皆無となり、眞言宗は二十ケ寺を減じたのは、密數[#「密教」か]の復雜[#「複雜」か]なる宗教は世態の變遷に伴ひて排斥されたのは止むを得ぬ。殊に眞言宗の著るしく減じたのは徳川氏の天臺信仰が影響したであらう。
 羽黒方の奧羽の檀那場は貞享元年七月四日の裁斷によりて動搖を來たし、熊野本山派に歸入する者が多くできた。隨つて各地に羽黒派と本山派の軋轢を生じた。天和三年四月南部領、羽黒領覺前院と熊野本山派年行事安閑院との衝突が原因となりて、羽黒と安閑院との交渉となつたが、到底和解ができないので、熊野本山と羽黒方の訴訟となつた。
 天和三年四月熊野派本山の起訴により幕府より羽黒方の呼出しとなり、羽黒より別當代良※[#「言+甚」、第3水準1-92-13]華藏院續いて聖之院吉祥坊出府し、評定所に於て熊野方と數回對決を行つた。然るに羽黒方の形勢不利なるを認めて、貞享元年五月二十七日東叡山より羽黒の古來特種事情ある所以を認めて羽黒山伏の存置を願出た。之により左の判決あり。
 (羽黒山中興覺書)
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一天和三癸亥年四月より熊野派羽黒派大公事おこり 奧州南部領羽黒派覺前院と熊野本山年行司安閑院と出入なり安閑院公義へ目安を以申上候ニハ 羽黒派學前院年行事の支配を相背新法我儘仕候間被召出御吟味之上急度被仰付被下置度旨奉願候 依而御召状にて學前院出府 羽黒より花藏院又跡より聖之院吉祥坊出府 熊野方より先達常速院其外東山方役人出府・双方共ニ傳奏へ度々被召出對決數度ニ及び 御吟味相濟不申候得共 子《(貞享元年)》六月聖之院念海僧正同道にて下着 念海ハ羽黒へ御預の僧也 後普賢堂にて寂す 念海ハ能筆也 瀧水寺不動の額ハ則念海の筆跡也今に存在す 然ニ花藏院吉祥坊も翌子十月中下着 扨此出入羽黒方非分に被聞召届 羽黒派并霞場共ニ不相立樣相聞候故 華藏院聖之院下着の前ニ上野へ御内急申上置候 仍て御門主樣より此公事御存無之分にて公義へ口上書被差出候 左之通
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先年羽黒と本山修驗と出入候其子細は出羽奧州に散在の山伏ハ本山方霞下の由本山方より申之 雖然往古より出羽奧州ニ羽黒山伏も散在仕來候付て於□□數度對決被仰付候とも落着之義ハ重て可被仰付由にて今ニ落着不被仰付候 羽黒山伏出羽奧州ニ散在の事ハ年久敷義ニ御座候間 本山より御訴訟申上候共如有來羽黒山伏御立置頼思召候 出羽奧※[#「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61]之羽黒山伏相立不申候得ハ羽黒山滅亡候 本山方より東照權現樣よりの御證文申立候分ハ證據ニ出□れニ候間如古來相立候樣被御頼入候
 (貞享元年)               御執當
    子五月廿七日              觀理院
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右之御口上書被仰立よつて貞享元年子七月御裁許左之通被仰出候也
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     御裁許
一羽黒山伏於[#レ]住居[#二]本山霞場[#一]ハ可受本山行事支配事
一羽黒山伏金襴地結袈裟不可着用之 雖然於受聖護院御門跡補任状ハ可爲制外事
  附羽黒山伏自今以後檀那場を不可被霞場事
一羽黒山伏大嶺客峯之時從本山方不可受補任状又本山之山伏羽黒山※[#変体仮名え]客峰之節羽黒方より不可出免許状事
一羽黒山伏羽黒山入峰之事可爲如前々之從本山方不可妨之事
一檀方之儀相互ニ不可奪之勿論可任願主之歸依事
右之條々可相守仍而爲後證書記之双方へ出置者也
  貞享元年子
   七月四日    〈大阪在番/不能加判〉 右衞門
                       淡路 印
                       内記 同
                       伊豫 同
                       山城 同
                       豊後 同
                       加賀 同
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 此判決は羽黒には最も重要なるもので、左に其要點を約述すれば、一、天臺派の全國山伏は悉く本山の霞場であつて、羽黒山伏と雖も本山の年行事の支配を受くること。二、羽黒山伏は金襴の結袈裟を着用することを禁ず。但し本山の聖護院より補任状を受けたものは着用を允るす。三、羽黒では霞と云つてはならぬ檀那場と唱ふること。四、羽黒山伏が大峰に入峯した時には本山より補任状を受けてはならぬ。又本山の山伏が羽黒に入峰した時には羽黒方より免許状を出してはならぬ。五、羽黒派の山伏が羽黒に入峰することは從前の通りにて本山派にて妨げてはならぬ。六、檀徒の爭奪をしてはならぬ。
 之を羽黒の記録には自己有利に傳へてゐる。
 (羽黒山中興覺書)
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一貞享元甲子年熊野本山寺と羽黒山と出入之刻羽黒の峰ハ本山派の峰にて即袈裟筋御座候故 本山の袈裟羽黒山伏着用仕候由本山方より申出る 依て羽黒山より開山以來羽黒權現の寶殿に於て天下泰平國土豊饒の御祈祷并毎年四季峰執行仕候間 專別段ニ古來より立候峰執行にて則繪圖面を以申上候所に公義より羽黒山伏は羽黒山入峰の事前々の如くたるべし 本山方より不可妨の旨御裁状被成下 此時羽黒派金襴袈裟不可着用旨被仰出候
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 貞享元年七月天眞法親王別當辭任に付き、圓覺院公雄別當を兼ね、良※[#「言+甚」、第3水準1-92-13]引績いて公雄の別當代を勤めた。同二年九月東叡山は同元年七月の裁決状を更に布衍して遵守すべきことを達した。同三年五月圓覺院公雄始めて羽黒に入院し、七月の峰中大先達を勤めて江戸に歸つた。十月一日羽黒山上の衆徒の坊號を悉く院號に改めた。同四年八月良※[#「言+甚」、第3水準1-92-13]別當代を辭し、和合院照寂羽黒に着いた。照寂は又|會覺《ヱガク》と云ひ俳人芭蕉を好遇して名を擧げた會覺阿闍梨である。貞享四年八月廿一日會覺は三先達に達して金襴袈裟は禁止され、輪王寺御門主より紫紋白結袈裟を免許するに付き、三先達より授與せしむ。同四年七月二日羽黒山年中行事を規定した。之れは奧書に年行事 正善院、玄陽院、先達 正穩院、智憲院、花藏院、留主居寶前院とありて年中行事の初見である。從來の行事は多少異動あつたのを協議して一定にしたものらしい。長篇にて全文を掲ぐることできぬ。羽黒行事の重要なるものである。從來年行事一人であつたのを二人としたのは貞享三年良※[#「言+甚」、第3水準1-92-13]の時である。
 貞享年中上野東叡山より諸藩主に依頼し本山派(天臺)修驗の員數を調出させたが、仙臺藩主より領内には羽黒派修驗一人も無いと報告した。之を聞いて驚いたのは羽黒衆徒である。直に花藏院を遣はして取調べたるに、本山派良覺院が羽黒派山伏を悉く掠取つたのであつた。依て花藏院は羽黒補任状によりて本山、當山、羽黒山伏千二百三十人の内七百十六人を羽黒派と定めて歸山した。

     七 別當代和合院會覺と俳人芭蕉の三山參詣

 岩根澤日月寺は最上時代には最上氏と特殊の關係あつて榮へた寺であつた。藩政時代に及んで尊重院圭海が始めて東叡山より羽黒別當を兼帶するに及んで弟子圓鏡院を日月寺住職とし、爾後代々の別當は弟子を同住職と爲した。依て別當と密接の關係を保つて別當の寺とも云つた。然るに延寶五年十二月信解院行海の時に羽黒と分離した。之より同八年に至る間は岩根澤口の月山參詣道者の初穗は日月寺にて收得し、海號補任は日月寺より授與することを廢止した。次いて同八九年頃に岩根澤に月山道者の初穗を羽黒に納むべしと達したからして日月寺の經濟立たぬことゝなつた。同九年三月廿四日東叡山の仲裁にて別當凌雲院胤海在職中は初穗を羽黒と切半すること、海號補任は日月寺より授與すること、牛ケ首の笹小屋三軒の内一軒は岩根澤西光坊にて建てることに決した。天和二年九月凌雲院別當を辭し信解院も日月寺を退き、弟子見明院に日月寺を繼がしめた。そこで羽黒では前契約は凌雲院別當在職中だけであると云つて、三條件を悉く羽黒に返すべしと迫つた。東叡山では貞享元年初穗海號を羽黒に返し、牛ケ首の小屋のみ暫くの間經營することゝした。之れでは日月寺は維持できないので見明院は去り、元祿元年二月十一日再び羽黒に合同された。
 湯殿山り錢盜人は貞享元祿の頃に至りて取締り緩んだ爲めか再び入込んで來た。莊内藩は之を聞いて貞享四年眞言四ケ寺に達して犯人を捕へ鶴岡役所に急報せしむ。
 (松平武右衞門記録 ワ印ニ)
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        覺
一先年以覺書申渡候通於湯殿山まき捨有之金銀錢惡人共猥ニ盜取不申樣に急度仕置可被申付事
一古錢さらい今以在々村神前ぬすミ候もの見付候ハヽ前々より最上坊住へ申合候通仕置尤之事
一錢さらいのもの山麓にて見付候ハヽ搦捕鶴岡へ注進可被申候 然共其節右之惡人共太刀すまひ仕手むかい候ハヽ 其節之樣子次第何樣にもいたし其趣早々鶴岡へ注進可在之事
右之趣當所兩寺ハ不申及最上坊住へも申合急度仕置可被申者也
  (貞享四年)         (莊内藩家老)
    卯十月  日           服部瀬兵衞
                     酒井吉之亟
                     松平武右衞門
    注連寺へ一通
    大日坊へ一通
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 元祿中に至り羽黒方山先達の者等は、參詣人の散華する賽錢を笠にて受け己が所得とするものあることを眞言方にて發見し、之と盜人の監視取締りの爲めに眞言方にて湯殿山に番人を常置した。之れが又羽黒方との爭論となつたことは後に述ぶる。
 元祿元年十二月東叡山にて羽黒山上衆徒の座位の順序を改め、修驗道以外の出仕集會等の席順を戒臘《カイラウ》順とした。戒臘は戒※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1-91-26]とも書いて修業を多く遂げたことをいふ。之までは太業補任の年次に據つたのである。三先達の最上位は古來の通りである。元祿元年七月の峰中は、別當公雄役峰三年を勤めたが江戸に在り、和合院照寂(會覺)は初入峰であれば、華藏院清海大先達を勤めた。同二年七月は智憲院大先達の順番であるが、別當公雄は入峰作法改正の必要を唱へ、順番を別當より始めて三先達座位順とした。依て當年は公雄代人和合院が大先達を勤めた。
 貞亨元年七月の熊野本山との裁判々決文に羽黒山伏は金襴袈裟の着用を禁じ、同四年八月別當公海より白紫結袈裟は三先達より峰中修行の山伏に補任状と共に授與すべしと達された。然るに以上二回の令達では白と紫との山伏の資格が分明しない。依て元祿二年五月別當代照寂は其資格を定め、未入峰者は白綾紺紋白袈裟、初入峰より三度入峰までは紫絞白袈裟、一僧祗(九度入峰)より地紋の紫紋白結袈裟を着すること、其他私怨慾望の呪咀を禁止し、入峰の作法は舊規を守ること等を達した。同年七月「當峰修行并嚴用物支度覺」を規定した。當峰修行は後ちの峰中記に此べて簡約であつて、嚴用物支度覺は新入峰者の一切の費用の明細調書で、支度物品代並に役錢の限度を示した。その合計金は諸國新客一人分は壹分錢貳貫九百四文、山麓峰一人分は一分壹貫七百六十四文、山麓寄宿一人分一分二貫四文である。
 江戸俳人桃青芭蕉陸奧出羽の名所舊蹟と地方の門人を訪ねんとて、江戸を出達したのは元祿二年三月二十七日年四十六の時である。門人曾良を伴ひて總野を往て陸奧に入り、松嶋より平泉中尊寺についたのは五月十四日で、それより出羽に入り尿前《シトマヘ》の嶮路を越えて尾花澤鈴木清風を訪ふ、之より大石田に出て最上川を船で下らうとして數日船待し、船に乘りて清川に着き狩川、添川より手向に着いたのは六月三日頃である。手向の門人圖司佐吉(呂丸)の案内にて羽黒に登り、別當代會覺に會つた。會覺芭蕉を歡待して南谷別院を宿舍に當て數日滯留した。
 (奧の細道)
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六月三日羽黒山に登る 圖司佐吉と云ふ者を尋ねて 別當代會覺阿闍梨に謁す 南谷の別院に舍して憐愍の情こまやかに饗せらる 四日本坊に於て俳諧興行
   有かたや雪をかほらす南谷
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 別院は八幡坂下の南に在つて南谷の溪谷に臨み、本坊は三ノ坂下の南に在りて若王寺と稱し別當常住の寺である。然るに此頃に至りては別當代は若王寺に居つて別當が江戸より下だれば南谷に居つたかとも思ふ。四日の俳諧の會には手向では會覺、呂丸(佐吉)、梨水、他國俳人では近江飯道寺の僧圓入、奈良法輪寺の殊妙、京都の釣雪など列席した。
 (莊内に於ける芭蕉)
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   六月四日 於羽黒山本坊興行
ありかたや雪をめくらす風の音     芭蕉
 住む程人のむすふ夏草        呂丸
川船の繩に螢を引立てゝ        曾良
 鵜のとふあと見ゆる三日月      釣雪
澄む水に天にうかへる秋の暮      殊妙
 北も南もきぬた打ちけり       梨水
眠りては晝のかけりに笠ぬきて      雪
 百里の旅を木曾の牛追ひ        蕉
山盡す心に□の記を書かむ        丸
 斧持ちすくむ神木の森         良
歌よみの跡したひ行く家なくて      雪
 豆うたぬ夜は何と泣く鬼        丸
古御所を寺になしたる檜は葺       蕉
 糸に立枝にさま/\の荻        水
月見よと引起されて恥しき        良
 髮あかするうさものゝつゆ       蕉
まつはるゝ犬のかさしに花折て      丸
 的場の末に咲ける山吹         雪
春を經し七つの年の力石         蕉
 汲みていたゝく醒か井の水       丸
足曳のこしかたまてもひねり簑     圓入
 敵の門に二夜寢にけり         良
かき消る夢は野牛の地藏にて       丸
 妻乞ひするか山犬の聲         蕉
うす雪は橡の古葉の上寒く        水
 湯の香にくもる朝の淋しき       丸
むさゝびの音を狩宿に矢を矧て      雪
 篠かけしたる夜すからの法       入
月山の嵐の風ぞ骨にしむ         良
 鍛冶が火殘す稻妻の影         水
ちるかひの梧に見付けし心太       丸
 鳴子おどろく井籔のまど        雪
ぬす人につれそふ妹が身を泣いて     蕉
 祈もつきぬ關々の神          良
盃のさかなに流す花の波        會覺
 幕打あくる乙鳥の舞          水
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右歌仙行  芭蕉 七  梨水 五  呂丸 八  圓入 二  曾良 六  會覺 一  釣雪 六  殊妙 一
 此の歌仙には「雪をめくらす風の音」とあり 細道には「雪をかほらす南谷」とあるは よく推敲の上なるべし
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五日山上の本社に詣て、堂塔坊舍の規模宏壯なるに驚き、之れ天宥の遺業であるを聞いて左の祭文を手向けた。
 (奧の細道)
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五日權現に詣づ 當山開闢能除太師はいつれの代の人と云ふ事を知らず 延喜式に羽州里山の神社と有り 書寫黒の字を里山となせるにや 羽州里山を中略して羽黒山と云ふにや 出羽といへるも鳥の羽毛を此國の貢に献するを風土記に傳るとやらん 月山湯殿を合せて三山とす 當時武江東叡に屬して天臺止觀の月明らかに 圓頓融通の法の灯かゝげそひて 僧坊棟をならべ 修驗行法を勵まし靈山靈地の驗効人貴ひ恐る 繁榮長にしてめでたき御山と謂つべし
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 (羽黒山所藏文書)
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羽黒山別當執行不分叟天宥法印は行法いみしき聞え有りて止觀圓覺の佛智才用人に施して或は山を穿ち石を刻みて巨靈か力女※[#「女+咼」、第3水準1-15-89]のたくみを盡して坊舍を築き階を作れるは靈の滴をうけて筧の水を廻らせ石の器木の巧み此山の奇物と知れるもの多し一山擧りて其名を慕ひ其徳を仰く寔にふたゝひ羽山開基に等しされとも如何なる災のなせるにやあらん伊豆の國八重の汐風身を漂ひて浪の露はかなきたよりをなん告待るとかや此度下官三山順禮の序追悼一句を奉るべきよし門徒等しきりにすゝめくるゝによつておろ/\戯言一句を連ねて香の後に手向侍るいと憚多き事になむ侍る
   其玉や羽黒にかへせ法の月
     元祿二年季夏          芭蕉庵桃青 拜
[#ここで字下げ終わり]
 前記の奧の細道の記事中に羽州里山のことは延喜式には無いので吾妻鏡にあることである。
 六七の兩日は別院に勞を慰し、八日月山、湯殿山に詣でんと修驗の裝束を着け、強力に導かれて登り山上の笹小屋に泊り、湯殿山より大網に下り羽黒に歸つたのは十一二日頃である。
 (奧の細道)
[#ここから3字下げ]
八日月山に登る 木綿しめ身に引きかけ寶冠に頭を包み 強力と云ふものに道びかれて雲霧山氣の中に氷雪を踏んて登る事八里 更に日月行道の雲間に入るかとあやしまれ 息たへ身こゞえて頂上に臻る日沒ちて月顯る 笹を敷き篠を枕として臥して明くるを待つ 日出て雲消ゆれは湯殿に下る 谷の傍に鍛冶屋敷と云ふ有り 此の國の鍛冶靈水を撰びて 爰に潔齋して劔を打ち終り 月山と銘を切りて世に賞せらる 彼の龍泉に劍を淬すとかや干將莫邪の昔をしたふ道に堪能あさからぬ事知られたり 岩に腰をかけてしばし休らる程に 三尺ばかりなる櫻の蕾半開き
[#改ページ]
南谷別院址庭園の石橋
[#図版(012.jpg)、南谷別院址庭園の石橋]
芭蕉の天宥追悼文
[#図版(013.jpg)、芭蕉の天宥追悼文]
[#地から1字上げ](三山神社所藏)
[#改ページ]
たるあり 降り積む雪の中に埋もれて春を忘れぬ遲櫻の花の心わりなし 炎天の梅花爰に香るが如し 行尊僧正の歌の哀を爰に思ひ出て猶まさりて覺ゆ 總て此の山中の微細行者の法式として他言する事を禁ず 仍りて筆を止めて記さず 坊に歸れは阿闍梨の需に應じて三山順禮の句々短冊に書く
[#ここから6字下げ]
凉しさやほの三日月の羽黒山
雲の峰幾つ崩れて月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂哉
湯殿山錢ふむ道の泪かな
[#ここから3字下げ]
羽黒を立て鶴岡の城下長山氏重行と言者のふの家にむかへられて俳階一卷有 左者も共に送りぬ(下略)
[#ここで字下げ終わり]
 會覺は元祿四年八月まで四ケ年餘羽黒に居つた。其間五重塔柱替、同屋根葺替を行ひ、年中行事の規定等に至るまで多くの施設を爲し、羽黒より美濃國揖斐郡谷汲村華嚴寺の末寺地藏院の住職に轉した。芭蕉同七年同地に遊んだ句あり。又呂丸も俳諧修行に出て松島より江戸深川の芭焦庵を訪ね、翁の三日月日記を貰受けて、之を手向に送つた。それより美濃谷汲に至りて會覺を訪ねて滯留し京都で客死したのは元祿五年二月二日である。呂丸の姓圖司を羽黒の圖畫を司とる役であるとの説は根據の無いことである。會覺は寶永四年六月  日地藏院で入寂した。會覺の俳句は三山雅集に數首殘つてゐる。又羽黒三ノ坂下の本坊墓地に會覽[#「會覺」か]の建てた公雄の碑あり。

     八 松山藩祈願所修善寺と智憲院

 元祿五年十一月院家佛頂院義天別當兼帶となり、翌六年八月心地院光海院代となりて下つた。服部忠兵衞を目代として連れて來た。忠兵衞名を太田主計と改めた。同六年の峰中は心地院初入峰に付正穩院胤慶代理を勤め、打切札には大先達佛頂院法印義天と書いた。同九年は義天の代理心地院大先達である。同十二年義天辭任し僧正に進み東叡山學頭凌雲院に移り、羽黒には院家願王院知周別當兼帶となつた。院代は理善院存海交替した。義天は一回も羽黒に下だらない。別當兼帶で羽黒に下らないのは義天よりで之より別當は下らないことゝなつた。院代存海は南谷の執行寺を改築した。同十三年の峰中は知周代理智憲院忍慶大先達を勤め、院代存海は一回も大先達を勤めないのは異例である。
 湯殿山には一切人工を施してならぬことは變りは無い。然るに元祿中湯殿山寶前に常燈明堂を建てた。此違法の行爲を發見したのは羽黒方で、之を鶴岡の寺社方に訴えたらしい。そこで莊内藩では大日坊注連寺に照會したるに、村山郡本道寺の所爲であることがわかつた。本道寺は湯殿山は羽黒と分離したので眞言方で異議無ければ差支無いと考へたらしいが莊内藩では之を取除かせた。
 (自坊記録)
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一元祿年中本道寺湯殿山寶前三寶荒神并ニ常燈明堂立 此山にて如何と詮議の内鶴岡役所※[#変体仮名え]注連寺大日坊ニ御尋の處最上本道寺相立候よし 此方の領内へ他領より堂立候義不届急度吟味可在之旨依被申渡されたり〈○古實集覽記之に同じ〉
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 飽海郡松山藩祖酒井大學頭忠恒は鶴岡酒井忠勝の三男で正保四年十二月松山二萬石に分知された。寛文元年始めて松山に城池の地割を開始したのである。此時城東に城主の祈願寺を建て法護山修善寺と云つた。羽黒末と智憲院をして住職を兼ねしめ留守居を置いて寺勢に當らしむ。藩主の祈祷あれば智憲院が出張した。
 鶴岡酒井氏では之より先き高畠町眞言宗龍覺寺を祈願所と爲し羽黒末であつたが、羽黒天臺改宗となるや、龍覺寺は改宗しないで湯殿山末となつた。元祿中松山藩二代酒井忠|豫《ヤス》は羽黒山末を直に東叡山末と爲し住職をば從前の通り智憲院とすることを東叡山に願出て許可された。
 (智憲院文書)
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去月十日之貫翰致拜見候先以愈御堅固御座候旨珍重奉存候然者御祈願所修善寺御先租御取立只今迄は彼寺羽黒山支配仕來當住羽黒山智憲院※[#変体仮名え]御預置候今度相改御門主御直末ニ被成度願之由致承知候其段御紙面之趣遂披露候御直末御引直候事諸國※[#変体仮名え]例罷成難被成儀ニ候得共貴樣御先祖御取立御願之事候得は餘寺之例も成間敷候間御直朱所被仰付之由御門主被仰付間左樣ニ御意得可被成候 尤以後も修善寺住職智憲院御預置被成度之由思召之通ニ可被成候恐惶謹言
  三月五日               覺王院 寂純 花押
                     戒善院 玄海 (向)
   酒井石見守殿
[#ここで字下げ終わり]
 外に東叡山より別當心地院並に智憲院に同件につき書翰あるも同意に付略す。次に石見守より智憲院は東叡山直末の修善寺住職となりたるに付赤色袈裟を許可あらんことを東叡山に請願し許可を得た。
 (智憲院文書)
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
一松山修善寺儀は東叡山御末寺酒井石見守殿御祈願所ニ候之故國色衣御赦免之樣に石見守殿去春中より御願候付一往 御門主御内意之段御自分迄申達候趣石見守殿※[#変体仮名え]御申通候處ニ 衣之分には漸々五七千石の場所にて何とそ國色衣御赦免之樣ニと石見守殿再往御願之由御自分よりの覺出遂相談令申沙汰候之處石見守殿再往御願之段難默止思召候乍然修善寺當主儀羽黒山智憲院相兼罷在候付於羽黒山差障ニ成候儀も有之候へは如何思召此段御吟味之處當修善寺儀は羽黒山にても年※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1-91-26]共ニ高候得者山上會合の節不都合ニも相見申間敷哉との儀候故則石見守殿御願之通修善寺儀國色衣御赦免之御事候間此段石見守殿※[#変体仮名え]御自分より御申通可有之候 以上
 七月十二日               圓覺院
                     佛頂院
   現龍院
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 國色衣とは國中に並ぶものなき美色の衣の義で、即ち緋ノ衣をいふのである。羽黒寺院は赤色衣を禁ぜられてゐたので、智憲院の緋衣は異彩であつたそうだ。

     九 三山雅集の刊行と其目的

 羽黒に關する刊行書は三山雅集に及ぶものは無い。雅集は寶永七年十一月の出版で奧書に發起羽黒驗者文珠院呂笳、選述荒澤野衲東水とありて、序文は東水が書いた。
 (三山雅集序文)
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(前文略) 干茲三山の事實權現の靈威かつ萬歳已往の舊跡或は宮祠寺院の規模書に秘し傳に記するもの若干なりといへとも土地方畿に遠さかり邊境道に息《マメ》なるもの稀にしてひろく世にしられず※[#「韋+榲のつくり」、第3水準1-93-83]匱而藏《ヲサメテヒツスカクセル》也しかるに山下の驗者巣窟呂笳あまねく國原をめぐり武陵の雅士までを慕ひ廣前奉納の句々を願ひやゝ滿てたき笈に集めかつ梵河の貴き流を登り々々て山谿の有難をところ々々々に畫書せしめいにしへ今の詩歌耳目ふるゝ所を書つらね予が艸坊にもて來て是に序なからんやといふいと珍らかなる事々認めれけるよと卷を閲するに寔に往昔より秘し給へる中の千々百が一ツ微か中の微たれとも大抵等閑ならぬ事ともにしてしかも艾繁撮要ハ道ゆきふりの神にして見やすからむを思ふかゆへ歟いかにも道しるべのたより童蒙の目にも願はしくこそといひ侍れば笳か曰或は年代の慥ならさるあるは由來未[#レ]考なといかゝはと云侍れハ いでや神威の貴きをしりこの山に志を伏する者豈敢て年數にかゝはり信ずへきを信せず將信せざるを信ずべけんや(中略)この外のもれたるは後の識者に讓り予か見聞する三ツ四ツひとつを往詣者の小補に鏤よと云て三山雅集と題す(下略)   荒澤野衲東水書[#地から3字上げ]
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 之れによれば呂笳の編著のやうに見ゆるが、實は東水の著である。呂笳は手向の宿坊芳賀兵左衞門の長男にて、二十四歳家を出て、江戸に至り芭蕉に俳諧を學び諸國を周遊した。東水が雅集を編纂して東水の集めた詩歌、俳句を入れて、兵左衞門の出資にて江戸て彫版したものである。内容は三山の名所、寺塔の解説で繪畫を挿入し、大法版二卷百十五枚百四十項の古雅なる案内記であるが、單に案内記とのみ見ることできぬ。三山の開山修驗道の開基を蜂子皇子と爲し、一説として弘法、慈覺役行者ともしてゐる。三山の本尊を羽黒山は伯禽嶋姫《しなとりしまひめ》又は玉依姫、月山は顱※[#「茲+鳥」、第3水準1-94-66]草※[#「くさかんむり/亡/月」、下p131-10]不合尊としたのは拾塊集に據つた。湯殿山は大山津見命とし、一説として羽黒山の伯禽州姫命の垂跡を觀世音、月山は阿彌陀、湯殿山を大日とし、又一説として羽黒は倉稻魂神、月山は月讀命、湯殿山を大山祇神とす。
 斯くの如く雅集が主神次佛としたのは吉田神道に據つた所の多いことは爭はれない。而して神道、眞言、天臺何れにも關係つけてゐるのは羽黒の目的は羽黒修驗道の獨立のものであることゝ、湯殿山を羽黒に包容せんが爲めである。羽黒と湯殿山を宗派上明かに別派にすれば、湯殿山は羽黒と分離して羽黒に大なる經濟上の不利益がある。依て羽黒方では湯殿山のことを明かにすることを好まないで深秘の山とした。
 (三山雅集)
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      湯殿山靈場
(中略)
一名戀の山と唱ふ則和歌先哲の名所集に載たり一たひ歩ミを運べる者年月をかさねても此山を戀したひ侍そよりかく名つけ傳るにや心懷戀慕渇仰於佛の妙文可思可議權現靈場は甚深秘藏にして言語に出すべからずと彼御前に誓ひ侍れは中々申すも罪※[変体仮名お]そろし其誓言にかねをはるといふ事侍る五色の幣帛幾世幾年にか奉納し積置けん谷を埋ミ嶺に覆へり又腰梵天とて參詣の行者携侍る幣あり長一尺二寸十二月持十二神將を准ふ其表体天の七曜二十八宿等にあたれり御七五三寶冠等湯殿行者の秘事秘物輕々しき故不記之
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 古歌に戀の山とあるは湯殿山では無い東水の附會である。戀字は言の兩側を糸にて結び其下に心を置いてあつて、言語に現はしてはならぬとの義てある。今雅集の版木は芳賀兵左衞門の所有であるのを見ても同家の刊行である。

     一〇 五重塔柱替と修繕

 元祿時代は世の泰平につれて羽黒も平穩であつて記すべきこと少ない。別當は羽黒に入院せぬことゝなつたのも之が爲めであらう。
 別當代又は院代が羽黒に來て山務を司つたが、別當代は主として法務のことを司り、財政庶務に關することは目代を一人伴つて來て之に司らしむ。別當代心地院光海の目代は服部忠兵衞、理善院存海の目代は服部忠兵衞が繼續したやうだ。寳永二年五月楞伽院貫通別當兼帶となり、別當代は大乘院了堂、其附添は鈴木三郎兵衞である。目代は附添とも留主居とも云つた。
 五重塔は慶長十三年七月最上義光の修築より八十三四年を經たので柱根の腐朽を來たした。或は義光の修繕は柱を替へないのかも知れぬ。元祿四年より之が修理に着手し、時の別當代は和合院會覺である。先づ之に要する柱材其他は莊内酒井氏の寄進にて飽海郡東南部の平田郷の河内入りより伐採して相澤川を下だし、之より手向拂川まで鶴岡町民に請負にて運ばしめ翌五年春工事に着手した。
 (川上記)
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一羽黒山にて御入用の材木覺
一拾六本ハ柱長サ壹丈四尺 但壹尺五寸角
一八本は貫長サ壹丈九尺八寸あつさ五寸
 一四本は込けた長サ壹丈八尺はヽ八寸あつさ六寸
 木數合廿八本
右之材木平田の内あい澤川落合より峠拂川迄但拂川橋迄届申筈ニ候間御町之者入札仕候樣ニ可被仰付候 以上
   未《(元祿四)》ノ九月十二日  大淵《(郡奉行)》與三兵衞
                   中村《(郡代)》七兵衞
                   長尾《(同)》善右衞門
                   武山《(同)》勘兵衞
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右之入札金九兩三歩五百文ニ南町長右衞門一日市町重兵衞右兩人落札ニて手向拂川橋迄相届申筈是羽黒山五重堂破損普請有是に付從 公義御寄進被遊候由ニ付如此ニ候 來申ノ春中普請有之由ニ候
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 此記事にある柱材十六本の中十二本は周圍の柱で、四本は内陣の柱である。下層の桁貫を悉く取替へたのであることは推知できる。現在の柱を見るに槻であつて元祿五年のものであらう。柱と共に下層の桁貫を替えただけであつて二層以上には當らないやうだ。
 元祿五年五月京都三寶院(眞言)の菩薩院といふ役僧莊内に來り眞言宗寺院山伏を調査し役錢を徴收し、且つ宗門改證文を取つて歸つた。
 秋田由利郡八嶋の僧湛堂初め曹洞宗にて象潟蚶滿寺に入り、後ち故ありて羽黒に來り拂川倉佛堂に籠り、多くの佛像建立を企て羽黒及び象潟の寺院に納めた。繼子坂上の二王門の二王像は元祿八年十月湛堂が京都の佛師善慶に刻ましめ、東山清水寺の二王像を模したもので高さ一丈三尺五寸あり。一體百兩つゝである。一體は同九年三月船廻しにて七月五日酒田に着し、一體は元祿十二年五月廿八日到着した。又湛道矢嶋藩主生駒家菩提供養の爲め拂川の傍りに一寺を建て鳳皇山道榮寺と云ひ、寺田百俵は生駒氏の寄進といふ。
 別當知周の代に南谷別院再建、同貫通の代に若王寺道場座敷の立替、荒橋拂川橋の掛替等の工事あつたらしいが何れも年月明かで無い。
 吹越の峯中堂は籠り堂とも云つて修驗道行事の最も重要なる入峯修業を行ふ所である。此堂は酒井忠勝の寄進建築と傳へてゐる。近年火災に罹つたからして、四代酒井忠眞に請ふて建立した。寶永二年中より用材の伐出しに着手し、同五年春工事を始め同年中に完成した。建築費二百八十兩にて鶴岡職人等が請負つた。(致府萬留書)
 寶永六年五月別當代大乘院辭して智妙院辨海入院した。同七年秋別當貫通辭任して東叡山貫主の兼任となり、別當代は辨海である。貫主の別當兼帶は御抱と云ひ、院家の別當代を院代と云つたやうだ。正徳四年より享保三年に至る五ケ年間に本社屋根葺替、五重塔六所堂葺替、鐘樓堂柱根繼、本堂拜殿修理、八幡坂の石段敷替を行つた。正徳元年十一月東叡山より羽黒に達して別當代の指揮を守ること、檀那場並に堂宮小屋持は別當より差遣さるゝものに付忠實に勤むべきこと、別當の檀那場並に小屋に指遣はさゝるものは別當一代切りと心得べしと命ぜられた。

     一一 湯殿山賽錢盜人に關する眞言四ケ寺と羽黒方の對立

 湯殿山の賽錢盜人は毎年絶ゆることなく、偶々發見したるものを捕ふるばかりで根絶することできない。依て本道寺と大日坊では正徳四年盜人防止の爲めに小屋を淨土口に建てゝ番人を置いた。この淨土口とは湯殿山境内の入口であるらしいが、小屋を建てた場所は明かで無い。寛政四年十二月羽黒方と眞言方にて幕府に出した三山繪圖には本道寺と大網の登山口に淨土口とありて番人小屋を置いてある。之れが湯殿山境内であれば羽黒方は之に對して抗議を申込んで撤廢せしめた。
 (自坊記録)
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一正徳四午年本道寺大日寺より出す錢さらい番人共淨土口へ小屋掛置處 七月北之院照賢參詣見當裝束場相守り候者尋 月山へ注進爲致 月山より別當へ時別當代智妙院加了簡 月山役人田村藤右衞門働を以右小屋番人共に引〈古實集覽記同ジ〉
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 之れは羽黒方の記録のみであれば明確でないが、湯殿山別當は眞言四ケ寺であるから麓に番人小屋建てたのに羽黒方の異議を申込む理由無いと思はれる。或は淨土口の番人小屋は撒廢しないで紛爭を續けたでは無いかとも思はれる。
 月山より湯殿山に下だり鍛冶屋敷を經て牛ケ首と不淨垢離場との間は月山境内と湯殿山境内との境界である。不淨垢離より裝束場を經て湯殿山に着く。本道寺大井澤の登山道は不淨垢離で羽黒山月山道と合ふ。不淨垢離及び裝束場は湯殿山境内であつて、羽黒方の笹小屋あるが小屋人は皆牛ケ首より日々通つてゐる。本道寺大井澤の泊小屋は當然建てられてある。この不淨垢離裝束場は羽黒方と眞言四ケ寺との爭論の場所である。湯殿山に參詣する道者は不淨垢離の溪水にて身体を清め、裝束場にて裝束を整へ草鞋を穿き替へ不用品を置いて湯殿山の淨土に下だるのである。
 前記の賽錢盜人防止の淨土口番人小屋建立の件は其後如何なる顛末になつたかは記録の徴すべきもの無くて明かでないが、其後七ケ年を經て享保六年閏七月幕府の醫官丹羽正伯が多數の人夫を率ひて藥草取りに六十里越より月山、湯殿山に登つた。其記行を見るに裝束場の羽黒方笹小屋に賽錢盜人防止の番人が拔身の槍を立てゝ監視してゐるのを見たとあり。
 (諸國採藥記) 植村左源治
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同國月山の麓志津村に旅宿して夫より湯殿山へ行淨土口六十里越といふ六十一里之此處を越て裝束小屋爰にて衣服を改め金銀錢其外所持の品を此處に置てこれより先の樣子人に語る事を堅く禁す 道の傍に青錢砂の如しといへとも是を取る人なし 參詣の輩一心に無量壽佛の稱號をとなふる也 然るに彼青錢旅人の差置る金銀荷物等な盜賊山越に來てこれを盜取るといへり 依て彼盜を防むる爲此處に鑓の鞘をはつしいかめしき番人有り 此入口裝束小屋より湯殿山奧院まて道法二十丁斗も下りて此邊裝束改又誓言の場有 道※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]に鐵の鎖數ケ所有其所諸地獄有なといへり (下略)
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 正伯は月山と湯殿山の間にて「かさなり草」といふ藥草を採りて、之を駕籠にて江戸に送つた。「かさなり草」は俗名「雪割り草」と云つて白色五輪花を着く。
 前記の裝束場小屋の槍立番人は羽黒方にて置いたので、羽黒方にて番人を置いた表面の理由は薄弱であつて目的は別にあるのである。羽黒方では眞言方にて淨土口に番人小建を建てたことは頗る遺恨に思つたので、眞言方では單なる賽錢盜人防止の爲めであらうが、羽黒方では道者爭奪に利用するものと解したらしい。又湯殿山の賽錢については盜人ばかりで無く山先達其他にも盜むものがあるらしい。之れで湯殿山を眞言四ケ寺にて獨占さるゝことを怨んで眞言方の盜人番人小屋に對抗せんが爲めに、裝束小屋に拔身の槍を立てゝ眞言方を威嚇したものである。この爭論は長い間續いて寛政二年に至りて大衝突を起したのである。
 正徳五年田川郡高寺村の高寺山照光寺の衆徒山伏十三人羽黒山に歸屬した。照光寺は往古羽黒末であつたが、延寶中江戸眞言宗護持院の末寺となつた。依て護持院に據つて熊野か吉野に入峯を遂げんと企てたが、元來羽黒の免許を受けて來た修驗なるを以て許可されなかつた。是に於て天臺に改宗して羽黒末となつたのである。
 正徳中羽黒空照院胤慶始めて庄内三十三番觀音を見立てゝ、順禮歌を作つて各觀音堂に納めた。然るに莊内藩では他國人の入込を厭へて順禮を許可しない。
 享保二年全國の神職を支配して來た京都吉田家にて全國諸大名に依頼して、社家の名簿を書出さしめた。莊内藩寺社奉行之を調査したるに別當代智妙院は莊内の社職は悉く羽黒にて位階を授けたので吉田家より受領したもので無いとの理由にて名簿呈出を拒絶した。
 (自坊記録)
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一享保二酉年京都吉田殿より諸國へ依御頼禰宜并社家の族名判帳面の義寺社奉行依改之 羽黒山太夫印形の義被申渡候故 太夫共此山へ窺聞候故印形無用と別當代智妙院江戸留主歸村 鶴岡寺社奉行水野郷右衞門印形不致段 不調法候間被仰付候樣申付 智妙院御挨拶ニハ羽黒山開山ハ依爲王子諸官位願來次第社人神子等に至まて免許仕來候 別て羽黒太夫神子ハ古來の者ニ御座候間吉田下ニハ無之 帳面御除可被下旨被申談候處 郷右衞門其例尋候故今度御朱印御書替被仰出召連候羽黒太夫於最上領貳人外ニ壹人ハ御門主御支配和田六太夫事 扨又太夫ハ吉田下ニ限り候樣御申ニ候得共 左も無之譯ハ日光御門主よりも其官位被下事ニ候 上野國碓水郡八幡の神主一二三の禰宜内貳人吉田官位 壹人ハ御門主より被下置候 然ハ吉田ニ限り候義ニ無之證義被申得心候故 羽黒太夫の印形不取吉田下帳面除也
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 享保元年は凶作にて同三年四月八日夜手向荒町桶屋傳四郎より出火百三十餘軒燒失し、寛永年中より三度目の大火である。同四年正月十八日最上川※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]澤新田より石鳥居を運び、黄金堂前堂庭入口に建つ、此鳥居は越前より海送して酒田に着き、之を最上川を遡つたので越前の石工二人附添來り三月十八日建立。鶴岡荒町深野藤右衞門の寄進である。同四年、五年は大凶作にて羽黒百年以來の飢餓であるので、莊内藩より米二千俵を借入れんとしたが、莊内藩でも未曾有の飢餓であれば應ずることできぬ。依て幕府に請ふて二千俵を借入れ翌六年二月十二日許可ありて、三月、四月中最上長瀞陣屋より最上川を下だし清川渡しにて受取り手向に送つた。同年三月靈山院慈永別當を兼ね、十月別當代智妙院辭して施徳院知英之に代る。
 享保三年十二月幕府全國輿地圖を作らんが爲めに御用掛大久保下野守は莊内藩江戸留守居山口三郎兵衞を召して月山、鳥海山の位置方角の測量を命じた。同四年莊内藩にも御用掛を命じ實測は算學者鶴岡荒町中村八郎兵衞政榮[#「政策」か]をして當らしむ。月山の測量は六月十七日より着手し、櫛引通り正福寺村にて測つた。月山の分だけを左に掲ぐ。
 (大泉古談)
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一月山高サ 町十四丁五十五間五尺九寸八分
      丈五百三十七丈九寸八分
      間八百九十五間五尺九寸八分
 右櫛引通正福寺村より見分なり
一月山大中嶋村より山上權現堂迄丁うたせ候所四里十二丁五十間權現堂より田麥俣村迄三里十四丁廿三間
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 月山の高さは參謀本部の測定では六千五百三十尺であるが、之れは海水面上の高さであれば、勝福寺の標高約百尺を減ずるも約一千尺餘の相違あり。
 享保六年五月十七日別當代施徳院急死し、智妙院辨海當分別當代を勤め、同年閏七月十二日別當代性源院亮天入院した。同七年三月別當靈山院慈永信州善光寺大勸進に轉じ、東叡山貫主の兼帶となつた。

     一二 羽黒方再び増川山の所有を訴へて敗れ入牢流罪に處さる

 増川山は萬治三年十二月老中松平伊豆守の裁定にて莊内農民と羽黒の入會山と決した。然るに羽黒方では羽黒領分は荒澤野口の南傘骨までゝあつて、月山、湯殿山は莊内領である。依て湯殿山を數度び爭つたが眞言四ケ寺の本山となりたれば、月山だけも羽黒領にしたいのは天宥以來の宿望であつた。それで萬治三年以降も増川山に於て爭論絶えなかつたらしい。延寶九年五月、寶永七年五月、享保二年五月の巡見使の羽黒登山に當りて羽黒方では鶴岡街道の松原の西端神路坂を以て境界を主張し、莊内領民は松原中程の中ノ坂を以て萬治裁定の境とした。享保十年五月五日手向中坂南方の西野にて公私領二十五ケ村農民の草苅中を手向村の修驗等之を襲ひて鎌三十餘を奪ひ喧嘩爭論を起した。同十一年十月二十一日羽黒方では出訴に決し、代官慈泉院附添光林坊と江戸に登せ寺社奉行に訴えた。同十二年六月雙方を呼んで裁判を開始した。羽黒方では増川村廿五ケ村を相手として起訴したが、其實は莊内藩との爭ひであつて、莊内藩郡奉行石原源五右衞門は同十一年秋より江戸に登り、翌十二年六月鶴岡に下り七月四日又々江戸に登つた。羽黒方の訴状は見えないが、同十二年九月莊内農民より出した追訴状は左の通りである。
 (無名記録)
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増川郷御料〈十一ケ村〉同郷御私領〈十四ケ村〉と羽黒領山境爭論之節増川郷〈御料御私領〉廿五ケ村より差上候
追訴状并御裁許御裏書ノ寫
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酒井左衞門尉領内代山地方を羽黒山麓手向町之者共掠取可申方便仕出入を仕懸候ニ付當五月十五日以目安御訴申上則御裏書頂戴仕候右之目安ニ委細相記候所御糺明奉願候猶又手向之者共言を巧申上候ニ付其答口上ニ申上候ては事長罷成候間乍恐一ツ書ニ仕奉備 高覽候覺
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一去々年巳六月朔日中ノ坂笹森二ツ石より西川代山之内拙者共前々より山家業仕候場所※[#変体仮名え]廿五ケ村之内より秣刈候處手向町之者共大勢罷出理不盡ニ相咎鎌奢取申候此度之爭論從此起り候全餘之儀無御座候手向町之者共申候は右鎌押留候場所は下野と申羽黒山境内にて古來より御料西堀越※[#変体仮名え]預ケ置野手米羽黒※[#変体仮名え]取納メ候場所故鎌押取候由僞中懸候右僞申掠候段一々左ニ申上候
一去年午八月廿八日御料大山御役所※[#変体仮名え]西堀越之百姓共被召呼右年貢羽黒山※[#変体仮名え]納候野手米之儀は此度廿五ケ村と羽黒山と論候場所※[#変体仮名え]出し候野手米には無御座候論所之外羽黒分に出し候野手米ニ御座候段以書付申上候則右之書付大山御役所樣より奉預り持參仕候間御高覽被成下度奉願候羽黒山麓之者共僞申上候明白ニ御座候事
一今度羽黒山麓之者共申立候境目萬治年中羽黒山別當寶前院山境及諍論候節寶前院申立候通之境を又候今度羽黒山之者共申上候此所乍恐御糺明奉願候寛文七年未七月別當寶前院不届之儀羽黒山五人之衆徒 御公義樣※[#変体仮名え]御訴申上候目安ケ條之内ニ先年酒井左衞門尉百姓と寶前院境論仕何卒羽黒領ニ仕度と色々僞を申鶴ケ岡領を少し宛も掠取度事を巧ミ少も出家之役義不仕惡僧ニ御座候段相見へ申候右五人之衆徒申上候所少も相違無御座候旨羽黒山惣衆徒數通之證文指上候間乍恐御高覽奉願候如此之書付山境古來より之境ニ紛レ無之と申上候段乍恐 御公義樣を不奉憚候僞事と奉存候事
一廿五ケ村之者共申上候川代山と羽黒山境内からかさ骨杉ケ森つふれかふれ森高森中之坂さゝ森二ツ石迄右八ケ所之義古往より廿五ケ村之者共山年貢年々城元へ相納木柴秣を刈取右境より北東之方ハ羽黒山境内ニ御座候故古來より廿五ケ村之者共入申儀無御座八ケ所之森を眼り今以山家職仕候勿論萬治年中寶前院出入申掛候節は御料私領之村役人共於羽黒大堂右傘骨より二ツ石迄八ケ所之森往古より之境ニ僞無之羽黒山之者共※[#変体仮名え]申掛不仕趣前書を以神文を仕境内之儀申上候其上羽黒山神領村杉村肝煎も廿五ケ村一同之連印之書付今以所持仕候羽黒山境内之境西南は川代山此地境前ニ申上候からかさ骨杉ケ森石ケ森つふれかふれ森中之坂笹森二ツ石北は御料東堀越※[#変体仮名え]預ケ前山并添川山地境二ツ石より八ケ所塚ちごか墓すミ塚金剛石湯坂道中之てや高森横根山八尺堂兎森野口よりからかさほね※[#変体仮名え]相續キ疑々※[#変体仮名え]は往古より森之上ニ猶又境塚をつき置申候右之通羽黒山境内と私領地境東西南北取廻し野山之内は段々境塚有之百姓共急度相守罷在候北東之方は添川山并東堀越村※[#変体仮名え]預ケ山は少も紛らかし申儀不罷成候羽黒山之者共若境を越候得は山刀鎌を押へ品ニより過怠を爲出其上證文なとを取候事も御座候西南之方川代山之儀者先々より毎無貢にて羽黒山之者ニ山自由爲致諸事用捨仕候故及度々私領地方を掠取可申方便仕羽黒山境内にて唱申候下野を境之外川代山※[#変体仮名え]うつし羽黒山百九石之地方之内ニ御座候段申掠候羽黒山實境内百九石之高敷ハ今度爭論之場所ニは無御座候拙者共申上候は八ケ所之境より北東之方ニて別所ニ御座候然處ヲ實境内之水帳を川代山之内※[#変体仮名え]手向町より起置候田地之水帳之由僞申掠候川内山之内※[#変体仮名え]手向町より起置候田地之分は全無高之田地ニ御座候事
一羽黒山之儀は領主代々崇敬之儀ニ御座候故在々之者ニ至迄別て重ク恐れ候故毎度手向町之者共我意を立我儘のミ仕候然所ヲ却て廿五ケ村之者共小領之羽黒山を相掠申掛を仕我儘仕候趣申上候此段黒白を相論候僞ニ御座候其譯左ニ申上候
一五年以前卯之年御料東堀村百姓を手向引出町にて馬より引落し至極打擲仕候其上七曲りと申往還之道を相留近郷之者山家業を指留爲及困窮候去々年巳之年者御料私領之家職山※[#変体仮名え]押込理不盡ニ鎌を奪取此出入を起し候去年午四月御料私領廿五ケ村之名主肝煎共を半死半生之躰ニ打擲仕候手向町之者共穩便之儀を存候ハヽたとへは廿五ケ村より無謂儀を仕候と御料私領之役所へ相届理非を相糺し可申事ニ御座候一圓左樣之仕形無御座候及度々百姓を打擲仕理不盡之致方僧侶ニ不似合儀此所御糺明奉願候
一今度手向より境に指候所之たる き澤大森袋の口ひわたしと申處國見村地方にて左衞門尉用材之内ニ御座候依之前々より手向者共右用林※[#変体仮名え]入木柴盜ミとらへられ候節度々數十通之佗證文國見村へ相渡置羽黒山境内杯と我儘至極之儀申掛候萬端如此之申掛仕候段は乍恐御賢察被成下度奉願上候事
一笹川より西へ手向之者終に入不申旨今度論所立合繪圖ニ付札在候然者萬治年中増川山如前々入會可申旨故松平伊豆守樣被仰出候場所は今度之論所ニ紛れ無御座候乍恐御糺明被成下度奉願上候事
一寛文年中羽黒山衆徒二十三人連印之書付元祿元辰年衆徒中七人之書付其外數通書物指上候間御高覽被成下以御慈悲廿五ケ村之百姓共永ク家業之地形ニはなれ不申相續仕候樣被成置被下候は難有仕合可奉存候 以上
            羽州庄内酒井左衞門尉領内増川郷
            拾四ケ村惣代大庄屋
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                 與右衞門 各印判
享保十二年            外野村肝煎 久次郎
  未九月            川行村肝煎 四郎兵衞
                 野荒町肝煎 新兵衞
                 川代村肝煎 新助
                 町屋村肝煎 新五兵衞
             同國御料小林又左衞門御代官所
                 東堀越村名主 甚右衞門
                 谷地楯村組頭 又次郎
                 大口村名主  小助
                 蛸井與屋名主 彌之助
   御奉行所樣
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 同十二年中に雙方の取調は略々完了し、更に現地の取調の必要を認めて同十三年七月七日檢使市岡式部池田喜八郎下着し、荒川村に宿泊して現地の檢分に掛り、現地に羽黒方主張の境印しを紫色、増川廿五ケ村主張の境印を白色を以て標識を立て、雙方の申立繪圖並に萬治三年の裁斷書と照合して江戸に歸つた。十二月二十六日裁斷を言渡された。即ち手向羽黒方の敗訴となり從來の通り入會山となつた。
 (大泉叢誌耳口録)
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      出羽國田川郡増川郷御料十一ケ村私領拾四ケ村と羽黒山領麓町手向村野山境論裁許之事
御料市野山大口興屋谷地楯東堀越大川渡上中目蛸井興屋中村平定并私領川代國見新田野荒町外野目古郡柳久瀬訴起増川郷川代山は二十五ケ村入會にて山年貢鶴岡へ納之羽黒山領手向村も一同入會山年貢ハ領主より令免除所手向村の者共右之地を一圓羽黒境内之由中掠差留段申之手向村答候者論所字は南野下野と申往古より手向村高百石余の内にて羽黒境内無紛候廿五ケ村より別之場所字を稱し入會と申紛旨申之右論地就相決爲檢使市岡式部池田喜八郎指遣令見分之所二十五ケ村川代山と指場所萬治年中出入之刻松平伊豆守取扱之定書に入會之文言有之其上論所双方之開田畑入交有之入會ニ而無之候ハヽ新開は爲致間敷處相互ニ許し候儀元より入會に而證據歴然に候手向村より慶長之水帳と申指出候へとも帳面之高附印形無之不埓ニ而不足取用其外羽黒境内と申す證據一切無之候其外同所に論地三ケ所有之内北之方境筋は手向村に金剛石五輪森等申立雖相爭此地は寶永年中添川村と鷺畑村出入裁許境墨引有之不可及異論東之方手向村と大中島村添川村互ニ地内と爭場所は見分之上五ケ村入會ニ相極候南之方螺道坂より小月山迄之間は羽黒地内にて二十五ケ村も入會之由手向村雖申證據無之候依之今般遂僉議相定候趣訴訟方指名も川代山之儀ハ廿五ケ村并大中嶋より指出す萬治年中之書付何も松平伊豆守定書ニ引合令符合殊ニ羽黒神領村衫村[#「村杉村」か]より指出置書付等も有之條東は双方中二ツ石より二十五ケ村中名所之順々笹森中之坂高森つふれかられ森石の森杉の森から笠骨迄西は二ツ石より手向村名所之順々からの濱神路坂埀荻澤大森袋之口日後臺のかけ石倉森迄二十五ケ村と手向村入會秣薪可取之論内に有之双方田畑林に有來通持主致支配並木之儀も只今迄之通手向村可致支配向後互ニ新發切開立出し堅停止之北之境金剛石より八森迄ハ寶永年中裁許繪圖有之候東之方手向村中八尺堂より兎森野口北之方ハ羽黒領内たるべし野口より駒の王子迄月山道を限り東は山手通境筋を限り野山之分大中嶋村添川東堀越村鷺畑村手向村都合五ケ村秣薪可入會是又新開立出令停止螺道坂より南之方小月山迄月山道東之野山は吟味之上大中島村地内ニ相決手向村より不可綺之旨裁斷之畢仍爲後鑑繪圖面野山境引墨※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]各加印判令裏書双方下授間永守此旨不可違犯者也
  享保十三年戊申十二月廿六日
                      稻 下野
                      久 大和
               御用方無加印 筧 播磨
               右同斷    駒 肥後
                      諏 美濃
                      大 越前
                      小 信濃
                      土 丹後
                      井 河内
                      黒 豊前
國境郡境論地ハ御裁斷□□等御老中諸御役人中御列判同郡ハ御料御私領他領と雖爭御老中御列判無之御役人中御列判御裁許状出候よし
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 此事件は萬治二年の羽黒方起訴と同事件であつて、幕府禁制の追訴に當るのである。依て幕府では享保十四年一月慈泉院と光林坊慶甚坊の三人を追訴の罪により入牢に處した。
 (鷄肋編)
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一享保十三申十二月廿六日御書出しの増川御料私領と羽黒山爭論御裁許書文言右之通御裁許書出候處羽黒山伏三四人江戸※[#変体仮名え]殘り入會と御坐候場所違之段 宮樣御役人※[#変体仮名え]申達評定箱へも書付差上候ニ付又候さわり此度ハ御檢使市岡式部殿池田喜八郎殿へ御尋御坐候處式部殿最前御僉議の節被申上候通相違無御坐羽黒領ニ無之段被申上候ニ付山伏共評定所へ被召出追訴之書付目前にて御燒捨此上違背追訴等申上間敷由被仰付候間山伏共罷下候よし
 (自坊年代記)
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同十四年酉正月御裁許成下ル阿含院慈泉院慶甚坊三人入籠
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 前記の裁斷状及鷄肋編の記事を見るに、奉行は羽黒方の追訴手段につき好感を抱かないことは明かにして三人は入牢に處された。然るに羽黒方は之れでも斷念することできないで、翌十五年源長坊普明坊眞田四兵衞寶京坊江戸に登り重ねて直訴を爲した。是に於て幕府は直に捕へて入牢に處し、三月普明坊、寶京坊を伊豆大島に、源長坊、眞田四兵衞を三宅島に流罪に處した。
 (羽黒山舊記)
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同十五年庚戌年又候源長坊普明坊眞田四兵衞寶京坊出府御直訴申上ル 依之二月牢舍被仰付 三月遠島被仰付出船伊豆大島※[#変体仮名え]普明坊寶京坊 三宅島※[#変体仮名え]源長坊眞田四兵衞
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 同十五年四月十八日夜手向荒町三十郎より失火、上通りは長屋より下は藥師堂まで燒失した。眞田以下の流罪者は八ケ年後の元文三年宥免を願出たるに許され三月十六日歸國用金十兩三分を山内より募集し普明院は羽黒に歸つたが、眞田及び寶京坊は在島中に死亡した。

     一三 山内の靜謐 羽黒山檀家調

 享保末期の増川山大裁斷の後ちは羽黒は暫らく靜寂であつた。隨つて記すべき事も少ない。元文四年三月別當代亮天辭して、雲光院覺泉別當代となり入院した。亮天の在職は十ケ年であつて、前例に無い長期間であつたのは増川山の爭擾があつた爲めであらう。寛保元年四月雲光院辭任、正光院辨宥別當代入院した。
 延享三年五月一日幕府巡見使山口勘兵衞外二人羽黒山に參詣ありて羽黒末派調を出さしめた。時に羽黒には正確なる調書無かつたものゝ如く、九月に至りて華藏院、威徳院、自坊は南部、正穩院、能林院、榮昌坊は仙臺、經堂院、吉祥坊を奧羽に派遣し概數を調べて幕府に差出した。
 (羽黒派末寺并修驗院跡大數取調帳)
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  出羽國飽海郡
    御朱印地天臺宗羽黒山寶前院
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一羽黒山上衆徒清僧寺      三十一個院
一同麓住居妻帶修驗       三百三十六坊
一同常念佛寺清僧        三個寺
一同行人派頭          二個寺
  諸國散在末寺并妻帶修驗行派神子社職之分如左
一出羽國飽海郡之内       八十六個院
一同國田川郡之内        百四十二個院
       内        神子二軒
       内        神職四家
一同國最上郡之内新庄領     三十七個院
一同村山郡之内         清僧寺五個院
      内         修驗百五十一個
      内         社職壹家
一同國置賜郡之内米澤      修驗百五十一個院
一同國由利郡之内本庄      清僧寺一個院
                修驗四十六個院
一同國秋田領之内        三個院
一陸奧國仙臺城下        五個院   内二ケ院行派
一同國宮城郡          十二個院  内九ケ院行派
一同國黒川郡          十八個院  内五ケ院行派
一同國加美郡          十九個院
一同國玉造郡          九個院
一同國志田郡          十八個院
一同國遠田郡          二十四個院
一同國栗原郡          五十五個院
一同國登米郡          二十五個院
一同國盤井郡          百四十一個院
一同國膽澤郡          四十二個院
一同國江刺郡          九十六個院
一同國氣仙郡          三十七個院
一同國本吉郡          三十八個院
一同國桃生郡          十五個院  内五ケ寺行派
一同國牡鹿郡          三個院
一同國名取郡          十個院   内六ケ寺行派
一同國亘理郡          二個院
一同國伊具郡          二個院
一同國刈田郡          十一個院  内四ケ寺妻帶
一同國柴田郡          十七個院  内八ケ寺妻帶
一同國南郡二戸郡        六個院   内神子一軒
一同國三戸郡          六個院
一同國九戸郡          七個院
一同國岩手郡          七個院   内五個寺行派
一同國閉伊郡          二百五十二個院   内一個寺行派
                      内七十軒神子
一同國鹿角郡          三十三箇院 内十一軒神子
一同國稗貫郡          一箇寺行派
一同國和賀郡          同斷
一同國宇田郡相馬        九十六箇院 内一箇寺行派
一同國津輕郡弘前        六個院
  關東筋散在之分
一武藏國御府内共        三百七十一箇院 内清僧寺八箇院
                    内神子二軒
一上野國 下野國 上總國 下總國 信濃國 常陸國 安房國 相模國 遠江國 右九個國之内
      千十六個院内  内清僧寺三個院
一駿河國            三個院
一伊勢國            三個院
  總計三千七百八十二箇院
      内 清僧寺五十箇寺
          御朱印地修驗十一個院
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右は延享之度分限改之表を以取調從古來之院跡當時相續之分大凡如斯御坐候
右之外御府内并關八州關西諸國羽黒法流一代修驗一世行人共數百人之儀に御座候得共院跡不定之儀に御座候間書上不申候
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 この調書の冐頭に飽海郡とあるは莊内二郡のことである。
 三山の年々の登山參詣人の數を知ることは、最も興味あることであるが、徳川時代以前は其概數さへ知ることできない。延享二年の月山通過の道者は三萬八千人、同四年は一萬千餘人である。延享二年の三萬八千人は著るしく多いから記録に特に掲げてある。斯く多い理由を檢討するに同二年は丑歳であることが主因で、前年の農作の豐産によることは當然である。丑歳の參詣人多い所以は修驗者の説く所は糊塗牽強を事として信ずることできぬが、其根本は佛典にあることであらう。法華經譬喩品に白牛の大車に駕して火宅を逃れた故事より火難除けとし、又勝鬘經涅槃經無量壽經などに佛を讃して牛王と爲し、或は佛の異名としてある。牛王寶印は之よりできたのである。羽黒にも牛王寶印又は火伏の生牛を飼つてゐる。之を要するに庶民の信仰に迎合せんが爲めに諸般の施設をすることは何處でも同じだ。依て羽黒では各丑歳に特に宣傳して道者の多數を謀つたことは古今同じであつた。延享四年の一萬五千餘人は月山大權現開帳の爲めに平年より多かつた。寶暦六年は七百餘人で著るしく少ないのは、同五六年の大饑饉の爲めである。同七年は丑歳であるに關らず一萬七千餘人に過ぎないのは洪水凶作の爲めである。
 延享四年九月院代醫王院諒慶入院、寛延二年正月十日十一日鐘樓堂の柱根繼ぎを行つた。現在の柱根の繼いであるのは此時のものであらう。寛延二年七月の峯中大先達は院代諒慶の順番であるが、病弱であるを以て華藏院本秀代つて勤めた。本秀は別當代人なるを以て南谷別當寺紫苑寺より入峯したのは儀規に據つたものであらう。寶暦元年東照宮改築、七月十七日遷宮を行つた。寶暦中の天災は獨り羽黒ばかりで無いが、同三年七月十六日拂川橋洪水の爲め流れ、本坊大書院より勝手に至る建替、同四年旱魃、七月廿三日手向下居堂燒失、同五年大饑饉、手向より用金百兩を集めて窮民を救濟す。葛根蕨百合等を掘取つて食ふ。同六年最も甚しく幕府より米千五百俵借入れ、本坊三百俵諸役人三百俵山上衆徒三百俵手向六百俵に割付す。月山道者七百餘人、同七丑年奧羽大洪水、月山道者一萬七千余人である。
 羽黒三所大權現堂は慶長十一年最上義光の再建より百五十三年を經て寶暦八年に至りて、柱根腐朽し多少傾斜したらしい。そこで別當諒慶改築を計畫し、同年五月江戸に登りて東叡山に議し、貫主より莊内藩の援助を請ひ、莊内人民一軒ニ付米貳合錢三錢の勸化の認諾を得。九月羽黒に歸り十一月八日釿立に着手した。然るに本堂の改築は連年の凶作饑饉の爲め工事豫期の如く進捗しない。加ふるに醫王院は九年二月二十二日羽黒にて病死し、智願院知印代つて別當代となつた。同十二年六月下旬唐銅鳥居を立てた。鑄物師は江戸より下り蹈鞴を設けて鑄繼をした。之れが山上八幡坂上の烏居らしい。同十三年山上堂庭の柴燈護摩壇の築直しを行つた。開山堂前の護摩壇であつて別當一代一回に施行するので、三山雅集にゆゝしき秘事とした。同十三年七月の峰中に酒井左衞門尉忠寄朝臣御代峰と權大僧都梅之坊周音とあるは忠寄が周音を代人として峰中行事を行はしめたのである。藩主の代理入峰は之れが初見である。明和二年十月八日院代戒光院亮豊入院した。
 本堂の改築工事は寶暦八年より着手して漸く明和三年建立に取掛り、七月假社を建て、本堂より權現を遷し、本堂の取毀に着手した。同四年四月十日内陣石突、五月十四日内陣棟上げ、六月古拜殿取毀ち、同五年三月十五日拜殿石突、四月八日柱立、八月十八日正遷座を行つた。同六年本社完成に付五月十六日より十八日迄惣供養を行ひ、月山惣通二萬八千餘人あつた。同八年六所堂再建、南谷の庭園を改築す。安永元年五重塔修覆、祓川橋掛替、荒澤地藏堂建替を行つた。同四年別當代徳禪院義詮入院、同年七月峰中に近江膳所城主本多政吉の代峰を長學坊勤めた。同年安養坊山行尊塚に石碑を立つ。天明三年七月俗人の入峰規定三條を發布して入峰料は幾度にて一回一兩三歩、着座は惣修驗の次にて入峰度數順とし、庄内俗人免許は官金百疋を出して宿坊より補任状を請受けることを定めた。天明四年別當代成滿院義俊入院した。
 同四年八月廿七日幕命にて羽黒領調書を出した。其領高千八百七十九石六斗である。同年別當代化城院官惇入院した。