第九編 餘録

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     一 手向村金剛樹院山の横穴式百穴

 此調査は著者が昭和四年三月本縣史蹟名勝天然紀念物調査報告第四輯に掲載したるを以て省略す。

     二 羽黒山鏡ケ池發見の古鏡

       一 古鏡發見の事例

 鏡の能く物を寫すを見て靈異の感を懷いたことは、我國及び支那に於ける古代の通有思想であつた。我國の鏡は支那より傳來したものには相違無いが、其傳來は古くして神代に在り。鏡の神祕なる靈能については支那の諸書に記され、又我國では天孫降臨と八咫鏡の神事は顯著なることである。之より八咫鏡を天照大神の御靈代として祭られ、更に劔及び玉と共に皇位繼承の神器とされた。之が起原となりて鏡を以て各地の神社祭神の御靈代として安置尊崇することは現代に至るまで行はれてゐる。又鏡は古墳より能く出るのは死者の靈と見るよりも遺愛品として其他諸種の所持品と共に葬られた。次に又鎌倉以前の經塚より鏡を發見することが多いのは、單に靈器として埋經に添へられたものらしい。最後に神社の池から鏡を出した例は我國に多く見受けらるゝ所であつて、之れが本編の主として檢討を試みんとする所である。元來鏡は神道に屬するもので、佛教とは關係の薄いものであるが、佛教は我國に入りしより新道と融合したので、鏡も之より神佛融合の修驗道に多く使用さるゝことになつた。
 山形縣東田川郡手向村羽黒山(高四一九米)の出羽神社(今は月山、湯殿山、羽黒山の三山合祭殿)の前に東西十九間、南北十四間の楕圓形の池があり、之を鏡ケ池或は御手洗《ミタラシ》池と云つた。本社は南向で此池は其直前に在る。此池より古來多くの古鏡を出したことは舊記にも在り、又近年には數百面を發掘したのである。依て先づ舊記にある古い時代の出土状況を見るに、寶永七年に編纂した三山雅集には、
 (三山雅集)
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  御手洗池《ミタラシ》
本社の階下に湛へて鎭《トコシヘ》に清潔なり この池中に古鏡おほく侍り古傳曰人王四十二代文武帝大寶元辛丑年七月詔令鑄銀鏡一萬八干[#「八千」か]面而奉納阿久谷云々去る年境ヒ論の事侍りしときこの池上を汚すこと有しに水面朱に變して年を超ども不澄に論事畢と池底を渝上ケ侍りしに右の鏡夥しく上りけるよし 又元とのことく奉納せり
[#図版(015.jpg)、本文は回り込み、第一圖]第一圖
とあり。文中の本社の階下とは正面階段の前にある池の義である。古傳云々は信ずるに足らざることで、三山雅集に古傳とか舊記に云々とかと云つてゐるが、之れ一に記事を根據あらしめんが爲めの方便に過ぎぬので、古傳も舊記も無いのである。阿久谷とは羽黒山本堂社後方の谷のことである。去る年の境論とは萬治二年の増川山の境界爭であつて、羽黒修驗と莊内藩の大訴訟である。羽黒に重大事件のある毎に大堂の柱に汗をかくとか、或は池の水が朱に染まると唱へたのは修驗者の常套語である。増川山の幕府裁判の决定したのは萬治三年十二月であるから、鏡を池中より發見したのは寛文廷寶[#「延寶」か]中のことであらう。其後とても池の浚渫毎に發見したらしいが、元の如く池の中に入れたものらしい。
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 明治三十五年乃至同四十四年池の泥揚げを行ひ、その捨てた泥土の中に鏡を發見したことがあつたといふことである。次に近年に於ける發見事實を左に擧げよう。
【第一回古鏡發掘】
 羽黒山は全山鬱蒼たる古杉林であつた。之が明治後社地參道筋を神社有となし、其他の大部分は官有地に編入された。そこで明治の末頃或る政治家が羽黒山官林拂下の請願運動を始めた。是に於て羽黒方では驚いて神社と手向村と共同して古來の縁故を申立てゝ特別拂下を請願し、代金三十萬圓で許可されたのは明治四十四年三月である。そこで之が保證金納入の都合で直に立木をば下野川西町植竹木材曾社[#「會社」か]に賣拂ひ、土地を神社と村有とに分けた。同四十四年六月同會社の手により伐採に着手し大正七年六月まで七ケ年を費して伐採を終へた。伐採略々終へなんとする大正三四年頃木材會社々長は御手洗池に神橋の寄附架設を申出た。この神橋は神社に向つて南北に架設し、幅十三尺欄干附で折り曲り式である。橋柱は二間位づゝに立てた。之を架設するには先づ池水を西南隅の水口より拂らひ、然る後に柱穴を掘つて挿込むのである。此池は水が出ないので雪解けの水又は雨水の溜りで、之は木葉が落込んで淺いのである。依て柱穴を掘らんが爲に先づ木落混りの泥土二尺位を掘りたるに其下から多くの鏡が出た。其數は今日に至りて明かで無いが百餘面であつたさうである。鏡の外に短刀一振と周り七八寸の燒木も多く出た。この百餘面の鏡は人夫が隨意に持ち去つたが、之等の鏡は人夫から鶴岡市の骨董商に安價にて賣拂はれ、骨董商は之を東京其他の商人に賣つて相當の利益を得た。之より鶴岡の骨董商は鏡の高價になることを知つて、爾後の池の浚渫の時期を待つて居つた。
【第二回古鏡發掘】
 池の架橋は御幸橋と名づけ、祭典毎に供進使宮司以下の渡橋あり。大正の末頃内務省技師羽黒山に登りて此橋を見て、神池に架橋することは汚涜であると云つた。是に於てこの橋を取り拂ふことに決し、之を拂下げた。依て買受け人は橋板を取り拂らひ橋柱をば水際より切り取つた。然るに切り殘された柱は夏期減水になれば水上に露出するので無體裁である。そこで社務所では人夫を以て南岸と北岸の殘柱丈けを拔き取らしめた。この時に發見した鏡は三四十面ともいひ或は五六十面ともいひ、主として北岸から發見された。之等の鏡は悉く人夫が持去つた。之を聞いた鶴岡の骨董商がこれを買取り東京・京都・水澤方面の商人に轉賣した。
【第三回古鏡發掘】
 池中には猶大部分の橋の殘柱が水中に立つてゐたので、此殘柱に目的を立て之迄此池の鏡で利益を占めた鶴岡の骨董商某が同業の某と共同して殘柱の讓受けを橋梁拂受人に交捗し、之を買取つたのは昭和三年四月初旬である。依て兩人は手向村某に殘栓の拔取りを請負はしめた。某は人夫五人と四月十一日より五六日間にて全部を拔取つた(I. F)(S. W)。兩人は目的は殘柱にあらずして古鏡にあつたのであれば、豫じめ鏡が出たら自分共に渡すことを人夫達と密約した。前二回の發掘は鏡の觀念が人夫等に毛頭無かつたのだが、今回の發掘は實は古鏡を目的として掘つたのであれば多くの鏡を發見したのは當然である。山上の合祭殿詰の神職は人夫等に向つて若しも鏡が出たならば神社にも持來るやうに命じたが(I. F)(S. W)、兩人は發掘中三四日も山上に登りて工事監督と稱して鏡の出る毎に人夫より受取つて歸つたのである。
 今回發掘の總數は二百面以上で、其内譯は四五十面は社務所に、他の百二十一面は鶴岡の或骨董商より京都・東京・大阪方面に轉賣された。手向村某の私有としたもの二十面を鶴岡の某骨董商を通じ奈良方面に賣つた。
 以上第一回より第三回に至る發掘總數は三四百面に達するらしい。第一回第二回の發掘數は概數さへも瞹昧[#「曖昧」か]であるが、三回四回に至れば稍々確實なる數を知ることができた。一回乃至三回の發掘鏡は悉く他地方の商人に賣拂はれ、各商人より帝室博物館或は好事家に集つた。前三回三四百面の現在の所藏者を見るに、黒川氏は京都・奈良・大阪の商人より羽黒古鏡約九十面、東京某氏より百十面を買入れたので合計約二百面は現在所藏されてゐる。東京上野帝室博物館では昭和十年二月東京商人より五十九面を買入れた。此外五十面は他に所藏者があるやうだ。之れは鶴岡商人より買入れたものである。依て總計三百鏡九面になるが、此外にも少しづゝ散逸したものがあるやうだ。
【第四回古鏡發掘】
 昭和六年八月十二日福島縣下の信者より鯉及び金魚を羽黒山に寄附があつた。それで社前の御手洗池に放たんとしたが、この池は前にも述べたやうに溜り水で木葉樹枝で埋り水深二三尺に過ぎない。且つ冬期には凍結する。依て大鯉を放養するには池中に生簀《イケス》を造らねばならぬことゝなつた。社務所では手向村井戸掘業者を雇ひ、十一月二十九日より着手して排水を行ひ※[#「くさかんむり/塵」、第4水準2-87-4]芥を揚げ、然る後に池の中央より稍々東に寄りたる所に幅十尺四方深さ五尺位を掘り十二月四日頃までかゝり、更に木杭を周圍に打ち込み六日に終了した。之より前二回の發見によりてこの池の古鏡の價値あることは誰れも知るやうになつたので、手向村の人々は勿論社務所でも關心を置くことゝなり、鶴岡商人は最も注目する所で再度發掘の期を待つてゐたのである。依て社務所では池中の生簀工事中神職を交る交る監督せしめ、豫じめ人夫に若し鏡が出たら事務所に提出すべしと命じた。
 依て人夫は神職監視中に發掘した鏡は事務所に差出した。其數は三十四面で其中破損したものが十四面あつた。人夫某氏は監督の目を盜み鏡を掘出し巧みに隱匿し夕刻歸宅の時に持ち歸つた。其總數百二十七面である。
 人夫某は十二月十日所藏鏡九十九面を鶴岡市骨董商に賣渡し、其骨董商は更に同市の他の骨董商に轉賣した。此頃鶴岡商人等は手向に來りて發掘鏡を探したが奏功しなかつたものもあつた。そこで之等の奏功せざる商人は其後他に轉賣されて多大の利益を占めたるを聞いて、之を嫉妬し、密かに其筋に告げたともいふ。是に於て鶴岡警察署にて檢擧取調べに着手したのは昭和六年十二月三十一日である。之より發掘者を始めとして鏡を取扱つたもの五六人は取調べられた。
 前記の警察署の取調は第四回目の發掘鏡だけの取調べであつて、翌七年二月八日鶴岡檢事局の裁判に付された。警察では第四回目發掘鏡は三山社務所々藏の外は悉く押收して裁判所に廻はされ、前回發掘の分も少數押收された。裁判決定は六月頃であつて押收古鏡百五十餘面は悉く舊所有者である所の三山神社に戻されたのである。神社所有の分と合せて百九十面は昭和十二年七月二十九日國寶に指定された。
 以上の顛末にて第四回目發掘の古鏡は悉く神社の所有に歸したのは、元來神社に納められたもので神社の地内から出たものであれば當然の歸結である。

       二 鏡堂と池中納鏡

 前記四度の發掘によつて出た鏡の總數は約六百面以上に達したと思ふ。以上は皆一度びは商人の手を經て轉賣され、今では商人の手を離れて博物館とか神社又は好事家の所藏になつた。重複ながらも現在の所藏者並に其數を掲ぐ。
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百九十面    羽黒三山社務所
二百面     黒川幸七氏(大阪)
五十九面    帝室博物館(東京)
五十面     某氏   (千葉縣下)
合計 四百九十九面
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 此外少數づゝ散逸したものがあるらしい。猶池中には多くの鏡が埋沒してあるだらうが、まだ發掘せざるため調査が出來ぬのである。依てせめて前記の約五百面の現在鏡について文樣形式より年代を考定し、又其納鏡年代を考究することは重要なることである。然るに羽黒の社務所に在るものゝ外は調査ができてゐないし、又大阪にあるものは見ることも容易にできぬ状況である。羽黒三山社務所の百九十面ばかりは東京斯學の造詣者に依囑して調査を遂げ、羽黒山古鏡圖譜を出版したのは昭和九年四月である。この圖譜によりて百九十面の種類別年代別を左に掲ぐ。
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   種類別
和鏡    一二五[#(面)]
湖州鏡 (〈湖州云々の印文無くとも同形式鏡を包含す〉)  一九
儀鏡  (〈無文樣が多い又文樣を有するものでも同式鏡を包含す〉) 一九
其他    四三
   和鏡形状別
圓形   一一一
方形(〈正方/堅長方〉) 〈四/五〉
八稜形    三
五花形    二

   時代別
平安   九一
鎌倉   五六
室町    二
桃山    一
江戸    三
不詳   三七
計   一九〇
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 圖譜の説によれば全部和鏡であつて、湖洲鏡の中には支那渡來物もあるやに述べてゐる。悉く神社納鏡であれば模造鏡或は儀鏡の多いのは當然であつて其數約五分一を占めてゐる。儀鏡とは銅板を圓形に切つて縁も文樣も施さゞる粗造品である。
 次に發見古鏡の製作年代を知ることは納鏡年代を知る上に重要なることであるが、紀年鏡は一面も出さないから、文樣形式によりて年代を考定するより外無い。前記の時代別によれば平安朝の鏡が九十一面で全數の約半數を占め、鎌倉期は五十六面で約四分の一、其他は見るに足らぬ二三面づゞに過ぎない。之によつて平安朝期に最も納鏡盛んに行はれ、鎌倉期之に次ぎ、其他は微少ながらも納鏡は徳川期まで長い間に繼續されたと云へる。然れども平安朝の鏡は悉く同時代に納入されたか、寧ろ後期に前期の鏡を納むること多いのではないか。依て鏡の製作年代を以て納鏡年代とすることは悉く背定されぬのであるが、前期のものを後期に納めたかを區別することも全く不可能である。次に羽黒山に納鏡の確實なる資料無ければ、羽黒山の歴史によりて平安期又鎌倉期の羽黒山は如何なる形況であるかを認識して、最も納鏡の盛んな時代を想定することもできるが、此山の開山は蜂子皇子・役小角或は弘法・慈覺と諸説區々として居り、又延喜式神名帳の伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社が果して羽黒であるやも確證が無いのである。斯る状態であれば歴史より納鏡の最も盛んな時代を認定することもできない。羽黒山の正史に始めて見えたのは鎌倉期吾妻鏡である。
 羽黒の記録に關する記事は一切見出すことできないが、只何時頃まで池中納鏡が行はれたかを推考するだけの記録は朧げながらも存在するのである。之を述ぶる前に池と鏡との關係を考ふるに、先づ神社と鏡は離るべからざる關係あることは前に述べた。次に鏡と池とは鏡面と水面は同一作用を爲すことからして同一視され、鏡の信仰に伴つて池の信仰が起つたものである。之よりして神社には多く池を設けて之を鏡ケ池と唱へた。羽黒の三山雅集の中に羽黒山神社に「イケノミタマ」と假名を付したのは、鏡が祭神の御靈代であるよりして鏡と池と同一視され、池が羽黒神の御靈代となつたものである。
 (三山雅集)
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 能除堂
太子の御事異説紛々たれともそが中の正統をいはば舊記曰崇峻天皇第三王子一名|參拂理《サンフリ》依[#三]形質頗爲[#二]暴荒相[#一]放[#二]北海濱[#一](中略)王子參拂理依[#二]天童之|誥《ツゲ》[#一]至[#二]羽洲[#一]時片羽八尺靈鳥蜚來而導登[#二]于羽峰[#一]拜[#二]生身觀世音菩薩[#一]時讃曰善哉聖者修[#二]勇猛行[#一]一身善業普利[#二]于他[#一]當[#三]感[#二]見彌陀大日所居[#(ノ)]土[#一]則化成[#二]靈鳥[#一]蜚[#二]揚月山及湯殿山[#一]且虚空誥曰我是|羽黒神社《イケノミタマ》也永欲[#レ]使[#三レ]汝興[#二]吾山[#一]即授[#二]三面寶火珠[#一]云々 (下略)
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 崇峻天皇の御子蜂子皇子の三山開説は根據薄弱であるが、只羽黒本社前の池を以て羽黒祭神の御靈として信仰したことだけは、前記の羽黒神社に「イケノミタマ」と假名を付したことによりて明かである。斯く池を神の御靈として信仰した時代は三山雅集作の寶永七年の頃は當然であつて、之より以前に鏡を盛んに池中に納めた頃には猶更この信仰が盛んであつたと思ふ。信仰は庶民の信仰が主となるもので時代によりて變動流行する。羽黒の納鏡信仰にも盛衰あつたと思はれるが、單に鏡の製作時代によりて推定することは再考を要することゝ思ふ。されど我國にて鏡の最も盛んな時代は藤原時代と云つてゐる。それで羽黒の鏡が斯く平安朝期に納められたものとすれば、莊内地方の古墳、經塚などよりも之に準じて鏡を出す筈であると思れるが一向に發見されない。
 次に鏡を如何にして池中に納めたかを檢討するに、記録には單に鏡堂のことあり、又池の傍りに鏡堂の在つたことは古繪圖に記されて居る。鏡堂は本社正面と池との間で池の岸に近く立つてゐた。羽黒の毎歳の最大行事である十二月大晦日の晩位上先途の兩大明松は本堂より引出され、鏡堂の前にて雙方に分れて之に火を點じて燒く。之には種々な儀式があつて相競爭するので之を驗競《ケンクラベ》と唱ふるのである。此驗競の行事終つた後ち火之|打替《ウチカヘ》の行事を行ふ位上先途の雙方より一二三四の明松役人以下本堂前の庭に出て二人の松打が火打を鑽りつゝ鏡堂の前を三度廻り、然る後ちに明松に火を點じて規式を競ふのである。
 (羽黒山年中行事私録) 智憲院
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  先達職所司前支度之事
十二月晦日
但鏡堂[#(ノ)]上[#(ニテ)]燒[#(ク)]大明松所司前[#(ヨリ)]出[#レ]之仲間一人神事間燒也
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 (羽黒山年中行事) 貞享四年七月二日制定
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十二月大晦日晩…………次に先途ノ松聖ヨリ位上ノ松聖ヘ七度半之使立位上ヨリ所司前エ使有之、兩方一二三四ノ明松役人ソシ役松打本堂ノ庭出テ互ニ横目奉行立合二人ノ松打鏡堂ノ前ヲ三度廻リ勝負ヲ論ス冬峰之祭禮ト謂也
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 鏡堂ノ上[#「上」に黒丸傍点]とは傍[#「傍」に黒丸傍点]りと訓むのである。以上の記録によれば鏡堂は貞享四年(二三七四)の頃には在つたことは明かである。次に元祿十四五年(二三六一/二三六二)に鶴岡市七日町旅宿業伊勢屋で出版した羽黒詣袖鏡《はぐろもうでそでかゞみ》と題する木版刷の三山畫帖がある。之れに本堂の前にて池の北側に小堂を見る。之れが鏡堂であるらしい。それで鏡堂の存在せる最下限は元祿末頃までゞあつたらしい。其後寶永七年(二三七〇)に編纂した三山雅集の繪畫には池の北側の小堂は無くなつた。依て此間約十年の間に鏡堂は廢毀されたものと思はる。
 然るに寶永七年(二三七〇)より三十七年後の元文五年(二四〇〇)十月に鏡堂を建立した記録あり。
 (松聖舊事記並改制帳寫)
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元文五年十月時執行別當代雲光院覺泉
一廿八日朝鏡堂兩松聖より立合兩代官衆御差圖にて築也
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[#図版(016.jpg)、本文は回り込み、第二圖 鏡ケ池々畔の鏡堂]
第二圖 鏡ケ池々畔の鏡堂(羽黒詣袖鏡《はぐろもうでそでかゞみ》所載)
[#図版(017.jpg)、本文は回り込み、第三圖 羽黒山鏡ケ池]
第三圖 羽黒山鏡ケ池(三山雅集所載)
(圖解)本行から見て池の向ふ岸に立てるは、左は慈惠大師堂右は釜堂である。釜には釜三個を置いて湯花の神事を行ふ所である。
[#図版注釈ここまで]
 此記事を考ふるに元文五年十月廿八日に鏡堂を建立したので羽黒の兩代官の差圖にて廿八日中完成してゐる。之を見るに鏡堂は古い時より永久的建物で在つたが元祿末頃に至つて、納鏡が全く行はれないことゝなつたからして廢毀した。然るに大晦日の行事には鏡堂の必要ある爲めに、毎年十月廿八日に假りの鏡堂を建てることになつた。大晦日晩の行事が濟めば直に取り毀つのであるからして圓長木を立てゝ繩にて結び屋根を載せた位のものであらう。元祿十四五年頃に刑行[#「刊行」か]した羽黒詣袖鏡の後ちに出版した三山雅集を始めとして一枚刷の多くの三山繪圍には池の北側に堂は一切見えぬ。
 以上述べた所で鏡堂のあつたことは確實である。この鏡堂は鏡を池中に納入せんが爲めのものであることは推定の外無いが、之が爲めの鏡堂であることは當然であらう。それでは如何なる作法にて鏡を鏡堂より納入したかは知るべき資料は全く無いのである。鏡の多く出た所は池の南側にあらずして北側に近く最も多いのも此堂より納入した爲めである。古くより時々池中の浚渫を行つたので鏡を發掘したらしいが、復び池中に入れたものゝ樣だ。之が爲めに鏡は北側に廣く散在することゝなつたのであらう。
 又更に考ふるに鏡堂は大晦日の大行事には無くてならぬものであれば、納鏡の行はれぬことゝなつてからも永く立つて居たものとも考へられる。然らば何故に松打が鏡堂の前を三回廻るか、之れは池又は鏡と密接なる關係あることであらうが明かで無い。修驗者は諸種雜多の故事を着けて行事を作製することをするので、池は祭神の御靈の宿る所であり、池中の鏡はその御靈であるとして、池中の神靈に對する儀禮として鏡堂の前で三回廻るものでないかと思ふのである。
 後世になつて假りの鏡堂も廢されて建てることをしなくなつたのは、徳川時代中期であらうか。未だ之に關する資料を發見しない。然るに後世鏡堂が無くなつたに關らず、大晦日の明松を鏡明松《カヾミタイマツ》と呼んでゐる。何んの爲めに鏡明松と云つたかは前に述べた所で明かであつて、鏡堂の前を廻つたからしてできた名稱である。大晦日の大明松及び鏡明松は修驗道の最も重要なる行事であつて、柴燈護摩の一種である。法華經に佛此夜滅度如[#二]薪盡火滅[#一]とあるによりて、密教では主として護摩を焚き、修驗道では屋外で大小の柴燈護摩を行ひ火を焚くのである。此時僧徒修驗者は四大和合身、骨肉及[#二]手足[#一]、如[#二]薪盡火滅[#一]、皆共入[#二]佛地[#一]を繰り返し/\唱ふるのである。後世納鏡は廢されて鏡堂は無くなり、假鏡堂も建てぬやうになつたが、鏡明松なる名稱ばかり殘つたのである。

       三 鏡面の毛彫文字と繪畫

 我國神社の池から鏡を出した例は、數多くあるやうだが羽黒の如く鏡を多く出した例は無い。只鏡堂について參考とすべきは三河國寶來寺に鑑堂あつて、三河名稱圖會中編に「鑑堂本堂の方護摩堂の傍に在藥師の東方火圓鏡をもつて諸人の願により鏡に萬象を刻し利益を施し給ふ誓願有故藥師尊へ鏡を奉り諸願を祈るなり」と見え、其鏡の一部は集古十種銅器部に十三面が掲げられてゐる。鏡の種類は漢式鏡唐式鏡と和鏡であるといふ。鑑堂は即ち鏡堂と同じで、鏡面に萬象を彫りて祈願の對照及び意志を現はしたことは、羽黒の鏡にも文字又は繪を刻したもの五面あり。之については後に詳述する。只羽黒の納鏡は鏡堂に納めて然る後に或る規式によりて池中に納入されたものらしい。次に一地より多數の鏡を發掘したものは大和大峰の山上ケ嶽藏王權現堂の境内地中より百十六面を出したのである。羽黒に次ぐ多數である。之等多數の鏡は山上の事務所に近い所より明治以前より數度にて經筒佛像佛具等數百點と共に出たのである。之れは藏王權現堂火災の際に燒け殘りの物品を此地に捨てられ、之が埋沒したものだとの説である。依て鏡其他は權現堂に納められたもので、懸垂の爲めに鏡に一二個の小穴を穿てるもの數面あり。又儀鏡と見るべき鏡大の圓銅板に藏王權現像を毛彫りし懸埀の小孔を穿てるもの多數あり。又鏡面に佛像を毛彫したものも多數あり。羽黒の古鏡は社務所々有品だけに見るに儀鏡に文字毛彫四面繪畫毛彫一面あるばかりだが、其他の多數の分は不明である。左に毛彫文字を掲げて私解を試みる。
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一、人未人不可取(素文儀鏡)
(私解)人未人は人非人であつて、非人は鬼神のひとである。人又は鬼神が此鏡を取去つてはならぬ儀である。
二、羽黒山之御鏡(素文儀鏡)
(私解)羽黒神が池の御靈であり、池の御靈が羽黒山之御鏡であつて、三靈一體を示すものである。
三、敬白、熊野御正體 飯高國元(素文儀鏡)
(私解)熊野山の記録によれば延暦年間熊野の黒珍は出羽の人で羽黒山に熊野權現を勸請すとあり、それで古くより本堂内に熊野權現を安置し今でも本社三神の向つて左に熊野神社を祭つてゐる。飯高國元は明かで無い。以上二面の銘文は羽黒山の沿革上重要なる史料である。
四、想授利 空力利(素文儀鏡)
(私解)大乘の六無爲中の一、虚室無爲、五、想受減無爲の利益といふことがある。之を六字に略したのである。一は法性が本來諸の障礙を離れて因縁の造作なき無爲である。五は六識の心想[#「想」に黒丸傍点]及び苦樂の二受[#「受」に黒丸傍点]を滅する無爲の境をいふ。
五、繪畫は破片で鳥形が不明である。
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 懸垂の爲めの小孔のあるものは一面も發見されない。之れは池中納鏡であるを證明するものであらう。只惜むらくは神社有についてのみの觀察であつて、東京・大阪等に所藏されてゐるものゝ調査ができないのは遺憾である。

       四 結言

 祠堂或は池中に鏡を納むる目的は同じで、其目的は鏡面に毛彫してある字畫が最も能く表明してゐる。即ち或る願意があつて其願意を文字で彫付け、或は彫付けた佛像に祈願したものである。之迄我國にて最も多くの鏡を出した所は修驗道の山であることは更に考究を要する所であつて、鏡の神秘なる現象が秘密を尊ぶ所の密教修驗道と一致したものであらうか。羽黒の鏡ケ池の鏡を出した部分は頗る小區域であつて全面積の數十分の一に過ぎない。依て猶池中に埋沒してゐる鏡の數は夥しく多いことゝ思ふ。之れを池の泥土の中に腐蝕せしむることは惜しいことである。全部之を掘り揚げて神社に保存するとしても、神佛を汚涜したもので無からう。却て往古信仰の盛んであつたことを證明し、又全部の鏡について其製作年代を究め或は毛彫りの字畫によりて史實を發見することもできる。單に神社有の百九十面の檢討によりて判斷を下すことは過早と云はざるを得ない。
 最後に予の希望を一言述べて置くのは、羽黒發掘古鏡約五百面の中神社有百九十面は羽黒山古鏡圖譜の刊行によりて其性質を知ることができた。殘額の約三百餘面の圖譜を刊行することは最も緊要のことである。願くば帝室博物館又は三山社務所にて刊行あらんことを切に希望する所以である。

     三 三山道者の交通状態

 三山に參詣せんが爲めに白衣を着け笠|蓙《ゴザ》を携へて登山する者を道者といふ。道者の字義は佛道を修行することである。明治以前の月山々開きは毎年六月二、三日頃にして執行又は執行代月山に登りて月山權現の遷宮を行ひ、一般道者は此日より月山、湯殿山に登るのである。八月八日月山權現の閉戸を行ふ。之が俗に山|仕舞《ジマヒ》といふのである。明治後陽暦となるに及んでは七月二十日山開き、九月中旬頃に山仕舞となる。山仕舞の日を定めざるは毎年の温度に差ありて寒冷にして道者無ければ早く山仕舞を行ふ。この五十餘日間に數萬の道者は四方より三山に殺到する。丑歳には道者は最も多い。之れは法華經に成佛の道を牛車に譬へたるに出たのである。明治前の月山々上通過の參詣者の數は平年は一萬人乃至二萬人、丑年には三萬人に達することあり。村山郡谷地念佛講帳に享保十八丑年に三山參詣者十五萬七千餘人花染下地賣高多大なりとあるは、多きに過ぐる疑ひあり。花染下地とは村山地方の名産である紅花にて染めた綿布にて、之を以て腹卷を爲して三山に登山すれば濕患に犯さるゝこと無しといふ。
 徳川幕府時代以前の三山道者の交通状態は史料が無ければ知ることできぬ。徳川時代に至りて稍々明かとなつた。三山は出羽國南部の中央部に位置するを以て四方より登山ができ、莊内方面三口が表口で羽黒口、大日坊口、注連寺口である。裏口では村山郡の本道寺口、大井澤口、最上郡の肘折口で七口あり。此七口は湯殿山七口と唱へて湯殿山を最後の目的として登山參詣するものである。夏期に至れば四方の道者は七口に向つて殺到し己が宿坊に宿泊する。各宿坊は諸國の檀那場の持分が定まつてゐて、道者は之に宿り先達も之より出る。之等の道者は郷里出發の時に町村役人或は藩役人より關所手形を貰ひ、此手形には身分、年齡、通過道※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]及び目的地を書いた。昔は之を過所状といひ、徳川時代には關所手形又は關所札と云つた。關所は徳川氏の人改所で、諸藩では人改番所と云つた。遠國の道者は途中の名所舊蹟を參詣しながら湯殿山に向ふのであつて、仙臺方面の道者は二口峠を越えて山寺山立石寺に詣て慈恩寺に至り、岩根澤又は本道寺の宿坊に宿泊して登る。南部秋田方面の道者は國境を越えて最上郡に出で臂折口又は最上川を船にて下り清川より手向に向ふ。關東及び福島方面の者は二井宿七ケ宿の山境を越えて高畠、漆山より機織川を登り大石、荒砥、鮎貝、黒鴨、古寺、見附を經て大井澤、中村の宿坊に投宿する。中村には眞言宗大日寺あつて、宿坊六寺、山先達七十人あり。之より六十里越街道の志津に至り、本道寺口と合して湯殿山に至る。此外越後方面の者は鼠ケ關より鶴岡を經て手向又は大網に、秋田西部方面のものは鳥海山麓三崎峠を越へ酒田を經て手向又は大網口に向ふ。斯く登山時期には各地方の市街地の旅店は大に道者客を以て賑ひ、山形の八日町道者宿の状況は木版刷の繪紙に殘つてゐる。手向の三山繪圖、鶴岡七日町伊勢屋の三山繪圖などは宿坊又は旅店にて木彫印刷して道者の土産品に提供したものである。
 各藩並に幕領地の他領に通ずる道路の境目附近には、人改番所を建て番士を置いて旅客通行人を檢査した。莊内には五番所と六個の口留番所あつて清川、大網、吹浦、小國、鼠ケ關は五番所で、小國口には小國と小名部、大網口には大網と田麥俣、吹浦口には吹浦と女鹿に二ケ所つゝ番所あつて二重になつてゐる。藩士二人つゝを勤番せしむ。六所の口留番所は關川、立谷澤、青澤、升田、中野俣、坂本であつて通行禁止の番所で、藩士一人つゝを置いた。此外酒田、加茂には船改番所あり。以上の番所通過の關所札の取扱手續については、時代により變遷あれば左に其大略を述ぶ。
 莊内に酒井氏入部より寛文十一年頃までは、一般民衆の關所出札は鶴岡町大庄屋川上四郎右衞門が書き、同宇治勘助加判にて出した。藩士は關所札を用せずして通行を許した。同十一年十一月大庄屋宇治勘助出判を書き、五人組肝煎加判にて出した。之れは幕府の切支丹取締の嚴達の結果である。
 羽黒三山は幕府領と數ケの藩領地の境に在るを以て、三山道の關所札は稍々複雜なる手續を要する。且又羽黒領は獨立した社領であれば、莊内藩と手向との間に莊内藩の番所は無いが、羽黒の番所は手向入口に一ケ所あるだけで其他には無い。莊内庶民が三山に詣でるには所定の關所札を携へて、手向番所に見せて、羽黒山、月山、湯殿山を經由して大網に下だる。この大網口には莊内藩の二重番所あれば關所札を示す。番士は大庄屋肝煎の印鑑簿に照合して通過させる。次に他領より三山に登るものは複雜にして男女によつて差違あり。先づ鼠ケ關口、吹浦口より來る者は、所定の關所札を携へて兩番所に至れば、女ならば番士は其札に入判を書入れて渡し、男ならば入判を書かないで通過させる。後ちには男も入判を要することゝなつた。兩口の道者は酒田か鶴岡七日町の旅籠屋に宿泊し、精進料理にて賄ひする。女は湯殿山、羽黒山に登ることはできるが、月山は野口より女人禁制で登ることできない。羽黒參詣の女は羽黒別當より、湯殿山參詣の女は別當注連寺大日坊より手形を貰ひ、鶴岡七日町旅宿に至り宿主の加判にて、町役人を經て當番家老の裏判を受ける。男は女より寛やかにして出判は宿主町大庄屋より町奉行の裏判にて羽黒、月山、湯殿山に至りて鶴岡に宿る。酒田も男女共同樣にて酒田は家老の代りに城代にて女の關札に裏判をする。鶴岡、酒田を經由せずして直に清川口、大網口より出るものは羽黒山、湯殿山別當の手形にて通した。次に最上、村山地方より三山を經て莊内に入る者は懸越《カケコシ》と云つて禁止されてゐるが懸越道者は少なくない。斯る道者は無手形入國ものとして取扱を定め、斯る道者は取次を以て出判入判を受け、出判は五錢、入判は十五錢の料金を支拂ふ。又道者は多數一團となりて來り鶴岡七日町、酒田今町などの旅宿に宿泊する。斯る時は十五人未滿の時は他の團体と組合せて十五人と爲して一軒の旅宿に泊める。以上は徳川中期以前の概要である。
 次に徳川末期に於ける三山道者の交通制度を略述すれば、文政二年の制定が以前の制度に改正を加へ、廢藩に至るまで大体變化無く施行された。其大要は幕府役人及び槍を持つた武士は出入手形を要せずして各番所の通行ができる。其他の道者は左の如く定めた。
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一、他國より三山參詣の者は清川口大網口は羽黒山別當及び大日坊注連寺一判の證文にて通すことは從來之通り。但し五ケ番所の入判出判を檢査して通すこと。
一、不案内にて入判を持たずして入國した者は旅宿より其理由を認めた出判願書を出さしむること。
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 以上は莊内藩にて文政二年三月十四日の布達である。次は羽黒にて四月中に定めた所左の如くである。
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一、本坊の關東奧羽の道者は山先達にて入判を檢査し、道者引頭の添書にて出判を羽黒役所に願出づ。
一、本坊の道者不案内にて入判持參せざる者は山先達より道者引頭に其譯けを話し其譯書に出判申請書を添へて役所に願出つ。
一、手向持場の道者にて不案内の爲め入判持參せざるものは其宿坊にて吟味を遂げ、其譯書に出判申請書を添へて出判役所に差出すこと。
一、手向御恩分并平門前の持場道者の出判願書には代官の裏印を以て出判役所に願出つること。
一、社領の百姓の出判手續は同上のこと。
       出判願案分
從何國〈湯殿山/羽黒山〉參詣之假名誰々則致下向〈本國※[#変体仮名え]罷歸候 風呂敷包壹ツ宛 柳籠裏/何國※[#変体仮名え]罷通候 壹ツ宛 持合之荷物出入〉共〈清川口 小國口 大網口 吹浦口 鼠ケ關口〉無相違罷通候樣出御判可被下候尤何口入判相添差上申候 以上
  何ノ何月何日            宿坊 何坊 印
    出御判 御役所
 (外略ス)
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 同二年三月十四日の莊内藩の布達について、羽黒方にて精細なる取扱手續を照會したるに、鶴岡より左の回答あつた。
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一、社領百姓並に手向門前の者にして他國に出て歸村之節清川口より出たものは、大網口より入る時に入判を要せずして通行することを得。
一、莊内藩の五ケ所番所より入判にて三山に參詣し、月山より村山最上に通拔けすることは許可せぬ。
一、團体にて入判を受けて入り中途にて分れて他山に參詣の者できたるときは、其譯を認めた書付を出せば入判無くして通行を許るす。
一、村山最上地方より月山に登り羽黒を經て莊内より歸國するものは、古來禁制である。然るに斯る道者は頗る多ければ不案内入判無きものの取扱を以て出判を出すことにした。即ち道者宿より不案内にて入判無きものとして其譯を書いて出判を受けて番所に差出す。
一、之迄は番所にて女にのみ入判を認め渡すことであつたが、今後は男女僧俗共に番所にて入判を要することに決した。之に關かる費用は一切徴收しない。
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[#図版(018.jpg)、羽黒山々上繪圖]
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[#図版(019.jpg)、手向村繪圖]
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昭和十六年十一月二十日印刷
昭和十六年十一月二十五日發行 (非賣品)

  山形縣
    山形市旅籠町五一三
  印刷者   熊谷末藏
    山形市旅籠町五一三
  印刷所   熊谷活版所
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