第三期 寛政元年より慶應三年に至る

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     一 湯殿山立札並に賽錢盜人番人小屋に付羽黒方にて
       眞言四ケ寺を訴ふ

 享保未年の増川山大訴訟の後ち約六十年間は、羽黒山内頗る靜謐であつたことは前編に述べた。然るに寛政二年に至りて湯殿山に於ける立札事件にて眞言四ケ寺と大爭論が起つた。此事件は殺人を伴ふ大爭鬪と訴訟となつたので空前の大爭議である。羽黒修驗は天宥以以來[#「以以來」は「以來」か]訴訟を幕府に起したこと數回に及んだが、一回も羽黒方の勝訴となつたことは無い。之にも關らず今回又々爭議を起したのを見るに、羽黒修驗は爭鬪心が旺盛である評は免れぬ所である。
 湯殿山に於ける眞言四ケ寺との爭論は毎年夏期には絶ゆること無いらしい。羽黒方では改宗後湯殿山とは分離したに關らず、表面分離しないものゝ如くに裝ひて、羽黒、月山の奧の院として道者を案内し、湯殿山に關することは諸般のことについて關渉して來たことは前に述べた。之について眞言四ケ寺では湯殿山は自分等の本山であつて羽黒方の關渉或は道者先達を喜ばない。この相互の怨恨が漸次亢進して來たので、眞言四ケ寺では天明六年七月湯殿山法則と題する九ケ條を書いた木札を淨土口と裝束場に立てた。
 (莊内史料)
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      湯殿山法則
一湯殿山權現本地者法身之大日如來之事
一鎭座之幽窟開基之人師者弘法大師たる事
一弘法大師遺跡たるに依而別當眞言宗たる事
一天下泰平御願之靈場たる事
一最極秘密口授相傳たるによつて御正躰等※[#変体仮名え]別當四ケ寺之外手入無用之事
一湯殿山一世行人於寶前誓約之以後別當四ケ寺之内其身之思寄ニ仍而免許状請一世行人ト名乘事
一上り下之行人出家在家共別行上火鑽火注連寶冠ニ至迄別當四ケ寺之法流たる事
一禪定之間咒誦念佛等之外雜語無用之事
一親子兄弟等者勿論貴人之仰ニ候といへとも神窟之景色等言語ニ咄申間鋪之旨寳前金打堅可相守事
右之件々條々開祖以來別當不共法則心得違之輩も有之猥ケ間鋪他之法流を以制行相勤令參詣之族間々相聞候湯殿山法流之儀者可爲別當眞言宗四ケ寺旨所被仰出也自今以後諸國諸參詣之貴賤可相守者也
                    正別當  本道寺
  天明六午七月            同    大日寺
                    表口別當 注連寺
                    同    大日坊
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 之を本道寺の登山口と湯殿山境内の裝束場に建てたのである。斯のやうに湯殿山の眞相を立札に書かれては羽黒方は大恐慌とある。天臺宗である羽黒方の湯殿山參詣は不合理であり又道者に對して虚僞の先達をしてゐることゝなるので、羽黒の盛衰に關する大問題である。羽黒方之に對して默止することできぬは當然である。
 前記の立札は古くより眞言四ケ寺にて建てたものとも見えるが、從來のは薄板小形で、毎年七月廿七日の山開きに建て、山終ひの時に拔き取つた。之を天明六年には厚板大形となしたので道者は一目してわかるやうになつた。それで羽黒方では鬱憤俄かに爆發したのである。寛政元年羽黒方では三先達の一人出府して東叡山貫主に之れが撤廢方を莊内藩に交捗を頼んだ。貫主は使僧を以て莊内藩江戸邸に交渉した所、莊内藩では注連寺大日坊を問ひ訊して然る後に回答すると答へた。
 (庄内史料)
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寛政元酉二月二日
一舊臘晦日立御飛脚ニ被仰越湯殿山淨土口裝束場へ新法之高札相建候儀ニ付從 御門主院樣爲御使僧護國院罷越別紙之通御制止御取計之義御頼ニ仰入候 右一件手間取可申ニ付先つ一通御承知被遊候趣御留守居を以御挨拶有之可然哉と思召候由委曲御紙面之趣令承知候被仰越通甚入組候事故注連寺大日坊得と相糺其土達御聽可申候依之委曲被仰入之趣左衞門尉へ申聞候得と相糺進而御挨拶可申上趣御留守居罷越護國院へ申置候樣御取計可被成候以上
一妙嚴院御屋敷へ罷出今泉十兵衞迄申聞候ハ先達而申進候湯殿山一件上野より御頼被仰進候儀法申之事とて御領主樣にて御取扱不被遣事にては甚不宜趣上野にて專御沙汰御坐候由右一件厚被及御沙汰相濟候樣致度旨妙嚴院相願候段十兵衞申聞候間先達而庄内へ申越候段及挨拶候得共又々申進候樣仕度旨呉々申聞候付一通申進候大日坊注連寺致納得候樣猶又厚被遂御評議相濟候樣可被成候    三月十一日   舍人〈○家老松平内膳〉
  助九郎〈○家老朝岡〉罷登致沙汰候筈にて返事不遣
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 莊内藩にては注連寺大日坊を取調べたが立札撤廢の理由無いものと決し、此旨を齎らして家老朝岡助九郎は出府した。七月中留守居今泉十兵衞護國院に至りて其旨を傳へ、又別當代化城院の新任挨拶に江戸藩に來た時にも傳へた。化城院は七月廿二日羽黒修驗と共に羽黒に歸つた。化城院羽黒の惣衆徒に其旨を達したが衆徒等は羽黒の盛衰に關することで、引いては自分等の生活に影響する所であれば之に服することは到底できない。依て衆從[#「衆徒」か]は羽黒山の沿革を調べて八月化城院に差出した。之が羽黒山古寶集覽記と題するもので四十一項より成る長篇で、往古は湯殿山を合せて羽黒に屬し、其七口は悉く羽黒末である所以を説き、三山雅集を更に附會したものである。化城院は之によりて眞言方に對抗し、最後には訴
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[#図版(014.jpg)、湯殿山論爭繪圖]
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訟提起の覺悟をしたものらしい。
 湯殿山の賽錢盜人については多年取締を嚴にしたが容易に止まない。眞言方にては各淨土口に番人小屋を建てゝ監視を嚴にしたるに、正徳四年七月羽黒方では莊内藩に交渉して小屋を撤廢せしめたことは前に述べた。其後に至りて盜人は漸次増加するばかりであれば、眞言方にて莊内藩に請ひ、莊内藩より幕府に願出て許可を得て湯殿山の口々及び湯殿山寳前にも番人小屋を建てた。羽黒方では兼てより眞言方各口の番人小屋について怨恨を抱いて居たが、今回湯殿山寶前にも小屋を建てたについては憤懣禁ずることできぬ。斯く番人小屋に憤懣を抱く理由は前にも述べたが、更に眞言方で賽錢を拾ひ集めて自分等の收得とする疑ひもあつたやうだ。眞言方でも羽黒方にて賽錢を盜むものある疑を以て小屋を建てたやうにも見ゆる。是に於て羽黒方では牛ケ首の羽黒方笹小屋に番人を置き幕を張り槍鐵砲を備えて威勢を張り、愈々雙方對抗の氣分となつた。且つ羽黒方番人は眞言方並に湯殿山行きの道者に對して妨害を加へた。最も烈しかつたのは寛政二年六月廿四日であつて、手向より源正坊重吉を頭として多數の人數を牛ケ首に屯せしめ、湯殿山行きの道者並に先達に妨害を爲すばかりで無く、眞言方番人五人を捕へて羽黒に拉し去つた。眞言方では千日行人に頼んで羽黒に交渉せしめて五人を取戻した。眞言方では此顛末を柴橋代官池田仙九郎に訴へた。羽黒方の暴行之に止まらずして、七月廿五日湯殿山姥月光に於て大日坊番人伊左衞門を多數の羽黒方にて取圍み、鐵砲にて殺害し死骸を匿くし、且つ裝束場に立てた高札を取去つた。
 八月二日柴橋代官所二人は羽黒方の暴行を視察せんが爲めに岩根澤口を登り、眞言方と共に牛ケ首に至りしに、同地の小屋に羽黒方十四五人を發見したが、其中十人斗りは逃げ去り 殘り五六人の内手向村直右衞門の二人を捕へ、之を鶴岡役所に送つた。鶴岡藩では二人を揚《あがり》牢屋に入れて訊問に着手したるに源正坊以下の暴行を白状したるを以て、鶴岡寺社奉行水野勘兵衞、石井丹冶は十月別當代化城院官惇に通牒して連類糺明の上通報あらんことを請ひ、引續き兩人を監禁して取調を行つた。化城院は鶴岡役所に返翰を送りて直右徳門、五右衞門の白状は悉く虚言にして、牛ケ首に於ける行爲は手向村の者である證據は無いと回答し、即時兩人を手向に還すべしと要求した。
 (無名記録)
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      鶴岡役所※[#変体仮名え]返翰之事
貴札拜見候寒冷之砌彌御堅勝被成御勤仕珍重奉存候然者當八月注連寺大日坊山賊番の者牛ケ首ニて此麓直右衞門五右衞門兩人捕其御役所表※[#変体仮名え]被差出則右兩人被遂御吟味候ニ付湯殿山山賊武具致用意相働候儀御尋之趣致承知候即役人共※[#変体仮名え]申付此麓中致吟味候處此山も從來湯殿山山賊番被仰付罷在於道小屋々々ニ別而念入致吟味來候處當夏中迚も右山賊躰之者壹人も見請不申矧武具之儀は勿論の事ニ候條申聞候且又大日坊番人伊左衞門事此麓大勢之内委細承知之者可有之哉ニ付此段可相糺之條被御申聞是亦令穿鑿糺明候處承知の者一圓無之候扨又此麓重吉雇人之内御領分之者右人數ニ相加り候儀も可有之哉否尋ニ付是又相糺候處御領分之者相加り候義無御座候條申出し候御別紙面之趣は別札ヲ以得御意候右御報申進度如斯御座候 恐惶謹言
  (寛政二年)
    十一月七日
   兩寺社
     別紙答
當夏中湯殿山賊致増長既ニ七月廿五日月光と申所にて大日坊番人伊左衞門と申者山賊ニ被取圍鐵炮にて被打殺候樣子ニ付注連寺大日坊番人共申合死骸も有之哉と段々相尋八月二日牛ケ首迄罷越候所同所小屋ニ山賊拾四五人罷在其内拾人斗ハ右尋の人數を遠方より見懸逃去相殘候五六人之内此麓直右衞門五右衞門兩人捕候由にて其御表御役所※[#変体仮名え]被差出候ニ付被遂御吟味候所伊左衞門行衞之儀存知不申候由申上候條致承知候右伊左衞門被打殺候場所は彌月光ニ無相違條何そ共吟味御手懸り※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]合ニても御座候哉將又鐵炮ニて打殺候樣子と申儀は何等之樣子手掛見請候と右躰被申出之候哉又打殺候者彌山賊と申聢と手掛證據等も有之哉又山賊ニ被取圍候樣子是亦其模樣見届も有之ニ付被訴出之候哉又直右衞門五右衞門兩人之儀は此麓より差出置候小屋守ニ相違無之處貳ケ寺番人共より山賊同類と申立之候儀は此貳人働ニ付何そ胡亂成筋合にても急度見届候ニ付搦捕山賊と申立之被差出候哉又貳ケ寺番人牛ケ首迄罷越候所同所小屋ニ山賊拾四五人罷在候由被御申聞候共山賊罷在候小屋は此麓の者懸置候小屋ニ候哉又山賊共別ニ懸置候小屋ニても有之候て其小屋ニ山賊罷在候と申義ニ御坐候哉且又其拾四五人の者共彌山賊と申條は貳ケ寺番人共を遠方より見掛逃去候故山賊ニても有之哉と推察を以山賊と被申立之候哉又其拾四五人之内ニ山賊ニ急度無相違人を見届候ニ付不殘山賊と被申立候事哉又不殘山賊ニ無相違條急度手懸見届も有之哉又其拾四五人之者名前等之義も其人數之内直右衞門五右衞門被召捕置候得は是又其名前不殘相分可申候間遂一其名前被仰聞度候右牛ケ首小屋之儀は先年湯殿山々賊吟味被仰付候ニ付差出置候番小屋之其一ケ所ニ候得は右此山掛り之山賊番ノ場所ニて左樣之山賊躰之者罷在候ては此不吟味後難之恐有之儀ニ御座候得は此節急度吟味申付猶又伊左衞門行衞得と遂吟味御報申進度候間乍御面倒巨細相分候樣注連寺大日坊番人共※[#変体仮名え]右之條々御糺之上被仰聞度候
一山賊之儀當夏此麓重吉致雇人大勢を聚鎗鐵炮致所持幕も所々ニ打候而相固候由風説之趣を以兩人方※[#変体仮名え]御尋之由致承知候此段急度得御意置候重吉等之儀は此山より道者爲警固麓惣代ニ爲差登候者共ニと山賊躰之胡亂成者ニハ決而無之候間左樣御心得置被下度段申出之候右風説之儀は貳ケ寺方より被申出之候儀ニ御座候哉風説之儀は此山近邊にても眞言四ケ寺番人共鎗鐵炮相用山賊之張本相働候由專風説相聞候若御尋に候ハヽ 其段巨細可申進之候猶復前後ニ當夏中湯殿山ニ賊致増長候と被御申聞候ニ付是又相尋候所去年中四ケ寺番人共山賊※[#変体仮名え]懸合前金子三四拾兩も差出候ハヽ夏中賽花錢不殘可相候由致約束山賊共より右金子被請取候所山支舞之節山賊を出秡賽花錢不殘番人共取片付山賊共※[#変体仮名え]は壹錢も相渡不申候に付山賊共右之意恨を以當夏中は蜂起致増長候由專其風説相聞得候乍去此山之者共右山賊壹人も見請不申候由申聞候左候得は山賊致増長候其譯は四ケ寺番人共之執斗不宜故も相聞候間左樣ニ御承知被下度候又御文言之内湯殿山別當四ケ寺兼て月光ニ建置候札羽黒山ニて相障候模樣ニ付奪取爲可申段々致手配此麓より拾四五人出候儀は見請申候其内名前は源正坊重内重吉善六清内ニ候此者共相糺候ハヽ委細相分り可申由尤重吉手ニ付候者之内胸掛ニ重之字相印付候者拾人斗も見懸且又幕出方の儀は別當所より成共被差出槍は此麓より出候事と存居候段直右衞門申上候由被御申聞致承知候湯殿山別當四ケ寺と直右衞門口書之趣を以被仰聞候得共湯殿山月山羽黒山三山執行別當職は此山ニ相限り岩根澤日月寺臂折阿吽院并眞言四ケ寺は唯湯殿山坊中ニ候間左樣ニ御心得置可被下候扨又月光ニ建置候札と被御申聞候所月光と申候得は其場所猶通漫ニ相聞候眞言四ケ寺近年新法之札立置候場所は此山掛り之裝束場※[#変体仮名え]相立候ニ付右札從此山引取申候間左樣ニ御承知被下度候此段世間一統能存知罷在事ニ候次ニ羽黒山ニて相障り候模樣ニ付奪取爲可申と被御申聞候條是又其根元此山より相障り候儀ニは無之候四ケ寺方より此山※[#変体仮名え]大ニ相障候新法ケ條を以立札被差出其上此山掛り之場所※[#変体仮名え]理不盡ニ被立候ニ付無據此山より引取申候間左樣ニ御心得置被下度候源正坊重内重吉善六清内五人之者共儀は前文申進候通湯殿坊中眞言四ケ寺より此山掛りの裝束場※[#変体仮名え]新法立札并嗽場差出其番人共鎗鐵炮を構置五六年以來年々此山掛ケ之道者又ハ山先達共※[#変体仮名え]難題差支多端申掛其上去年中も御届申上置候通り此山先達※[#変体仮名え]手疵爲負候躰間々有之候ニ付無據此山よりも道者爲警固四五人宛爲差登來候處當夏中ハ別而立札番人共強勢難題申掛道者甚致難儀候由ニ付右警固之源正重吉等其場※[#変体仮名え]罷越驗勢不届候趣申聞候處其番人共鎗を以此山警固之者※[#変体仮名え]手疵爲負候所仕合と其鎗の柄を※[#「てへん+瓜」、下p159-2]引合候得は不叶と覺候哉番人共鎗を捨迯去候故立札并槍共ニ引取來候得は其後又候番人共大勢を催來札相立候ニ付無據重吉方にて増人爲相重拾四五人にて致警固候由申聞候右源正坊重吉等相糺候ハヽ委細相分り可申條申上候由被御申聞則源正坊等相糺候所此者共は從來道者警固ニ爲差登置候者共にて山賊等之胡亂成者共ニは曾て無之猶又重吉方にて山賊之族相雇候儀も決而無之由申出之候扨又重吉手ニ附候者の内腹掛ニ重之字相印附候儀被御申聞是亦相糺候所重吉事先年此山毎年大晦日火矩神事之義位上組先途組と相分數百之炬入亂打合先を爭ふ祭禮ニ御座候處重吉儀位上組方松打代役頭相勤候節其組下手勢之者重之字相印致腹掛候所右祭禮ニ相用候所猥ニ平日取用候は神慮恐有之ニ付取仕舞置候然所當年警固ニ罷登候者之内深山夜中腹合相冷難儀之趣申聞候ニ付右之腹掛權現之深山ニ相用候儀は忌恐も有之間敷却て山中無病ニ相勤候祈祷ニも可相成哉と存取出爲用候由申出之候且又幕之出方別當所より成共被差出候と申上候に付御尋被御申聞致承知候即其懸役人共へ相糺候所別當所所持の幕は峰中用幕の外一切無之尤此幕他へ相用候儀一向相成不申候品にて從前當所差出候覺毛頭無之由申聞候左候得ハ直右衞門五右衞門從來小心柔弱者之由及承候定而長々之繩下入牢ニ心氣爲取登夢中同樣前後得と承知も無之事迄猥ニ申上候哉も難斗候此段御察被下度候次に槍鐵炮等之儀具ニ被御申聞候ニ付再三嚴敷致吟味候所此麓の者共致陣防候哉も難斗候得共何れも御別紙面へ引合不申候當麓之儀は御存知も可有御座通鳥獸殺害別而權現之制律ニ候得は童ニ至迄殺生人迚も無之候間鐵炮所持吟味手掛も相見へ不申候ニ付先重吉等吟味中組預ケ申付置候右之仕合故此段早速難及御報ニ候依之直右衞門五右衞門其節山中之樣子も委細承知ニ付御別紙面之通申上候事と相聞得候間右兩人之者共※[#変体仮名え]山中其節の模樣得と相尋其手掛を以此麓の者共嚴敷遂吟味御報申進度候間右兩人其御表御吟味一通相濟候ハヽ一先爰許※[#変体仮名え]御渡被下度候尤右兩人又々御吟味之節は何時成共早速差出可申候間何分其御心得にて可然御沙汰頼入奉存候 右之趣麓掛役人共より尋書ニ相見へ申候
 (寛政二年)
   十一月七日

      幕鎗鐵炮極意返答之事
一幕之儀再往被御申聞遂吟味候所源正坊重吉等申出之候は先達ても申上置候通眞言四ケ寺立札并其番人共所持之槍引取來其晩は牛ケ首へ罷左候處夜半之頃弓之弦音天ニ喧敷數拾挺之鐵炮笹原ニ響既に危之處這々辛命を拾逃歸り其趣惣先達中※[#変体仮名え]申出之候得は先達中より被申聞候は湯殿山之儀は此山麓之咽喉ニ候所近年之通眞言四ケ寺より被差障候ては所詮山麓渇命滅亡之程眼前之事に候左候得は拙者共三四人命を差出致警固若も弓或は鐵炮ニて被打殺候節は道者引共引請何方迄も罷出湯殿山者諸向從往古仕來通差支無之樣幾重ニも御訴訟申上山麓大勢を致全候樣可致出情間拙者共三四人被打殺候は却而山麓の幸と申者ニ候條利害被申聞候ニ付拙者共も必死覺悟相究又候警固ニ罷登候所大滿にて風と心付候は弓鐵炮の難を相除事ハ幕之外無之樣子及承候に付夫より立歸り幸に□□より奉納幕拙者共方ニ預置候間此幕持參其晩又候牛ケ首ニ右之幕張居候所又々夜中弓鐵炮夥敷相響候間偏ニ權現之神威祈祷暫罷在候得ハ彼大勢之中より壹人大音にて扨々膽逞き者共と申て夫より不殘引取躰にて靜ニ罷成候由被申聞候
一槍鐵炮之儀再三被申聞候ニ付無據爰許吟猶又今般の御番中ニ爰件相糺縱半々ニ有之候共一通早速可及御挨拶之旨被御申聞候
未相極候得共只今迄之吟味之模樣荒々申進候右御尋ニ付月山并裝束場迄之小屋々々の者共不殘呼出し遂一相糺候所數拾挺之鐵炮立並へ置候と見請候者も有之或は漸壹貳挺と見請候者も有之或ハ   并直右衞門五右衞門や申に見請候と申者も有之源正坊重吉等詰居候近所朝暮罷在候得共終ニハ壹挺も見請候事決而無之由申者も有之區々眞僞相分り兼候又警固の者の内にも右之通區々見請聢と員數等相分り不申候ニ付又々源正坊重吉等呼出し得と相糺候所毎度申上候通從來警固の者共鐵炮壹挺も不致所得候其後先達而も申上置候通此麓之内鐵炮所持の者決て無之猶又麓中此度軒別の穿鑿ニ付當麓之内右鐵炮所持不致候條明白ニ相分り且又拙者共他所より才覺致用意候哉ニ御疑も可有御座候得共拙者之内才覺致用意候者壹人も無之候又御仕度の武具故何方にも故より所持の者も無之候是等の趣を以拙者共一挺も不致所持條御推察被成下候扨又七月廿日項最上貳ケ寺方より五百人程相催し槍鐵炮等手々ニ持石はねと申所迄押寄來候由聢と風説相聞候所從來拙者共方ハ漸拾人餘之人數如何可相防哉と致評義候所詮命を差出致警固事ニ候得ハ此方人數多少爲不相知幕を張り人々之命ハ任神慮可然と必死覺悟致警固候處敢て押寄來事も無之故其樣子段々風説承候得ハ最上領の者共拙者方三人數千人餘も有之殊ニ數百挺之鐵炮にて相堅候樣ニ見請候て夫ニ恐れ右五百人程之者共不殘引拂候樣子ニ相聞候右之通拙者共方之人數ハ元來拾人餘之外無之所千人餘と見請又鐵炮壹挺も所持無之處數百挺と見請候事旁々以山中の模樣於拙者共にも不審至極怪敷事奉存候仍而申上候も恐多奉存候得共拙者共打寄是ハ定而山神之加護歟又は往古亂世之時分天狗等致加勢候事ニも有之樣ニ及承候若も左樣の事にても可有之哉と唯恐敷事ニ致物語候仕合何分是等の趣得と御賢察被成下度由被申聞候
右之趣源正坊重吉等尋書ニ相見申候如斯怪敷儀申進候も恐入に付猶又再往吟味糺ニ取掛居候處掛合の者共今般江戸より御召ニ付   氣之毒ニ御座候得共再三之御申聞無據此段及御報候何分可然御察被下度候 以上
     月   日
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 以上の羽黒方の答辨書は寸小棒大であつて虚構無實の事が多い。莊内藩では兩人の白状によりて確證を握つてゐるので、化城院の辨明に信を置かない。羽黒方では若し莊内藩より幕府に訴えられては不利と考へ、十一月十四日和解を申込み、羽黒方よりも湯殿山寶前に番人を置かんことを莊内藩に願出たが、莊内藩は之を拒絶した。寶前の番人について相爭つてゐるのは賽錢の自己利得を目的としてゐることが推考できる。十一月中直右衞門五右衞門の親類並に別當代より兩人の入牢免除を頻りに願出たが、莊内藩は取調未了の故を以て放免しない。十二月兩人親族より衣類夜着等の差入を願出て之を允るした。十二月十三日衣類夜具を持來り、兩人の町宿願を願出たが許可しない。
 裝束場の高札を取去つたのは寛政二年の夏中のことで、此裝束場には羽黒方と本道寺大井澤の笹小屋のある所で本道寺大井澤にて建てた高札らしい。それでこの高札事件については本道寺大井澤より村山代官池田仙九郎に訴えた。同二年十一月二日莊内藩より兩人の取調書類其他五冊を江戸に送り寺社奉行に出した。同三年正月化城院は湯殿山寶前の眞言方番人の鎗鐵炮を撤廢せられんことを莊内藩に交渉し、其回答によりては上野寛永寺の指揮を受けんと申込んだ。
 (無名記録)
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一簡致啓上候餘寒之砌彌御堅勝被成御勤珍重奉存候然ハ先達而伊左衞門行衞之義ニ付被御申聞候爲源正坊重吉等嚴敷遂吟味急度相分候樣御報申進度其模樣數條訊問申進置候然ニ此一件如何樣共相濟不申内ハ當夏中湯殿山參詣在之節迚も牛ケ首邊此山掛の小屋守共相登候者有之間敷由此麓之模樣相聞候若左樣ニ相成候てハ道者之差支ニ候ヘハ何レ其依御答之趣上野表之御指圖請候樣ニ仕度候然處遠路ニ候得ハ早急之間ニ合兼候間來月上旬ニハ早々此段何差出度候ニ付何卒右御報早速被仰聞度候此等之趣御年寄中へ宜御沙汰頼入奉存候 恐惶謹言
  (寛政三年)
     正月十六日
      兩寺社
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 莊内藩では昨二年七月二十五日湯殿山月光にて羽黒方にて殺害したる大日坊賽錢番人伊左衞門の死骸を引渡さない間は赦免できぬと化城院以下の要求を拒絶した。
 是に於て羽黒方では寛政三年十月正穩院江戸に出發、同二月幕府寺社奉行所に訴へた。又本道寺大井澤は勘定奉行に訴へた。二月廿九日莊内藩より化城院との往復文書並に大日坊注連寺方の調査書類を江戸に送つた。五月十三日寺社奉行より來る七月六日松平右京亮宅に於て雙方の對決を行ふに付出頭を命ぜられた。羽黒方の訴状を左に掲ぐ。
 (湯殿山内記)〈三山社務所藏本は「羽黒山出訴湯殿山會通」と題す〉
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乍恐以書付奉御訴訟申上候
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羽※[#「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61]飽海郡羽黒三山執行別當訴訟人
     天臺宗寶前院代
           正穩院
     同
           聖之院
     麓惣代
           延命院
仕來相破候出入池田仙九郎殿御代官所
     羽※[#「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61]村山郡本道邑
           本道寺
同御代官所羽※[#「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61]村山郡大井澤村
     眞言宗相手方
           大日寺
酒井左衞門尉殿御領
     羽※[#「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61]田川郡大網邑同宗同斷
           注連寺

           大日寺
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一訴訟人共奉申上候羽黒三山之内湯殿山之儀は諸國より參詣之入口七口有之内天臺宗三口は眞言宗四口と相分り宿坊先達一同ニ相立同樣ニ道者案内仕來候處天明六午七月より眞言四ケ寺方にて新法ニ天臺宗三口甚差支之ケ條を以て高札直立秡身の鑓等備置剩へ新法の嗽山役錢等押取仕天臺宗三口を制宿坊先遠參詣迄必至と難儀仕候四ケ寺方よりの新法立札手水場之儀ハ幾百年來無異論天臺宗三口裝束場にて羽黒山支配致來然處右場所へ今度新法之高札手水等被指出候てハ我屋敷門口ヘ札をし立出入不相成樣ニ被致候同樣之儀故麓の者共是非善惡四ケ寺方立札手水場取捨還て此方より立札手水差出度由一統壹決仕候て度々申出候道理可然筋合ニ候へ共左樣ニてハ重頭に相聞對 御上へ恐有之間柔和之致方可有之趣申聞置候間無據指控罷在候扨又天臺三口之道者より手水場にて壹人より六銅つゝ押取仕湯殿山寶前にてハ鑓を違ひ役錢と號し壹人より錢四拾八文ツヽ被取立候事ニ御座候彼是申候得は道差ふさぎ天臺宗三口の山先達致打擲手疵等爲負候事共間々有之甚難儀仕候左候ては天臺三口懸之道者餘分の入用相懸り候上及難儀ニ候故自然と諸國よりの道者眞言口へ相廻り去年抔ハ八分通ハ四ケ寺天臺三口は漸貳分通の道者ニ罷成羽黒山麓ハ不及申諸國末派共迄難儀仕候羽黒山之儀は山中猪鹿多く殊ニ山田にて土地惡敷耕作渡世不相成只一統修驗職の者にて諸國道者の惠を以て渡世仕候且又諸國散在之羽黒山末派修驗并行事皆以て湯殿山參詣之助力にて相續仕來候處右躰四ケ寺方新法の企を以て被制候ては羽黒山方必至と難儀仕候古來より是迄仕來候山法之儀ハ譯有之修驗回峯修行極意之本山に御座候て若一山修行も相欠候時は修驗回峰修行相成不申候依之本山當山兩派修驗ハ大峰熊野三山回峰修行ニ御座候依之諸國より參詣之道者法則も開山太子任修驗山之掟結注連袈裟錫杖を用ひ大日法流ニ依て常火鑽火の別行淨衣寶冠の衣躰にて諸國諸山參詣之式格別之修行之致方皆悉修驗山入峰修行之法則ニ御座候古修驗山の爲法則を以て參詣之道者案内の者共七口一統修驗職の者山先達と號案内仕來全ク以熊野三山引道山伏同樣の事にて諸國より參詣之道者行中の法用相勤其施物の助力を以て院名相續仕候末派修驗行人等諸國ニ夥く散在仕候然ハ湯殿山之儀ハ天臺三口宿坊先達ハ勿論諸國散在の末派修驗行人寺迄も咽喉本山ニ御座候右三山修行別當ハ熊野三山檢校職同樣にて羽黒山ニ限り脇六口ハ湯殿山坊中と相唱往古ハ七口壹統眞言宗にて坊中并ニ諸先達迄入峰諸行之上湯殿山相勤候古例之處當山へ慈眼大師有縁ニ付寛永十八年願之通天臺改宗被仰付候節岩根澤日月寺臂折口阿吽院相隨び天臺改宗仕候殘り四口ハ改宗不承知にて眞言相守夫より天臺三口眞言四口は相分り候然處天臺改宗仕候上ハ湯殿山法流も熊野三山同樣ニ天臺宗法流ニ相改度之處眞言四口之坊中不承知ニ付及異論ニ寛永年中被仰出候湯殿山法流は眞言之時之通り眞言宗法流相用候樣兩宗へ御下知状被下置法流一件にて相濟夫より以來眞言四ケ寺御裁判被仰出状押募り重頭之取量等有之候得共仕來之通被 仰付候ニ付諸事不相改仕來を以て百貳拾年餘靜謐に納來候處眞言四ケ寺當時之住僧がた如何相心得違候哉天明六午年羽黒山口支配の裝束場へ新法高札を以て眞言四ケ寺正別當と名目書出秡身の鑓を立置種々難題申懸候故諸國散在の末派の者共迄難儀仕候趣追々訴出候一山一社別當寺法流寺と双方共に御立被置候例ハ湯殿山ニ不限諸國諸山神社佛閣其例數多御座候處眞言四ケ寺當時の住僧方法流御裁判をして別當御裁判状と押紛し當山之三山執行別當を取離し天臺三口を必至と抑挫置候て湯殿山自由いたし新ニ木戸を構山役錢等迄押取可致企相聞候羽黒三山修行別當の儀ハ熊野三山檢校職同樣の由緒在之往古より寶前院勤來候と鎭護國家の兩山ニ御坐候羽黒三山の内にも湯殿山の儀別て修驗極意之本山ニ御座候處此度眞言四ケ寺方より差支之ケ條を以て正別當を名目新ニ書出被立置候てハ修驗極意の本山他派ニ被奪天下安全の御願も退轉の基ニ罷成候事故一日片時も爲立置候も決て不相成事ニ候得共眞言方ニは秡身の鑓等所持候得は若驗動ニも罷成候てハ御上への恐も有之當山の者共も重頭の躰ニ相聞候ては如何奉存候相成丈ハ内々にて濟度天明六午年新規立札之節より領主酒井左衞門尉殿御役人中并ニ前之御代官所布施彌市郎殿御役人中へ度々御願申上猶又上野表より騷動ニ至候てハ迚も法中の懸合ニ及兼候事故武門の御威光を以て御取鎭の段遠國の事故 御公儀へ奉願上候同樣の御事にて領主并ニ御代官所へ御願被仰入被下置候得ハ兩 御役所より御手先ニ及兼候段御挨拶ニ御座候相手方※[#変体仮名え]も懸候處彼是と申一向引取不申候捨置候ては羽黒山麓ハ勿論諸國散在の末派迄も相立不申難儀仕候ニ付無是非今般御訴訟奉申上候何卒以御慈悲相手名前の者共被 召出新法之札嗽等引取古來之通ニ被仰付羽黒山麓并ニ諸國末派迄壹統相立候樣御下知被成下置度奉願上候彌願之通被仰付被下置候ハヽ難有仕合ニ奉存候 以上
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羽※[#「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61]飽海郡羽黒三山執行別當
天臺宗寶前院代
   訴訟人    正穩院
   同      聖之院
   同 麓惣代  延命院
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寺社御奉行所
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御裏書左ニ
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如斯訴状差上候間致返答書來七月六日右京宅内寄合へ罷出可對決若於不參ハ可爲越度者也
  (寛政三年)
     亥五月十三日            備前 印
                       紀伊 同
                       周防 同
                       右京 同
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 同三年四月十六日本道寺大井澤の訴訟提起により、柴橋代官池田仙九郎よりも幕府勘定奉行に訴状を出した。勘定奉行は莊内藩より關係書類を取寄せ羽黒方の修驗二人と源正坊重吉外四人を江戸に登らせて訊問を行ひ、六月八日重吉等を入牢に處した。同月眞言方注連寺大日坊も寺社奉行の呼出しにて江戸に登る。幕領地人民の訴訟は勘定奉行の取扱ひであるを以て、本道寺大井澤よりの訴状は代官を經て勘定奉行に出した。然れども皆同一事件であれば合せて寺社奉行にて裁判に付したやうだ。
 七月四日眞言四ケ寺より羽黒方訴状に對する答辨書を寺社奉行に出した。寺社奉行は之に修正を加へて重ねて出さしめたものらしい。
 (莊内史料) 〈此史料は經師屋にて切斷裏張にされたもので不明の所多し〉
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眞言四ケ寺御答書寫
  朱にて書入之分ハ寺社御奉行中より御加筆被成候
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      乍恐以返答書奉言上候事
羽※[#「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61]湯殿山別當本道寺大日寺注連寺大日坊乍恐奉申上候湯殿山之儀者人王五十三代天長年中弘法大師ノ開基別當眞言四ケ寺天下泰平□□之靈場湯殿山權現燈明料□□印頂戴長日之御祈祷相□□來り候 羽黒山者天臺宗にて開基人師は能除太子と申事にて湯殿とは□□宗相互ニ構も被構も無御座候 寛文年中も羽黒山別當天臺宗寶前院眞言四ケ寺別當共ヲ相手取り非道之公事申□ケ其節双方御糺明之上眞言四ケ寺|理《(利)》運之由被聞召譯□裁判被仰出候然所亦候此度□□之御裁判相背咨之願□ヲ指上ケ御訴訟申上候左ニ御答申上候□黒三山之内湯殿山之儀は諸國□詣之入口七口有之候内天臺宗三口眞言宗四口ト相譯リ宿坊先達□□立同樣ニ道者案内仕來候ハ申上候□□相違之申上□ニ御座候延寶年□□平山城守樣寺社御奉行御勤役之時□□ニ申上候通表に庄内別當 ケ寺裏口最上別當貳ケ寺兩口之由申上候通七口ト中□□湯殿山には無御座候寛文□中も前寶前院七口と申立候□□相立不申候因之唯今に至迄□裏之兩道ニ御座候間七口ト申□事ハ相違ニ候御事
天明六午年七月より眞言四ケ寺にて新法ニ天臺三口甚差支之□□を以高札相建拔身之鑓ヲ□剩新法之嗽山役錢等押取□ト申上候
□新法之高札ニ無御座候先年より□來り候湯殿山法則書にて 指支候書付ニハ無御座候
 羽黒山より差障り可申筋無御座候庄内口ニも右同樣法則書□置候所庄内兩別當者寛文□中出入之節も御領主之御下知可相守旨被仰渡置候□諸事御領主御役所※[#変体仮名え]相伺御差圖を請申事御座候先日御領主御役所より右法則書□之御尋御座候節古來より□候由書付を以御答申上候其□□にて御領主表相濟候最上口法則書斗り新法ト申事ニは有之間敷候手水錢六文宛押□仕候ハ申上候事相違ニ御座候 「[#(朱書訂正)]尤參詣人之心次第壹錢差置候分ハ心次第仕候湯殿山より羽黒山へ懸越參詣□□爲山役錢壹人より百壹文宛羽黒山ニてハ押取仕候□□之儀ハ百五拾壹文ツヽ壹人前より受取双方へ分ケ取ニ 湯殿山にて押取仕候事ハ勿論右躰之儀決て無之候」
湯殿山寶前にて鑓ヲ違役錢號し□人より四拾八文宛被取立候事無御座候彼是ト申候得ハ道ヲ指塞□人を追拂先年より立置候法則□ヲ奪取又候相建候處同廿八日□取大勢ニて通行之道ヲ指妨ケ通懸候道者先達共まて□□逃歸候近日狼藉相募り□□十八日ニハ番人之内五人搦捕羽黒山※[#変体仮名え]連參リ候間此方よりも□勢ヲ以取戻度存候得共騷動ニ□成ト恐入千日行人相頼手□□五人之者共貰候得共取搦□拷問之次第口書等池田仙九郎殿御代官所※[#変体仮名え]御届ケ申上ケ候通相違無御座候最上分之内牛ケ首卜申所※[#変体仮名え]數百人楯籠り右三口之山先達致打擲手疵等爲負候事共間々有之 難義仕候と申上候
段全僞御座候四拾八人宛ハ不及壹錢も取不申候尤道者之心次第金銀賽錢候共差留も不致[#「不致」は罫囲み]候參詣人之心次第御座候打擲手疵等爲負候ハ甚相違之□□ニ候湯殿山之内月光ト申所ハ本道寺大日寺より參詣之入口にて於此所騷動いたし候儀ハ去年六月廿四日羽黒山より重吉ト申もの先トして丸之内ニ重之字□胸當「[#(朱書)]ニ致し其外一同」押寄□大勢ヲ以湯殿山※[#変体仮名え]之通行を□妨ケ參詣人必至と不通罷成□□早速御取鎭之義御代官所へ□上候御役人方御兩人「八月二日」岩根澤村日月寺※[#変体仮名え]御越同日本道寺※[#変体仮名え]も御立□騷動之樣子又々御尋此上羽黒□より何樣の狼藉相催候共私ヲ□相妨申間敷旨被仰聞候元來相防自力も無之拙寺共御座候故差圖之通相愼罷在候翌日□之場所爲御見届御越被成候所□□ものとも不殘引退キ申候是等の趣其節御代官所※[#変体仮名え]「[#((朱書))]申上候處□□上曲淵甲斐守樣へ四月十六日御指出ニ相成廿八日双方卸□ 之上羽黒山修驗兩人入牢被仰付尚又其後重吉始四人御吟味之上是又入牢被仰付當時□味中御座候右之通之儀ニて羽黒山より致騷動之段 之事御座候を押隱し却而拙寺共より手疵等爲□候訴訟申上候段全僞之□□ニ御座候此段六月八日入牢被仰付候重吉を御吟味被下置候ハヽ □動之根元迄相知可申候御糺明□願上候外ニ酒井左衞門尉殿御領(缺紙)
□懸ケ其時之寺社御奉行安藤右京進樣松平出雲守樣双方御糺明之上寶前院狼藉者と□を請ケ負公事仕其年羽黒山ヲ引率して天臺宗ニ改宗仕廿八年過去り寛文□年之時又々寶前院公事□懸双方御糺明之上眞言宗四ケ寺申所理運之由被聞召譯□裁判状被下置候事御座候私共 度相守り湯殿山別當職相勤 候處此度又々正穩院等寶前院代として寛文年中之 裁判状ヲ相背新ニ湯殿山ヲ修驗山極意之本山ト名ケ御裁判□※[#変体仮名え]今案□[#「□」は二マス分]願書之□[#「□」は二マス分]嚴尤之□□取廻しは御裁□之上爲後鑑兩山※[#変体仮名え]成下知者也□永代龜鏡之御文言※[#変体仮名え]私曲之□[#□のなかに「了」]簡ヲ入兩京※[#変体仮名え]眞言宗之時之通□ニ可致之御裁判ト申紛し上ヲ僞り私共ヲ致蔑候乍恐□裁判之上は□代之通可爲眞言宗ト被成下置候然ニ其刻羽黒□之眞言宗ヲ捨□仕廿八年之間天臺宗ニ相改眞宗旨之法則□衣鉢共ニ相改天臺ト眞言ト□山別宗ニ罷成廿八年道異論(缺紙)
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                 (以下朱書)
                   池田仙九郎殿御代官所
寛政三亥               羽州村山郡大井澤村
  七月四日             湯殿山正別當
                   新義眞言宗
                          大日寺
                   同州同郡
                   同別當
                    同宗
                   本道寺村
                          本道寺
                 酒井左衞門尉領分
                 同州庄内田川郡大網村
                 同別當
                   同宗
                          注連寺
                 同州同郡
                 同別當
          (以下缺紙)
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 此度の訴訟は立札事件として傳へられてゐるが、立札と番人小屋に發してゐる訴訟である。然るに羽黒方の訴訟を見るに、廣汎に亘り湯殿山別當號を羽黒方にても唱へたいのが最後の目的としたやうに見ゆる。其理由として湯殿山は古來羽黒修驗道の極意の本山と説き、古實集覽記にも修驗道の最後の目的である即身成佛は湯殿山である所以を縷述してある。之までは湯殿山を極秘の靈地として不言不語の山としたが訴訟に勝たんが爲めには發表せざるを得なかつた。
 七月六日原被の對决は寺社奉行松平右京亮宅に於て行はれ、その應答は文書を以て湯殿山内記に精細に載せてあるが、全文を掲ぐることできぬにより左に羽黒修驗道と湯殿山との關係ある分を抄録す。
 (湯殿山内記)
  (羽黒方)
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一羽黒山之儀は山中猪鹿多く殊に山田ニて土地惡く耕作渡世不相成唯一統修驗職の者にて諸國道者の惠を以て渡世仕候且又諸國散在の羽黒山末派修驗并行事皆以湯殿山參詣の助力にて相續仕來候處右躰四ケ寺方新法の企を以被制候ては羽黒方必至と難儀仕候て申上候事
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 (湯殿四ケ寺方)
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右一段の趣意ハ羽黒一山の儀ハ別の産業無之道者の惠壹圓ニて一山相續仕候と申上候事ニ御坐候一ケの唯の字ハ渡世仕候と申文言迄相懸り候間道者惠の外ニハ一山相續の資糧無之事文理分明ニハ御座候得共實理事實ハ全ク以大僞大忘語ニ御座候乍恐 嚴有院樣寛文年中 御朱印千五百石余御寄附被爲遊候御事ハ常社造營坊中相續年中行事等之資糧と被爲思召候御事ニ可有之候ケ樣ニ大 御朱印御寄附の御事に一山擧て永代難有可奉存候處を今度 御公義へ差上候訴状之文言 御公儀代々の大恩惠を一切隱沒仕候て土民不郎等の惠を尊重仕候儀乍參所恐多奉存候若し御朱印の儀は各別と申候ハヽ羽黒山唯一統の至道者の惠等と唯の字ハ被置間敷候始終の文面 御朱印を隱沒仕候て道者の惠ヲ尊重仕候て一山相續仕候と申上候儀僞忘ニ相違無御座候次ニ羽黒派修驗等皆以て湯殿山參詣の助力にて相續仕候と申上候儀是又無紛僞ニ御座候御料私領ニ散在候羽黒派修驗の中ニ御朱印黒印の坊跡數多有之候間皆以て相續等とは被申間敷候其外之坊跡も相應の檀縁有之候て相續仕候儀ハ羽黒派ニ不相限諸國の諸寺院一統の事ニ御座候湯殿山參詣の儀ハ一ケ年ニ壹度の儀ニ御座候殊ニハ軒別人別ニ參詣仕候儀ニも無之候得ハ湯殿山道者の助力にて皆以相續仕候と申上候儀皆以僞ニ御座候次ニ四ケ寺訴訟の企ヲ以て被制候と申上候儀今度羽黒山肝心の申分と相見へ申候將又被制候と申候へ共四ケ寺より別て三口の參詣相留候儀ニも無之勿論役錢等取候儀ニも無之候へは相別候筋合決て無之候得共法則懸札へ近年番人附置候間如先年不人知取捨候儀相叶不申候其儘差置候てハ羽黒方所存に相違仕候故彼是と四ケ寺※[#変体仮名え]無實を申候て被制候等と僞申上候事微塵も相違無御坐候前段々申上候通去寛文年中双山出入の節羽黒方にてハ三山共ニ太子の開基にて常火鑽火羽黒根本ニ御座候由緒申上候四ケ寺にては湯殿山ハ別山にて大師開基にて上火切火の法則申上候處湯殿山法流可爲眞言宗の旨兩山※[#変体仮名え]御下知被 仰付候得共於羽黒山ハ右の御下知相背羽黒山ハ表口ニて常火鑽火根本の由山内之儀ハ勿論諸國末流迄申觸候間諸國末派等も湯殿山信心の諸檀家中へ右の趣年來爲申聞候處四ケ寺法則書有之候ては諸國の對道者中へ申分無之候得共前々之通り取捨 事も不相叶其儘差置候ハヽ羽黒口に道者減少ニも可相成候哉と苦痛顛倒の上四ケ寺新法の企を以て被制等と種々無窮の非分申掛候儀相違無之候證據を今度羽黒山申上候訴状の旨趣は去ル寛永寛文兩度の出入ニ申上候事共御座候其上湯殿山ハ修驗極意の本山ニ有之候と申一ケの新像を相加へ申候縱三口の坊中四ケ寺より被制候道理有之候ても四ケ寺自分の制ニハ無之候御公義の御下知ニ御座候得は四ケ寺法則書の案文を以て四ケ寺より被制候と申候ハヽ御公儀の御下知相背候道理相違有之間敷事
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 (羽黒方)
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一古來より是迄仕來候山法の儀ハ譯有之修驗回峰修行の本山ニ御座候て若し一山の修行も相欠候時ハ修驗回峰修行ニ相成不申候依て當山本山兩派修驗ハ大峰熊野三山回峰修行仕候又羽黒一派修驗ハ羽黒三山修行ニ御座候と申上候事
[#ここで字下げ終わり]
 (湯殿四ケ寺方)
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右一段は出入の筋目一轉仕候て湯殿山を以て修驗極意の本山と申上候儀古今未曾有の新儀ニ御坐候羽黒山修驗入峰修行の作法悉く羽黒一山にて相濟湯殿山へ相懸候儀決て無御座候諸國の修驗入峰修行の前後勝手を以て兼ての通り參詣仕候儀は各別の沙汰ニ御座候先年寛永、寛文兩度の公事訴人ハ羽黒山寶前院天宥ニ御座候尤世智辨無双の仁ニ相見候得共湯殿山を以て修驗回峰修行極意の本山等とハ壹分壹點も不申出候勿論可申出道理證據相類候事實も一圓無之候羽黒山の儀は太子の開基ニても寛永己前ハ眞言宗ニ御座候間眞言の山ニ御座候尤山内ニ修驗も可有之候得共皆以兼學ニ可有之候當寺改宗以後も尚以て兼學可有之候然ハ羽黒一山を以も唯修驗とは難申事ニ可有之候何況や湯殿山之儀は開祖太師以來唯眞言の山ニ御座候て今日ニ至迄改變無之候依之寛永以前ハ同宗ニ御座候へ共別山各寺ニ御坐候條相違無之と羽黒修驗修行の作法ハ他山他門の儀ニ御座候へは存不申候得共湯殿川修驗修行の山ニ無之候事ハ實正明白ニ御座候宜本山常山之兩流大峰熊野修行の儀ヲ以て例證と仕候得共是又他山他門の儀ニ御坐供ヘハ委敷儀ハ存不申候得共粗及承候ハ大峰熊野を以回峰修行とは不申候由紀※[#「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61]熊野權現和※[#「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61]吉野藏王權現等ハ各別の靈地ニ御座候へ共大峰と申候ハ熊野山より吉野山迄一山の惣名ニ御座候由大峰と熊野別山ニ無之候故回峰修行と可申道理ニ無之候大峰修行の儀ハ年中春秋兩度の入峰有之候處春峰ハ熊野山より駈入候て吉野へ駈出候由是を順峰と申候由又秋峰ハ吉野山より駈入候て熊野山へ駈出し是を逆峰と申候由併し當時は秋峰修行斗有之由春峰ハ葛城山にて修行有之候由當山本山兩派の修驗回峰修行と申候は大峰葛城駈出候修驗富士山白山立山等の諸國の靈山修行仕候儀ヲ回峰修行と申候由右等の儀ハ道理事實分明ニ相聞候得共湯殿山を以羽黒山内之一名と仕修驗修行の本山と申立大峰熊野を以例證と仕候儀道里支實一切相分不申候先年寛永寛文兩度出入の節羽黒方にて三山一致之樣に申上候得共一々非分の至ニ罷成羽黒湯殿別山と被爲聞召分御下知被仰付候事實正明白ニ御座候處又候三山一致の樣ニ申立其上修驗極意の本山等と申上候儀 御公儀の御下知相背殊ニ修驗山と申儀前代未聞古今未曾有の新義言語同斷の僞に相違無御座候
[#ここで字下げ終わり]
 (羽黒方)
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一右三山執行別當ハ熊野三山修驗職同樣ニて羽黒山ニ限り脇六口ハ湯殿山坊中と相唱候と申上候事
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 (湯殿四ケ寺)
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右一段ハ羽黒山湯殿等を以熊野三山へ相對仕候道理故實壹圓相當不申候縱三山別當と稱來候ても一山自分の稱號ニ可有之候全ク他門より相許候事ハ無之候若羽黒一山内にて三山別當と申候ハヽ尤左樣成由緒も可有之候熊野三山權現ハ祭神本地各別ニ御坐候得共垂跡の神名ハ倶ニ熊野權現に御坐候依之熊野三山ハ同躰異所ニ御座候是以或ハ三所と號し或は三社共稱し又ハ三山共唱申候羽黒湯殿等ハ祭神本地各別の儀ハ勿論垂跡の神躰神名鎭座の前後開祖の人師各別ニ御座候て全ク以て別躰異所に御座候て熊野を以て例證とハ相成不申候若熊野三所權現を以て羽黒三所權現ハ相對仕候ハヽ尤左樣成由緒故實も可有之候羽黒之記ニ左の通り相見へ申候
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一舊記ニ云ク人王十二代景行天皇即位元年辛未六月陸奧國大泉ノ庄血原ノ川上手向ノ丘羽黒陵ニ鎭坐シタモノ乃至巽ミノ嶺ハ※[#「盧+鳥」、第3水準1-94-73]※[#「茲+鳥」、第3水準1-94-66]草《ウガヤフキ》※[#「くさかんむり/亡/月」、下p175-9]不合鎭護之移峰也震麓ハ王依姫|基瑞呈場《モトシルシアラハレ》ナリ艮頂者豊玉姫有鎭坐湖水乃至干時景行二十一年辛卯六月中五日崇神祠ヲ是號[#二]|皇納賀原三神《スベノカハラミハシラ》[#一]云々
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傳記曰上古當國|逆湊從《ザカノミナイ》[#二]海中[#一]|桑枯榾《クワノカレキ》流來夜[#(テ)]々放尤而赫々焉宛如[#二]白日[#一]則奏干朝尸時詔佛巧匠令彫刻聖觀音十一面觀音千手觀音之三躯矣正觀音安[#二]置羽黒十一面[#(ハ)]飛鳥[#(ニ)]安置[#一][#(シ)]千手安置高寺也 云々    ○以上は三山雅集の記事である[#地から5字上げ]
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是等の記を以て考ニ羽黒山の内ニ三所の權現鎭座の靈場有之事分明御座候間如熊野三山羽黒三山執行別當と稱來候事ニ可有之候且飛烏高寺も近代迄羽黒末寺ニて有之候由尤候得は右三山の別當ニも可有之哉何にても次上の兩儀ニ紛有之間敷候尤左樣ニ候ハゝ熊野三山ニ同樣ニて殊勝の古跡ニ御座候湯殿山を以て羽黒三山と申候事道理證據一切無之候別段申上候往古月山七口の名目を以當時湯殿山の名目と仕候同樣の儀御座候次ニ脇六口ハ湯殿山坊中と相唱候と申儀餘處の儀は何ニ相唱候哉四ケ寺の儀は開祖以來不易の別當職ニ御座候間湯殿坊中共又ハ別當共或ハ正別當共相唱來候勿論の事ニ御座候
[#ここで字下げ終わり]
 以上の原被の應答書によりて雙方の主張は結了した。奉行は之に正否の判斷を下だすには更に資料を必要としたので、八月二日庄内藩より御料私領最上領の繪圖を出さしめた。
 寛政三年別當代化城院官惇辭任し、篤行院義研之に替つた。同四年の裁判状況は記録が缺けてゐるので不明であるが、寺社奉行の交替あつた爲めか延引した。只四年中の資料として寛政四年十二月五日羽黒方と眞言四ケ寺にて作製した湯殿山繪圖あつて笹小屋、番人小屋立札の位置より係爭の要所を記入したものである。奉行所の命にて双方にて作つたものらしい。同五年八月十一日寺社奉行脇坂淡路守は莊内留守居今泉十兵衞を召して、羽黒方にて三山別當の稱號を用ひて來た根源について諮問した。依て調査の末三山別當なる稱號は庄内藩にて書き與へたことは一切無いので、羽黒方獨自の稱ふる所であると回答した。
 (庄内史料)
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寛政五丑九月七日
一當十一日脇坂淡路守樣へ御呼出ニ付今泉十兵衞罷出候所寺社役横田亘を以別紙之通御尋御坐候間被成御糺否之義早々可被仰聞候御報次第御挨拶可爲及候十兵衞差出候別紙差下候以上 八月廿日
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猶々羽黒方にてハ三山別當と申義兎角申張從 此方樣御極候由棟札を以證據取候趣ニ御坐候得共右棟札鶴岡より認相納候儀ニハ有之間敷と存候 御宮并本堂建立又ハ建直等之砌嘸御助力相願申候歟御寄進料被遣候譯にて棟札打候付 御名乘次ニ私共寺社奉行役名書付貰度と羽黒より申遣寺社奉行より爲申越候事ニも可有之哉然ハ三山と申處鶴岡認には無之羽黒にて杜撰之儀ニも可有之哉と存候 此等の譯委細御吟味可被仰聞候以上
[#ここから3字下げ]
右御紙面之趣令承知則寺社奉行相尋候所役所扣等には一向無之享保三戌年棟札遣候節三山修行別當等之儀相見不申候寛文六年御裁許之節湯殿山ハ眞言宗羽黒山ハ天臺宗と相濟候故享保之度三山修行別當と認候義有之間敷旨別紙之通申聞候右壹通寛文度之扣寫一綴明和八年棟札懸候節羽黒より申來其節差越候書付寫一通爲差登候被仰越候通棟札此方より認遣候儀ニは無之羽黒より貰度旨申遣候付御官名并私共名前始認遣候故三山と申所ハ羽黒杜撰之儀と被存候湯殿山ハ別山別宗ニ候得共羽黒にて致勸請置自己ニ三山修行別當と唱候儀ニも可有之旨寺社奉行申聞候 以上
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尚々棟札之義御普請奉行相尋候所是又控等も無之旨申聞候被遣候書付貳通控置申候 以上
[#ここで字下げ終わり]
 寛政八年二月五日夜羽黒本堂燒失した。原因は社壇の内より出發したので深秘の怪火と云つてゐる。明和五年改築より二十九年目である。從來本堂の修築は實務に當るのは先達以下であつて、別當は地方の事情に通せぬ爲め工事の内容に深く關知しなかつた。今回の普請についても先達智憲院隱居宥然を主任として山上山下の修驗にて寄附勸化によりて米金を集め、九年か十年より工事を起した。然るに米金の勸化、工事の大工木挽の見積等に於て不正あるを別當代篤行院は發見した。之が爲めか會計係能林院は縊死を遂げた。別當代愈々默視することでないので、工事係自徳院に精算書の呈出を迫つた。修驗等は智憲院隱居宥然をば松山藩修善寺に滯留せしめて、主任の留守を名として不正を隱蔽せんとした。是に於て篤行院は法度書を發布して之を發かんとした。之が爲め工事は停頓するに至つたからして同十年九月修驗等は書を寛永寺に呈出して本堂改築の速進を請ふ所あつた。此結果は記録缺失の爲めに明かで無いが、篤行院と修驗との衝突となり、一方にては眞言四ケ寺との大訴訟ありて一山は内外多事である。
 湯殿山の訴訟裁判は寛政十一年になつてもまだ決審しない。其間九ケ年を經過した。斯く延引した理由は不明であつて寺社奉行の交替ばかりで無いやうだ。同十一年七月六日留守居今泉十兵衞寺社奉行に呼ばれ、寺社奉行植村駿河守家長、脇坂淡路守安重、松平周防守康定列座にて判決を言渡された。羽黒方眞言四ケ寺も同日言渡しあつたと思ふ。其要旨左の如し。
 (莊内史料)
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      羽黒公事御裁斷書
一數年公事ニ相成居たる羽黒山の儀於江戸御片付此方御留守居今泉十兵衞寺社御奉行所へ罷出承候趣書付の寫昨六日松平周防守樣御宅へ御留守居罷出候樣脇坂淡路守樣より御呼出ニ付十兵衞罷出候所植村駿河守樣御列座にて淡路守樣被仰渡候
[#ここから4字下げ]
羽黒山願出候配札に三山執行別當と相認候由其外判本に色々有之候得共御取用難相成三山別當の儀願通相立不申候羽黒山燈明料之御朱印の趣ニ羽黒山別當と計有之候其通相心得可申候旨大日坊大日寺ヘハ眞言四ケ寺湯殿別當にて寛文之夏裁許有之候故其通相心得可申候裝束所へ建札致候得共是ハ不相成候故引取候樣扨羽黒山改宗以前湯殿行法をも致候通參詣の者先立等は是迄通相心得候樣淡路守樣被仰候上野明王院圓福寺奧印致候樣三河口太忠殿手付戸澤冨壽樣御家來三人共ニ其段可申聞之旨被仰渡候
  七月
[#ここで字下げ終わり]
同日原被双方より請書を奉行所に出した。
 (兩造法論)
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      差上申一札之事
私共出入被爲遂御吟味候處三山之惣號羽黒山之由者記録ニ有之迄ニ而難御取用寛文五巳年羽黒山※[#変体仮名え]被下置候御朱印御文談ニ茂羽黒山社領と有之三山社領と者無之羽黒山月山湯殿山別當之趣ニ認メ有之棟札者羽黒山本社ニ有之其上相手方名前も無之自稱ニ相當證據ニ者難成寶前院繼目并年始御禮出府之節羽黒山別當と御奉行帳面ニ有之三山執行別當と者無御坐旁訴訟方申分難立古來より湯殿山内ニ天臺宗裝束小屋有之羽黒山より入會行法等いたし候ニ者無相違羽黒派湯殿行人と唱候方※[#変体仮名え]寶前院より免許之法流ハ本山ニ而も聞濟を以改宗以前と眞言宗法流を取用候上者先御裁許ニ成候節も無之候間相手方申分も難御取用且阿吽院日月寺も古來より湯殿山別當と唱へ配札差出來候者自己之取計ニ而自坊之棟札者是又證據ニ難相成其外無證據申口迄之儀并自己之書留開板之書藉等は双方共難御取用候依之被仰渡候者慶安二丑年湯殿山燈明料之御朱印眞言宗本道寺大日寺※[#変体仮名え]被下置其上寛文六午年湯殿山法流可爲眞言宗旨御裁許も湯殿山別當ハ眞言宗四箇寺と相心得法流致免許以來天臺宗ニ而者湯殿山別當とハ相唱申間敷併古來より羽黒派湯殿行人湯殿山※[#変体仮名え]入會行法いたし候儀者無相違相聞※[#変体仮名え]候間天臺宗羽黒派湯殿行人と唱候分※[#変体仮名え]者仕來通り改宗以前之眞言宗法流ヲ寶前院より免許之上入會行法いたし參詣人※[#変体仮名え]案内等差出候儀者仕來通取計去年中湯殿山内※[#変体仮名え]相手方ニ而立置候別札者 御奉行所より法式御尋之節差出候法則ニ而古來ハ相建中絶ニ候共當時ニ而者何れ新規之儀ニ付取入可申旨被仰渡承知奉畏候若相背候ハヽ御科可被 仰付候仍御請證文差上申所如件
[#ここから3字下げ]
              御朱印地羽州羽黒山別當
              同國飽海郡羽黒山天臺宗寶前院代
寛政十一未年七月六日              聖之院 廣綱 印
              同山麓坊中惣代
                        圓珠院 義應 印
              酒井左衞門尉領分
              同州湯殿山別當
              三河口太忠御代官所
              御朱印地同國村山郡荒橋村
                 新義眞言宗  本道寺
              大井澤村同宗
                        大日寺
              右惣代相手方
                        大日寺 亮鑽 印
              酒井左衞門尉領分
              同國田川郡大網村
                 同宗     注連寺
                 右雲代    大日坊 亮鑽 印
              追而訴訟方※[#変体仮名え]加り候
              戸澤富壽領分
              同國最上郡赤松村
                 羽黒派修驗  阿吽院
              三河口太忠御代官所
              同國村山郡岩根澤村
                 天臺宗    日月寺
                 右惣代    日月寺 地中
                        般若院 周應 印
[#ここから3字下げ]
   寺社御奉行所
前書被仰渡之趣拙僧共儀も一同罷出奉承知候依之奧書印形差上申候 以上
                    上野執頭代
                        明王院
                    觸頭
                        圓福寺
[#ここで字下げ終わり]
 今回の判決を見るに寛文六年の湯殿山眞言法流の判决の範圍より出ぬもので、其範圍に於て羽黒方と湯殿山との關係を更に明確にした。即ち湯殿山の正別當は眞言四ケ寺であつて、羽黒方は湯殿山別當と稱することを禁じ、古來の天臺宗羽黒派湯殿行人は眞言宗法を以て湯殿山に入會行法を爲すことを羽黒山寶前院より允許すること、湯殿山參詣人に案内を出すことは從來の通りとす。只湯殿山内に眞言方にて高札を建てることは今後撤廢することである。次に今回の判決には湯殿山寶前其他の賽錢盜人番小屋については言及しないのは、先きに暴行殺人を行つた羽黒方源正坊其他の入牢處分に撤廢することに決定したものらしい。莊内藩にて入牢吟味に付し後ち江戸に送られた直右衞門、五右衞門及び源正坊以下の宥 は何時であるやは記録缺けて明かで無い。
[#段落冒頭一字下げか]免前記の大訴訟中に寛政七年、十年、十一年、十二年は莊内大凶作で、各修驗の知行米も渡らない。又本社の改築を之れが爲めに影響を來たしたらしい。寛政十一年七月十一日手向の人民徒黨を結んで羽黒代官所及び正穩院を襲つた。之れは配當米の支給を缺いたためらしい。又訴訟判決が七月六日であれば、之れも影響したかとも思れる。依て羽黒では莊内藩に鎭撫を請ひ、鶴岡より足輕一隊を派遣して首魁七人を捕へて鎭撫した。七人をば羽黒役人に渡して引揚げた。
 文化元年八月九日幕府寺社奉行水野出羽守忠邦は莊内藩に湯殿山と眞言四ケ寺の史的關係を書面を以て呈出すべしと達した。依て大日坊注連寺に命して調書を差出さしめ、時に注連寺は無住に付大日坊より九月廿五日差出した。此調書は湯殿山に於ける眞言法流の内容を知るに足るものなれど長文に付略す。

     二 別當莊嚴院覺諄の改革

 文化八年二月十二日羽黒本堂火災に遇ひ燒失した。寛政八年二月火災ありて文化二年四月再建してより僅かに六ケ年にして再び燒けた。工事の經過は明かで無いが、翌九年一月手向天羽又兵衞深秘殿建築費に金百四十兩を寄進したので文化十年に内陣は完成した。
 此年別當代慈心院亮明辭して上※[#「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61]前橋龍藏寺住職となり、東叡山より莊嚴院權僧正覺諄別當に任じ羽黒に入院した。寛文以降羽黒に入院した別當の中で僧正格は大僧正胤海と權僧正覺諄である。別當代は大僧都或は權僧都である。僧正格の別當の入院は羽黒山内の事情が高僧を必要としたので東叡山にて特に選任したのである。依て文化十年前後の山内の状況を見るに、本堂の再建が重大事業であつて、寛政十年の再建には衆徒等の不正行爲あつて別當代と衝突した。今回の再建についても斯る失態無からしめんが爲めには別當代では威壓することできないから別當覺諄を下したものであらう。
 覺諄は日光山醫王院より羽黒別當に轉任したので御|手替《テガワリ》正光院院代法行院を伴つて羽黒に下つた。手替以下の役名は此代に始めて見えたのである。覺諄は直に羽黒の改革に着手し、從來は三先達の勢威別當を凌いて居つたのを改めて別當に權威を與へた。又山内に於ける行事職制職名等に至るまで萬般に亘りて改革を行つた。
 文化十二年三月覺諄は羽黒年中行事の最も重要なる正月七日夜と十二月晦日夜の行事の別當座位について改正を行はんとした。正月七日夜の行事は春峰中であつて、當年の峰中大先達の寺宅で行はれ五日より始まり七日夜で終るもので、之を座主會《ザシユエ》と云つた。十二月大晦日の行事は大明松の神事で本堂で行ひ更に本堂の堂庭で驗競《ケンクラベ》の大行事あり。以上の二大行事の所司者を所司前と云ひ、別當と三先達と二ケ年つゝ輪番にて勤めて來た。三先達の一人が所司前を勤むる時には、座位は別當が次席となるのである。覺諄は別當次席の不合理なるを改あん[#「改めん」か]とした。然るに修驗等は當山古來の例式なる故を以て之に應じない。明和中別當代戒光院亮豊が之を主張したが、同上の理由にて成就しなかつた。
 次に覺諄の改革は文化十三年五月御恩分の整理と座位を定めた。御恩分とは別當御手替の直屬の家來となるもので、手向衆徒の中より選ばれ數十人あり。更に詳しく云へば手向に坊籍を有するもの約三百坊あり。之を平修驗又は平門前といひ、此中より恩分數十人を選ぶ。之を本寺格と云つた。一山の諸役人は此御恩分より選ばるゝのである。
 (自坊年代記)
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文化十三年五月廿四日御恩分不殘御召寄諸事御改被仰出候
一御恩分阿闍梨以上は上座也其次玄良坊父子其次本地職其次は 但大業位座定 其次御恩分は大業座次第に列座也其次ニ嫡子大業次第 其次石井若狹權三郎 役席の時御恩分の次ニ手明頭道者引頭也 御恩分の者帶刀勝手次第被仰 弟子山伏山預り山皇子等御改也 御取上ニ相成候仁ハ其證據無之故又ハ不成慥分又ハ賣渡等仕候者御取上ケ也
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(著者私解)御恩分の座位を定め弟子山伏山預り山皇子等の名を廢し 修驗の資格無い者又は家職を他に讓つたものを除いた
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一御恩分の内より兩人宛年行事相立御恩ニ付萬事願等に至迄年行事へ罷出候て萬事取次等相頼候樣被仰付候
此年年行事眞田七郎左衞門勝木門彌始被仰付勤始申候
石の鳥居より下ハ下ノ取扱上ハ上の取扱二ツニ相分ル也
此度被仰渡候條々年行事ニ相扣置順時ニ相送候樣との事也御恩分大業月日書出置申候
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(私解)石鳥居は手向黄金堂前の鳥居であつて之を以て手向を二分した
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一人別御改の義九月中差上候樣被仰付當年より御恩分年行事の方へ下書出ス御世話眞田七郎左衞門殿也
一九月九日朝出仕等是迄の通ニハ無之名ごうかた心經ハ不讀諸眞言寶號不讀錫杖經も不讀也如何の事哉相知レ不申候惣て出仕の節ハ是迄より別ニ相成候由
[#ここで字下げ終わり]
 前記の九月九日の行事は本社出仕で、鶴岡寺社奉行の登山參詣あり。又手向では晝後より流鏑馬を行ふ。此日の本社に於ける讀經の中で覺諄は名號かだ心經 諸眞言寶號 錫杖經を讀むことを廢した。之を羽黒修驗等は其理を知らずと云つてゐる。案ずるに羽黒は天宥以來眞言より天臺に改宗したとは云へ、總べて眞言の法儀に據つて行事を施行して來たので改宗は名目ばかりであるやうだ。依て覺諄は眞言法儀の撤廢を企でたものである。
 次に手向平門前より出る諸役の所屬職掌席次を左の通り定む。
 (公儀御觸書之寫)
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麓手向村是迄無※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]別惣門前三百五拾軒之處役儀之組頭相立公私の用事相辨候得共政務筋不取締之儀有之間此度改制申渡條如左
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一向後者組頭六人相立貳百八拾軒余割合組分にて觸下取極可申事
一組頭勤向者是迄之通り可爲事
[#ここから5字下げ]
附如是迄令諸役免除事
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
一組頭古役のもの是迄彌大組頭來由已來者改可稱割元勤向者如是迄人足割元境内道橋普請掛等可爲仕來事
一修驗道者惣て是迄の通り麓三百餘軒一般可爲大業座事
一世間邊にて者組頭之次松聖相勤候もの座席其ノ次阿闍梨相勤候面々座次其次道方引頭可爲座席
一重陽坊來京坊兩人平門前阿闍梨相勤候ものの下座道は引頭の上座可申付事
一修驗道の外座配組頭六人者惣恩分部屋住の可爲次席事
一平門前之面々未阿闍梨已下可爲大業座尤修驗職無之並門前之者は修驗職持の可爲下座事
一平門前之内より御内※[#変体仮名え]召候もの者組頭の支配除之
[#ここから5字下げ]
附平門前部屋住御内※[#変体仮名え]召出候節者其もの斗組頭支配可除事
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
一手明役相勤候もの者組頭支配除之代官支配諸役可爲免除尤部屋住※[#変体仮名え]申付候節者組頭支配而已除之諸役免許者無之事但家督は勿論部屋住たり共手明役三役已滿之者へ可申付事
一道者引頭平門前※[#変体仮名え]申付候節者組頭可爲支配郡役免除無之座順者組頭之次座已阿闍梨ニても松聖之次座未阿闍梨にても已阿闍梨之爲次座事
[#ここから5字下げ]
但三役衆徒の内※[#変体仮名え]可申付候道者引用向の邊者代官目附より直ニ可申達候條其外屋並之道者惣て組頭支配ニ可心得事
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
一平門前部屋住のもの者不拘大業家持可爲次座事
[#ここから5字下げ]
但修驗道者惣而制外之事
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
一山守役相勤候もの者列席無之可爲持席屋並之邊ハ組支配勤頭向邊者代官目附普請方より可申付事
右之通今般改被仰出候間一同敬承可仕候都て御門前者從先々修驗道相兼候事故平日とも行跡相愼守修學可致樣誠筈エ候正徳元年被仰出候内修驗道の外者上下の禮式を相糺勿論別當代之下知相違背申間敷候若此旨相背我儘の働仕もの有之候ハヽ曲事可被仰付との趣向後厚相心得貴賤上下之禮儀不作法の儀無之樣一緒可相心得候
   文化十三年
       子五月
     麓町方席順世間道
  組頭役 權大僧都 阿闍梨 重陽坊 來京坊 道者引頭 平門前
右之通相心得可取扱者也
[#ここで字下げ終わり]
 覺諄の改正した山上山下の政務上の役名を見るに、山上では別當の次は御手替一人(別當の次席にて會計を司とる)院代一人(祈祷を司る)、知事一人(修驗に關する事元の小納戸)、山下即ち手向では年行事二人、代官二人(麓の政治外交)、家老(元の大納戸)、大目付(裁判)、目付(同上)、手明四人(警察)、目先(夜番)、此外に穢多あり。組頭八人(修驗を八組に分つ五人組にあらず)此外に五人組の制あり。
 文政元年九月三山勤行作法を刊行した。同三年十二月羽黒本社落成した。文化三年十一月より八ケ年を費し大工三萬五千百三十八人半、工費千八百七十六兩を投じた。之が現在の本社であつて内陣三間四方建坪十四坪、拜殿間口十四間二尺奧行十一間二尺、建坪百八十七坪、向所十一坪あり。同四年六月十七日東叡山は羽黒山社領高配當割を改めた。之れ實は覺諄の改革であるも東叡山の名を以て施行したのである。文政四年の社領總高は千五百三十石一斗四升三合九勺で、其内譯は千五百三十石一斗四升三合九勺は御朱印高、二百四十石三斗は新田増高外に百九石一斗七升八合は手向澤田の増石であつて、總合計一千八百七十九石六斗二升一合九勺である。寛文五年の朱印高より三百四十九石四斗七升八合の増加である。此増石の處分は之迄如何にしたかは明かで無いので、覺諄は之を羽黒權現堂其他の祭供料に配當し、三先達以下の修驗の支給は從前の通り大差は無いことゝした。先づ羽黒權現御供料十七俵八升余が七十俵、常燈料三十五俵が五十俵、燈明蝋燭料三俵を三十俵、新に的立料二十四俵三斗七升一合を計上し、東照宮祭祀料五俵を二十俵、同御供料百俵を新に計上した。其他修驗には一二俵つゝの増加に過ぎない。

     三 羽黒三所大權現を出羽神社と改稱 正一位宣旨
       蜂子皇子謚號を照見大菩薩と賜ふ

 延喜式に田川郡伊弖波神社とありて、其所在地は明かで無い。然るに之れを羽黒本社であるとの説は羽黒修驗及び莊内の史家により唱導さるゝ所であるが、何れも證據が薄弱である。其二三説を左に掲ぐ。
 (莊内物語)
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伊底波の神社は羽黒なりと云事は 國人の古くより言繼たる事なり 小寺信正云百年はかり以前迄伊底波神社と云額羽黒本社に掛しよし土人の語れりなといふのみにて凡て據なし 又羽黒一山にては伊底波神社と云事を嫌ひぬれば羽源記三山雅集なとにも其事見へず
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 (出羽國風土略記)
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      伊底波神社
近代の年代記或は武江根津社常陽又神代系圖等に羽黒を倉稻魂とし或は大物忌神社たといふは 羽黒ハ田川郡にして伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社たる事を知らさる故也 上件にも云へる如く皇野に祭りたる王神の内玉依姫を伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波の神社にして後に本社に本羽黒に移し又今の羽黒に移し羽黒權現と稱したるより伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社の號をは捨たりと見へたり 跡ニ神は〈葺不合尊豊玉姫命〉後世手向※[#変体仮名あ]ら澤二ケ所に移し熊野三所權現といへるニ准し羽黒三所權現と稱せしと見へたり 手向あら澤社堂の内心つき侍る事あれとも憚るべき事あれは筆を措くもの也 熊野三所といふも同所に祭るにはあらす 本宮新宮那智行程はるかに隔たり 羽黒の寺家神佛の差別なくみたりに佛像を立置るゆへに後世混亂して古實を失ふ事歎くに堪えたり (下略)
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 文政四年二月覺諄は羽黒權現を伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社と改稱されんこと、羽黒權現に位階を賜はらんこと、及び蜂子皇子に謚號を贈られんことを合せて朝廷に執奏方を東叡山貫主に依頼した。
 (莊内史料)
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一出羽國田川郡羽黒山月山湯殿山ヲ奧之三山ト唱ヘ諸國參詣所ニ御座候
一人皇三十三代崇峻天皇御子蜂子皇子聖徳太子之御勸ニ依テ被成御出家御弘徳號ヲ能除聖者と奉申 推古天皇癸丑六月羽黒山御開基倉稻魂之命本地ハ聖觀世音被成御感見羽黒山大權現ト崇給フ同年月山上御登嶺月讀命本地ハ阿彌陀如來御示現也 月山大權現ト崇之 同十三乙丑年湯殿山御開基大山祇命本地大日如來被成御感見候常々三山御修行 舒明天皇十三辛丑年十月廿日御遷化ノ御事ニ御座候祠ノ地ヲ皇野ト唱エ御舊跡鉢子村只今以テ呼候
一能除聖者御住山之内羽黒權現并天童之教ニ依密法ヲ被成感徳候テ一世別行之法義弘通被成候是ハ出家之行儀ニ御坐候猶又山伏修驗ノ法義ヲ建立被成候是ハ優婆娑之行儀ニ御坐候本朝山伏修驗之權輿ニ御坐候此法義都節諸國弘通仕候處其後時變ニ隨ヒ漸々衰微ニ及ヒ只今ニテハ關八州甲州信※[#「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61]奧羽等末派貳千數百軒罷成候猶年儀|東山《當カ》本所羽黒ヲ三派之修驗唱フ各立仕候
一羽黒修驗物頭ヲ三山執行職ト申往古ハ山中之衆徒之上※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1-91-26]此職ニ補シ候節ハ蒙 敕許候儀者斷絶仕候得者山中之極※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1-91-26]者別當職※[#変体仮名え]相達當職罷成り候慶長年中ヨリ別當寶前院兼職相成只今以兼帶ニ御坐候
一往古者敕願所ニ御座候 宣旨倫旨等數多有之所中古兵亂寛永延寶兩度災悉皆燒失仕候往古之古記等者無御座候
一羽黒山別當往古之儀者相知不申候永祿年中迄田川郡大寶寺ト申所武藤出羽守ト申城主之レ有り此領主にて二十代之間別當職相勤メ永祿年中別當職ヲ寶前院エ讓之是ヨリ寶前院ニテ四代住持相續仕候寛文申年無主ト相成り東叡山學頭執當之内別當職兼帶仕り享保年ヨリ日光御門主御抱相成り文化十酉年現住被仰付候
一三山共能除聖者開基之靈地御座候月山靈地ニ御座候故能除聖者羽黒山エ月山湯殿山兩大權現合殿被成御勸請羽黒山三所大權現ト崇之御建立ノ御事ニ御坐候
一羽黒三所權現往古之被領飽海田川由利三郡之内數多有之末寺も數多諸國散在罷有大山之儀ニ御座候得者中古漸々衰微仕今時者社領千五百石餘之御朱印頂戴仕候清僧衆徒三十一院妻帶衆徒三百餘坊山麓ニ住居社役相勤申候 延喜式ニ出羽國九座ト有之候田川郡三座之内伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波ト有之ハ羽黒權現之御事ニ御座候百七八十年前迄社檀額モ有之候所何如仕候哉今時者唱迄中絶仕歎敷奉存候 能除聖者ハ能除一切苦般若之經文ニ依テ開悟被成候故世擧テ能除ト唱エ申候遺法千二百余年無怠慢連綿相續仕候得者何卒菩薩號奉蒙 敕許度御事
一羽黒三所大權現ハ從神代鎭座出羽奧州越後信州佐渡五ケ國ノ惣鎭守ト申傳ヘ大社ニモ御座候得者 正一位之神階奉蒙 敕許度御事
右之趣出格之以御憐愍御執奏被成下置候樣奉願度意趣御座候
   巳《(文政四年)》七月        莊嚴院覺諄
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 其後東叡山貫主より朝廷に請願され、文政六年八月蜂子皇子の謚號の照見大菩薩、羽黒三所大權現に正一位を授けられた旨、東叡山より通知あつた。
 (莊内史料)
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去ル辰年冬中 宮樣御願被仰置候羽黒大權現御神階之義并社號復本開山能除聖者謚號其後公儀※[#変体仮名え]も御内伺之上舊臘中表向御執奏ニ相成り當二月中謚號 勅許被仰出三月二十八日京川原御殿※[#変体仮名え]勅使五條中納言殿御參向 勅書御持參謚號叡慮ヲ以 照見大菩薩と宣下 宮樣御名代滋賀院御留主居靈山院御出會被申上御取持 南光坊御留守居遺教院御出席御式万端無御滯被爲濟此御方御名代行嚴院家御所方始向々爲御禮回勤首尾能相濟猶又去月二十二日羽黒三所大權現贈正一位御授之宣下相濟同二十六日御位記等此御方御名代行嚴院定頂戴之即日御禮回勤無殘所相濟候段前書之趣昨夜飛脚ヲ以被仰越候間此旨一同可被得貴意候
   未《(文政六年)》八月
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 (口宣案寫)
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上郷徳大寺大納言
文政六年七月廿二日       宣旨
   出羽國田川郡出羽神社羽黒三所大權現
     宣 奉授正一位位記
       藏人頭右近衞權中將藤原基茂奉
   出羽神社羽黒三所大權現
           右可正一位
       中務※[#「示+煙のつくり」] 祀久著威靈長伸
〈天皇御璽〉 布徳四 悔降福万民宣授
       崇位式 表神明可依前件
[#「中務※[#「示+煙のつくり」]」「布徳四」「崇位式」の三行九字は罫囲み]
  主者施行
    文政六年七月廿二日
      二品行中務卿韶仁親王宣
      從四位上行中務大輔臣藤原朝臣益孝奉
      從四位上行中務少輔臣藤原朝臣維長行
正二位行權大納言兼右近衞大將  臣      經久
正二位行權大納言        臣      通明
正二位行權大納言兼皇太后宮太夫 臣      經豊
正二位行權大納言        臣      家厚
正二位行權大納言        臣
正二位行權大納言        臣      實堅
正二位行權大納言        臣      資愛
從二位行權大納言        臣      隆純
從二位行權大納言        臣      忠熈
權大納言正三位         臣
正二位行權中納言        臣      重能
正二位行權中納言        臣      基豊
正二位行權中納言兼皇太后宮太夫 臣      實萬
正二位行權中納言        臣      通知
正二位行權中納言        臣      寛季
正二位行權中納言        臣      公説
正二位行權中納言兼右衞門督   臣      建房
從二位行權中納言        臣      豊季
正三位行權中納言        臣      俊明
正三位行權中納言左近衞中將   臣  忠香等言
制書如右請奉
制附外施行謹言
  文政六年七月二十三日
制可
 月日辰時正五位下行大外記兼掃部頭造酒正助教中原朝臣師徳
                 左中辨
  關白從一位行左大臣
  大政大臣 闕
  右大臣正二位朝臣
  内大臣正二位兼行左近衞大將朝臣
  二品行式部卿孝仁親王
  正二位行式部大輔爲徳
  參議從三位兼行左大辨  經則
  告出羽神社羽黒三所大權現奉
  制書如右符到奉行
  從四位下行式部少輔兼越中守  寛貞
             大録  常久
             少録
             少録
        敕能除聖者以濟度衆生爲巳任以大悲闡
〈天皇/御璽〉 提爲其願光照黒山天童之告不空跡見束
        海聖徳之勸愈眞積海嶽抖※[#「てへん+數」、第3水準1-85-5]之功修霜雪
        辛苦之行權化已遠隔千二百之年遺芳尚
        馨欽未曾有之徳因下特寵贈以徽號宜
        稱照見大菩薩
          文政六年二月十三日
[#「能除聖者」「爲其願光」「聖徳之勸」の三行十二文字は罫囲み]
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 以上の勅宣は京都より江戸東叡山に下賜されたとの報により、羽黒より迎使上下六人江戸に登り九月七日羽黒に着いた。各社に納められ、十八、十九兩日式典を擧行し、莊内酒井氏よりも使者を以て代拜あつた。
 (日記)
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文政六年癸未三月廿七日
兼而四ケ年以前願上候本社神階開山謚號願之通舊臘表向御願立追々成就ニ付今曉出立出府上下六人四月八日松林院※[#変体仮名え]着山 謚號ハ二月廿七日京都川原御殿※[#変体仮名え]敕使參向首尾能相濟 神階ハ七月廿二敕許 九月七日歸山 八日本社※[#変体仮名え]御位記等開山堂※[#変体仮名え]敕書相納 一山惣出委細如列記 九月十八日於本社供養法華懴法等 酒井家代拜加賀山一學登山如五月饗應等同樣白銀二枚御奉納之 同十九日開山堂供養於本社執行常行三昧万卷心經庄内一派昨今七十人程出仕今日料理賜之神子神人神領名主迄料理賜之 酒井家※[#変体仮名え]御札差上之昨日代參等一禮申遣役家※[#変体仮名え]御札守神酒遣之
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 勅宣羽黒に下だるの報知あるや、手向より羽黒に至る沿道にある墓碑は悉く他に移され、殊に五重塔附近には多くの墓碑あつたそうだが手向に移した。勅宣は高約二尺、幅二尺二三寸、長約三尺五寸の内筥に納め、更に外筥に入れられ、外筥は高三尺、巾二尺五寸、長四尺位の屋形漆塗り、之を五個の菊花紋付の白絹を以て覆ひ、之を數人の白丁によつて舁がれたものらしい。今勅宣を入れた内外筥は山上寶庫に保存されてある。
 此時本堂並に開山堂の額は左の如く書替へられ、今は寶庫に保存せらる。
 (公猷法親王染筆ノ額)
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(表) 三山開基照見大菩薩
(裏)      一品公猷親王書
    文政八乙丙歳十一月二十日
(表) 出羽神社
(裏) 文政六〈癸 / 未〉八月二十八日
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 (承眞法親王染筆掛物)
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正《□》一位羽黒三所大權現
〈承眞/之章〉[#罫囲み]  〈字/正福〉[#罫囲み]
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 文政八年一月羽黒の軍役を調べて届出た。之れは幕府の命によつたもので攘夷の軍備である。
 (會所日記)
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   覺
一通數貳百九拾本
一御走軍役三千百四十人
一勤人足三千百三拾七人半
一過分人足千五百八人四分一
一未進人足七百八人半
右之通相違無御座候 以上
  (文政八年)              割元
      正月                櫻林坊 印
     御役所
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 別當覺諄文政八年十一月八日老病に付隱退し、手向蓮臺寺を修覆して之に居る。隱居號を摩訶衍院と云つた。又東叡山貫主より隱居號を深達院と賜はる。文化十年より十三年間の在職であつて、其間諸般の改革を途げ法儀會計職制に至るまで整備を見、且つ之迄紛擾絶ゆること無かつた羽黒は是に至りて靜謐に歸した。之れ一に覺諄の人格と其才能の顯露である。依て羽黒では覺諄を中興之祖としたのは至當である。弘化四年八月十一日蓮臺寺に示寂す、年八十六。山上の破尺堂に葬り、南谷に彰徳の碑を建つ。
 (南谷覺諄碑銘)
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梵 深達院權僧正覺諄塔
權僧正諄師者越前人也幼穉入本州靈應山平泉寺薙髮及長登北嶺又遊東叡遂至日光山醫王院文化十年癸酉蒙拔萃選奉法王之命移轉爲當山主茲山久曠主宥公己遷至公始住持焉公乃改制山中法儀之規則整正俗間流末之弊風以再建本社興復祖業之功不遑牧擧焉 法王嘉賞謂之子者可謂羽山中興之祖矣 文政八年乙酉辭職修蓮臺廢寺以老焉於是恩賜深達院之號嗚呼師之功徳如是其不頌乎乃樹碑録銘以示後來銘曰
  經營修理  祠宇一新  丹碧煥發
  以嚴其新  中興之祖  佛家忠臣
    弘化四年丁未八月十一日示寂
                     大僧都 澄海 記
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 覺諄は羽黒に殘年を送る決意あつたからして、献身の事業を羽黒に殘したことであらう。又和歌俳諧を好み俳號を一味堂といひ、文政八年一月南谷に芭蕉の句碑を立てゝ南谿集を著はし、五月一日野口に發句塔を立てた。

     四 幕末の靜謐

 羽黒の山上山下の政務上の職名は、時代により或は別當又別當代によりて變化したことは之迄述べた。文化十年莊嚴院覺諄が別當となつて入院した時に、御手替、院代、知事を伴つて來た。爾後廢藩に至るまで代々の別當はこの職制を用ひた。以上は山上の政務上の職名であつて、法務上の職制は從來の通りである。御手替は別當次席で會計を司どり、院代は別當代理であるらしく、知事は修驗に關する事務を取扱つた。山下の職制は代官、大目附、年行事、家老、藏方、組頭、手明、山守などである。
 文政八年十月別當覺諄隱退し、楞伽《リヤウガ》院山海別當となりて入院し、手替は正光院、院代は徳門であつて前代と同じである。羽黒は文政以降明治に至る間は平隱にして記すべき事は殆んと無いのである。之は徳川末期の世態にも據ることであらうが、又覺諄權僧正の献身的改革が山内の人心を安定せしめた結果であらうと思ふ。
 文政十一年四月四日黄金堂大破に付修覆の爲め圓妙院より一ケ月に三度づゝの托鉢を代官所に願出た。修覆の程度は明かで無い。天保四年十二月幕府寺社奉行の命にて羽黒修驗衣體并法用之具覺を差出した。同五年七月院代徳門院辭退し法行院院代となる。同六年九月近年凶作續き手向村民困窮に付米庫を設け神領米の拂下を願出たが許されない。同六年九月幕府諸國川普請に付領地高割役銀を徴收さる。羽黒社領高役銀三十二匁六分四厘五毛、百石に付二十九匁九分である。同六年十一月院代欠員にて手替正光院兼務の處、上野佛頂院の弟子眞修院下着院代となりたるにより正光院の兼務を解いた。同七年十月別當楞伽院山海上州世良田長樂寺に轉住を命ぜられ、日光山醫王院放光明院覺音羽黒別當に任ぜられた。然るに山麓の衆徒等は山海の恩義を慕ひ別當留任を願出たが許されない。
 (楞伽院僧正世良田へ御轉住ニ關スル記録)
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今般楞伽院家參府ニ付麓小前の者共騷立所々※[#変体仮名え]相集相談等いたし候趣薄々相聞何事ニ候哉と甚心配仕内々隱密を以相糺候所是迄五ケ年來打續大風大地震洪水等種々の天災其上不道旁ニ付可及渇命ニも候所是迄莫太の救等にて露命相續此節※[#「てへん+丙」、第4水準2-13-2]轉住ニも相成候てハ實ニ相續難相成畢竟ハ度々救等相願候ニ付うるさき事と相心得見捨候て他所轉住被致候儀と愚昧の者一圖ニ存込此者は三度の食事壹度致候共救等相煩間敷候間是非致永住呉候樣相願万一取上ケ無之候ハヽ江戸表迄罷出候ても強て奉願候趣誠ニ親ニ相離候ことく相歎領頭共種々理解申聞候ても聞入無之組々頭※[#変体仮名え]書付ヲ以テ願出候所余り大勢徒黨ケ間敷相聞候ニ付右願書は組頭共※[#変体仮名え]預置麓惣代として組頭連印を以願出候ニ付不得止事手替正光院迄及沙汰内々者院家※[#変体仮名え]も申聞所最初より當山の土ニ相成候覺悟ニ付麓の者共度々救願位の儀にて他所轉住は不致候得共不寄存被爲召致參府嚴命致違背候得は身分ニも相拘り候次第ニ付是迄不行届ニは候得共野衲の世話ニ相成候心得候ハヽ野衲身分不爲の※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]不願出候樣篤と理解申聞願書御下ケ候樣被申候得共 (中略) 依之甚以奉恐入候得共院家儀何卒格外之御憐愍を以先住の例も御座候間當山にて極官昇進被仰付被致永住候樣被成下候ハヽ山麓の者共望に相叶 (下略)
  十月                     勸善院
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 此願書は東叡山貫主まで申達されたが、東叡山でも覺諄の羽黒改革後に於ける功績を顧慮して、楞伽院の轉住後に放光明院覺音を別當に任じたのである。依て十一月十五日東叡山執當より羽黒衆徒に左の口達あり。
 (同書)
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      執當衆より御口達
        覺
羽黒山楞伽院事順轉之儀ニ付被爲召候右ニ付深達院權僧正〈○覺諄〉は彼地入山以來本社再建始神階社號開祖之謚號諸堂社之建立寺院之再營山麓數年不靜謐本坊家來勤向も年來不束成樣子之所糺明之上改制取締方悉行届并一山顯密之法儀論義等策進及一派修驗道興隆の遂研窮古今莫太の勤功於 宮樣も常々御感之御意被爲有於野院共も平日感嘆不淺の所此度楞伽院順轉之儀ニ付右深達院莫太の勤功被爲思召改制取締之廉近年緩候哉も被爲聽召候て取締方殊ニ深達院在命ニも有之間爲安心其許可被差遣之 御内慮ニ候取締之儀深達院※[#変体仮名え]承合永久山麓靜謐の職務無等閑樣ニと存候依て深達院爲安心早々飛脚差立可被申
右は九月廿日日光於御本坊御供之執當龍王院被仰渡十一月廿五日轉住被蒙仰候則日兩執當衆御列座候て深達院莫太勤功深感被爲思召候間猶此上精力之繼素意寺務專要の旨被仰渡其後僧正樣御着府去ル八日御參殿准后宮樣※[#変体仮名え]御機嫌御伺相濟候後新宮樣※[#変体仮名え]御機嫌御伺御目見の砌此度日光醫王院轉住は全深達院僧正勤功と御直ニ御意被爲有 年堅固御感不斜候て暫の内御咄等被爲在候事
右御次第ニ候間此度御轉任被蒙仰御在職の儀御太切被思召候萬端僧正樣御在職中の心得を以山上老分一山并諸役人勤務候樣思召候此旨爲此旨爲心得申達候夫々※[#変体仮名え]相達可被置候
  十一月十五日
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 天保八年二月二十三日御手替藥樹院、院代徳門院羽黒に着した。同十年六月九日三先達住職繼目の時は七月廿日峰中の百ケ日前に相續すれば、其年の母理修行を施行するを得と達した。同十一年五月羽黒一派官職法衣規則を東叡山に差出した。同十三年三月吹越籠堂改築に付勸化廻村を莊内藩に願出た。同十四年別當放光明院覺音辭任し、隆信院實圓別當に任じ三月卅日着山した。御手替藥樹院、院代徳門院である。
 弘化四年別當隆信院實圓辭し海龍王院澄海日光山龍光院より當山別當に任じた。權僧正である。同年八月十一日覺諄僧正手向蓮臺寺に於て示寂す、年八十六。山上破尺堂に葬る。
 天宥以下大島流罪以後一百八十二年となつた。天宥以下の衆徒の中には赦免されないで島に死去したものあり、又天宥は赦免無くして延寶二年流罪地で遷化し、遷化後二回赦免を願出たが許されなかつた。嘉永二年十一月別當龍王院澄海より東叡山に願書を差出し、天宥以下の罪を赦免して追福佛善の供養を行はんことを慕府に請願方を願出た。
 (莊内史料)
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   奉願覺
                  羽州羽黒山別當
                     前  寶前院天宥
                  同    院代
                        大乘坊
右寛文七未年當山衆徒爭論之儀及公訴同年九月より於寺社御奉行所段々御吟味有之翌年四月四日井上河内守殿御掛りにて伊豆國大島※[#変体仮名え]兩人共流罪被仰付伴六藏殿※[#変体仮名え]御渡ニ相成延寶二寅年十月於大島病死仕候
                  羽黒山衆徒
                        寶積院
                  寶前院家來
                        眞田式部
                        眞田隼人
                        粕谷又右衞門
                  麓修驗
                        眞田與左衞門
                        常善坊
                        願京坊
右八人之者天宥※[#変体仮名え]依一味之罪科羽黒山十里四方御追放之旨寛文八年十二月十三日井上河内守殿被仰渡候
                        玄陽院
                        經堂院
                        眞田四兵衞
                        勝木平左衞門
                        田村嘉兵衞
                        覺成坊
                        安養坊
右七人之者同罪ニ被仰付於羽黒山十一月朔日申渡都合七人御咎の後追々病死仕百年餘ニ相成候得共追福等も難相成氣之毒千万の儀ニ御座候何卒格別之以 御慈悲今般大猷院樣御遠忌之御赦ニ被仰立被下置候樣奉願候此段宜樣御取斗奉願候 以上
 (嘉永二年)               羽州
   酉十一月                  龍王院
    眞覺院法印
    信解院法印
羽州羽黒山別當寶前院住持天宥事寛永四卯年より寛文八年迄住職罷在候事寛文七未年六月同山衆徒之内にて五人訴状相認東叡山※[#変体仮名え]願出候趣意ハ別當天宥并院代大乘坊政道我儘の由申上候依之別當并大乘防返答書持參出府可仕旨七月中被仰越則返答書持參八月十八日羽黒山發足出府仕候九月五日於 東叡山御殿執當衆圓覺院住心院年行事泉龍院寺覺院僧正正方凌雲院檀那院御列席にて双方被召出御尋有之同十二日又々御吟味有之候處寺社御奉行所ニおゐて右之一件御吟味有之間双方共罷出候樣との御内意有之御差出ニ相成候趣同廿七日寺社御奉行小笠原山城守殿※[#変体仮名え]双方罷出對決御座候其後度々被召出御吟味有之候其節寺社御奉行衆者井上河内守殿加賀爪甲斐守殿小笠原山城守殿にて御座候翌寛文八申年四月四日御評定所※[#変体仮名え]双方被召出別當天宥并院代大乘坊伊豆國大島※[#変体仮名え]遠流被仰付其席にて伴六藏※[#変体仮名え]御預被仰渡候右ニ付天宥隨身山麓之者七人天宥依一味之科羽黒山拾里四方追放被仰付候天宥儀ハ延寶二年寅十月廿四日於大島命終仕候寛文八年流罪被仰付當酉年迄百八拾二年ニ罷成候得共是迄追福作善も無候事難相成譜代相傳之家來共ハ勿論山麓一同朝暮悲歡仕罷在候間何卒今般 大猷院樣御遠忌御追福之御赦ニ被仰立下置候樣仕度奉願上候尤先年御神忌ニも奉願其後嚴有院樣百五拾回 御忌ニも奉願天保八酉年 御代替恐悦之御赦にも奉願亦天保十一子年 淨觀院樣御追福之御赦ニも奉願上候此度者格別之御遠忌ニも被爲在候間何卒出格之以御慈悲御赦被成下置候樣御仰立被下置度幾重ニも奉願上候此段宜御沙汰奉願候 以上
  酉十一月                羽州  龍王院
    眞覺院法印
    信解院法印
右者來戌年公儀御年頭御禮御參府ニ付御願立ニ相成候尤御歸山の上相伺認入置
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 此赦免願の結果は明かで無いが、之迄とても屡願出たるも幕府の許可は無かつたのを見るに、天宥の罪科の重かつたことは明かである。
 文久元年十月別當龍王院澄海辭任した。在職十三年に及び手向蓮臺寺に隱居した。靈鷲山院權僧正官田別當に任ぜられ入院した。官田は明治後の廢佛毀釋に至る最終の別當である。官田村山郡船町に生れ、山寺山立石寺弟子となり、上野福聖院住職にて東叡山貫主の御内陣係を勤め、權僧正に任じて羽黒別當となつた。
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