第一期 元和元年より寛文八年に至る

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     一 最上氏改易後の莊内藩酒井氏との關係

 慶長五年最上義光庄内併領後は最上家と羽黒との關係頗る密接となり、月山、羽黒山に於ける常塔は悉く最上氏の寄進によりて修築され、社領も舊來のまゝ寄進された。要するに義光以下の三山に對する信仰の厚かつた結果に外ならぬ。斯く最上家の信仰厚くなるに伴つて山形と羽黒との往復頻繁に行はるゝことゝなつた。その通路は山形より白岩を經て六十里越の中程より岩根澤に登り、之より月山にも羽黒にも至るに便である。岩根澤には羽黒末の日月寺ありて、この日月寺が最上家と羽黒との信仰祈祷などの仲介を爲したやうで、日月寺も最上家の擁護によりて漸次大きくなつた。隨つて羽黒の高僧は一度びは日月寺に住職を勤め又羽黒の執行別當は日月寺住職より嗣ぐのが恒例となつた。慶俊、宥源、宥俊、天宥に至るまで日月寺より羽黒執行別當となつたのである。冬期間の雪中には山形羽黒の交通杜絶につき、最上家の祈祷を日月寺に取扱はしめ、其經費多端なるを以て、羽黒社領千五百石の内田川郡村杉村分三百石を岩根澤附近の地と取替いさせて其費に充てたといふ記事あるが信ぜられない。
 (羽黒山中興覺書)
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一宥俊代別當料三百石義晃公より被爲寄附 宥俊被願候ハ 雪中之刻羽黒より山形※[#変体仮名え]往行不相成候間 岩根澤於日月寺冬中御祈祷可相勤候間 右三百石之御寄附米岩根澤近所におゐて被下置度由依願岩根澤領於山内御寄附給る也 義晃公御遠行後駿河守家親公御代宥俊別當職を天宥ニ附與し 宥俊執行職ニ昇進す 依之宥俊願ニ付三百石の御寄附米今度羽黒近邊村杉村にて替地ニ給る也 則美濃守替地證文家親公御黒印并美濃守 〈○原頼秀大山城代/下治右衞門の家老〉 物成之書付右三通別當所にあり
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 之に關する原美濃の文書も寫も無く、最上氏改易後村杉に引戻したのは最も信ぜられぬ。只岩根澤日月寺は最上氏時代には重要なる地位にあつたことは明かである。
 義光は最上家最後の英傑であつたが、肉身の和を缺き、慶長八年嫡男義康を殺し、同十九年一月義光歿した後は次男家親家督した。之より將士二派に分れて暗鬪を續け、元和三年三月二日家親三十六歳にて歿す。或は謀臣の毒殺とも傳ふ。子源五郎家信嗣いだ。僅かに十二歳である。元和八年七月十七日内訌の爲め家信〈改名/義俊〉は改易を命ぜられ、近江蒲生郡大森五千石に移された。
 最上氏の内訌が羽黒にも影響したことは前編に述べた。羽黒に家信太業補任状なる文書あつて、元和八年四月五日執行宥俊より出したものであるが信ずることできぬ。
 學頭職は尊量慶長十九年四月斷罪後良譽其職を嗣いたが、間も無く死去し、油利郡矢嶋の眞言僧寶昌院主となり學頭を嗣いた。然るに天宥の代に失火して櫻小路より峰ノ藥師まで燒失したので、眞言僧は問罪を怖れて逐轉した。之より寶昌院は再建に至らず。學頭職は絶えた。
 執行宥源は同慶俊の弟子で執行職に在ること三十年にして元和三年七月二十八日示寂した。年六十八である。宥源生前別當を弟子宥俊に讓り、執行をば一山の長老空照坊〈後の正穩院〉源慶に襲がしめた。源慶老衰したるにや翌春二月遷化したるを以て、宥俊執行を兼ねた。
 (羽黒山中興覺書)
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一元和三巳年七月廿八日宥源入寂六十八才也 前年別當職を宥俊に附與し 執行職は一山の極※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1-91-26]たるによつて空照坊源慶昇進す 同年霜月執行の衣替あり 翌午年正月十八日病にかゝり同四月十八日入寂す 源慶病中爲祈祷御内陣御戸前柱に金箔を置く 此年別當執行等宥俊兼帶す
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 (密法傳持血脉)
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金剛佛子正大僧都法印宥源寶善坊 〈弟子七人一番死去 二番衣替ニテ死去三番ハ還俗 四番任位也〉 〈宥源執行ヲタモツ事卅年六十五才ニテ七月廿八日往生〉
金剛佛子正大僧都法印源慶空照坊 〈任位次春二月落命/弟子四人一番目任位〉
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 元來別當と執行とは別職であつて、別當は全山の總務で、執行は月山の夏期の祭祀祈祷を司どる職である。依て執行は夏期三旬の所務であれば、別當と兼ねるを便とした。然るに月山三旬の所務は老體病弱ではできぬことであれば、執行と別當を別人を以て任ずることもあるやうだ。又執行は一山中最も重い役であれば、一山中の長老を以て任ずる。空照坊源慶は長老たるを以て執行に任ぜられたが、翌春遷化したのであれば、月山々上の所務は遂げなかつたでは無いかと思ふ。又宥源が別當と執行を別人に任じたのは異例であつて、只一に源慶の長老にして死期切迫したのに同情して榮位に就かしめたのであらう。斯る例は此前にもあつて、慶長十一年羽黒本社棟札に、時之夏一寶星院尊量とあり。尊量は學頭であつて別當でも執行でも無いが、臨時に當年の夏一職を勤めたものと思はる。同棟札に時之執行寶前院宥源とあり。
 元和八年最上氏の改易となるや、羽黒社領の租税は三年間停止に遭つた。そこで威徳院秀意は江戸に上り幕府に交渉し三ケ年後に辛うじて復舊したと中興覺書にあるが信じられぬ。
 元和八年七月最上氏改易後最上領七十萬石は數藩に分割され、三山と隣接諸藩は庄内十四萬石酒井宮内太輔忠勝、新庄六萬石戸澤右京亮政盛、白岩八千石酒井長門守忠重(忠勝の弟)、左澤一萬二千石酒井右近(忠勝の弟)である。
 最上氏に代つて羽黒の大檀那となつたのは莊内酒井氏であつて、之迄山形最上氏との關係上岩根澤日月寺が重要なる地位にあつたが、之れからは莊内酒井氏との關係もあつて、手向口の大發展を遂ぐることゝなつた。忠勝莊内入部當初に毎年常燈二個づつ寄進の代とし金十二兩づつを納めたとか、二代攝津守忠當米一千俵を寄進した羽黒方記録あるが信じられない。次に酒井氏入部前までは庄内人民は鳥獸の肉を食はなかつた。酒井氏入部に及んで鳥獸を食し、又湯殿山月山より流るゝ所の河川の水を以て田畠を耕作することゝなつたのは、家運長久に戻るの理由にて、酒井氏に毎年米百俵、燈明油料二十四兩を納めしめて毎月十四日及び四節に祈祷を爲すことゝしたのは、地方の土俗學上に興昧[#「興味」か]あることである。
 (羽黒山中興覺書)
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宮内太輔樣御入部以來宥俊を尊敬被成候事大方ならす 御子息小五郎殿御二男左近殿取手の御契約あり 就夫庄内古例之義御尋ニ付申上候 往古羽黒山の領地たる故大|本寺《(寶カ)》と號せる也 其後鶴ケ岡といふ酒田を龜ケ崎と改む 仍て羽黒山別當の兼帶川南在家共に鳥獸を食せす 其故ハ庄内領川南羽黒山社領の義故鳥獸を喰へは子孫必不繁昌也且湯殿月山よりの流水にて耕作をなす 然は御子孫御武運長久の御祈祷權現の寶前に於て 毎月十五日並四節之護摩執行米として毎年米百表燈明ニ□此油料金廿四兩宛永代可被爲献旨願書御内陣へ納有之 仍て毎月十五日には衆徒出仕御祈祷無懈怠有之候 然所境論出入ニ付右米百俵と常燈料廿四兩御寄附無之候付御祈祷止事ニ相成候
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 之も確固たる史料の無いので信僞明かて無いが、酒井氏入部前まては鳥獸の肉を食はなかつたのは事實らしい。
 手向堂庭の黄金堂の東方に下居《ヲリヰ》宮あり、下居山中禪寺と云つた。下居の意義は三山權現毎歳十月一日山より下だり出雲大社に幸きし同月晦日下居宮に歸座し、十一月九日迄居らるゝとの義である。之は本朝故實に太上天皇を「下居のみかど」と云つたのに據つたので、其創建は室町期の吉田神道に起因するものと思ふ。此宮の前に二王門あつて、二王像は寛永十年執行宥俊京都の大佛師康音に彫造せしめ、同年四月中に完成して安置したことは、二王の腹藏文書によりて知ることができた。
 (下居宮二王像腹藏文書)
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  梵字 羽黒山手向中禪等二王尊 願主執行法印宥俊敬白
(文意は單なる自家宣傳に付略す)……以此※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]目全造立於此二王故偈仰甚深々々右如件
                   大佛師宮内卿
  寛永十〈癸 / 酉〉年孟夏中澣音震      康音(花押)
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 この下居宮は明治初年の神佛分離の時廢し、二王門は黄金堂前に移して山門とした。大正六年暴風にて杉樹倒れて二王門を破り二王像も破損した。此時腹中より前記の文書を發見したといふことである。

     二 別當天宥湯殿山四ケ寺を訴へて羽黒末と爲さんとして敗訴す

 羽黒は別當天宥によりて一大發展を遂げたが、又天宥によりて一大損失を爲した。其功罪何れが大なるやは爾後に述ぶる所によりて判斷されたい。而しながら天宥は羽黒修驗中の傑僧であることは異論の無い所である。
 天宥慶長十一年正月十一日村山郡白岩に生れたとあるも、死去年月年齡によれば文祿三年の誕生に當る。姓は公平、幼名を左京と云つた。七歳にて岩根澤日月寺に入り、宥俊の弟子となり、名を宥譽と云つた。元和中宥俊は別當職を天宥に讓り、宥俊は執行にとゝまつた。天宥の羽黒に移つた年月は明かで無いが、元和四年、同五年には天宥は大先達寶善坊宥譽にて峰中の大先達を勤めてゐるを見れば、之より前に別當となつたものである。寶善坊は別當の坊名であるからである。寛永七年別當となつたとの説あるは合はぬ。
 之より先き徳川幕府では全國の修驗道を統制せんことを企てた。我國の修驗道は古來熊野派(天台宗)、吉野派(眞言宗)、羽黒派(眞言宗)の三大修驗道を始めとして、室町末期より戰國となるに及んで各地の修驗山は皆獨立の形ちとなつて信徒の爭奪行はれ、殊に慶長八年には當山(吉野)、本山(熊野)兩派の爭論あつて豊臣秀吉の裁斷あり。同十八年重て兩派の爭論あり。徳川家康之を裁斷し、五月二十一日兩派の混亂を禁じ全國の信徒をして所屬を明かにさせた。同年六月六日徳川秀忠も同樣の掟を兩派の門主に達した。此頃本山派(熊野天台)修驗道の勢力盛んにして、全國の大半は熊野派である。依て天台系の聖護院をして全國の修驗道を總管せしめんとしたが、眞言系の三寶院之を承認せざるを以て兩派の何れかに所屬させることゝした。然るに徳川氏は熊野派を信仰しておつたので、家康は慶長十九年二月全國に發布して天台宗を第一とし、其他の諸宗を下位と爲し、又清僧と妻帶僧の住居を別にし、清僧の町屋在家に居住するを禁止した。
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      法家掟
   權現樣於[#二]駿州[#一]被[#レ]爲[#二]仰付[#一]御定目
一天台宗を爲[#二]最上と[#二][#二は「最上」の下か]法相・眞言・禪宗・淨土・日蓮・一向・時宗・山伏律僧是以可[#レ]爲[#レ]順事
一神主社務職下知之禰宜社家下輩之神人神女役人等可[#レ]爲[#二]各勤[#一]事
一清僧之出家町屋在家居宅非[#二]本意[#一]爲[#二]重科[#一]可[#レ]令[#レ]拔事
一雖[#レ]爲[#二]法中山伏[#一]並一向宗ハ依[#二]妻帶[#一]町屋在家ニ居住可[#レ]任[#二]先規[#一]事
一願人・古茂僧・行人・鐘打・勸進之輩早歩土足たる故可[#レ]爲[#二]乞食同前[#一] 就中行人者一世之爲[#二]執行[#一]故村里町屋不[#二]可[#二]指置[#一]事
一清僧之出家町屋在家に令[#二]居住[#一]者願人と可[#レ]爲[#二]同前[#一]事
一陰陽師と號輩在家宅爲[#二]先例[#一]事
右宗々道々法式可[#レ]爲[#二]肝要[#一]仍如[#レ]件
   慶長十九年二月  日
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 羽黒は中古以來眞言宗吉野派にて當山派三寶院に屬したのが、室町期の吉田神道の興隆に乘じて、三山の開山と羽黒修驗道の開祖を替へて獨立した。之より羽黒にて衆徒の修行に應じて位階補任を出したのである。然るに慶長十八年五六月兩度の幕府の掟によりて羽黒は大なる衝動を受けた。羽黒は之迄獨立して繁昌して來た山であるが、之れからは吉野、熊野何れかに所屬せねばならぬことゝなつた。續いて同十九年二月の掟によりて幕府は天台宗を以て最上位とし順位を定め眞言宗は次位となつた。之より先き家康は、下野宗光寺天海を信じ、慶長十七年天海を武藏國仙波郡星野山無量寺を改修して之に移らしめ、東叡山喜多院と改稱し、關東天台宗の總本山と爲した。次いで京都の比叡山延暦寺に傚つて江戸上野に東叡山寛永寺建築の工事を起したのは寛永二年二月で同四年四月に完成した。
 是に於て羽黒は獨立を失ひ、幕府で天台修驗を尊崇することになつては、羽黒三山を圍繞する所の諸藩を始めとして、之迄檀家であつた所の關東奧羽の信徒も天臺に傾くことは當然である。依て天宥は羽黒を眞言より天臺に改宗し、時代の趨勢に乘じて、羽黒の繁榮を企圖したのである。偶々寛永十一年正月宥俊天宥江戸に登り、執行別當繼目の挨拶を徳川家並に莊内藩主酒井氏に述べ、更に上野寛永寺に天海を訪ねた。
 (羽黒山中興覺書)
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一寛永十一年戌正月宥俊天宥師弟共江戸出府繼目之御禮登城板札二枚卷數一束一本末廣扇子右之品天宥献上 又唐糸一臺末廣ハ宥俊献す 酒井攝津守樣へ卷數御守 御老中へ天宥御進物杉原紙二束御卷數末廣右之品天宥より進之 天海僧正樣へ卷物貳卷末廣天宥より進之
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 之は天宥の天海に面會した最初の記事であつて改宗の準備であると思ふ。又案ずるに天宥が異宗の天海に面會したのは此時既に改宗の決心を持つて、天海に改宗に伴ふ眞言四ケ寺を如何なる方法を以て改宗せしむるかにつき天海と協議したものらしい。依て先づ改宗前に四ケ寺は羽黒末寺であるといふ訴訟を起す方針を決したものゝやうである。
 此訴訟の經過を述ぶる前に、眞言四ケ寺と羽黒との古來の關係を詳かにして置く必要あり。湯殿山は眞言宗即身成佛の靈山であつて、之に登る參道に七口あり。田川郡羽黒、大日坊、注連寺の三口、村山郡大井澤、本道寺、岩根澤の三口、最上郡肘折口である。七口は湯殿山の登山口に本寺と若干の坊宿あつて、其口より登る道者の宿泊案内をする。七口は皆眞言宗であるが、最初は皆獨立して發達したものらしい。後世羽黒山が繁榮するに及んで臂折、岩根澤は羽黒末となつたが、大日坊、注連寺、大井澤、本道寺の四口は羽黒の支配を受けないで古くより獨立して來た。この四口を眞言四ケ寺と唱ふるのである。羽黒には修驗道あるが、四ケ寺には修驗道無くして行人あり。湯殿山を本山にし大日如來を本地佛として、即身成佛を究極の目的とすることは何れも同じである。
 斯の如く眞言四ケ寺は羽黒方とは何等の關係を有しない所の個々獨立の寺院であれば、湯殿山を中心にして道者の爭奪を始めとして諸般のことにつき紛爭を續けて來たものらしい。是に於れ天宥は全山を統一して四ケ寺をも羽黒末と爲し、然る後に天臺宗に改宗し、三山の繁榮を企てたのである。天臺改宗の大改革を遂げんには、先づ四ケ寺の羽黒末であることを確定する必要があつた。依て天宥は寛永十六年の頃に幕府に訴へて四ケ寺の羽黒末確定を圖つたのである。
 此訴訟は羽黒方の敗訴となり、其後に至りても屡々爭つたのである。依て羽黒方では種々なる立證材料を工作して勝訴に勉めたので、羽黒に殘存する記録は一に此目的を以て記述されたものが多い。依て輕々に信ずることのできぬ記事が多いのである。羽黒記録として重要視さるゝ拾塊集、三山雅集、中興覺書を始めとして、天保中に編纂された羽黒山古實集覽記なども皆此類である。又元和、寛永以前の古記録の一切殘存しないのは、火災燒失にも據ることであらうが、不利なる證據材料の湮滅を圖つたものと思ふ。羽黒は顯密禪の三宗を兼ねたことが羽黒記録に多く見受けることであるも、之亦天臺改宗後に眞言四ケ寺を併合せんが爲めの策である。其一例を左に示す。
 (羽黒山内大帳秘記録)
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宥俊天宥代迄雖爲眞言三法流 往古より此山は顯密禪の三宗を兼 庄内一圓之諸寺社を兼帶せしむ修驗の法頭たりといへ共無本寺なり
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 天宥が未だ四ケ寺を起訴しない前に於て白岩百姓一揆の事件が起きた。白岩は村山郡にありて六十里越街道の入口に當り、關東陸奧方面の道者の重要なる登山口である。白岩領主酒井長門守忠重は莊内藩主酒井忠勝の弟で八千石を領した。其領地の西方は月山の頂上に達してゐる。本道寺大井澤は其領である。忠重施政宜しきを得ないので領内農民に苛歛誅求を行つた。農民寛永十年十月十日幕府に訴へたが顧みられない。依て寛永十三年領民一揆を起した。山形城主保科正之の出兵にて平定し斬罪梟首三十餘人、闕所に處されたもの多かつた。其中に農民五六人は遁れて岩根澤日月寺に隱れた。日月寺では之を隱くして出さなかつた。日月寺は宥俊、天宥等の生長した寺と羽黒では特別の關係あれば、天宥は日月寺に隱れた農民を羽黒に隱匿して逮捕を免れしめた。
 (羽黒山中興覺書)
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一往古より最上岩根澤日月寺ハ羽黒山別當部屋住の寺也 慶俊宥源宥俊天宥迄羽黒山別當へ移住す 天宥岩根澤住居之砌岩根澤領主ハ宮内大輔御弟にて酒井長門守殿と號し候 此人惡逆無道にて白岩村の百姓共徒黨を企候事及強訴依之張本の者三十餘人理不盡に礫打首ニ行ふ故百姓之内大學親子五六人日月寺ニ隱置終ひニ不出 長門守鬱憤によつて鶴岡家中至迄天宥代ハ勿論近來迄羽黒山と不快なりしとぞ
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 (羽黒三山古實集覽記)
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一鶴ケ岡城主と天宥不和の根本ハ 城主酒井宮内大夫殿弟酒井長門守殿は最上白岩八千石の領主ニ御座候處 此領主惡逆無道全百姓を苦痛さす事沙汰の限りニ候 依之領分の内重立候百姓三十人連判を以公儀へ右非道の趣訴訟を企候處 其事長門守殿聞付 一一搦捕被行斷罪 右の内間澤村大學と云百姓は岩根澤近所殊に日月寺旦方殿父子六人日月寺へ缺込 寺中難隱置に付夜中山越に當山〈○羽黒山〉へ來り別當所に隱置候 依之長門守殿直に鶴ケ岡へ來り御城主へ申合 宮内大輔殿より再三達而被仰遣候得共 右六人此山に居不申候由募り不差出候得共 永永難隱置密に此六人當山を罷出 其後此者共公儀へ致訴訟候由 依之御吟味酒井長門守殿家御改易被仰付候
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 百姓六人羽黒に隱匿に付、莊内藩では寺社方岩間久左衞門を羽黒に遣はし、百姓引渡しを天宥に交渉する所あつた。然るに天宥は之に應じないで、却つて天宥は幕府に密告したものにや。久左衞門は不調法の廉で永暇に處された。
 (酒井家世記)
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寛永十三年
御小姓頭寺社方兼岩間久左衞門 高四百石 羽黒山寶善院儀ニ付不調法有之御暇被下と云々
 右寶善院一件はいかなる事に候哉相分り不申候久左衞門其後慶安元子年松平豆州公の御詑にて歸參被仰付
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 其後六人の百姓は江戸に上りて重ねて忠重を幕府に訴へた。寛永十五年三月七日忠重は白岩領沒收され莊内藩に預けられた。六人の江戸出訴は天宥の指示に據つたと見るのが當然であらう。岩間久左衞門の處分の原因不明としたのは、酒井家の不名譽の事件であるからである。酒井氏と天宥との和親を缺いた事件は此以後數多あるが、今回の白岩一揆事件は最初の不和である。
 寛永十六年天宥終に四ケ寺羽黒末確認の訴訟を幕府寺社奉行に提出した。九月二十七日寺社奉行安藤右京進、松平出雲守より羽黒方と四ケ寺方を江戸に出頭せしめて十月對決を行つた。
 (西村山郡史)
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羽黒山之別當より本道寺と本末之出入有之付可相尋事候間古來よりの樣子存候人兩人來月中ニ急度可被致參府候若於遲參可爲越度者也 以上
   卯 (寛永十六年)           右京 印
  九月廿七日                出雲 印
   大井澤別當
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 之と同一呼出状を雙方各寺に送つたものである。それで各寺で使僧を江戸に送り、數回取調又は對決をしたのである。この間雙方にて各寺の縁起を認めた調書を出した、羽黒方で出したのが湯殿山別當口々開基帳であらう。之は羽黒口を除いた六口は悉く羽黒末とある所以を述べた。又羽黒は古來顯密禪の三宗を兼ねたことを主張したのも此時であらう。次に四ケ寺にて出した調書は傳はらないから明かで無いが、弘法大師の開基を説き湯殿山別當として獨立して來た所以を述べたものと思はる。此裁判は羽黒方の敗訴となつたのであれば、湯殿山別當口々開基帳の記事は信ずるに足らないことは當然の歸決であるが、羽黒方の工作資料として左に全文を掲げ、次でに開基に關する他の資料をも附記する。信僞混淆の厭ひあるも心して見られたい。
        一 注連寺  東田川郡泉村大網
 (湯殿山七口開基)
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一注連掛は天長中の開基也往昔者禰宜職にて代々渡邊黨にて持來る慶長中ニ修理大夫と云者羽黒山にて入峰致テ則別當月藏坊と號す宥源より免許子孫絶えて願海と云行人居住ス是より號注連寺と也注連新山權現は則羽黒權現ヲ勸請致而本堂建立也羽黒山衆徒薩摩坊支配す則羽黒山智憲院也
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 (渡邊氏系譜)
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近江住人渡野邊修理弘仁八年大網村に移住し子孫莊内地頭武藤氏に仕え四郎左衞門と云ひ、七五三掛衆徒で大聖坊と云つた、四郎左衞門弘治三年田川郡青山村に移住し新田を開き、弟三郎治に大聖坊を嗣がしめたが子孫絶えた。後ち一世行人願海七五三掛に庵を結び注連寺と唱へた。
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 (西田川郡井岡井岡寺掛佛銘) 昭和十二年二月重要美術品指定
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大日本國出羽於大網
  菅領司武藤家〈宿老〉  渡野邊《時旦那》四郎左衞門重吉
   地主岡大權現     御正殿
     長祿四年庚辰三月十八日    執行別當遠賀野井寺
                       山主  沙彌如海
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 元和八年酒井忠勝庄内入部の頃には注連掛《シメカケ》坊と云つたが無住であつた。そこで幕府老中井上大炊頭利勝より莊内藩に住職を斡旋せよとの命があつた。依て同年十月十七日莊内家老高力但馬より大日坊に注連寺無住の所以を照會し、其後間も無く住職も定まり、寛永中の羽黒と眞言四ケ寺との訴訟の時には注連寺と云つた。
        二 大日坊 同 郡泉村大網
 (湯殿山七口開基)
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一大日坊仁壽二年に立羽黒瀧水寺より開基則寺號瀧水寺大日坊と號代代羽黒三役を勤衆徒分なり羽黒衆徒華藏坊支配す當山華藏院事也
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        三 大井澤口  西村山郡大井澤村中村
 (湯殿山七口開基)
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一大井澤大藏坊應永二年に立近代大日寺と號す羽黒の内金色山より常火切火請代代羽黒兼帶入峰行屋寺也金色衆徒支配す但し學頭寶性院兼帶福性院も兼帶也
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        四 本道寺口  同 郡本道寺村本道寺
 (湯殿山七口開基)
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一本道寺口は大永五年の開基也羽黒山衆徒能林坊弟子林光坊弘山開基致而弘山新永慶尊尊永永宗永嚴宗丹仙藏坊住居の刻本道寺と改む
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        五 岩根澤口  同 郡西山村岩根澤
 (湯殿山七口開基)
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一岩根澤日月寺ハ嘉慶元年ニ立往昔ハ行人寺にて代々羽黒山入峰中興以來羽黒別當同時の寺と成る
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 (湯殿山別當口々開基帳)
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一岩根澤口は往昔嘉保貳年の秋の頃に大和國より庵脚參り故有て暫逗留致此者發心致清藏行人と相成候て役行者之威力をかり給ひて月山※[#変体仮名え]道を切開き近々繁昌ニ相成代々行人地にて仕來り候所嘉慶年中の行人清亮と云者羽黒山※[#変体仮名え]入峰修行致日月寺と改名也
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        六 臂折口   最上郡角川村臂折
 (湯殿山七口開基)
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一臂折阿吽院ハ明徳元年ニ立往古より羽黒山修驗也
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 以上の羽黒口を除いた六口の開基沿革は寛永十六年の訴訟に當りて羽黒方にて差出したものであつて、悉く羽黒方の支配とした。之に對して眞言四ケ寺で差出して調書の殘存するもの無いから雙方を對照することできないのは遺憾であるが、裁判の結果羽黒方敗れたからして、羽黒方の差出した六口開基沿革は認められないので、羽黒方の僞作と見るが至當である。更に寛政元年の羽黒三山古實集覽記には六口の沿革を布衍して古へには本道寺口無くして荒澤口を七口の一つとしたのは虚構最も甚しいのである。本道寺口は六十里越の頂上に在りて關東陸奧方面の道者の最も多い所で、大井澤口と志津で合して湯殿山に至る重要の口である。
 訴訟の經過は詳かに知ることできないが、同年十一月十九日四ケ寺の勝利に決し、閏十一月廿四日大日坊より鶴岡寺社方菅澤六兵衞に報告した。
 (編年私記)
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寛永十六年
十月十日注連寺より公儀御奉行所へ書付差出ス〈此書付ハ湯殿山の始りを書付せしもの也〉又今年閏霜月大日坊より寺社方御役人菅澤六兵衞へ差出せし書付あり 種芳〈○編年私記著者加藤勘助〉右書付に依て考ふるに羽黒山と本道寺と公事あるに依て十月公儀寺社御奉行所召状有之 大日坊ハ爲使僧大泉坊寶藏坊を遣す 此時注連寺も差出せし書付なるべし 同霜月十九日羽黒山別當と一ケ寺ツヽ對決すといへとも湯殿山勝利に成て 同廿七日大日坊注連寺ハ達三公の御仕置次第にいたし可申死跡の時も得御意相定可申 以來羽黒ニかまひ申間敷 羽黒山より萬事ニ付御構申間敷旨被仰渡
[#ここで字下げ終わり]
 (酒井家世記)
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寛永十六年十一月
羽黒山と湯殿山と公※[#「古/又」、第4水準2-3-61]有之今年十月中双方江戸表※[#変体仮名え]爲召登對決之上大日坊羽黒山之末寺ニ無之旨前々の筋目大日坊申分相立と云々 是月大日坊さし出候書付左之通
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
         覺
一羽黒山と本導寺と公事有之付 十月十二日に江戸寺社御奉行衆より召状有之ニ付爲使僧大泉坊寶藏坊右爲登候事
一霜月十七日ニ安藤右京樣〈○幕府寺社奉行〉ニて御寄合使僧罷出候得は大日坊羽黒山之末寺と被申懸候得共前々の筋目申分末寺ニ不罷成候事
一霜月十九日ニ又右京樣ニて被召出候間羽黒別當三ケ寺宛對決仕候得共大日坊理運ニ罷成候事
一霜月廿七日ニ右寄合ニ被召出候て段々御聞濟此上仰書には酒井宮内太輔殿御仕置次第ニ仕可申 死跡之時も宮内殿※[#変体仮名え]得御意相定可申候 以來羽黒ニかまい申間敷候 羽黒山より萬事ニ付而かまわれ申間敷事
   卯閏霜月廿四日           大日坊
     管澤六兵衞殿
[#ここで字下げ終わり]
 最上氏時代の羽黒境内は徴すべきものない。元和八年酒井氏莊内を領するに及んで、羽黒境内は手向と羽黒山荒澤を含み野口の南方傘骨が南界を爲した。月山と湯殿山は莊内藩の領である。月山を西方に下り鍛冶屋敷、牛ケ首を過ぎ之より不淨垢離場に至れば大井澤本道寺道と合して湯殿山に下だるのである。
 斯くの如く湯殿山は莊内藩領であれば、今回のやうな訴訟には莊内藩にては大日坊、注連寺を擁護するは普通である。訴訟は四ケ寺の勝利となり羽黒との關係を絶つて、四ケ寺の住職相續等は莊内藩の指揮を仰ぐことに決した。
 寛永十六年十二月大日坊は寺院改築に付、莊内藩に用材寄進を願出たるに、莊内藩では近村より伐切を許可した。翌十七年八月竣成した。

     三 天宥羽黒を眞言宗より天臺宗に改宗す

 天宥は羽黒を眞言より天臺に改宗しやうとして、先づ湯殿四ケ寺は羽黒末であるといふ訴訟を起したが、寛永十六年十一月に失敗したことは前編に述べた。天宥は寛永十一年始めて東叡山天海に面會を遂げて改宗は内決したものと見られる。同十八年天宥は江戸に登り天海に面會して天臺に改宗して弟子となり天の一字を貰つて宥譽を天宥と改名した。更に天宥より四ケ條の請願を爲したるに、天海は四ケ條は幕府より指令あることであると答へた。
 (羽黒山内大帳秘記録)
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寛永八年未年天宥於江戸天臺宗に改め最前の實名は宥譽と申せしか共天海大僧正の附弟と成ける故天ノ字を附與せられ天宥と改名す 同年冬於東ヱイ山天宥密灌大阿者梨を勤られ 右爲御祝儀繻子僧正衣東照宮御名號一幅〈天海の御筆也〉大文字屏風一双〈唐人雪峯の筆〉右天海僧正ヨリ拜領〈後ニハ寛永十八年巳天臺ニ改宗と見ユ〉
天宥より天海僧正※[#変体仮名え]願申上られ候趣
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羽黒山權現堂御建立の事
眞言四ケ寺如先規羽黒末寺ニ被仰付被下度之事
羽黒山社領御朱印に頂戴仕度候事
東照宮樣羽黒山へ御勸請仕度候事
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右願之趣 將軍〈家光公ナリ〉家へ天海大僧正直々被仰上候處御挨拶ニハ内々ニては難成表向ヨリ披露を遂られ可然と被仰出候よし
[#ここで字下げ終わり]
 (羽黒山舊記)
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寛永十八辛巳天宥羽黒山ヲ天臺宗ニ改中頃ヨリ是迄眞言ナリ
[#ここで字下げ終わり]
 (自坊記録)
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寛永十八辛巳年東叡山より御下知状の寫
[#ここから5字下げ、地から1字上げ]
羽黒山者初昔大唐天臺山移顯密禪之三宗を兼來 中興慈覺大師以來專天臺宗たり 然ニ中頃寛永先迄密宗之法流を繼或ハ高野住山或關東密宗の談所經暦一山末寺其眞言宗立の時別當宥譽法印兩開山之挑法燈一山繁榮之志願深寛永十八年奉拜天海大僧正尊師高弟の御儀有之 天之一字被下宥譽改天宥ト 則於東叡山被行遂密灌大阿闍梨 一山天臺宗ニ改 自是東叡山御末寺ニ定 仍從日光御門主樣御掟目并御下知状 此山※[#変体仮名え]被下 得一山繁榮時也 末之輩ニ至まて謹而可敬拜御威光且可志天宥尊師之謝徳也
[#ここで字下げ終わり]
 羽黒の舊記には天宥の天臺改宗を寛永八年説と同十八年説の二説あり。何れかゞ誤りであることは當然である。寛文六年羽黒と眞言四ケ寺の訴訟中の本道寺の書上に、天宥は廿五年前天臺に改宗したとあれば、寛文六年より二十五年前は寛永十八年に當る。依て寛永八年説は十八年の誤りであると思ふ。寛永十八年天宥の改宗と同時に天海に頼んで四ケ條を幕府に請願したのであるが、只一ケ條を除いた他の三ケ條は年を追ふて許可となりて目的を達したが、眞言四ケ寺の羽黒末の一ケ條は既に同十六年の訴訟にて天宥の敗訴となつた一件であれば、天海とても又幕府とても之を覆へすことはできない。
 寛永二十年十月朔日天海示寂し門跡公海東叡山貫主となつた。正保二年二月六日羽黒山に東照權現勸請を許可された旨幕府より寛永寺に通知あつた。依て公海之を在府中の酒井忠勝に報じたれば、忠勝謝状を公海に送り、五月東照宮神体は羽黒山に下着した。是に於て忠勝は社殿の寄進建立を爲して之に安置した。この社は今山上羽黒本社の東方にあつて、其後時々修築されたが、門は山上では鐘樓に次く古建築である。慶安二年四月十七日忠勝羽黒山に登り東照宮に參詣した。天宥の東照宮勸請は大成功であつて、莊内藩主酒井氏との融和上に大なる功果を擧げたことである。

     四 天宥の羽黒山繁榮策

 羽黒は慶長十八年の幕府の法令出てゝからは、羽黒修驗は獨立を失ひ、之迄の關東奧羽の信徒でも熊野か吉野に從屬されねばならなくなつた。之が爲めに羽黒は一時衰微したことゝ思ふ。是に於て天宥は之を挽回せんが爲めに其方策について苦慮を重ねた末成案ができ、其成案に向つて積極的努力を爲したのである。其成案中の最大重要なるは眞言四ケ寺を羽黒末と爲し、然る後に湯殿山を合せて天臺に改宗して、三山統一を謀つたのであつた。之が失敗に歸したのは羽黒の大損失であつて、湯殿山は眞言・天臺兩派の山である矛盾を生じ、且つ眞言四ケ寺と羽黒方の軋轢は益々多くなるのは當然である。羽黒は既に天臺に改宗したのであれば、湯殿山は眞言四ケ寺のものとなり。羽黒修驗道の組織基礙[#「基礎」か]に破綻を來たすことゝなつたので、羽黒方の不利は著るしく大である。羽黒方では之を默認することは到底できぬ所である。之れが爾後長い間の爭論となつた。
 次に天宥の繁榮策とした成案は前記の天海に援助を請ふた四ケ條の外に、手向より羽黒山上に達する參道に沿ふ地に松杉の植付、石坂の修築、寺院の整理、執行別當寺の移轉改築等である。次を追ふて左に概要を述ぶ。
【松杉の植付】
 此植付は執行宥俊より繼續して行つたので、其場所は手向の鶴岡及び添川兩街道の山地より手向羽黒を經て月山に通ずる野口に至る地帶であつて、松苗は飽海郡より取寄せた。
 (自坊記録)
[#ここから3字下げ]
寶前院宥俊法印
[#ここから5字下げ、地から1字上げ]
宥源之御弟子也(中略)山麓月山迄の佛像堂社造立數多 川北山より松苗求向イ山へ植付末代一山之重寶 寛文元年丑ノ四月四日行歳八十貳年如睡遷化也
[#ここから3字下げ]
寶前院天宥法印
[#ここから5字下げ、地から1字上げ]
宥俊之御弟子此時如往昔一山天臺宗ニ御改 寛永十一年繼目の登城御目見得濟同十三年より隔年ニ御年始の登城 東照大權現奉勸請 社領御朱印頂戴 南谷若王寺地形下寺新屋敷地形引平ケ三寺共ニ再建 常火堂同石之鳥居自作ニて立之 坂之石敷池ノ中町石橋 拂川石橋懸 關八※[#「力/(力+力)」、第4水準2-3-35]行人頭立 川北山より松苗求 鶴岡添川野口階道並松植立 其外古ヲ廢シ新ヲ立 中興之師也 雖然權者實者難遁横災ニ哉 (下略)
[#ここで字下げ終わり]
 又羽黒衆徒中に罪人があれば贖罪として山中に松杉を植付けさせた。近年まで全山を覆ふた老杉は樹齡二三百年のものであれば此頃に植付けたものであらう。今手向村の西端の松林と羽黒參道の杉並木は其遺物であつて、其他は明治四十四年より伐切された。
【參道の石坂】
 手向の東端二王門より羽黒山上に至る參道約十八町は悉く切石を敷き詰め、一ノ坂、二ノ坂、三ノ坂、八幡坂は切石の階路である。以上四ケ所の坂は石の階段の無かつた時には木材の階段でも無ければ登ることできぬ急坂である。天宥は約十八町の參道に切石を敷いたのであるが、之に要する經費は少なくない。其捻出方法として米澤の行者寶鏡院をして參詣者一人より一錢づゝを勸化せしめ、或は罪人の贖罪に石を敷かせたもので、一擧にして完成したものでは無い。
 (自坊記録)
[#ここから3字下げ]
慶安元子年天宥石坂敷納給 古寶鏡院(米澤羽黒山伏)無妻依爲行者往來にて錢勸化寛文中まて成就
[#ここで字下げ終わり]
 (寛文七年衆徒訴状)
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一歡喜院朽木一本切申候爲其過料切石三拾間爲敷松杉千本植付させ申寶前院 ○天宥 奢申候事
[#ここで字下げ終わり]
 (同上天宥答辯書)
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一歡喜院事本社之軒邊にて十一年以前〈○明暦二年〉正月十七日ニ生大木切申候ニ付閉門申付候得は衆徒を頼ミ依事切石三拾間松五百本植申付拙者弟子兄弟にて候得共法度之事ニ候間爲依※[#「りっしん+占」、第4水準2-12-39]申付候事
[#ここで字下げ終わり]
 次に羽黒山上より荒澤に至る約十町の月山通路に礎石大の川石を敷き詰めた。之れも天宥の企てたもので、立谷澤川より運んだ。其總數二千餘個と傳へてゐる。
【寺院の整理】
 羽黒の山上山下の寺院數は一定したもので無く、時々増減あつた。拾塊集には山上二十八坊、手向三十六坊、合計六十四坊とあり。此數は何時頃のものであるやは明かで無いので、拾塊集が祐仙の僞著とすれば、寛文以後のものかとも思はれる。只徳川時代の初期に此位の寺院があつたと思考する外無い。慶長末期に徳川氏が全國の修驗を熊野吉野の兩派の何れかに歸屬せしめてから、羽黒は獨立を失ひ衰微したことは事實であつて、參詣者が少なくなれば收入を減ずることゝなり、隨つて羽黒の寺院が維持することできぬものを生じ、無住或は廢寺となるものができた。之れは寛文七年の天宥排斥の訴状に四十一ケ寺の内十五ケ寺を天宥が廢寺と爲したとあり。天宥の答辯書には六ケ寺は明き寺となり。其他は火災其外の事情で廢寺となつたとあるも、多數の寺院の維持又は再興できぬのは、不景氣の影響であるに相違無い。
 (寛文七年衆徒訴状)
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一於本堂 上樣致御祈祷候衆徒四拾壹人御座候内十五ケ寺潰し置候寺々數
[#ここから5字下げ]
一百  石  内三十石ハ塔ノ破損分   寶性院
一三十三俵三斗             福性院
一同   斷              歡喜院
一同   斷              檀所院
一同   斷              曼陀羅院
一同   斷              戚徳院
一拾七俵貳斗              泉躰院
一同   斷              月藏坊
一同   斷              閼迦井坊
一同   斷              正覺坊
一同   斷              東光坊
一拾□俵貳斗              善臺坊
一同   斷              實徳坊
一同   斷              北之坊
一同   斷              瀧本坊
[#ここから3字下げ]
右之寺共潰し置社領寶前院押領仕候事
[#ここで字下げ終わり]
 (天宥の答辯書)
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一衆徒四十一人之内十五ケ寺明地之由申上候是亦僞ニ御座候明地之寺六ケ所御座候事
[#ここから4字下げ]
(大意) 寶性院は燒失 歎喜院は執行宥俊の隱居所本社に近く類火を恐れて若王寺に移轉 福性寺は住職出奔 檀所院は無住であつたのを昨年東音を住持となす 曼荼羅堂無住 威徳院は無住 泉躰院は廢寺 月藏坊は職乘を住持とす 閼伽井坊は知見院甚説を住持とす 正覺坊は無住 東光坊は愛染院弟子正意を住持とす 善臺坊は五年前より利法を住持とす 寶徳坊は去年より覺音を住持とす 北之坊瀧本坊は無住である。
[#ここで字下げ終わり]
 以上の廢寺無住は衆徒の訴状では天宥が各寺の寺祿を回收せんが爲めの術策であるといふも、悉くそうでも無いやうだ。近年收入を減じた結果寺院の維持困難となつた爲めであると思はれる。天宥は廢寺並に維持困難なる寺院の整理を行ひ、然る上に執行別當寺の移轉大建築を行つたのである。
【執行別當寺の移轉建築】
 執行と別當とは職務が異なることは前に屡々述べた通りであるが、普通には兩職を一人にて兼ねた。然るに只特例として元和二年に宥源は別當を弟子宥俊に讓り、執行を一山の長老源慶に讓つた。之れが一人一職の初見である。翌三年七月源慶は遷化したるを見るに、一山の長老であるが、老衰して命旦夕に迫つたから其功に報いんが爲めに執行職にしたのであつて、月山々上の夏一は勤むることできなかつたと思はる。是に於て宥俊は執行別當を兼ねた。寛永七年宥俊別當を天宥に讓り、自分は執行のみとなりて寶前院より歡喜院に移つた。之れも特殊の事情あつて兩職別人となつたが其事情は不明である。執行別當の別人は之にて前後二回だけである。寶前院は執行別當寺であつて、寶前の字義は寶は佛の尊稱であつて佛寺を寶刹ともいふのである。其寶前にて法務を司といふ寺院が寶前院である。羽黒本社及び開山堂の西にて華藏院との間に寶前院があつた。後世の繪圖には執行やしき跡としてある。歡喜院は本社に近い所にあつたことは明かだが、其位置は不明である。歡喜院が若しも火災あれば本社に類燒せんことを憂へて天宥は三ノ坂下の別當屋敷に移したのである。
 從來の執行別當寺は華藏院上の八幡坂の北側に在つて、境内狹隘にして寺院も宏壯を缺いたらしい。そこで天宥は三ノ坂下より南に入りたる所に大規模の本寺建築を企てたのである。先づ多數の人夫を使つて山を崩し谷を埋め、慶安元年二月十八日屋敷割に着手し、建築用材は羽黒山にて伐採し、更に秋田より買入れた。完成した執行寺を伊弉諾山若王寺寶前院と號した。執行宥俊は歡喜院を廢して之に移つた。次に別當寺を南谷に建てた。此位置は若王寺の東方數町に在つて東及び南は南谷の深谷に臨み、土壘を繞らし、水を引いて園地を設け、最も幽邃を極めた。
 (寛文七年衆徒訴状)
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一羽黒山執行寺古來より有來所を取こわし天下御法度之新開八幡坂の下の大山を曳き崩し若王寺と名付立置是ニも惣衆徒木ヲ取置萱を取運せ迷惑仕候事
一羽黒山寶前寺内古來無之處を新規ニ南谷と申大山を曳崩し寺を立申候是ニも手向羽黒惣衆徒より人足出させ莫大成普請仕候故衆徒迷惑仕候事
一取置之家板屋作りニ長サ四拾間餘横六間餘ニ立申候右之家秋田野代※[#変体仮名え]金三百五拾兩ニ入申候 此材木板持運ヒ皆衆徒共ニ懸難義爲致申候 惣て山ノ神木松杉無數限切盡其身居寺ニ遣ひ申候少も 權現樣御堂之破損ニは不仕致我盡候事
[#ここで字下げ終わり]
 (同上天宥答辯書)
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一執行寺は右ニ申上候觀喜院事ニ御座候本社軒邊にて類火を恐若王寺へ移申候事
一別當寺南谷へ移候儀は本社へ類火を恐レ山麓之衆徒ニ相談仕御※[#「門<龜」、下p24-13]ヲ取慶安元年二月十八日雪之上にて繩張いたし拙者并衆徒之屋敷割渡候ニ付何レも屋敷受取支配申候 惣て衆徒より人足出させ申候よし僞ニ御座候日用にて遣ひ申候日用帳御座候事
[#ここで字下げ終わり]
 天宥が此二寺を建立した時の意志は、若王寺を執行寺として執行宥俊を居らしめ、南谷を別當寺として天宥が居つたのである。然るに宥俊は寛文元年四月四日下タ寺で遷化したとあるのは此若王寺のことである。
 (羽黒山中興覺書)
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一寛文元年丑四月四日執行宥俊下タ寺にて遷化八十二歳也 宥俊天宥ニ代現住之内山麓堂塔造立數多なり 松杉を植立石坂の工みに至迄其功徳筆紙に盡しかたし中興開基之師たり
[#ここで字下げ終わり]
 南谷墓地に執行宥俊 施主敬白 寛文十三天四月六日と刻せる碑あり。宥俊遷化後は天宥執行と別當を兼ねて若王寺に居住し、南谷をば別院と唱えたらしい。天宥の寺院整理は之ばかりで無く羽黒山上の本社附近を清掃して寺院堂宇を遠ざけ、各寺院の屋敷を割り直したことは前記の天宥答辯書にあるのが之れであらう。
 以上の天宥の繁榮策は何れも好結果を收め、羽黒の面目を一新した。隨つて山上山下の衆徒とても前記の工事中は不平を唱ふるもの一人も無かつたやうだ。

     五 羽黒末派修驗の斷罪は羽黒にて處分す

 元和六年二月三日眞田式部清鏡は南部三戸にて切腹した。南部地方は眞田の檀家であつて年々冬期間に巡廻して、祈祷札又は守札を配布したことは、山内衆徒皆同樣である。眞田式部の切腹を遂げた原因につき南部家との關係を述べてゐるが信ぜられぬ。
 諸國に散在せる修驗が罪を犯せば、本寺にて斷罪處分することになつてゐる。元和八年酒井氏莊内入部の頃秋田仙北郡横手の山伏大乘院は修驗行人二人を殺害したので秋田藩に訴へられた。秋田藩では行人山伏の處罰は取扱はぬと拒んだ。そこで他の修驗等兩人羽黒に來りて宥俊に訴出た。大乘院は羽黒衆徒である。依て大乘院を呼んだが來ない。其後大乘院は湯殿山代參にて酒田に來たのを捕へ、羽黒にて石籠責《イシコゼメ》の刑に處した。其處刑した所は神路坂で鶴岡街道の松原である。この石籠責の刑については前編に述べた。
 明暦二年七月三日飽海郡服部興屋の海濱に能登の船一艘と越後の船一艘難船漂着した。そこで岩川村、丸子村青塚服部興屋の者共金品船具を掠奪した。依て莊内藩では犯人を悉く捕縛して嚴刑に處し主犯六人を礫刑、其男手十人は斬罪、修驗二人は羽黒と吹浦の本寺に引渡し、以上の家族は追放、其外輕罪の者は入牢過料に處分し、總人員三四百人に及んだ。主犯の礫刑は服部興屋の海濱にて行ひ、其男子は斬首した首を父の礫刑に添へて晒された。この處刑を行つた海濱通りは秋田に通ずる國道であつて、總て處刑は主要道路の傍で行ふことは一般の慣例である。
 前記の重犯人の修驗二人は、岩川村文珠坊は羽黒衆徒、三藏坊は鳥海山の衆徒である。何れも本寺に引渡され十月二十五日文珠坊は手向村神路坂、三藏坊は鳥海山麓の山路にて、何れも石籠責の刑に處された。羽黒寶前院鳥海山自性院より鶴岡藩に届出た。〈酒井家世記/羽黒山中興覺書〉

     六 天宥莊内藩と増川山境界を爭ふ

 天宥の羽黒繁榮策と之に伴ふ改革は廣範圍に亘り、事の大小に關らず一として羽黒の爲めにならないものは無い。天宥は書並に畫に長じ、最も石材彫刻に達した。更に天宥は氣宇豪膽にして覇氣に富んだので 羽黒に比肩すべきもの無い傑僧である。然るに天宥の企てた諸般の方策の中で、湯殿四ケ寺の改宗は失敗に歸し、次に之れから述べんとする増川山の境爭も大難關である。この二件は羽黒にありては重大なる利害の關係あるので、羽黒としては一度びは爭はなければならぬ事件であつて、其儘に放捨することできない問題であつた。羽黒内部の改革施設は天宥の權威を以て遂行することに於ては一人として反對するもの無かつたが、易しくも羽黒以外との交渉については天宥の權威でも輕々に解決することは困
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増川山境爭裁断圖 〈裏書の裁断文は別に記載す〉
[#図版(009.jpg)、増川山境爭裁断圖]
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難である。湯殿山四ケ寺の改宗問題の如きは、湯殿山並に大日坊注連寺は莊内藩の領内であり、本道寺大井澤は白岩酒井氏の領で後には幕府直轄地である。領内に起つた他領との事件は領主が關掌するのは當然である。湯殿山四ケ寺の訴訟事件には莊内藩は表面には立たないで裏面の後援を爲したが、増川山の領土に關した事件は莊内直後の關係であつて、假令天宥は増川村外廿五ケ村を相手としたとは云へ、莊内藩は表面に立つて羽黒方と爭つたのである。
 今回係爭となつた増川山は手向村西端の松林より笹川の東側に沿ふ狹長なる草山にして、上川代村に至りて月山道の螺道坂を越えて立谷澤村大中島地内に亘る二三里の地である。此地古來増川村外二十五ケ村の入會草刈山で、二十五ケ村には丸岡御料十一ケ村と莊内藩領の十四ケ村が入り交つてゐる。手向村では此地を羽黒領と主張して長い間爭つて來た。萬治元年天宥に至りて激烈となつた。且つ幕府では近々諸藩及び社寺領に對して朱印状を下附することゝなつたので、互に境界を明かにする必要が起つた。同年三月莊内藩家老石原平右衞門、長谷川權左衞門以下は増川山に出張し、雙方を現地に呼んで、相互の主張を聽取して調停せんとした。羽黒方修驗の主張する所は西方神路坂より東方は羽黒山續き、月山湯殿山に至るまで入合にて、羽黒より月山、湯殿山寶前まで羽黒三山の社地であると唱ふるのである。之れは天宥の湯殿山を社領に併合せんとする遠大の策謀であつて、容易に莊内藩家老の調停に應ずるもので無かつた。依つて家老は之を解決しないで爭論を續ける間は羽黒と莊内藩との用務を停止すると言渡して歸つた。
 (酒井家世記)
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萬治元年三月
是年羽黒社領境論有之 此月下旬増川村百姓古來覺書之通山境相立假小屋を建つ 羽黒山麓の衆徒と増川村の肝煎と相論 山麓の衆徒申候は |西は神路坂野手之通《(鶴岡より手向に入る松原の中程)》 |北は金剛石より東方※[#変体仮名え]峰つゞき山手之通《(添川より手向に登る山道の西方にあり)》 南方は湯殿山まて羽黒三山之社地也と云々 増川村肝煎共申樣 西は中ノ坂 北の方は手向入に|穢多とも屋敷より《(添川街道にて手向の入口)》 山上は本社の後谷地なり 東方は一本杉 南方は|東野口南野口《(荒澤の南方)》川代海道地之由申之 右場所※[#変体仮名え]煙を立相互ニ爭論ニ及ふ 右之假小屋※[#変体仮名え]御家老石原平右衞門長谷川權左衞門大目付片山市太夫加賀山安太夫郡奉行金野佐次兵衞御徒目付久保村杢兵衞其外御足輕三拾人余彼小屋※[#変体仮名え]相詰られ 羽黒山より衆徒之内愛染院圓堯院寶積院宥堯執權人積善坊大成院 麓より眞田式部宥位其外故老の山伏貳拾人彼小屋※[#変体仮名え]相詰る 御家老より追而出入落着迄鶴岡羽黒用事不通之斷有之
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 (羽黒山中興覺書)
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一萬治元戌年鶴岡領と羽黒領と出入ニ付鶴ケ岡郡奉行金野佐次兵衞并増川村の代官添川村へ來る 増川百姓共を集め羽黒上下鶴岡領の由口書違變致ましき旨神文をとり 百姓不殘引連立谷澤村の方へ山爲見分 百姓共神文を呑せ器物を洗ひ御手洗にて手水うかい等致候所 俄ニ一天曇り如闇夜雷鳴山を崩すか如し 依て鶴岡役人はじめ百姓共急き下山す其後三ケ年程の間御手洗の水朱の如くに濁りしと也
一同三月下旬鶴岡より申來候は増川百姓古來覺書之通三境相立候間假家を立 家老長谷川權左衞門石原平右衞門大目付片山市太夫加賀山安太夫郡奉行金野佐次兵衞歩行目付久保村杢兵衞其外足輕三十人彼小屋ニ來集す 別當衆徒の内愛染院圓堯寶積院宥堯執權人積善坊大成院 麓より眞田式部宥位其外古老の山伏二十人彼小屋ニ相詰る 手向羽黒荒澤野邊へ家老下知して境目の由にて煙を上る 山麓の衆徒と増川村の肝煎と相論 山麓の衆徒境を云樣は 西は神路坂野手の通 北は金剛石より東方へ峰續 東方は羽黒より山續山手之通 南方は湯殿山迄入合 別て羽黒より月山湯殿山御寶前迄羽黒三山の社地也と云 又増川村の肝煎共申樣は 西の中ノ坂 北の方ハ手向入口穢多共屋敷より山上は寺社の後谷切也 東方ハ一本杉 南方ハ東野口南野口川落海道切の由にて 右の場所へ煙を立相互ニ爭論す 別當と家老無異論出入落着無之内は鶴岡用事不通と斷有之
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 是に於て天宥解決の困難なるを見て同年八月岩根澤を越へて江戸に上り幕府に訴へた。翌二年六月幕命ありて莊内藩よりは家老長谷川權左衞門、郡奉行金野左次兵衞、山奉行茨木源五右衞門、大肝煎齋藤隼人、伊藤帶刀、肝煎七人江戸に登つた。老中松平伊豆守信綱の裁斷にて十二月二十五ケ村の入會山と決した。翌三年三月雙方にて増川山の境界を踏査して確實にした。
 (羽黒山中興覺書)
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一同年〈○万治元年〉八月別當岩根澤越して江戸へ登東叡山へ被仰上 公義へ御訴訟あり 鶴岡より長谷川權左衞門其外役人被召登 御沙汰の上松平伊豆守樣如先規双方人會御扱ニ付公事相濟候 即山繪圖へ伊豆守樣御裏書御判有り
一翌亥年三月上旬天宥下着 鶴岡家老兩人役人等來り 別當誘引にて入會の山見分 瀬波村〈○立谷澤の南端〉より小月山切にて相濟 日暮ニ及候故別當の下屋敷〈○羽黒南谷別院〉ニ一宿ニ付饗應種々有之 翌日罷歸候 扨鶴岡より被申越候ニハ永代山入會の事候共末々境論申間敷由 別當より境の儀申共衆徒相構申間敷旨證文認可被遣由にて任望遣申候
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 (自坊記録)
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八月天宥法印月山越江戸出府 公儀※[#変体仮名え]御訴訟依之酒井御舅時の御老中松平伊豆守殿より長谷川權左衞門其外役人被召登御吟味の上論地南野田畑は只今迄の通手向の者支配可爲同所野山并奧木山在來通双方入合可仕伊豆守殿御扱の思召にて相濟仍て論の始手向の者南野下野田地耕之刻増川※[#変体仮名え]被取候鍬鎌 を以鶴岡より手向※[#変体仮名え]被返受取置
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 松平伊豆守は莊内藩主酒井攝津守忠當夫人の父なれば、今回の裁判は公式で無くして伊豆守の調停裁判であつたからして、左記の覺書に伊豆守の名を出さなかつたであらうとの説あり。
 (酒井家世記)
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(前文略)
右御扱の御書左に擧る 此書御名等も無之は御内證御扱なる故ならんか
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         覺
一増川山如前々入相ニ相定候事
一羽黒衆徒より作來之田地如前々羽黒より支配可有事併自今以後新田切興申義は相止候事
一野山は勿論いにしへの如く入相に今度相定候事
一大中嶋水林之義ニ候間入相ニ仕林伐申候事相止候事 乍去水の手ハ重而鶴岡役人彼地へ立會相談の上埓明可申事
一|戌之年《(万治元年)》より論地今度於江戸無事罷成候間自今以後互ニ申分仕間敷事
     以上
   萬治三年子ノ極月廿二日
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 増川山は從來手向並に増川廿四ケ村の入會山であつて、手向農民は田畠を開拓して年貢を増川村に支拂つて來た。此爭論以來は手向では支拂を停止した。伊豆守の裁斷によれば、増川山は莊内領であつて、手向御料私領合二十五ケ村の入會草苅山であることは從來の通り、次に手向にて開いた田畠は其儘手向支配とし、爾後新田開墾を禁止した。羽黒山中興覺書に伊豆守の判決を萬治二年としたのは同三年の誤りである。
 羽黒と莊内藩との關係は、天宥は天臺に改宗して徳川氏並に近藩との融和を謀り、更に東照權現を勸請して、莊内藩酒井氏の堂宇寄進となつたが、他面に於ては之れと反對に白岩事件、湯殿山四ケ寺の訴訟事件にて酒井氏とは摩擦を生じ、終に増川山事件にて正面衝突となつたのである。莊内藩との阻隔は之に止まらないで爾後益々續出した。

     七 羽黒社領朱印下附と莊内藩との軋轢

 慶長十七年最上義光の寄進した羽黒領は黒印状並に高辻帳が傳はらないので、其高も村名も明確でなかつた。元和八年十月十九日莊内藩にて幕府領地引渡役人より領土を引繼いだ時に始めて羽黒領地高並に村落名が明かになつた。
 (松平武右衞門記録 ワ印一)
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    出羽庄内寺社領目録
      川南寺社領
一高拾七石壹斗四升       下山添村  羽黒山領
一高壹石三斗          淀川村   同上
一高百八拾五石五斗四升     平京田村  同上
一高四百五拾石貳斗三升八合   小京田村  同上
一高壹石三斗          後田村   同上
一高五石五斗貳升貳合      横山村   同上
一高貳百五拾九石八斗七升四合  三ケ澤村  同上
一高三石九斗          松尾村   同上
一高百九石壹斗七升八合     手向村   同上
一高七石八升          赤川村   同上
一高六拾七石          無音村   同上
      川北寺社領
一高三拾三石六斗壹升四合    羽黒塔
   (以上羽黒領のみ抄録)
高合三千五百三拾石九升六合
  此内千四百六拾石貳斗三升六合  羽黒領
                     井上彦左衞門
                     坪井金太夫
 元和八年戌十月十九日          諸星藤兵衞
                     小保吉左衞門
                     大河内平十郎
                     伊丹喜之介
  酒井宮内太輔殿
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之れは最も確實なるものであつて、左記の天宥自筆文書は參考に過ぎない。
 (天宥文書) 正善院所藏
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      出羽國 羽黒山
一山林之事
一山領之事
    庄内河南田川郡
一高四百五拾石貳斗三升八合   小經田村
一同百八拾六石四斗       平經田村
一同百四拾石壹斗四升      北經田村
一同              淀川村
    同  河南櫛引郡
一高百九石壹斗七升八合     手向村
一同百八拾貳石         國見村 杉番村
一同拾七石壹斗四升       下山添村
一同壹石三斗          後田村
一同六石貳升貳合        横山村
一同貳百六拾石三斗七升四合   三ケ澤村
一同四石四斗          松尾村
一同壹石貳斗八升        赤河村
一同七拾石貳斗壹升       無音村
    同  河北|湯座《(遊佐)》之郡
一高參拾四石壹斗壹升四合    二柳村
    最上村山之郡
一高六石貳斗          寒河江かうよし村
  都合千四百七拾貳石參斗三升六合
右之通前々より爲寺領被下置候間此書付を以御朱印頂戴仕度候仍如件
   寛永拾貳年乙亥極月十八日     羽黒山別當寶善院
                           宥譽
     御奉行所
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 之れは羽黒から幕府の御朱印掛奉行所に差出した寫と思はるゝが、前記の元和八年莊内藩引繼目録とは總高にて十二石一斗の増加であつて、村別にて寒河江顏吉村が多い。
 寛永十四年五月大井澤大日寺でも湯殿山燈明田の朱印下附を幕府に請願した。
 (西村山郡史)
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寒河江郷大井澤村内
一高貳石貳斗五升 〈湯殿山燈明田別當大日寺寒河江領吉河郷内寶珠山麓但山林有之〉
    内
  宿屋敷壹間  寒河江郡山  之内
右湯殿山寶前ニ而毎月八日ニ天長地久御祈祷數代眞言所作ニ而無懈怠勤行仕候依之御朱印頂戴仕度候 以上
                 大井澤村内
  寛永十四年丁丑五月        金色山大日寺
                      清善 花押
    御奉行所
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 幕府にて諸大名其他に朱印地下附の事務取扱を開始したのは寛文四年三月五日にして、奉行を小笠原山城守長矩、永井伊賀守尚庸に任命した。之より諸大名及び社寺に命じて古來の黒朱印状並に領地の郷村高辻を明細に書出さしめた。依て夫々調書を差出し、同年四、五月中に諸大名に朱印状を交付した。社寺領朱印下附は之より遲れて、羽黒は同五年八月調書を出したやうに見ゆる。或は羽黒だけが調査の都合上延びたのかも知れない。
 (羽黒山中興覺書)
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一|同五《(寛文)》巳年將軍家綱公御朱印御書替之御觸有之 天宥江戸出府御門主より鶴岡領主ニ被仰入により領主の御添簡出る御朱印頂戴の初なり
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     羽黒山社領有之村々覺
一高四百五十石二斗三升八合 庄内川南田川郡 小京田村
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同百八十五石五斗四升            平京田村
同百四十石一斗四升             北京田村
同一石三斗                 淀川村
同百九石一斗七升八合      川南櫛引郷 手向村
同百八十二石                國見番村 并 村杉村
同十七石一斗四升              下山添村
同一石二斗                 後田村
同五石五斗二升二合             横山村
同二百五十九石八斗七升八合         三ケ澤村
同百九石一斗七升八合            松尾村
同七斗五升                 赤川村
同六十九石七斗一升             無音村
同三十三右六斗一升四合     川北遊佐村 二柳村
同五右一斗     最上村山郡寒河江村の内 かうよし村
 總高合千四百六十六石二斗六合
[#ここから3字下げ]
 右之通前々より爲寺領被下置候間山林竹木境内共此書付之通御朱印頂戴仕度候仍如件
   月 日           羽黒山別當
                    寶前院
    御奉行所
 右之所ニ取合高千五百石余之所寺領と書上候得共領主より古來之通社領と御添簡出候故社領御朱印出申候
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 天宥は社領朱印下附請願を好期として羽黒山より月山、湯殿山に至る山地を境内と爲し、但し其境界は未決定として朱印下附を畫策した。寛文五年天宥は江戸に上り東叡山寛永寺を經て幕府寺社奉行に請願した。寺院の請願は其本寺より出願するものである。依て三月頃寛永寺執當圓覺院は天宥を同伴して寺社奉行井上河内守に出頭して朱印下附を願出た。井上河内守は領主の添状を必要とする旨を達した。依て八月末河内守並に圓覺院より莊内藩に添状を請求した。然るに莊内藩では月山、湯殿山が羽黒境内であるといふ添状を出すことは容易にできない。
 (酒井家世記)
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寛文五年八月廿九日
今度羽黒山別當寶前院天宥江戸※[#変体仮名え]罷登 御朱印頂戴仕度之旨 公儀※[#変体仮名え]訴訟申上候付井上河内守殿より今日御來書左之通
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御手前御領地之内羽黒山權現社領千五百五拾石有之由寶前院奉申上候 并境内山林門前先規より免除之由に候 此通相違無御坐候哉承度存候 次羽黒山權現在之所は何之郡にて御座候哉可被仰聞候 以上
  (寛文五年)
    八月廿九日
尚以一圓不得寸隙取込罷在候故其後は御見舞不申候御氣色いかゝ被成御座候哉承度候 以上
                     井上河内守
    酒井左衞門尉樣
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右之御返書は未見る所なし
晦日
羽黒山別當寶前院御朱印頂戴之事に付御家より御添翰之儀日光御門跡御内圓覺院より來書左之通
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依日光御門跡仰一筆致啓上候仍貴公樣御領内羽州庄内羽黒山別當寶前院今度 御朱印訴訟ニ罷登候 就夫昨日從御門跡拙僧御使被指遣 井上河内守殿※[#変体仮名え]寶前院同道仕候て 御朱印之儀申達候得は御意得被成候由ニ候 併御地頭より之添状申請參候樣ニと御申候間 羽黒山權現社領高千五百五拾石并湯殿山月山羽黒山之山林境内門前先規御免除之地にて貴公樣御拜領地高之外之由御添状被遣候ハヽ御門跡可爲御滿悦之旨拙僧方より可申入由被仰候間如斯ニ候 恐惶謹言
  八月晦日               圓覺院
   酒井左衞門尉樣
尚々右之通社領郷村書付只今成兼申候ハヽ不苦候 寛々右之通御添状被下候ヘハ相調申事ニ候 今日中御添状參候樣にと御申間 早々被遣可被下候 來月五日切ニ御朱印惣て相濟申候由ニ候間如此候 以上
[#ここから3字下げ]
右之御返簡未見る所なし
按するに羽黒山別當天宥江戸※[#変体仮名え]登御朱印を賜はらん事を申立し事ハ當三月なるべし 然れとも奉行所にて思し召旨あり延引して此時に至りて御朱印を賜ふべきに定りし故 井上侯並圓覺院より右之趣御文通ありしなるべし 三月中寶前院より指出候と相見候書付壹通左之通
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一高千百九拾貳石壹斗三升壹合
庄内羽黒別當持傳候所越後景勝切捕候てより社領不殘被爲押領爲佛供領右之通御座候亂國故歟判形無御座候 一向ニ無程最上出羽守手ニ入社領ハ無異儀候 是又亂國故歟判形無之候 其後慶長十六年ニ出羽守代庄内郡代原美濃守石高村付之判形有之一高三百八石壹斗六升ハ別而別當所※[#変体仮名え]寄進最上駿河守判形御座候
二口合高千五百石貳斗九升壹合
  寛文五年             羽黒山別當
    巳三月廿六日            天宥 判
[#ここで字下げ終わり]
 此天宥の調書は幕府に差出したもので、天宥は羽黒領を多からしめんが爲めに種々の工作を爲してゐる。先づ最上義光は別當料として三百石を寄進したのを、別當宥俊は岩根澤日月寺附近の土地にて貰ひ、義光歿後宥俊は駿河守家親に請ひて岩根澤三百石の土地を羽黒附村杉村の地に取替へたことは前編に述べたが、之は信ずることできぬことであつて羽黒修驗の工作であることも前編に述べたのである。今回の朱印請願調書には此三百八石余を別當料として別項にして書上げた。羽黒には義光黒印状、別當料三百余石の家親黒印状は殘存しない。又其寫しも無い。次に寛文五年七月下附された朱印状も無いからして、正確なる事は不明である。只後世の目録によりて見るに村杉村三百余石は朱印下附され、村山郡顏吉村五石余は除かれた。要するに天宥の村杉三百餘石は工作が成就したではないかと思ふ。
 社領朱印下附は莊内藩の添状は無いが爲めに追々延びた。莊内藩では添状に山林の境界未定に付追つて協定することを記入することを要望し、天宥は今回境界を定めて朱印下附あらんことを望んだ。互に確執して居れば羽黒朱印は下附されない。依て天宥は寺社奉行の要求に應じて天宥より莊内藩に山林境界は折つて取究めるとの念書を入れて、莊内藩の添状を出すことに決した。この添状の案文は莊内藩より井上河内守に作製方を依頼し、之によりて添状を認め、天宥よりは九月二日念書を莊内藩に入れ、添状を天宥に渡して朱印下附は進捗した。
 (酒井家世記)
[#ここから3字下げ]
九月朔日
此日羽黒山寶前院事ニ付井上河内守殿※[#変体仮名え]之御返書外ニ壹通左之通
[#ここから4字下げ、地から1字上げ]
御手紙令拜見候然者羽黒山權現社領添状文言御調被下得其意忝存候則相調寶前院所へ遣可申候圓覺院へも昨日之返状遣可申候寶前院書付一通請取申候 以上
  九月朔日               御名(酒井忠義)
    井上河内守樣
以手紙申達候然は昨日被仰開通羽黒山寶前院ニ山林境目未知不申候由之證文仕候ハヽ添状遣申可之由申開得ハ寶前院合點不仕ニ付右の添状相渡不申候爲御意得如斯御座候 以上
  九月朔日               御名(同上)
    井上河内守樣
[#ここから3字下げ]
二日
羽黒山寶前限[#「寶前院」か]天宥より在江戸御家老末松吉左衞門公俊※[#変体仮名え]指出候證文左之通
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羽黒山之境に今不埓ニ御座候條何時代其境相定可被下候右之趣井上河内守樣へ申上候得共末代迄之儀候間被成御口入境被相究可被下候由難有奉存候
  寛文五年巳九月二日     羽黒山別當
                     寶前院
    末松吉左衞門殿
[#ここから3字下げ]
三日
此日寶前院天宥か爲に井上河内守殿加々山甲斐守殿※[#変体仮名え]左之御書を被遣と云々
[#ここから4字下げ]
出羽國飽海郡羽黒權現社領高千五百石貳斗九升余并境内山林從先祖無相違御座候但山林境之儀未致落着ハ追而遂穿鑿境目相定可申候其心得可成被候拙者領内にて御座候故寶前院添状進候樣ニ相願候間如斯候遲儀御座候得共可相成儀候ハヽ御朱印被成下之樣御取持頼入存候 以上
  九月三日               御名(酒井忠義)
    井上河内守樣
    加々山甲斐守樣
[#ここから3字下げ]
右羽黒山御朱印之儀以上之御書面を以考ふるに初め別當天宥姦智を恣にして御家の助けをかる事を悦はす自己之才覺を以社領千五百五拾石羽黒湯殿月山三山之山林境内先規より免除之趣を申立公聽を掠め御朱印を賜らん事を謀りしと見へたりされと御當家より御添状なくして賜ふへからさる旨仰出されしかは日光御門主之威光をかり御家に乞ハしめおのれ手を束て其欲を遂んとす其姦智想像するに堪えたり然るに御家より山林境目の儀ハ干今不知明之旨被仰出といへとも天宥改て承腹無之と見へたり依之山林境目いまた知られさる趣天宥證文を不仕においては御添状は被成下間敷由仰られしと見ゆ是に至て彼か姦計窮し御當家の御指圖に隨ひ九月二日末松公俊※[#変体仮名え]の證文を指出せしと見へたり依て同三日御添状を被成下御朱印を賜ハりしなるべし
御朱印の寫し左のことし
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出羽國飽海郡庄内羽黒山權現社領同所之内千五百石余之事任先規寄附之畢并境内門前山林竹木諸役等免除如有來永不可有相達者也仍如件
  寛文五年七月十一日
[#図版(010.jpg)、○に家綱]
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右御朱印の月日七月十一日と有按るに右に云へることく羽黒御朱印之事彼是延引し九月に至て治定して御朱印を賜はるといへとも惣て寺社領への御朱印は七月十一日に被下之候故同日の月日を以て賜ハりしなるべし
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 徳川氏の領地朱印には普通領地目録を添付するものであるが、今回の羽黒の朱印には目録の寫しも傳はらない。且つ前記の朱印状には千五百石余とありて明確なる石高は明かで無い。門前とは手向部落のことである。
 要するに羽黒社領を確證すべき上杉、最上の黒印目録の殘存するものなく、殊に義光黒印状は六十通もあつたのを悉く今回の寛文後の朱印申請に各坊より本寺に集めて燒失したと傳へて原本は一通も傳はらないばかりでなく、寫しも一二通の外無いのである。實に怪訝の至りである。或は天宥が社領を増さんが爲めに故意に煙滅[#「湮滅」か]を企てたものかと思はる。左に義光黒印高に關する二三資料を掲げて其實際高を檢討して見る。
 (松平武右衞門記録 一二〇ノ二番)
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左ノ通舊記ノ内ヨリ抄出ス
 羽黒山知行村々高都合千八百八拾石九斗壹升壹合貳夕六才
  内千四百六十石貳斗三升六合ハ
    元和八年宮内大輔入部之時分御上使衆より相渡候御帳面
  同四百貳拾石六斗七升五合貳タ六才ハ
    宮内大輔入部以後改竿之時分右千四百六十石貳斗三升六合之村々より出高之分
      目録之事
   最上殿判形之分寶前院午四月書出候高之事
高千五百石貳斗九升余
 内千四百六十石貳斗三升六合は
    右御上使衆御帳面之高
 同四拾五升四合は
   羽黒麓ニ最上殿代判形表有之由書上候
 右一通
     覺
高千五百石貳斗九升壹合
    羽黒神領最上出羽守殿判形有是由寶前院巳正月書出候高
 内千四百六拾石貳斗壹升六合は
    元和八年宮宮内大輔入部之節御上使衆より相渡候御帳面高
 同四拾石五升五合は
    右御帳面之外最上駿河守殿判形御座候由
  申二月五日
右一通
[#ここで字下げ終わり]
 以上は莊内藩の調高であつて元和八年の引繼高は羽黒領千四百六拾石貳斗三升六合で、之が義光黒印高である。然るに天宥は寛永十二年十二月十八日の朱印申請書に千四百七十二石三斗三升六合とし、寛永五年の申請書に千四百六十六石二斗六合とし、何れも村山郡顏吉村を書上げた。更に同五年三月廿六日の書上には千五百石貳斗九升一合として最上家親の寄進の別當料三百八石を加入してある。以上の天宥の書上高に異動ありて一定を缺いた所を見るも、社領を増さんが爲めの工作であることは明かである。次に別當料三百石は村山郡岩根澤の地であれば、元和八年の莊内藩の引繼高に入らぬことは當然である。其後寛文五年の朱印申請の時に岩根澤三百石(或は百八十二石或は四十石五升五合ともあり)は宥俊代に田川郡村杉村に替えたとして加算して申請した。この別當料は天宥が書出したもので工作の疑あることは前に述べた通りである。寛文七年智憲院等の訴訟の陳述を見るに古來羽黒領は千三百石であるを天宥は千五百石と僞りて公儀より朱印を頂戴したとあり。次に朱印下附されて千五百石餘とありて概數だけであるが、文政四年の社領調に御朱印面高千五百三十石一斗四升三合九勺とあれば、之れが寛文五年七月の朱印高である。
 社領は朱印下附にて一段落を告げたが、羽黒山、月山、湯殿山の山林境界は後日の接衝にて取究むることに念書を入れて保留となつた。朱印状に羽黒山を飽海郡としたのは、天宥の書上に據ることであらうが、延喜式に月山神を飽海郡とあるに據つたので後世の所謂勸請である。羽黒山は田川郡である。
 寛文五年七月十一日は全國の諸社寺に領地朱印を下附し、且つ社寺條令を頒布した。大井澤大日寺、本導寺、大道寺、慈恩寺の寺領も此日下附された。本道寺々領六石五斗、寒河江、柴橋、村木澤であつて、之について羽黒方では柴橋から買入れた土地であるとか、朱印は僞筆であるとか云つてゐるのは、羽黒方と眞言四ケ寺とは多年仇怨の結果である。〈○寛文六年本道寺書上羽黒山古實集覽記〉
 羽黒寺領の寛文五年朱印高は千五百三十石一斗四升三合九勺であつて、其約半額は田川郡京田で小京田平京田北京田の三ケ村高の合計である。この三京田は鶴岡の西々北にあつて羽黒領の重要地で、之等の領地は何時頃から領有したかは明かで無い。鎌倉初期承元三年(一八六九)に地頭大泉氏平が羽黒領を掠略したのは之等の土地であるや否やは明かでない。京田の字義を檢討するに羽黒の舊記には經田ともありて、正保莊内繪圖に京田、寛永十二年天宥書上より經田としたやうだ。三山雅集には「准妙典十經而令寄附福田料是謂十經田也云々今に十經田の跡として平經田小經田北經田と云る村々羽黒の神領たり」とあるも妙典十經の出典が明かで無い。佛經では佛法僧の三寶を恭敬供養すれば無量の福分を生ずるを以て敬田《キヤウデン》と云つた。田に種子を蒔けば果實を得るに例へたので福田、敬田、悲田の三田あり。聖徳太子は敬田院を天王寺の内に建てた。この敬田が京田となつたでないかと思ふ。經田としたのは天宥の附會でありて故事の無いことらしい。

     八 天宥再び眞言四ケ寺を訴へて敗れ湯殿山羽黒と分離す

 天宥は湯殿山四ケ寺を羽黒末となして、然る後ちに湯殿山を合せて天臺宗に改宗せしめ、三山を統一せんとしたが、寛永十六年十一月訴訟にて敗れた。同十八年天宥は天臺に改宗した。之によりて湯殿山並に四ケ寺は眞言宗であれば羽黒との關係は宗派を異にすることゝなつたので益々分立の形ちとなつた。之れは羽黒の大損失であつて、登山信徒の爭奪は益々烈しくなり、羽黒方收入にも大なる影響を來たしたことゝ思ふ。寛永十六年の分離以來二十六七年も經過したが、羽黒方では此儘にて放任することはできないので、寛文五年天宥は眞言四ケ寺の轉宗を幕府に訴ふることゝしたのである。
 之については天宥は寛永十六年の敗訴後より種々なる工作を考案したのであつて、次に述ぶる京都傳奏方水無瀬中納言に親近したのも之が爲めであらう。承應二年天宥江戸にて日光門主守澄法親王〈後水尾天皇/第三皇子〉に請ひ、京都傳奏方水無瀬中納言の實子覺樹院宥海が守澄法親王の弟子であつたのを讓り受けて天宥の弟子と爲した。宥海時に年十六である。同年五月天宥宥海を伴ひて羽黒に下着し、八月宥海江戸に歸つた。莊内藩では宥海を饗應歡待した。〈○中興覺書〉天宥は從來羽黒の一世行人は京都烏丸大納言家の支配を受け位階を同家から授與されて來たのを羽黒支配と爲さんことを企て、水無瀬中納言に頼んで禁中の記録を調査し、蜂子皇子の事蹟が判明した。依て此理由を以て一世行人を羽黒支配と爲し、上人號を羽黒執行より免許することゝ爲し、上人に昇進する行者は入峰修業の上開山堂〈蜂子皇子〉に於て黄衣を授くることゝした。
 (羽黒山中興覺書)
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一羽黒派一世行人號ハ中頃於京都麩屋取持にて烏丸殿御家より被出候由緒分明ならさるにより天宥江戸行人頭へ上人號出る所可聞届旨被申付 淺草聖天折町正徳院ハ所生京都者にて三條橋本ニ行屋あり 上京して密々相尋 依て委細聞届て罷下り天宥へ申傳候 夫より東叡山へ願被申立 覺樹院實父中納言殿禁中記録所へ被相尋 羽黒開山能除大師事御記録有之由 中納言殿より覺樹院へ御書到來 向後行人の上人號羽黒より令免許由東叡山にて究而罷進ミ行人入峯にて上人ニ進む時ハ開山堂ニおひて黄色之衣補任頂戴して着用之事ニ定候
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 之に關して京都と往復文書も無く、又水無瀬中納言の蜂子皇子事蹟調査も甚だ疑ふべく信ずるに足らざることゝ思ふ。天宥が行人を強制的に羽黒に所屬せしめたのを水無瀬中納言に事寄せて体裁を能くしたに過ぎぬことであらう。天宥は一世行人を羽黒支配と爲した餘勢を以て、關東、奧羽の行人を悉く羽黒支配となさんことを企てた。江戸の羽黒派修驗六院を羽黒派の行人頭と爲し、又別に四院を老分と爲し、以上十院を十老と唱へ、輪番を立て、幕府の用務を司らしめた。此外奧州白河より福島迄に二院の修驗支配を置き、其他諸國に錫杖頭を置いた。之れは羽黒改宗以後分離しかゝつた修驗の統一強固を謀つたのである。〈中興覺書〉
 羽黒の天臺改宗の結果從來の羽黒末修驗に動搖を來たし、又羽黒と莊内藩との關係は事毎に衝突不和を生じ、之が爲めに羽黒の不利なることは甚大である。是に於て之を憂へたのは覺樹院宥海であつて、明暦二年宥海江戸より下だり羽黒にて入峯修業を遂げて江戸に歸つた後ち寺社奉行井上河内守に依頼して、天宥をして莊内藩との不和を解除し、天臺を眞言に復宗するやうに説得されんことを頼んだ。河内守之れが内意を江戸十老に告げたからして、十老普門院は羽黒に下り之を天宥に告げた。天宥之を聞いて如何でか承服すべき他人の力を借るに及ばないと決意を見せた。
 (羽黒山中興覺書)
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一羽黒山眞言宗之刻ハ最上莊内の末寺數多有之相倍する所ニ天宥代ニ天臺宗ニ改る 最上莊内の末寺共替宗を違背し專ら眞言宗を立つ 依之度々及異論といへ共天宥御領主と不和成故城主權威を以及違背無據學樹院末現住の内故寺社御奉行井上河内守樣へ被及御聞天宥申出候ハヽ古來之通可被仰付旨依御内意 江戸十老之内普門院下着して御内意之趣天宥へ申聞候得共 他の力を貸るに不及とて打捨置たり怪しき事也
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 天宥剛腹にして今更之に服する筈が無い。之より天宥は宥海を快しとせずして師弟の關係を絶つ決心をした。寛文元年三月宥海江戸より羽黒に下らんとて岩根澤に着いた。そこで天宥は東叡山役僧に書を認めて、宥海を比叡山に學問修行に遣すことゝし、宥海に此書状を持たしめて江戸に還らしめた。之より天宥は東叡山の信任を缺き井上河内守の感情を害したので、天宥の企てた爾後の事件に大なる不利を招いだことは結果を見れば明かである。宥海は之より和歌二首を殘して遁世所在を隱した。
 (同書)
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一寛文元辛丑年三月江戸より學樹院岩根澤へ下着 天宥より東叡山役者衆へ書通有之 依之學樹院歸府して比叡山へ爲學問とて罷登候 譯は不知
一同四甲辰年七月學樹院宥海遁世住所終ひに不知 天宥へ上野より御状到來和歌二首共下る
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夢の世に幼なる身の生れ來てつゆに宿かるいなつまの影
槿の花の上なる露よりもかろく仇なる世にゆくそかし
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寺社御奉行井上河内守樣は學樹院の姉聟也仍て羽黒の事は御如在ニ不思召候所 天宥隱居の時節を不顧 學問の爲と言て學樹院を關東へ不送返候故學樹院遁世し給ふ 夫より河内守樣天宥を不届ニ被思召故散々に不首尾ニ相成候
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 寛文五年天宥社領朱印用にて江戸に居つた際に、眞言四ケ寺の天台改宗を幕府に訴ふる決心を爲した。羽黒より衆徒惣代愛染院圓堯大乘院寛海を江戸に登らしめ、十一月訴状を寺社奉行に差出した。同月奉行は明六年正月二十七前[#「二十七日前」か]に眞言四ケ寺を出府せしめ對決を行つた。
 (酒井家世記)
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 寛文五年十一月
是月羽黒山別當天台宗寶前院と湯殿山別當眞言宗四ケ寺と法流之儀異論におよひ寶前院より江戸寺社御奉行所へ目安書指上と云々左之通
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     謹而言上
出羽國羽黒山之濫觴は人皇卅三代崇峻天皇第三之宮能除太子湯殿山羽黒山兩山被開基大日如來より直に常火切火授給故羽黒山常火切火之根本にて行人修驗肝要仕候然ル所湯殿山七口之坊舍之内岩根澤臂折荒澤三口は羽黒山之下知を相守候殘る四口之者共相隨不申候故先年より御訴訟申上事に候其上常火切火猥ニ罷成候而羽黒山行人修驗迷惑仕候間最上慈恩寺之寶藏坊保土内村〈○本道寺〉之林光坊大井澤之大藏坊庄内大網之注連掛坊大日坊五ケ寺之者共被召寄御穿鑿被成可被下候事
右之御下知奉仰候仍如件
  寛文五年          羽黒山  寶前院 印
   己霜月          同    衆徒  印
    御奉行所※[#変体仮名え]
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如斯訴状指上候之間致返答書來年正月廿七日前に江戸※[#変体仮名え]致參府可遂對决候於遲參は可爲不届者也
  霜月  日             井 河内 印
                    加々甲斐 印
   寶藏院
   林光院
   大藏坊
   住連掛[#「注連掛」か]坊
   大日坊
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 慈恩寺寶藏坊は湯殿山七口の中でないが、天宥は之をも合せて羽黒支配と爲して天台に改宗せしめんとしたのは天宥の剛愎の迸りである。慈恩寺衆徒は之より眞言、天台に分れて今日に至つても分立を續けてゐる。眞言四ケ寺は同六年正月江戸に上り奉行所に於て羽黒派と對決し、二十七日左の答辯書を出した。
 (酒井家世記)
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寛文六年正月廿七日
舊臘十一月羽黒山寶前院江戸表※[#変体仮名え]訴状指出申候ニ付庄内湯殿山注連寺大日坊より今日返答書御糺明之上湯殿山理運之趣御裁許之御證文被成下と云々

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      謹而言上
今度上火切火羽黒根本にて禺僧等爲門葉旨殊湯殿山能除太子開基之由無謂僞ニ御座候 羽黒山は各別之儀聊貧着無御坐候
湯殿山にてハ當時淳和天皇之御宇空海和尚開基 同拙僧居住之寺を號湯殿山注連寺赤光院注連掛※[#変体仮名え]則護摩之火を上火切火と名付注連寺共に示し被置候 其證據院内に備御座候 其外弘法太子開山之旨趣國中ニ各所數多御座候 松平出雲守殿寺社御奉行之御時茂羽黒山別當右之不儀申出候得共 湯殿山と羽黒山とは元祖各別之趣之御聞届殊ニ大網兩寺は酒井宮内太輔殿領内ニ候間御下知を可相守之旨被仰付候所 又候加樣之謀斗不憚公義申上候 如先規之被仰付被下候は難有可奉存候以上
右御下知奉仰候粗言上如件
  寛文六年丙午      出羽庄内鶴岡領内
    正月廿七日          湯殿山 注連寺 印
 謹上
   寺社御奉行所※[#変体仮名え]

     謹而言上
湯殿山能除太子開基常火切火根本之由申上候各別之僞ニ御座候 湯殿山は弘法大師大梵字川之水上ニ尋入湯殿山之權現被爲開基候 然而於大網大日灌頂之護摩被爲修此地則湯殿山大日坊と號 上火切火并湯殿山勤行之作法は皆大日經之以法則空海和尚ニ爲示置候 依之廿八年以前寛永十六年卯之年御當所安藤右京進樣松平出雲守樣寺社御奉行之時一ケ寺宛被召出羽黒寶前院と對決仕候節 湯殿山之上火切火羽黒山常火切火執行宗理と各別之段は御奉行所被爲開召分候而面々各々ニ被仰付候 
就夫任先規庄内は酒井宮内太輔殿御領地ニ候間宮内殿御仕置を相守 他寺他山より構もかまわれも致間敷由蒙仰出歸國仕候干今其旨を相守罷在候所ニ又此度訴状差上申事謀略至極ニ御座候
右從古來湯殿坊中上火切火各別之執行有來候所今又先規之背仰出を坊中を掠メ自在成所望ニ候 乍恐御吟味被仰付御下知奉仰候仍如件
  寛文六年        出羽庄内鶴ケ岡
   午正月 日          湯殿山  大日坊
                        衆徒
    寺社御奉行所

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      謹而以返答書奉言上御事
一羽州湯殿山權現者本地法身之大日鎭座幽窟開基之人師者弘法大師爲之祖事世間流布顯然之靈地ニ候勿論上火切火并湯殿勤行之作法皆以依大日經之文空海和尚被爲感得候より以來於干今傳授軌則無怠慢候間羽黒筋之常火切火之事愚僧共者一圓構無之候但羽黒山權現者神体各別之内證ニ候間羽黒開基之元祖并羽黒三昧之常火切火之事者能除太子與申歟其儀者不存候(下略)
一湯殿坊中羽黒相隨乎否之事先年本道寺住持職之老僧相果幼穉之弟子共罷在候處ニ羽黒別當申掠候樣者本道寺を始湯殿坊中皆々羽黒下葉之由申付而慈恩寺之寶藏院并本道寺之脇院泉識梅本と申者御當地※[#変体仮名え]罷登申上候樣本道寺者古來寶藏院末寺之義無其隱候旨以訴状遂言上候殊ニ大井澤村之大日寺注連掛村注連寺大日坊村之大日坊三ケ寺者寺中年寄共上府仕面々各々之來由具ニ申上候得者御老中於總御寄合之場不私成被聞召羽黒別當申分一々往昔之御引付を蔑ニ仕今案之謀叛犯す事大狼藉與御評判之上所詮 東照權現樣御下知以來之以御儀式如往古之被仰付候間益各々之心得を以門徒末寺之契符ヲ糺し居住仕候然ニ寶前院者沙汰之上手ニ候故時々時之景用を考候歟其年より羽黒一山引率し天台宗改宗仕廿七年過去候處亦復此度不顧先例之御支置濫之御訴訟申上候乍此上双方被召寄先規之御引付不私成義歟否之事御探題之上宜被垂賢察進退御下知被仰付候ハヽ難有可奉存候
   寛文六年午正月廿七日       湯殿山別當
                       大日寺
  謹上 寺社御奉行所

      乍恐以返答書言上申事
一略
一大日寺先師清養代ニ大藏と申者家來ニ御坐候へとも師命相背候故最上白岩領主備前守へ致披露候而追放仕候前後大日寺と申寺號を指置大藏坊と名乘無御坐候事
一湯殿山を能除太子被爲開基旨始ならす靈説を言上仕候湯殿山開基之樣体ハ寶前院ハ可存筈無御坐候事
一湯殿山開闢者弘法大師同中古ハ道智和尚にて御座候義諸國其隱無御座候其故湯殿山秘密之山中其證跡共御坐候事
一大日寺義從往古湯殿山別當ニ御坐候故ニ社領ハ御坐候へとも湯殿領前々より所務仕候寶前院ハ大身ニ御坐候へとも羽黒權現之領域ニて湯殿とてハ一石も無御座候事
一略
一上火切火ハ不及申其外湯殿精進之作法共ニ元祖之示ニまかせ寺法相務執心之行者にハ任舊規ニ示出し申候義御坐候羽黒之常火と大日寺ニ元祖示置候上火とハ文字迄相違仕候總而古來より高野山之本寺方より外ニハ他山之下知可相守筋目無御坐候處を再三寶前院非分を申掛候剩大日寺弟子分之行人共ニ迄利欲を構奢之振舞眞言之行人之わさはひニ罷成義向後停止仕候樣ニ被仰付被下度候事
一以先例を寶前院方より使僧并樽代五百文取次之宿坊へ貳百文毎年相濟候へとも三四年以來寶前院我儘仕先例を削相濟不申候へとも御公儀申上候段延引仕敢而構不申候而罷在候乍去此次而を以是等之旨趣をも被仰付可被下御事
右之條々被聞召分御尋於被遊者言上可仕候 以上
   寛文六年正月廿七日        大井澤村
                       大日寺
謹上 寺社御奉行所

   再返答之條之覺事 〈三月十二日/於御評定所〉
一略
一略
一廿八年以前之公事未落着候と寶前院申上候義何れ之機遣ニて只今迄不及其沙汰延引仕候哉先年於御評定所落着申候其證據者安藤右京進樣松平出雲守樣御兩殿より慈恩寺寶藏院※[#変体仮名え]被下候御指紙兩通迄御坐候殊更其時之御老中頭但し阿部豊後守松平伊豆守樣御出坐被遊歟と奉存候事
一廿八年以前之公事落着申たる證據ニ者湯殿權現之爲御供領と伏所者寒河江領柴橋村之内木澤と申在所高六石五斗之所をは慶安貳年之秋大猷院樣之御朱印新たに本道寺拜領仕候若公事未落着御坐候ハヽ御朱印者不被下筈ニ而候其例往々ニ御坐候事
一羽黒山之牛王本道寺にて自由弄ぶ子細之事湯殿山月山參詣之通路并古ハ志津村と申十四間之在家者本道寺之門前にて御坐候其上水木爲白由之併爲其禮設與永錢壹貫百文宛元來於干今御公儀※[#変体仮名え]納置候而本道寺自由申道者路をハ羽黒筋より參り下向之道者衣を掛こしに相通由申候間本道寺中斷候樣志津村より祖母月光迄之道者通路之道ハ本道寺御役禮を相勤め自由申所ニて候條羽黒下向之掛こし道者を通し申事不罷成候與防き申候依之色々佗言仕候付供すそかるその爲其例義降參之印迄與他山之牛王なれとも本道寺にて自由仕候依之牛王ニ付ては還而本道寺申分之龜鏡ニ御坐候先年之公事をも此牛王と其外舊例色々利運之子細御坐候而本道寺勝公事與被仰付候其四ケ寺共ニ羽黒山之牛王を弄び候て羽黒之由挽へ候歟不審も可有之候然ニ餘山之三ケ寺者各々之寺號山號を以牛王を判し候ニ本道寺一ケ寺羽黒牛王を取持事者道者之通路供し申たるの證據にて御坐候事
一略
一略
一略
一略
一略
一湯殿山月山羽黒山葉山と申候而四ケ所之拜之所何れも各別之靈地にて候を寶前院申上候樣ハ湯殿山月山共ニ羽黒山之社内ニ候と申上候事 是以恣之申上樣ニ候其故ハ湯殿山者全く酒井左衞門尉殿之御私領ニて候又月山與申者最上庄内之境目ニ月山權現堂御坐候 其御堂之前殿貳本之地形より南之方ハ最上白岩之分ニ御坐候而今程ハ御領所ニ罷成候其御堂之内前殿二本之柱より北之方ハ庄内分にして尉殿之御私領分ニ御坐候然者〆而鉢守を社依御免許最上口庄内口之別當共所務仕候所之領内迄を御領私領と嫌ひ無之羽黒山之社内と申上候事旁以狼藉無道之申上樣ニ候事
一月山權現と申し各別之拜ミ所御坐候此月山權現之御堂者最上庄内之境目ニて候故若御堂立替へ申候て前殿二本柱之敷地より南之方ハ最上分之地形にて御坐候故往古より之儀式にて最上源五郎殿之家中白岩備前守私領の時代迄ハ前柱二本をは白岩之地頭より被爲寄進候故其安堵之爲禮儀と御堂之鉢守を社執行と申者白岩之地頭※[#変体仮名え]永錢拾貫文宛相濟候殊更最上口之月山別當ハ本道寺并同村佐藤常陸布施新左衞門と申候而月山權現之三別當仕候得者即刻三別當所※[#変体仮名え]禮錢音物調候而申渡候樣者權現堂之御戸開仕候條月山參詣之道者衆御坐候ハヽ御堂※[#変体仮名え]被爲參候樣三山先達衆※[#変体仮名え]仰付給候得由にて執行所より年々三別當※[#変体仮名え]使僧指遣候其音信無之候得者月山參り之山初穗をは三別當所務仕候然ニ前の執行相果今之寶前院執行代仕候以後去寅ノ年より去年迄五年之間其舊例中絶仕候而先例之義式を欠き申事寶前院機隨仕故にて御坐候乍御次而も定例之禮義音物不仕候ハヽ自今以後ハ定例之山初穗を三別當之所務ニ仕候樣ニ御下知奉仰御事ニ候事
一略
一寶前院廿八年以前迄ハ眞言宗に而罷在候處先年之公事合負ケ公事ニ罷成候其年天臺宗ニ改宗仕候と愚僧共申上候得者正月廿七日之對決ニ廿五年以來天臺ニ宗門を替へ候と御兩樣於御前ニ寶前院直ニ申上候其底意御諒察被下候事
一寶前院申上候ハ湯殿山坊中今時拙僧共三代以前迄ハ修驗職ニて候ニ三代以來眞言宗ニ罷成候と申上候然に本道寺立ち始り一度ひ退轉之後中興以來之血脉并過去帳等を見申候得者中興空山と申沙門より愚僧に至る迄其間の代數拾五代之相續分明ニ御坐候三代以來と申と拾五代と申とハ拾二代之相違御勘合被下度候事
一一世行人者何れも海號と申候而或は尊海行人或ハ信海行人等と名を付海之字を案し申事是又空海和尚之諱之方字を取申候と承候其故ハ昨今之髮切り無知無階之行人成共空海和尚之支流を汲て今世後世助り申故總してハ戒師之源見を報せんため兼ハ師跡之法令を思慕するの意を以諱之方字を授り海之字を案し申と傳へ申御事
一一世之行人入定之圖を見申候得者眞言乘之八代高祖を書立て候年代者永祿拾貳年と御坐候今時只今より百拾七年以前書申たる物にて候御事
一湯殿行人之水を浴ひ申作法と上火鑽火燒き付申作法之切紙を本道寺九代以前之先師尊永と申沙門大永六年ニ書申たる物御坐候此年代勘へ候得者百三拾四年以前と見※[#変体仮名え]申候是又三代以前と申ニ者六代之相違にて御坐候事
一修驗宗者能隊[#「能除」か]太子以來と申上候無其證事ニ候修驗職之法則我朝ニ流布仕候事者役小角以來と相見申候凡役小角者才智發明故ニ飛行自在不思儀神通之故ニ顯密之爲元祖龍樹大士を師として授からるゝと承候此旨師練禪師之表釋ニ見※[#変体仮名え]申候事
一寶前院指上ケ候訴状ニ保土内村之林光坊と書上ケ申ニ付申上候凡本道寺村と申處者今程者御領所ニ罷成候其御代官所松平清左衞門殿よりの御制札等にも本道寺名主百姓と御書付被下候又御年貢米等之指上ケにも本道寺村名主百姓と書上ケ申候是儀本道寺之坊跡立ち候て以後開け申たる在家之故ニ村所之名にも本道寺村と申來候處ニ其村所之名も寺號等も不存候而乍罷有右之通申上候事誠重々之僞り者にて候御事
一略
一略
一一世之行人と申事者眞言宗之一生則身佛と申之異名にて御坐候と申傳候事其故ハ餘敬之遠劫成佛と異して眞言宗ハ即身成佛之法門を立て申事 空海和尚不弘成昔弘仁之帝之依勅許十住心論等被編置候事他師之表録釋書等ニ見※[#変体仮名え]候事
一略
[#ここから3字下げ]
右湯殿行法之内證弘法大師觀解之條々愚痴無智之拙僧共ニ候得者百分之一も不被申披候願者眞言一宗新義古義之本寺方※[#変体仮名え]被成御尋被下度事
  寛文六丙午年三月九日         本道寺
    寺社御奉行所
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 天宥の對決に於ける論旨は明かで無いが、羽黒山は往昔は天臺宗である。隨つて湯殿山は天臺宗の山であると主張したらしい。それで寺社奉行より羽黒の天臺宗である證據を出せと云はれた。是に於て困惑したのは天宥であつて終に羽黒の佛師大林院の夢の告げと稱して五重塔本尊の腹籠り文書あることを知つて、之を奉行所に差出した。
 (羽黒山中興覺書)
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一同五巳年御朱印頂戴の刻天宥江戸在府ニ付愛染院圓堯大乘院寛海被爲呼衆徒爲惣代公義※[#変体仮名え]出訴す 今度本寺違背之四ケ寺本道寺大日寺注連寺大日坊召状ニ付江戸登被仰付數度對決す 眞言方より申上候ハ羽黒山古來より眞言宗ニ御座候所寶前院法を背任我意一山共ニ改宗爲致天臺宗ニ罷成候旨申上候付 寶前院ニ宗門之古例御尋被成候仍て東叡山よりも古證文天臺宗と申儀有之候はゝ可差出旨被仰出候へ共慥成古記等無之山麓詮鑿すれ共無御座一山騷動す 然所五重塔本尊の御腹籠りに天臺門の印書有之由佛師大林院へ夢中之告あり 仍て令披露別當役人立合本尊の像を開見に印書あり
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應安五年正月十一日天台沙門勸學院尊藏大日本國出羽國羽黒山五重塔本尊建立檀主天津兒屋根二十一世孫大織冠十二世之廟裔大政大臣藤原道長末流前駿河守藤原朝臣氏家
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初に此通之書付并諸經等書付卷物にて有之候付早速江戸へ爲登 此古書によつて天臺宗に究り公事落着被仰付候へ共天宥は井上河内守樣又御領主と不和成故公事無首尾也 目安返答書御裁許状別紙にあり
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 此腹籠り文書は僞書である。其理由は勸學院尊藏は學頭尊増のことで應安五年より四五十年後に生れた人である。次に拾塊集の學頭尊量の傳に尊量は尊増に密乘を稟くとありて、尊量は眞言宗である。寺社奉行も此文書に信を置かなかつたものゝ如く其判決書に双方愼成雖無證文とあれば僞書と見たのである。寛文六年三月廿二日裁判は終決し、眞言四ケ寺の勝訴となり、湯殿山法流は眞言宗であると言渡された。
(酒井家世記)
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羽黒山天臺宗寶前院と湯殿山眞言宗本導寺[#「本道寺」か]大日寺注連寺大日坊湯殿山法流之儀就[#二]異論[#一]度々令[#二]糺明[#一]之所双方慥成雖[#レ]無[#二]證文[#一]眞言之四ケ寺申處理運ニ相開之條近代之通湯殿山法流可[#レ]爲[#二]眞言宗[#一]爲[#二]後鑑[#一]兩山※[#変体仮名え]成[#二]下知[#一]者也仍如[#レ]件
  寛文六年三月廿六日         甲斐 各印判
                    河内
                    内膳
                    美濃
                    但馬
                    大和
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 去る寛永十六年十一月の裁判々決には大日坊注連寺は眞言宗であつて、酒井氏の指揮を受くべく羽黒の關渉を受けてならぬことは從來の通りであると言渡された。今回の裁斷には湯殿山法流即ち四ケ寺は眞言宗であることは近代の通りであるといふ言渡しである。前後二回の裁斷は全く同一結果に歸するものであつて、今回の裁斷にて湯殿山は眞言の山であることが明瞭となつたのである。隨つて湯殿山は羽黒、月山とは明確に分離したことになつた。而し天臺宗の羽黒衆徒が湯殿山に參詣してならぬことはないのである。されど湯殿山に參詣する者は眞言宗の法儀に據らなければならぬは當然であらう。
 羽黒にて寛永中に眞言を天臺に改宗した頃に村山郡白岩慈恩寺の衆徒にも眞言派と天臺改宗派の論爭ありて、非改宗派の眞言派は寶藏院と云つた。寛文二年五月十八日幕府に訴へ、八月十八日裁斷あつて「天臺眞言唯今迄可爲如有來」と言渡された。恰かも寛永十六年の羽黒と眞言四ケ寺の裁判々決と同じ言渡しである。之より慈恩寺では爾後長く兩派相爭つたことは羽黒、湯殿兩派と同じである。寛文五年十一月天宥は慈恩寺寶藏院を湯殿四ケ寺と合せて訴へた理由は之にあるのである。
 今回の裁判にて湯殿山と完全に分離した羽黒の損失は實に大であつて、眞言時代に湯殿山を羽黒修驗道の即身成佛の靈域としたのが、分離しては羽黒修驗道の組織を破壞し、年々多數の道者は即身成佛を目的として湯殿山に參詣するのであるが、之も四ケ寺に取られた形ちとなつた。是に於て羽黒方の苦慮する所となり湯殿山を除いて最上郡の葉山を三山の一としやうとしたが、到底湯殿山を離すことはならぬ。依て湯殿山をば不言不語の山又は戀の山として湯殿山の事については一切言語に出さぬことゝして參詣者を戒めたのは、湯殿山の他宗の山であることを知らしめぬ考案に出たものらしい。戀とは言字の兩側を糸にて縛ばり其下に心字を置いて心で慕うことで言語に出してならぬ義である。
 天宥の湯殿山の訴訟に二回とも敗訴した理由は、古來眞言である四ケ寺を他宗の者が改宗せしむることの無理であるばかりで無く、湯殿山並に大日、注連二ケ寺は莊内領であり、他の大井澤本道寺は幕領であれば、訴訟が起れば其領主が援護するは當然である。且つ天宥の野心は月山、湯殿山をも羽黒境内とせんとする大目的あるので、莊内藩とは根本から大衝突をしてゐるのである。之を觀破して天宥の無理な訴訟を撤回せしめようとしたのは覺樹院宥海であつた。宥海は東叡山の弟子であつたからして、東叡山の貫主以下も天宥の無謀であることを認めて宥海に勤めて寺社奉行に天宥の訴訟を撤回するやう内願せしめたものである。天宥の剛腹は毫も讓歩することを拒んで飽くまで戰つたのである。

     九、智憲院等五人天宥を幕府に訴へ天宥大嶋に流罪に處さる

 天宥の羽黒繁榮策は羽黒内部の改革は皆好成績を擧げたが、外部に交渉を要するものは皆失敗に歸した。其外部交渉の事件は悉く羽黒に重大關係を有するものばかりであつて、一、湯殿山の併合訴訟 二、増川山の羽黒領事件 三、眞言四ケ寺の天臺改宗で、此三件は全く失敗に歸したのであつた。羽黒衆徒は最初より天宥の非凡の才力に壓されて其繁榮策について一人として反對するもの無かつた。然るに前記の外部の事件が順次に羽黒方の敗訴となり、其三件が何れも羽黒に重大影響を及ぼすものばかりであれば、衆徒中に漸く天宥の企圖につき危惧を抱くものができた。羽黒衆徒に先んじて之を憂へたのは東叡山であらう。東叡山の役僧等は天宥の改宗と莊内藩との不和は發展上に大阻害を及ぼすことを觀破して、覺樹院宥海をして寺社奉行にまで陳情せしめたのである。
 羽黒衆徒等は寛文六年三月二十二日の敗訴を聞いて、爾後に殘る所の莊内藩との三山境内境界に關する問題は之迄の訴訟の結果に徴して到底勝算の無いことを覺つたので、隨つて天宥に對する信任に破綻を來たしたのである。天宥は三四月の交に江戸より羽黒に歸つた。其後の山内に於ける景況は徴すべきもの無いが、衆徒は天宥の猶境界問題について爭はんとするを押切つて、同六年五月十五日連署して莊内藩に請願書を呈出し、社領の境界を爭ふことを止め從來の通りに爲されんことを請ひ、且つ天宥の境界に關する爭意を閉止することを附言した。
 (酒井家世記)
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寛文六年五月十五日
羽黒山社領之境御改可被成之旨御沙汰之所同所衆徒共より境目御立之儀御赦免被成下是迄之通被成置被下度旨連判を以今日岡田九右衞門〈○莊内寺社奉行〉※[#変体仮名え]左之通訴状差出すと云々
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     謹而御訴訟
一今度御領分と羽黒山社領之境目御立可被成由蒙仰候得共先規より只今迄有來通ニ被成置被下度候爲其山麓之衆徒以連判御訴訟仕上は縱寶前院此儀ニ付申分御座候共申させ間敷候此旨宜被仰上奉願候 以上
  寛文六年            羽黒山衆徒
   丙午五月十五日           花藏院
                     正穩院
                     知憲院
                     經堂院
                     聖坊
                     北之坊
                     明光坊
                     光林坊
                     寶積院
                     玄陽院
                     正善院
                     大善院
                     常善院
                     安養坊
                     寶乘坊
                     圓覺坊
                     竹之坊
                     大成院
                     眞田隼人
                     太田常陸
                     眞田式部
   岡田九右衞門殿
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莊内藩では此請願書を天宥が境界に異議を申立てさせぬことを加筆訂正を命じ、然る上に受理した。
 (自坊記録)
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寛文六午年
鶴ケ岡より境御立可被成旨被仰進任其意候ハヽ先年増川の者共相立候境御用可被成哉左候得ハ又候及公訴候儀故依而衆徒衆談し鶴岡※[#変体仮名え]訴状差出
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     謹而御訴訟
今度御領分と羽黒山社領の境目御立可被成旨蒙仰候得共從先規只今迄在來通ニ被成置下度候爲其山麓衆徒以連印御訴訟 ※[#右上に○]申上候[#「申上候」は罫囲み] 此旨宜被仰出奉願候 以上
  ※[#右上に○]鶴ケ岡より御加筆
    ※[#右上に○]仕候上者假寶前院此義ニ付申分御座候共申させ間敷候
  寛文六丙午五月十三日
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 之で莊内藩との境界懸案は爭はぬことに決した。中興覺書には萬治と寛文六年の記事を混淆して書いてゐる。
 然るに天宥の爭意は之で止まない。更に方策を案出して他日再び爭はんとする方針を企てた。其方策は天宥の別當後繼者を名門勢家より迎へて其勢威を借りて失敗を挽回せんとした。之れが又羽黒衆徒等の最も好まぬ所である。承應二年京都傳奏方水無瀬中納言の子覺樹院宥海を東叡山より讓り受けて天宥の弟子としたのも之が爲めであつたが、宥海は天宥の訴訟に反對したが爲めに出された。次に寛文五年天宥在府中に東叡山淨圓院の尊重院圭海を弟子とすることを内約した。圭海は京都より東叡山門跡に隨伴して來た公卿出で、之を院家と云つた。
 (羽黒山中興覺書)
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一天宥江戸逗留中院家尊重院圭海に附弟の内約あり 時に寛文五己巳年の冬也此院家は將軍家綱公の御母儀寶樹院殿の御弟の僧にて元は日蓮宗なるを改宗して比沙門堂御門主公海の御弟子と成り於東叡山公義より寺御建立にて知行二百石御寄附たり淨圓院是なり
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 寛文七年正月天宥は東光坊正意を江戸に遣はし東叡山に年賀を述べ且つ別當の後繼について内談を爲さしめた。二月東光坊歸山して東叡山執當圓覺院住心院の返書を齎らした。之によれば淨圓院圭海は將軍の命で江戸を去ることは許されぬ。之れでも宜しければ羽黒別當就任を取計ふから一山の會議を遂げて申請書を出せとの事であつた。依て天宥は院代大乘坊をして一山會議を開かしめたところ、山麓の衆徒は一人として異議を唱ふるもの無かつたが、山上の衆徒は容易に之に同意しない。中にも山上の智憲院榮秀・愛染院内堯・能林院・竹之坊・儀本坊など反對した爲めに、當日の會議は決する所無く終つた。翌日前記の五人は別當に對して大乘坊一人に山務を任かすことは弊害あるから新に年行事を衆徒の中より選任されたいといふ要求書を手交した。天宥は一山の事は別當の權限内であるから衆徒の容嘴を許さぬと回答して要求書を却下した。五人は更に華藏院宥尊・正善院俊海・玄陽院宥賀・南陽坊・法輪坊の六人も加判して大乘坊を罷免し他人を以て院代に替らしめたしと再び要求書を天宥に出した。大乘院は承應中に覺樹院宥海に隨往して來た僧であつて、宥海去つてから羽黒に殘り天宥の股肱となつて萬般の畫策に與かつた。大乘坊は東叡山に居つたので江戸の事情に通し天宥の訴訟事件には唯一の相談役であつた。天宥は衆徒の大乘坊排斥の要求に對して二月十八日定例にて本社に出仕した序でに山上の正穩院に十一人の衆徒を集めて大乘坊と對決させようとしたが、十一人は出頭しない。其後智憲院愛染院等五人は別當の下知に背いた以上は山規により山内より徹退するとて、家來を引連れて鶴岡に移り、天宥排斥の運動を起した。
 寛文七年五月智憲院等五人は幕府巡見使佐々又兵衞、中根宇右衞門、松平新九郎、莊内に來ることを聞いて、天宥排斥の訴状を認め、同月十八日巡見使に清川村にて呈出したるに、巡見使は今日の宿所に持參すべしと達された。依て鶴岡宿所にて差出したが、明十九日巡見使は羽黒山に參詣するによりて訴状を受理されない。同月二十七日巡見使は酒田に於て尋問する旨を鶴岡役人より傳達あつたからして、同日酒田に出頭したるに、巡見使は訴状の内容を聞き取つて、巡見中に訴状を受理することはならぬにより幕府に訴出つれば訊問あることであると諭された。
 斯のやうに巡見使の懇篤なる指示を爲すことゝなつたのは、莊内藩では兼てより天宥と不和であつたので、藩の役人より羽黒の事情を巡見使に陳述した結果に外ならない。六月二十七日智憲院等五人は江戸に登り訴状を寺社奉行に呈出し又東叡山にも出した。
 (羽黒山別當所大帳ノ寫)
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      乍恐以書付
       謹而奉言上
一出羽國羽黒山別當寶前院數年自在成者ニて古來より衆徒共之申事合點不申山麓之衆徒迷惑仕候付而時々異見申候得共無作法直り不申近年は彌奢り申候然處ニ去々年於江戸後住之契約いたし候由申候 彼後住之淨圓院より當正月寶前院所へ申來候ハ早速羽黒山へ下ル儀は延引ニ候一兩年は掛持ニ可被致由申來候ニ付て 寶前院惣衆徒ニ右之旨爲申聞候間一段可然と衆徒申候 乍去于今別當役寶前蔑致ス上は無作法彌重り迷惑ニ存し 此節急度改申候ハヽ山も盛り可申候 惣而上樣御祈祷仕候衆徒廿六人之者相談にて寶前院※[#変体仮名え]書付申候ハ 山之作法惡敷候間自今以後は衆徒仲ケ間と年行事を立急度作法仕候ハヽ山も盛り末々迄相續可申と申候得共 惡僧故一圓合點不申候 最早山麓の者共五三年の内滅亡眼前ニ御座候間此段具ニ爲可申上衆徒の内五人山立退鶴岡御町ニ罷在候事
一於本堂上樣致御祈祷候衆徒四十一人御座候 内十五ケ寺潰置候寺之數
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一百石 内三十石ハ塔ノ破損分  寶性院
一三十三俵三斗         福性院
一同斷             觀喜院
一同斷             檀所院
一同斷             曼陀羅堂
一同斷             威徳院
一十七俵二斗          泉職坊
一同斷             月藏坊
一同斷             閼迦井坊
一同斷             正覺坊
一同斷             東光坊
一同斷             善臺坊
一同斷             寶徳坊
一同斷             北之坊
一同斷             瀧本坊
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 右之寺共潰し置社領寶前院押領仕候事
一權現樣社領百姓より定免五ツヽ取候て衆徒ニハ年々二百俵三百俵ツヽ引候て相渡不申寶前院私ニ仕候事
一潰し置候寺之霞知行并諸道具材木等迄取申候て寶前院作事ニ遣捨申候潰し寺其外惣て社領一年ニ五百四俵三斗宛寶前院押領仕候事
一酒井宮内大輔殿庄内へ御入國以來羽黒山境と申儀無御座候然ニ酒井左衞門尉殿ノ百姓も先年寶前院境論仕何卒羽黒領ニ仕度と色々僞ヲ申候 其上去々年於江戸境御立被下候樣ニと申手形差上候 加樣之儀惣衆徒ニも不致相談自在成儀仕候 境御立被下候へは衆徒共ひしと詰り迷惑致し候付 酒井左衞門尉殿※[#変体仮名え]達而訴訟申上候ニ付境御立不被成如先規被成下候ニ依而山麓之衆徒于今不及※[#「飮のへん+曷」、第4水準2-92-63]命御祈祷仕罷有候 ケ樣成手立仕鶴岡領を少し宛も掠取度事計工み少しも出家の役義不仕惡僧ニ御座候事
一寶前院麓ニ居候て天下國家の御祈祷をも不仕晝夜亂舞仕居候事
一寶前院本堂御戸の内より古佛を取出し力士と名付家之つか柱ニ仕惡逆仕候事
一月山之初尾衆徒方へ參候道者ニハ錢八拾文宛取候て寶前院手前へ參候道者ニハ四拾八文宛取其上衆徒方ヘハ道者不參候樣ニ仕候事
一觀喜院朽木一本伐候爲其過料切石三十間爲敷松杉千本爲植申寶前院奢申候事
一古來より衆徒別當法度にて伐不申候山林并神木の松杉等迄寶前院自由ニ伐取申事
一羽黒山執行寺古來より有來候所を取こわし天下御法度之新地を開八幡坂下の大山を引崩若王寺と名付建置 是にも惣衆徒木柴を運ハせ迷惑仕候事
一羽黒山寶前院寺内古來無之處を新規ニ南谷と申大山を曳崩し寺を立申候是ニ茂手向羽黒惣衆徒より人足出させ莫太成普請仕候故衆徒迷惑仕候事
一取置之家板屋作りニ長サ四拾間餘横六間余ニ立申候 右之家秋田野代※[#変体仮名え]金三百五拾兩ニ入申候 此材木板持運ヒ皆衆徒共ニ懸難儀爲致申候 惣而山ノ神木松杉無數限切儘其身居寺ニ遣ひ申候少も 權現樣御堂之破損ニ付不仕致我儘候事
一毎年春秋二度の納萱古來より 權現樣破損之爲取申候を御堂の破損ハ不致寶前院自由ニ遣候事
一寶前院衆徒共ニ春秋二度之振廻爲致其上金二歩ツヽ取申事
一古來より羽黒山大工七兵衞と申者の知行五十石寶前院無体ニ召取押領仕候事
一手向より羽黒山迄道者荷十貫目ニ付錢百文ツヽ取候て駄賃持ニハ二十五文ツヽとらせ候事
一道者之儀古來より付(敷)之處ニ廿年以來問屋六人相立道者爲賄候間麓中の者迷惑仕候事
一戌年荒澤三ケ寺へ道者多く參候迚金五兩ツヽ無体ニ寶前院取申候事
一大乘坊と申者寶前院にまね仕候ニ付奢を專とし兎狩小鳥狩弓鐵炮家職ニ仕剩子共引連川狩いたし常火之物へ魚肴取雜爲食候義出家の作法ニハ前代未聞ニ候 大乘院ハ覺樹院身付之弟子ニ候間爲名代山へ下り諸事仕置申付候所(寛文五年)巳之年覺樹院行衞不知罷成候間大乘坊も跡を泰可申之所義理とも不存奢を專といたし衆徒の申事も一圓合點不仕惡僧ニ候 ケ樣の者と寶前院一味仕候ニ付無作法彌重り候事

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右之條々僞無御座候古來より之衆徒過半潰シ衆徒共申事をも寶前院一圓合點不申誠ニ過分の社領を乍頂戴仕權現樣之勤行をも不仕自由斗致申ニ付山麓及滅亡迷惑ニ存御領内之儀ニ候間酒井左衞門尉殿家老衆へ寳前院無仕置之段申候得共 上樣御祈祷所之事に候得ハ寶前院へ可被仰付儀も延引ニ思召取上無之故乍恐 御公儀樣※[#変体仮名え]奉申上候 山麓衆徒共ニ被加御慈悲被聞召分御祈祷所滅亡不仕候樣寶前院※[#変体仮名え]急度被仰付被下候ハヽ難有仕合可奉存候 以上
  寛文七年 ひのとの未
     六月廿七日            智見院
       異本ニ五月トアリ       愛染院 印
                      竹野坊 同
                      能林坊 同
                      儀本坊 同
    圓覺院樣
    住心院樣
[#ここから3字下げ]
裏ニ
 表書之通目安指上候間被致返答書來月廿七日則參府有之候而可被遂對決者也
                       圓覺院
                       住心院
  羽黒山別當
    寶前院
  同 留守居
    だいじやう※[#変体仮名え]
[#ここで字下げ終わり]
 以上の訴状の末文に「乍恐御公義樣※[#変体仮名え]奉申上候」とあれば、幕府寺社奉行に提出したもので東叡山にも届出たものであらう。幕府奉行所では來月對決を施行するに付天宥大乘院を上府出頭するやう東叡山を經て兩人に達した。
 七月十八日智憲院等五人は、巡見使に目安書を差出してより奉行所に訴出づるまでの經過を認めて奉行所に出した。
(羽黒山別當所大帳の寫 酒井家世記)
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一此訴訟状御國廻佐々又兵衞樣中根宇右衞門樣松平新九郎樣當五月十六日清川と申所※[#変体仮名え]御移 同十八日右之地御發足之刻於路次差上候處御三人樣被遊御披見 御意には途中にては具に樣子も御尋不被成候間今晩泊所迄五人之衆徒共持參可申候 明細御聞可被遊よし被爲成御意候事
一鶴岡町御泊之節持參差上候處兎角今晩は不被成御覽候 ケ樣之書付上候儀緩々と御覽御寫被遊候由にて拙僧共罷歸り候 翌十九日鶴岡より羽黒山※[#変体仮名え]御參詣又其日右之宿※[#変体仮名え]御歸り被遊候 拙僧共ニ被仰渡候は惣而目安等御取上ケ不被成候筈ニ候間御返被成候無是非所存由被成御意候事
一御三人樣所々御巡見廿七日龜ケ崎※[#変体仮名え]御下又其節御意には彼僧共御尋可被成儀御座候間早々龜ケ崎※[#変体仮名え]下り候樣にと左衞門尉殿御役人衆より申來候間彼地※[#変体仮名え]罷下り候 廿七日之七ツ時御三人樣御前※[#変体仮名え]被召出書付之品々御尋被遊候間一々申上候得ハ 御意ニハ右申渡候通御取次被成事ニハ無之候 然共訴訟上候間品々相尋置重て面々御公儀樣※[#変体仮名え]申上候は御尋可有之候 其節五人之衆徒共目安之趣又羽黒山巡見之段具ニ可被仰由御意候事
[#ここから3字下げ]
右之趣御三人樣※[#変体仮名え]再三申上候得共歎き之段尤ニ候得共何國にても目安等御取上不被成候筈ニ候條可任其意由被仰候間無是非今度罷登訴状指上候被聞※[#変体仮名え]分於被下は難有可奉存候 以上
  寛文七年未         羽州羽黒山衆徒
     七月十八日           知見院 印
                     愛染院 同
                     竹三院 同
                     能林坊 同
                     義本坊 同
   寺社御奉行所
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 羽黒にては天宥に出府對決の令状が來たので大騷ぎである。天宥は一山衆徒を味方と爲さんが爲めに誓約起請文を作つたとの説あるも傳はらない。天宥に味方の者二百餘人、反對の者が四十人であつた。天宥は玄陽坊・寶積坊・安養坊・勝木平左衞門・眞田與左衞門・粕谷又右衞門の九人を伴ひて、八月十八日羽黒を出發して江戸に登つた。九月五日東叡山に於て双方の取調を行ひたるに寺社奉行の裁判に移され、第一回裁判は九月二十七日寺社奉行小笠原山城守役宅に開かれ、第二回目は同井上河内守役宅に開かれた。此時智憲院等は「羽黒の社領は古來千三百石で内千石は衆徒のもの三百石は別當のものであつたが、天宥は之を千五百石と僞つて公儀の御朱印を頂戴した。我々の訴状に國主の領地を押領した」と書いたのは、之れであると陳述した。天宥は手代田村加兵衞に命じて水帳や知行目録を携行せしめて辨解せしめた。この天宥の社領申請高に僞構あることは前編に述べた所であつて、之が今回の裁判に曝露すれば天宥の罪は最も重いものであらう。斯のやうに事件は複雜であれば口頭ばかりては審理できないから書面を以て出さしめ、十一月二日始めて天宥の答辨書を出した。
 (酒井家世記)
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寛文七年十一月二日
羽黒山衆徒より當六月日光御門跡※[#変体仮名え]指出候訴状※[#変体仮名え]寶前院天宥返答書左之通差出ス
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      謹而言上返答書之事
一今度羽黒山別當寶前院自在成る者にて山麓相來之衆徒申事合點不申候ニ付時々異見仕候之由五人之僧共申上候事曾以僞ニ御座候 殊淨圓院より當正月申來候は一兩年は掛持ニ可仕由被申越候段僞ニ御座候 當正月拙者方より後住之儀御肝煎可被下候よし上野福聚院※[#変体仮名え]書状遣候所ニ二月五日之返報状に後住之儀掛持にても不苦候哉相談可仕候由被申越候ニ付 惣衆徒ニも爲申聞候得共少も不苦と申ニ付 然は以連判同心之趣申達 早速後住之訴訟可申上由申候得は 惣衆徒祝着仕候處ニ愛染院竹野坊知見院彼三人之者共ケ樣之惡心を含候故連判仕間致由申候間役人たいしやう申は連判不仕候而茂不苦候以連判訴訟可申上由衆徒之内寶積院南陽と申者を以再三申候へとも右之三人合點不仕ニ付無是非たいしやう方※[#変体仮名え]遣し申剩惣衆徒合點不仕候所先例無之年行事を衆徒中間より相立後住之御仕置急度可申由連判之紙面に三人之者共無理ニ書添申候 たいしやう申分は後住の訴訟可申上連判之所いまた後住之御定も無之に差越たる書付にと取繼申儀罷成間敷候 但拙者無作法故退屈ニての事歟 然らは我等役差上可申よし申候而右之連判返し申候 就夫麓之役人五三人を頼兩度佗事仕申候得共だいじやう合點不申候ニ付 閏二月十七日ニ拙者方※[#変体仮名え]書付を以訴訟申候訴状御座候 則十八日ニ於本社拙者申渡候は拾壹人連判の者共正穩院※[#変体仮名え]可罷出候 樣子承届何分にも理非可申付候と申候へとも 右の者共不罷出候付重而可參由申越候へ共不罷出 彼五人之内兩人を以申遣候は訴訟ニ申より外別條無之候間罷出間敷候よし 拙者申遣候付謝状斗にては何事も埓明不申候條口上ニ聞届申付事之由申越候へ共 彼者共返事に訴状之外一言申分無之罷出手持惡敷罷立候事如何ニ候間言呼候へ共罷出間敷由申候拙者方より以兩使申越候はだいじやう不調法之儀候ハヽ何分ニも相談を以可申付由申候得共 是非罷出間敷よし申ニ付 然は拙者其元へ參り樣子可承と申候得共 達而無用と申ニ付其分に仕候 だいじやう義に付訴訟の連判仕候もの以上拾壹人にて御座候 其内六人之者ハ五人之者にかたられ申 一旦連判ニ加り申候得共拙者方へ逆心と存神文を以拙者方へ佗仕 六人相殘候内一人罷登り候間御尋可被下候 山麓之衆徒五三斗之内滅亡可申と書上候儀僞ニ御座候 其證據には古より掃除等もきれゐニ仕其上引出町溝町と申兩町近年罷出候殊更麓町百姓迄連判を以申分仕候被聞召分可被下候事
一衆徒四十一人之内十五ケ寺明地之由申上候 是亦僞ニ御座候明地之寺六ケ所御座候事
一寶性院は寺燒失申欠落仕候其後出家相尋候得共無之 去年中最上より自然坊と申者呼よせ申候得共辭退仕罷歸候事
一觀喜院は先執行取立候隱居所ニ候間當執行拘置候 然共本社近所故類火を恐れ若王寺と申所※[#変体仮名え]移申候寺を潰し申候由僞ニ御座候事
一福性寺は中間にて公事仕重料故欠落仕候事
一檀所院ハ去年中東音と申者ニ住持ニ申付寺を立とらせ申候事
一曼陀羅堂跡繼之弟子無之久敷無住故及大破寺つぶれ申候故今再興正林と申者を可致住持と申付候所ニ正穩院と申者所望仕候間見善坊と申寺※[#変体仮名え]移申候 其後似合敷出家無御座無住ニ御座候事
一威徳院はだいじやう申付候へ其辭退仕候ニより出家無之無主ニ御座候事
一泉職坊ハ新地にて御座候相果候故先執行代よりつぶし置候事
一月藏坊ハ正穩院仕配之寺ニ御座候間職乘と申者を居置候事
一閼伽井坊ハ知見院仕配ニ候間當知見院甚説と申者を住持ニ居置申候事
一正覺坊は知見院仕配新知にて御座候則彼知見院望申候は 閼伽井坊ハ古跡にて御座候得共霞無之候間 正覺坊霞を閼伽井坊ニ付申度訴訟申候間 新地惡所當分住持も無之故閼伽井坊爲相續任其意候事
一東光坊ハ拾ケ年以前より愛染院弟子兄弟正意と申者住持ニ仕候所ニ僞申上候
一善臺坊ハ五年巳前より利法と申者住持ニ仕候事
一北之坊瀧本坊此等は華藏院仕配ニ候方々出家相尋候へとも相應之者無之故無住ニ御座候事
一寶徳坊は去年より覺書と申者住持ニ仕候事
右六ケ寺明地ニ御座候所拾五ケ所と僞申上候 柱持相尋候へとも出家無御座候證據ニハ御目安指上候竹之坊と申者禪僧ニ御坐候を久々養立十二年以前竹之坊ニ居置加行護摩爲致執行申候厚恩を不存却て逆心仕候段聞召分可被下候事
一羽黒山權現社領百姓より五ツニ取衆徒※[#変体仮名え]は引落相渡候由僞ニ御座候 定免ニ申付候へ共日損水損不作之年は百姓前にて引候慥成ル證文御座候 別當衆徒ニモ算引申候事
一明寺之知行霞は先規より住持無之内は別當仕配仕來候 然共山麓之衆徒ニ霞不持者も敷多御座候所に拙者之代貳拾人余ニ霞とらせ申候 五人之僧共之内竹之坊愛染院も其内ニ御座候 明寺諸道具之事ハ役人共請取住持居り候へは相渡申候 材木等迄遣申候よし僞に御座候 古家之材木積置申候ニ付朽捨り申候寺ニ居り可申出家御座候得は取立合力仕寺迄作り取らせ候 殊に先年拙者江戸詰之砌山麓之衆徒合力金として五拾兩爲登申候へとも拙者遣不申 衆徒中間之與内金ニ付差置申候 其上衆徒町中迄貸米五百俵余御座候を拙者相免候 明寺米私慾之樣ニ申上候儀僞ニ御座候 年々本社末社之破損道橋等之修理仕候ニ付米不足故酒井左衞門尉殿より米千表宛毎年恩借仕候事
一酒井左衞門尉殿領分掠取申度工仕候由毛頭僞ニ御座候事
一拙者麓之寺ニ斗罷在天下國家之御祈祷不仕候よし妄語ニ御座候 朔日十八日廿八日毎月三度開帳いたし御供を上貳拾七挺の燈明其上常燈三燈宛差上天下安全之御祈祷仕候儀露顯ニ御坐候 衆徒ニも御祈祷油斷申間敷由申付候事
一本社之内より古佛取出し家之柱ニ仕候由も僞ニ御座候所之佛師大林と申ものニ申付餓鬼あまのしやく迄爲作候事
一月山之初尾之儀拙者存不申候從先規之引付相守候彼者共慥ニ存候事
一神木之松杉用木ニ仕候よし僞ニ御座候 毎年松杉植させ申候山麓むさと爲切申候よし 是又妄語ニ御座候 家來之者共生木切不申候樣ニ毎度神文申付候風折木御座候得は用木ニも薪ニも爲切申候事
一觀喜院事本社之軒邊にて十一年巳前正月十七日ニ生大木切申候ニ付閉門申付候は衆徒を頼詑事仕切石三拾間松五百本植申候拙者弟子兄弟にて候得共法度之事ニ候間爲無依怙申付候事
一執行寺は右ニ申上候觀喜院事ニ御座候本社軒邊にて類火を恐れ若王寺※[#変体仮名え]移申候事
一別當寺南谷※[#変体仮名え]移候義は本社※[#変体仮名え]類火を恐山麓之衆徒ニ相談仕御※[#「門<龜」、下p69-11]を取慶安二年二月十八日ニ雪の上にて繩張いたし 拙者并衆徒之屋敷割渡候ニ付て 何茂屋敷請取支配申候 惣而衆徒より人足出させ申候よし僞ニ御座候 日用にて遣ひ申候日用帳御座候事
一取置之屋道具持運ニ付衆徒迷惑仕候よし僞ニ御座候 町之者共日用にて運ひ申日用帳慥ニ御座候殊ニ神木を用木ニ仕本社之破損不仕候由僞ニ御座候 毎年破損修理仕候事顯然ニ御座候 去年九月大風にて諸木千本余倒し申候 是ハ用木ニも遣ひ不申候 其外山麓大分破損之者ニ相應ニ爲取申候帳面御座候 彼竹之坊能林坊も其内ニ御座候事
一毎年貳度之納萱之事春萱は本社之破損ニ遣ひ申候餘り候得は役人積置拙者は少も遣ひ不申候 秋之納萱は屑萱代々引付にて別當遣ひ申候 惣而拙者自分之普請には町在々迄前金渡材木萱買求遣ひ申候段手帳ニ慥ニ御座候事
一春秋貳度之振舞金之儀は代々引付ニ御座候 正穩院華藏院知見院荒澤三宿正善院金剛乘院能林坊此九人斗任先例年□金貳歩ツヽ受申候 右之内正善院金剛乘能林坊此三人は銀拾匁宛にて御座候 拙者新規ニ受申樣ニ書上申僞ニ御座候
一大工之事病者ニ御座候而用ニ立不申候故其子供を取立遣ひ申候へ共大工を嫌ひ不器用ニ御座候故 大工は罷成間敷よし申ニ付左候はゝ娘ニ聟を取名跡爲繼候へと申付候へ共相應之者無之よし申ニ付 幸江戸より大工罷下候を廿石貳人扶持とらせ抱置申候事
一道者荷物拙者聊不存候毎度荷物遲々仕候由町之者共相談仕 其荷物ニ應し廿文三十文駄賃物ニとらせ 其外ハ町中配分仕殘ハ荷指分ニ仕候事
一道者晝通之宿貳拾年以來問屋六人ニ相定町中迷惑仕候由僞ニ御座候 其段ハ惣町中相談仕致訴訟 夫傳馬之役を問屋六人ニ相究候儀町之者共證據ニ御座候事
一福圓坊無常寺ニ仕候事ハ御祈祷ニおいて佛も穢し候得は如何に候間無常寺壹人相定可然歟と相談仕候所 何レも同心仕候ニ付一寺ニ相究申候 無常寺ニ道者宿坊けからハしき故霞を取上其替ニ知行拾表加増仕候事
一だいじやう奢者にて弓鐵炮家職ニ仕候由僞ニ御座候 殊更子共引連致川狩常上火のものニ魚肴取雜爲食候由妄語ニ御座候 立所ニ罰當り候儀を何と申候共其物被下間敷候 若左樣之儀候はゝ 拙者方ニ可申ニ不似合惡口ニ御座候事
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右五人之僧共離山之時分寺之什物不殘盜取拔躬之鑓長刀を爲持 權現并衆徒拙者を踏付罷出候体前代未聞之狼藉ニ候間 衆徒如何と申候へとも惡逆無道之至りに候間構申間敷由申付候 殊ニ御公義樣之恐ニ候間堪忍仕候得と申付候 殊能林坊儀は譜代之者にて兄をは于今拙者召使候親も町に罷在候 拙者取立利生と名付能林坊ニ居置申候 彼者拙者たいしやう江戸留守去年三月廿七日之夜開山堂にて人殺仕候間御祈祷所けかし申候故急度可申付由承り彼者共斗逆心仕候儀本坊事ハ愛染院召使候新發意ニ御座候得共出家無之大養と名付儀本坊ニ居置 其上執行寺にて恩賞をとらせ置申候所 剩山麓之者一味候樣ニ申上候事毛頭僞ニ御座候 山麓之衆徒并町百姓迄連判仕五七人罷登候間御尋被聞召分被下候は難有可奉存候 以上
  寛文七年           羽黒山執行
   未十一月二日           寶前院 印
    寺社御奉行所※[#変体仮名え]
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 之迄には時々雙方の對決あつたらしいが、この天宥の答辯書が出たので、今後は眞僞何れにあるやは實地を檢分しなければならないことゝなつた。この實地檢分は普通であれば裁判に關係した役人が出張するのであるに、十二月四日奉行所では莊内藩家老末松吉左衞門を召して羽黒山の實地檢分を藩主酒井忠義に命じたのである。斯のやうに莊内藩の檢使となつては天宥の不利なことは當然であつて裁判の結果は想像できることゝなつた。
 酒井忠義檢使の臺命莊内に到着したのは十二月二十三日であつて、同月二十五日檢使本多治左衞門以下を羽黒に派遣した。檢使は羽黒に至り天宥方の衆徒二百人、智憲院の衆徒四十人を取調べ、山内爭論を禁止する旨を諭して二十八日歸鶴した。續いて翌八年正月ニ一日檢使は大工繪圖書を伴ひて羽黒に出張し、若王寺南谷別院等の爭議の要所を寫取らしめ、且つ衆徒を召集したるに天宥方は一人も出席しなかつた。
 (文化酉古老記)
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寛文八年一月
        覺
一中嶋善右衞門未ノ極月廿三日江戸より下着 其日羽黒一局の書付共會所役人衆寄合拜見仕 翌日廿四日會所へ會合の衆寄合 中嶋善右衞門口上御書付一々不殘 同廿五日羽黒山へ檢使本多治右衞門加々山安太夫岡田九右衞門今野左次兵衞御歩行目付窪村杢兵衞被仰付候通彼地へ參候 申ノ正月六日羽黒山にて見分之書付各役人衆立會相談一々披見相談仕候事
  申正月六日
    口上之覺
一今度檢使衆へ目安上候衆徒共へ相殘衆徒中間にて色々申ぶん不仕候樣ニ惣衆徒ニ可申付候 御公儀より御尋之儀候間彌可奉得其意候 若替儀候は鶴ケ岡迄注進可申上候 以上
   申正月六日
 右之使平井五右衞門案内河上四郎右衞門會所にて申渡羽黒へ遣候
        覺
一羽黒見分之衆極月廿五日ニ參同廿八日之晩ニ歸ル
一右之衆申ノ正月廿一日ニ又羽黒へ參同廿四日ニ歸ル
一御歩行五十嵐久右衞門申ノ正月八日羽黒見聞有増之樣子注進江戸へ爲相登其身罷下候事
一羽黒檢使衆治右衞門九右衞門并左次兵衞御歩行目付杢兵衞二月十二日江戸へ罷立色々見聞候書付持參被申候
一江戸より中嶋善右衞門持參候書付とも善右衞門改加々山安太夫相符にて會所ニ指置申候
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 (酒井家世記)
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寛文七年十二月廿五日
一 (前同文に付略す)
同八年正月六日
舊臘羽黒山※[#変体仮名え]檢使被遣見分之書付今日會所ニ於て御役人披見之上猶又同所※[#変体仮名え]平井五左衞門使とし指遣左之趣惣衆徒※[#変体仮名え]申含と云々
     口上之覺
今度檢使衆へ目安上候衆徒共へ相殘衆徒中間にて色々申ぶん不仕候樣に惣衆徒へ可申付候 御公儀より御尋之儀候間彌所奉得其意候若替儀候ハヽ鶴岡迄注進可申上候 以上
  申正月六日
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八日
羽黒山一件見聞有増之樣子御歩行五十嵐久右衞門江戸※[#変体仮名え]爲差登御注進申上ると云々
同八年一月廿一日
此日羽黒衆徒共吟味之爲本多治左衞門加々山安太夫岡田九右衞門金野左次兵衞御歩行目付窪村杢兵衞又々羽黒山※[#変体仮名え]被遣 同廿四日罷歸と云々
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河上四郎右衞門〈○鶴岡町大庄屋〉舊記に云羽黒山別當〈天宥〉山之仕置不作法之由一山之衆徒より江戸※[#変体仮名え]目安書指上候由 就夫此方御家中衆本多治左衞門殿加々山安太夫殿岡田九右衞門殿金野左次兵衞御歩行目付久保村杢兵衞右之衆中寛文七未年十二月下旬羽黒山※[#変体仮名え]檢使被遺 右山之衆徒中ニ萬事之樣子尋られ候ニ羽黒別當方貳百人餘目安方四拾人余書付を以一々樣子共を申上候由右ニ付衆徒仲ケ間ニテ双方出合自然口論なと仕候ハヽ彌以山中不作法ニ相聞へ 其時ハ公義より急度御仕置可被仰付候間双方爭論仕山中之さわき無之樣申渡し手形を取可申よし重而平井五左衞門殿を御使者として川上四郎右衞門先達ニ案内者にて申正月七日〈寛文八年〉手向ニ參 此方御家老中方被仰達候御口上之趣申渡手形を取り罷歸候 右往反上下御傳馬被下候事そりにて罷歸候 羽黒山※[#変体仮名え]爲檢使御家中衆申ノ正月廿一日ニ御越候その時は別當方之者共各樣御前へ罷出候ても去暮申上候通相替候事無之由にて罷出不申候得共たとへ相替候事無之候共直談可申よし度々被申越といへ共右之通ニ候迚別當方壹人も出不申候就夫鶴岡御家老中より檢使衆ニ何邊別當衆の者へ逢不申候也 右樣子之儀可申越由にて橋本彦左衞門殿御使として四郎右衞門先立案内參可申旨被仰付候 右ニ付手向※[#変体仮名え]參り眞田式部太田主計方へ此方御家老中方御口上申渡候へは兩人申候は其時分是非罷出御檢使衆仰渡し之旨承候由度々觸達候へ共 大勢之衆徒共之儀ニ候へは心區々にて私共異見を合點不仕罷出不申候御老中之御意之趣御尤至極仕候 私共兩人は御檢使衆御宿ニ相詰罷在度々仰渡し之旨承知仕候 右之段私共※[#変体仮名え]無禮無之樣ニ鶴岡御老中※[#変体仮名え]申上呉候へよし武部主計兩人答ニ及候事 川上罷歸平右衞門殿權左衞門殿※[#変体仮名え]申上ル 〈此年頃殿樣江戸に被爲入〉 但申ノ正月廿□日ニ參り往來御傳馬ソリにて參 右ハ町奉行鱸清太夫殿上※[#変体仮名え]御内證御沙汰被下御傳馬ソリ被下候
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 (羽黒山中興覺書)
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寛文七年九月廿七日前の衆徒訴状目安の答書別當寶前院留守居大乘坊江戸へ罷登指上候所其後評定所へ度々被召出御吟味且對決等も被仰付候へとも理非分明ならさるに付 十二月四日評定所へ酒井左衞門尉家老末松吉左衞門御呼出にて 羽黒山公事分明ならさるニ付檢使左衞門尉殿ニ被仰付候旨被仰達 其後鶴岡より寺社奉行本多治左衞門寺社奉行岡田九左衞門郡奉行今野左次兵衞歩行目付久保村杢兵衞其外足輕大工繪圖書等迄極月廿五日羽黒へ被遣別當下屋敷若王院南谷へ入寺の材木作事ノ樣子間敷等寫取 其外色々穿鑿いたし(後ニ次ク)
[#ここで字下げ終わり]
 檢使の取調書は一切殘存しないから其内容は知ることできぬが、檢使の取調に天宥方二百餘人は一人も出頭しないのを見るに、形勢不利なるを見て出頭しないことは明かである。
 同八年正月八日檢使御徒目付五十嵐久右衞門江戸に上り第一回の報告書を送り、二月十二日檢使本多治左衞門以下江戸に登り、羽黒檢分の結果を老中並に寺社奉行に復命した。
 (酒井家世記)
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二月十二日
此日羽黒山檢使本多治左衞門岡田九左衞門金野左次兵衞御歩行目付窪村杢兵衞羽黒山一件見聞之樣子書付を以て江戸※[#変体仮名え]發足すと云々
 岡田九右衞門勤書に云寛文七未年羽黒山寶前院と五人之衆徒公事仕候付双方申分并論所見聞仕候樣被仰付 同年十二月翌年申正月兩度羽黒山※[#変体仮名え]罷越論所見届江戸※[#変体仮名え]罷登 寺社御奉行御評定所※[#変体仮名え]も度々罷出相勤 公事埓明 於御城小笠原山城守樣〈○寺社奉行〉御取次にて土屋但馬守樣〈○老中〉※[#変体仮名え]御目見仕爲御褒美御時服貳下し置れ頂戴仕候と云々
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 今回の訴訟は幕府でも餘程重大視したことは、檢使を莊内酒井氏に命じたこと、寺社奉行だけの裁判にあらずして老中の評定に掛りしことで知ることができる。斯く重大視した所以は天宥が社領を増さんが爲めに最上義光の黒印高に更に虚僞の村高を加へて朱印下附を請願したことにあることは判決言渡書にて明かである。四月四日評定所に於て判決を言渡され、天宥大乘坊は大嶋に流罪に處された。
 (酒井家世記)
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        覺
羽黒山執行寶前院と同所衆徒訴論之儀度々雖[#二]穿鑿[#一]不分明之儀依[#レ]有[#レ]之 酒井左衞門尉家來爲[#二]檢使[#一]指[#二]遣之[#一]令[#二]糺明[#一]之所 羽黒山神領を申掠高を指上寶前院頂[#二]戴 御朱印[#一]其上衆徒之坊舍數ケ所令[#二]破壞[#一]押[#二]掠坊領[#一]伐[#二]採神領之山林[#一]自[#二]由之[#一]作事好[#二]亂舞[#一]不[#三]似[#二]合出家[#一]事業多[#レ]之 此外衆徒方所[#レ]捧之目安之内數ケ條不届有[#レ]之 寶前院并留守居大乘坊甚奸曲奢侈無[#レ]粉相聞候 依[#レ]之兩僧共被[#レ]處[#二]大嶋※[#変体仮名え]流罪[#一]者也
  寛文八年四月四日
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 此判決文中にある第一犯罪事項の「羽黒山神領を申相掠高を指上寶前院頂戴御朱印」とあるのが重罪原因の主なるものである。其意義は前編に述べた別當料三百八石餘は最上義光の子家親より別當料として寄進されたとして朱印を貰つたのは虚僞の申請をしたとのことである。此三百餘石を田川郡村杉村の高としたが、莊内藩の元和八年引繼高並に同藩の寛文四年の朱印高と撞着を來たすので頗る不合理を免れない。之は公義を詐僞したので罪最も重いのは當然である。斯のやうに莊内藩と衝突し幕府を詐くのであれば、單に羽黒内部の騷動と異なり天宥の訴訟は何れも敗訴に歸するは明かであつて重刑を免れなかつた。
 天肴大乘院の二人は評定所にて言渡しありて即席にて大嶋の嶋守伴六藏に引渡された。
 (自坊記録)
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        記
  前寶前院天宥法師  御院代 大乘坊
右寛文八年四月四日井上河内守殿御掛りにて伊豆國大嶋※[#変体仮名え]流罪被仰付伴六藏※[#変体仮名え]御渡ニ相成る
延寶二寅年十月廿四日於大嶋御死去被成
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 天宥の流罪された嶋は伊豆國大嶋群嶋中の新嶋であつて、嶋守は此處に假屋を立てゝ罪人を入れ、罪人は嶋の漁夫に雇はれて其收入にて衣食の費に當てるのが普通である。羽黒には天宥の味方の者多くあるので、天宥に衣服、茶、砂糖、味糟[#「味噌」か]等に至るまで時々送り文通もした。それで在嶋中の天宥は左程に不自由を感じなかつたらしい。