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祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓 (2)

提供:Wikisource

我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓

祈祷の説教及其の注釈

十六、 勢力ある祈祷を得ざらん間は我等あたかも小児に歩むことをはじめて習はす所の者に似たるあり。

アフ、 我等まとまりたる智ときよき心とをもて祈祷することに練習せざる間は我等恰も歩むことを教へらるる小児に類するあり。これを手下に携へてたふれざらしめんが為に扶持ふちす、もし彼れたふるればこれをおこし再びたふるれば再び起したふれずして歩行することのならひあがるまではかくの如くするなり。我等も亦小児に歩行することを漸々習はす者等が小児に行為するとおなじく自ら行為し自己の心霊と自己の智識とをして支持することなくたふるることなくまたおこすことなくして自分にて祈祷に立つことに習はしめん。
ミンヌ 小児に歩行するを習はす者が小児のわづかに行過ぎてたふるる時はたこれを起したふれずして當然に歩行することを教ふる如く我等も己の智識が祈祷の時に於て神に向ふより堕落する時はこれをおこしこれを直立せしむべしたふるる無きを得るまではかくの如くせん。

十七、 己の思想を祈祷の言中に入れ又はこれを込めんことに尽力すべし。もし彼れ幼稚なるに依り疲れてたふれなば再びこれを彼処かしこに導くべし、何となれば変じてさだまらざる〈一に定らざる〉は智識の性質なればなり。ただ其の己の力にてすべてを立つる者のみこれを一処に立たしむるを得べし。もし此の行為に於て〈即ち智識を制するの行為に於て〉弱らずして闘ふ時は神はまた汝に惠を降して汝の智識の海に界限を定め汝の祈祷に於てこれに告げていはん『これまで来れ超ゆることなかれ』〔約百ヨブ三十八の十一〕。心神をばくすることは能はざるものとす、されども心神を造れる造物主の居る処に於てはすべて造物主に服従するなり。

アフ、 全力をもて自からつとめて己の智識を完全潔白をもて祈祷にみちびき入れすべて己の思想とすべて己の意念とを其の汝が行為する祈祷のことばをあたふる所の概念に籠罩ろうとう〈こむる〉しこれをして彼方此方に離れ去らしめざらんを致すべし。もし或は天性の荏弱じんじゃくに依り或は悪しき習慣に依り疲労して汝の智識を此の高処より堕落せしむるあらばこれを起して再び本来の位置にたづさへきたるべし。もし汝はこれを修めこれを療せんと欲せばこれを己れにまとむるに苦慮するなかれ、何となれば自己の位置より及び良善なる思念と祈祷とに立つより離れて走去るは智識の性質なればなり。然れどもすべての造物をして其の己の位置に立たしむるは神に属す。故にもし汝は己の智識を祈祷の時に動かずして立つに習はしめ自ら労して己の智識と格闘するある時は其所に籠めたる神はついに汝のたましいくだりて汝が智識の思想海をも一処に集め祈祷の時にこれにつげて左の如くいはん、これまで来れ――我れ迄来れ、而して他に移るなかれ――我れより移るなかれといはん。智識を縛して祈祷より退去せしめざらんが為め、彼方此方に迷はしめざらんが為にささとどむることは能はざるものとす。然れどもこれを造りし神はもし誰かにとどまるある時はこれを制しかつ立たしむるを得べし、何となればすべての造物は神に服従して神の旨にて示されたる界限に立てばなり。

十八、 もしなんいづれの時にか太陽〈義の太陽即ちハリストス神〉を見しならばこれと當然に談話するを得ん。けだし汝は見ざりし所の者といかで過失なく共に交るを得ん。

アフ、 もし汝は何の時か眞の太陽即ちハリストス主を見しならばすべての畏れとつつしみとをもて彼れと談話するを得べく彼れを愛するを得べく當然に神たる美に応じて彼を讃榮するを得ん。されどもし見ざりしならばいかんぞこれをすべて為し得んや。
ミンヌ 神は聖書に録する如く総て恩恵の光線にて光り輝く義の太陽なり、されども霊魂は或は神を愛する時はろうとなり或は物質を愛する時は泥土とならんことは其の常なり。ヽヽヽ泥土は天然に太陽に乾きろうはおのづから融解するが如く霊魂即ち物質を愛し世を愛するの霊魂も神よりさとしをうけこれに抵抗して硬固になることは泥土の太陽に於けるが如くなるべく自から己を亡びに投ずることはファラオンの如くなるべし、されども神を愛するの霊魂は神の働きによりてろうの如く鎔解すべく神に属する物の印章を己れにうけこれに依り感化して心神に於て神の住所すまいとなるを致すなり。

十九、 祈祷の始めは一言にしてた一の智力を張りて附着を最初に逐ふにあり、は智識を其の言ふ所或は思ふ所〈祈祷に於て〉の一事に止らしむるにあり。然して其の完終は主に大悦するにあり。

アフ、 良善なる祈祷の始めと堅固なる基とは祈祷する者が其の智識に接近し来れる悪念の戦を一の決然たる言をもて最初におひしりぞくるにあり。中は智識をすべて祈祷の言と思とに籠めて他の何事もたとひ最小の事なりとも断じて思はざるにあり。而して祈祷の完全は智識が大悦して全く神に上昇するにあるなり。故に祈祷を行ひつゝ悪念の来るや直ちにこれを逐ふをもて足れりとせず己の智識を祈祷の言に込めてこれを全く神にのぼすべし。さればかくの如きの祈祷こそは完全なる且は恩寵に属するの祈祷といふべけれ。

二十、 或は祈祷の時に當りて兄弟の親みある者等に誘引さるるの喜びあり、或は静黙して祈祷する者等に降る所の喜びあり。彼は幾分か飛揚を免れざるべく此はすべて謙遜を充つるなり。

アフ、 或る喜びは兄弟の集会に於て行はるる祈祷の時にあるあり、而して又或る喜びは深黙してひそかに行為する祈祷の時にこれあり。集会に於て祈祷する時は智識は高慢すべく或は何の思念又は妄想の為めにださるることあるべし、故に独り静に祈祷する時に於るが如く潔く且完全なるにあらずして深黙の祈祷に於て與へらるるが如きの喜びと慰めとをうけざるなり、深黙の時に於てする祈祷は大なる謙遜と潔きとをもて行はれて奇異なる報酬をけん。

二十一、 ア〕もし常に己の智識を遠く離れざるに習はさば食を供せらるる時にも彼は汝の近きにあるべし。されどももし汝は彼れの処々方々に漂泊するを禁ぜざらんか彼れは決して汝と共に止まらざるべし。

アフ、 もし汝は己の智識を習はして汝自己に収存し神と祈祷とより離れざるに習熟せしむる時は食に接するの時といへども汝はこれを己れに止むるを得ん。されどもしなんぢこれを棄ててそれが欲する如く処々方々にさまよふに任かす時はなんぢ決して彼れの上に権を握る能はざるべし、祈祷の時といへども己が意のままに彼をして汝と共に神の前にあらしむる能はざるなり。

二十一、 カ〕おほいに完全なる祈祷のおほいなる行為者はいひき曰く『我が智識をもて五言をいふを善しとす』云々〔コリンフ前十四の十九〕されども彼れより最幼稚なる者に於てはこれと事異なり。ゆえに我等は不完全なる者として性質に加へて数の多きにも必要を有す、けだし後者は前者を助くる者なればなり。けだし聖書に言へらく怠らずして祈祷する者にきよ祈祷をあた〈主は與ふ〉即ちきよからざるもおほいに労して祈祷するものに與へらるとなり。

イリ、 祈祷に於て完全の練達者たる聖使徒パウェルいへらく祈祷に於て一の方語をもて萬言をいはんよりも智識に於て五言をいふを勝れりとすと。然れどもかくの如きは祈祷に習熟せざる者の力に及ばざるなり、故に我等は祈祷の性質に未だ習熟せざる者として祈祷の数に要用あり、即ち祈祷の言の多きにつあり。けだしかかる祈祷の言の多きは潔き祈祷の代保となればなり、何となればたとひ潔からざるも労して怠らずに祈祷する者は終に神より潔き祈祷をうくるによる。
アフ、 大なる行為と善事とは心を盡して行ふ所の潔浄完全の祈祷なることは完全聖潔なる祈祷の良善なる行為者、大なる使徒の自ら己の事をいふが如し、いへらく『我が智識をもて五言をいふを善しとす』、きかれ且了解せられて利益せられんが為めにかくの如くするは了解せられざる萬言をいふより勝れりと、祈祷に於ても此の如く少しくいひて注意せらるるは多くして注意せられざるに勝さる。されば中心より出で散乱せざる智識をもて神に献ぐる所の者は神の為めに注意せらるるなり。然れどもかくの如き祈祷は怠慢にして不虔なる者のみ能はざるにあらずしてたとひ熱心なる者といへども未だ祈祷に練習せずして猶初心なる間は能はざるなり。祈祷に荏弱じんじゃくなるた不熟練なる間はたとひ完全ならずといへども熱心にして労苦と自ら勤むるとを惜まず己を強いて祈祷につとめしむべし。ただかくの如く強てつとむるの祈祷によりて我等は自から甘んじ且飛揚するなうして清潔の智と奮熱の心とをもて行ふに到るを得ん。祈祷に熱心し己を労して長く祈祷にとどまる者は時々潔き祈祷の恩寵を神よりうけてすべての智とすべての心は中心に集まるなり、智は飛揚せざるべく心はいはんとす。聖書にいふ神は『祈祷するものに祈祷を賜ふ』と、これ言意は眞實の祈祷に未だ練習せざるも熱心にこれに労しこれを尋ぬる者に神は眞實の祈祷を賜ふて清潔なる心と明白なる智とをもて祈祷せしめんとなり。
ミンヌ 初心なる者或は不完全なる者の為に身体上の労は霊神上の生活に上進せんが為にもっとも有益なり、されば彼等はこれをおもなる行為として第一に置かざるべからず。されども直ちに智と心にて働くことを能くする完全なる者の為めには身体上の労は既におもなる行為にあらずして附加物たり。霊神上幼稚なる者の為めには多くの叩拝も長時手を挙ぐることも徹夜の儆醒けいせいも他の身体上の働きも要用にして智は此等の助けによりて祈祷に練習するを致さん。されども完全なる者は体にて何も為さざる時といへども祈祷す、けだし智に於て弱わるなく心中に働く所の不断の祈祷を得たればなり。

二十二、 祈祷には或は不潔あり或は廃滅はいめつあり或は竊去ぬすみさりあり或ははつ〈ハラタタスル〉あるなり。祈祷の不潔とは不適当に神の前に立ち思念に己れをゆだぬるなり、祈祷の廃滅とは無益の配慮に心を奪はるるなり、竊去ぬすみさりは認めざるにおもい舞揚まひあがりてとびるが如くなるの時にあり、発怒は祈祷の時にあたりて何の附着か我等に近づくの時にあり。

アフ、 祈祷は或はわいをもて或は頽廃たいはいをもて或は竊去ぬすみさりをもて或は怒罵をもて種々にそこなはるるなり。去りながら如何なるは祈祷のわいにして如何なるは祈祷の頽廃たいはいなるか如何なるは潜竊せんせつにして如何なるは怒罵どばなるか。祈祷の不潔汚穢は誰か身体は神の前に立てども其心は不順序なる妄想と不適当なる意念に旋転するの時にこれあり、祈祷の頽廃は祈祷の時に於て自己の心が不要無益の事を思ふて其配慮に己を委ぬるの時にあり、潜竊は心が俄に己れより奪去られきえせて我れにえんなるものの如く何処にあるを自ら知らずよりてこれを自己に戻す時にも何も記憶する能はざるの時にあり、怒罵は或る仇敵の附着が近づきて成るべく我等の注意を奪ひ祈祷をだし虔恭をふきらさんと欲して怒らしめ且あざけののしるの時にあり。

二十三、 もし我等神前に立つに當り〈祈祷の定時に〉独り居るにあらざる時はただ心中内部に於て祈祷者の象様をうけん、されどももし其時我の側に讃頌の役者あるなくんば外部身体に於て祈祷の態度をうけん、けだし不完全なる者に於ては智識は身体の態度に應じて己を建つる〈己を形つくる〉こと屡々なればなり。

アフ、 もし我等は他の人々と同伴をなして祈祷するときは我等の為めにただ智と心とをもて心霊の内部の感動を神の前にあらはすべくして悲哀なるた涙脆き面貌をばなさず、我等が心中にあるものを身体にて表すべき何等の記号もなすなうして足れり。これ或者は我等を敬せず又或者は往々我等を嘲笑しこれによりて己れに於ては誘惑と擾乱とに陥り他に対しては発怒することのあらざらんが為なり。然れども我れ一人にして他の我を見て嗤ふ者のあらざる時はもし我等欲するならば面貌も祈祷者の面貌をなし哀声を発し涕泣し手を天に挙ぐべし、たとへば地上の或る大王を其の目前に見しが如く神の前に畏れと虔恭とをあらはして地に伏拝するを重ぬべし。けだし不完全なる者は通常先づ其の心中にあるべき所のものを外形の上にあらはし其後此の外形上のものにより心霊に於ても最初ただ其の外形上に表示せられし眞實の感覚と情性とが形つくらるればなり。

二十四、 ア〕凡て債の免しを得ん〈願ひ得ん〉との目的をもて王に至る所の者は言ふ可らざる〈虚飾あらざる〉の悲嘆〈痛心の謙遜〉に必要を大に有すなり。

アフ、 凡て王に叩拝するが為めに其の面前に立たんと欲する者は大なる畏れと心の憂愁と謙遜とに必要を有す、まして己が債の免しを請願せんとの望みをもて王に行く所の者に於てをや。けだし王は其のかくの如き衷情の悲嘆と涕泣とをもて来るを見て必ずこれを恤れみこれに其の願ふ所を賜ふべければなり。かくの如く我等も罪の赦を願ふの祈祷に於て至極の謙遜と大なる悲嘆と涕泣とをもて神に就くべし。さらば神は我等に赦さん。

二十四、 カ〕もし我等又尚獄中に在らばペートルつぐる所の言を同くきかん、曰く従順の帯を占め自己の諸欲を脱し裸体にして独り主の旨を呼び[1]祈祷に於て主に前進すべしと。其時汝はの手に汝の心の舵を執り無難に汝を御する所の神を己れにうけん。

  1. 主や爾の旨はならん又は爾が知る所の方を以て我等を救ひ給へとよぶなり
アフ、 いまだ罪の暗獄にある所の我等はもしこれより脱せんと欲せばハリストスにきくことペートルが神使にききし如くすべく来りて彼をイロドの獄より出さんとしたるにききし如くすべし。ペートル躊躇せずして天使の旨にしたがひしにが鐵鎖は直ちに彼より脱し門開けて彼れはでて死よりすくはれたりき。我等も従順の帯を緊帯し履を穿ちて命ぜられし所を行ふに用意し己が旨をすてて全く裸体となり祈祷に於て願ひつゝハリストスに就かん、さらば彼は我等に其の旨を行ふを賜ふべし。其時神は我等のうちに居りてみづから我等が心の梶をし我等の霊を治めて我等を災と危きとよりまもらん。

二十五、 世を愛すると奢侈しゃしを好むとよりちてしんつべし、思念をぎすつべし、身体を拒絶すべし、けだし祈祷は見ゆると見えざる世界より遠く離るるにほかならざればなり。『天にありては誰か我が為にす』、誰もあるなし。『地にありては汝とともにするのほか何を願はん』、ただ放心せずして常に祈祷に於て汝に配するの外何も願ふものあるなし。或者は富を或者は榮を或者は得るを望む、されど余はただ神と與にするを渇望し我が無欲の依頼を彼れに負はせん。〔聖詠七十二の二十五、二十八

アフ、 もし良善にして神に喜ばるる祈祷を行はんを欲するならば起ちて偏愛と世慮とを自ら棄て己の智を悉くの思念と妄想とより脱し己の心を汚穢なる情慾より潔め己がもろもろの意思をばくし身体と肉情の虚傲とを絶ち而して汝が悉くの望を神にささぐべし。けだし祈祷は暫時なる此世とすべて此世にある所のものを忘るるにほかならざらんこと預言者が神に言ひし如くなればなり、曰く主や我れ天に向ひた地に向ひてただ一の汝が光榮なる顔の外何を尋ねんや、今も汝は知る我が祈祷に於て汝と離れずして止まり汝の美に注意すると愛するとをもて汝に配合するの外我れ眞に何も願ふものあらざることを、或者は富を望み或者は榮を或者は得るを望む、されども我れに於てすべての願と志望の向ふ所は汝と配合せんことを願ふにあり、火の鐵に徹するが如く汝の恩寵にて燃着せられんことを願ふにあり、されば我が疑はずして望む如く汝は我を悉くの欲情より潔めて我が霊を光り輝くものとなさん。

二十六、 信仰は祈祷に羽翼を添ふるなり、けだしこれなくんば祈祷は天に昇ること能はず。

アフ、 奮熱の信仰と希望とは祈祷に羽翼を與ヘ天に高飛せしむべし。信仰と希望となくんば一の智識はいかなる祈祷を建つること能はず、ただに其の神に昇りて果を結ぶべきもののみにあらず。

二十七、 我等欲に従ふ者も切に主に祈願すべし、けだし今日無欲なる者もすべて欲より〈出でて〉無欲に上進したるなればなり。

アフ、 欲に占有せられつるも全然の熱心とすべての信仰とをもて我等を吾が悉くの淫蕩より潔めんことを神に切願せん、けだし今日潔められて頌揚せらるる所の者も同く亦嘗て欲に占有誘惑せられたるものなればなり、されども彼等は悉くの熱心をもて主に祈願したりしかば主は彼等を此の欲より救ひて其の悪臭と悪性質とより潔め給ひしなり。