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祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓 (3)

提供:Wikisource

我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓

祈祷の説教及其の注釈

二十八、 ア〕たとひかの士師は神をも畏れずといへども罪と墜落との故に神より離れてやもめとなれる霊魂が彼をわづらはすにより彼は其の霊魂を其のあだ即ちからだより又其のてき即ちあくより救ひ給ふなり〔ルカ十八の三―七〕。

アフ、 もしの不義なる士師は福音経にしょせる如く神を畏れざる者なりしかどただやもめのしばしば来りねがひと涙とをもて彼をわづらはしたるのみにてつひに彼に義をあらはし彼れを保護して其の敵を罰したるならばまして大なる且多く仁慈なる神、誰をも畏るるなく又いかなるねがひをも煩はしとせず矜恤きょうじゅつおんとを毎時さんするに苦しまざる所の士師はの天上の新郎ハリストスより離れてやもめとなれる霊魂が自己の罪の故にまずしてさけび且こくし彼れに助けを願ひて其の己をかくの如き苦境に陥れて繋留する所の敵よりあがなはんことを願ひつゝ日夜其前に哭泣こっきゅうするをきかばあわれみれざらんや。彼れに憐を垂れ彼の為にく報復をなして此の無智なる体にふたたび霊魂をいざなはざるべきを命ずべく魔鬼まきと其の力とを反拒はんきょして彼等をして再び霊魂に対しいざなはしめざるべし、而して其の霊魂を安んじ且慰めん。
ミンヌ 神の為には自ら畏るる所の神あるなく自らづる所の人もあるなし。彼れの眼前にこれあるなし而して其の常に義なる裁判は義と仁慈とによりて侮らるる者を保護し侮る者に報いて裁判せんとす。

二十八、 カ〕我等が慈善なる贖者〈贖罪主〉は感謝すべき者を己の愛に誘引してすみやかにその願を遂げしめ、而して犬の如くに恩を忘るるの霊魂をば願ふ所のものに飢渇せしめて祈祷により其の前に長く坐せしむるなり、けだし恩に感ぜざるの犬は食をうくるやただちに其の與へし者より遠ざかればなり。

イリ、 神は其の感謝すべき僕の願をば準備して遂げしめこれをもて其の神に於けるの愛に更にいよいよ誘引するなり、而して感謝を知らざる者の願は遅々として遂げしむ、これ彼等をして更に長く祈祷せしめんが為めなり、又労して祈祷したる後に願ふ所をすみやかにうくるや恩惠の事を忘るることもすみやかなるはイズライリ人に於て屡々見るが如くなればなり、曰く『イアコフは食ふて飽き而して至愛者は棄てられたり………己れを造りし神を棄てたり』〔復傳律例三十二の十五〕。
アフ、 我等が至善なる天の償贖しょうしょくしゃ、我等を得んことを百方捜索する所の神は我等が霊魂の救を建設し其の良善にして感謝すべき所の僕には其の神に対するの愛をいよいよ興起せしめんが為め及び仁慈の奇異なるをもて彼等を己れに得んが為めに直ちに其の願ふ所を彼等に與ふるなり。然れども感謝を知らざる霊魂、即ち一朝恩寵をうくるや直ちにたまものの事を忘れた祈祷をつづけずして神より遠ざかるべきものをば神は己れの前に長く祈祷せしむるなり。これ其の願ふ所に飢え且渇して神より離れず其の聖なる旨にとどまらしめんが為めなり、且其のわづかに食をうくるや直ちにこれを與ふる者より離去るの無智なる犬に似るなからしめんが為なり。

二十九、 長く祈祷にとどまり〈何もうけずして〉何も得る所あらずといふなかれ。けだしこれも亦既に得たるなればなり。何となれば主に配してこれと一となり不断にこれにとどまるより過ぎたるの善あらんや。

アフ、 あれだけの時間祈祷に立ちかくの如く長く神に祈願して我れ何もうけざりきといふなかれ。汝はこれによりて祈祷における善き練習を求め得たれば汝の為めに十分なり。けだし離れずして神と共に止まり愛する所の友の如く其の面前に立ちて喜ぶはこれしん使の行にしておほいなるたまものなればなり。
ミンヌ もし何か神に祈るあらん時神がすみやかに汝にきかずして汝のねがひの如くこれを遂げしむるを遷延せんえんすとも悲むことなかれ。けだし汝は神より智ならざればなり。さて汝に此事あるは或は汝が願ふ所をうくるにへざるによる、或は汝の心の企図が願ふ所の事に符合せずしてこれに反対するに依る、或は汝が願ふ所のたまものるるの量に未だ達せざるに依る、けだし汝は高上の量に属する所のものを早計にも願ひ且尋ぬることを決して為すべからざればなり、願くは神の賜は汝がこれを用ふるの蒙昧によりて辱しめられざらんことを。しかるのみならず易く得るものは易く失ふなり、これに反してひどく労して得たるものはあらゆる注意と配慮とによりて守らるるなり。

三十、 定罪せられし者の罰の宣告を〈立つて聞くを〉おそるるは熱切なる祈祷者の祈祷に立つが如くにあらざるなり。故に賢明にして注意深き者は此の一記憶のはたらきにより悔恨よりも忿怒よりも又其の己をきゅうせしめざるしんよりも憂愁よりも飽腹よりももろもろの罪なる思念よりも己を遠ざくるを得るなり。

イリ、 祈祷に練習を得たる者は一の畏れの働きにより即ち或る罪を犯したる者が神の前に祈祷に立つを畏るるの畏れによりて毎日毎時機會のあらはれ来る多くの罪より救はるるなり。
アフ、 定罪せられたる者が其の將にうけんとする己の罰と死との宣告を聴くは熱心にして虔恭なる祈祷者の祈祷に神の前に立たん時を怖るる如くにあらざるべし、故に聡明なる人は此を記憶して其のすべての事を全くの危懼きくと戦慄とにて為し祈祷に神の前に立つ時神はファリセイ人の如くに己を定罪するなからんかとおそるるなり、而して怒ることも人を議することも煩慮に沈むことも過分なる飽腹もいかなる不潔有罪の思念にて引誘せらるることも百方逃るるに尽力するなり。

三十一、 心中内部の祈祷をもて汝の祈祷に立つに自ら支度したくせよ、さらば汝はすみやかに上進せん。余は従順をもて光り輝く〈熱心に従順を修むる〉と同時に力に及ぶ丈心に神を記憶するを等閑にせざる所の者を見たり、彼等は祈祷に立つや直ちに己の心を領して〈自己に収めて〉川の如くに涙を流したりき、何となれば聖なる従順をもて支度したくせられたればなり。

イリ、 祈祷に立たんを要するや其より先に己の心を建設して祈祷に向はしむべし、もし常にかくの如く為すあらば祈祷に於てすみやかに上進せん。
アフ、 祈祷に行くに先だち己の内部に於て當然に祈祷するを学ぶべし。又己の心を常に収束操持することをつとめよ、汝はいづれの為す所ありとも神の前にあるを記憶すべし。かくの如くならば汝は祈祷の時に於ても己の心を独一の神に句ママはしむるにすみやかに練習し神の恩寵と天の照明の助けにより汝の労と熱心の量にしたがつて祈祷におほいに進歩せん。或る人々が其の己れに課せられたる従順を熱心に行ふと同時に力に及ぶ丈神を記憶するをつとむるを余は見たりき、それが為め彼等は祈祷に立つや直ちに己が制し難き心を克服し収束してこれを己れに操持せり。さてこれと同時に其の心は大なる感動によりて開かれ其の目より涙の流れ出づること川の如くなりき。れ此のたまものは先きに彼等が己の智と心とに固めたる良善熱心なる従順と潔浄なる祈祷心とが彼等の為めに代求したる所のものなり。

三十二、 他の人々と共に詩を唱ふは心の奪はるると飛揚のこれに伴はるるあり、されども独りしづかとなふは夫程それほどにあらず。さりながら此れには憂鬱の襲ひ来るあるべく彼れには熱心〈他人の〉の助成するあるなり。

アフ、 他の兄弟と共に詩を唱ふ者に於ては他の比例と他より弱く見られんことを欲せざるとにより興起されて熱心を助長すべし、されども其のかはりにここには心の奪ひ去られ高慢して彼方かなた此方こなたにさまよふことあらん。然れども誰か独り詩を唱ふ時はただ其の憂鬱と規則に退屈することの襲ひ来るを以ていざなはるるあるべくして其者をしてこれを減少せんとか又は独り長く唱ふこと能はざらんとの主旨により或はくこれをへしめ或は全くこれを棄てしむることあるべし。

三十三、 兵士の王に対する愛はたたかひにて〈其の戦の如何いかんにより〉しょうすべし、されども修士の神に於る愛は祈祷の時間と祈祷に立つとに於て〈幾久しく祈祷に立つかいか程熱心に祈祷するに於て〉あらはるるなり。

三十四、汝の祈祷は汝の性状〈心神の建設〉を汝に表示す、けだし神学者は祈祷を修士の鏡と名づけたり。

アフ、 汝の祈祷は汝が心状の如何いかんあらはす、けだし我が教會の師のいへるあり修士の鏡は修士の祈祷なり、祈祷は修士の善きかた悪しきかを證すと。鏡が面貌の美なる或は醜なるを見せしむるが如く祈祷は修士の神に対する熱心或は不熱心を見せしむるなり。熱心にして虔恭なる者は祈祷の時の至るや直ちに其の業を全くなげうちて祈祷にはしること恰も自己の為めにもっとも楽しく且もっとも喜ばしき事にはしるが如くし全くの時を全くのたましひによりて祈祷するなり、されども熱心ならざる者及び虔恭ならざる者はもし祈祷に出で或は立つあればおほいに労し且好まずして祈祷し心を以てするよりもただ体に於てするなり。

三十五、 祈祷の時間の迫る時何か為しつゝあらんにそのままこれを為しつづくる者は魔鬼まきののしらるるなり、けだし此の盗の目的は一の時間をもて他の時間を我等より奪はんとするにあればなり。

アフ、 誰か祈祷の時間の至る時其の工作とすべて其の為す所の事を棄てざること恰も半ば成るになんなんとして偶然の事に出逢ふものの如くして祈祷にはしらずとどまりてこれを成して其後祈祷せんとする者は魔鬼まきに笑はるることうたがひなし、けだし魔鬼の目的は我等を慫慂しょうようして事を便利の時より不便利の時に移し以て我等が生活の秩序をみだしこれと共に心霊をも擾さしめて我等を嘲笑するにあればなり、されば祈祷に関しても其の時間の將に過ぎんとするも我等其時最早もはや労働に疲るるにより其祈祷は全く廃さるべく或はたとひ祈祷に立つも注意も感覚も感動もなしに定まる所のものを匇々そうそう読過よみすごせしめ心の擾乱と共に早急粗略にこれを終へしめんとするにあればなり。

三十六、 たとひ汝は祈祷〈有力なる且有効なる祈祷〉ずといへども他の霊魂の為めにも祈祷するを辞するなかれ、けだし願ふ者〈祈祷せんを〉の信仰は其のこれが為めに悲嘆をもて祈祷し始むる所の者をも救ふこと屡々しばしばなればなり。

アフ、 もし誰か己の霊魂の為に祈祷せんことを汝に願ふある時はたとひ汝は徳行も潔き祈祷も有するなしといへども又これとあはせて自己のかんなることをも見つつありといへども其者の為めに祈祷するを辞するなかれ、何となれば謙遜して己の為に祈祷せんことを願ふ所の其者によりて汝等両人の救は建てらるべければなり、祈祷を願ふ者は己が信仰の為めに救はるべく又汝は其者の為めに祈祷するや中心の悲嘆の為めに救はるるなり。

三十七、 他人の為めに祈祷して聴かるるある時は高ぶるなかれ、何となればこれ他の信仰の応験して力を得たるなればなり。

アフ、 慎めよ他人の為めに祈祷してきかれたる時は祈祷のこうをもて己れに帰するなかれ、汝の善なるにより神が汝にきき給へる如くに誇るなかれ、かへつて汝に祈祷することを願ひし者の信仰が神の前に代求したりしが為めに汝はみづからあたらざる者といへども神は其の大なる憐憫によりて汝にきき給へりとこれを心におさむべし。

三十八、 ア〕すべての児童は其の教師より学びし所を毎日弛みなくすべて解し難き事に於て試みらるるなり、されどもろもろの智識よりは其の神よりうけし力をすべての祈祷に於て現はさんことを促さるるなり。これが為めに注意せんことを要す。

イリ、 言意はすべて生徒は其の授けられたる課目を学びしことの如何いかんにつきて毎日其の師に応答を為すなり。かくの如く智識よりは祈祷の為めに神よりうけたる所の力をすべての祈祷に於て促さるるなり。故に注意せんことを要す、願くは當然に祈祷し得る時に我等の祈祷の等閑なるあらざらんことを。
アフ、 すべての師及び工匠は読書又は芸術を教授する所の児童に其の與ふる所の課目に善く習熟せしやいなや或は其の指定せし所の工事をしゅんせしやいなやを試み彼等をして後来自ら眞の師となり完全の工匠とならしめんが為めに日々すべて全く進歩せしむるなり。かくの如く我等各人も自から己をすべての徳行に試むべし。特に祈祷に於ては我等がこれにつきていかなる上達あるか又我等これに於て完全に進歩するやいなやを試むべし。けだし我等には天の教師ありて我等を善に教へ我等が智識を善を行ふに照明すればなり。而して彼れが我等を試み其の教導の諸事につきて応答を促すの時あるべし。故に其時に面目を失ふものとなるを免れんが為めに我等今日すべての事に於て精密なるやいなやを自ら試みもしいづれに於てか精密ならざることの発見せらるるある時はこれを改むるに尽力すべきなり。特に祈祷の事は自らこれを心に懸けて當然にこれを行ふに百方尽力しこれに於て神の我等に於ける恩惠と降福とを記念し感謝の心をもて痛悔しもしいづれに於てか罪に陥りし時は審判に於て定罪せられて永苦に付さるべきを免れんが為めに涕泣してこれがゆるしを願ふべし。

三十八、 カ〕清醒して祈祷する時は直ちにこれについ忿ふんに対し戦はん、けだし我等が敵の目的はかくの如くなればなり。

アフ、 我等が智と心をつくし又我等が全力を挙げて祈祷する時は悪魔は我とたたかひいどまん、これ出来るだけすみやかに我等を忿ふんおとしいれて我等に何か不當なることをいはしめ又は行はしめてこれにより再びかかる強き誘惑にはんことをおそれてかかる熱心と虔恭けんきょうをもて祈祷し得るの力を失はしめ且其の望みをさへ失ふに至らしめんが為めなり。

三十九、 もろもろの徳行と就中なかんづく祈祷は常に多くの感情をもて〈霊と心とによりて〉これを行ふべし。霊魂は忿怒より高く上に立つ時は感情に於て祈祷し始まるなり。

アフ、 すべて善なるおこなひと特に祈祷は全霊により又全心によりて行ふべし、彼等をして其名に応ぜしめて神の愛寵を引かんが為なり。怒を制したるたましひは常に全心により祈祷す、されども霊魂がなほいかりに制せらるる時は其の祈祷は當然に堅固なるにあらずして眞實しんじつしょうぜざらん。
イリ、 神に依るの生活におほいに上達したる者は忿怒より救はるべし近者に対していかなる不快をも心にいだかざらん。