イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書
清醒の事、思念と戦ふ事及び祈祷の事に関する説教
百七十、 知る所の事は書に由りて傳ふべく路を過ぎて見たる所の事はその之を望むものに証すべし、もし汝等に言ふ所を汝等うけんと欲せば亦其の如くせん。主は自らいへらく『人もし我れに居らざれば離れたる枝の如く外に棄てられて枯る。人もし我れに居り我れ亦かれに居らば多くの実を結ぶべし』〔イオアン十五の五、六〕。それ太陽は光なくしては照す能はざるが如く心もイイススの名を呼ぶなくんば有害なる思念の汚穢より潔めらるゝ能はず。もし是れ実に我が見る所の如くならばイイススの名を用ふること己が呼吸の如くせん。けだし彼れ〈イイスス ハリストスの名〉は光にして此れ〈汚穢なる思念〉は暗なり。而して彼れ〈呼ばるゝ所の〉は神及び主宰にして此は悪魔の僕なり。
百七十一、 智識の守りは光を生ずる者と名づけられ、又電気を生ずる者、光を放つもの及び火を発する者と名づけらるゝこと固より當然なり、けだし実にいはんに最大なる身体上の徳行を誰か幾何有するあらんも彼は独り超越するなり。故に此の徳行より生ずる所の明赫々たる光の為め彼れには最尊貴なる名をもて名づけんことを要す。無用なる、汚穢なる、無学なる、無思慮なる及び不義なる罪人中此の徳行を至愛する者あらば彼等はイイスス ハリストスの力によりて義なる者となり有用なる者となり聖潔なる者となり又賢明なる者となるべし、而してたゞに是れのみにあらず彼等は奥義を悟覚して神学を講ずるを始めん。さらば既に悟覚者となりて彼等は一の至潔なる無限の光に転住し言ふ可らざるの関係をもて彼に関係して彼と共に生き且働くなり、何となれば彼等は主の善の如何を味ひしによる、けだし此等の首天神には神の太闢の言の応ずること疑なし、曰く『然り義者は爾の名を讃栄し無玷の者は汝が顔の前に居らん』〔聖詠百三十九の十四〕。実に彼等はたゞ一り直に神を呼び神を讃栄し併て神を愛しつゝ神と常に談話するをも愛さん。
百七十二、 外部に属する者の為めに内部に属する者に禍あり、けだし内部の人は外部の感覚の為めに多く忍耐すべければなり。されども彼は忍耐する所ありて此等外部の感覚に対し鞭撻を加ふるを要す。生活の実験上に属するものを仕遂げたる者は形而上に属するものをも最早了會し始むるなり。
百七十三、 もし我等内部の人にして清醒するあらば諸神父の説の如く外部に属するものを守ることをも能くすべし。さて諸神父の説に依るに我等と悪者たる魔鬼とは両々交通して罪を犯すなり、彼等は思念或は妄想の図画によりたゞ心上にのみ欲する如くに罪を描くといへども我等は思念即ち内部に於ても罪を想像し又実際外部に於ても罪を犯す。魔鬼は肥体を有するにあらずしてたゞ思念に由り詭計と誑惑とを搆造して自己にも又我等にも苦みを備ふるなり。されども此の最淫蕩なる者にしてもし肥体を奪はれざりしならんか彼等は無法を行はんと欲するの悪意を常に己れに懐きて不断実行を以ても罪を犯さむるすならん。
百七十四、 然れども専心一意なる〈主に対して熱心なる〉祈祷は彼等を粉砕し彼等が誑惑を追散さん。けだし我等が不断に怠らずして呼ぶ所のイイスス神及び神の子は罪即ち所謂附着と名づくる所の者を我等に入るゝことだも断じて彼等に容さゞればなり、又其の思想の鏡によりて彼れに何の形像を見せしむることをも心中に於て何の談話を言ひ始めしむることをも容さゞればなり。されども心中に何の形像も押入ることなくんば我等が已にいひし如く心は思念を離れて虚しきを得ん、けだし魔鬼は通常思念に由り密に談話してこれを悪に教へ導びくなり。
百七十五、 故に不断の祈祷により我等が心中の空気は悪鬼の黒暗なる雲又は風より清くならん。されば心の空気の清まる時はイイススの神たる光の彼れに照るに妨ぐるもの一もあらざるなり、もしたゞ我等虚誇と自負と展示の望みとをもて自ら尊大なることなくんば及び難きの事に疾馳するあらざるべく又それが為めイイススの助けを奪はるゝことあらざるべし、何となればハリストスは謙遜の標準たりつゝすべてかくの如きものを憎み給へばなり。
百七十六、 故に祈祷と謙遜とをつとめん、此の二の武器は炎劒たる清醒と合して心の戦士が魔鬼に対して武装する所のものなり。もしかくの如く己の生命を導く時は毎日毎時喜ばしき佳節を奥密に心に有するを得ん。
百七十七、 罪なる思念の一切の範囲を包括してあらゆる罪念を生出する所の首なる思念八つあり、彼等はみな心の門に近づき智識の捍衛するあらざるを見ておの〳〵適時に交〳〵彼れに入らんとす。此等八の思念中何の思念か心に対し起りてこれに入る時は不潔なる思念の全群を自から携へて入るべし、かくて智識を暗まして身体を爛らしこれを誘ふて耻づべき行を成さしむるなり。
百七十八、 然れども蛇の首〈附着〉に用心し忿然捍禦して罵詈の言を発し敵の面を撲つこと恰も拳を以てするが如くなる者はこれをもて戦を絶つべし、けだし彼は首を用心して悪なる思念と最悪なる行為とを避くればなり。かゝりし後は彼れの思は最早波を起さずして平穏なるべし、何となれば神は彼れが思念に対するの儆醒をうけてそれが為め彼に報ゆるに曉知を賜ふていかにして其敵を征服すべきと又いかにして其内部の人を汚す所の思念より心を潔うすべきとを知らしむべけれなり、主イイススのいふが如し曰く『心より出づるものは悪念……奸淫……これ人を汚すなり』〔馬太十五の十九〕。
百七十九、 かくの如くなれば霊魂は主によりて其の己の殊色と美麗と公明とに留まるを得ること最初神をもて至美はしく且正直なるものに造られしが如くなるを得べく神の大なる僕アントニイが言ふ所の如くなるを得べし、曰く『霊魂に於て智識が天性のまゝあるべき如くにして存する時は徳行はおのづから整備せん』。アントニイ又いへらく『霊魂の為に正しとは智識を其の造られし如く天然の形状のまゝ霊魂に有すといふに同じ』。彼れ又次でいへり『我等は智識を潔うせん、けだし我れ信ず智識が百方潔うせられて其の天然の形状に帰りなば其賦與せられたる主の啓示を己れに有し透明なる者となりて魔鬼を大に且遠く見ることを得ん』、とこれ有名なるアントニイのいへる言にして大アファナシイがアントニイの一代記中に録する所のものなり。
百八十、 もろ〳〵の思念は或る五官を楽ましむる所の形像を智識に再現せしむるなり、けだしアッシリヤ人〈敵〉が自から智力を有して誘惑するを得るは他物を仮るに非ずして我等の為めに習慣となれる五官を楽ましむる所の者を利用するのみ。
百八十一、 我等かくの如き人は大気に駕して羽翼あるの鳥と競走し又は鳥の如くに飛ぶ能はず、何となればこれ吾人の性に適せざればなり、かくの如く清醒にして断えざる祈祷なくんば無形なる魔鬼の思念に勝ち若くは我が智識の目を張りて神に向はしめむことは我等に能はざるなり。もし汝にこれ無くんば汝は地に依りたゞ地上の物の為めに追逐せんのみ。
百八十二、 もし眞に耻をもて思念を掩ひ當然に静黙を守り労なうして心を清醒ならしめんと欲せばイイススの祈祷を汝の呼吸に貼くべし、さらば汝は数日ならずしてこれを実際に見ん。
百八十三、 文字は空気に書すべからず彫刀にてこれを或る堅硬なる物体に鐫るべし、永く守らるゝを得んが為なり、かくの如く我等も己が艱辛なる清醒をイイススの祈祷と配合せしむべし、これ清醒の至美なる徳がイイススと共に我等に於て完然なるものとなり且彼れに頼り永遠奪ふべからざるものとなりて我等に存せんが為めなり。
百八十四、 既にいひしが如く己の行為を主に托ねよ、さらば恩寵を獲んこれ汝と共に我等にも左の預言者の言の関係せざらんが為めなり、曰く『主よ彼等の口は汝に近づけどもその腹は汝に遠ざかる』〔イェレミヤ十二の二〕。遠く相隔たる者〈即ち神性と人性と〉を己れに配合したるイイスス ハリストスの外は何人も汝の心を情欲より堅く鎮静せしめざるなり。
百八十五、 思念と共に談する心中内部の会話も外部の問答又は閑話も同く霊魂を昏ますなり。故にすべて有害なるものを己の心より除くことに尽力する者は彼れ是れ閑話を愛する者をも思念及び人々をも神に於る最貴重すべきの理由により愛惜する所なくして逐ふべし、これ即ち智識の昏まされて清醒に弱わらざらんが為めなり、けだし遺忘の為めに〈会話により〉昏まされて我等常に智識を失へばなり〈何を始め何を思ひ何を為すを知らざるべし〉。
百八十六、 すべての注意をもて心の清きを守る者は立法者たるハリストス即ち其の旨を奥密に人に語ぐる所の者をもてこれが師となさん。『主神が我れにいふ所をきかん』〔聖詠八十四の九〕とは是れ太闢の此を指していひしなり。さて彼れ一方には心中作戦の事に於て智識の自己に注視するを象り又一方には神の彼れに於る代身的保護を象りつゝまづ最初に敵を見し時は言ひ始めて曰く『時に人いはん義者は誠に果報あり』〔聖詠五十七の十二〕。然して其後彼れと此れとにつき厳重の熟思によりて成れる所の決定をあらはしこれに加へて曰へり『故に審判を彼等に即ち悪鬼に我が心の地に行ふの神あり』と〔前同〕彼れ又他篇に於ていへらく『彼等は不義を尋ね屡探りて人の中情と心の深き処に至る、然れども神は矢を以て彼等を射ん彼等忽傷けられんとす』〔聖詠六十三の七、八〕されば彼等はかくの如きものとせられんとす。
百八十七、 イイスス ハリストスと神父の力と神の睿智とを断えず呼吸しこれをもて『智慧の心を獲せしむるもの』〔聖詠八十九の十二〕として常に己を導かん。されどもし何か偶然の事により放下して此の智慧なる業事に怠るあらば翌朝更に善く我が智識の腰に帯しめん、而して此を行ふあらずんば善を行ふを知るの我等に何の称義もあるなかるべきを知りいよ〳〵堅く此に従事せん。
百八十八、 毒になる食物は体にうけられて体中に速に病の騒擾を醸さん。されどももしこれを嘗めし者にして毒を感ずるや速に何の薬によりてかこれを外に出だすときは無害にして存せん、かくの如く智識も其のうくる所のイイススの祈祷により直ちにこれを外に吐出だし己れより遠くこれを抛擲する時は此れに頼りて彼等より来るもろ〳〵の害毒を避けんこと猶神の仁慈により他の教訓と共に己の実験をもて清醒者に前程の事を了曉せしむるが如くならん。
百八十九、 清醒してイイススの祈祷を汝の呼吸と合すべし、或は死の間断なき思念と謙遜とを合すべし、彼れと是れとは大なる益を與へん。
百九十、 主はいへらく『我が心は温柔謙遜なり汝我れに学べ汝の霊に安きを得させん』〔馬太十一の廿七〕。
百九十一、 主は又いへり『此の小児の如く謙遜なる者は天国に於て大なり』〔馬太十八の四〕『自から高うする者は卑くなる』〔ルカ十八の十四〕。且言ふ『我れに学べ』と。汝ぢ見るか学ぶは即謙遜なるを。主の誡命は永遠の生命なり然るを此の誡命は即ち謙遜なり。故に謙遜ならざる者は生命より堕落せるなりされば彼処に於て変じてこれに反対するものとならんこと必せり。
百九十二、 もろ〳〵の徳行は霊と体とに於て作為せらるべくして我等の已にいひし如くもろ〳〵の徳行の由て以て組成せらるゝ所の霊と体とは神の造る所の者ならば我等霊と体とを飾るに他の装飾を以てして自ら尊大にし自ら高慢する時は是れ豈極めて狂愚にあらざるか。而して驕傲に依頼すること蘆葦に依頼するが如くして己を威徳の無限なる神に反対に立たしめかゝる至極の愚と無智とをもて神の最怖るべき不愛を己が頭上に引来さんことは豈復た殊に狂愚にあらざるか、けだし『主は驕傲の者を斥ぞくるなり』〔イアコフ四の六〕。我等は謙遜に於て主に傚ふべきに易へて高慢驕傲なる偽智をもて主の最狂暴の敵たる驕傲なる魔鬼と親睦を為す。是故に使徒はいへり『何の未だ受けざる者あるか』と〔コリンフ前四の七〕。豈汝は自から己を造りしや。されどもろ〳〵の徳行の由りて以て組成せらるゝ所の体と霊とは汝ぢこれを神より受けしなば『何ぞ受けざる者の如くに矜るか』〔前同〕。けだし主は此の一切を汝に賜ひしなり。
百九十三、 心を清うすることも又それが為めの謙遜もすべて上より降る所の善も我等に於て位地を有するは他にあらず窺偷する〈窺い盗む(*投稿者注)〉所の思念の心に入るを断じて許さゞるにあるのみ。
百九十四、 神の助けにより独一の神の為めに行為する智識の守りは先づ霊魂に堅立して神に依るの苦行を修めしめんが為に智識に聡明を與ふるなり、然のみならず智識の守りは亦其のこれを領する者の為めに非難すべからざるの思慮をもて外部の行と言とを同く亦神に依りて建てしめんが為めに才能を給するなり。
百九十五、 旧約に於て司祭長の特飾〈胸間にかくる純金の版にして主の聖物と題するものなり、出埃及記廿八の三十六〉は中心の清きに擬したるものにして我等をして吾が心の版の罪によりて黒くならざりしや否に注意せしむるなり、これ〈もし黒くなれりと思ふ時は〉我等の涙と痛悔と祈祷とをもて急にこれを清めんが為めなり。我等が智識は軽きもの〈動き易きもの〉なり、これを罪の記憶より止めんこと難し。但いふべし彼は悪なる想像の為めにも又善なる想像の為めにもひとしく従ひ易きものなりと。
百九十六、 心中に断えずイイススを呼び思にてイイススの祈祷に貼着すること空気の我が体に密接するが如く将た焔の蝋燭に於るが如くなる者は実に福なり。太陽は地上を経過して一日を生ず、さりながら主イイススの聖なる尊崇せらるゝ名は断えず智識に照り輝きて太陽の如くなる思念の無数の多きを生ず。
百九十七、 雲散ずる時は空気清く澄みてあらはる、されば義の太陽なるイイスス ハリストスにより欲念の散ずる時はイイススをもて中心の空気を照すが故に常に心に於て光の如くなる又は星の如くなる思念生ずるなり。けだし智者はいへり『主を恃む者は真理を暁り愛によりて主に忠なる者となる』。
百九十八、 或る聖人のいひけるは魔鬼を怨み怨めよ而して常に肉体に敵し敵せよと。肉は狡獪の友なり、満足を與ふる程は彼れいよ〳〵強き戦を起す。かゝれば速に肉体に敵し腹と戦を始むべし。
百九十九、 右殆ど二百章を成すに於いて我等は智識の聖なる静黙の苦行を著はしてたゞに其の結果を尋ぬる一己の捜索をあらはせるのみならず神智を得たる諸父の神出なる言説が智識の清きに関して我等をいかに教ふるをもあらはせりき。今亦智識を守るの益を示さんが為めに少しく言ひて説教を終へん。
二百、 ゆゑに来りて我れに従ひて汝ぢいかなる者たりとも智識の幸福なる守りを得るを致すべし、汝は霊に於て長寿へて幸福を見んと欲する者なり〔聖詠三十三の十三〕されば余はもろ〳〵聡明なる力の明白なる行為と其の生活とを主によりて汝に教へん。天使等は造物主を讃揚して飽かず、彼等と専ら競争する所の智識も亦飽かざらん。されば非物体なる者は飲食の事を慮らざるが如く物体にして非物体なる者も智識の静黙が天に昇らん時は飲食の事を慮らざるなり。
二百一、 天軍は富の事又は獲るの事を心に掛けざるが如く清浄にして徳行〈清醒の〉に練習を得たる心霊の目も悪鬼の怒を惹くの事に掛念せざるべし。されば彼等の為めに神に近づくに上進するの富は明白なるが如く此等の人の為にも神を渇望すると愛すると神に属する事に向進登上することは疑なきなり。且彼等は飽かざる大なる願望をもて愛の無限なる大悦〈エクスタス〉に導く所の属神の事を味ひしが為めに向進上昇してセラフィムに達せざらん間は止まらざるなり、即ち彼等は我が主イイスス ハリストスの為めに天使とならざらん間は心を清醒にすること大に願望して上昇することとを休せざるなり。
二百二、 毒は毒蛇と蜥蝎の毒に過ぎたるはなく悪は自愛の悪に過ぎたるはなし。さて自愛の子は左の如し心中の自慢、自適、貪食、淫行、浮誇、怨恨及び萬悪の最たる驕傲即ちたゞに人類のみならず天使をも能く天より堕落せしめ光に易へて暗にて掩ふ所の者是なり。
二百三、 それフェオドルよ静黙と同名〈即「イシヒイ」〉たる余は実際は静黙者にあらずといへども汝に書しぬ。顧ふに余は我等に属する所の皆すべて書したるにはあらず、然れども要するにこは凡そ有智なる天性即天使と人と又言ふ可らざる造物主独一の神に造られたる萬物とより父と子と聖神の名に於て讃美頌揚せらるゝ神が與へし所のものなり、願くは彼の光明なる国は至聖なる神母と我等が克肖なる諸神父の祈祷によりて我等も受るに堪へんことを。彼れ及ぶ可らざる神に永遠の光栄は帰す、あみん。