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祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書 (5)

提供:Wikisource

イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルあたふる書

清醒せいせいの事、思念と戦ふ事及び祈祷の事に関する説教


百七十、 知る所の事は書に由りてつたふべく路を過ぎて見たる所の事はその之を望むものに証すべし、もし汝等に言ふ所を汝等うけんと欲せば亦其の如くせん。主は自らいへらく『人もし我れに居らざれば離れたる枝の如く外にてられて枯る。人もし我れに居り我れ亦かれに居らば多くの実を結ぶべし』〔イオアン十五の五、六〕。それ太陽は光なくしてはてらす能はざるが如く心もイイススの名を呼ぶなくんば有害なる思念のわいよりきよめらるゝ能はず。もし是れ実に我が見る所の如くならばイイススの名を用ふること己が呼吸の如くせん。けだし彼れイイスス ハリストスの名〉は光にして此れ〈汚穢なる思念〉は暗なり。而して彼れ〈呼ばるゝ所の〉は神及び主宰にして此は悪魔の僕なり。

百七十一、 智識の守りは光を生ずる者と名づけられ、又電気を生ずる者、光を放つもの及び火を発する者と名づけらるゝこともとより當然とうぜんなり、けだし実にいはんに最大なる身体上の徳行を誰か幾何いくばく有するあらんも彼は独り超越するなり。故に此の徳行より生ずる所の明赫々かくかくたる光の為め彼れにはいと尊貴なる名をもて名づけんことを要す。無用なる、わいなる、無学なる、無思慮なる及び不義なる罪人中此の徳行を至愛する者あらば彼等はイイスス ハリストスの力によりて義なる者となり有用なる者となり聖潔なる者となり又賢明なる者となるべし、而してたゞに是れのみにあらず彼等は奥義を悟覚して神学を講ずるを始めん。さらば既に悟覚者となりて彼等は一の至潔なる無限の光に転住し言ふべからざるの関係をもて彼に関係して彼と共に生き且働くなり、何となれば彼等は主の善の如何あじはひしによる、けだし此等の首天神には神の太闢ダウィドことばの応ずることうたがひなし、曰く『然り義者はなんぢの名を讃栄してんの者は汝が顔の前に居らん』〔聖詠百三十九の十四〕。実に彼等はたゞひとり直に神を呼び神を讃栄しあはせて神を愛しつゝ神と常に談話するをも愛さん。

百七十二、 外部に属する者の為めに内部に属する者にわざはひあり、けだし内部の人は外部の感覚の為めに多く忍耐すべければなり。されども彼は忍耐する所ありて此等外部の感覚に対し鞭撻べんたつを加ふるを要す。生活の実験上に属するものを仕遂げたる者は形而上に属するものをも最早もはや了會りょうかいし始むるなり。

百七十三、 もし我等内部の人にして清醒するあらば諸神父の説の如く外部に属するものを守ることをも能くすべし。さて諸神父の説に依るに我等と悪者たる魔鬼とは両々りょうりょう交通して罪を犯すなり、彼等は思念あるいは妄想の図画によりたゞ心上にのみ欲する如くに罪を描くといへども我等は思念即ち内部に於ても罪を想像し又実際外部に於ても罪を犯す。魔鬼まき肥体ずうたいを有するにあらずしてたゞ思念に由りけい誑惑きょうわくとを搆造こうぞうして自己にも又我等にもくるしみを備ふるなり。されども此のいと淫蕩なる者にしてもし肥体ずうたいうばはれざりしならんか彼等は無法を行はんと欲するの悪意を常に己れにいだきて不断実行を以ても罪を犯さむるすならん。

百七十四、 然れども専心一意なる〈主に対して熱心なる〉祈祷は彼等を粉砕し彼等が誑惑きょうわく追散おいちらさん。けだし我等が不断に怠らずして呼ぶ所のイイスス神及び神の子は罪即ち所謂附着と名づくる所の者を我等に入るゝことだも断じて彼等にゆるさゞればなり、又其の思想の鏡によりて彼れに何の形像を見せしむることをも心中に於て何の談話を言ひ始めしむることをもゆるさゞればなり。されども心中に何の形像も押入ることなくんば我等がすでにいひし如く心は思念を離れて虚しきを得ん、けだし魔鬼まきは通常思念に由りひそかに談話してこれを悪に教へみちびくなり。

百七十五、 故に不断の祈祷により我等が心中の空気はあく黒暗こくあんなる雲又は風より清くならん。されば心の空気の清まる時はイイススの神たる光の彼れに照るに妨ぐるもの一もあらざるなり、もしたゞ我等虚誇きょこと自負と展示の望みとをもて自ら尊大なることなくんば及び難きの事にしつするあらざるべく又それが為めイイススの助けを奪はるゝことあらざるべし、何となればハリストスは謙遜の標準たりつゝすべてかくの如きものを憎み給へばなり。

百七十六、 故に祈祷と謙遜とをつとめん、此の二の武器は炎劒たる清醒とがつして心の戦士が魔鬼に対して武装する所のものなり。もしかくの如く己の生命を導く時は毎日毎時喜ばしきせつを奥密に心に有するを得ん。

百七十七、 罪なる思念の一切の範囲を包括してあらゆる罪念を生出する所のおもなる思念つあり、彼等はみな心の門に近づき智識の捍衛かんえいするあらざるを見ておの〳〵適時にかはる〳〵彼れに入らんとす。此等やつの思念中いづれの思念か心に対し起りてこれに入る時は不潔なる思念の全群をみづからたづさへて入るべし、かくて智識をくらまして身体をただらしこれを誘ふて耻づべきおこなひを成さしむるなり。

百七十八、 然れどもへびかしら〈附着〉に用心し忿然ふんぜん捍禦かんぎょして罵詈ばりことばを発し敵の面をつことあたかも拳を以てするが如くなる者はこれをもてたたかひを絶つべし、けだし彼は首を用心して悪なる思念といとあくなる行為とを避くればなり。かゝりし後は彼れのおもひ最早もはや波をおこさずして平穏なるべし、何となれば神は彼れが思念に対するの儆醒けいせいをうけてそれが為め彼に報ゆるにぎょうを賜ふていかにして其敵を征服すべきと又いかにして其内部の人を汚す所の思念より心を潔うすべきとを知らしむべけれなり、主イイススのいふが如し曰く『心より出づるものは悪念……奸淫……これ人を汚すなり』〔馬太十五の十九〕。

百七十九、 かくの如くなれば霊魂は主によりて其の己の殊色と美麗と公明とに留まるを得ること最初神をもていとうるはしく且正直せいちょくなるものに造られしが如くなるをべく神のおほいなる僕アントニイが言ふ所の如くなるをべし、曰く『霊魂に於て智識が天性のまゝあるべき如くにして存する時は徳行はおのづから整備せん』。アントニイ又いへらく『霊魂の為に正しとは智識を其の造られし如く天然の形状のまゝ霊魂に有すといふに同じ』。彼れ又次でいへり『我等は智識を潔うせん、けだし我れ信ず智識が百方潔うせられて其の天然の形状に帰りなばその賦與ふよせられたる主の啓示を己れに有し透明なる者となりて魔鬼をおほいに且遠く見ることを得ん』、とこれ有名なるアントニイのいへることばにして大アファナシイアントニイの一代記中に録する所のものなり。

百八十、 もろ〳〵の思念は或る五官をたのしましむる所の形像を智識に再現せしむるなり、けだしアッシリヤ〈敵〉が自から智力を有して誘惑するを得るは他物をるに非ずして我等の為めに習慣となれる五官を楽ましむる所の者を利用するのみ。

百八十一、 我等かくの如き人は大気にして羽翼あるの鳥と競走し又は鳥の如くに飛ぶ能はず、何となればこれ吾人の性に適せざればなり、かくの如く清醒にして断えざる祈祷なくんば無形なる魔鬼の思念に勝ちもしくは我が智識の目を張りて神に向はしめむことは我等に能はざるなり。もし汝にこれ無くんば汝は地に依りたゞ地上の物の為めに追逐せんのみ。

百八十二、 もし眞にはぢをもて思念をおほ當然とうぜんに静黙を守り労なうして心を清醒ならしめんと欲せばイイススの祈祷を汝の呼吸にくべし、さらば汝は数日ならずしてこれを実際に見ん。

百八十三、 文字は空気に書すべからず彫刀にてこれを或る堅硬なる物体にるべし、永く守らるゝを得んが為なり、かくの如く我等も己が艱辛かんしんなる清醒をイイススの祈祷と配合せしむべし、これ清醒の至美なる徳がイイススと共に我等に於て完然なるものとなり且彼れにり永遠奪ふべからざるものとなりて我等に存せんが為めなり。

百八十四、 既にいひしが如く己の行為を主にゆだねよ、さらば恩寵をんこれ汝と共に我等にもの預言者のことばの関係せざらんが為めなり、曰く『主よ彼等の口は汝に近づけどもその腹は汝に遠ざかる』〔イェレミヤ十二の二〕。遠く相へだたる者〈即ち神性と人性と〉を己れに配合したるイイスス ハリストスほか何人なんびとも汝の心を情欲より堅く鎮静せしめざるなり。

百八十五、 思念と共に談する心中内部の会話も外部の問答又は閑話もおなじく霊魂をくらますなり。故にすべて有害なるものを己の心より除くことに尽力する者は彼れ是れ閑話を愛する者をも思念及び人々をも神に於る最貴重すべきの理由により愛惜する所なくしてふべし、これ即ち智識のくらまされて清醒に弱わらざらんが為めなり、けだし遺忘の為めに〈会話により〉くらまされて我等常に智識を失へばなり〈何を始め何を思ひ何を為すを知らざるべし〉

百八十六、 すべての注意をもて心の清きを守る者は立法者たるハリストス即ち其の旨を奥密に人にぐる所の者をもてこれが師となさん。『主神が我れにいふ所をきかん』〔聖詠八十四の九〕とは是れ太闢ダウィドの此を指していひしなり。さて彼れ一方には心中作戦の事に於て智識の自己に注視するをかたどり又一方には神の彼れに於る代身的保護をかたどりつゝまづ最初に敵を見し時は言ひ始めて曰く『時に人いはん義者は誠に果報あり』〔聖詠五十七の十二〕。然して其後彼れと此れとにつき厳重の熟思によりて成れる所の決定をあらはしこれに加へて曰へり『故に審判を彼等に即ち悪鬼に我が心の地に行ふの神あり』と〔前同〕彼れ又他篇に於ていへらく『彼等は不義を尋ねしばしば探りて人のうち情と心の深き処に至る、然れども神は矢を以て彼等を射ん彼等たちまちきずつけられんとす』〔聖詠六十三の七、八〕されば彼等はかくの如きものとせられんとす。

百八十七、 イイスス ハリストス神父かみちちの力と神のえいとをえず呼吸しこれをもて『智慧の心をせしむるもの』〔聖詠八十九の十二〕として常に己を導かん。されどもし何か偶然の事により放下して此の智慧なる業事に怠るあらば翌朝更に善く我が智識の腰に帯しめん、而して此を行ふあらずんば善を行ふを知るの我等に何の称義もあるなかるべきを知りいよ〳〵堅く此に従事せん。

百八十八、 毒になる食物は体にうけられて体中にすみやかに病の騒擾そうじょうかもさん。されどももしこれを嘗めし者にして毒を感ずるやすみやかに何の薬によりてかこれを外にだすときは無害にして存せん、かくの如く智識も其のうくる所のイイススの祈祷により直ちにこれを外にはきだし己れより遠くこれを抛擲ほうてきする時は此れにりて彼等より来るもろ〳〵の害毒を避けんことなほ神の仁慈により他の教訓と共に己の実験をもて清醒者に前程まえほどの事を了曉せしむるが如くならん。

百八十九、 清醒してイイススの祈祷を汝の呼吸とがつすべし、或は死の間断なき思念と謙遜とをがつすべし、彼れと是れとはおほいなる益をあたへん。

百九十、 主はいへらく『我が心は温柔謙遜なり汝我れに学べ汝のたましひに安きを得させん』〔馬太十一の廿七〕。

百九十一、 主は又いへり『此の小児の如く謙遜なる者は天国に於ておほいなり』〔馬太十八の四〕『自からたかうする者はひくくなる』〔ルカ十八の十四〕。且言ふ『我れに学べ』と。なんぢ見るか学ぶはすなはち謙遜なるを。主の誡命は永遠の生命なり然るを此の誡命は即ち謙遜なり。故に謙遜ならざる者は生命より堕落せるなりされば彼処かしこに於て変じてこれに反対するものとならんこと必せり。

百九十二、 もろ〳〵の徳行は霊と体とに於て作為せらるべくして我等のすでにいひし如くもろ〳〵の徳行のよりて以て組成せらるゝ所の霊と体とは神の造る所の者ならば我等霊と体とを飾るに他の装飾を以てして自ら尊大にし自ら高慢する時は是れあに極めて狂愚にあらざるか。而して驕傲に依頼すること蘆葦ろいに依頼するが如くして己を威徳の無限なる神に反対に立たしめかゝる至極の愚と無智とをもて神のいとおそるべき不愛を己が頭上に引来ひききたさんことはあにた殊に狂愚にあらざるか、けだし『主は驕傲の者をしりぞくるなり』〔イアコフ四の六〕。我等は謙遜に於て主にならふべきにへて高慢驕傲なる偽智をもて主のいと狂暴の敵たる驕傲なる魔鬼と親睦を為す。是故に使徒はいへり『何の未だ受けざる者あるか』と〔コリンフ前四の七〕。あに汝は自から己を造りしや。されどもろ〳〵の徳行の由りて以て組成せらるゝ所の体と霊とはなんぢこれを神より受けしなば『何ぞ受けざる者の如くにほこるか』〔前同〕。けだし主は此の一切を汝にたまひしなり。

百九十三、 心を清うすることも又それが為めの謙遜もすべてうへよりくだる所の善も我等に於て位地いちを有するは他にあらずちゅうする〈窺い盗む(*投稿者注)〉所の思念の心に入るを断じて許さゞるにあるのみ。

百九十四、 神の助けにより独一の神の為めに行為する智識の守りはづ霊魂に堅立して神に依るの苦行をおさめしめんが為に智識に聡明をあたふるなり、しかのみならず智識の守りはまたのこれを領する者の為めに非難すべからざるの思慮をもて外部のおこなひことばとをおなじまた神に依りて建てしめんが為めに才能を給するなり。

百九十五、 旧約に於て司祭長の特飾〈胸間にかくる純金の版にして主の聖物と題するものなり、出埃及記廿八の三十六〉は中心の清きにしたるものにして我等をして吾が心の版の罪によりて黒くならざりしや否に注意せしむるなり、これ〈もし黒くなれりと思ふ時は〉我等の涙と痛悔と祈祷とをもて急にこれを清めんが為めなり。我等が智識は軽きもの〈動き易きもの〉なり、これを罪の記憶よりとどめんこと難し。ただしいふべし彼は悪なる想像の為めにも又善なる想像の為めにもひとしく従ひ易きものなりと。

百九十六、 心中にえずイイススを呼びおもひにてイイススの祈祷に貼着すること空気の我が体に密接するが如くほのお蝋燭ろうそくに於るが如くなる者は実にさいわひなり。太陽は地上を経過して一日を生ず、さりながら主イイススの聖なる尊崇せらるゝ名は断えず智識に照り輝きて太陽の如くなる思念の無数の多きを生ず。

百九十七、 くも散ずる時は空気清く澄みてあらはる、されば義の太陽なるイイスス ハリストスにより欲念の散ずる時はイイススをもて中心の空気をてらすが故に常に心に於て光の如くなる又は星の如くなる思念生ずるなり。けだし智者はいへり『主を恃む者は真理をさとり愛によりて主に忠なる者となる』。

百九十八、 或る聖人のいひけるは魔鬼を怨み怨めよ而して常に肉体に敵し敵せよと。肉は狡獪こうかいの友なり、満足をあたふる程は彼れいよ〳〵強きたたかひを起す。かゝればすみやかに肉体に敵し腹とたたかひを始むべし。

百九十九、 みぎほとんど二百章を成すに於いて我等は智識の聖なる静黙の苦行をあらはしてたゞに其の結果を尋ぬる一己の捜索をあらはせるのみならず神智を得たる諸父の神出なる言説が智識の清きに関して我等をいかに教ふるをもあらはせりき。今亦智識を守るの益を示さんが為めに少しく言ひて説教をへん。

二百、 ゆゑに来りて我れに従ひてなんぢいかなる者たりとも智識の幸福なる守りを得るを致すべし、汝は霊に於て長寿ながらへて幸福を見んと欲する者なり〔聖詠三十三の十三〕されば余はもろ〳〵聡明なる力の明白なる行為と其の生活とを主によりて汝に教へん。天使等は造物主を讃揚してかず、彼等と専ら競争する所の智識もまたかざらん。されば非物体なる者は飲食の事をおもんばからざるが如く物体にして非物体なる者も智識の静黙が天に昇らん時は飲食の事を慮らざるなり。

二百一、 天軍は富の事又は獲るの事を心に掛けざるが如く清浄にして徳行〈清醒の〉に練習を得たる心霊の目も悪鬼のいかりくの事に掛念せざるべし。されば彼等の為めに神に近づくに上進するの富は明白なるが如く此等の人の為にも神を渇望すると愛すると神に属する事に向進登上することはうたがひなきなり。且彼等はかざるおほいなる願望をもて愛の無限なる大悦〈エクスタス〉に導く所の属神の事を味ひしが為めに向進上昇してセラフィムに達せざらん間は止まらざるなり、即ち彼等は我が主イイスス ハリストスの為めに天使とならざらん間は心を清醒にすることおほいに願望して上昇することとをきゅうせざるなり。

二百二、 毒は毒蛇と蜥蝎とかげの毒に過ぎたるはなく悪は自愛の悪に過ぎたるはなし。さて自愛の子は左の如し心中の自慢、自適、貪食、淫行、浮誇、怨恨及び萬悪の最たる驕傲即ちたゞに人類のみならず天使をもく天より堕落せしめ光にへてやみにておほふ所の者是なり。

二百三、 それフェオドルよ静黙と同名〈即「イシヒイ」〉たる余は実際は静黙者にあらずといへども汝にしょしぬ。顧ふに余は我等に属する所の皆すべて書したるにはあらず、然れども要するにこは凡そ有智なる天性即天使と人と又言ふ可らざる造物主独一の神に造られたる萬物とより父と子と聖神の名に於て讃美頌揚せらるゝ神があたへし所のものなり、ねがはくは彼の光明なる国は至聖なる神母と我等が克肖こくしょうなる諸神父の祈祷によりて我等もうくるにへんことを。彼れ及ぶ可らざる神に永遠の光栄は帰す、あみん。