『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、小幡景憲が江戸初期に著した戦国大名・武田氏にまつわる軍学書である。ここでは内藤伝右衛門・温故堂書店の刊行物を底本とする。
- 底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26.
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- 「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
【 NDLJP:88】甲陽軍鑑品第廿六山本勘介駿河江 行事并 信濃上野堺笛吹峠合戦之事
付 板垣信形同日に同敵と初合戦之事
天文十五年七月廿一日に晴信公山本勘助を召て足軽五十、始の足軽合て七十五人知行五百貫始の三百貫合せて八百貫下されし、此事をふいちやうの為少の間御暇申駿河の今川家庵原殿へ参る、年来かゝへをき給ひて忝き御礼を申て其上晴信公我等を甲州へ召寄らるゝ時百貫の約束にて候ひしを庵原殿御異見に晴信公御朱印を取て罷越候へと有つるを某御意をそむき朱印とり申まじきと申候子細は我等ちんばで、かためにて、色黒く、ぶなりにて、しかも無人前にて百貫の知行過たると思食被㆑下間敷【 NDLJP:89】候さありて知行不㆑被㆑下は我等他国へ走り晴信朱印を人にみせ晴信公は虚言を仰らるゝ屋形哉といはれまじとて打殺しなさるべき間御朱印取ては参申まじと申は皆偽に申て候御朱印を取て参候はゞ被㆑下度思召す共百貫を限りとおぼし召加恩被㆑成候事御座有間敷候、とかく日本に若手の名大将に及ばれ給ふべき屋形と存奉り御朱印とらずして参り候へば、御礼申上ると其場にて二百貫の書出し下さるゝは勘助無男にて諸人に名をよばるゝは何そよきことの証拠ありてこそ名は高けれ、名の高き者にむてなる事有まじと仰られ、廿三歳などにて何の国の大将にも如㆑此成はまれ成べしと、めし出されざる以前に、我等つもりのことく、政道賢き、名大将にてましますなり名将は必人の取なしにも男ぶりにも搆ひ給はず武士道の武畧智畧の侍を第一馳走あり崇敬なさるゝ物なれバ我等は晴信公の御意に是非とも取入申べきと、兼て覚悟仕るごとく我等甲府へ参りて手柄は今迄四年の間に八百貫の知行拝領申とて五日逗留いたしやがて甲府へ帰の駿府にて諸人始め誉ざる勘助を後はほむるなり以上
天文十五年丙午九月中旬武蔵国上野国にて、上杉家の侍大将衆打より評儀しける、甲州武田晴信当年三月信州戸石にて村上義清と合戦ありけるに世間には武田方勝様に申といへどもよく内々のさたを聞に大かた晴信の負と聞ゆる其子細は武田方討死千余有㆑之手負へかけて三千ある中に弓矢柱の甘利備前大剛の横田備中、討死する板垣信形と云者は諏訪の郡代に罷在伊奈衆木会衆小笠原方を押え結句甲州より加勢をこはねば不㆑叶して此板垣よの方へむかふことなしまた飯富兵部、小山田備中といふ両人の家老は村上殿を押へ、是を以て余方へ向はず、信州先方の侍大将は晴信の為をあまり思ふこと有まじく、扨又武田譜代の家老衆に板垣信形、飯富兵部におとらぬ者ありといへ共それは騎馬を百騎と持たる者なし郡内の小山田左兵衛、栗原左衛門、一家の典厩穴山此四頭は騎馬弐百騎に余り持たるといへども板垣信形、飯富兵部両人の十分の一もなき者共なり晴信は甘利備前討死を迷惑に思ひうはけは機嫌よき様にもてなさるれども内心は大方ならずして此頃は存命不定の煩といふ事を甲州より牢人の侍衆くはしくかたる如㆑此に候はゞ各信州佐久の郡へ打出それより甲州へ働武田晴信を退治し申べきと手にとる様に談合致皆々尤と一同する中に上野みのわ【箕輪】の城主長野信濃守弓矢功者の侍大将にて分別をきはめ申は各筋なき事を工み出して仰せ候抑此比上杉衆の弓矢さては上杉殿国々仕置迄悉く逆になり順なる儀大方取失ひ北条氏康に度々塩を付られ何ともいたして北条氏康に上杉家を退治せられぬ様にと、思ふ工夫はなくしてかまはぬよその国と取合給ふ、武田殿と取合を始それを能すれは、尤なれども、必各殿をとりなさるべき事疑有間敷候武田晴信九年以前十八歳より当年廿六歳迄の間に一年に二度三度の大合戦に殿をとらず終に敵力へをしつけをみせられたることをきかす殊更去戸石合戦にも、晴信なればこそ芝居をふまへ、おさまりには敵の押付をみ給ひ候戦は惣別芝居をふまゆるを勝と申事は昔が今にいたる迄源氏七騎に討なされても勝といふは弓矢の作法是なり、人数の大勢討死したるを負にいたすは、弓矢不案内の家にて如㆑此にさたするぞ人をすくなく討取て我味方如何程おほくうたれたるといふ共其場を立のかず、ふみしつめたる方を勝合戦と申子細は皆々いづれも度々のせり合合戦にあひ給ふ侍大将衆成が負たる戦に芝居はふまへられぬ者とは定てみな知給ふべく候それに甲州より来る牢人晴信のうはさ悪く申は戸石において臆病をいたし、腰ぬけばらひにあふたる、不案内の侍共巳がわざの比興をばをしかくして日本国中に若手の弓矢取にて候晴信をそしりて嘲をまことゝ思ひ武田方へ働申へきと有る談合を能々工夫いたしてみ候へば武田方へ働て負て後は上野武蔵へ晴信御発向なされよと申程の物なれば各は武田殿へ忠節の人々なり長野信濃守に於ては以来御覧候へ晴信へ随身申間敷候と、のゝしつて座敷を立、みのわへ帰りおのれが聟の両小幡に意見申扨又信濃守立たる跡にて侍人将衆批判に、長野信濃守は信州侍、真田弾正と懇切なり、真田弾正、晴信のかげにて信州本地へ帰参する、爰をもつての儀なれは長野信濃をば除くとて長野をばやむる就㆑中笛吹峠へ働出る侍衆は【忍、深谷、見田】をし衆、ふかや衆、上田又二郎、み田五郎左衛門、新田、たて林、せん山上衆白口井、前はし、沼田、安中、五かん、中根、白倉、和田、小幡、松枝、此侍大将衆、くらぬ六郎大将【三大記ニ倉鹿野六郎トアリ】ぶんにして都合弐万あまりの人数にて打出る、さて甲州がたには晴信公九月始より二日はざめの瘧を煩給ふ故板垣甲府に罷有飯富兵部、小山田備中、真田弾正、是二人は村上おさへ【 NDLJP:90】なれば甲府へまいる事無用と上意にて参らず、真田弾正方よりはやく注進申其外あひ木、あした、皆々取々の注進なり、如㆑此に候へ共晴信公御煩故、典厩か、穴山殿か、いづれ成共鬮どりなされ大将にかわつて甲州の人数をつれ笛吹峠へ立向ひ給ふべしと家老衆の評儀是なり、下々取さたには此比あまりに勝を当方取たる故かゝる大事出来して殊更屋形の御煩如何様たゞ事ならぬあくじかなとて、甲州ちと噪く就㆑中晴信公仰出しには諏訪郡の番手には典厩穴山旗本足軽大将四頭添てさし越笛吹峠へは板垣信形を大将にして郡内の小山田左兵衛、栗原左衛門、逸見、おぞ、かつ沼、南部、日向大和、小宮山丹後さてはあひ木、あしたを指添十月四日に甲府を打立て同月六日己刻に板垣信形、大将とは申せとも軍の時は先懸して懸て一戦する関東勢、笛吹峠をこして、弐万あまりの人数五千ばかりこなたにゐる、いまた残は峠或は坂のあなたにつかへたる内の合戦なれば敵はあとを引付たがり、戦ちとめて也板垣は身を捨て戦ふ板垣におとらじと甲州衆、佐久の郡衆戦に付て何の造作もなく、関東勢を伐くづし、板垣方へ頸をとる数千二百十九の書立をもつて則午の刻に板垣さいはいを取て牀机に腰をかけ勝時を執行名誉の名をあぐる事、板垣信形大剛の侍大将なり然ば甲州にて晴信公仰せらるゝは上杉家の者共北条氏康に度々負けて既に北条衆百に上杉衆二千にて少もたまりなく上杉衆負るときく又国の仕置何事に付ても一ツとしてよき事なき者共にあなたより仕懸らるゝ事中々某ほこさきは曲りたる儀也縦ひ煩こうじて死すとも爰をのがしていきたるしるし有間敷候とありて五日の辰の刻より甲府を打立給ふ御供の人々は甘利藤蔵其年十三歳扨其外、馬場民部、浅利式部、内藤修理、秋山伯耆、原加賀守、諸角豊後七頭御旗本にて足軽大将には原美濃、小幡山城、安馬三右衛門、曽根七郎右衛門、山本勧功此五人は大剛の者なり右の大身少身合せて四千五百の着到にて急き同日六日未の刻【仝月六日ノ誤ナルベシ】に軽井沢へ御着ありさて関東上杉衆、板垣に仕負ぬれ共随分歴々おほへの侍大将衆なるにより長野信濃守が詞にもはぢよといひ合て二の合戦を以て笛吹が峠をこし一万六千ばかりにてひかへたり、晴信公よき御仕合悉皆八幡大菩薩の御恵かとおぼへたり、飯富兵部、小山田備中、真田弾正三頭は晴信公御煩なれば板垣仕負は以来関東より手を出され受太刀に成候はゞ信州武田の御手に入事なるまじく候と存、板垣へ加勢のためにきたり存の外晴信公御座なされたるをよろこび、則未の刻に合戦をはしむる先刻一戦仕りたる衆をば板垣を始筒勢にして無二無三に懸りてをし崩し到下をのぼりに討ほどに未の半より申酉のおはり迄に関東管領上杉衆を討とる其数雑兵共に四千三百六ツの頸帳をもつて其夜亥の刻に勝時を執行あり其儀式は御太刀飯富殿、左に御団、板垣殿、右に弓矢は原美濃守御そば左、弓は白膠木の木にて新しくいかやうにも仕る物也、矢は、まば、【矢ハ真羽】本矢也太皷は小幡山城御そば、右にほらの貝は山本勘助是はふかずして手に持て居るなり太皷せをふ者にもたせ撥をとりて三度うつ御旗は加藤駿河守小旗持をそばへ引付、御旗に左の手をかけてゐるなり、さいはいは屋形様持給ふなんてんの御手水は金丸築前太布の御手巾飯富源四郎如㆑此ありて其夜はかる井沢に野陣なりさ有て三日御逗留の間に多く頸共を見るに味方討一人も無㆑之事を山本勘助みて他国に違ひ武田の弓矢向上也、合戦に勝たる手柄より是ほど多き頸の中に味方討のなきははる〳〵上也、兎角是とても晴信公御弓矢武事習ひ候故也と勘助諸国の家の弓矢にたくらべて晴信公を讃奉る但味方討なき大事をバ晴信公にら崎合戦より御工夫なされ鼻をかきてはせんさく成かたし大合戦に頸を取たる上中下のさた理おほし扨十一月迄御跡に残しをかるべきと定め佐久小県の御仕置ありていかにも境目大事にあそばし十月十日御馬入、天文十五丙午年十月六日笛吹峠合戦とは此事也、晴信公廿六歳の御時なり
板垣信形笛吹峠のこなた、かる井沢に十一月迄罷有同野陣に仮屋形をひろく作り、十月六日の始の合戦に手にあはざる衆手柄の武士ともにも上中【一本上中下トアリ】をさたして饗応を仕るに上の手柄には膳三膳或は二膳赤椀にて振舞又手にあはざる人々には黒椀にて精進飯をくれらるゝ、是を他国にて信玄公なされたるとさたあり板垣信形短気なる人にてかくのごとし
又諏訪の番手にまします典厩、穴山殿、其外御旗本より指添らるゝ足軽大将多田三八をはじめ下曽根三枝市川各今度笛吹峠の合戦にあはぬ口をしきなり聞及たる大身の上杉衆と、はだへをあはする塩の付はじめの勝負をせさる無念と申さるゝはことはりなり以上