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甲陽軍鑑/品第廿五

 
オープンアクセス NDLJP:85甲陽軍鑑第九下 品第廿五
晴信公山本勘介問答 信州戸石合戦之事 

天文十四年六月廿四日に晴信公山本勘介を召して諸国弓矢の批判をきゝ給ひて後問ひ給ふ唐より日本へわたりたる軍書を見聞きたる斗りにては人数をくばり備へをたて陣取りをとりしき、堺目の城搆へ能き軍法を定むる事成りがたくおぼへたり其方ならひうけたる様子はなきかと仰せられければ勘介承りて申上る我等城を取しく縄ばりは委しく相伝申し候関東には太田道灌かゝりを専はら用ゆるとは批判いたし候へ共過ぎてひさしき事にて候へば今は是とてもしかと存知たる者無之と相みへ候て当時とりたてたる城共堀るまじき所に堀をほりて築ましき処に土居をつき柵の木の場に塀をかけ篰オープンアクセス NDLJP:86の土居、かざしの土居塀やくらはし廊下らうか橋、人馬の不浄かくし、ながしついぢの馬だし五方六方八方正面杯と申す事も存じたる者無之候縦へば一色斗り能事を仕る事も候、それは度々城をせめ、度々城に籠りて弓矢功者の覚への者は如此仕り候はゞよく候はんと存じ候て一ケ所斗り仕りても、さすがにならぬ事なれば一本流石に習ハぬ事なれば云々トアリ必す是れ肝要と不存失念いたし重ねてならぬ物にて候と申上る、晴信公仰せらるゝ城にこもりてよき事はせむる者の為にむづかしき儀なりせめてむづかしく、こもりてよき事きはめて一かどなる徳ありやと尋ね給ふ勘介申上る馬だしと申す物は城取りの眼にて候子細は城をまかれて城の内より備へを出すにあぶなげもなく候又攻手に成り申して取りよせにくう候惣別城取りの作法を能く取りたる城には、千こもる人数を五百にてもむつかしく候、あしくとりたる城は人数五百籠る所に千五百籠め給ひても其人数用に立たすして大成る損にて候と申上るそこにて晴信公敬礼し民部を召して敬礼し民部ハ教来石民部ノ誤ナルヘシ是をきかせ給ふ此民部後は馬場美濃守と申候、扨山本勘介先ますがたの談義を委しく申上る、ますがたに付侍四十騎のさたを聞こし召し晴信公仰せらるゝ、人数を組み備をたて仕様を以て大敵強敵少敵弱敵ともにせりあひ合戦して無疑定めて勝つ事有るやと尋ね給ふに升形五八人数積
一大頭十人連ル一小頭八人連ル一足軽大将七人連ル以上三頭主共廿八人一足軽廿人一長柄四十本一旗二本持者六人付四人ハ煩ノ替也足軽、旗、長柄十六人都合二百九十四人也一升形五七ハ部合二百六十四人也五六ハ部合二百三十四人也
、勘介申上る大敵強敵に勝ち給ふにこそ、なされ様は候へ大敵に勝ち給はゞ少敵は申に及ばず強敵に勝ち給はゞ弱敵は申すに及ばず、晴信公仰せらるゝは大敵の剛強成るは如何、勘介申上る一ツにてたてはかりこと二ツにそなへの立て様、三ツにみきり、右の三ツをもつて勝利を取り給ふべきと申上、晴信公仰せらるゝはよはきといへども人数多くして大敵なるはいかんとあれば、勘介申上るされば喩へを取りて申すに風呂はいづれの国にも候へども伊勢風呂と申す子細は伊勢の国衆程熱き風呂を好みて能く吹き申さるゝに付て上中下ともに熱風呂にすく、在郷迄大方村一ツに風呂一ツ宛候て既にぶあらしこ迄も風呂ふくすべを存じ候はあつき風呂すく故かと見へ申候、ぬろき風呂に入り付けたる人は熱風呂少しも耐ゆる事ならざるごとくに大敵の剛強なるにさへ被成様をもつて勝ち給はゞ残りはさのみ御工夫に及ばぬことゝ申上る、晴信公仰せらる扨て人数をくみそなへを立て陣取り敷く其仕様は如何と尋ね給ふ、勘介畏り直つて頭を地に付申上る、抑晴信様承及ぶ政道賢く文武二道の誉れ今は早日本国中に若手の名大将にて御座候、御下へ召しよせられ諸国のうはさを申せとある御意をもつて申上るにてこそ候へ、備へなどのことは憚りおほき儀にて候、十年以前一本ニ八年以前トアリに信虎様駿河へ牢人なされ今に駿府に御座候信虎様、義元公へ度々御雑談に甲州御家中弓矢功者の衆、甘利備前守、板垣信形、小山田備中、飯富兵部、原加賀守、諸角豊後、侍大将に六人、足軽大将には横出備中、原美濃、小幡山城、多田三八四人此十人は弓矢をとりてくらからず子細は甘利備前は軍にけがなき様にと仕る板垣は合戦をまはさぬ者飯富兵部は我より大敵なりとも又強敵成り共わがほこさきには楯をつかすまじと存ずる者なり、小山田備中はつよみありて律儀第一にして我等申しつけたる所をば何と大敵せむる共、しさりもかゝりもせず少人数にて城など能く持すましたる、ほまれ度々御座候者也、諸角豊後我等甲州一家の侍をきりしたがへ信州にて、平賀をたやし或は富士の川東、我等持ち、其方へ聟引出物に進ぜざる先、伊豆堺にて、北条氏縄と取合し時敵当手とうての働きをもつて来年敵の働くべきをつもるに少しもちがひなきものにて候、原加賀は他国を始めてみる山中にても道をあて人数をとをしさきにてつかへまじきと此方にてつもるに少しもちがはぬ者にて候、又足軽大将に横田備中は敵とせり合の時敵はたらくべき様子をいかにもはやくさとり敵の軍場をとりて敵に手をうしなはせて筒勢を引きつけてせり合に度々の勝ちをとる、足軽なる故自然筒勢遅き時はあやうき働きの足軽と存知同心をちとおほく預け候と仰せらるる、原美濃は十人の足軽を百人の様につかひ敵にかさをかけ巳れが同心どもに、敵をとりこにする如くに思はせ、たゝきまはして味方に気をつけ、いさみかゝつて勝負をはじめしかも敵中へまつさきに乗りこみかち立ては鑓をあはせ、大勢の敵をつきちらし馬上にてきつておとし度々のあら勝負をして数ケ所の手を負い其疵に塩をこみ、あら人神のやう成るつはものにて候故一年法花衆ほつけしうの法論一本ニ一年浄土法花ノ法論云々トリに我等の申す事をもきかず、小田原へ牢人して六年罷り有る間に勝れたる武篇を九度仕り氏縄氏康父子の感状九ツとりて持ち候氏康の代に成り若き人に我等様々手を下げ、詑言して彼の原美濃を取り返へして候小幡山城は足軽あつかふこと縦ばばんつみばんつみハ番包みナルヘシに入てかづきて一人づゝ出し能き時分に皆取り出しをのれが同心共に一人ものこらず手柄をさせ又袋に入れたるごとくにをしまとひオープンアクセス NDLJP:87つれて行、のくこと少しもあぶなげなく候により是には足軽少しあづけて候、多田三八は、無類の者なり其上夜懸けの足軽は一入、足手強盛成る者をすぐり候故是には猶以て足軽すくなく預けて候と、信虎公御物語りの由承り及び候又我等関東へ参り聞き申すにも、原美濃守儀、氏康公も仰せらるゝは渡辺の綱と申すも原美濃がごとく成る男ぶりかとほめ給ふ由、北条家にもあまねく取りさたにて候其さた敵がた上杉家にも原美濃六年の内、小田原にての走り廻りは武士の準拠に仕り候いづれの家中いづれの武士も承り及びつきあひ候て聞き申したる半分あるはまれ成る事に候が、御家中へ参り各侍大将衆の様子足軽大将衆の模様中々是非に及ばず候儀御前にておそれ奉り候へども摩利支尊天の御罰蒙り申すべく候偽申上げず候殊更加藤駿河守御家中へ参り向上かうぜうに見申して候本の武者奉行と申すは駿河守などの様成武士をこそ申候はめ其上御父信虎公、くしま合戦の時荻原常陸守殿あひづの物見仕り出され当方の御勝利になる是は伊勢の猟師、網引雑談を常陸守被聞申て、仕出されたると申其御丹練故信虎様を十二年さきに氏康公廿一歳の時武蔵の滝山へたのみ出申、一本ニ十年さきトス
又滝山ヲ龍山トス
上杉衆と合戦に信虎様あひづのこはたと申事にて氏康公の理運になされ則其武畧を信虎様、氏康公へ御相伝候右原美濃守を相違なく返しまいらせられたるは其返礼と近国にさた仕候、此侍衆の様成弓矢の功者、覚の武篇者は、北条氏康公御家に、北条上総是は侍大将ため大膳、大道金こく多米大膳大藤金国是両人は足軽大将、合て三人越後為景の子息景虎当年十八歳に成給ふ、其内に義景と申は景虎のあねむこ是大身にて候、此仁体と又少身成人にうさみ駿河守と申者両人承及びて候、義元公には井伊一本ニ井伊ヲ飯尾トス朝比奈、備中、庵原殿、原肥前、四人の外少身者には無之候其衆にもはるの上の人々、当家には加藤駿河守をそへて十一人まで大剛の侍御座候此衆仕らざる事を誰とても推量申上まじく候、まして我等式如何と斟酌申山本勘介をおく深きと、上下誉めぬ者はなし、晴信公は猶もつて深くおほしめすなり

天文十五年月日小県のうち、戸石の城へとりつめ攻なさる時は晴信公御一代になきをくれを取給ふ程の儀なり子細は前の年五月諏訪の郡代板垣信形いなの侍衆にあふて、おくれをとらるゝに付此度ちいさかたへ御発向をきゝ伊奈衆、木曽殿、小笠原、諏訪へ働き申べきと遠慮有、木曽小笠原の押の為に典厩、穴山殿、郡内小山田左兵衛、日向大和守、御旗本より検使には、金丸若狭足軽大将は小幡山城守此衆は下の諏訪にて、塩尻口の押なり又足軽大将、原美濃、御旗本より板垣信形に差添られ伊奈衆に用心のためか諏訪の内花岡あるがの郷におかるゝ、かつ沼殿は甲府の御留守居、さて又飯富兵部に、小宮山丹後は又飯富殿同心被官ともに二百騎の相備なり、旗本よりの足軽大将には多田三八此衆は上野上杉衆と信州衆と内通の由略ボきこへて、関東衆の押への為めに笛吹が峠をきづかいて指おかる就中戸石要害せむる衆、栗原左衛門に各五十騎三十騎衆二三人又は十騎廿騎の小頭衆扨はあひき、あした、相木、蘆田を始め信州先方衆なり敵後詰申べき為の押へに、甘利備前旗本よりの警固は足軽大将横田備中子息彦十郎御旗本の前は小山田備中守、うしろは諸角豊後なりかゝりける所に村上義清戸石の後詰仕らるゝときくよりはやく六千余りの人数を将てがくがんじ楽岩寺二百騎あまりつれて、さきがけいたし少も余方へ搆なく甘利備前備へかゝつて一戦を始る、横田子息彦十郎其年廿二歳にて未だ若人なれ共十六歳にて初陣仕始、七年巳来度々の走廻仕り養父備中守こして武篇を仕候はんと何時も覚悟いたすに付、今度戸石においてもがくがんじが下にて物頭仕る武士、まつさきにすゝみ歩武者をけたて其身は馬上にてさいはいを取りてかゝる人と横田彦十郎馬を乗よせて組んでおち、しかも高名仕、鑓疵刀疵四ケ所深手負て引退、此合戦の手柄の如くなるすぐれたる武篇を十六歳から廿二迄の間に五度仕、晴信公御感御感状ナルヘシを五ツとりて持此彦十郎は原美濃惣領の子を横田備中むこにして其上養子なり殊更其日の合戦村上先をいたす、がくがんじ巳が下の者頭を横田彦十郎にうたれ一入いれて二の手よりがくがんじさいはいを取てむたいにかゝる、わだ同井上、須田、まきの島此城々侍大将共いづれも弓矢功者の人々にて晴信公其日小勢成をみきり、甘利備前一頭へ村上方五頭懸りて伐崩さんと戦へ共甘利備前、横田備中少も場をさらず村上義清は晴信公はた本を心懸人数をわきへまはしたかり候へども其場ちと切所あつて人数大勢一度に先へゆかれざる内に城よりもつゐて出まきたる武田勢をおしはらふ、甘利備前、横田備中討死なりと御旗本へ告来れ共、甘利衆くづれざるは晴信公武篇の家のしるし也城をまきたる衆の内信州先方衆は川上入道を始皆はやく崩るゝは昨今の新参故也かオープンアクセス NDLJP:88くて此合戦既に晴信公負給ふとあひみゆる所に、三州牢人山本勘介かち足軽二十五人預り申し御旗本に罷有が各足軽大将衆にわが同心をたのみ全集ニハ罷在が安馬曽根足軽大将云々トアリ勘介は晴信公御前へ参り申上る村上只今御旗本へかゝつて一戦と相見へ候、甘利備前、横田備中討死仕り甘利家中手負死人おほく有様に候へとも晴信公武き大将の御下の衆なればこそ今に甘利衆くつれ申さず候つよきと申候ても又左様にもこたへられぬ者にて候甘利殿衆の崩れぬ先に何とそ御分別あそばせと申上る、晴信公仰せらるゝは信濃先方衆各味方乱たちて某下知も一廉仕べき様無之と覚へたり所詮小山田備中と、諸角豊後某と三備にて一合戦して討はたすより外の分別二ツなしと仰らるゝ、そこにて山本勘介申上る、敵の筒勢を南へむけ給はゝ此合戦後は御勝と申、晴信公仰せらるゝは味方さへ下知につかぬ所に敵の備を味方の仕様にて南へ向くべき事今迄聞たる事もなしとあれば、山本勘介申はさあらば御うしろの諸角馬乗五十騎の備へを勘介次第との御意を承て武略仕りてみんと申す、晴信公尤とありて、勘介を召つれられ諸角豊後に引合なさる諸角さこそ左様の武畧ありとは申せ共努々不存候、さあらば何ともはかり候へとて山本勘介次第に諸角いたさるゝ勘介諸角衆をつれて道五町程出て、備をたつるを敵みて案のごとく人数を纏め切所をこして懸らんとする敵かゝりはせずして南へむく敵南へむけば味方の御旗色悉くなをりて備しぐらむ味方しぐらむと一度に敵軍さやくなり候、是を勘介みて御旗本へ参り晴信公御意を得奉つて御旗本足軽衆半分と、小山田備中手勢七十騎と合て一戦を持て懸る、又備中組にてよりあひの卅五騎を加藤駿河守に預て本の備中、備たてたる場におきて後に小山田備中一備にて懸るをみて敵敗北なり備中さいはいを取て引敵を追つめ、雑兵六十一討てとり其間に山本勘助は甘利備前備へのりこみ勝利の吉凶を申て味方をいさむる甘利衆勘助にをとらぬ武士共多ければ勘助ことば聞て聞くはりよやく引敵へ押つめ雑兵百三十二討取其間に勘助信濃先方衆備へ行て、もり返し備を立て芝居をふまへて是れも、晴信公勝合戦と四方の風聞は悉皆山本勘助武略の故と上下共に山本勘助を摩利支天の様に申す信州戸石合戦是なり晴信公二十六歳の御時如件敵を討とる数百九十三は雑兵合て如此味方は信州先方衆へかけて七百廿一人雑兵共に討死するなりされども敵は少も足をとめずして敗軍仕る晴信公軍の場をふまへ勝時を執行給へば是も勝合戦也下々のさたには屋形様御機嫌あしかるべしと諸人存の外少もさなくして晴信公御機嫌一段よく御座候て三月十一日に御馬入帰陣まして三日過、大蔵大夫をめして御舘において三日御能御見物なさるゝ、其後きやうらいし民部を馬場民部になされ馬乗五十騎預下され工藤源左衛門を内藤修理になされ馬乗五十騎預下され、浅利馬乗九十騎頂下さる、秋山伯耆に馬乗五十騎是は甘利備前組の衆戸石合戦にて様子あしき人々御意にそむき改易して坂を越、侍大将衆の同心被官共なり、此内信州先方川上入道は御成敗なり甘利備前手前の同心百五十騎は子息圡千代其年十三に成を甘利藤蔵になされ百五十騎かはらす預らるゝ此子息父備前守におとらぬ武篇の人にて其年十月の御陣より望て初陣を仕り笛吹峠にての合戦に十三歳にて能武者を討て高名仕る、大方武田の家の侍衆は大小共に十六歳を初陣と定らるゝ然れ共藤蔵は百五十騎の馬乗かしらなしには、いかゞと詫言申上十三にて初陣なり此人を近年甘利左衛門と申甲子の歳三十一歳にて馬にふまれて死す十九年の間数度誉れあり此人死候時跡部上野晴信公へ告ぐる是は武田の久しき怨霊也