コンテンツにスキップ

甲陽軍鑑/品第廿七

 
オープンアクセス NDLJP:91甲陽軍鑑品第廿七
真田弾正武略之事 長野信濃板垣信形等事
 山本勘介国々之例引事、信州上田原合戦之事
 

天文十五年十一月三日に真田弾正所へ坂垣信形、飯富兵部、小山田備中寄合、真田申は某事晴信公御ため大切に存奉る事恐ながら旁三人におとり候まじきと、覚悟仕候へとも似あはしき御奉公をも致さす又飯富殿は内山に御在城、扨小山田備中殿は小室に御在城なれば、折々申談じ我等の心中大形御存知にて候板垣殿今度笛吹到下の合戦の御利運に付十一月中は御逗留のよし我等において悦候、屋形様御前御取成三人の御方奉頼候と申されて後、真田弾正申す飯富殿備中殿は内々さゝやき申村上義清越後へつうしられ越後の為景御子息景虎当年十七歳になり給ふが弓矢をとりて性発成事、晴信公の御形儀に少も違はぬと承及候此景虎へ無事のふづくり候へとも越後の内一郡ほど村上義清とりて持候是を景虎へ返す事如何とある儀にて無事調ひ申さず村上欲を離れ候はゞ只今にも罷成候ときこへ候さ候て村上つよりつよりハ強ナリ候はゞ伊奈、松本、木曽などもつより候て、晴信公御手のひろがる事成かね申信濃中にて取合なされみな我等式まで幸労いたしても晴信公を大身と申さねばせんなき事にて候我等の分別仕たる儀申べく候哉と、真田弾正申され候、板垣信形是をきゝ何事にをいても、真田弾正殿あしき儀被仰べきや、いそぎ承度と申さるそこにて真田弾正申は、内々聞及たり武畧は近国他国にすぐれさた仕甲州にて今の晴信公御父信虎廿八歳の御時武田様の御家老荻原常陸殿大剛福島カ勢ヲ飯田河原ニ討ツ名誉の武畧故信虎様二千の人数をもつて、一万あまりの敵を五千程討取なされたると承て候、飯富兵部申され候は其常陸は我等のをば聟にて候が武篇の強事人に勝れ英雄共此人をこそ申べけれと見る人ごとにさた仕るさるほどに、扨手柄の事は申すに及ばず才覚まはり、弁舌あきらかに弓矢の作法はよその国にもならびなき武略、智略、計策の工夫思案すぐれたる分別者にて候と、飯富兵部申さるゝ、そこにて真田申さるゝは常陸殿のごとくになくとも其行をいたしてみんとて、信州侍にすの原若狭同惣左衛門須野原とて兄弟の者を村上義清へさしこす此兄弟は元来海野がおとな筋なり、武篇人にすくれ殊更智恵才覚ありて弓矢てだてのすべを能存たる武士にて有る間、村上義清へ参りて、真田城を取て参らせんよき武士をすぐりて越給へとて村上旗本家老の騎馬まておぼへの有侍五百人すぐりいかにも隠密して取あはてぬやうにと、義清申含てすの原兄弟に引合さて又彼兄弟の者には馬鞍太刀刀知行の朱印をそへて出す両人の者刀脇指をばとる、よの者をは返して、やがてまた参り重て頂戴申べきとて村上殿好のごとく案文にて熊野の牛王に起請をかき、村上殿方のよき侍を真田がたちへつれてゆき二のくるわ迄引籠跡先の門をうち本城と三のくるわより、さしはさみ、五百人の村上衆を一人も残らず成敗仕りしかも味方に手負死人なく忠節を申上る真田弾正工夫故次の年、上田原の合戦に晴信公勝給ひ村上義清まけて終に越後へはしり入日来取て持たる越後の内を景虎へ進上して景虎をたのみ信濃へ帰参仕らんと有故、景虎村上にたのまれ信州へ出晴信公と弓矢をとるは此子細なり扨又右の兄弟、兄は奥座をゆるし給ひ、此比は奥座若狭とて海野か八十騎の人数此若狭にまかさせ百貫の知行持なれとも千貫くださる、りうほう様おとなに定給ふ、りうほう様盲目にて御座あれども信玄公二番目の御曹子成故、海野の名跡にて有儀なり右兄弟両人の内弟すの原惣左衛門には三十貫の本領なるを三百貫下さる甘利左衛門同心になさるゝは右忠節故なり、扨村上義清は真田武略をせられ合戦にてもなく能武士ともを上下五百人ころされ手を失ひ此まゝ越後景虎を頼む所もならず一合戦仕て後は是非とも越後と無事をせんとて人数をつくり様々工夫致し諸国の牢人を抱、譜代の隠居をよび出し人をえらぶことかぎりなし

晴信公笛吹峠にて十月六日に、関東上杉衆に勝給ひ同月十日に帰陣あり跡に板垣信形を十二月朔日迄残置給ふ全集ニハ板垣笛吹峠逗留付扇子歌の事ト標目アリ子細は上杉みのわの城主長野信濃ばかり今度笛吹峠へ働出ざるにより此信濃守殊に以て大剛一にして弓矢功者の侍大将なれば上杉衆各敗軍の跡へ働き在郷四五村成とも焼払て帰るならば上杉衆をも抜出て働傍輩ともに能思はれ他国への名をも取申事なり其上関東管領の御仕置、すがの大膳上原兵庫両出頭人のまゝになされ候へば二人分別違巳が機をとる者をバ管領の御ためよく存せずオープンアクセス NDLJP:92してゆく則政へ逆心いたし申べき侍大将、又は少身の人にも則政公に大事出来候はゞ其場よりかけ落仕べき者どものなに事においても当座よき様にいたす侍の軽薄なる人々を十人が中に九人則政へ取なし申上るはゝをするは右の両出頭人の、則政のためを不存身がまへをして、北条氏康に、上杉衆を破られ候はゞ管領をすてまいらせかけ落すべきと両出頭人からして、覚悟たて如此なるを管領旗本衆皆まねて武士道をば帰依きゑなく悪分別故、人をそしり様ほめ様をしらず候扨侍道をもつはらに思ふ武士は老若共に指かゝりたる事をまはさずしてはなしうちの成敗者など仕り候へバ能はいはずして年のよりたる者をば年に似合はぬ無分別なりとそしり若者をば指出て、年にもたらぬ心がけだて無益なりとさたする、管領則政公旗本の家風是なり、ケ様に非義なる事をまねぬ様にても上杉家の衆は何としても旗本の家風に大方可成なり、さ候へば武田武者に出合切所の笛吹到下をこして働くは誰を大将にと存ずる事もなければ、管領衆のまくるは必定なりさありて上杉衆北条家に度々負るさへ有に又其上武田家に負、方々にてをくれを取に付ては、管領家は破れんこと近し則政公御家破候はゞ上杉下の衆は皆我々持になり申べきなり皆我持成ならば、北条家へ出仕するとも武田家へなりとも越後長尾家に付とも、をくれをとらずして是あらば何の家にてもをくふかく思はるべきなり、殊更信州を晴信公おさめ給はゞ、やがて上野へ発向は無疑上野へ晴信公はかりをかけ給はゞ松枝、安中さては我居舘のみのわ、戦のはじめなれば武田家へしたがふとも又したがはずとも猶以よきことなりと工夫して長野信濃守、巳れが勢二千ばかりにて必す働き仕るに付てはと有事にて候、又十二月になり雪つもらば働き有間敷との晴信公御遠慮にて、板垣信形を十二月朔日まで、あとに残しをきなされ候晴信公御工夫あさからず諸人存候なり

板垣信形は十二月二日に信州を立ち甲府へ帰り近日御暇出、諏訪へ可参と有事にて子息弥二郎所へ振舞にゆき万異見を申きかせて扨をし板の折り釘に物をかきたる扇をかけておきたるをみて、弥二郎書けると存じ扇に物書は、知識か御公家か、ちごか、扨は屋形様か、あそばす物也、一本ニ手能く書とても常の者にむさとかゝぬは人乃作法云々トアリ縦へ手よくとてもたゞの者はむだとかゝぬ人の作法とて子息を折檻仕る弥二郎申は、十日斗巳前に我等の扇を取給ひ屋形様のあそばして下さるゝといへばそこにて板垣信形、座を立てかけてある扇をはづし、いたゝきみれは其歌に

 たれもみよみつれは頓てかく月のいざよふ空や人の世の中

此歌を板垣信形みて目をふさぎしばしあんじて申は去十月、屋かたさま御病気故、御代官として、七千余りの人数を我等に仰付られ笛吹峠へ向ひ朝合戦にて、我等牀几に腰をかけ、勝時を執り行ひ屋形様のごとくに仕るは敵方管領家の人々と申当御代に始めて関東衆に打合ての勝利なり殊更晴信公御煩故中々御出馬なさるまじと存じの外御出ありしかも御旗下にて二の合戦をあそばす手の外の屋形様にてましますに我等諏訪の郡代に罷成典厩などよりうわてのやうにこれあり其上今度勝時の体を聞召我等むすこ扇に此歌をあそばし被下たると分別して、やがて諏訪郡代を指上申べきと存、訴訟申上れば諏訪の郡代はあけなされず、其年は種々申上板垣信形甲府にて越年致し候は右子息弥二郎扇の歌のこゝろをさとり屋形様をおそれ奉りてなり

天文十六年丁未二月二日に晴信公山本勘助をめして山本勘介軍法ヲ説ク軍法備の立様を申せとあれば勘助終に左様のこと仕たる事無之とて中々申上得ず晴信公仰らるゝは我等家に久しき武功の者とも、就中足軽大将に原美濃、小幡山城、多田三八、武者奉行に加藤駿河其外弓矢功者の者、申は武篇は仕るといへ共去天文十五年三月十四日に信州戸石合戦に味方既に敗軍に及ふ時勘助仕り様を以て敵を南へ向け、しかも味方勝となる人間のわざにてなし、まりし天のなさるゝ如くなれば勘助は弓矢の知識と老若共に申す間軍法の事少も心をきなく申そうらへ、第一我等のためなりと晴信公仰らるゞそこにて勘介申上る軍法は御法度を能たてなされ候て常にあつかひ御家くせの様になく候ては軍兵の御拵なり兼て御勝利あやうく候と勘助申上る、晴信公法度の様子はいかんと仰らるゝ、よき御法度をもつて諸人大小上下の形義作法を、よく定なされ候はゞ其後諸人よく上中下のさたを存、上から下々に至迄よき軍法を願申所へ我等不案内にて候へば承及たる三略とやらんに伍と申儀と、さては軍林宝鑑と申物の本に御座候げに候間是を以て御工夫あそばし諸葛孔明八陣の図を御屋形様御手前にて諸人の合点仕るオープンアクセス NDLJP:93様に和げなされ御尤にて候からの軍法一魚鱗二に鶴翼三に長蛇四に偃月五に鋒矢六に方勾七に衡軛八に井干行一本ニハ井雁行トアリ是よきと申ても日本にては皆合点仕らず候其儀晴信公御分別次第になされ諸人の是を能存る様になさるへきと山本勘助申上る其年天文十六年丁未六月吉日に晴信公御工夫あり、先御持国中諸法度の為に新式目をのべられ五十五ケ条の法度あるは、ゆく軍法の為也、是晴信公廿七歳の御時三河牢人山本勘介五十五歳の時申上て如此右式目後二ケ条入て五十七ケ条也晴信公仰らるゝ法度をたててと申は、とをき儀なり則時に軍法能事はあるまじきかと、おほせらるゝ能御法度は国持大将の慈悲を持てなされ候子細はよき法度にて諸人の行義作法能々罷成人行義よけれは実也作法よければ一切の善悪を分てよく合点いたす、よく合点いたせば義理を存る、義理を存ずればうしろぐらきこと少もなくして主君の御ためを大切に存る、主君のためを大切に存すれば法度にそむかす諸人如此なるときは軍法よし、軍法よければ備へよし、備よければ、味方の諸人勝事疑ひなし、勝利疑なければ、みだるゝ国をきりとりて大将よくおさめ給ふ、国おさまれば諸人に御恩を被下安堵いたす、さてこそ法度は慈悲よりおこると承りて候、さりながら、慈悲より出つるよき法度は寸善尺魔と申て善には必す邪魔出来して調ひ兼ね申物にて候間、せめては十年もならしをなされすして急に仰付られば御法度きゝかね候て結句あしき事に、なり申べく候と山本勘介申上る故、晴信公の新式条也、また御法度そむく輩これあらば見出し聞出し申上る、御目付に御中間頭衆十人其依怙贔負これあるかとて廿人衆頭十人は是横目也殊更近習歴々を目付出入る事人めにたゝず、さ候て音信にめぐみ候へば何と致しても申残事多し左様に依怙あれば随分の侍衆子共或は親類遠類の広き人の事をば大事に成儀をもあらためすさ候て少身のひとり者をば少の科をも大きに申へし、所詮中間頭かせ者頭は何に付ても人をかね申さす其上目付横目とて口塞に大身小身みな使をこし、いらばよく目にたち申へきと有儀は内藤修理晴信公へ申上て是をさだめらる但両衆其役たがひにかはり不同なり以上

天文十六年二月ト五日に晴信公八幡宮へ社参有則ち回廊にて山本勘介をめし仰らるゝ其方は物の本四五冊もよみたるかととひ給ふ、勘助一冊も読申さす候と八幡を誓文にたて申上る、晴信公又とひ給ふ先日其方が物語によき法度あしき法度と申つるが国持の法度をたつる程にて悪き法度は有まじき事也ならしハ習ナルヘシ後同之但申しならはしをあしういたせば、よきもあしう成かと仰らるゝ山本勘助申、尤御意のごとくならしをよき様になさるゝ事肝要にて候、軍法は申すに及はす御働の方其国嶮難の所へ図をもちて御下の物頭衆と合戦の内談一ツならしにて候御出陣有て二三日の間に広き所を御見合一万二万三万の人数迄は御旗本を守護して一手の様にそなへをたて、くみあわせて一戦のすべを執行ひ給ふ全集ニ執行ノ下縦ヘハ働、明日と定らバ前日物頭一二三と図取をして、一ハ初合戦二ハ二の合戦三ハ必ず見物のごとく相定む勝負の習是なり然るに其誡むる役者云々トアリ是ならしなり、其ならしにいましむる役者、不案内に候へば結句軍法悪く罷成候、常の御法度も頭々の申含様法度なさるゝ損徳のさたもなくたゞおどす様にばかり申わたし候へば当座ききやうにても次第に破れ明暮新き法度出来て跡がさきになり、さきが跡に成結句みだりがばしくして定りたる事もなく背く者おほき所に目付横目の誠しむる役者私し仕候へば法度破れてよき事悪くなり申は軍法も同前かと奉存候、扨申含様と、いましめとは御法度のならしにて候也先日内藤殿へも申と山本勘助申上る、晴信公仰らるゝ東に上杉則政は今眼前の事西国において近代に能儀を仕るとて、あしくいたしたる大身ありやと尋給ふ、山本勘助申上る西国に大内五位義隆は日本国中に三人と無御座大名にて居城は中国周防の山口と申所なるが大内殿御領分国の事は申に及ばず西国は残らず在山口仕たる由承り及候然れバ近代大内殿生れ出るより大名にてまします故諸芸上手になされ殊更物を読書内典外典くらからず、歌をよみ詩を作り、行義をたゞしくして上下かみしもをはなたず朝の御座敷に膝もくつろげず八ツさがりまで御座有作法に定まり何事も皆それについ仕り、つい仕ハ対シノ意ナランよき事過候て悪く成子細は先、第一に武士の武篇いたすはめづらしからぬ事、其やくにて候間さのみ馳走するに及ばずと大内殿仰らるゝは前代に弓矢をよく取て国を沢山に伐取其おぼへゆゝしく、高大にして武士の誉すぎて如此これによりて大内殿御下の奉公衆大身小身ともに物をよみ習ひ、詩を作り歌をよみ候へば武篇はいらぬと心得忠節の衆として己にしかざる者を友とする事なかれといふ物の本をみては、我より少身なる者とつきあひ申まじく候分限なる人は侍の事は申に及ばず町人迄つきあひよしとてゑりもとに付又ゑんじやくはいづくんぞかうこくの心ざしをしらんといふ物の本をみては、ぶげん有て大なる家にゐるオープンアクセス NDLJP:94人斗り分別者にて少身成者は少も分別なきとあなどり行義たしなむ様にてもおほへいに慮外なる奉公人沢山ありて結句よその衆よりも大内衆は無行義なり歌をよみ詩をつくりならひては花車風流なる事ばかりにふけり悉く邪道なり、弓矢を取失ひ候事は大内殿御分別ちがひあまり物をしり過て家中衆むさぼり行義よすぎて慮外に無行義なり国をおさめて武篇たけ過て武道を取失ひ或は法度をなされて家中明暮さだち申すいはれ太内殿物知すぎ給ひ、法度を堅く、行義よくせんとて水性の人をば北に屋敷をくれ木性の人をば東の方に屋敷をくれ火性をば南に金性をば西の方と有、木性の人金性の子持てば西の方へ預け、さては是をかくし日々夜々にむつかしきこと絶ざるは、かたすぎていらざる法度有故なりさてまた大内殿御内衆に知行の給はり様よく学をしていかにも花車きやしやに行義よく奉公つとめて仕る者にはせんさくなされ年々所帯一本ニ所帯ヲ所領トスを被下候へば家中衆忝は不存して大内殿をうらみ申者たへざる故おとなのすへ陶尾張守と申者書付を以て大内殿へ異見申上る其めやすに、抑も御前衆御知行せんさくもなく被下故、御家中に人の恨絶ずそれに付先づ物のもとを申に天地の間にあり一切の形ちみゆる中においていきたる者は皆命をおしまさるといふことなし殊更人間は生物の頂上にて智恵深き子細のこと、草木はかしらを下になしさかさまなり其謂はこさきをきりてはかれず一本ニこさきヲ穂先トス但こさきハ木先ノ意ナルヘシ、ねをきらるれば必すかるゝ、人は足をきられていきるはあれとも、頸をきられていきたるはなし、此故に草木はさかさまと申又畜類は頭横にする、人は頭を上にして手を中にして足を下にする其頭より上中下を顕はしたり、さてこそ人間は生物の頂上とは申せ、如此頂上の人間一ツ押へあり其押へと云は、果報貧報の二ツを天道より被下候て、大身中身小身の三ツをあらはすなり、ここをもつて小身は大身中身をたのみ恩をうけて命をつなぐ恩の中には所領の恩、是又頂上なり、去程にいき物のうちの頂上たる人間の其中の頂上にてまします大将上中下もなく知行の給はり様ぶせんさくなれば其大将を其下の人々大身中身小身の奉公人はしり迴の衆ともに恨申なり、然れば右中少身の人大身中身を頼て命をつなぐをば、奉公人と申、扨又少身の人をあつめ恩をあたへて命をつながする大身中身の其仁をさして主君と申て是大将なり此主君より少身の人知行を得てかしこまるをば主持といふ、主を持ては恩の替に必仕るわざを奉公といふ其奉公に八ツの役あり一ツには使役二ツには番役、三ツには供役、四ツには賄役、五ツには普請役、六ツには頭役、七ツには奉行役、八ツには、軍役なり此八ツをよく仕り勝たる人に、それに御恩をあたへ給ふは大将のなされずして不叶儀なり、去ながら奉公八ツのうちにて軍にぬきんでたる奉公はおしき身命をすて二ツ一ツの奉公成故残七ツにむかつて仕りにくき奉公にて是を忠節忠功と名付武家におほき成奉公と申此忠節忠功の者に、知行下さるは諸人道理とて少も恨べき様なし此忠節忠功の侍をば大方になされよきたゝみの上の奉公人に知行を下さるは常の奉公をば命に相違なくして仕よき奉公にて誰も皆いたす故、明暮所領とり多ければ後には一人も不残能奉公致す左様に知行もなければ奉公能すれとも所領下されず候、そこにてよの衆は取たるに我等どもには今度給はらずとてうらみ申、忠功の人は何もなき者ども、むざと所領とりて其上にて又ほしがるは大将の御分別ちがふたりとて申ながらそこひそこひハ底意ナルベシはうらみあり、さてこそ所領あしう下され候へば諸人大将へうらみたへずとおとな異見申候へども大内殿承引なされずして其異見申たる陶と云ふおとなに国をみなとられ給ふと、山本勘介申上る

晴信公聞召それは大内殿たゝみの上の奉公人に所領くれたるを以て内の者に国をとられたるにても有間敷子細は国十ケ国とも取ひろげたらんには其近国降参して縁を組或は内の者と縁者になり候はゞ渇仰すれば十四五ケ国も支配なりそれ程国を持ば取合することもまれなり出陣まれなれは剛の武士もすくなし縦へ陣ありとてもそれほどの大身旗本にて合戦はなし、合戦なければたゝみの上の奉公人を取立るは尤なり源頼朝は鹿狩にも所領を出されたると申伝るに大内殿畳の上の奉公人に所領くれたる斗にて家老の陶に国をとられたる事は有まじ縦ば日本国中昔の帝王の御仕置なりつるが、頼朝公よりこなたへ将軍の御仕置になるは時節到来してかくのごとし又大内殿文を嗜み行義よく致過て詩を作り歌をよみ候へば其儀を大内殿家の諸人まねて武篇を執失ひ或は貪る心になり恩を受ても主を恨み行義を嗜てもよしあしきのさたも不案内にて人に慮外を仕り我等に人の緩怠をも無曲とも不存よろずぶせんさくにて、諸人未練に成大内国終に崩たるは学文数寄の故にても有まじ詩をオープンアクセス NDLJP:95作り歌をよみ物を知も尤なり法度有もなきも歌をよまざるも無学成も行義能もあしきもほむろも無益そしるも詮なし兎角武士一道斗りは一筋に思ひつめよの事は一方へおちつかぬ人間なれば二五十二五七二五十二五七ノ事ハ品第二ノ古典厩子息長老ヘ教訓九十九ケ条ノ末ニアリ此六字ハ武田家秘書口伝トスと存せよ又武士の上にそしるも尤讃も尤抑揚褒貶擒縦与奪よくようほうへんきんじうよだつの境界なりと晴信公仰らるとさありて、御舘へ帰らせ給ふなり

天文十六年丁未二月廿一日に秋山伯耆守、馬場民部両侍大将御旗本より警固には、足軽大将に小幡山城を指そへて信州伊奈へ御手つかひの働あり三ケ所のとりで落して伊奈郡伊奈郡取出破却少し御手にいり郡代に秋山伯耆守指をかるゝ

同月廿四日に板垣浅利両侍大将に旗本よりけいごには足軽大将に原美濃板垣大物見
原美濃手柄
を指添村上方へ働あり板垣信形其出陣より分別少し悪くして板垣備違ふてみゆる子細は村上内の侍大将に、より、ぬのゝ下、がくがんじ依右近之進、布下新左衛門尉、楽岩寺右馬之介三人陣城をかまへ罷有所へ板垣家中の侍を六十騎歩者一人もそへず大物見をこしいかにも敵陣近く参りみて帰るべしと下知せらるゝ、そこにて板垣甥の荻原与惣左衛門弓矢功者の武士にて候故後の儀を勘へ板垣に向て申は敵陣近く働たるに信州弓矢功者の事は侍の事は申に及ばす百姓迄勝負のすべを能存たる敵方へ弓鉄砲衆の一人もそへられず又鑓持を一人も召つれずあやうく候間今日は大物見をば相やめられ候て、三人物見番の侍ばかり越給へかし是非物見を、こさでは叶はじと思召候はゞ遠く働けと仰付られ御尤にて候、其子細は道せばく候てさへ敵は地戦にてあやうく候、まして敵陣の前広くしかも場よしにていかゞといへば板垣信形大きにいかつて六十騎い大物見をさし越荻原与惣左衛門が分別のごとく、がくかんじ、さいはいをとりて二百騎斗りまつしぐらにのりて出くつばみをそろへ額頭巾にてかけて板垣衆六十騎に五町斗にて追付既に板垣衆討れつべくあひみゆる所に旗本よりの警固の原美濃守は、働前に先刻荻原与惣左衛門板垣殿に申は、道理とこそ思はれけめ同心二三十つれて、すはたにて見物の様に道の少わきに出敵出て味方の引のくに大方いく町斗にて追付へしと原美濃守つもらるゝごとく少もちがはざる様子なり扨美濃守乗よせ敵ぢかくにて馬よりおりたち鑓をおつ取て原美濃大音あげて名乗追てくる敵を馬より四騎ついておとし申され美濃同心に、しも新兵衛下新兵衛と申剛の者来て敵を一敵ついておとすそこにて美濃馬をひきよせのり脇に付たるさいはいをとりて馬をおつゝけ武者をつくべからずと、下知せらるゝ三十人斗の同心どもに美濃守兼て申付られたるとみへて何れも鍵を持来つて敵の乗たる馬をつく事廿七疋なり始美濃つきおとされたる四騎の武者と新兵衛つきたる一騎と馬人合て三十二騎、敵方斗をおふておひしらむを板垣衆六十騎返して勝負をはじめんといたす様子を敵見きり早々引上る板垣衆跡をしたはんとせし処に原美濃敵味方の間へ乗りわり板垣衆をさいはいにて打廻し、いかにも手ばやにつれてもどり給ふ原美濃五十歳の時なり原美濃此功ニ依テ甲州笹子峠関役所ヲ千貫ニ積リ下サルよその国にもためしすくなき足軽大将なり、原美濃敵味方にて大小ともにほめぬ者はなかりけり

天文十六年丁の未四月十二日卯刻に晴信公甲府を御立あり諏訪に御馬を立られ小笠原長時持分或は伊奈又は木曽殿持の内、植たる田をこねさせ境目敵の領分を焼働あり、御仕置なされ六月二日に御帰陣なり

天文十六年八月二日辰の刻に晴信公甲府を御立あり同月六日に信州さくの郡しがの城志賀落城へ取つめ同十一日に彼の城を責おとし、しかも城主笠原新三郎を討とり給ひ小室へ御馬を入られ御逗留の処に更級の村上義清志賀の城のおちたるをきゝ我等に内通の城晴信公に破却せられ此儘たゞゐるに付ては義清旗本に付く人某に心をはなし可申其上其年真田弾正に武略をせられ能武士あまた殺され旁々以口惜き次第なれば行末は如何もあれ今度晴信出陣仕らるゝを幸にしてうちはたすべきとて其勢七千村上譜代旗本共に如此村上方にて各評議して申様は去年真田弾正が智略にて村上殿御家中弓矢の誉有程の人大方殺され覚あまりなき衆又は去年今年来る牢人の新参衆迄御一戦は大事なりと申せ共新参迄ハにてノ誤ナルヘシ村上義清此義をきゝ給はず、村上衆また申は殊更晴信人数今度は多勢の由に候へば必御遠慮有へしといさむる村上義清申さるゝは今度罷出卅にもならぬ晴信はあひ手かましき儀なれとも是非共に目かけて晴信と自身の勝負に仕つるか扨は武略せられたる遺恨に真田弾正が頸を義清か刀のきつさきにかくるか二ツ一ツと思ひきりたれば敵の多勢にも搆はす候惣別軍に限りて多勢少勢には更によらぬオープンアクセス NDLJP:96事にて候とて無理に義清出らるゝをきゝ村上旗下の侍も三ケ二は不出さなくは村上殿も何かに一万に及人数なれ共七千余りにて出陣あり、扨信州上田原へ出八月廿四日辰の刻に甲州方より合戦を始むる武田の御さき板垣信形なり真田弾正是非共御さきをと申上候へ共晴信公御右の脇備に仰付らるゝ子細は真田智略故村上被官をあまた殺されて口惜く存じ合戦の勝負にもかまはず真田弾正備を見付無理に義清懸て一戦仕候はと真田をうたせていかどと敵の大将村上殿心をさとり給ふ、晴信公古今にまれ成弓矢とり大将なりと申扨又其日の合戦板垣信形あひ備かけて三千五百の人数を以て一戦をはじめ村上衆をおつくづし板垣手勢斗を以て敵を百五十討取くみ衆は板垣にこされ敵一人もうちとらず扨板垣信形弓矢功者の侍人将なれ共当未の正月より分別うは気になられ備悉く違候故味方を引はなれ敵の敗軍して其後又来るべき方へ行て、しかも備のおもてにて頸を実検有所へ村上方寄懸一戦を始むるさすが板垣殿近国に名を取たる仁なりといへとも油断致され候故家中に弓矢功者の武士とも上を学ぶ下なれは皆油断して敵にしかけられあはてゝ得道具を取、備を立る事もなき間にぶへん仕なれたる信濃武者すきもなく懸つて追くづし牀机に腰を懸てゐられたる板垣信形の馬を引よせのらぬまに敵五六人みかたの中へ入乱り板垣殿出立を内々みしりたるとおぼへて左右むかふより懸りてやりつけやりつけハ鎗付ナリ、ころび給ふと一度に鑓の下をくゞり板垣殿の頸を取、村上勢はかさむ甲州勢は板垣組衆さへ程遠くして味方一備もみへすさるにより板垣衆敗軍して崩て組衆五備の所へ様々崩れ懸る然ば板垣組合せて七備の衆の中に栗原左衛門まつさきに懸て競て来る村上衆をおしかへし一戦をはじむる、六頭何れも懸て一戦する所へ跡より晴信公おしよせ給ふ其さきに飯富兵部、小山田備中石田の小山田一本ニ石田の小山田ヲ郡内乃小山田トス、御舎弟典厩此侍大将衆いさみ懸つて板垣組の備間より働出おごへをあげて村上方を伐くづし悉追頸を取間に村上義清雑兵ともに七百許にて我味方の敗軍をわきにみて晴信公の御旗本へ面もふらす懸て一戦する晴信公の御旗本三町斗しさる、されとも脇備後備の馬場民部、内藤修理横筋かひに入立、旗本と合戦する村上旗本衆追ちらして討其間に諸角、真田、浅利此三頭は村上義清負てのくべき跡を取切敵を討又原加賀守は御旗本五六町跡に三百斗の人数にて見物の様にひかへて備を立る是此三河牢人山本勘介晴信公へ申上る軍法如此さて又義清は我手よりの者四方へつきちらされたるにもかまはず晴信公と互に馬の上にてわたりあひ両方切先より火炎を出し伐り戦ふされとも敵味方共に御馬逸物にて太刀の光におどけて近くよる様にても遠立ち、村上は敗軍武田方は勝軍次第に武田の味方かさみてみゆる時村上義清落馬なされたるをみて村上衆十四五騎雑兵四五十早々引まとひ落馬したる人をつゝみ、円く成てのけ共跡を取きられ、かや野へかゞまり深山に入て越後へにげ入後は晴信公と太刀打仕たるは村上義清なり出陣の時の広言に少も違はずつよき大将なりと近国他国の取さたなり此合戦の御勝利故小県奥四郡異義なく次第に御手に入晴信公廿七歳の御時なり、就中此合戦五度なりと申は板垣初合戦に勝一度村上方二の合戦に勝二度飯富兵部、三の合戦に勝三度村上旗本にて晴信公旗本へ懸て三町程くづす四度馬場民部さいはいを取て懸て村上殿族本をおいちらして敵を討取て五度めには終に晴信公御利運になされ其日申の刻に頸帳をつけ敵討取其数二千九百十九の頸帳を以て同日申の刻の末に勝時を執行給ふ味方も雑兵ともに七百余り討死の中に名誉の侍大将板垣信形討死なり晴信公も、うす手を二ケ所おはせられ候三十日の間甲州島の湯にて島の湯ハ山梨郡湯村温泉ナリ志麻ノ庄ニ属スルヲ以テ此名アリ御平愈なり天文十六年丁の未八月廿四日信州上田原合戦とは是なり一芝居にて都合五度の合戦と武田侍のさた批判して如此以上