『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、小幡景憲が江戸初期に著した戦国大名・武田氏にまつわる軍学書である。ここでは内藤伝右衛門・温故堂書店の刊行物を底本とする。
- 底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26.
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- 「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
【 NDLJP:96】甲陽軍鑑品第廿八村上義清越後長尾景虎被㆑頼事并 上田原同年信州
海野たいら合戦等之事
天文十六年未の八月信州上田原において村上義清勝利を失ひ越後へ行て日来取て持たる越後の内一郡を長尾景虎へ指上て村上申さるゝは長尾殿御太刀かげを以て信州更級へ帰参申度と頼みける程に景虎公まだ其年十八歳なれ共弓矢を取て近国に其名広大にひゞく子細は五年以前既に景虎公十四歳【 NDLJP:97】の時なれ共景虎公一身の覚悟を以て敵六千余り成を景虎二千の人数にて一戦を遂、しかも勝利を得られ候て只今迄五年の間に越後を事故なく治らるゝ如此の景虎にて未た廿歳に成給はねどよその国持老功をも結句あざむく程の大将也然れば景虎公村上殿に対面なされ仰らるゝは我等父の為景越中能登加賀三ケ国を心懸発向仕り度々のせりあひ合戦に勝利をえられたると申事を我等は幼少にて父にはなれ、しかと不㆑存候近国なれば義清は結句某より能御存知なさるべく候為景勝合戦の後油断いたされ越中にて討死は其隠なし、さるに付某し父為景へ孝行のため少も都近く取つゞき一世の間に一度公方万松院殿を拝奉り景虎此世の名聞に仕度事旁以、来春雪きへば越中か能登へ発向仕べきと存知つめ候へ共村上義清年にもたらぬ景虎を御頼有事いやと申は一国をもち弓矢をとらんと心がくる、かひはなき様成事なれば先当座の義理を専にして主君への御奉公父への孝行何も指置、早当年より某武田晴信と弓矢を始村上殿を更級の郡へ御本意有る分別仕べきといかにもたやすくうけをひ給ふ次に景虎公村上殿に問給ふは武田晴信の弓矢は如何とあれは、義清申さるゝ十年巳来晴信勝利を取申の間今ははや末を頼み大事に致やらん惣別其身生㆑付やらん弓矢をしめて取、卒爾の働仕る様にて少も左様なく勝ての後は合戦前より用心を深く仕らるゝ晴信父信虎とも数年取合申候が信虎も弓矢をとりて無㆑疑名人にて候へ共子息晴信は父の弓矢に各別替り、しまりて十里働の所を三里或は五里働武篇形儀とみへて候景虎又問給ふ今度上田原の勝負は如何とあれは、村上義清申さるゝ内々景虎公御聞なさるへく候我等運の末に罷成数度の殿を取候間是非とも仕返し晴信がおしつけを一度は見申べきと覚悟仕所に小県の真田弾正、晴信に取立られ譜代の者どもより晴信ためを大切に存し某家の久しき覚の者ともを調義を仕り余多とむだ〳〵と被㆑殺て候間今度の合戦には行末の勝にもかまはず二ツなく晴信と打果し申べきと存つめ仕り付たる武篇の者共を二百騎すぐり能馬をえらびてのせ、かち者のいかにも事にあひ付たる年盛りの男をえり出し二百人手ごろの鑓を、もたせ我等下知の時今の鑓を馬乗二百騎に渡し其者共は馬一疋に一人つゝ付添候へと申含扨又歩者百人すぐつて百人に長身の鑓を百本もたせ我等馬のまはりにつれ殊更足軽二百人によき射手を揃つよき弓よきねをぎむじたるよき矢を一人に五手わたし百五十張残る五十人の足軽には永正七年に始て渡る鉄炮を持たせ玉薬一人にみはなしつゝあてがひ、いつれも某はなせと申時仕れ、はなしあけてから弓鉄炮を捨かたなをぬきむりにきつてかゝり鉄炮は弓の衆の間にたち矢五ツはなしてから、うちはじめよと、五人に一人づゝ、指引の役者をつけ其役者をもかちたゝせ指物をも取をき、しろき練を一尺五寸づゝに切り横に一はゞにして黒く一の字をかき、袖じるしに付させ都合六百余の人数にて、晴信か旗もとへかゝり二三町をし崩し既に大将とおぼしき人と、太刀を合せ候が、足軽大将やらんもそこはみわけられ申さず候内に我等馬をつかれ落馬仕候故さすがにそこにて、腹きる儀もならず、面目なけれど是迄迯来りて景虎公を頼申と語りて、義清涙をながされ候、景虎も涙をながして後又尋ね給ふ板垣信形を討取なされたる様子はいかゞとあれば、村上殿申さるゝそれは合戦前に我等の者一二手板垣一手にをいくづされ雑兵ともに二百程うたれて有、其頸を実検仕るに、板垣油断して罷有所へ懸てうち申候は板垣比興にても無㆑之味方の手柄にてもなく候と村上殿申さるゝ、景虎又問給ふ油断の様子はいかんと有、村上殿申さる被官共はじめ板垣衆に討れたる者共の中に、去年かゝへ申、八木惣七郎は上杉則政公御家の侍大将上野の安中おひのよし申、其兄安中いづたうだいと名付たる武士弟を討せたる、くちおしとてさきへ物見に罷越よくみるに板垣味方の甲州勢を引離ゆだんして殊に此方へむきて備へおもてにおいて頸実検致す、人数をこし給へと申間、二手三手申付候へば安中いつたうだいが才覚にて二手三手の人数の旗指物をまき、物かげへまはり、敵ぢかくにて旗をさしあく板垣者共あはてゝ道具を取る所へ、それがし者共懸つて合戦をはじめ候へば板垣牀机に腰かけて居たる所を、此いつたうだい若党中間十人斗つれ、ちと味方の脇をまはりのりこみ、巳れが被官の板垣武者出立を見知たるものありて、即時に板垣と見てやりつけたるは安中いつたうだいが被官十人斗りの内に、甚介、千介、左近の丞と申三人の忰者なり、扨て板垣ころびたる所を、頸取りたるは尾州牢人上条織部と申者にて候と申さるゝ、景虎仰らるゝ板垣もそれ程油断はあるまじく候事なれとも、晴信あまり戦をしめらるゝによりて、もどかはしく存じて、如㆑此とありて後景虎晴信公の弓矢批判は、武田晴信の弓矢取【 NDLJP:98】に後途の勝を肝要にとしめらるゝ、国多取べきとの臆意なり、我等は国取にかまはず後途の勝にもかまはず指しかゝりたる一戦をまはさぬを肝要にいたし候源義経弓矢の名は今迄申伝ゆれど知行は四国の内伊予の国たゝ一国持ても、弓矢の名は日本をみな持たる相摸入道より義経をはる〳〵うへに申は、せで叶はぬ軍をまはさぬ武篇者の故なりと申されて、次に景虎家中の侍大将をめしよせ当十月八日に信州へ出武田晴信と弓矢を始め申べく候間陣ぶれ仕り候へ始て晴信とはだへをあはするなれば人数多して六ケ敷候八千よりうへはかたく無用と陣ふれなり以上
越後長尾の景虎十八歳の時武田晴信公廿七歳にて弓矢始まり候、【信州海野平合戦原、小幡、山本物見】抑頃は天文十六年十月に八日と景虎陣ぶれ有て日をゑらひ同月九日に越後を立て晴信公味方に成たる衆の持分をやき、又晴信公へもならず【晴信公へもならずハ随はずノ意ナルヘシ】、もとより村上ひいきもせず、引こみ巳が居舘にだまりゐて様子を見あはする侍衆の知行をやかざるは景虎へ随身して重て村上方になれと申儀なり、扨又晴信公は景虎村上にたのまれ信州へ働出る事内々先月より聞召候故、信州衆はやうちを以て注進申上る其月十二日申刻に甲府を打立給ひ同十六日に小室へ御着あり、同十月十九日に信州海野たいらにて一戦有、晴信公足軽大将原美濃守、小幡山城、山本勘助、晴信公足軽大将右三人を召して仰らるゝは長尾景虎当年十八歳の若者なれとも為景の子といひ、扨は村上に頼まれ人のために罷出候間今日を必合戦と景虎も存ずべく候猶以晴信も防戦と思ふ子細は村上義清を度々仕詰て彼義清不㆑叶して牢々仕られ、越後へ走り入てたのふで景虎をいだす是を大方に仕り、指置てはあと信州侍衆へうち合せて晴信勝利の儀皆水に成程に一戦にきはめて其方三人物見に指越候然れば始めて景虎と弓矢の参会に候、能見合せ敵の人数積り戦の様子考候へと仰らるゝに付原美濃、小幡山城、山本勘介三人物見に参り敵がた備の色、合戦のもち様人数づもり心静にみて三人首尾して帰り、晴信公御前にて原美濃申上るは敵合戦を持て候人数は六千の内外と山城も我等もつもりて候そなへの色は山本勘介みてすみやかの中のにごりとみしりて候但始て防戦の作法いかにも物こくとあれば又いづれの人にも御みせ候へと申上る晴信公上意には三人の分別に誰人のみはからふべきと仰らるゝ扨後晴信公、山本勘介を召して備を押計りて立よと仰られ候に付て勘介申上る原美濃申さるゝごとく敵合戦をもつたると見申は、別手をよせて組あはせ一手のごとく四方よりみせ鋒矢とあひみへ申、をとやをかたくとめられば御味方の備は方向になされ一手二手にてわけてあとを偃月とあそばし敵方をとやの働かざるは五町御右に是は鋒矢御尤に候御はたもとのあとは雁行とさせられ懸て待給へ、景虎若げにてあら武者なりとも、晴信公御武勇をばかね奉り申へく候其上味方御人数一万五千は堅く御座候間、午の刻迄は兎角して敵一戦を遅々いたし候はゝ此時は味方今日の戦に、吉刻と勘定仕候、惣別晴信公より若き大将のしかも剛強成敵の懸て参るをば晴信公御備を能立られ働の手賦いかにも宜く、大崩れなきくさびを堅く仰付勝も負もなされず候へば敵の弓矢は次第によはくなり味方の御弓矢日をおつてつよく、後途の御利運は諸人の疑有まじく候と、山本勘介申上る御右の方に五町斗へだて飯富殿、御先は右の方一小山田備中、信州侍にはあひ木一友野、平尾一岩尾一みゝとり一平原一望月新八郎一よら一あした合て十頭、左は郡内の小山田左兵衛先方侍には一長くぼ左衛門一内村一和田一ふく沢一小曽甚八郎一塩尻五郎左衛門合て七頭、中の御先は栗原左衛門、先方侍には一わた同井上一深田もろが合て五頭、御旗本前備は一真田弾正此くみ一丸子一屋さは是は御旗本一手なり、御後は一馬場民部一内藤修理一日向大和守一勝沼殿一穴山殿一典厩此六頭をば御後より左へ雁行に一原加賀守此一頭は九十騎にて、御跡備引のけて遠く立る如㆑此人数組合て備を定め勝利の徳を物頭の衆に能仰含られ、あひことを、覚候へ、みつまきを能して甲の前立物をみて甲の前立は北備ごとにてみしり一戦あらばむさき働なき様にと諸手の諸人上中下ともに勝利のうる事是なりと存るごとくの組合にて、天文十六年十月十九日の午の刻、信州海野たいらにおひて越後長尾景虎と甲州武田晴信と、信州をあらそひはじめて対陣に合戦あり、景虎兼ては、丸備につくりさしかけて一戦をはじめ我旗本を以て、晴信公の旗本へ迴りてかゝるべき所存なれ共武田の家老飯富兵部雑兵共に千五百の備を能き立所に立られ、しかもあかき備なれば、名高き飯富兵部と聞及て見知、さすが若き荒武者の剛強成景虎も前の軍定も違てげり両方の先衆打合て戦ふ景虎の左は負て二町しさる晴信公御先小山田備中の方は足本定りてよし御左郡内の小山田左兵衛【 NDLJP:99】組衆の武田方二町斗りしさる是は備色さだちてちと足本定り難し武田方中の御先足本定りがたし武田栗原組衆を始め太皷をはやめいさみかゝる所に景虎の旗本より、あぐる貝とおぼしくて静に貝音きこへて午の刻のおはり未の半程に則ち景虎方より武者二騎、しかも旗本より来りてさいはいをふり早々引あぐる、後に聞ゆる【後に聞ゆるは後に聞けばナルヘシ】人数あげたる二騎の武者、一騎は景虎又一騎は景虎旗本武者奉行うさみ駿河守と申大剛の武者なり、武田方には先き衆景虎引とむるをくひとむる様子を山本勘介見届晴信公へ申上る敵退申については其まゝ置給ひ候て尤に候当方の御人数御備を立られて見申せば堅く一万五千御座候敵はかたく七千にて鋒矢に作り小勢を以て無代に一戦を覚悟仕りたると必みへ候へとも晴信公御備の立られ様を景虎衆みとり、武略のわざすゝみ候て引取可㆑申と敵の引あげざる以前より山本勘介申上候故御旗本むかでの指物ゆるし給ふたる、十二人の衆を諸手へこされ敵の跡を少もしたふべからずと、いましめ給ふ、軍法の御使者ごとはりを、先衆頭、小山田備中、栗原左衛門、郡内の小山田三人へ申渡すに付其日の合戦はあひのきなり、されとも先衆にて景虎衆を討取其数雑兵二百六十三の頸帳を以て其日申の刻に勝時を執行給ふ、武田方にも百卅一人上下ともに討死する、天文十六年十月十九日午の刻に合戦始り未の半おはる、甲州武田晴信公越後長尾景虎公弓矢のとりはじめ海野たいら合戦是なり晴信公廿七歳、景虎公十八歳の時なりかくのごとく此合戦おはりて翌日廿日に晴信公武者奉行、加藤駿河守足軽大将原美濃、小幡山城、山本勘介以上四人を召して、景虎武者ぶりかんべんいたし批判を申上げよと有る上意を承はり皆々申上ぐるに四人の批判は此人々死して後迄終にはづれず其中に山本勘介申上げたる儀、景虎の背語は三ツの物一ツ申して二ツは晴信公御手前の事を申上る其様子は景虎、晴信公御備をつきちらす事は成まじきとみて以来は晴信公御腹をたゝせらるゝ様に仕りかけ、そこにていれて乱給ふ所を、是非仕るべき様子と我等見申て候其子細は今度合戦七千の人数を丸備に作り無二無三におしかゝつてさき衆をきりたてわが先衆をもすてにして、中をあけさせ、敵味方の先衆討死仕りたる体をふみ付、我はたもとにて晴信公の御旗本へ懸りて両方ともに、旗本の勝負にきはめ我勝ば近国他国の誉なり又晴信公には負て苦しからぬ能あひてさ奉㆑存候候へばこそ七八千の人数を丸備に一手の様に作り、しかもあなたより、一戦を始め候へども、晴信公の御人数、備立られ様を見申候てあらぎ【あらぎハ荒気ナリ】仕る程我等をくれに罷成へく候と存早々引取候以来は、景虎何様に仕るとも晴信公は御腹をたてられず備を能立なされ少もけがなき様にあそばし後途の御勝利肝要と山本勘介申上る、原美濃、小幡山城、加藤駿河守三人も尤山本助介金言を申上候、此勘介弓矢の知識と申はケ様成事にて御座有べく候と三人衆晴信公に申上るなり
下の諏訪【諏訪伊奈笛吹峠等迫合】に甘利藤蔵、旗本足軽大将多田淡路守を指そへ、木曽、小笠原を御用心のために塩尻口に置給へば多田淡路十月十八日の夜敵へ夜討仕り、松本小笠原衆を九十三人討取申と注進あり、板垣弥二郎【弥二郎ハ信方ノ男】、上の諏訪に在城して楽狂いたし同心ともあがるへきとさたあり伊奈に指置るゝ和田伯耆、十月十二日に伊奈衆とせり合候て敵能侍とも十七騎歩者廿五人合て四十二人討取敵の知行三千貫の所此方へとり申すと注進あり甘利備前子息藤蔵下の諏訪に罷有当年十四なれともかひぞへの多田淡路舌をふるひはづる程藤蔵弓矢に賢く利発成に、板垣弥二郎十九に罷成板垣よき同心被官沢山に持ながら上の諏訪高島にゐて何の手柄もなきあやうき身上なりと
笛吹到下御用心の為に指置れたる浅利、こみ山丹後、松枝衆と十月廿一日にせり合有て是も松枝衆を卅三人討取て注進申され候なり
甲府御留守居諸角豊後、小会殿、あさで殿、金丸若狭、小松大和是五人の方より申上らるゝは去十九日午の刻に御旗屋に火事【旗屋火災】出来候得とも御旗の別当、山本伊勢守能打けし申御像の端間中ばかりならではもへ申さず、就㆑其不思儀成事候其様子はしろき大鷹大小有て御旗屋の上にひるよる共に三日まかり有候つると申来る、さて又景虎十月廿三日には、早々退散仕る川中島、高坂、仁科、海野、瀬ば、此衆降参いたし御仕置ありて信州侍大将の内皆人質をとり小山田備中、飯富兵部両人に預られ候十一月廿八日に甲府へ御帰陣候也合戦の様子殊に信玄公十八歳から廿七歳迄の事此本上下に書付候以上
天正三乙亥年六月吉日
高坂坂弾正記之