甲陽軍鑑/品第廿九
一 晴信景虎小県対陣之事 一 晴信河中島御出陣之事 一 伊奈・木会・松本へ御働之事付景虎小県へ出陣之事 一 晴信景虎信州海野だいらにて五日対陣之事 一 上州みてらを合戦之事 一 景虎越中出陣之時目付之事 一 晴信氏康和睦之事 一 使番十二人之事
天文十七年戊申五月七日に晴信公甲府を御立あり信州伊奈へ働給ひ、とりで破却【全集ニ取出二ツ破却トアリ又三代記ニハ二日ノ内ニ砦三ケ所破却トアリ】あそばし、たかたうの城へ取つめなさるべきと有所に五月の末に長尾景虎小県へ働出るの由聞食晴信公早々引取又小県へ御馬をむけられ、六月四日に景虎と晴信と日数十二日の間対陣ありて十六日辰の刻に景虎陣をはらひて退るゝ、景虎かたの評議は退き候はゝ晴信方定て退所をくいとめらるべく候さるに付ては備さだち申べく候其旗色をみて合戦と究たるを晴信公見取被㆑成くひとめずして景虎退参故御一戦はこれなし晴信公六月中信州に逗留まし〳〵て七月朔日に小県を御立有て笛吹到下をこし松枝の城へ大物見をかけられ暁働なされ何事もなく七月三日に早々引取同月六日に甲府へ御着なり
天文十七年申の八月八日に晴信公甲府を御立あり信州河中島へ御出陣にて村上義清与力の侍衆降参申さるゝ者共の持分を大形放火被㆑成【全集ニハ村上義清与力の侍降参せざる者共持分の在郷大かた放火云々トアリ】或はかり田被㆓仰付㆒味方の城へ取入被㆑成候へど敵出ざれば景虎も又越中へ出陣候て、越中衆と取あひはじまり今度は出むかひ不㆑申候故晴信公十月十日に御馬入也
天文十八年己酉四月十一一日卯の刻に、晴信公甲府を御立あり同十三日に上の諏訪へ御着被㆑成則ち諏訪に御馬を被㆑立伊奈、木曽、松本三方へ手づかひの御働被㆓仰付㆒候伊奈郡へ浅利式部の丞、馬場民部侍大将二頭に、足軽大将には山本勘介、安馬三右衛門、是四頭一組にして侍大将両人、働指引の談合相手は山本勘介也木曽へは甘利藤蔵、内藤修理此侍大将二頭に足軽大将には原美濃、曽根七郎兵衛働の指引は、原美濃次第となり松本筋へは板垣弥二郎日向大和、原加賀守此侍大将三頭足軽大将には小幡山城子息孫二郎、原与左衛門子息惣五郎、市川梅印子息伝五郎、横田十郎兵衛合て七頭なり【一本ニ伝太郎トスルハ誤ナラン】扨て伊奈にては保科弾正御味方申され上の諏訪へ参り晴信公御礼致さるゝ則人質を進上申され候、木曽筋は鳥居到下のこなた悉く焼はらひ鳥居到下を少し越働き足軽せりあひ一度ありて敵馬のり三騎歩者八人合して十一人討取て
NDLJP:101】へ御馬をむけらるゝなり
天文十八年五月朔日に、晴信公と景虎と信州海野たいらにて五日対陣ありて同六日に景虎より使を晴信公へ進上申さるゝ其趣は我等信州へ罷出ることは自身の欲を以ては不㆓罷出㆒候村上義清を本地へ返し申度との義にて候、是御同心なく候はゞ我等と有無の一戦被成勝利は互に其手柄次第【一本ニ勝負ハ互乃運次第トアリ】と申越さるゝ、晴信公御返事に其方村上義清に頼まれ本地へ村上を仕付へき為の信州へ出陣は一入心はせやさしく晴信も存候、我も人も牢籠致す事、昔が今に至る迄有習にて候景虎の心ざし尤なれとも村上本意の事、晴信在世の内は成間敷候さなくはうむの合戦と有事是も尤に候へとも晴信は村上を本地へ返さぬを我等の働きに仕候さありて合戦と思はれば其方より一戦を始らるへく候もし又日本国中において誰人にてもあれ我等が本国甲州の内へ手を入らるゝに付てはそこにて晴信懸つて有無の合戦と被㆑仰、此御返事を六日に景虎きゝ給ひ七日八日迄八千の人数にて出て備を立て一戦を持たる様子を仕り又十日の朝使を進上申其趣は御一戦被㆑成間敷と相みへ候の間我等は越中か能登の国を心懸て候とて其日午の刻に景虎早〳〵退散なり此様子をきゝ木曽衆、小笠原衆或は笛吹到下にて負たる人々晴信は越後の景虎にあひなされては、へりまくれなりと、面々の手に不㆑叶しは人を引かけて晴信公を議り奉る事よき大将の臆意は存ぜず巳をもつて人にたくらべ、餓鬼偏執は武篇イ案内の故如㆑此扨て又晴信公、六月七月迄信州に御逗留あり、御もち要害とも御普請被㆓仰付㆒八月一日に御馬入なり
天文十八年八月十五日に、八幡宮において流鏑馬の御まとあり同十八日己の刻に晴信公甲府を【三寺尾合戦】御立あり上野へ【全集ニハ上野へ御発向鬼乃つらと云所迄焼働云々トアリ】御発向なさるゝをにのつらといふ所迄焼働遊はし引取給ふ所を上野侍安中越前守才覚を以つて同国の城主とも九頭集り其勢六千斗にて則上野してらにおいて各心ばせゆかしくも晴信公へかゝつて、くいとめ申へしとて九月三日卯の刻に、やさしくも戦ひをはじむる甲州方には笛吹峠下の切所を越し他国の上野へ始めて出陣有故小敵といへとも、奥ふかくあてがひさうては働かず内藤修理、原加賀守、同隼人介、馬場民部、浅利式部丞小宮山丹後守此五手を以つて返して追ちらし雑兵ともに五百廿七、討取り頸帳を認め同日己の刻に勝時を取おこなひなさるゝ、上州みてらを合戦是なり晴信公廿九歳の御時如㆑此然は同月六日安中、松枝両城の内いづれをとりつめらるべきと有所に諏訪郡よりはや飛脚来りて申上る、小笠原長時下の諏訪へ働き申候が、越国の景虎と内通かとあひみへ申候由、板垣弥二郎方より、如㆑此注進申、下の諏訪小城に指おかるゝ諸角豊後、市川梅印、原与左衛門方より何共不㆓申上㆒されとも大事に思召し九月七日に安中を引取り諏訪へ御馬をむけらるゝ小笠原長時早々退参仕る左は有ながら十月まで諏訪に御馬を立られ御持要害ども御普請被㆓仰付㆒十一月三日に御馬入なり
天文十九年庚戌三月十一日午の刻に晴信公甲府を御立あり【晴信景虎合戦約束景虎雲気ヲ見テ人数ヲ引き揚グ】上野松枝の城へ取つめ給ふ所に小笠原長時公、木曽殿と組、下の諏訪へ打出で、こちやうの城を攻め取申すべき由晴信公聞召し上野口の事をば指置三月廿一日に諏訪へ御馬をむけらるゝ是をきゝ木曽【木曽義高】小笠原早々引いるゝ晴信公四月六日に桔梗
NDLJP:102】軍は其日未の刻迄備を立合戦を持て、申の刻に陣屋へ入景虎十二日卯の刻に越中能登へ発向仕由、たて文を、晴信公へ進上申早々景虎退参なり、晴信公其御返事にも村上殿を本地へ帰参の義忠ひ止給へ左候へば景虎と晴信と弓箭はなき物をといかにもゆるやか成る御返札なれば猶以て景虎悦び引いるゝ、さありて、山本勘介晴信公へ申上る、景虎越中能登の敵にあひ申候様子御目付をつかはされ聞召候へと申上るにより晴信公、馬場民部、内藤修理、両人を召して山本勘介申上る儀を分別仕候へと被㆑仰馬場内藤両人ながら一ツ心にして、馬場民部申上るケ様の御目付には他国の案内を不㆑存して成がたし目付とあらはれ敵にとらへられ様子を申候へば景虎をふかく思召し候様にて晴信公御威光あさく成申候間、何と拷問せられても白状仕らぬ
天文十九年九月九日に【全集ニハ依今川義元扱晴信氏康和睦上州働無之事付法福寺合戦の事トアリ】駿河今川義元公より四
NDLJP:103】へ被㆑成候様にと武田家の諸人唱を聞き尤と存、原加賀守、諸角豊後守両人書付をいたし春日源五郎飯富源四郎、原隼人佐三人を頼み右の書付を晴信公へ指上る、晴信公被㆑仰は各申上所尤もなれとも先事の子細を聞き候へ我生国は四郡信州の内は取て持ても、あらそひの国なれば我等領分と申かたし然れば、信濃越後へ懸て六郡持たる村上義清をおしちらし、其跡こと故なく我支配なるべきに村上越後へ迯入日ごろ持来る越後の内を景虎へ返し信濃本地へ帰参仕度と云ふ儀を頼まれて景虎信濃へ出て、某に楯をつく越後は七郡なれとも大国にて、甲斐国大形四
晴信公軍中にて御使の衆十二人は、むかでの指物しないなり、白地には墨にてかく黒地には朱にて書、黒地に金にても、青地に金にても面々覚悟次第此十二人は軍の時の御使衆なり
○金丸筑前是は金丸伊賀孫、金丸若狭子息、軍の時御使にて度々鑓を合せ或はよき高名を仕り候、土屋殿親父なり
○小幡惣七郎是は日城入道二番目の子息小幡山城弟也十二人の内にて武篇場数多き人にて一の年増なり
○小幡弥左衛門是も日城七番目の子息後山城子息又兵衛知行同心指上御旗本へ参り御奉公申候故此弥左衛門知行三ケ二同心共に請取河中島海津の城二のくるわに御置なされ候
○飯富源四郎是は飯富兵部少輔舎弟後は山県三郎兵衛と申侍大将是なり
○ぬく井常陸是は晴信公御嫡子太郎義信公切腹被成て勝頼公の御子息竹王信勝公の御守に被㆑成候常陸若き時度々の走廻り有て、しかも摸様気だておとな敷人成故、竹王の御守に被㆑成此竹王殿生れ給ふ時より信玄公御養あり、惣領になさるぬく井常陸内外共に調たる武士故御子のめのとにつけ給ふ
○安部五郎左衛門軍御使の時、度々の手柄を顕はし弓箭功者の侍故勝頼公伊奈にまします時、武道の儀は安部五郎左衛門次第と被㆑仰信玄公一段御毉験【一本ニ毉験ノ二字ヲ威言トス】にて、勝頼公十七歳の御時五郎左衛門を被㆑遺是をもつて義信公信玄へ御うらみふかくして終に御自害なり
○跡部九郎左衛門、是も御使の時度々の手柄有それ故御旗本近習番帳頭也
○牙城民部左衛門、跡部九郎左衛門におとらぬ人の故近習組頭になさるゝ也【一本ニ牙城ヲ下条ニ作ル】
○本郷八郎左衛門軍御使の時度々の誉有る故後は御旗本足軽大将になされ駿河薩陲山にて討死なり
○今井九兵衛軍の御使にて度々人をうち申され候へとも、事の有度々は、しかも最前に手を負候故、大成弓箭の誉なし、乍㆑去武篇功者の故、此比は御旗本足軽大将になさるゝ覚へなき様にてもさいはいを手にかけたる武士の頸一ツ又よき侍と馬上より組うちにしたる高名一ツ荻原助四郎鑓をあはする時鑓下の高名一ツ都合三度すぐれたる事ありて信玄公御証文三ツこれあるなり【
NDLJP:104】○荻原助四郎常の広言に鑓をあはする事一度は少なし三度は多し二度はよいころ也、扨て鑓を二度仕る鑓下の高名二度、城をのる時御使に参たる備にて一番のりも二度先備へ御使に参り敵の内に於て馬上にて下知仕る武士と組うちも二度都合八度、武篇をいたしそれより後少もかたがず先衆へ御使に参ても上意斗り申渡し侍大将と一ツに居てはしりまはり無㆑之後足軽大将に成候へとも、此荻原助四郎様子有て【様子ありてハ板垣弥次郎ト組ミ謙信ヘ申通ジ逆心アリシナリ】三枝土佐守と本郷八郎左衛門に被㆓仰付㆒だしぬきてからめどり縄を免さず御成敗也
○我等も春日源五郎と申して右十二人の内也天文十九年庚戌九月廿三日に法福寺合戦の時山県三郎兵衛は飯富源四郎我等は春日源五郎の時飯富兵部殿の備へ御使に参り源四郎も我等もさいはいを手にかけたる武士をうち御感状を下さるゝ、又其月廿八日より、うんのたいらに於て景虎と十日余りの御対陣に御先手にて日々の足軽せりあひの時飯富源四郎と我等と先衆へ御使に参り飯富兵部殿の手にて二日小山田備中殿の手にて一日、十月二日より同四日迄打つゞき三日に三ツの高名仕り、飯富源四郎に御褒美を被㆑下我等も源四郎にすくはれ候故に三度ながら首尾を合せ、源四郎ごとくに御褒美を下さるゝ也
一金丸筑前
一小幡惣七郎 〈此惣七郎戌十月十一日に信州うんのたいらにて景虎たいさんの時しんがりを景虎あねむこ、義景被㆑仕候に、飯富兵部殿備へ御使に参り義景の内よき武士と馬より組ておち其侍をは討候へ共深手を三ケ所負ひ十月廿九日死す甲斐本立寺と申法花寺においてとりおく此寺へ晴信公御参被成焼香をあそばし下さるゝ諸人過分あさからすと申也〉
一小幡弥左衛門 一飯富源四郎 一ぬく井常陸 一跡部九郎左衛門 一安部五郎左衛門 一下城民部左衛門 一本郷八郎左衛門 一今井九兵衛 一荻原助四郎 一春日源五郎 右弓箭の時軍場への使能致して後 備への釘くさびに成る故弓矢ことにえぬ人をきらふ子細は武士道のえぬ人は必ず弓矢の取沙汰きらひなり、武士道きらひなれば弓箭の勝負見はからひ不案内なり其所不案内の人御旗本より、さき備へ御使に参るに先衆、敵とちかうして戦やがて有べきをみては、早くもどり、せりあひ有べきをかくし、無事の様に申に付御大将油断被㆑成戦二の手のかち備を仰付ざる故に、せりあひあやうく候て縦へかちても、味方に手負死人多し、又右の不案内者先備へ御使に参り先衆敵と程遠きをみては、はぶりをいたしてせんなき所へ馬を乗りまはり、本より武士道不案内なれば、せりあひの理にもならざるくちをきゝ御旗本をひからかし、先手のかせぐ若者どもに腹をたゝせ其上かねてきらひ候へば、進退ゆるがざる、三ツの備色をもしらず敵遠ければ何事も有まじきと思ひ、むざと馬を乗いだし候を、はじめ腹たちたる心がくる者共旗本衆に負じとて我意地ましに乗出し物頭下知すれば御旗本の使衆、うたすまじと申儀にて候と、はづして、乱に懸り仕るまじき所にてせり合有、むり成働には必ずおほく手負死人候て、大将の御損あるは軍の使衆に武道無数寄にて弓矢の事不案内の人をなさるゝ故なり、扨て又前に申備に進み、退き、働かざる、三ツの色味方にも有㆑之なり如㆑此の儀をみはからひ備だてよき折節かゝつて理をする所、此二ツを能見定め二ケ条に