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甲陽軍鑑/品第廿九

 
オープンアクセス NDLJP:100甲陽軍鑑品第廿九 巻第十上

一 晴信景虎小県対陣之事  一 晴信河中島御出陣之事  一 伊奈・木会・松本へ御働之事付景虎小県へ出陣之事  一 晴信景虎信州海野だいらにて五日対陣之事  一 上州みてらを合戦之事  一 景虎越中出陣之時目付之事  一 晴信氏康和睦之事  一 使番十二人之事

天文十七年戊申五月七日に晴信公甲府を御立あり信州伊奈へ働給ひ、とりで破却全集ニ取出二ツ破却トアリ又三代記ニハ二日ノ内ニ砦三ケ所破却トアリあそばし、たかたうの城へ取つめなさるべきと有所に五月の末に長尾景虎小県へ働出るの由聞食晴信公早々引取又小県へ御馬をむけられ、六月四日に景虎と晴信と日数十二日の間対陣ありて十六日辰の刻に景虎陣をはらひて退るゝ、景虎かたの評議は退き候はゝ晴信方定て退所をくいとめらるべく候さるに付ては備さだち申べく候其旗色をみて合戦と究たるを晴信公見取被成くひとめずして景虎退参故御一戦はこれなし晴信公六月中信州に逗留まして七月朔日に小県を御立有て笛吹到下をこし松枝の城へ大物見をかけられ暁働なされ何事もなく七月三日に早々引取同月六日に甲府へ御着なり

天文十七年申の八月八日に晴信公甲府を御立あり信州河中島へ御出陣にて村上義清与力の侍衆降参申さるゝ者共の持分を大形放火被全集ニハ村上義清与力の侍降参せざる者共持分の在郷大かた放火云々トアリ或はかり田被仰付味方の城へ取入被成候へど敵出ざれば景虎も又越中へ出陣候て、越中衆と取あひはじまり今度は出むかひ不申候故晴信公十月十日に御馬入也

天文十八年己酉四月十一一日卯の刻に、晴信公甲府を御立あり同十三日に上の諏訪へ御着被成則ち諏訪に御馬を被立伊奈、木曽、松本三方へ手づかひの御働被仰付候伊奈郡へ浅利式部の丞、馬場民部侍大将二頭に、足軽大将には山本勘介、安馬三右衛門、是四頭一組にして侍大将両人、働指引の談合相手は山本勘介也木曽へは甘利藤蔵、内藤修理此侍大将二頭に足軽大将には原美濃、曽根七郎兵衛働の指引は、原美濃次第となり松本筋へは板垣弥二郎日向大和、原加賀守此侍大将三頭足軽大将には小幡山城子息孫二郎、原与左衛門子息惣五郎、市川梅印子息伝五郎、横田十郎兵衛合て七頭なり一本ニ伝太郎トスルハ誤ナラン扨て伊奈にては保科弾正御味方申され上の諏訪へ参り晴信公御礼致さるゝ則人質を進上申され候、木曽筋は鳥居到下のこなた悉く焼はらひ鳥居到下を少し越働き足軽せりあひ一度ありて敵馬のり三騎歩者八人合して十一人討取て切所きれしよ故、早々引とる松本筋にて、小笠原衆千五百余り出て、殊更二日に三度せりあひあり次の日廿二日に一度のせりあひには、仁科の内ひきの城主丸山肥後伯父丸山筑前は足軽五十人つれ小笠原長時方にて来るとみて朝五ツ時足軽共を引くし、小笠原衆三備の二町程左の方へ指出て備を立る己は又歩者六人つれ一騎一町程すゝみ出、丸山筑前と名乗馬よりをりて少し高き所へあがり此方の人数心静かにみて居たり味方右の方には日向大和守同勢にて、足軽大将には小幡山城、横田十郎兵衛、三頭なれども、小幡山城はせり合有べきとて、先本備、板垣弥二郎殿へ参られ候間に山城子息、小幡孫二郎、遠藤と申馬乗同心一騎歩者六人つれ丸山筑前ゐたる所へ馬を早め乗着け七八間近くにて馬を乗放し鑓取て懸り筑前と両方鑓を以てせり合候に敵は鑓二丁孫二郎は鑓一丁しかも年十六歳其上かけて草臥候の故左のたかみへつき付られ候へとも、跡よりつゞく歩者は刀斗なり、遠藤を始め助くる事ならす、既に孫二郎討死あるべき処を横田十郎兵衛大勢にてすけかゝるをみて、さすか剛の丸山筑前も鑓を巳が中間に渡し馬にのらんとする所を、孫二郎追懸け筑前が右のひざをうしろより、ふしへかけ半分すぎ切つて、ころぶ所をおさへて首をとり、しかも、さいはいをそへて高名仕り、孫二郎もかいなのはづれ、太股身には二ケ所具足の胸板六所鑓にてつきたる跡あり、大き成ほまれなりと、諸人の批判は悉皆横田十郎兵衛すけ候て如此十郎兵衛其時廿五歳なれとも度々のほまれあり、小幡孫二郎は十六歳初陣の時なり孫二郎手負候て甲州へ罷帰るとて、諏訪において晴信公金丸筑前御使にて御証文に一文字の御長刀を添へて被下る、父小幡山城悦び限りなし扨又た其日のせりあひ四月廿二日巳の刻に原加賀守先にかゝり小笠原衆を追くづし、討取其の数雑兵ともに百七十五うちとり諏訪へ注進申上る、晴信公大きに悦ひ給ひ、御馬を向けられ小笠原長時とうむの勝負を究め可被成とありて日取は廿五日と被仰出所に廿四日の午の刻にはやうちにて注進申上るは長尾景虎小県へ罷出此度は御持の城一ツもせめおとすべしとて、越後を罷出てたると風聞申候由書付を以て進上致す、晴信公聞召則廿四日の夜松本へ働の衆を引とり次の日廿五日の午の刻に小県オープンアクセス NDLJP:101へ御馬をむけらるゝなり

天文十八年五月朔日に、晴信公と景虎と信州海野たいらにて五日対陣ありて同六日に景虎より使を晴信公へ進上申さるゝ其趣は我等信州へ罷出ることは自身の欲を以ては不罷出候村上義清を本地へ返し申度との義にて候、是御同心なく候はゞ我等と有無の一戦被成勝利は互に其手柄次第一本ニ勝負ハ互乃運次第トアリと申越さるゝ、晴信公御返事に其方村上義清に頼まれ本地へ村上を仕付へき為の信州へ出陣は一入心はせやさしく晴信も存候、我も人も牢籠致す事、昔が今に至る迄有習にて候景虎の心ざし尤なれとも村上本意の事、晴信在世の内は成間敷候さなくはうむの合戦と有事是も尤に候へとも晴信は村上を本地へ返さぬを我等の働きに仕候さありて合戦と思はれば其方より一戦を始らるへく候もし又日本国中において誰人にてもあれ我等が本国甲州の内へ手を入らるゝに付てはそこにて晴信懸つて有無の合戦と被仰、此御返事を六日に景虎きゝ給ひ七日八日迄八千の人数にて出て備を立て一戦を持たる様子を仕り又十日の朝使を進上申其趣は御一戦被成間敷と相みへ候の間我等は越中か能登の国を心懸て候とて其日午の刻に景虎早退散なり此様子をきゝ木曽衆、小笠原衆或は笛吹到下にて負たる人々晴信は越後の景虎にあひなされては、へりまくれなりと、面々の手に不叶しは人を引かけて晴信公を議り奉る事よき大将の臆意は存ぜず巳をもつて人にたくらべ、餓鬼偏執は武篇イ案内の故如此扨て又晴信公、六月七月迄信州に御逗留あり、御もち要害とも御普請被仰付八月一日に御馬入なり

天文十八年八月十五日に、八幡宮において流鏑馬の御まとあり同十八日己の刻に晴信公甲府を三寺尾合戦御立あり上野へ全集ニハ上野へ御発向鬼乃つらと云所迄焼働云々トアリ御発向なさるゝをにのつらといふ所迄焼働遊はし引取給ふ所を上野侍安中越前守才覚を以つて同国の城主とも九頭集り其勢六千斗にて則上野してらにおいて各心ばせゆかしくも晴信公へかゝつて、くいとめ申へしとて九月三日卯の刻に、やさしくも戦ひをはじむる甲州方には笛吹峠下の切所を越し他国の上野へ始めて出陣有故小敵といへとも、奥ふかくあてがひさうては働かず内藤修理、原加賀守、同隼人介、馬場民部、浅利式部丞小宮山丹後守此五手を以つて返して追ちらし雑兵ともに五百廿七、討取り頸帳を認め同日己の刻に勝時を取おこなひなさるゝ、上州みてらを合戦是なり晴信公廿九歳の御時如此然は同月六日安中、松枝両城の内いづれをとりつめらるべきと有所に諏訪郡よりはや飛脚来りて申上る、小笠原長時下の諏訪へ働き申候が、越国の景虎と内通かとあひみへ申候由、板垣弥二郎方より、如此注進申、下の諏訪小城に指おかるゝ諸角豊後、市川梅印、原与左衛門方より何共不申上されとも大事に思召し九月七日に安中を引取り諏訪へ御馬をむけらるゝ小笠原長時早々退参仕る左は有ながら十月まで諏訪に御馬を立られ御持要害ども御普請被仰付十一月三日に御馬入なり

天文十九年庚戌三月十一日午の刻に晴信公甲府を御立あり晴信景虎合戦約束景虎雲気ヲ見テ人数ヲ引き揚グ上野松枝の城へ取つめ給ふ所に小笠原長時公、木曽殿と組、下の諏訪へ打出で、こちやうの城を攻め取申すべき由晴信公聞召し上野口の事をば指置三月廿一日に諏訪へ御馬をむけらるゝ是をきゝ木曽木曽義高小笠原早々引いるゝ晴信公四月六日に桔梗原へ御馬を向給ふ松本、木会両方より敵出向ふ然れば木曽の押へをよくおき小笠原と有無の一戦と相定らるゝ処に五月朔日に越国の景虎罷出て今度は地蔵到下を越、佐久の郡迄も働申べき備定と風聞の儀申来る是を聞召晴信公、木曽、松本を打捨て景虎に向ひ給ふかくありて五月十日申の刻景虎より晴信公へ使をたて明る十一日に一戦をまいるへき由申さるゝ、晴信公尤も被仰十一日卯の刻に打出て右の御先は飯富殿、左は小山田備中、中は真田弾正何れも信州先方衆を組あはせ、三手ながらほうやほうやハ録矢せいハ井ナリ考に備を立トアルハ雁行ニノ誤ナルヘシ勿うやうハ方勾に備を立る御旗本前は典厩穴山殿せいに備をたて給ふ右は浅利、馬場、内藤、日向大和左は諸角、甘利殿、勝沼殿、小会殿、此八頭を考ふに備を立る御後は郡内の小山田、栗原此二頭は御旗本と一手のことく組合せ、はうやうに原加買守是もはうやうに、たてゝはる御跡に居扨又景虎は一万の人数を一手のごとくにくみあはせ、一のさきの二の手に我旗本をたて既でに合戦はじまる時晴信公御旗本の上に黒雲の、まろきやうなるが景虎の旗本の上へ吹きかけ、しかも景虎衆惣人数の上にて此雲散りたるを見、景虎さいはいをとつて早々引あげ我旗本の備を人先につれて引いれ給ふ、天文十六未の秋より戌の五月まで四年の間に景虎此時初めて軍をまはさるゝなり、晴信公惣オープンアクセス NDLJP:102軍は其日未の刻迄備を立合戦を持て、申の刻に陣屋へ入景虎十二日卯の刻に越中能登へ発向仕由、たて文を、晴信公へ進上申早々景虎退参なり、晴信公其御返事にも村上殿を本地へ帰参の義忠ひ止給へ左候へば景虎と晴信と弓箭はなき物をといかにもゆるやか成る御返札なれば猶以て景虎悦び引いるゝ、さありて、山本勘介晴信公へ申上る、景虎越中能登の敵にあひ申候様子御目付をつかはされ聞召候へと申上るにより晴信公、馬場民部、内藤修理、両人を召して山本勘介申上る儀を分別仕候へと被仰馬場内藤両人ながら一ツ心にして、馬場民部申上るケ様の御目付には他国の案内を不存して成がたし目付とあらはれ敵にとらへられ様子を申候へば景虎をふかく思召し候様にて晴信公御威光あさく成申候間、何と拷問せられても白状仕らぬつはものの分別ありて才覚有弁舌たらふて弓矢に功者能武士を指越被成よと申上る、晴信公被仰は加賀能登両国の案内は曹洞家の出家大益を頼て越し候はん、又目付には此方にても馬場民部と内藤修理と山本勘介と此外一切さたなく越候はゝ馬場民部かひぞへに付たる小幡日城一本ニ日城ヲ日浄ニ作ルが六番目の子、山城が弟小幡弥三左衛門を、こせと被仰付候て大益と申出家と小幡弥三左衛門越中へ行みきゝて帰り申上るは晴信公に向ひ奉りての様子各別かはりいかにも大事に仕られ、かまりにてかまりハ蟠、敵をころし或は切所の物かげをかたどり、はんとはんとハ半途ナリをうちて敵をうち取り能敵の体をみきり少人数なればそこにてかろき働をいたされ、いかにも弓箭のもやう、しめてみへ申候と大益を証人に立まいらせ、弥三左衛門申上る、此大益その時分関東の事は不日本にかくれなき会下えげ僧なり、其上小幡弥三左衛門兄の山城におとらぬ弓箭功者の武士なり両人の言上を、山本勘介承り扨は景虎、晴信公を能き相手と奉存負て不苦と景虎思はるゝと我等のつもり毛頭違申さず候間必す謙信と御対陣の時そゝけたる御備なき様にと馬場民部、内藤修理を以て山本勘介申上る、晴信公珍重に思召す事なり是は信州猿が馬場と申所にて晴信公三十歳の御時なり、後の五月中かいづに御馬を立られ境目要害とも堅固に被仰付六月中旬に御帰陣なり

天文十九年九月九日に全集ニハ依今川義元扱晴信氏康和睦上州働無之事付法福寺合戦の事トアリ駿河今川義元公より四宮右近、庵原弥兵衛両人甲府へ御使に参る右近は節供の御使弥兵衛は相州小田原北条氏康、義元公を頼み晴信公へ被仰子細は上杉家と北条家と弓箭を取事我等迄三代なり、然は今年来年中に有無の一戦可仕所存候若し上杉則政運尽氏康利運に仕る事自然これ有に付ては関東国の儀北条家より仕置いたし申べく候、殊更上野の国は上杉則政居城国の儀に候へとも、武田晴信公上野へ御手をかけ給ふ事思召し止まり候様にと甲府へ被仰被下べく候某方より晴信へ申すべく候へとも若き人の儀なり御父信虎とは別而入魂仕候て信虎公は我等をば一入ねんごろまし取たつる様にあそばし候つれ共今の晴信へはしかと申談る事も無之候殊に晴信ちと喧狂仁の様に承及候間是より申越事、やぶれに罷成ては又如何に候、義元公は晴信の姉聟にて御座候間晴信気にいらざる儀をも義元御申候はゝ合点まいるべく候と、北条氏康、今川義元公を頼晴信公へ被仰候て如此の様子晴信公上野へ御発向無之但又夫より八年めに子細有て、晴信公上野へ御発向被成候なり、天文十九年戌の九月駿河今川義元公を以て晴信公へ相州小田原氏康公、被仰武田晴信公、上野へ御発向の儀不成様にと頼給ひて晴信公上野国御発向の儀思召とゞまるなり此事を武田家の諸人くやみ候て申は去年酉の年松枝一本ニ松枝ヲ松井田ニ作ルか安中か、御手に入候はゞ治め掛たる国にて候と御返事あつて尤なるが上野の内少も御手に不入して左様被仰てからはかたはしの城一ツ計り落城して、北条家今川家の聞へ如何なり、さありて上野に斗御懸り被成候はゞ、景虎への御広言に村上を更科へ本意させ給ふまじきと有儀、晴信公御相違の様に御座候間関東へ晴信公御望は絶たり、するが義元公は姉聟でまします、其上太郎殿は義元公の聟にとの御約束、旁以て無事なれば晴信公御手に入国は信濃斗りなり、然れバ信濃には村上一の大身にて越後の内をそへては六郡持候へば甲州四郡なる故一ケ国半程の村上を追ちらし、其跡さういなく晴信公御手に入申べく候所に、村上殿越後へ迯入景虎を頼給ひて景虎年々出て晴信公に楯をつき申され候、景虎若き大将といへども早や日本に若手の弓取なり其上越後は甲州四ツ合せたる程の大国なれども晴信公武勇つよくましますを以て景虎と取あひはじまり、今迄四年の間に奥四郡小県の内御持の城を一ツとられず、此方へは年々小城一ツづゝも取被成候乍去景虎は大身といひ、わかしといへども強敵なればおしつぶす事は縦へいくさに晴信公御勝ありても落着遅く有べく候間、景虎とは無事になされ伊奈、松本、木曽を伐り従オープンアクセス NDLJP:103へ被成候様にと武田家の諸人唱を聞き尤と存、原加賀守、諸角豊後守両人書付をいたし春日源五郎飯富源四郎、原隼人佐三人を頼み右の書付を晴信公へ指上る、晴信公被仰は各申上所尤もなれとも先事の子細を聞き候へ我生国は四郡信州の内は取て持ても、あらそひの国なれば我等領分と申かたし然れば、信濃越後へ懸て六郡持たる村上義清をおしちらし、其跡こと故なく我支配なるべきに村上越後へ迯入日ごろ持来る越後の内を景虎へ返し信濃本地へ帰参仕度と云ふ儀を頼まれて景虎信濃へ出て、某に楯をつく越後は七郡なれとも大国にて、甲斐国大形四程可之候、殊更景虎我に九ツの年おとり然も弓矢を取ふせ苟くも剛強に相見ゆる所に村上をば押ちらし若き景虎大国を持たるにおそれて無事を作り候て、伊奈、木曽、松本を縦へ五日十日の間に手に入てありといふとも弓箭には景虎に仕負たると近国他国の取さたは、晴信一人にあらすあと廿六代まて、武田の家の耻なり徳は一代名は末代と思へば、此まゝ信濃国を治めかけて死するといふとも、景虎と無事にして押散したる村上を更科へ返す儀は御旗楯なしも照覧あれ、仕るまじく候如此の異見二度無用と御立腹まして其日未の刻に御陣ぶれあり、郡内の小山田は諏訪の板垣弥二郎を一の手にして、信濃松本、小笠原長時方へ働き候へと有儀、春日源五郎、飯富源四郎原隼人佐三人に連判の状を越候へと被仰付次の日九月十五日巳の刻に、甲府を打立給ひ小笠原長時へ取懸給ふ、甘利左衛門尉御旗本前備なれどもさき衆、飯富兵部、小山田備中、蘆出下総此先衆くづれたるに、跡よりいれかへ小笠原方を切崩し敵をうち取数二百七十三、甘利殿一手へ討取る其時先衆も返して二百四十六敵を討取る是は惣の先衆諸手へ如此なり敵を討取其数雑兵ともに五百九十五百九十ハ五百十九ノ誤ナラン討取る、甘利左衛門尉十七歳にて此御陣有べし九月九日に左衛門尉になさるゝ今度の合戦には老功の侍大将衆をこし、甘利左衛門尉走迴りすぐれたり、先高名のしるし惣手より廿七、左衛門一手へ取事多しさ候て此の時松本へうち入、小笠原長時を御退治なさるべしと有所に、景虎海野たいらへ出る、そこにて法福寺口を打捨て晴信公、景虎に向ひ給ひ九月廿八日より十月十日まで景虎と御対陣あり、十一日卯の刻に景虎退散仕る故に、同廿日に晴信公御馬いるなり

晴信公軍中にて御使の衆十二人は、むかでの指物しないなり、白地には墨にてかく黒地には朱にて書、黒地に金にても、青地に金にても面々覚悟次第此十二人は軍の時の御使衆なり

○金丸筑前是は金丸伊賀孫、金丸若狭子息、軍の時御使にて度々鑓を合せ或はよき高名を仕り候、土屋殿親父なり

○小幡惣七郎是は日城入道二番目の子息小幡山城弟也十二人の内にて武篇場数多き人にて一の年増なり

○小幡弥左衛門是も日城七番目の子息後山城子息又兵衛知行同心指上御旗本へ参り御奉公申候故此弥左衛門知行三ケ二同心共に請取河中島海津の城二のくるわに御置なされ候

○飯富源四郎是は飯富兵部少輔舎弟後は山県三郎兵衛と申侍大将是なり

○ぬく井常陸是は晴信公御嫡子太郎義信公切腹被成て勝頼公の御子息竹王信勝公の御守に被成候常陸若き時度々の走廻り有て、しかも摸様気だておとな敷人成故、竹王の御守に被成此竹王殿生れ給ふ時より信玄公御養あり、惣領になさるぬく井常陸内外共に調たる武士故御子のめのとにつけ給ふ

○安部五郎左衛門軍御使の時、度々の手柄を顕はし弓箭功者の侍故勝頼公伊奈にまします時、武道の儀は安部五郎左衛門次第と被仰信玄公一段御毉験一本ニ毉験ノ二字ヲ威言トスにて、勝頼公十七歳の御時五郎左衛門を被遺是をもつて義信公信玄へ御うらみふかくして終に御自害なり

○跡部九郎左衛門、是も御使の時度々の手柄有それ故御旗本近習番帳頭也

○牙城民部左衛門、跡部九郎左衛門におとらぬ人の故近習組頭になさるゝ也一本ニ牙城ヲ下条ニ作ル

○本郷八郎左衛門軍御使の時度々の誉有る故後は御旗本足軽大将になされ駿河薩陲山にて討死なり

○今井九兵衛軍の御使にて度々人をうち申され候へとも、事の有度々は、しかも最前に手を負候故、大成弓箭の誉なし、乍去武篇功者の故、此比は御旗本足軽大将になさるゝ覚へなき様にてもさいはいを手にかけたる武士の頸一ツ又よき侍と馬上より組うちにしたる高名一ツ荻原助四郎鑓をあはする時鑓下の高名一ツ都合三度すぐれたる事ありて信玄公御証文三ツこれあるなり

オープンアクセス NDLJP:104○荻原助四郎常の広言に鑓をあはする事一度は少なし三度は多し二度はよいころ也、扨て鑓を二度仕る鑓下の高名二度、城をのる時御使に参たる備にて一番のりも二度先備へ御使に参り敵の内に於て馬上にて下知仕る武士と組うちも二度都合八度、武篇をいたしそれより後少もかたがず先衆へ御使に参ても上意斗り申渡し侍大将と一ツに居てはしりまはり無之後足軽大将に成候へとも、此荻原助四郎様子有て様子ありてハ板垣弥次郎ト組ミ謙信ヘ申通ジ逆心アリシナリ三枝土佐守と本郷八郎左衛門に被仰付だしぬきてからめどり縄を免さず御成敗也

○我等も春日源五郎と申して右十二人の内也天文十九年庚戌九月廿三日に法福寺合戦の時山県三郎兵衛は飯富源四郎我等は春日源五郎の時飯富兵部殿の備へ御使に参り源四郎も我等もさいはいを手にかけたる武士をうち御感状を下さるゝ、又其月廿八日より、うんのたいらに於て景虎と十日余りの御対陣に御先手にて日々の足軽せりあひの時飯富源四郎と我等と先衆へ御使に参り飯富兵部殿の手にて二日小山田備中殿の手にて一日、十月二日より同四日迄打つゞき三日に三ツの高名仕り、飯富源四郎に御褒美を被下我等も源四郎にすくはれ候故に三度ながら首尾を合せ、源四郎ごとくに御褒美を下さるゝ也

一金丸筑前

一小幡惣七郎 〈此惣七郎戌十月十一日に信州うんのたいらにて景虎たいさんの時しんがりを景虎あねむこ、義景被仕候に、飯富兵部殿備へ御使に参り義景の内よき武士と馬より組ておち其侍をは討候へ共深手を三ケ所負ひ十月廿九日死す甲斐本立寺と申法花寺においてとりおく此寺へ晴信公御参被成焼香をあそばし下さるゝ諸人過分あさからすと申也〉

一小幡弥左衛門  一飯富源四郎  一ぬく井常陸  一跡部九郎左衛門  一安部五郎左衛門  一下城民部左衛門  一本郷八郎左衛門  一今井九兵衛  一荻原助四郎  一春日源五郎  右弓箭の時軍場への使能致して後 備への釘くさびに成る故弓矢ことにえぬ人をきらふ子細は武士道のえぬ人は必ず弓矢の取沙汰きらひなり、武士道きらひなれば弓箭の勝負見はからひ不案内なり其所不案内の人御旗本より、さき備へ御使に参るに先衆、敵とちかうして戦やがて有べきをみては、早くもどり、せりあひ有べきをかくし、無事の様に申に付御大将油断被成戦二の手のかち備を仰付ざる故に、せりあひあやうく候て縦へかちても、味方に手負死人多し、又右の不案内者先備へ御使に参り先衆敵と程遠きをみては、はぶりをいたしてせんなき所へ馬を乗りまはり、本より武士道不案内なれば、せりあひの理にもならざるくちをきゝ御旗本をひからかし、先手のかせぐ若者どもに腹をたゝせ其上かねてきらひ候へば、進退ゆるがざる、三ツの備色をもしらず敵遠ければ何事も有まじきと思ひ、むざと馬を乗いだし候を、はじめ腹たちたる心がくる者共旗本衆に負じとて我意地ましに乗出し物頭下知すれば御旗本の使衆、うたすまじと申儀にて候と、はづして、乱に懸り仕るまじき所にてせり合有、むり成働には必ずおほく手負死人候て、大将の御損あるは軍の使衆に武道無数寄にて弓矢の事不案内の人をなさるゝ故なり、扨て又前に申備に進み、退き、働かざる、三ツの色味方にも有之なり如此の儀をみはからひ備だてよき折節かゝつて理をする所、此二ツを能見定め二ケ条に得利とくりなくんば、軍兵詮なき所におき、つからかし被成て入ざる事と大将へ申上る、よき人をえらひ軍の時の使衆に晴信公なさるゝそれに付御中間頭十人、廿人、衆頭十人合て廿騎は弓箭に誉ありて武道の案内者也、かれをむかせのさし物さゝせ給ふ、軍の御使衆十二騎に差添被成候儀万事の目付横目也、少もあやうき事なし、晴信公御作法如