甲陽軍鑑/品第卅四

 
オープンアクセス NDLJP:131甲陽軍鑑品第三十四 巻第十一之上

氏真信玄中悪成事 一信長へ御祝言進物并城介殿へ進物之事 一公事并世間風之事 一謙信氏康子息養子付輝虎信玄和睦不調事 一信玄病気付脉事 一氏真没落付懸川城に籠事 一駿河仕置付家康懸川攻事 一氏康より使者参事 一氏康信玄対陣付馬場美濃手柄の事 一信玄甲府打入事付氏康駿河仕置事 一於懸川城家康氏真勝負事 一氏真降参、船にて小田原江退事付三浦右衛門しばり頸きらるゝ事

全集ニハ毘沙門堂建立付氏真信玄不和ノ事ト標目ヲ掲ケ首ニ永禄十一戊辰年二月始より太郎義信公御殿をやぶり其跡に狭み築地高門何れも檜皮茸いかにも結搆なる御普請にて毘沙門堂を建給ふトアリ第一巻第四品ヲ参看スベシ 永禄十一戊辰年五月駿河の今川氏真公へ御使を越給ひ信玄公被仰は今川殿御持の内東三河を信玄に給はり候へ、信州伊奈より続きたる所にて候間取続き候はゞ以来義元の御訪ひ合戦、氏真公被成候て松平蔵入元康と云興がるいき物出来りて今川殿恩を忘れ元康の元と云字をも抛ち悉く引かへ徳川三河守家康になり大かた三河国を治めたると承及候家康にとられ候はんより信玄に給はり候へかしと被仰越候氏真公御返事に信玄被仰分辱く候乍去父義元のとぶらひ合戦とある義は武田信玄を頼申に及ばす能時刻を見て氏真一身にて本意をとけ申べく候殊更氏真敵の織田信長と信玄縁者に成給ふと聞候へば信玄も今は敵半分と存候又東三河の事家康にとられ候哉信玄へ進ずる事成がたく候子細は家康小身の者なれば今明年にもたやし申候事いと易く候信玄へ東三河渡し候て後は遠州迄もとられ申べく候其証拠は今川家の秘蔵に仕る定家の伊勢物語を酒に酔たるふりをなされ信玄御とり候とて父義元も信玄をば殊の外調儀てうぎの恐ろしき人と申され候ひつる間信玄と氏真とおぢ甥の取沙汰さしおかれ以来は書札の取かはしも必らす無益也此比も家康母方の伯父水野弥平大夫に信玄念比し給ふと聞く又梶水彦介と云者をも甲府迄よび鉄炮十丁に甲州名物とありて木綿の布を弐百端くれ信玄三河へ出ば手をひけと御申候事委しく氏真きゝ申候間水野弥平太夫をば去年の冬成敗仕り候とて信玄の水野弥平太夫所へ被下たる廻状を甲府へ駿河より御返事にそへられ越給ふ故今川氏真と武田信玄と御中悪くなる也信玄公は六年以前より駿府へ町人百姓出家本より侍、何も物の善悪よく弁る人を撰ひ御越被成候て聞給へば氏真公御前にて惣一番の出頭人三浦右衛門助分別悪くして、今河家の大身小身老若御一家衆共に右衛門助にあきはて候今川家の人々心持あしくなり、そでなき事に物をいれ、堺の紹鴎せうわうが流の茶の湯がゝりなりとて茶碗一ツを三千貫にて実取栄花にふけり申候は三浦右衛門がしわさなり仍如件

永禄十一辰年六月上旬に甲州信玄公より信州伊奈飯田城代秋山伯耆守を御使に被成美濃国岐阜の織田信長公へ御縁者御祝儀の御音信樽肴作法のごとく

越後有明の蠟燭  三千張  一 漆  千桶  一熊の皮  千枚  一御馬  十一疋之内関東宇都宮殿より進上ある鬼河原毛   以上一本ニ十一疋ノ内一疋ハ関東云々トアリ

一御曹司城介殿へは御樽肴作法のごとく  一大安吉の御脇指  一義広の御腰物

一紅  千斤   一綿  千把

一馬十一疋之内会津黒同十一疋ノ内一疋ハ会津云々トアリとて名馬也さありて秋山伯耆、岐阜に於て信長公馳走被成七五三の御振舞初日には七度御盃出て七度ながら伯耆守に御引給り三日目に梅若太夫のうを仕候て其後は岐阜の河にて鵜匠をあつめ鵜をつかはせ同御引出物給はりトアリ伯耆守にみせ給ふ伯耆守乗候舟をも信長のめし候舟のごとくになされみせ給ひ鮎の魚上中下を信長公御覧じよらせ伯耆守に信長直に仰渡され甲府へ御越被成候秋山伯耆守七月初に罷帰信玄公様子申上候以上

同年七月上旬に信長公より信玄公へ大なる御音物あり際限なし書に及ばず御料人へ八帖敷ほどの御にほひ袋被之候也以上

同年八月甲府にて公事くじあがり候時、草を争そふ儀に付御蔵の前衆鎌と申物を取候に付て此公事草刈鎌公事出来申候由申上られ候へば其時信玄被仰は武士と云者は香車きやしやに有て其上武篇よき事是本の道なり香車香車一本ニ華奢ニ作ルなりと云て容顔美麗にばかりあれバ西国の大内義隆がふうのごとくに成候遠からぬ駿河氏真の家老武藤新三オープンアクセス NDLJP:132郎行義、香車、過候て今川の家に武士道手柄者共多数ありと雖ども父義元のとぶらい合戦ならずして申の年より当年迄九年の間香車風流の沙汰斗り候て武士の道すたりたる様にみゆるは武藤新三郎が氏真の気に入、三浦右衛門助に成、心は貪、上は香車にけたかく仕るとて諸侍におほへい致し諸人にあかれ候事香車過たる故也とて即古歌を御引候、延喜の御門の御歌一本ニ此里に結する人のなかるらん門田乃早苗三ふしたつまでトアリ

此さとにゆひする人のなきやらんふしたつまてにさなへとらぬは

しつのめかしほけのちりをはらふほどさやかにてらせ山のはの月

ケ様に帝王の香車の歌あそばすにも不弁なること御存知なくては叶はざるぞ侍が鰍鎌をしらず不案内にて弓矢はとられぬぞとありて其後公事ども落着なり以上

越後の謙信信虎と小田原の北条氏康無事になり然も氏康七番めの子息三郎殿と申すを謙信養子に申請三郎殿越後へ御座なされ候て景虎と申候子細は輝虎の家老衆諫に村上殿上杉殿両家に頼まれ強敵の信玄大敵の氏康と取合給ひ輝虎公当年卅九歳迄御手前の事にさのみかゝり給はず候間はや是からは輝虎公も佐渡庄内或は加賀越中能登へ御発向尤也と家老の異見に付輝虎公氏康公と無事の義永禄十一辰年の夏中に相調候なり然らば越後より輝虎、甲府の長遠寺をよび信玄公と無事なさるべきの由御申候、信玄公御返事に輝虎若気故如此の分別今迄遅なわり候さりながら此上も輝虎少き事を心にかけ無事破れ候へば世上のきけいきけいハきこへナルベシもいかゞに候間無事と有てより信玄は違事あるまじく候輝虎のよく分別をすへ、信玄は歳もよりたると思はれ甲府へ人質など指越他念なく入魂し給ふに付ては又信玄は疎畧有ましきと仰らるゝ御返事の時は又長遠寺に指しそへ信州岩村田の法興和尚とて禅宗洞家の知識をこし給ふ謙信是をきゝ信玄は無事不調以前より輝虎を旗下の様に申され候事口惜き次第なりとて信玄公と輝虎公と無事きれ候故長沼に城を取立其年辰の十月彼の城に信玄公御譜代の足軽大将市川梅印、原与左衛門、両人指置き給ふなり仍如

信玄公は御わかき時より弓矢をそゝけて取給はずいはんや四十八歳の御時なれば御名を大事と思召候により少もけがなき様にとて長沼の城を取給ふ時普請中障碍なき為めに判兵庫助に信州水内郡にて百貫の所領を被下信州戸隠に於て祈念被成候其願書に云く判兵庫助手をかりて密供みつくを修すこゝに北越の輝虎よに讒臣を企てと云々一本ニ讒(此次切レテウツサレズ)トアリ

辰の霜月信玄公少し御煩なされ候、板坂法印御脈を取此御煩は頓て能く御座可有候へ共一両年の内に膈と申御煩可有候間都より薬師やくし呼下し給ひ御養生尤と申上候其御煩は十日の間に御平癒なり以上

永禄十一戊辰年十二月六日辰の刻に信玄甲府を御立なされ甲州下山道を駿河国へ御発向あり七日におし通り同月十二日に駿河由井口、八幡坂の左、長坂を打こへうつぶさ宇津総といふ所へうち出給ふ、扨又駿河勢は薩埵に庵原殿庵原左馬之進同安芸守ナリ三代記ニハ安房守トス千五百の人数をもつて指しかため居らるゝ八幡だいらには岡部忠兵衛、小倉内蔵介、両人大将分にして今川家の十八人衆とて武篇覚のつわもの共なり氏真公旗本は清見寺に御馬をすへられ候かくて其日十二日に甲州武出信玄公と駿河今川氏真公と一戦あるべきと有所に清見寺より薩埵山の際まで取続きたる氏真公の家老衆御親類衆都合二十一頭三浦右衛門助にさゝへられとるべき人の所領も不下或は武藤新三郎のはなたらしめが出頭にまかせ氏真公をだましまいらせ三浦右衛門助にあがり諸侍に慮外致し候、此義に退屈して各信玄公の御旗をみて今川家の衆大将ともに申すは義元公の敵、尾州織田信長に駿河をとられたるより武出信玄公にとられたるは、はるましなりとて廿一頭の侍大将衆氏真公を跡に置き奉り駿付へ引いれ候間薩埵八幡たいらの人々も引いれて後は氏真公御旗本はかりをもつて一戦なりがたければ氏真公も早々駿付の御殿こてんへつぼみ給ふ今川の一おとな朝比奈兵衛太夫御城台所長いるり長囲炉裏にてうしろあぶりしてゐたるを岡部忠兵衛、小倉内蔵介両人みて氏真公へ申上るは朝比奈兵衛太夫別心とみへ候御成敗あれと申す氏真公きこしめし別心の子細はと被仰両人申は不思儀なること二ツ候兵衛太夫日来ひころは如よき侍大将なるが今日一の先に引入て候其上清見寺迄敵の来るに帯をとき後ろあぶりの様子は兵衛太夫信玄公と内通かとみへ候と申上る氏真きこしめし各々と談合なさるべきとありて召よせらるゝ衆をえらび三浦右衛門介書付を仕る内に朝比奈兵衛太夫と仰せあれば先の所には居申さず候と申す人質と問給へば是もみへ申さず候と申す扨こそ朝比奈兵衛太夫逆心なりといふよりはやく残りて廿かしらの衆色を立て、別心なりと有処に信玄公の先衆は山県三郎兵衛、馬場美濃守、小山田兵衛尉、小幡上総守、真田源太左衛門、同兵部介、内藤修理少輔、七頭江尻を越宇八うは一本ニ宇和原又上原ニ作ル迄旗先みゆる氏真公の旗本に随分武篇覚の衆ありと雖ども今川の御家風年久敷不都合にて旧好の家老衆にオープンアクセス NDLJP:133恐怖をもたせ給ふ故、内輪うちわかはり候へば即時に御舘をあけられときの山家とき乃山家一本ニ土岐又砥城ニ作ルへつぼみ被成候信玄公遠慮の深き名大将にてましませば御小人頭二人廿人衆頭二人合せて四騎の者四騎ノ者ハ小池主計三沢四郎兵衛中村弥左衛門窪田介之丞ナリに被仰付乱取の様に仕り雑人に紛れ早く今川の御舘へ火を懸よと被仰付次の日十三日には駿府の城を焼払給ふ、扨义駿河山西花沢の城に今川家に弓矢功者の家老小原肥前遠州懸川に朝比奈備中是も小原同前の侍大将なり藤枝とくのいつしきに長谷川二郎左衛門と申有徳仁是は粉川ほうゑいが子也、遠州高天神の城には小笠原居候へ共是は城飼きかう郡をもち身がまへをしてさのみ氏真公にも取あひ申さず候氏真公をば朝比奈備中懸川へいれまいらせ今川の旗本衆武篇ほまれの人々多く罷有、氏真公を大切に仕るは久敷家の験第一なり三浦右衛門が年月諸人に慮外のはなをしにても如

信玄公酸府かごがはな籠ケ鼻に御旗本を陣取先衆は八幡くづのや葛ノ谷うは原宇八原江尻を切て陣取被成也氏真は懸川へつぼみ給ふか、ときの山家にましますか、小田原北条家より氏真をすけるか、よろづを聞合せ給ひ候うちに今川家廿一頭信玄公へ内通仕たる侍大将衆の人質を取甲州府中へ指越し其人々の郎等内の者上下各々を甲州下山へかたづけ興津の横山に城を取普請を被仰付穴山梅雪を指し置き給ふは穴山入道興津につゞきたる山下を知行せらるゝゆへ也、又庵原弥兵衛と云ふ侍小身なれ共武篇覚へありて今川家にて人のゆるしたる者也其上山本勘介によろづ物をならひ候と信玄公聞し召し弥兵衛を御かゝへ被成此あたりに小人数にて籠り多勢をもつてせめられてくるしからざる堅固の地はなきかと尋給へば庵原弥兵衛久能くのうと申山、十人弓鉄炮持て居申候はゞ日本がよりても成まじきと山本勘介駿府に牢人して罷有候内度々申候と弥兵衛申上、則久能に御普請あり弓鉄炮玉楽兵粮二年の分籠置、今福浄閑同丹波四十騎の侍大将を籠置給ふ今福同心の内心操仕たる者ともえらひ出し又は若かき者共心がけ能くたしなみ候侍十四五人撰び其外牢人をも、めこめこは妻子ナルベシ、慥に持人か、兄弟親類いづれの家中有之とせんさくあそばし是を信玄公御前へ召出され御褒美を被下寄親の今福より各能く久能の御番仕の候へと被仰付駿河の久能に今福父子を指をかるゝさ候て遠州へは信州伊奈より山道を秋山伯耆守をして遠州ふたまたの辺へはたらき候は三年以前より遠州いぬいの城主あまの宮内衛門と云ふ侍大将信玄公の御方になり申べきと内通申上る故如此殊更三河岡崎の徳川家康本国三州を大形手に入、其歳廿七歳にて時刻を見合せ七千斗の人数をつれ遠州いのやに菅沼、鈴木、近藤、遠州井ノ谷○菅沼二郎右衛門鈴木三郎大夫近藤発之介三人覚へある武士ともをさし置き家康はいり山瀬と云ふ所に馬を立て信玄公へ使を進じ申さるゝは今川氏真懸川に居られ候氏真をば家康うけとり候てせめほし申べく候信玄公は駿州を御おさめなされ候はゞ其御太刀かげをもつて大井川をきりて遠州をば一国家康てがら次第にきりしたがへ申べく候と申こされ候、即さきてより駿河にさしおき候家康人質を、氏真公捨て御退候家康弟の松平源三郎を御取候故信玄公まづ尤と被仰家康とは御無事なり、家康は懸川の城へおもむき申され候さりながら秋山伯耆守遠州北山家すぢの人質を取候を家康見候て伯耆守をうちたてすでに攻ころすべきもやうをみとり秋山伯耆雑兵二千ばかりの小人数故さう引取信州伊奈へにげ入なり其後家康は懸川へ取つめ氏真と戦始まり高天神の小笠原、家康と内通して申合候信玄公は駿府に御馬を立られ駿河の内花沢、蒲原、山西ほう城々へ御手づかひなされさる事不審也但信玄公御わかき時より信州越後の強敵関東上杉家の大敵にうちあはせ諸人もどかはしきやっに被成候へ共後首尾あひて大なる御吉事になり候間此たひも定めてよきことにて有べく候と武田の諸人批判なり然れ共信玄公小田原氏康駿河氏真のしうとにてまします故小田原より、はたらき給ふべきとおぼしめし信玄公御人数を少しもちらし給はず候なり以上

永禄十二年巳己正月五日に小田原北条氏康より樽肴にて駿河へ御使を進ぜられ候て信玄公へ被仰は今川氏真無分別に候間如此被成候事、一段信玄公の御道理御尤もなりと被仰越候信玄公よりも正月十二日に甫庵御咄ノ衆寺島甫庵と申御放の衆を小田原へ御使に被遣候

同正月十八日に小田原北条氏康子息氏政其勢四万五千の人数をもつて氏真を駿河へ本意のために出陣ありて先衆は薩埵山八幡だいら由井蒲原迄取つゞき候信玄公御使甫応をば伊豆の北条へ越候てろうに入置なされ候信玄公氏康の後詰をきこしめし山県三郎兵衛千五百の一備を山西駿府に残し置き一万八千あまりの人数にて興津河原へうち出北条氏康父子四万の人数と信玄公一万八千余りの勢にて御対陣あり正月中旬すへの事なれば浜風いたくふき敵、みかた共に寒き嵐に陣をはりがたし信玄公御中間がしら衆に被仰付駿府の酒をかひ陣衆の道作り千人にもたせ興津へ取よせ在の釜幾口も集め今の酒をわかし信玄公も一つ聞し召し御家中大身小身上下共に此酒を振舞被成と被仰出候に付武田の諸勢此酒オープンアクセス NDLJP:134をのみがちに仕り候信玄公各此酒をたべて寒き事なきかと仰らるゝ諸人寒きこと御座なきと申す者もありこれにても寒く候と申す者もありそこにて信玄公被仰平地において酒をのみてさへ寒きにいはんや山の上なる氏康衆酒ものますして高所に陣屋はかけたりとも人は山の麓へ下て可之候氏康衆の武篇、輝虎と十八年取あひ候へ共輝虎本国越後と小田原程、遠ければ一年に一度づゝ出合、五日十日斗り戦てさのみながく氏康と謙信と対陣有事なし、さありて上杉家は大敵といひながら大将の則政、よはければ武道不案内故氏康に武略をせられ候氏康衆ついに甚敷敵にあはすして油断可仕候間只今飲みたる酒の覚ざる内に北条家の先衆掛たる陣屋を破りあぶなげもなく敵に一塩付よと被仰付候て甲州勢先衆薩埵山へせめあがりみればまことに陣屋には一二人ありて本の人皆麓へをりて居たるゆへい斗にもやすと陣屋を破り其上小田原先衆の武具馬具鑓、結句代物など甲州武田方へ取候は信玄公の賢き御智畧の故也其後日々夜々に北条衆、武田衆せりあひ申、信玄公衆は侍大将衆一二三より十迄と鬮取にして其次々へ渡し、ひと手きりの足軽せりあひ也或時跡部大炊介足軽番にあたり馬場、内藤、小山田、真田、小幡、原隼人、小山田備中此人々の弓矢功者にて働被仕ごとくに跡部大炊介ふかくはたらき北条家の松田松田尾張守に押たてられ二町ばかりにげ其上くひとめられ退事ならずかくて跡部衆うたるべくみる故馬場美濃守に被仰付候跡部殿三百騎の人数をもつてさへ、なり申さず候処に某百騎斗にて罷成間敷候と馬場美濃守斟酌申候信玄公内藤か馬場か両人の間に参れと被仰内藤はあのごとく敵にきほはせ後れ立たる所へ馬場美濃の外誰やの者参りて理を可仕候と申て内藤不参候馬場美濃申は、さらば某参り敵をうけとり候はゞ跡部大炊介には足なみはやくのけと被仰付候へと有儀にて御旗本よりむかでの衆を御越候て被仰付候故大炊介衆足なみ早く引退、馬場美濃守百騎の備を三手に作り三所におき四十騎斗り、跡部大炊介大備を追付る松田衆に向ふ、松田衆小人数と存、きほひける、馬場衆雑兵共に弐百斗りひたとおりしく是をみて北条衆つかへたる所へ馬場美濃今二手の内四十騎雑兵共に弐百ばかり弓鉄炮、いたて打たて横筋違よこすじかひにかゝるをみて北条家松田衆悉く崩れ候を追懸け小田原松田衆二千五百斗りの大備を、立かへすことならずして馬場美濃八十騎雑兵共に四百ばかりにおひ立られ七十三くびをとらるゝ其あひだに馬場美濃のかみ廿騎雑兵ともに百二三十の跡備へ行き是をくづさずして二ケ城戸押こみ其後堅固に引あげ帰られ候へ共馬場美濃同心、とび大弐と云根来衆、大剛の侍信玄公御秘蔵の者深手負存命不定なりされ共信玄公御機嫌よき事大方ならず候内藤馬場にむかひ大なるあやまり被成候といへば馬場挨拶に尤敵の崩るゝ面白さに我をわすれ馬場一代の不覚をかきて候と申す信玄公聞召我家の武篇せんさく頂上へ上りたると被仰なり扨跡部大炊介小旗しろき地に日の丸を出し千五百余りの備にて小田原衆におはれたる事武田勢のおぼへて是はじめなり是を信玄公御先衆歌に作りおどり申候其歌に、猶も茂れや八幡林、べに丸小幡のかゝるほどにといふて跡部大炊介、小旗は日の丸緩怠なりべに丸小旗にとあだ名を付候ば、跡部大炊介出頭を各々そねみて如

此御対陣正月十八日より同年四月二十日迄九十三日なり日夜のせりあひに武田方跡部大炊介一度松田尾張におはれたるより外はみな小田原北条衆をくれなり然れ共余りに長陣故信玄公家老衆をめし口ぶりを聞給へば内藤修理申は、くずしが眼の養生に、すねの三里に灸をおろし申候馬場美濃はけらつゝきが虫をたべるにけらつゝきハ啄木鳥ナリ、よの鳥に違ひ穴のうしろをつゝき、口へ出るを取下され候と申す信玄公扨は各分別いづれも同意なりとて山西のおさへ山県三郎兵衛を駿府よりめしよせられ北条方の陣しろを一ツをしちらさせ山県同心、みしな三科、広瀬、小菅、其外手柄の者共に御証文被下二日目の夜は馬場山県両侍大将に被仰付由井の源三殿とて氏康公二番めの子息、武蔵の八皇子の城主陣屋の前に柵をふり莚にてかこひ笧をいくつも焼給ふを悉く踏やぶらせ四月廿七日に被仰出次の日二十八日には信玄公陣を払ひ駿河いはらの山を打越道もなき所を原隼人助工夫にまかせ甲府へ御馬をいれ給ふ北条家のさたには武田信玄劒をまはし甲州へ迯こまれたると申すなり甲府において内藤修理申は氏康五万に及ふ人数をもつて懸川へ押通り家康を押払氏真を駿河へなをし給はゞ久能の今福はなにと可成と申す信玄公聞召氏康の弓矢小田原を出て武蔵下総上総其あたりをはたらきまはりつけたる武篇にてしらぬ他国へ大河大坂をこしてのぞみをかくる人にあらず其うへ子息氏政我等がむこなりつるが今ははや息女死てあるといへども国王と云子は信玄が孫なれば氏政よそのやうに思はねど彼氏政は当年三十二歳なるが慾の深きことは年の数よりはるとうへ也、さあるに付駿河をば北条家の国に仕るべしと存ずる事うたがひ有べからずと信玄公御つもりの如く駿府の御館やけあとには小倉内蔵介、森川日向、久野弾正、とび長いオープンアクセス NDLJP:135つとう、酒井きはめ、沢、小長井、阿部大蔵此外は小身にて人なみの者を四五人置、蒲原、大宮、神田屋しき、ゑんのう、善徳寺、高国寺、長くぼ此城々に北条家の譜代衆をこめ置氏康父子もやがて帰陣なるは今川氏真に駿河を進ずまじきとある憶意也仍如

駿河今川家の十八人衆と云武辺覚の侍のうち岡部忠兵衛穴山入道梅害を以て信玄公へ降参致し候此者甲府へ指越候書付之内遠州掛川に於て正月二十三日に天王山にて徳川家康衆に仕負しまけ氏真方討死の衆

一伊藤武兵衛を家康被官榎原討  一近松丹波を大久保次右衛門討  一日根野弥吉を水野太郎作討  一大谷七十郎を家康をぢ水野惣兵衛うつ又二月七日に掛川西宿に於て氏真方伊藤左近を高天神衆中山是非之助討取笠原七郎兵衛を岡崎方菅沼三五郎討、菅沼帯刀を松下加兵衛討、山崎市兵衛を散木討、朝比奈小三郎を高橋伝七郎討、新谷小介を佐野討、本多みねと云者、のち掛川衆を一人討、大新と云侍岡崎方の剛の者、掛川衆返してうたすまじとする所をすけてみねにうたする是は手負てをくれたるかせものなり正月廿三日に鑓を合せたる侍菅沼美濃守、河井筑後三月七日鑓合する衆本多左馬介、吉見孫八郎、菅沼孫太郎、今和泉甚介、同孫三、久左衛門、同日城より矢を送られたる衆名倉五郎作、彦坂戸作

去廿一日に岡崎衆相働き天王山へ取詰遂二戦処に無比類走迴の段太以はなはだ神妙也本意之上急度可扶助等此旨弥可戦忠状如

 永禄十二年正月廿六日 氏真

      安藤九右衛門どのへ

是れは氏真徳川家康に負少ふりの能き者には如此御感を被下なり

永禄十二年初めの五月廿六日に今川氏真と徳川家康とあつかひになり懸川を家康に渡し其上遠州一円に家康支配ありて氏真を一度駿河の主にして給はり候へと頼み給ひて氏真公遠州懸塚より舟に召し小田原の北条氏康、氏真のしうとにてまします故頼みて小田原へ御牢人なり、扨て一出頭の三浦右衛門介諸侍に慮外仕り人罰あたり、猶以て三浦右衛門分別ちがひ高天神の小笠原、氏真公、代が世の如く用に立ち候はんと三浦右衛門介存知、氏真公を見はなし高天神へはしりこみ候を、小笠原とらへて三浦右衛門をからめとりしかもしばりくびをきるなり巳上