甲陽軍鑑/品第卅四

一氏真信玄中悪成事 一信長へ御祝言進物并城介殿へ進物之事 一公事并世間風之事 一謙信氏康子息養子付輝虎信玄和睦不調事 一信玄病気付脉事 一氏真没落付懸川城に籠事 一駿河仕置付家康懸川攻事 一氏康より使者参事 一氏康信玄対陣付馬場美濃手柄の事 一信玄甲府打入事付氏康駿河仕置事 一於懸川城家康氏真勝負事 一氏真降参、船にて小田原江退事付三浦右衛門しばり頸きらるゝ事
【全集ニハ毘沙門堂建立付氏真信玄不和ノ事ト標目ヲ掲ケ首ニ永禄十一戊辰年二月始より太郎義信公御殿をやぶり其跡に狭み築地高門何れも檜皮茸いかにも結搆なる御普請にて毘沙門堂を建給ふトアリ第一巻第四品ヲ参看スベシ】
永禄十一戊辰年五月駿河の今川氏真公へ御使を越給ひ信玄公被㆑仰は今川殿御持の内東三河を信玄に給
永禄十一辰年六月上旬に甲州信玄公より信州伊奈飯田城代秋山伯耆守を御使に被成美濃国岐阜の織田信長公へ御縁者御祝儀の御音信樽肴作法のごとく
一越後有明の蠟燭 三千張 一 漆 千桶 一熊の皮 千枚 一御馬 十一疋之内関東宇都宮殿より進上ある鬼河原毛 以上【一本ニ十一疋ノ内一疋ハ関東云々トアリ】
一御曹司城介殿へは御樽肴作法のごとく 一大安吉の御脇指 一義広の御腰物
一紅 千斤 一綿 千把
一馬十一疋之内会津黒【同十一疋ノ内一疋ハ会津云々トアリ】とて名馬也さありて秋山伯耆、岐阜に於て信長公馳走被㆑成七五三の御振舞初日には七度御盃出て七度ながら伯耆守に御引給り三日目に梅若太夫
同年七月上旬に信長公より信玄公へ大なる御音物あり際限なし書に及ばず御料人へ八帖敷ほどの御にほひ袋被㆑遣㆑之候也以上
同年八月甲府にて NDLJP:132】郎行義、香車、過候て今川の家に武士道手柄者共多数ありと雖ども父義元の
此さとにゆひする人のなきやらんふしたつまてにさなへとらぬは
しつのめかしほけのちりをはらふほどさやかにてらせ山のはの月
ケ様に帝王の香車の歌あそばすにも不弁なること御存知なくては叶はざるぞ侍が鰍鎌をしらず不案内にて弓矢はとられぬぞとありて其後公事ども落着なり以上
越後の謙信信虎と小田原の北条氏康無事になり然も氏康七番めの子息三郎殿と申すを謙信養子に申請三郎殿越後へ御座なされ候て景虎と申候子細は輝虎の家老衆諫に村上殿上杉殿両家に頼まれ強敵の信玄大敵の氏康と取合給ひ輝虎公当年卅九歳迄御手前の事にさのみかゝり給はず候間はや是からは輝虎公も佐渡庄内或は加賀越中能登へ御発向尤也と家老の異見に付輝虎公氏康公と無事の義永禄十一辰年の夏中に相調候なり然らば越後より輝虎、甲府の長遠寺をよび信玄公と無事なさるべきの由御申候、信玄公御返事に輝虎若気故如㆑此の分別今迄遅なわり候さりながら此上も輝虎少き事を心にかけ無事破れ候へば世上のきけい【きけいハきこへナルベシ】もいかゞに候間無事と有てより信玄は違事あるまじく候輝虎のよく分別をすへ、信玄は歳もよりたると思はれ甲府へ人質など指越他念なく入魂し給ふに付ては又信玄は疎畧有ましきと仰らるゝ御返事の時は又長遠寺に指しそへ信州岩村田の法興和尚とて禅宗洞家の知識をこし給ふ謙信是をきゝ信玄は無事不㆑調以前より輝虎を旗下の様に申され候事口惜き次第なりとて信玄公と輝虎公と無事きれ候故長沼に城を取立其年辰の十月彼の城に信玄公御譜代の足軽大将市川梅印、原与左衛門、両人指置き給ふなり仍如㆑件
信玄公は御わかき時より弓矢をそゝけて取給はずいはんや四十八歳の御時なれば御名を大事と思召候により少もけがなき様にとて長沼の城を取給ふ時普請中障碍なき為めに判
辰の霜月信玄公少し御煩なされ候、板坂法印御脈を取此御煩は頓て能く御座可㆑有候へ共一両年の内に膈と申御煩可㆑有候間都より
永禄十一戊辰年十二月六日辰の刻に信玄甲府を御立なされ甲州下山道を駿河国へ御発向あり七日におし通り同月十二日に駿河由井口、八幡坂の左、長坂を打こへうつぶさ【宇津総】といふ所へうち出給ふ、扨又駿河勢は薩埵に庵原殿【庵原左馬之進同安芸守ナリ三代記ニハ安房守トス】千五百の人数をもつて指しかため居らるゝ八幡だいらには岡部忠兵衛、小倉内蔵介、両人大将分にして今川家の十八人衆とて武篇覚の NDLJP:133】恐怖をもたせ給ふ故、
信玄公酸府かごがはな【籠ケ鼻】に御旗本を陣取先衆は八幡くづのや【葛ノ谷】うは原【宇八原】江尻を切て陣取被成也氏真は懸川へつぼみ給ふか、ときの山家にましますか、小田原北条家より氏真をすけるか、よろづを聞合せ給ひ候うちに今川家廿一頭信玄公へ内通仕たる侍大将衆の人質を取甲州府中へ指越し其人々の郎等内の者上下各々を甲州下山へかたづけ興津の横山に城を取普請を被㆓仰付㆒穴山梅雪を指し置き給ふは穴山入道興津につゞきたる山下を知行せらるゝゆへ也、又庵原弥兵衛と云ふ侍小身なれ共武篇覚へありて今川家にて人の
永禄十二年巳己正月五日に小田原北条氏康より樽肴にて駿河へ御使を進ぜられ候て信玄公へ被㆑仰は今川氏真無分別に候間如㆑此被㆑成候事、一段信玄公の御道理御尤もなりと被㆓仰越㆒候信玄公よりも正月十二日に甫庵【御咄ノ衆寺島甫庵】と申御放の衆を小田原へ御使に被㆑遣候
同正月十八日に小田原北条氏康子息氏政其勢四万五千の人数をもつて氏真を駿河へ本意のために出陣ありて先衆は薩埵山八幡だいら由井蒲原迄取つゞき候信玄公御使甫応をば伊豆の北条へ越候て NDLJP:134】をのみがちに仕り候信玄公各此酒をたべて寒き事なきかと仰らるゝ諸人寒きこと御座なきと申す者もありこれにても寒く候と申す者もありそこにて信玄公被㆑仰平地において酒をのみてさへ寒きにいはんや山の上なる氏康衆酒ものますして高所に陣屋はかけたりとも人は山の麓へ下て可㆑有㆑之候氏康衆の武篇、輝虎と十八年取あひ候へ共輝虎本国越後と小田原程、遠ければ一年に一度づゝ出合、五日十日斗り戦てさのみながく氏康と謙信と対陣有事なし、さありて上杉家は大敵といひながら大将の則政、よはければ武道不案内故氏康に武略をせられ候氏康衆ついに甚敷敵にあはすして油断可㆑仕候間只今飲みたる酒の覚ざる内に北条家の先衆掛たる陣屋を破りあぶなげもなく敵に一塩付よと被㆓仰付㆒候て甲州勢先衆薩埵山へせめあがりみればまことに陣屋には一二人ありて本の人皆麓へをりて居たるゆへい斗にもやす〳〵と陣屋を破り其上小田原先衆の武具馬具鑓、結句代物など甲州武田方へ取候は信玄公の賢き御智畧の故也其後日々夜々に北条衆、武田衆せりあひ申、信玄公衆は侍大将衆一二三より十迄と鬮取にして其次々へ渡し、ひと手きりの足軽せりあひ也或時跡部大炊介足軽番にあたり馬場、内藤、小山田、真田、小幡、原隼人、小山田備中此人々の弓矢功者にて働被㆑仕ごとくに跡部大炊介ふかくはたらき北条家の松田【松田尾張守】に押たてられ二町ばかりにげ其上くひとめられ退事ならずかくて跡部衆うたるべくみる故馬場美濃守に被㆓仰付㆒候跡部殿三百騎の人数をもつてさへ、なり申さず候処に某百騎斗にて罷成間敷候と馬場美濃守斟酌申候信玄公内藤か馬場か両人の間に参れと被㆑仰内藤はあのごとく敵にきほはせ後れ立たる所へ馬場美濃の外誰やの者参りて理を可㆑仕候と申て内藤不㆑参候馬場美濃申は、さらば某参り敵をうけとり候はゞ跡部大炊介には足なみはやくのけと被㆓仰付㆒候へと有儀にて御旗本よりむかでの衆を御越候て被㆓仰付㆒候故大炊介衆足なみ早く引退、馬場美濃守百騎の備を三手に作り三所におき四十騎斗り、跡部大炊介大備を追付る松田衆に向ふ、松田衆小人数と存、きほひける、馬場衆雑兵共に弐百斗りひた〳〵とおりしく是をみて北条衆つかへたる所へ馬場美濃今二手の内四十騎雑兵共に弐百ばかり弓鉄炮、いたて打たて
此御対陣正月十八日より同年四月二十日迄九十三日なり日夜のせりあひに武田方跡部大炊介一度松田尾張におはれたるより外はみな小田原北条衆をくれなり然れ共余りに長陣故信玄公家老衆をめし口ぶりを聞給へば内藤修理申は、くずしが眼の養生に、すねの三里に灸をおろし申候馬場美濃はけらつゝきが虫をたべるに【けらつゝきハ啄木鳥ナリ】、よの鳥に違ひ穴のうしろをつゝき、口へ出るを取下され候と申す信玄公扨は各分別いづれも同意なりとて山西のおさへ山県三郎兵衛を駿府よりめしよせられ北条方の陣しろを一ツをしちらさせ山県同心、みしな【三科】、広瀬、小菅、其外手柄の者共に御証文被㆑下二日目の夜は馬場山県両侍大将に被㆓仰付㆒由井の源三殿とて氏康公二番めの子息、武蔵の八皇子の城主陣屋の前に柵をふり莚にてかこひ笧をいくつも焼給ふを悉く踏やぶらせ四月廿七日に被㆓仰出㆒次の日二十八日には信玄公陣を払ひ駿河いはらの山を打越道もなき所を原隼人助工夫にまかせ甲府へ御馬をいれ給ふ北条家のさたには武田信玄劒をまはし甲州へ迯こまれたると申すなり甲府において内藤修理申は氏康五万に及ふ人数をもつて懸川へ押通り家康を押払氏真を駿河へなをし給はゞ久能の今福はなにと可㆑被㆑成と申す信玄公聞召氏康の弓矢小田原を出て武蔵下総上総其あたりをはたらきまはりつけたる武篇にてしらぬ他国へ大河大坂をこしてのぞみをかくる人にあらず其うへ子息氏政我等がむこなりつるが今ははや息女死てあるといへども国王と云子は信玄が孫なれば氏政よそのやうに思はねど彼氏政は当年三十二歳なるが慾の深きことは年の数よりはる〳〵とうへ也、さあるに付駿河をば北条家の国に仕るべしと存ずる事うたがひ有べからずと信玄公御つもりの如く駿府の御館やけあとには小倉内蔵介、森川日向、久野弾正、とび長い【 NDLJP:135】つとう、酒井きはめ、沢、小長井、阿部大蔵此外は小身にて人なみの者を四五人置、蒲原、大宮、神田屋
駿河今川家の十八人衆と云武辺覚の侍のうち岡部忠兵衛穴山入道梅害を以て信玄公へ降参致し候此者甲府へ指越候書付之内遠州掛川に於て正月二十三日に天王山にて徳川家康衆に
一伊藤武兵衛を家康被官榎原討 一近松丹波を大久保次右衛門討 一日根野弥吉を水野太郎作討 一大谷七十郎を家康をぢ水野惣兵衛うつ又二月七日に掛川西宿に於て氏真方伊藤左近を高天神衆中山是非之助討取笠原七郎兵衛を岡崎方菅沼三五郎討、菅沼帯刀を松下加兵衛討、山崎市兵衛を散木討、朝比奈小三郎を高橋伝七郎討、新谷小介を佐野討、本多みねと云者、のち掛川衆を一人討、大新と云侍岡崎方の剛の者、掛川衆返してうたすまじとする所をすけてみねにうたする是は手負てをくれたるかせものなり正月廿三日に鑓を合せたる侍菅沼美濃守、河井筑後三月七日鑓合する衆本多左馬介、吉見孫八郎、菅沼孫太郎、今和泉甚介、同孫三、久左衛門、同日城より矢を送られたる衆名倉五郎作、彦坂戸作
去廿一日に岡崎衆相働き天王山へ取詰遂㆓二戦㆒処に無㆓比類㆒走迴の段
永禄十二年正月廿六日 氏真
安藤九右衛門どのへ
是れは氏真徳川家康に負少ふりの能き者には如㆑此御感を被㆑下なり
永禄十二年初めの五月廿六日に今川氏真と徳川家康とあつかひになり懸川を家康に渡し其上遠州一円に家康支配ありて氏真を一度駿河の主にして給はり候へと頼み給ひて氏真公遠州懸塚より舟に召し小田原の北条氏康、氏真のしうとにてまします故頼みて小田原へ御牢人なり、扨て一出頭の三浦右衛門介諸侍に慮外仕り人罰あたり、猶以て三浦右衛門分別ちがひ高天神の小笠原、氏真公、代が世の如く用に立ち候はんと三浦右衛門介存知、氏真公を見はなし高天神へはしりこみ候を、小笠原とらへて三浦右衛門をからめとりしかもしばりくびをきるなり巳上