甲陽軍鑑/品第卅五

 
オープンアクセス NDLJP:135甲陽軍鑑品第卅五

一信玄出馬駿河伊豆境焼き払ふ事付信玄八幡大菩薩の小旗を、波にとらるゝ事

一関東発向、小田原城迄御働之事付馬場美濃見物に参り候事

一相州みまぜ合戦之事

永禄十二年六月二日に信玄公甲府を御立あり内藤修理正、笛吹到下とうけの方へは如何と申上る、信玄公被仰は北条家の人数へらすべき為めなりと被仰富士のすそ野一本ニ富士の大宮に着陣トアリへ出陣なされ悉く焼き払ひ、にら山、山中迄はたらき同月十七日に三島を焼きかはなりじま川鳴島に御陣を取給ふ全集ニハ△障場奉行原隼人流の上水色に心付あり此所には御遠慮有べしと申上る信玄公いつとても下の諫と破り玉はねが何とある御心根やらん今度ハ一団御承引なし但諸勢は少もまどろむべからずと堅く被仰付御族本をば殊に川近く御陣を取玉ふ一夜の中に大水出諸勢道具と津浪に引れ候へ共何事なく早々甲府へ御馬を入らるゝ是ハ氏康公と近日有無乃御一戦可成と思召候へ共家老衆危き御働なき様にと諫め宮士大宮へ出玉へば笛吹乃峠筋ハ如何に候と内藤申上高坂弾正は小田原御利運さへくやみ候へばかやうに御旗まで捨らるゝ御越度なくては諸家中衆御異見も破られさるとの御事にて態如此とは関東御発向内談合の時各存当る也トアリ一夜の内に大水いで信玄公の諸勢道具を津浪にひかれ候へども無何事さう甲府へ御馬をいれ給ふ、北条家の諸勢信玄公八幡大菩薩の小旗波にひかれたるを取りあげ武田信玄旗をすてゝ、はいぐんなりと、とりさたすれ共北条家に弓矢功者だていたす衆は信玄当年中にはたらき、如何様近辺北条家もちの城二ツ三ツもせめらるべきと評議して駿河の蒲原大宮神田屋布、ゑんのう、善徳寺、高国寺の城、長久保、にら山、山中、新条、深沢十ケ所余りの城共に、千五百二千加勢をいれをかれ候信玄公は甲府にまし七月初めに毘沙門堂において歌道者を召し寄せられ御歌の会有り関路の月と云ふ題にて信玄公御歌に

 清見きよみがた空にもせきのあるならば月をとどめてみほの松原

とあそばす各々の歌不書候以上

永禄十二年己の七月中は信玄公御内談あり、小田原へ御発向の備へ定めに、関東国、北条氏康の領分、絵図をもつて一戦あるべき所々を考へなされ候に、一戦はたらきの後は、小田原より、箱根へかゝり、三島へ出るかそれに敵城ともあまたあれば、みませとうげ三増峠又味増峠ニ作ルをこし、甲州郡内へ出づるか、いづれにはたらきとふり給ふ路次は御帰陣に、あやうく候と、御談合にも、みまぜすぢは敵城つくゐ築井の城、一ツならで是れなしとありて十が九はみまぜ海道を御帰陣とさだめらるゝなり、高坂弾正は、川中島へ帰り十月に成り候はゞ越後口のおさへ、多くいるまじく候、二三千指し置き、馬場美濃守、真木の島に残し給へば、信州の事はあぶなげ無之候間、弾正手前の同心被官に、河中島四郡の弾正相備、其外信州にのこしおかるゝ者五六千も有るべく候、其衆合せて七八千の人数をもつて支度仕り、みまぜにおいて信玄公合戦なされ、はぐれ候オープンアクセス NDLJP:136はゞつく井の城に押へをおき、氏康とみまぜにて、又御対陣なさるべく候、其時高坂弾正、甲州郡内より、深沢すぢをおし出し、深沢足柄の両城をがぜめにするか、さなくはおさへをおき、小田原へ弾正、はたらき候はゞ、みまぜの合戦は信玄公御勝利うたがい有るまじく候追手の一戦、武田の理運ならばからめて小田原発向の高坂弾正も引きとること、子細有るまじき儀と評議被成候、高坂弾正申すは小田原迄の深ばたらきは、思し食しとゞまりなさるべく候、其子細は十年先き庚申に、越後輝虎に、小田原へおしこまれ如此いたし候はゞ、謙信をうちとめ申すべき物をと、明け暮れせんさく、大将家老ともに可存候其上謙信は上杉の侍大将とも一味仕り氏康は、伊豆相摸ばかりになられ候、此たびは武蔵、下総、上総殊に謙信と、氏康無事に候へば、東上野も、北条方にて候、信玄公御人数、方々おさへに御置きなされ定人数二万内外御座候、此勢ばかりをもつて、敵の内に、味方申す者もなきに、信玄公より、大身の居城へおしつめ、勝利をうしなひ給はんこと、十の物千にて候、信玄公当年四十九歳に御座候て跡強敵大敵に、一度も負け給はずして、利運に被成たるほまれ、皆水にあそばし候と、高坂弾正たつて申上候へども、信玄公御承引なくて、郡内の侍、小山田兵衛尉には郡内よりすぐに、武蔵の八王寺へはたらき出で、滝山において出合ひ申す様にと被仰付八月廿四日己刻に信玄公甲府を御立ちあり、小田原おもてへおもむき給ふに、北条家持ちの城々二三のくるわ、せめちらし、まきほぐしては其城もち分を焼きはらひ、又は少しも手を付くべからずと被仰付城郭もある事大かたひとつまぜ也さ候て郡内の小山田兵衛尉、武蔵堺上野原に相備の、加藤丹後を指し置き、兵衛尉手勢二百騎、雑兵共に九百の人数をもつて、武蔵の内源蔵殿領分、八王寺へ、はたらき出る、こぼけ坂を打ちこし、物見を越し候へば、とゞり小仏。戸取山と云ふ所に、北条陸奥守殿両おとな、布施ふせ出羽では横地よこち横地監物三百騎、雑兵とも二千の人数をもつてあひさゝゆる、小山田兵衛尉、此のはたらき是非手柄を心懸け候へばこそ、出陣前に、富士浅間大ほさつへ願書をこめ候ほど、いさみたるしるしに懸て、一戦を遂、地戦の陸奥守衆、しかも弐千に余り、小山田衆に一倍よりおほき敵に勝て、雑兵ともに弐百五十一人北条衆を小山田かたへうちとる、本の侍を三十二くびをとる、中にかなさし平右衛門一本ニ金指平左衛門トアリ、野村源兵衛、両人はさいはいを手にかけたる侍なり如此の頸帳をしたゝめ、武蔵の滝山にて信玄公御目にかゝり敵はじめより又敵初めよりヲ秋初めよりトス、甲府において、御そなへさだめの首尾を、小山田兵衛尉あはする、然れバ馬場美濃守は、信州御留守にと定め給へ共、小田原御発向、心もとなく存じ、真木の島には七十騎残し置き五十騎つれ、松山にて追ひ付き奉り信玄公へ申し上るは小田原御はたらきは、一入おもしろく御座候はんと存知、御法度をやぶり見物に参りて候、但し信州まきの島城は堅固に申し付けて、御跡をしたひ参じ申し候とあれば、信玄公殊の外御大慶なり、かくて北条陸奥守居城滝山へおしよせ、四郎勝頼公を大将分にさだめ攻させ給ふ、北条家の衆、跡より来るべき押へには、逍遥軒を大将分にして、山県三郎兵衛を置き給ふ、内藤、真田は、小田原筋の手あてに被仰付信玄公御旗本は、はい島森の内にそなへを立てらるゝ滝山の城三のくるわをせめちらす陸奥守二のくるわ二階門へあがり、さいはいをとつて、こゝをさいごとふせがるゝ、其日四郎勝頼公、御年廿四歳、若気故、自身かま鑓を執て、陸奥守ふせぎ給ふ、二階門の下迄追つゝ、返へしつ、三度せり合あるに、三度ながら四郎殿鑓をあはせ給ふ、其相手は三度ながら諸岡もろをか山城といふ、陸奥守内大剛の者なり、信玄公聞し召し、小田原よりまへにて四郎典厩てんきうなどうち死あれば、いかゞと被仰早々滝山をまきほぐし、つし、小山田、二つ田、きそ一本ニきそを三曽トス、かつ坂まで陣取り給ふ殊にかつ坂に、明日相摸川うちこす跡のおさへ衆山県三郎兵衛、小幡尾張守、真田源太左衛門、同兵部介兄弟一手なり、此三頭川こす時の警固なり、御さきは内藤修理、小山田兵部尉、足田下総、小山田備中、安中左近、保科弾正、諏訪殿諏訪五郎、相木市兵衛、栗原左兵衛、板垣殿板垣三郎、四郎勝頼公、此十一頭は先き衆なり、二の手はあさり浅利式部亟、原隼人、跡部大炊介、三は御旗本組衆、兵庫殿、諸牢人二百騎余り、井伊弥四右衛門、那和無理之介、五味与三左衛門、是れ三人牢人頭、兵庫殿兵庫介信実につく、長坂長閑四十騎、小山田大学三十五騎、下曽根二十騎、大熊備前三十騎、御旗本一手になす、御跡備へは、逍遥軒、一城殿一条右衛門大夫信龍海士尾あまを五十騎、白倉五十騎、余田八十騎、大と一本応戸ニ作ル十騎、是れは逍遥軒に付、合六頭なり、典厩様御旗本前備へ衆、市川宮内介三十騎、駒井右京進、外様とさま近習五十騎の頭、典厩馬場美濃守と一組におす、さてさがみ川を越すに先き衆は当麻、二の手は磯辺御旗本は新道跡備へ、はさま、小荷駄奉行甘利殿衆は、米倉丹後、畠加賀、両人下知に付き、新道をこして諸手へ小荷駄をくばる、川越へてより、小田原までは、山県、小幡、真田兄弟、是四人は跡を機づかい被成ために惣人数跡をおす、相摸川を左にあてゝ、岡田、あつぎ、かね田、三田つまたに陣取り給ひつぎの日は田村、大かみ八幡、平塚に陣どり、それより、かりつ、前川さかわ迄よせ、次ぎの日は、小田原へおしつめ給ふに、加藤駿河末への子他名になり初鹿伝右衛門差物にオープンアクセス NDLJP:137香車けふしやと云ふ字を書きたるに信玄公御無与なされ候、其時さかわの川出たるに付、伝右衛門に瀬ぶみを被仰付候伝右衛門其歳廿五歳なれどもはしりまはり、才覚ありて此人時代には、小山田八左衛門、初鹿伝右衛門とて、信玄公御旗本に若手の者なれば、酒勾わかはの瀬ぶみよく仕り候、それより武田勢惣ごしに、酒匂を越し小田原へみだれい入りすでに四門蓮池と云ふ所までおしこみ、内藤修理同心、木部駿河、侍田兵庫、かんな図書、寺尾尾豊後あくつ阿久津大学又荒津トモアリ大学、くほ島、矢島、長沼、やぎ原此九人鑓を合せくびを取候諸手に手柄の武士多といへとも修理、上野の蓑輪に、在城して、一の御先を被仰付右の九人の内藤衆武辺は小田原の大手四ツ門蓮池の手柄なれば、一入其名高し、其時馬場美濃守より早川弥三左衛門と云ふ者を使にして、内藤修理殿へなぞをかけらるゝ、いとげの具足、敵を切る何、内藤則とかるゝ、小太刀、馬場聞て、本手よりは、まし也と誉らるゝ是は馬場美濃も、内藤修理も、ひごろなぞずきにて如此、使の早川弥三左衛門、ゆきもどりともに、鉄炮手二ケ所おい申候、就中小田原、悉く焼払ひ、信玄公は、波打際を押通り、早川口を右にみて、湯本の内かざまつりに陣取なさるゝ、去程に、小田原町屋の事は不申、侍衆の家、皆焼つるに、松田尾張守屋布はかり残りたるを、信玄公きこしめし、我が屋敷ばかり、やかせざると、松田尾張ゐんげん申べきこと必定なり、是をやき残したるを機にかけて、信玄公被仰、そこにて馬場申は、此度某は、信州御留主居に定めらるれども、御法度をそむき、小田原御陣見物に参り候へば、御旗本前備に罷有、何事にも搆申さず、客人にて候客人分に、松田屋敷をわれらやき申べく候と被申上信玄公きこしめし馬場美濃此度はたゞ五十騎召つれ候に、跡によき者をあまた置き、若き者ども、四五十騎にてはいかゞと被仰、馬場左様にはいへども、ならずはもとの物と、思召候て被仰付候ば惣手より萱木を、侍一人に一把づゝ、馬場美濃かたへ、もちてより、馬場にわたせと御意被成候へと申に付、むかでの衆或は二十人衆頭、御中間頭に、ふれさせ、即時に萱木を持よる、小田原町やきはらひたる道筋、ことに城より出る所を勘弁し、今の萱木をつませ、貝をならし候こゑをきゝ候はゞ火を付よと奉行に置者共を、一所へ呼ひ、其理究りくつを申をしへ、馬場美濃守は、馬乗十騎、足軽三十つれ候て、松田屋敷のきはへゆき、鉄炮をうち候へ、共屋敷に人ごゑなければそこにて貝を吹き立、口々の萱木に火付させ、少ありて後、松田屋敷を悉く火をかけやきはらひ申候、馬場美濃がてだてを、信玄公御悦喜被成候なり以上

信玄公小田原表利運に被成十月六日に、引取給ふ事、四郎勝頼陣がりを被成候て、田村大かみと云ふ所に陣取、鎌倉鶴ガ岡へ社参有べきとのさたなり、是を小田原氏康父子まことゝ思ひ、信玄鎌倉へ越候はゞ跡よりとりつゝみ、武田勢を一人も残さず討取申べしとて信玄公、のき給ふに北条衆小田原を出てくひとむる事なし、さありて信玄公みまぜすぢ三増合戦の様子を、在々の生捕に問給へば彼到下を取きる衆は、北条陸奥守、同舎弟安房守、其外おし衆、須谷衆、江戸川越衆、碓氷、さくらこがね、岩付玉縄の、北条上総守如此、北条むねとの侍大将都合弐万あまり、みまぜ到下を取切居申候由、信玄公聞召し、さらば見まぜへおしかけ候へ、子細は氏康父子ゐられてさへ信玄と一戦なりかね申べきに、まして家中の各ばかりをもつて、合戦なるまじく候、若し防戦彼等斗にて仕候はゞ、信玄勝利うたがひあるまじきとありて、七日にみまぜへおしよせらるゝ、惣手の小荷駄あとの小田原ぜいをきづかひ、惣軍左のかたを、かね田といふ所迄、おしかちにまいれと、小荷駄奉行甘利殿衆に被仰付故、そり田、つま田迄はやめて跡をまち候間に、陸奥守内、設楽越前父子、物見にいで、かね田のうしろ、谷の上より静かに物見を仕る、甘利衆の覚の武士八騎、米倉丹後、江田加賀、田中淡路、井上文左衛門、水野四郎右衛門、佐々木十左衛門、木内六郎左衛門、青木弥惣左衛門此八人馬をはやめて、中津河を乗こし、牛飼と云ふ所へ、坂をのりあげ候をみて、設楽したら越前親子馬をはやめて迯る、八町斗りおひて甘利衆八騎も帰る、其後信玄公見まぜへつき給へば、北条衆は、陣屋をあけ中津川をこし、はんはら山半原山へ落る、信玄公内藤修理をめし、小荷駄奉行を被仰付内藤申は、われら上野の郡代に指し置なされ候へば、関東むきの御はたらきにかゝる、御さきひくに、殿しんがりと有事は、弓矢の作法にて候に小荷駄奉行の儀は、めいわくなりと申候、信玄公被仰は、先年北越の輝虎、小田原へ発向尋常に仕候へとも分別うすうして、引時敗軍するは、第一に小荷駄を切くづされて敗軍なれば明日の小荷駄奉行、信玄が仕度と存ずるなり、馬場美濃守は、たゞ五十騎つれてまいり候へば、是はあまり小勢なり、うしろの甲州へとをる路次五町斗に、敵のもちたる、つく井の城津久井ノ城あり、一本ニ明日の小荷駄奉行ハ軍の先をするより辛労なりとの仰によつて修理異儀なく御請申上る偖七日の晩御中間頭を以明日の一戦ハ氏康父子の旗本を見付ざる以前にハ必らず無用たるべきと御先業へ触られ同八日にハ信玄公かねて御定のことく小幡尾張ハ五百騎の内を三百騎留守に置二百罰にて来る故雑兵千二百の人数を以て志田沢上の山を岨伝ひに沼へをしとほり津久井の城をおさゆる其跡に山県押候へバそれに続いて随分乃士大将七頭も遊軍とありて志田沢の上を通りにろねへ出それより云々トアリ明日の小荷駄奉行は内藤修理、小荷駄奉行なり、小幡尾張守のまと云ふ所へ引こしつく井の城のおさへと被仰付小幡は五百騎の大将なれ共、信玄公御意をもつて、留守に三百騎をき、二百騎つれ来たる故、雑兵共に千二百の人数をもつて、つく井をおさゆる、山県三郎兵衛をはじめ随分の侍大将を、八頭ゆうぐんとありて、真田沢のうへをとをり、にオープンアクセス NDLJP:138ろねへ出て、それより真田沢へおりかへして、敵の後ろよりかゝれと被仰付みまぜ到下筋は浅利なり味方右の方は、栗沢、ふかほりを、右にみて、かへせば二つの沢を左にあてゝ備候へとて、これをば小勢なれども、弓矢功者のよき名人故、馬場美濃守に被仰付美濃守二の手は四郎勝頼公と定め、殿しんがりの浅利備、会根下野検使にこし給ふ、馬場美濃備へ、真田喜兵衛をこし給ふ、勝頼公御備は、三枝善右衛門をこし給ふ、残りは御旗本組共にのけて、十五備夜中に、みまぜの山にあがり、御定のごとく御旗本弓手馬手、うしろに五備づゝたてべく候、典厩は小荷駄奉行の内藤修理、さてはゆうぐんの山県をはじめ各よき所へ首尾するを見定め典厩仕る相図の貝、小族次第、三手の殿がりかへして戦はじめよと、八月はじめに甲州にて、関東国の絵図をもつて、大方諸侍大将の定なり、七日の晩、御中間頭先衆へふれに、明日は北条氏康父子のはたもとを見付ずは、一戦無用とふれ申候

十月八日には、信玄公かねて御定のことく小幡は志田沢、上の山を岨伝そはつたひひにぬまへおし通る、其跡につき山県おさへ候へは、山県につき七頭も岨づたひにおす、小荷駄奉行内藤は能小荷駄をすぐり、みまぜ坂の道の脇を上る、信玄公は御旗本組共に十六備を高き山へあげ、みまぜ到下を、左にみて備被成候関東北条家の衆弓矢のつもり、うはきにさたある、度々戦ひ候へ共、氏康公より大敵にても、よは敵つよてきにても少敵にあひつけ候故、小幡山県がふまへ所ありて、岨づたひに押をみては、おひつめられ候故、二三町道へさがるを、をそく思ひ道もなき所をゆきて人数をたて信玄の山よりつたひて、にがし申べきとの事なりと云ふ、内藤が道のわきをよき小荷駄あぐるを見ては、もだへこがれて、我意地ましに、にぐるとさたして、北条家の衆きそひかゝつて武田勢をくひとむる、北条家にも玉縄たまなはの城主、北条上総は弓矢功者なれば、かさつになくて、氏康父子旗本を、いそぎおしつけ被成よと、はや馬をもちて、使を越し候、信玄公弓矢を取て我朝に多く御座なき名大将にてましませば北条上総か備よりはや馬乗、二騎あとへゆくを御覧じ、氏康父子にいそぎおしつけられよと云ふ使なり、敵の内にも、北条左衛門太夫、本意の弓矢功者なれば、旗本の後ろだてなくして、合戦なるまじきと申儀ならんとつもり給ひ、一戦をいそぎ度思召候へども、山県をはじめゆうぐんの八備を、にろねより、志田沢の道へおりておしかへり、ちやうしやの首尾長蛇ノ首尾あふ事、おそき子細は、八かしらの人数、五千あまりなるをもつて、かくのごとし、然れどもよき時分におしつけ、山県三郎兵衛備さきのみゆる時に、小荷駄奉行、内藤修理方より、寺尾豊後を使にして馬場美濃守かたへなそかくる待よひに更行ふけゆくかねのこゑきけば、あかぬ別の鳥は物かは、馬場美濃守則ちとく車牛はなれ、牛遣もどるなり、扨又山の上より信玄公御覧すれば北条陸奥守備より白き羽織きたる武者、一人先にすゝみ、勝頼備にむかつてかせぐ様子、一段見事なり只今軍はじまり候はゞ彼の武者うち死仕べく候間、四人勝頼備へゆきて、一人は彼武者と鑓組一人は勝頼衆に、此衆をうつべからずといへ、二人してわきうしろよりくみ、生捕いけとりて参れとありて、弐十人衆頭伊藤、其番あい川甚五兵衛二人、御中間頭原大隅、石坂勘兵衛以上四人如御意に仕り、軍始まると同時に、彼武者を生捕白手巾のながきをもつてしばり、信玄公御前にひきすゆる其名を尋被成候へば、北条陸奥守内、大石遠江とて大剛の武士なり二年甲州に罷有小田原と御無事ありて三年めには北条家へ帰る殊更其合戦山県三郎兵衛を始め、八備五千余りの人数敵の後ろへまはし候、此時に馬場美濃、山の上、典厩のあひづをみて、さいはいをとりて返す、勝頼公横入に被成候然る所に左の侍大将浅利、北条上総衆に鉄炮を以て馬上より、うちおとされ、即うち死、浅利人数みだるゝ所を御旗もとよりの御検使、会根内匠申やうは、検使は此時なりと備しづめて内匠大将になり、一戦して北条上総衆を追くづす、馬場美濃備への御検使、真田喜兵衛、馬場美濃備への一番鑓を仕る、馬場同心去る夏八幡だいらにて鑓を合たる、とび大弐弟、二位と申根来ねごろ法師、旗本衆の二ばん鑓はいやなりとて、鑓をなげうち、刀をぬき、場所にて敵のすねをはらひ或は頸骨をはらひ、八人きりたをす、さありて北条衆、はたらき、不自由なること、北条衆の備所に、栗沢ふかほりなどゝいふ、切所にて、みかたとし、すぐるはたらきならず、其上後よりかゝられ、こんらんして、がけへとびおり、中津河原をわたり、大方半原はんはら山へにげあがる、北条衆をうちとる其数、雑兵共に三千弐百六十九の頸帳をもつて東道六里こなたそり、畠において、かち時を執行なされ候、永禄十二年已巳十月八日、相州みまぜ合戦とは是なり、氏康父子荻野と云ふ所迄おし来り給へ共、北条家先衆敗軍をきゝ、則時ひきかへし、あしにて小田原へ引入給ふなり、信玄公被仰は、北条氏康当年五十五歳、信玄に六の兄なり、某より時代少先の人にかち候へば、一入信玄本望なり、信州村上義清同国小笠原長時、信玄より歳ましといへども、是は氏康十分一より、うちの少身なれバ此度みまぜ合戦信玄年月念願の勝利満足なオープンアクセス NDLJP:139りと被仰さう甲府へ御帰陣なり仍如