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甲陽軍鑑/品第卅三

 
オープンアクセス NDLJP:124甲陽軍鑑品第卅三

一信虎より信玄へ異見事 一小幡尾張守本意之事  一上野松枝城せめ事付じよう之伊庵の事  一箕輪城攻の事付城の伊庵大熊はたらきの事  一上泉伊勢兵法修行事  一山本勘介さげすみの事  一飛弾越中働之事  一義信逆心之事  一雪隠を山と名附事  一甘利左衛門落馬の事  一秘蔵大将四人死する事  一飯富兵部御成敗之事付雨宮十兵衛被召帰事並義信自害之事  一富士願書事  一三好公方光源院殿奉討事  一越中働之事  一縁者組之事付古典厩御子息事  一信長息女勝頼祝言の事付信長より進物之事付方々国々使之事  一信虎より書札を被遣事  一輝虎和田城せむる事付横田十郎兵衛手柄事  一東上野新田足利働事  一連歌事  一越中江出馬之事  一甲州勢氏康勢於前橋之城輝虎事  一信長より信玄息女所望城介殿と縁辺事付信長より音信并息女進物之事

永禄六癸亥年正月七日遠州懸川円福寺と申律僧宗の寺より出家一人きたり長坂長閑に付て信玄公へ申上る御父信虎公今川氏真公の御機に違なされ春中に都へ御上り候其儀に付て信玄公へ被仰渡事候間少身なる侍の信玄公御心やすく思召し、如何もしまりたる分別ある者を一人此僧と共に御越し候へと有儀にて日向源藤斎を正月十三日に被仰付其日に甲府をたゝせ遠州懸川円福寺へ指越なされ候、源藤斎十七日に懸川円福寺に着き其夜に信虎公御目にかゝる信虎公被仰日向源藤斎と名乗何者ぞと御尋ね有源藤斎申日向大和が親類にて候信虎様甲州御牢人の時分二十六年以前は我等奉公もいたさず日向大和にかゝり歳廿のうちにて候元来は信濃本国にて候と申上る、信虎公聞召縦へ何物にてもあれ信玄の心やすく思はれ候はゞくるしからず候とありて被仰は信虎信玄にだしぬかれ如此体になり四十五歳の時より当年まて二十六年の間今川義元に扶持をうけ当年はや七十に成り義元存生の間は信虎甲州にゐる時のごとくに会釈ありて今川家の侍衆御舅殿と信虎をあがめ申つれとも四年さき庚申五月十九日に義元討死の後子息氏真信虎を祖父の会釈にせず候故去年戌の春までは駿河に有つれ共夏中此円福寺へ移りてあり又信虎牢人の次の年駿府にて男子一人持て候、義元是をも小舅の会釈にいたされ騎馬を二十預り武田の上野守と名乗当年二十五歳になる此上野守十六歳の時まふけたる子我等名を付候に信玄にあやかる様にとて勝千代と付候此子当年十歳に成候、上野父子にすごされ此円福寺に去年より居候へば三浦右衛門と云ふ氏真の出頭人さゝへて上野父子まで、氏真の言葉も懸られず候間信虎は三日の内に上洛仕り都の辺に居申べく候公家の菊亭殿に上野妹当年十九歳になるを義元存生の時祝言させ給ふにより菊亭殿信虎聟故是へたより都へ上り候然は上野信玄の弟なれば是父子共を懇し給へと信玄へ能いへと源藤斎に被仰付

其夜半過にみな人しづまりて信虎公源藤斎をめして被仰信玄に恨有といへども過候て久しき事なり又信玄の道理も万々多し其儀はよきうへにも能くあれかしと存て、折檻仕れとも信虎みなちがひなりと思ふ子細は今信玄のほまれ名たかく聞へ信濃みな手に入て飛弾国上野国までも一両年の間に治るべき様にさたをきけば信虎が祝着是にすぎずと信玄へいへと被仰源藤斎かしこまりて候と申上る

其後信虎公被仰は今川の家十ケ年の内外に滅却有べき子細は上方牢人武藤と云ふ武篇の義仮初にもしらざる利徳バかりの役に義元の申付られたる町人半分侍半分の者あり其子うまれつきよきとて氏真の御座をなをさせ三浦右衛門と名づく氏真は皆彼右衛門がまゝになり霜月極月にも右衛門が所望なればおどりを七月のごとくにおどらせ扨又五月の菖蒲斬を七月すへまでたゝきあはせ能猿楽、遊山、月見花見、歌、茶湯、川漁、舟遊、あけくれありて民百姓をたゝきはり久敷家老今川一家の衆にも、つふりをあげさせず殊に遠州井伊の一本ニ井伊のヲ飯尾トスが跡を三浦右衛門が望み今川一の家老朝比奈兵衛尉をもさこへ地下も、侍も氏真をうらみ候事此三浦右衛門がしわざ也、彼右衛門義理をしらぬ者とみへて、義元の手付られたる女子に菊鶴とて近習四宮右近が妹をしのびて妻女にする事、義元討死の年中より此如それをもおそれて氏真にしらする者なし、さやうの事信虎氏真へきかすべきとて我等を右衛門にくみ候へば、右衛門が気に入とて、なごやの与七郎と云ふ者我等を甲州の武田がうやく入道と名附候是と云ふも本は氏真の心得悪きわざなり、氏真廿三の時父義元を旗下の弾正が子信長に殺され、はや四年になり当年廿六歳に氏真年をひろひても父のとふらひ合戦する心ばせ夢にもなし氏真も臆病にはなけれどもたゞ心がけなき故西国にて大内義隆関東にて上杉則政扨は今川氏真なり殊更三河岡崎の城主今家康と云ふは当年二十二歳になるが義元のかげにて岡崎へなをり候へ共氏真をみかぎり今川敵の信長と入魂してたがひに罰文をオープンアクセス NDLJP:125かきていひ合信長に六数事あらは家康すけ蔵人家康に大事あらは信長すくべく候とて、すでに家康が当年五ツに成総領子を聟にと約束して元康をひきかへ家康に成、四年巳来三河国を切てまはり候を氏真にきかせ今川家の年寄より家康にことはりをいへば、今川の御恩にて岡崎へ帰参いたす事父広忠いま共に二代なれば少も今川家に対し奉り如在じよさいに存候はゞ御罰のたり申べく候、爰許にての取あひは所領の堺問答仕り候、信長と入魂はうちわをみすかし義元公のとふらひ合戦氏真公なされ候時の為なりとて家康弟を人質にわたし、駿河の使山中のあたりを行時分にはたらき氏真をあがむる者共を連々にきりしたがへ候を今川家の年寄大事に思ひ氏真公にいさむれど家康がめのと酒井雅楽うたの助と云ふ者工夫の能故か成瀬藤五郎とて口きゝの利根なる侍を一人、三浦右衛門所へつけ置候間、氏真と家康ともとのごとくなり候此体ならは家康と信長組三河遠州駿河三ケ国は家康信長にとられ結句敵の方より今川家をやぶり申べきほどに信玄能く分別して右の三ケ国を取給へ若し舅なれは北条氏康今川氏真をすけらるべく候但し氏康子息氏政信玄のむこなればそこの程は信玄の定て分別有べく候と信玄へ申せと被仰付候源藤斎申は信玄様万事御念入候間口上バかりをもつてはいかゞに御座候、信虎様御一筆を被之候様にと申、信虎公被仰は文にていふならば其方をよぶべきか必ず書物は大事の儀にせぬ物をと被仰源藤斎申は、さらば信虎公御判を一ツ御すへ被下候はゞそれを御目にかけ証拠にいたし御憶意申上べく候我等諸国へ御使に参候へ共何たる御てたての御吉事にも信玄公はふまへ所のなき事をば少もまことになされず候と申上るによりそこにて信虎公御直判を日向源藤斎に御渡し被下候次の日逗留いたし十九日には信虎公円福寺を御立あり御上洛なり源藤斎は二十日に懸川を立安部川出安部川出ハ出水ナルヘシ候間廿五日に甲府へ着き則ち信玄公へ信虎公御判を御目にかけ件の儀言上申に一切御取あひなきやうにて被仰は信虎公の御老耄にて皆いたづら事なり必ず源藤斎取さた仕るべからずと御機嫌あしきやうなり信玄公は善悪は善事々儀不儀、勝利不勝利となり仍如

永禄六年癸亥二月十二日に信玄甲府を御立ありよぢたうげをこし、なんもくへ御着あり小幡尾張守をめして問給ふ其方あひ聟と聞く小幡図書助は如何様なる気たての者ぞと被仰尾張守承り図書助武篇の儀疎畧の侍にては無之候へ共少の事にもあわてたる形義の者にて候と申上る小幡図書没落信玄公被仰扨は仕様ありと被仰内藤修理少輔に被仰付小荷駄一疋に挑灯二ツばかりづゝ結付馬負にも一人に一ツづゝ焼松たいまつもたせ旗本にて掉のさきに挑灯を附火を立あぐるに付ては小幡尾張守本意ノ事其方請取の小荷駄共に火を立させたかき所へおいあけさせよと被仰付摠人数を、松枝、簔輪、安中、三方を手あてなされ陣とらせ御旗本は、脇跡備バかりを以て図書助かたへ手あてゝ陣取夜に入あひづの火を旗本にてあげ給ふをみて内藤請取の人馬の火をたて、たかき所へ追あげときのこゑつくり候へば小幡図書助おどろきさはぎて遁おつる其下の者共方々へ遁るを押おとし武田の家の悴者小者歩者まではぎ取て其うへ、図書助が居城にて、次の日まで乱取おほし、左有て小幡尾張守昔のごとくくにみねの城へ帰参して前代の所領本地被下候故上野に小幡尾張守、信州に真田弾正入道一徳斎、是両人は信玄公の御譜代同意に御為を存奉る就其信玄公右両侍大将を御心やすく思召なり、小幡尾張守やうすありて、上総守になされ小幡上総守と名乗事永禄十一戊辰年より如此候以上

同二月廿六日に松枝城へ飯富兵部少輔、浅利小、宮山丹後守三頭に御旗本足軽大将城伊庵弟忠兵衛、原与左衛門、市川梅印都合六頭を以て押よする安中の城へは、甘利左衛門尉、小幡上総守二頭に旗本より足軽大将原美濃守、曽禰都合四頭、押よする、簔輪の城へは内藤修理少輔、飯富三郎兵衛、郡内の小山田弥三郎、馬場民部助四頭に、簑輪の城をおさへさせ扨て又安中左近は降参いたし候へは、御ゆるし被成甘利左衛門尉奏者にて御礼申上城を指上る、松枝安中越前は城をわたされずして、二のくるわまで入候へ共越前守降参申さす候然れとも平尾と云ふ侍、信玄公の御意にちがひ松枝の城へこもり旗本足軽大将、城の伊庵と鑓をあはする扨て又松枝、安中越前押つめられ降参いたすといへとも、はやく詑言申上ざる故城をば請取、安中越前御成敗なり、松枝の城には小宮山丹後を指をかるゝ、安中左近は父越前御成敗なれ共左近早々降参申、城を差上候に付て、安中の城を本領共に被下殊に甘利左衛門尉妹聟に被仰付候扨て小宮山丹後守跡、諏訪の郡代に、市川宮内助を差置るゝ也

簔輪の城信玄公惣人数、弐万をもつて、もみくづし被成候其節城伊庵、簑輪の城追手において日の内に両度の鑓を合せ二度の鑓に一入つよきといふは鑓の柄のたをみたるを我ひざにておしなほし出る敵をまちて鑓をあはする是を信玄公御覧せられ候、伊庵手を負候弟忠兵衛討死する、扨又飯富三郎兵衛下にオープンアクセス NDLJP:126ては越後牢人大熊と云ふ侍其日大剛の働故敵の中へ入まじりよき武士とくみうちするとて敵に指物をとられくみふせたる敵の首をとり其後おいかけ差物を取かへし帰りたるを是も信玄公御覧有故、御陣ひき候へバ御感状を被下馬乗三十騎足軽七十五人預け給ひ女房出頭人、小宰相聟に被仰付候則受領させ大熊備前に被成旗本足軽大将になる 全集ニ△同法男寺虎口にて山県同心尾州牢人猪子才蔵敵城蹴出しあきしやうの尺乃水際へ付て鉄炮にて胴を打抜き伏居たるを敵頸を捕べしとて既にじやうをあけて突て出たるに傍輩乃三科伝右衛門押て鎗を合る広瀬江左衛門は猪子を引懸五六間跡へ帰才蔵が被官に渡しじやう際へ戻り則二番鎗を合る此時信玄公〈[#直前の「信」は底本では空白]〉御感状三科に下さるは其方一人の走回を以数千の味方を相助候と被遊知行五貫の御加恩なり又広瀬ニハ其方大剛成覚悟の義を以能武士一人敵に討取らせず予にくす候其ト帰て三科を助鎗を合両人にて敵を鎮め堅固に立退こと既に一日一時一場に於て両度の走回諸手に勝たりと被遊是も知行五貫の加恩なりトアリ中簔輪落城して長野信濃守女房子共悉く御成敗なり、さりなから信濃家中にて武篇覚への武士を二百騎召かゝへられ内藤修理に被預下簑輪の城代に指置るゝ修理はじめ五十騎といまの二百騎と合二百五十騎の同心に、手前被官共に三百騎の侍大将となり簔輪に在城して西上野七郡の郡代仕り、新田足利武蔵筋の御さきは内藤修理少輔なり西上野七郡に七年かゝり被成候は長野が故なり

長野信濃守大剛の武士といひ地戦には千騎の侍を持候故、簑輪の城信玄公三十七歳の時より年々はたらき給ひ四十三歳にて七年めに簔輪御手に入是も三年以前辛酉の年信濃守病死して廿より内のせがれの代にも三年もち今度落城にも信玄公の衆に手負死人多し此儀は長野信濃守家中の侍衆能武士ども成故如此信濃守衆二百騎あまり召をかるゝ中に上泉伊勢と申者も武士ほまれおほき侍なるか、此者信玄公へ御いとま申上候子細はあひすかげの流と申兵法をならひ得て候間此中よりそれがし仕出し、新陰流とたて、兵法修行を仕り度候奉公いたすにおいては信玄公へ注進申べく候、奉公にてはなく修行者に罷成候と申上る故、御いとま被下也殊更上野侍大将衆

一たゐら  一高山  一白倉  一上田  一倉かね  一和田  同兵部介  一五かん  一永 ね  一おうど

皆西上野衆信玄公御被官に成此衆甲府にての奏者は原隼人佐、跡部大炊助、両人と被仰出候扨て信玄公二十三歳の御時、山本勘介廿一年先に如此の儀をつもり候其時分は信州諏訪郡漸く御手に入るかいらざる時分さげすみ申候おしきかな三年以前辛酉の年川中島合戦の時討死する然ば西上野去年戌の秋作毛よくして、簔輪、松枝其外方々小侍のかきあげ屋敷にあがり兵粮沢山あり是を武田の諸勢に、三わりの利足をもつて借候へと被仰出諸侍衆去年の春松山御陣において俵子ひやうすかり申たる者に御加恩あり或は悪所を引かへ上納にて被下此度も猶以て右のごとく、うたがひなしとて弐万俵の米を一両日の中にみな借用いたし、くれに御さんようあり信州甲州ともに、其筋諸代官衆へもとこもとこハ元利ナルヘシとも進上申候

永禄七甲子年五月飛弾国半国の前ハ主ノ誤ナルカ、常陸守と云ふ侍大将降参仕り弟坊主円成寺を甲府へ人質に進上申候此出家を江間右馬丞に被成足軽を預られ、御旗本に置給ふ是は飯富三郎兵衛一頭を以て其年四月働き四月中に降参させ甲府へ召れ三郎兵衛奏者にて五月御礼申上る此常陸御さきを仕り飛弾、越中へも一両度信玄公御馬を出さるゝ仍如

義信逆心永禄七子年七月十五日の夜灯籠御見物とありて太郎義信公、長坂源五郎、御乳母曽禰周防只両人御供申飯富兵部少輔所へ御座候て八ツ時分にいかにも隠密の体にて御帰被成候是を御目付坂本豊兵衛横目の荻原豊前能見て則十六日の朝信玄公御山に御座候に山へ参申上る、飯富三郎兵衛御腰物を持取障子の陰に罷有候が御前へ罷出申上候は七月初めより長坂源五郎御使に被成兵部少輔所へ日々義信公より御書を被下候目付横目の衆申上候て後我等披露致すべく候、はやく申上目付横目を御折檻なされ候はゞ我等慈悲かけ申候其上急になさるべき御文体にもなく候御陣に於ての逆心ときこへ候とて三郎兵衛きんちやくより義信公御自筆の御文を飯富兵部方への名付然も合点嬉しく思召との御文体を信玄公へ御めに懸候故信玄公御涙をながされ飯富三郎兵衛よくは思召候、三郎兵衛申上るは、まことに兄の事を申儀いかゞ候へどもさりとては信玄公を討奉るべきとある事は義信公御分別ちがひ被成ての逆心なり其御子細は御父子の間なりとも信玄公の太郎殿を御折檻あり信虎様のごとく余の御子を取たて太郎殿をのけまいらせられ候はゞ逆心ながらも少し御道理も御座候さなくして太郎義信公十六歳の御うい陣には御旗屋にて飯富兵部御具足をめさせ原美濃入道、小幡山城入道、山本勘介入道、飯富兵部四人の衆に信玄公御自身御抄をもつて義信公御さかづきを右四人に被下たるを馬場民部、内藤修理、我等式までも終に信玄公ケ様被成候事見申さず候とて馬場、内藤などは涙をながし申候其後八年の間もいかほど義信公を大切にあそばし候所に川中島御合戦の時より様々信玄を御悪口被成其上逆心をくはだてられ御年も御さかりの名大将をころし申べきと有悪き儀義信公と心を合申候兵部少輔は、兄と申候へとも我等式の為にも大敵かと存候勿論太郎殿御分別ちがひ候はゞ、わかき殿に御異見申上御聞なくは御前にて腹を可仕候に、義信公は御わかげなれば是は偏に我等が兄飯富兵部少輔一人のとが也とオープンアクセス NDLJP:127飯富三郎兵衛証拠を引て義信公逆心の儀信玄公へ申上る、本より御目付横目の者とも念を入証拠を引て申上るはそれにより子の年秋冬は方々境目へそれに加勢をこし給ひ御出陣是なし此儀をば各不存禅宗、済家、洞家、天台、真言の智者たち信玄公と義信公御父子御中なをしなさるべきとあれども御中なほり無之仍如

信玄公は御用心の御ためやらん御閑所を京間六帖敷になされたゝみを敷御風呂屋椽の下より、とひをかけ御風呂屋のげすいにて不浄をながす様にあそばし香炉を置則香箱に沈香をわり入当番の奥衆二人づゝ朝と、ひると晩と定めて今の香炉に火を取、沈をくべたき申候其上今一人の人御意を得状箱のふたにいづれの国郡と書付をみて御意次第に持て御閑所に置候を御覧じ分らるゝ事閑所において実否を御分別被成るなり、殊更河中島合戦の後酉の極月朔日より飯富三郎兵衛、原隼人佐、跡部大炊助三人侍大将番にして御城につめ殊に御閑所へ御座候時は御腰物を持取障子の蔭に其身も刀を差候て罷在なり然は信玄公閑所を山と被仰候故甲州各々山と申候誰人も何と申御ことゝ、山の故事信玄公へ問ひ申人なくして終にしられず候と七ケ年も以前に他国牢人奥衆会禰与市助に山と云事をきゝ候へば与市助申は道理かな、のぼればくだると申は是本手かといひて別人一年もありて奥衆日向藤九郎に、山の事をとへば藤九郎申は道理かなにほふてくだるはしんくさうなりと云ふ其後長坂源五郎にとへば源五郎は道理かな山にはくさきが絶ぬと申小山田彦二郎にとへばにをふ物たへずと申に小宮山内膳申は山のにをひはたき物をねがふぞと申候箇様のざれごとも済家洞家の禅宗へ立入少し禅宗口にづこびて申なり以上

此子の年侍大将に甘利左衛門尉と申信玄公御秘蔵の人三十一歳の時馬にてあやまちをして死去なり、子息三郎次郎幼少の内米倉丹後陣代に被仰付候、なり

大かうのあしがる大しやう原みのゝかみ入道病死なり、ゆいごんに酉の年病死する小幡山城入道ことく金言有川中島合戦に山本勘介入道道鬼も討死す多田淡路去年亥の極月末に病死なり信玄公御秘蔵の足軽大将衆酉の年より子の年まで四年の間に四人死してみな若世になれども子息とも場を引たるほまれ五度十度つゝあり弓矢考へつもりに功の入たる人々多しそれによりて跡のあく事なし信玄公わかき時分は年々大合戦年中に両度もあり今は、はや三年四年たてとも大合戦是なし縦へありといふとも今よりすへは御旗本にて合戦のある事まれなる故場数有ましく候むかし度々の合戦ありて十度のほまれより今一度の手がらは少うへなり各武士の一道まつたく疎略すへからず仍如

永禄八年乙丑正月飯富兵部少輔御成敗被成候子細は

信玄公御若き時分より兵部御呼有時御返事すぐに不申上候事

弓矢の儀にも信玄公もどき申やうに諸傍輩中にて申候勿論老功の家老なればいかていさめ申上儀承引なさるまじき事にあらす候へとも諸人面前において家老にもどかるゝ様なれは諸軍信玄公をかろしめ申べきと思召よき事をも飯富兵部申をば取あげなされざる事

大将たらん者は大敵強敵弱敵破敵随敵五ツの敵にそれの会釈ある所に越後謙信強敵の然も破敵なるに信玄公種々武畧工夫は被成て勝利の分別を信玄弱き様に申事は飯富兵部一人の口より出る事

越後謙信に対し信玄公武畧の分別よければこそ五年以前九月十日河中島合戦に謙信をくれをとり十月越後堺長沼まで備を出し一日逗留し早々引入候其後五年以来信濃へ出ず候所に信玄味方よりは四年以降堺目をこし越後の内をやきはたらき仕る事高坂弾正一人の覚悟にて働く信玄公の御力をかり申さずして如此なるは信玄公御弓矢輝虎よりよはきにては有まじく候

義信若気故恨みなき信玄に逆心をくわだてさする談合相手の棟梁に兵部成候事、此五条御書立を以て飯富兵部御成敗なり太郎義信公其年廿八歳に成給ふ御成敗なさるべく候へとも信玄公よりは御慈悲を加へられ籠舎ろうしやさせ御申なさるゝ其後長坂長閑子息源五郎御成敗なり義信公御乳母めのと曽禰周防横目の荻原豊前に被仰付然もはなしうちに御成敗なり此外太郎義信公の衆八十騎あまりあるを御成敗候て其外は他国へ追払ひ給ふ中に雨宮十兵衛と云侍小田原へ走り三年罷在内七度大剛なる武篇仕北条氏康氏政御父子の御感状七ツまで取て持内に一番鑓とある事四ツなり是によりて高坂弾正信玄公へ申上彼雨宮十兵衛三年目卯の年の暮に召返さるゝ又其年の春三十の御歳太郎義信公御自害なり飯富兵部少輔三百騎の同心被官、弟飯富三郎兵衛に五十騎同心とありて預け被下名字かへさせ山県三郎兵衛に被成事、兄の兵部御成敗のみきり丑の年より如此飯富兵部人数二百五十騎のこりたるを百騎小会殿へ預けられ小会をかへ板垣になさる百騎は跡部大炊介に預被下五十騎は逍遥軒へ遣せらるゝ如

オープンアクセス NDLJP:128献富士浅間

右意趣は徳栄軒信玄息女当病平愈息災延命のときんば

来る六月息女富士峯参詣の事  士峯万山むろにおいてひつそうじゆをうけ五部の大乗経読誦の事神馬三疋献納の事

右三ケ条の旨相違なく社納せしむべき者なり

  永禄八乙丑年五月吉日 信玄敬白

是は五ツに成給ふ織田城介殿へ御約束の御料人御煩の時如

永禄八年乙丑に天下を持三好左京太夫分別ちがひ家老の松永弾正意見に付  公方光源院殿義輝公をうち奉るなり仮初にきくも主君をうち奉るは、いまはしき事なり聞て耳をあらひ逆心を物がたりに申ては其口をあらふべき儀なり以上

永禄八年乙丑六月山県三郎兵衛御先を仕り越中へ御馬を出され飛弾国、侍大将江間常陸守才覚仕、越中の内一郡あまり持候椎名と云ふ侍大将人数三千五百余持候者降参仕り二番目の子幼少成を人質として御目にかけ信玄公を主君とあふぎ奉るなり彼人質勝頼公に御預け被成伊奈にさしをかるゝなり

小幡入道日城息女山城妹小宰相殿とて信玄公御前にて物をよく申上る女房の出頭人有、此人書立を仕り申上候縁者組の事信州伊奈の万歳一本ニ万歳ヲ万西ニ作ルを上野国安中左近とあひむこに被仰付栗原藤三郎三年以前簔輪にて先衆へ御使に参り討死仕たる者の後家は甘利備前守むすこと祝言あり

信州まりこと云ふ侍馬場美濃むすこになる

同あい木市兵衛子息山県三郎兵衛むすこになる

川中島にて御討死被成候古典厩信繁の子息今の典厩信元の舎弟其年十四歳になり給ふを信州望月と申侍、息女と祝言被成則望月跡を御取此比望月殿と申は古典厩信繁の御子息今典厩信元公の御舎弟也永禄八年乙丑九月九日に尾州織田信長公より織田掃部と云ふ侍を甲府へ御使にこし給ひ信玄公へ仰らるゝは恐がましき申事に候へども信長事去申の年駿河義元公の信長をふみつぶしなさるべきとて尾州へ発向あり勝利をうしなひ殊に討死ある其競をもつて我本国夏秋中に信長に随ひ其暮より美濃国へ取懸当年迄六年なれば大方今明年の間に美濃国も信長支配に仕べく候、さ候はゞ信玄公御持の木会郡と、うちつゞき候間在々の往来もたがひに申事なきために伊奈の四郎勝頼公へ信長養子のむすめを進じ度候此女子は信長父弾正忠存生の時美濃国ない木勘太郎苗木と云ふ侍を聟に仕り則信長ためには妹むこ也むかしより美濃国ない木の城に居住候なり彼者むすめを幼少より信長養ひ置姪女と申せ共実子よりは、いたはり候信長息女も候へとも我等当年三十二歳なれば惣領の男子さへ十歳のうちそとにて二十歳に成給ふ四郎殿内方になさるへき息女を持申さず候と種々の信長申されやうありて乙丑霜月十三日にない木殿むすめ信長姪女を養親に成て伊奈の高遠へ御こし入四郎勝頼公は尾州織田信長の聟に成給ふなり又御使仕る織田掃部は信玄公に十一年召つかはれ、五年先辛酉十一月に信長よびかへし給ふ尾州侍、然も信長ふだいの侍なるが、信長十八歳の時気にちがひ十一年甲府に罷在り信長廿八歳の時召返さるゝ、信長公より信玄公へ御使の人は織田掃部、赤沢七郎左衛門、佐々権左衛門是三人は正月、三月、五月、七月、八月、九月、極月此七ケ月は樽肴、巻物、袷惟子殊に信玄公御めし料にとて御小袖一重つゝをば別に武田びしを大きにまきゑしたるはこの、くれないにて緒をしめたるに御づきん一ツ御わた帽子二ツ合三色を是もちいさきまきゑしたる箱に入甲府へ信長御音信申さるゝなり信玄公より信長公へ御使は秋山十郎兵衛なれども一年に一度も御使越給ふ事まれなり日向源藤斎は関東安房国結城、たがや、宇都宮越前比叡山への御使なり、雨宮存哲は近江の浅井備前、四国の長宗我部への御使なり長遠寺は伊勢の長島、河内国大坂惣じて一向宗繁昌の所へ参られ候但し越後謙信へも一両度長遠寺参らるれは謙信ほめてさすか信玄の気に入たること道理かなとて信玄公と無事仕べしと謙信申さるゝ儀両度有りつるが両度なから先ツ長遠寺をこし給へと輝虎より申こさるゝなり仍如

丑の極月二日に小幡山城子息又兵衛を甲府へめしよせられ長坂長閑、跡部大炊助両人を以て信玄公被仰下は父山城をかいつ二のくるわにさしをかれ高坂弾正かいぞへのために如此なるは越後の景虎公強敵おさへのためなり其上信州先方信玄公へ御忠節の侍西条治部少輔、うんのなかづき海野中務、これ両人ちゝ山城むこと被仰付候又御譜代といひながら川中島郡在国の足軽大将原与左衛門市川梅印が子、平左衛門両人をも山城むこに被仰付候は山城に万事指引の異見縁者の衆ともに申候へとある儀は山城オープンアクセス NDLJP:129度々の忠功にて弓矢功者といひ小幡日城二代目めしつかはれ候間御心やすく思召しての儀なり然ば永禄四年酉の六月山城病死仕候間又兵衛を山城ごとくに信州縁者の衆とも舅と存候て又兵衛に儀を得候はゞ高坂弾正も仕置も仕りよく可之候川中島四郡の事は今とても大事の境目なればかならすかいづの二のくるわに父山城ごとく罷あれと被仰付候て所領も同心もまして可下由被仰出候へとも又兵衛申上るは川中島に罷有事迷惑申候と、しきりに御訴訟申候重ての御使にはさあらば所知を召し上らるべき由被仰出又兵衛申上るは身づからざうりをさげ候て成とも、御旗本に罷有り御奉公申上べき由申上候、其後の御使腹を可仰付由御意あるにより穴山小路妙音寺と申法花寺にて切腹可仕候とて小幡又兵衛御本城よりすぐに寺へ参り土屋平八郎信玄公へ申上る、上意なくとも又兵衛独り腹をきり申べく候間我等参り相留候はんとて土屋平八郎其年廿一歳なれとも念の入たる武士故妙音寺へ早馬にて懸け付らるゝ勝頼公より阿部五郎左衛門を付をかるゝ扨て其後勝頼公土屋平八郎殿両殿の御肝煎にて小幡又兵衛御旗本に召しをかれ所領の義は信州において五百貫甲州こゞ井にて百貫東郡において八十貫甲州しづめにおいて廿貫合七百貫同心は、あさを新之丞、長井与五左衛門、遠藤七右衛門馬乗三騎歩足軽十人又兵衛に付られ甲府御旗本に被召置残りは所領同心足軽共に伯父の小幡弥左衛門に被下弥左衛門をかへ山城守に被成高坂弾正に差添へ、かいづ二のくるわに置給ふ小幡又兵衛事四郎殿土屋平八郎殿御肝煎をもつて又兵衛存分のごとくに成申候なり仍如

寅の六月廿四日に信虎公より同年五月五日の日附にて信玄公へ御書被之候其趣は去甲子三月公方光源院殿へ信虎御礼申上罷帰候所に広椽まで御をくり被成候間信虎頭を地に付則申上る武田の家のあらんかきりは広椽まて公方御送りある我家の系図是なりと申上候、然は三好道なき故光源院殿御妹聟に成る御恩を抛ち去年乙丑義輝公をうち奉る左ありても侍のあるほどは公方のたへ給ふことなし其心得有べく候と折々信玄公へ信虎公より被仰越候かのつよくまします信虎公も御父子の間なれば信玄公御吉事の義を折々被仰候とて武田の家老各涙をながすなり以上

同年七月越国の輝虎輝虎和田城攻横田十郎兵衛手柄上野国和田の城へ取つめ、すでに落城とみゆる所に信玄公御旗本の足軽大将横田十郎兵衛加勢に籠り居て我同心足軽の義は申に及ばず和田が者共を十郎兵衛よく下知して輝虎一万三千の人数をもつてせめ給へど城の落ざるは先大筋目城の持やう、手くばりよろしくして其後櫓へ十郎兵衛あがり日来ならひ得たる鉄炮をもつて輝虎旗本のよせ所を見定、よき武者を多くうちおとす中に、謙信の御座をなをす侍をうちころして其後十郎兵衛うつ鉄炮にて謙信もあやうくみへつる故早々輝虎城まきほぐし越後勢退散仕り、和田の城堅固に持さだむること横田十郎兵衛、大剛強にして然も弓矢に能く功者の故なり此年横田十郎兵衛四十二歳なれとも十六歳よりはしり迴り廿七年の間に数度武篇仕すぐれ手をくだきたる働らきあるに付和田の城もちたる儀、人は誉れども横田はさのみ手柄と不存候然は輝虎剛強なる、あら大将と名を取給へども信玄公御持の城を一ツもせめおとしたることなし五年以前松山の陣の時北条氏康公信玄公両旗を敵に仕り謙信一方を以て氏康公御持、山の根の城を無理せめに攻おとし申され候事八千の人数をもつて一日一夜にせめおとし雑兵ともに女童に三千きりすてらるゝに定て其城に、はたらき武士千余りは上下共に可之候今度和田の城には和田兄弟の騎馬三十騎と申せども地戦にて七十騎加勢の横田十郎兵衛卅騎にて、かち足軽百人手前の者ともに馬乗、かち合て弐百余り地の和田衆馬乗り、かちの者へかけて六百余り惣合て九百の内外こもり、輝虎一万余りの人数にせめおとされざること偏に信玄公御武勇さかんに御座候故なり、十郎兵衛は大剛の原美濃守が惣領の子なるを美濃には子ども多きとて横田備中おのこ子をもたざるにより聟にして跡をつがせ原彦十郎を横田十郎兵衛に仕り跡をゆづり候本国は伊勢国牢人、信虎公御代より足軽大将仕り武篇数度のほまれ近国にひゞき候やう父の横田備中にも十郎兵衛おとらぬ足軽大将なり仍如

永禄九年丙寅初の八月二十六日辰の刻に法性院信玄公甲府を御立なされ後の八月二日に上野簔輪へ御着あり同十日に御備定にて十三日に新田足利筋へ御働らき有、先衆は十八手を一筋六備づゝ三ツに分け利根川のわたり全集ニ△焼詰働玉ふは味方旗のてだてを以てなり惣じて小敵二三千の居城へ二万三万は味方にて敵城近く押寄る事危しとて右乃てだてを以て宿城を焼玉ふ兎角二十町共隔たる味方を茶一服のむ間に自由にあつかふは旗なりトアリ三ツの事、ごりやう、二本木、くす、和田三所を越御旗本は中の瀬、脇備八手、両の瀬、後ぞなへ六手も先衆のごとく是は一組二手づゝ三手に合てこし候へと定められ川のこなたに信州伊奈松本侍衆に穴山入道梅雪を大将に被成置給ひ扨て末の道に河などありて一筋の渡りをば味方右の方よりをしわたり其つぎへと被仰付候東上野へ御発向なされ新田足利まて焼つめはたらき給ひて八月すへに簔輪迄御馬を入られ九月中、西上野に逗留まします御もちの城々堅固に被仰付十月十日にオープンアクセス NDLJP:130御帰陣あり以上

寅の十月廿八日に信玄公馬場美濃守をめし信州まきの島城代に被仰付候なり仍如

三河国長沢より香清と云ふ連歌よく仕る人を岡田堅桃、肝煎をもつて甲府へ召しよせられ御扶持被成候香清御礼申上ざる以前に信玄公御発句に、ちぎりあれや春待得たる花の友とあそばして香清方へ被遣是に付百韻の連歌御前にて被成候其朝香清信玄公へ御礼申上るなり

永禄十年丁卯五月十八日に信玄公甲府を御立あり越中へ御馬をむけられ飛弾の江間、越中椎名此両人に彼筋御仕置様子被仰付六月半に信州川中島へ御馬をよせられ越後信州境目の御仕置あそばし、馬場美濃守に被仰付あたらしく要害とり立らるべき堅固の地を見定給ひ八月初に御帰陣あり以上

同年卯の九月九日に小田原北条氏康公同氏政公より甲府へ御使被遣信玄公を頼給ふ子細は北越の輝虎上州前橋の城に居て氏康父子関東仕置のさまたげ仕り候間信玄公御馬を出され氏康父子と両簇をもつて輝虎を退治申べく候由被仰越に付九月十八日辰の刻に信玄公甲府を御立ありて上野へ御馬を出され同廿八日に氏康公と御対面なされ六七日御談合有て輝虎前橋の城にゐられたるに北条氏康公三万五千信玄公二万合て五万五千の人数をもつて十月六日卯の刻より前に打立前橋の城へおしよせ宿町を焼き城の門際までおしこみ早々引取給ふ其日に限りから風いたく吹、利根川を渡るに北条武田の諸人目口もあかず東西更にわきまへず候此色を謙信御内の侍大将衆一入弓矢功者の人々五六人あつまり備を出し信玄と氏康をうちとめ可申候といさめ候へとも、何としてやらん輝虎おくれられ候事十四歳より其年卅八歳まで廿五年の間謙信の是程つゝしまれたる儀はじめてなり、武田の侍大将衆批判に利根川半分こし候時分輝虎衆三千罷出仕懸候はゞ甲州勢は大方うたれあしく取まはし候はゞ信玄公御討死なさるべく候其いはれは風、敵のかたより吹懸放火の烟りに旋風うじかぜまじりて手もと足本もみへず候とのさたなり敵出ざるゆへ何事なく引取たると信玄公の衆は上下ともにかくの分申候扨て又小田原北条家の衆沙汰には輝虎前橋の城に罷在に氏康公御働被成前橋の根小屋をやき然も門際までをしこみたるは八年さき庚申小田原蓮池にて謙信に押こまれたる返報と批判するを武田の諸勢承り内々わらはざるはなし殊更謙信やがて退散故氏康公信玄公十月中旬に何れも御馬いるなり

全集ニ左ノ一項アリ○義信御前ノ事付信勝誕生○同年十月上旬太郎義信三十歳にて御自害也此御前信主公御姪子なれば其儘甲府にまします様にとあれ共舎兄氏真公より御迎来りて酸府へ呼取せらるゝ其翌年武田の領分海なき甲州信州上野へ駿河より塩を留らるゝ相州氏康は氏真の舅ゆへ是へ頼みて武州よりの塩を指留られ武田領の者上下迷惑不及是非然る処に謙信此由を聞召早飛脚を以自筆の御状に承り候へバ近国より信玄を憎み塩を留候由比興非義乃至候謙信におゐて信玄と弓矢に取台可申候塩の義は従御分国大小上下共に手形次第如何程も差越候へと申定候高直の沙汰に付ては此方へ御左右待入候急度可申付候と有之事也 霜月廿一日に織田信長より織田掃部助を使に被成信玄公御料人御とし七歳に成給ふを承及ひ、信長嫡子城介内方ないはうに申請度と被仰越なり武田の家老衆各打より談合して信玄公へ被申上は織田信長はや三十四歳に被罷成候廿七歳の時義元をうち、庚申より去年迄七年の間に美濃尾張を治め今美濃岐阜に居住ありて殊更当年は公方霊陽院殿義昭公を都へ御供申信長の被官柴田修理野村越中両侍大将を都に付置申され候へば信長望み多くして自然何様のはかりことにて信玄公と縁を結び申度と申さるゝも不存候間是をば先さし置き給へといさめ申上る信玄公聞召それは各々異見尤なれども近年信長信玄に入魂じゆこん仕たる儀少も偽にみへず候其子細は信長音信に小袖を送り信玄めし候をば別にいたすと云て入て送る箱を削らせてみるに殊の外堅地にして蒔絵も我家の菱実ひしを同ころ成は町物にてなく念を入態と申付るとみへてあり勝頼と縁者に成べき二年前より如此也と被仰各に其唐櫃を取出させ年々のを見せ給へば御意の如く也信玄公被仰は人の真実不真実は音信にてしるゝ者也一度二度は念をいるゝ共三度迄は主か親のけては其外只の者には重て念を入る事小身成者さへならさるに况や国持は我も人も事多ければ年々此ごとくにならず候信長一年に七度宛定て使をくるゝ夫迚も此方より使をやるならば其返報とも可存候へとも二年に一度も此方より人をやりたる事なきに親主のごとくに信長仕り候上は縁者に信玄と成度と信長存るは一段真実ならんと被仰御合点有て御返事なり、さありて織田掃部長坂長閑をもつて申上るは此上はこまか成儀をも可申上候我等自然隙さしあひて佐々権左衛門赤沢七郎左衛門がまいり候時誰を以て可申上候と申せば信玄公被仰出は高坂弾正に就て申せと有掃部又申上る高坂弾正殿は信州川中島に被罷居候甲府に弾正居られざる時川中島迄参るもいかゝに候少義に大名の弾正を是迄共申悪く候間御膝下にて奏者を被仰付候はゝ其上にても大荒ましの事は高坂弾正殿へ可申候と織田掃部申すに付原隼人佐、跡部大炊助両人を被仰付織田掃部と、原隼人、跡部大炊助を、長坂長閑迄よび引合する也掃部甲府に久敷奉公仕候故両人ながら知人也中にも跡部大炊助は織田掃部、信玄公へ御奉公申時の奏者なり殊更掃部岐阜へかへりやがて其年十二月中旬に御祝言の御樽肴もたせ甲府へ参り御申す時の御祝目出度事なり仍如〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」あり]〉信長より信玄公へ御音信は

一虎の皮 三枚  一豹の皮 五枚  一段子 百巻  一金具の鞍鐙 十口  以上

オープンアクセス NDLJP:131同年霜月初伊奈の四郎勝頼公二十二歳にて御曹司を儲給ふ御母は様田信長公乃めい也信長公仰らるゝハ太郎自滅の後遺跡の子なき所に一入の祝着とて自筆に太郎竹王信勝とあそばし御使者五人は山県馬場内藤武藤喜兵衛土屋平八(是ハ名代として秋山越前を越し候)御一族吉田左近は武田重代の太刀と左と有之安吉乃御腰物を持参也父勝頼公ハ御曹司の守と被仰出御乳母には抜井常陸を付らるゝ但御母は御誕生の刻死去也 御料人様への御音信は

一厚板 百端 一薄板 百端 一ぬき白 百端 一織紅梅 百端 一代物 千貫 一けかけの帯上中下三百筋此外御祝の御樽肴作法のごとくにて御使は織田掃部助なり

天文十七戊申年より永禄十丁卯年迄二十年の事合戦せり合城責万づ信玄公御代之様子大形この上下に書付申候  天正三乙亥年六月吉日高坂弾正四十九歳之時於甲州府中