『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、小幡景憲が江戸初期に著した戦国大名・武田氏にまつわる軍学書である。ここでは内藤伝右衛門・温故堂書店の刊行物を底本とする。
- 底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26.
- Webブラウザ上でキーワード検索しやすくするために、「龍」を除く旧字を新字に変換し、いくつかの異体字を常用漢字に変換している。
- 「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
【 NDLJP:139】甲陽軍鑑品第三十六目録
一高坂弾正みまぜ合戦くやむ事 一相州駿州豆州御はたらきの事 一蒲原城攻の事付岡部次郎右衛門信玄公被官に成事並北条左衛門太夫深沢の城に黄八幡と云指物捨て逃る事 一花沢城攻の事付藤枝の城あけのく事付無理の助落書之事 一信長より使者御音信付家康之御事
永禄十二年八月下旬に、信玄公甲府を御立なされ関東へ御発向あり、北条氏康公父子の領分大方やきはらひ小田原へおしつめ、侍宿地下町少ものこらす放火被㆓仰付㆒其上同年十月八日に相州みまぜにおいて信玄勝利を得給ひ、都合四十四日の御はたらきに、北条家をしづめ、信玄公駿河治めらるゝさまたけの氏康手を出さるゝ防戦をとげられ、甲府へ御帰陣ありて、高坂弾正を召して、信玄公被㆑仰小田原おもての信玄勝利は如何とあれば、高坂申は御かちなされて御けがなり、子細はたとへをとりて儀に、数万の人数甲州へはたらき入候に能々当方の御運つき、五十六十の人数ならば、是非に及ばず申さて五百千とも人数これあらば御館つゝじが崎まで来る敵を相違なくひきとらせ申べく候や、其候を分別いたし候へば今度小田原城に、松田尾張をはじめ其外人数八千あまり候て、二万少しうへの武田勢に、蓮池までおしこまれ何事なく引とらせ、其上みまぜにおひて如此仕り候、よは敵にかち給ひて大なる御不覚かと奉存候、此ほどの若き者、三川岡崎家康が、懸川へおしつめ今川氏真公の衆歴々のおぼへの者をせりあひのたびにうちとり終に氏真を関東へおしはらひ申候、せがれなり共彼家康に北条氏康御父子の人数を、三ケ一あづけ候はゞよほど御手にたち申べく候、信州侍衆には百騎二百騎の人数にてさへ五六年づゝ御手間をとられて候と申上れば、信玄公、高坂弾正は、小田原陣まへに申ごとく今に諍をこはく申候とて、御笑なさるゝなり、若き衆は高坂弾正分別だて今に始めざるとのさたなり仍如件
永禄十二年巳己十月八日みまぜ合戦に勝給ひ、御馬を入られ諸人をやすめ、又相、駿、豆の堺へ信玄公出陣なさるべしとありて、銘々侍大将衆召て、信玄公被㆓仰出㆒は山中にて陣とる所、水遠うしては人夫ども、地の雑人にけがあるなり、たきはあれどもほそければ、久敷陣とる時、水につまる儀いかんとあひたづね給ふ、長坂長閑申上るは、少も此度甲相のさかい、御はたらき手間取給ふこと是あるまじきと申、信玄公被㆑仰は、先長陣と定め隙をとらずば、不㆑苦と被㆑仰、長閑申は、御陣ながくましまさば雨ふり候て、滝の水ふとりながれ候はんと申す、信玄公それも雨ふらざる分別候て、ふればよしと仰なり、長坂申上るさるに付ては、たそ侍大将衆の内にて功者をつかはされ可㆑然と申す、信玄公被㆑仰あやうきさかいめへ、大事の侍大将共をこして、よきにはあらず、水の多少をみる事はたれをこしてもしるべき物をとて、工夫まし〳〵御小人頭、山本土佐、小木原両人をめし、心経を存知たるかと御尋あり、両人尤存たりと申す則よませて聞給ひ、其者共をさしこさるゝ両人見てもどり様子申上れば、信玄公思案なされ水ちとたるまじきとある儀、心経一巻をもつて他国のほそきながれをつもり被㆑成なり、さありて信玄公御そなへ定ならし、七重にあそばし同年霜月五日に甲府を御立あり右のさかいめへ御馬を出され候、【全集ニ此御陣何がとして十日と御てまをとられ候ハゞ水乃ながれすくなふして水くみとるにも同士いくさ有べし其上山中なれば敵方百姓の案こゝかしこに是ありて陣具万事にバいとり喧嘩有べきかとの御遠慮にて十一ケ条の御書付を出さるゝ
一陣具とるにも水汲にもよき場を見定め先手のあしかる大将二三かしら一時かハりにして張番をつとめ心やすく水をくませ陣具をとらすべし但番がはりの時あしがるだて油断あるべからざる事
二水くみとるにはながれのうしろよりも左右よりも汲取可申事
三おなしく水乃なかれほそくハ下よりくみとるへき事四山も里も其筋敵地なればふかく行べからず近所にて陣具とるべき事
五陣具とる時一番先手相備共に
六二番に二の手相備くみともに
七三番に御うしろ備衆小荷駄宰行共に
八四番に御膳備但一番に右脇二番に左脇備なり
九五番に御前脇
十六番に御旗本付此内にも足軽大将衆先可㆑取也
十一七番にうき勢「此次切テミエス」
如此御そなへならし七重にさだめ霜月五日に云々トアリ】扨又北条氏康氏政父子の御談合は信玄公の評定にちがひ北条殿父子よきやうにはかり、家老衆談合候て信玄みまぜ合戦にかち則時に境目の城をせめとるべきに甲州へ馬をいれらるゝはいかさま、北条の御家をふかく被㆑存候てのことなれば当年は、はやこなたへ信玄はたらき思ひもよらぬ事なりと陸奥守をはじめ一門の衆松田、大道寺をはじめ家老各申に付、さかいめ北条殿もちの城々へ加勢をこめらるゝ其前みませ敗軍の時節甲州堺の城共、あけわたすべき覚悟故人数少つゝ置所に信玄公御馬入たるにて城々へ人数をこむる、扨北条家各存知の外信玄公御出馬をきゝ城をあけ悉くはいぼくする其人々芳賀伯耆、北条常陸、松出新二郎其外各なり歴々なる中にも松田新二郎、郡内の小山田兵衛丞手にせめられ谷へころび落てにぐる、此競ひをもつて右堺めの城九、信玄公せめおとし彼すち一円御隙をあげ給ふ深沢の城御かゝへ被㆑成駒井右京指おかれ候、新城、湯沢足柄山中はすて給ふさて極月蒲原の城へ取つめ信玄公城内へ使をたて此度北条家、各傍輩どもなみに城をわたせとある儀なり、北条新三郎返事にいやしくも我等北条源庵がせかれなれば自余の者共にはちと違候間城はあ【 NDLJP:140】くまじきと申すそこにて信玄公城をせめかねたる体にて明日は先駿府の城へ取懸べく候此蒲原はかさねての事になされ候はんと二十人衆頭を先衆へ廻しふれらるゝ其後又御中間頭衆をもつてふれ給ふは去十月上旬に北条家の者共みませにて、うたれたるをきゝ城の者共出候て、みかたをくひとむることは中々なるまじ但北条新三郎、氏康、氏政より結句武辺甚しければ定めて新三郎は被㆑出とも家老共出まじきなり、若は城より出てみかたをくひとむるとも、少もかまはずしてとをり候へこゝにおいて人数を損ざし駿河の城を攻むるに手間を取候はゞいかゞなりと、信玄公御中間頭衆高声にふるゝを城内よりの、めつけきゝ、城へ帰り信玄方の様子如㆑此といひければ城内にて上下競て申様は、明日はますかを信玄通り給はゞ、いでゝ通ふさぬやうにせんと云ふもあり又とをしてあとよりしたはんと申もあり、北条新三郎下知いたさるゝは信玄の先衆と旗本の間を取きらんと申さるゝ城内の各申は、此儀にて信玄迷惑せらるゝことたど大かたにてあるまじい、さあるにつゐては信玄は大宮へ帰り甲州へまいられん信玄の先衆は、さつたにおいてせり合あるならばこゝにて大将にわかれ、ちからなうしてまけて大形うたるべきと手に取やうに城内のさたなり、さて信玄公の先衆十二月五日の夜中にうち立六日の朝は、由井くら沢までとをる、しばらく間有て、小山田備中ばかりのこり旗本の少しさきをいたす、案のごとく北条新三郎、狩野新八郎、両侍大将城を払出て信玄の先衆と旗本の間を取きり小山田備中と北条新三郎衆とせりあひ有其時四郎勝頼公さいはひをとつて道場山より乗給ふ、其外旗本後ろ備脇備をもつて、城をのつとる是を見て北条新三郎城へあがる、小山田備中衆北条衆を追かけ悉く頸をとる、其節旗本にていつれもてがらあり中にも落合市之丞、吉田左近介、初鹿伝右衛門三人旗本の一番乗高名も勝れたり、中にも落合市之丞六ケ所手を負、是は善福寺丸のことなり、本城へはやく乗衆、小塩市右衛門、入沢五右衛門、常盤万右衛門、大石右衛門介、沢江右衛門此五人は岡部忠兵衛衆、駿河先方なり、勝頼公御手にての走り廻りなれば、則四郎勝頼公御眼前の手柄故其日に信玄公へ四郎殿御披露なり
永禄十二巳己年極月六日に駿州蒲原の城をせめおとし北条新三郎、同弟箱根出家少将狩野の新八郎、清水太郎右衛門、笠原ため、荒川是は大将分、六人の頸なり又北条新三郎内にて物頭或は随分の者共
一大草右近太夫 一新田又八郎 一大草右京亮 一鈴木但馬守 一引野大膳 一引野図書 一上原甚三郎 一上原甚太郎 一山口宗次郎 一同宗三郎 一南条又十郎 一石巻弥三郎 一二見右馬介 一久保宗四郎 一鏑目鹿ノ介 一上野又蔵 一加藤播磨 一加藤平二郎 一加藤助九郎 一加藤助二郎 一杉浦 一石井忠兵衛 一渡辺豊前 一早野玄番 【一本ニ助二郎ヲ助四郎トス】
此等を初として侍共二百騎余りの頸を取り其外上下合七百十一の頸帳をもつて吹上の六本松においてかち時を執行給ふなり、扨て蒲原の仕置ありて頓て、さつたへおし給ふ薩埵山に敵みゆる、何ほど跡つゞかんもしらず、信玄公馬場美濃をめして尋ね給ふ、馬場美濃申す今日は長途をうちて参りたるみかたにて其上日暮に及ひ候へば自然大将なき寄合ものどもにひと手もしまけ申につゐては会稽いかゞと遠慮なりさりながら城意安よく見きり候て旗本六十人衆を以て薩埵山へ取あがる、馬場美濃衆同勢にて追くづすもとより頭なき一揆なれば何の造作もなく逃ちる、澳津河原まで追かけ雑兵三十七八人うちころす、然れど大将なき一揆なる故高名とは、さのみ申さぬなり、即其次の日駿府今川殿館に岡部次郎右衛門と申す、三百貫知行取今川家の近習小身の侍あまたの人をあつめ、籠居信玄暫らくせめ給ふ次郎右衛門小身にてケ様の行、如何様たゞものならずと信玄公思召、千兵はし易く一将はもとめ難し此次郎右衛門を助け置取たてゝ我先をさせ候はゞ然べしとて、無事になされ岡部次郎右衛門、信玄公御被官衆になる故古主今川殿にてもたざる人数を五十騎彼岡部次郎右衛門に下され三百貫を三千貫になされ其時より岡部次郎右衛門侍大将となさるゝ事、今川氏真公居城の明たるを二度もち返し信玄公を引受け、会稽のはぢをすゝぎたる、次郎右衛門が武功の故侍大将となる、さて右みませ合戦の競をもつて駿相境めの城共あくる其中に深沢の城には、北条左衛門太夫こもる此左衛門太夫は北条上総が子なり、又父上総は遠州高天神の城主、くしま上総と申者の子なり此くしま上総甲州西郡まて発向いたし武田の家老荻原常陸が、はかりをもつて信虎公に頸をとられける其くしま上総が子父にはなれ牢々の体なるを氏康公二十歳の時くしまが子と一十歳にて氏威公今のくしまが子に逢着ある故取立給相州たまなはの城【玉縄城】を被㆑下北条左衛門太夫になさるゝ彼左衛門太夫武道のために八幡の縁日けつさいする故か武功のほまれ度々においてあり、すでにさし物はきねりの四方に八幡大ぼさつとかきて氏康公の先をいたす氏康かはごへ夜軍の御手柄も此左衛門太夫、河越の城にこもりゐて管領公八万あまりの【 NDLJP:141】人数を引受け城をおとされざる故氏康公利運に成、さるに付北条左衛門太夫を、関東八州にて黄八幡と申なりむすこに、左衛門太夫と云ふ名と差物をゆづり、巳は北条上総になる今の左衛門大夫も祖父くしま上総文北条上総にをとらぬ手柄数度あり是もせがれに左衛門太夫と云名をゆづり巳は北条常陸守になる、されば国もち給ふ大将は大合戦大事と云ふは北条家みまぜにて大まけある故か又信玄公御武勇浅からざる故か、さすがの北条常陸守も黄八幡と云ふ差物を深沢の城にすてをきにぐる、其差物真田一徳斎が末子に下さるゝさて又岡部次郎右衛門弟岡部治部右衛門をはじめ、駿河の御たちにこもりたる今川家おぼへの者共五十六人すぐり、信玄公へ御礼仕、信玄公則時に被㆓仰出㆒花沢にこもりたる小原肥前武篇おぼへ有侍大将と、きこしめし及ぼれ候間、正月はさう〳〵花沢の城御せめなさるべきよし上意を承り、老若共に武士を心をかくる者ども少もちらず信玄公御先衆、馬場美濃、山県三郎兵衛、内藤修理各それ〳〵に備をかゝると申てかたづくなり、岡部次郎右衛門につくもあり、ことに花ざはの城には、是をきゝ武田法性院信玄公にせめられて死して炎魔の庁の訴へ生て弓矢のほまれとて敵みかたともにいさむことかぎりなし以上
永禄十三年庚午正月下旬に、駿州花沢の城【花沢城攻】へ信玄公取つめ給ふ、岡部次郎右衛門駿河先方の中にも、信玄公御とりたて被㆑成候へば一入精を出し花沢こしぐるわのちかくにある家の上にあがり居申候処に御舎弟武田逍遥軒信玄公御意をもつて諸手を見廻りなされ候が、岡部次郎右衛門兄弟罷有、家の上へ逍遥軒あがり給ひ立ながら城中を御覧ずる、次郎右衛門一間戸を一ツとりよせ逍遥軒の御前にたて候へば運の矢と云ふ物はのがれぬとありて今の戸をわきへおしたをし立給ふ次郎右衛門弟岡部治部大剛の兵なれば信玄公の御舎弟同前に罷有ては下々の武士めいけはなきとことはり家より下へとびおり候へば花沢こしぐるわからほりへとび入其故岡部次郎右衛門衆なをもつて近くとりよりて逍遥軒は其後御かへりある信玄公へ岡部次郎右衛門事被㆓仰上㆒候なり、さありて花沢の城門わきへ五人つきたる衆は四郎勝頼公、長坂長閑、名和無理介、諏訪越中、初鹿の伝右衛門なり城のあけ鎖子を無理介あけられよと初鹿伝右衛門申候へば矢鉄炮しげくしてあけらるゝ所にてなしと、無理介あいさつなり、そこにて伝右衛門立あがり、鎖子を押上る、諏訪越中つゞひてわがもちたるかま鑓をもつてつきあげてかへる伝右衛門、越中両人にて無理の介か、具足の上にきたる、なはの羽織をはぎ取、以来無理介とは名のらすまじきと申勝頼公あつかいなされ、なはのはおりは其場においてかへし候、信玄公きこしめし、四郎殿手負なさるべきとありて御使をつかはされ、さう〳〵引あげさせ給ふ、越中伝右衛門今のかま鑓をとつて帰る、其後彼虎口へ信玄公、おく近習あかりの、足軽大将会根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門、三人同心ともの中を抜出城の門際へつめかゝる折ふし、城よりついて出る、三枝一番鑓、曽根内匠、真田喜兵衛両人二番鑓なり、信玄公御使をつかはされ別手を入かへらるゝ又から沢口において惣一、せはしきせりあひあるは城内のよき武士、いひあはせついて出る其者どもは小原源之丞、同権右衛門、井桁又左衛門、井伊弥五郎、杉原戸兵衛、鬚なし滝三郎左衛門と云大強の大弓取外心がくる若き者共出る殊に信玄方には孕石源右衛門、白畠与七郎、大木源五、田宮権左衛門、村松藤左衛門、天野市平、宮沢小兵衛、武藤金次郎、落合治部、落合左平次、此十人の中に、孕石源右衛門一番鑓なり、鬚なし滝大弓をもつて落合治部を討殺す、弟左平次舎兄治部死骸を引て退く、城内の武士共頸をとらんとする、よせ手の武士共是を敵へうたせては弓矢を取ての、はぢと思ひ定め、入つみだれつせり合申候、信玄公高所より御覧有御旗本において総懸の摸様に鯨波をあげさせ給ふ故城内の兵共引いれて落合治部が頸を敵にとられず候、いづれも信玄公御褒美被㆑下中に孕石源右衛門を御秘蔵に思召山県三郎兵衛同心に預被㆑成候さて城より降参仕りあけて花沢の城を渡し家康の方へのく今川殿御同朋伊丹つあみ、花沢くるわを一ツ請取、しかもよくもち候とて信玄公御扶持被㆑成伊丹大隅守と申て駿河船大将に被㆓仰付㆒候なり、花沢落てより藤枝とくのいつしきあけてのく是は堅固の地なりとて、馬場美濃守に被㆓仰付㆒馬だしをとらせ田中の城と名付、しばらく番手持なり、駿州江尻の城も馬場美濃守縄はり仕り城代には山県三郎兵衛を指置被㆑成候、信玄公二月中旬まで田中に御逗留有、江尻御普請駿河先方衆仕る、清水にも屋敷かまへ馬場美濃守縄ばりなり信玄公馬場に被㆓仰付㆒関東梶原海賊あがりて、清水の屋敷がまへをせめ取りこもりゐたる時我方よりせめほすにみかたさのみむつかしくなきやうに工夫仕候へと馬場美濃守に被㆓仰付㆒候美濃守委細畏まりたると申候て、其ごとぐいたす山本勘介流、城取の極位なり、扨又清水関東梶原海賊の御用心は武蔵、東上野新田足利筋所々へ御はたらきに、江尻城代山県三郎兵衛を召しつれら【 NDLJP:143】るべきとの御遠慮なり仍如件
此御陣中に甲州、信州の信玄公、本参衆より、歌をよみ板に書付立つる
無理の助道理の助に名はなれや無理なることをする身でもなし【全集ニハけふよりは道理の助に名はなれや云々トアリ】
是は花沢にないて初鹿伝右衛門、諏訪越中守に名和無理助こされたるゆへかくのごとし以上
駿河田中御逗留の間に、織田信長より佐々権左衛門使者にて、御音信、からのかしら二十、毛氈三百枚猩々緋の笠是は四年さき公方霊陽院殿【公方義昭卿】都へ御供仕征夷将軍に備奉りたる弓矢に緑起のよき笠にて候と信長申されて信玄へ送り被㆑進㆑之信長使者居候所にて、土屋平八郎に其笠を被㆑下、信長に武篇あやかれと信玄公被仰なりからのかしらは奥近習衆にくじ取に被㆓仰付㆒候、さありて二月下旬に江尻へ御馬を寄らるゝに江尻迄、又織田信長より飛脚を御越になさるゝ其御状に三川岡崎の松平家康我等別して、めをかくる者にて候間御引まはし頼入候然者其地において今川殿へ前々より指置候家康弟被㆓召置㆒候由幸の儀候間家康人質に甲府迄も召つれられ御心易く御用等被㆓仰付㆒候様にと家康も我等方へ申越候条如㆑此候家康事よき様に頼入候恐惶謹言 織田上総守
二月十八日 信長
甲州法性院殿 人々御中