甲陽軍鑑/品第卅七

 
オープンアクセス NDLJP:143甲陽軍鑑品第三十七目録 巻第十一下

氏政輝虎深沢城攻事付氏政より輝虎を頼引出す事  一土屋右衛門尉事  一氏政信玄三島にて対陣の事付秋山伯耆武略並山県三郎兵衛家康衆と喧嘩之事  一関甚五兵衛事  一北条氏政と和睦の事付信長箕作城攻落す並家康若狭へ働之事 同家康義景と合戦之事  一信長噂之事  一諸角助七郎と原甚四郎喧嘩事  一信長家康氏政輝虎批判の事  一高天神にて内藤修理手柄の事付城々仕置並吉田の宿にてせりあひの事

永禄十三午年四月半に北条氏康公子息氏政公三万八千の人数をもつて、駒井右京亮指おかるゝ深沢の城を取つめらるゝは、右京弓矢にしかとほまれ是なきと甲州のさたを聞及び深沢の城あけて北条家へ渡し申べきと、小田原衆存知候て如此なれ共駒井右京亮さすがに信玄公の御分別にて此城にさし置給へば、北条衆三万あまりの多勢を引うけ打たて射たて、あたりへ氏康衆取寄る事思ひもよらす候駒井右京寄子五十騎、信玄公外様とざま近習きんしゆとて百騎在郷に居申候小身の旗本衆を二ツにわけ原隼人に五十騎駒井右京に五十騎さしそへられ、かやうの傍にある境目の城へ番手に指越す、御用なれは又御旗本へよび、火たきの間御番をつとめ候侍衆にて結句本の近習より武篇場数はおほくして五十騎といへどもたゝの侍千騎、こもりたるより此五十騎は弓矢の作法よくて北条衆三万四万の多勢を何とも不存候により北条衆可仕様なき故、城まはりの麦作をふり或はうへ田をこねすて思ふさま、しつめたりとて小田原へ帰陣なり其後小田原北条家、越後輝虎を頼み引出し候故信玄公西上野へ御馬を出され、せり合有是時御旗本足軽大将、城伊庵子息織部介、伊庵弟玉虫次郎右衛門誉なる走りまはり仕る中に、城織部前橋衆と鑓を合、伯父の玉虫次郎右衛門二番鑓を仕、何も信玄公御褒美被成候其御陣に北条氏康は出給はず氏政武蔵の秩父まで馬を出し北条家の先衆松山へおし出る、信玄公は上野簔輪に御馬を立られ候、謙信東上野衆をそへ二万、氏政三万八千合せて六万におよぶ大敵なり信玄公二万五千既に対陣あるべき所に、越後の輝虎申さるゝは氏政と謙信と両旗をもつて信玄にかちて、はぢ、まけて末代の悪名なりとて謙信さう越後へ引入らるゝ故氏政も退散なり信玄公は西上野に御逗留なされ候小幡三河御味方、永井豊前又味方に罷成、武蔵の内おし、ふかや領共に、いりくみたる所八千貫あまり是を御加勢を申うけ案内いたし取てあげ申べしとあるに付小幡尾張守、安中左近、ごかん、長根衆に原隼人、跡部大炊介、長坂長閑七かしらを指つかはされ十日のうちに取ひしき候故其所を三千貫永井豊前五千貫小幡三川両人にくだされ所領替ありて後、山名鷹巣の間にあたらしく城を取立信濃侍望月甚八郎友野助十郎両人さしおかれ七月初に御馬いるなり以上

浅利同心百二十騎の内、七十騎駿河先方の衆三十騎合て百騎土屋平八郎同心に預被下名をかへ右衛門尉に被成信濃うき勢の侍衆を七頭相備に被仰付土屋右衛門尉と成、此御さきを仕候なり以上

オープンアクセス NDLJP:144永禄十三年九月初めに信玄公伊豆にらやまへはたらき給ふに、氏康は出なされず子息氏政三万八千氏政信玄三島対陣の人数をもつて、山中に馬をたてられ候、北条家先衆は三島の上迄取つゞき跡は箱根に陣取三島より上の山は大かた陣取なり、にら山筋をば信玄公惣軍に被仰付かり田はたらきあり御旗本は小山田兵衛尉、馬場美濃二頭御先にて三島に御馬を立られ小田原衆を御旗本斗をもつておさへられ、馬場美濃、小山田兵衛尉に被仰付北条家の惣人数を左に見、はつねをのぼつて箱根の宿へおしこみ北条衆を馬場小山田両手へ六十七、頸をとりて帰るに、少もあやうき事なし扨韮山筋かりたはたらき御存分のごとく被仰付ば同年四月深沢の城まはり夏作或はうへ田を北条殿ふりちらし給ふ故なり、さ候て信玄公惣人数を三島へまとめ駿州へ御馬を入られ、駿河中城の半造作なるを御普請可仰付とある所に氏政惣手をまとめ山中の人数をおろし三島の北に三十町余りへだて三万七八千斗りの人数を五十備あまりにたてらるゝ信玄公二万三千の人数二十一備一本ニ三十一備トアリ、かはらがいへおしいだし合戦をもつて馬場、山県、小幡、真田、小山田、内藤、朝比奈駿河守、岡部次郎右衛門、原隼人其外侍大将老若共に召つれられ上下合て百四五十騎あまりみかた惣軍を五町程出、大物見なされ是非一戦をとげ氏政をうち、明後日は必ず小田原入と被仰付馬場申は敵味方御防戦の地形を御存知なくてはいかゞと申あぐる、信玄公聞召しそれは各心安く思ひ候へ法性院が両眼のごとくなる者を指越候と仰らるゝ各上下老若共に信玄公御両眼とあるは誰人ぞと不審を立る所に両人敵ちかく物見を仕り帰りたるを見候へば曽根内匠真田喜兵衛両人なりさ候て地形の事御尋あれば一段場吉ばよしにて候と申上るそこにて信玄公被仰は今日の合戦八ツ比なれば頓て日暮、北条家の者おのれが国山の案内能しりて夜にまぎれ落行バ氏政をうちのがしてはいかゞなり、明日卯の刻より一戦をはじめなさるべきと被仰、三島へ御備をいれ給ふ北条氏政其以其様子かと曽根内匠、真田喜兵衛両人に訓給ひ候間、以来において、曽根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門是三人はケ様の義多ければ弓矢功者にならるべきと諸人うらやみ候はことはりなり其後信玄公駿河江尻へ御馬をよせられ御普請被仰付候駿州山西御仕置には、山県三郎兵衛を指越被成候扨又伊奈の郡代秋山伯耆守組衆を三百五十騎余りつれ三河国へ出一戦を仕り勝利を得、しかも信州伊奈近所の三河侍、つくてだ、三年、長篠、三頭の侍大将を降参させ信玄公御味方に仕る秋山伯耆守武畧のほまれよろしき故なり、全集ニハ信州伊奈の郡代秋山伯耆守被官組相備合三百五十関余雑兵千四百斗り二千に足らぬ人数を以て信長持東美濃家康持東三河へ出焼働仕るは松平源三郎欠落申さるの為に事よせて也然れば東濃州衆三百余東三河衆三百余雑兵共に都合五千計り出美濃国上村に於て合二百五十騎と五備に分手勢五十騎をば旗本と定る然所に伯書先衆へは敵惣がゝりに仕を秋山五十騎を以敵右乃方の山より脇へ廻り谷を越て無二にかゝつて伐くづし勝利を得雑兵共に四百八十六の頸帳乃中に大将分にて出たる明知の城主遠山民部入道宗寂父子其外角野高助衆角野賤助同角八苗木殿の内吉村源蔵是等におとらぬ侍合三十騎討捕書記し甲府へ進上仕る苗木殿は勝頼公乃男信長公乃妹聟也武辺誉乃待大将にで上方には覚の弓取と申ならし候へとも是をはじめとして折野内作櫛原与五郎東三河侍大将にはつくでたみね長篠足助の鈴木越後父子ふせつの河手名倉の戸田ひしかの奥平如此の城主共秋山伯耆晴親が鋒先に一さゝへもならず敵三人に晴近一人当にて如件トアリ又十月初めに駿河山西、島田においてきとうぐんの米を山県三郎兵衛下知をもつて藤枝へ着入惣じて小山其わたりを押ちらし、乱取をし、狼籍ろうせきなる故家康島田河原まで来り、信長御あつかいにて大井河きりと御約束あり又懸川城に氏真被居時信玄公被仰出は遠州一国の義、家康手柄次第おさめ取候へと仰被付候所に如何様の儀をもつて山県三郎兵衛狼籍沙汰の限と有て家康百四五十騎つれ家老一頭もなく雑兵四五百の人数具足きる者もあり、すはだの衆も有まちにひかへたるを山県きゝわが手勢組中二千余の人数をもつて喧嘩に仕りかけ、かなや坂へおしあけ入坂につさかの少し、あなた迄おい申、家康は懸川の城へ早々かけこみ申さる此儀を長坂長閑、跡部大炊介両出頭人江尻においてきゝ山県三郎兵衛殿天下の御無事をやぶり、家康斗にもあらず信長迄と御無事きれ候間山県改易必定なりと申越候山県も迷惑被仕同心の和田加介、辻弥兵衛両人乱取の故也と申さる、めしこめにして加介、弥兵衛に番を被着候重て長坂長閑より状に、家康子息は信長のむこと約束あり、信長惣領城介殿は信玄公御むこと有ば御縁者中を、山県やぶり申され無分別故同人衆にはかゝられ申間敷と申所に、土屋右衛門尉をもつて馬場美濃、内藤、真田其外侍大将山県が事を如在じよさいなきとをり申上候へば信玄公殊の外御悦喜なされ四郎典厩をはじめ一門の内にも家老にも海道一番と自慢する家康と相手がけの合戦是非に及ばぬ仕様なりと御褒美故和田加介も、辻弥兵衛も大事なくして江尻の城代に山県三郎兵衛被仰付各組衆駿河、信濃、中州にも能衆、山県同心に被成候結句三川、此度降参の山家三方衆まで、山県寄騎よりき仰付は島田河原にて家康と山県と喧嘩に仕家康にしほつけたる故山県三郎兵衛を以来家康方への御さきさせなさるべしとて如此さありて霜月中旬に御馬入られ候家康の人質松平源三郎、甲州下山より雪をふみ分、山通り三河へかけおちなるにより明末の年より家康と信玄公遠州三州二ケ国をあらそひ弓矢はじまるなり仍如件

上野小幡尾張を上総守に被成候駿州今川家のおとな朝比奈兵衛太夫を駿河守に被成候なり駿州先方、岡部忠兵衛に、土屋名字をゆるし土屋備前に被成土屋右衛門尉弟惣蔵其年十五歳になるを備前養子と定あり、又旗本足軽大将本郷八郎左衛門、駿河興津にて討死の跡、足軽七十五人城伊庵に廿人小幡又兵オープンアクセス NDLJP:146衛十人関甚五兵衛十人此甚五兵衛は尾州牢人なるが其年足軽大将に被仰付子細は駿河先方庵原と云侍大将に頼もしき様子の故なり、庵原大剛強のつはもの甘利過候て後奏者に頼候、土屋右衛門庵原本領の御朱印おそく取てくるゝとて土屋殿に存分申べしと有事、信玄公御耳に立、庵原を改易と被仰付候処に関甚五兵衛送候儀をきこしめされ、信玄公仰らるゝは、是ほど法度申付る所に甚五兵衛身をすて如此なるは武道にいのちなげうちはたらきの段何の道にても誉なり忝じけなきあてがひにつゐては信玄公御用に立事疑有まじきとて足軽十人関甚五兵衛に預け下され候
一本ニ預下され候ノ下是を甚五兵衛聞て心を翻へし帰参して二度忠功もあれとの奥意ならん庵原に頼もしき様子ハまへ己の歳云々トアリ
庵原殿に甚五兵衛頼もしき様子は、まへ巳の年なりかくありて信玄公被仰出此後又少の法度をそむくともがらあらば妻子まで御成敗なり、逆心同意と御ふれまはし給ふなり

同年午十月関東の小田原、北条氏康病死被成候に付て子息氏政公其歳三十三歳なれ共父氏康にはなれ給ひ霜月初より小宰相殿につき種々頼み信玄公へ御詫言まして無事にとある儀なり、武田の家老衆老若共に申上は小田原を押ひしぎ、北条家を御一偏遊ばし、氏政の領分大国共を御手に被入只今御手前の国々合候へば十ケ国に及び候間氏政と御無事は必相やめられ当冬より小田原おもてへ御出陣候はゞ御手間をとらるゝ分にても来未の正月中に御隙を明らるべく候、北条家もち分城々の御仕置又は多賀谷、宇都宮、安房此侍衆は、氏康に仕詰られ前々より当方へ御音信被申候間無異議御旗下に被罷成申べく候佐竹は御書、日付と名書のあらそひ故只今御不通なれとも北条家を、をしやぶりなされ候はゝ是も相違は有まじく候縦ひ異議申され候共、三年の内に御したがへ有べく候、又佐竹は以来の如く思召ヲ以来の事と思召トアリ佐竹は以来の如く思召、小田原領分近辺の御仕置未の三月中旬には越後謙信領分東上野迄御手に入申べく候輝虎も其上からは信玄公へたてはつき申まじく候、只今さへ高坂弾正六七千の人数をもつて越後の内へ五里十里づゝ働き候へ共さのみあやうき事無之候、小田原へ御はたらきいそぎ給へといづれもいさめ申上る信玄公被仰は各異見尤なれども三年先、辰の年板坂法印我脉を取大事の煩有べしと申ごとく次第に気力おとろへ心地よき事まれなりケ様にこれあらば信玄在世十年有間敷候然ば人は一代名は末代なり勿論北条家をおしつぶす事手間取儀有まじく候子細は去年小田原へおしつめ焼きはらひ其上みまぜ合戦にかち数ケ所の城をせめとるに、殊更氏康他界なれば少もとゞこほる事有まじく候へ共さありて仕置旁に来年中かゝつて、人数のせんさくそこ、みつくろひ候間に煩あしくなるに付ては、すくやかなる内、遠州、三河、美濃、尾張へ発向して存命の間に天下をとつて都に旗をたて仏法王法神道諸侍の作法を始めにまつりごとをたゞしく執行はんとの信玄、のぞみ是なり然ば小田原おさへをおかず氏政人質を取人数を少も出させ候はゝ甲州勢も、三万あまりならん、此勢をもつて都を心懸三河、遠州へうち出家康をさへをし失ひ候はゝ都までの間に恐くは信玄が手にたつもの壱人も有まじく候子細は信長江州箕作の城をせめおとしたる故公方を都へなをしまいらする、彼箕作は家康内の松平伊豆守と云者手がらをしてせめおとす、信長金崎より北近江、浅井備前守に機遣きつかい退口みだりに、岐阜へ味方を捨帰りたる時家康若狭の国へはたらき同勢の信長に捨られ三河勢五千の人数をもつて少もけがなく引とる家康旗本内藤四郎右衛門と云者三手の矢をもつて跡をもつて跡をしたふ若狭侍よき武士を六人射ころしたるときゝてあり去る六月廿八日に江州あね川合戦にも信長三万五千の人数敵の浅井備前守三千にきりたてられ十五町ほどにげたるに一本ニ三河勢と以て姉川を越て浅井ケ胴勢云々トアリ家康は五千の三河勢をもつて浅井備前が同勢二万五千の越前朝倉義景をきりくつし候故備前もくづれ候時信長たてなをし勝利を得たるは悉皆徳川家康がわざなり、縦ひ信長家康両人同前又家康がきざなりと信長手を合せての礼也縦信長家康云々のはたらきなりといふ共信長は三万五千の人数敵の浅井は三千なればつよきをさたするに又つよきよはきを沙汰するにトアリ信長衆十一人して敵浅井衆一人をせむる、家康は五千也敵の浅倉義景は一万五千なり、家康被官一人にて越前衆三人あてがひにして、しかも勝利をうる信長は十一人にて敵一人に十町あまり追われ候、家康なくてはたてなをす事ならずしてあね川合戦信長負なるべきと美濃近江の侍共、かき付て越候一本ニ信長負なるべし此時に小笠原与八郎内に渡部金太夫其日一番鎗さし物は朱からかさに金の短冊播鮮也信長日本第一の一本鎗と直判の感状に貞宗乃脇指を取添手づからくれ候由美濃や近江乃侍共書付越候トアリ、其上信長我等と縁者組仕、信玄を馳走いたすこと皆いつはりなり家康にそくらをかひ、加勢を仕べく候間信玄と取あひ候へと内談して此方へは年中に定て七度の使をくれ其外三度四度十度にあまりて音信仕る子細は上方信長せめとるてきは皆生替る故か弓矢よはき故か城一ツ落城をみては近辺の城五ツ六ツもあけ候、東武士は二度三度せりあひにをくれをとり、或は大合戦に負たりともよはげなくてせめては五年六年も、其所へはたらき、毛作をふりやきはたらき仕らざれば降参せず候、東武士は大方強敵共なり是を信長分別して信玄と無事をつくり信濃より出て美濃尾張をとられざるため、それがし機嫌をとり此方信玄をば生替でなき老功の敵に戦ひ、其手間を入させ巳は五畿内のおさまりよき国共をとりて信玄が年のよるを待候オープンアクセス NDLJP:147はん其間も、三河遠州信玄の国にならぬやうにとて、家康と云武道の強き侍に内々かふばりを仕ると云義を、美濃国の先方信長に降参の侍共より誓紙をもつて申越候間、無二無三に上方信長と一両年の間に手ぎれをせんと被仰小宰相を小田原へ指越給ひ、北条氏政と、信玄公御無事調ひ申候故、午歳極月舎弟北条助五郎、北条四郎、両人を甲州郡内迄即時さしこさるゝ氏政のぞみかなひ、よろこびかぎりなし、扨又馬場美濃守、内藤修理、高坂弾正、山県三郎兵衛申は、さあらば来年の御備定春中いづかたへ御はたらきなさるべきと申候へバ、信玄公上方侍衆内通申上る書付を取出させ給ひ御覧候へば遠州高天神の城主小笠原被官共江州姉川合戦に抜出たる走迴りいたし信長家康ほめたる武士は渡部金太夫、林平六郎、吉原又兵衛、伊達の与兵衛、中山是非介五人とかきつけにあり、信玄公仰らる是等は若手の者老功中老或は十九二十の者迄戦功を心かけたるよき侍あまたかゝへ持候、小笠原与八郎わかしと雖とも家康におとらぬ高天神も武篇の家なれども小身故今川氏真牢人せられてより、家康旗下になり候なん時、信長と合戦あらば、家康をきりくづす事肝要也家康との合戦には、小笠原家中高天神衆手に立つべく候間来春は遠州きとうぐん筋へ、はたらき候て、小笠原が弓箭のふりを当家さき衆二の手衆に勘弁さすべく候間家康衆の事は我家の秋山伯耆守、一両度も当りて知る三河の国山家三方衆此方へ帰伏なれば、大かた家康衆あてかひハしれて有、さ候へば来春は高天神おもてへはたらき、夏中三河へはたらき信長と家康間を取切、武略の備定め評議して信長には先づかまはず候はゝ、あなたよりは、いつまでも、熟根のやうに仕べく候が、家康に信長加勢いたさずば成まじく候、子細は箕作の城主竹辺源八を信長せむる時も家康衆也、金崎表にて信長敗軍の時も家康手柄なり、江州姉川合戦に信長まくれたる時も家康はたらきよろしき故、信長利運になる如此候へば信長家康に加勢は必定なり加勢のある証拠を取て其上信長と無事をやぶり遠三尾濃の内にて信長家康両人を相手にして信玄合戦仕り勝利を得て後信長居城国へはたらき入一城一郡なりともせめ取我家の侍大将を、其城にさし置天下をもちたると、高慢する信長がおさへとなづけ候ハば即時に死する共跡に思ひ置事なく候とありて、其のちまた信玄公被仰はむかし唐国には項羽高祖の前後弓矢の名将際限なし、今はきこゆる人なく候日本国にも源義朝、同義平、平清盛、同重盛前後に名将ありといへども、其次頼朝義経兄弟の事を申、其後は義貞尊氏とさたするなり今は安芸の毛利元就相州小田原北条氏康、越後長尾輝虎、尾州織田信長、海道に徳川家康これ五人ほどの侍は日本の事は申に及はず、大唐にも只今は有まじく候然れば長尾輝虎、十年巳前辛酉に信州河中島において大きくまけ三千あまりうたれて後は次第に此方よりおしつめ、此比は信玄馬出すにおよばず、高坂弾正越後の内へはたちき候といへどもさのみあやうからず候、北条氏康当年十月こそ他界なれ、去年己の歳中度々押つめ、すでに小田原へ日帰にする、足柄深沢迄信玄せめ取、関東は氏康にかすめられ候へば、其氏康を信玄かすめ候、佐渡庄内、加賀、越中、能登、関東迄も輝虎に押付らるゝに其輝虎をも右の分に申付候、此上信長家康二人に、信玄勝候はゝ、西国迄も弓箭に心もとなきことなく候其意趣は四国九国は安芸の毛利に仕詰らるゝ処に信長都へ発向して天下をもちたる、阿波の三善をたやし中国の毛利をも、父元就死後とは申ながらはや少づゝかすむるとさた有、海道一番の家康五畿内四国中国九国まで、ひゞきわたる信長家康を一ツにして信玄一方をもつて勝利を得るならば、日本国中は、さたに及ばぬ義、当時は唐国にも武田法性院信玄にならぶ弓取全く有まじく候と、被仰候遠州御発向の御備定午の冬中に高板弾正所にて七重にさだまり、かき付て御目にかくるなり仍如

信玄公仰らるゝ某廿四五の時分、山本勘介雑談仕候事、みな首尾あふてあり、三河の国より東の武士は弓矢の敵縦へば物の上手のより合のごとくにして面々各々の意地を立候人十人の中に九人あり上方には意地をたつる武士廿人の中に一人ばかりならで御座なく候と勘介申ごとく信長駿河義元にかちてより小身の時とはいひなから三河、遠州、駿河の内へ取かくること少もなくて其年廿歳から尾張、美濃を信長おさむるに尾州は其年中に大かたしたがひ其年のくれより美濃へ、とりかけ、七年攻め戦ひ七年め三十三の時、美濃尾張両国の守護と信長なり候、近江に浅井備前ほど意地をたつる武士、五六人もあるにつきては江州にも七八年かゝり申べく候、此浅井備前は信長妹聟なれども意地をたて、したがはず候伊勢国に浅井備前ほどの者、四五人もこれあらば勢州にも、五六年手間を取候はゞ縦ひ信長果報ありて天下をしるとも五十歳より内にて都合はなるまじく候と眼前にみへて候、三河の国松平が家のでき侍、家康十九歳の時より本国三州をおさむるに八年かゝり漸く廿六歳にておさむると雖とも其上ながら、つくで、たみね、長篠、三人は家康をきらひ、意地をたて候てそれがしの下へ来る、東の家風は駿河氏真オープンアクセス NDLJP:148の無心懸故、今川家の侍共無行義に成たるといへども、三年に漸く信玄おさめ候信長武篇のほまれは義元の大敵にかちたる故美濃も治まり候といへども、義元遠慮あらば、二万の人数を持ながら五百千の敵に勝利をうしなふことにてなく候へ共是は義元機つかひなき故、不慮の儀なり信長強敵と云は、美濃衆なり是も義龍死して龍興代になり、此家老に意地をたつる武士小牧源太、野木の次左衛門両おとな差違へて死候故、美濃治まり候さなくば美濃にも信長十年は手間をとるべく候、いづれに信長武篇は美濃侍と戦功者に罷成候それがし武篇は、信州更級の村上義清と取あひ弓矢のあぢに心つきてあり其上父信虎以来弓矢功者の家老、足軽大将又は諸国のよき武士をあつめ国々の弓矢かたぎを聞、就中山本勘介と云弓矢智識の如く成武篇剛の者を扶持して武士道の善悪をわけ、勝利の武略しやうを信玄よく定候へば以来信長家康合て十三ケ国の大将を両人よせ、信玄は越中飛弾の国はしをそへ四ケ国の人数をもつて遠三尾濃の間において、合戦をとげ、うたがひなく勝利を得べく候かくありて信玄煩つのらずして存命さへこれあらば天下に旗をたてんこと、うたがひ有まじく候と仰られ来年は遠州御発向の御備さだめありといへども、織田信長よりはいつものごとく書状の書付も前々のごとく御音信も大がたの小袖其上信玄公めし候をば一重蒔絵の箱にいれ御頭巾綿ぼうしまでうつくしきまきゑのはこにいれ進上申さるゝなり仍如件

元亀元年午の霜月中旬御馬入て万づ思食のまゝ諸人大小上下共に心いはひ、のぞみをもち武田の諸勢勇む事かぎりなし

同年同月下旬に諸角助七郎と原甚四郎と御城において喧嘩仕り、双方手二ケ所つゞおい候へ共相番の衆引分うちはたす事無之御前狼籍の故、信玄公御立腹大かたに不仰候原甚四郎は、原美濃度々の御用にたち三十度に及、あんだにのり陣より国へ帰り、武功の御奉公に免じ給ひ命を御助なされ候、諸角豊後度々の忠功ある侍大将其上川中島合戦の時うちじにを仕、父豊後に免じて助七郎命御助なされ、典厩四郎殿御両人をもつて右之通り被仰含なりされは御前狼籍諸人みごりのためなれば原甚四郎も諸角助七郎も、知行同心めしあげられ、諸角同心の五十騎は一条右衛門太夫殿へ被預候、原甚四郎同心は今福丹波に預らるゝなり原甚四郎家屋敷共に土屋に被下也右の両人外様とさまのことくに被成候少給少扶持にて堪忍仕り、物あわれなる躰なりといへども御成敗あるべき所を父の武勇御奉公にめんじられ、御たすけなされ忝きと奉存知

午の極月信玄公、馬場美濃、内藤修理、山県三郎兵衛、高坂弾正、小山田兵衛尉、原隼人助、跡部大炊介、七人をめして弾正に仰らるゝは信長使織田掃部は家康人質かけおちの事聞て何と申候やと仰らるゝ高坂承り、掃部申候は、信長きかれ候はゞ家康相とゞかざると有べく候へども定めて是は家康も存ぜらるまじく候、源三郎覚悟不届候て如此と地量由依間やがて又定而別の人質を家康より進上申にて有べく候さなきとても信長は信玄公へ御無さた申さるゝ儀少も御座なく候間以来は信長も舎弟なり共子息成共進上いたさるべく候といかにも無異儀やうに織田掃部うけおひ申と弾正申上る、信玄公仰らるゝ信長去年江州坂本におひて義景と対陣又は当七月より天下を支配仕につき信長家中をふかく取なし弓矢の儀能々とひ候はず候はゝ、弾正には申まじく候隼人、大炊介にも申まじく候自然各が被官共にはかたらざるかと被仰高坂も隼人大炊介いづれも承らず候、惣じて信長使にかぎらず何方の使者衆も当方へ参り武者雑談などは終にいたさず候と申上る所に馬場美濃申は、尾州犬山の城主津田下野守は信長あねむこにて候が信長にまけて追出され諸国を牢々いたし三年以前より当国へ参り御舎弟一条右衛門太夫殿はなしの衆に罷成犬山哲斎と申候此人物語りには信長武篇形義父弾正忠をば少もまねず、しうと斎藤山城守、弓矢形義仕、そゝけたる様にても殊外しまつてはたらくと沙汰仕り候と申上る信玄公仰らるゝは信長父弾正忠は尾張を半分も治むることならずして小身故今川義元の旗下になり駿府へ出仕いたし候、斎藤山城は、ことに我等を頼てまします土岐殿牢々の後美濃一国の主に成、越前の方までかすめ山城嫡十義龍代には越前より朝倉常住坊と申す、従弟坊主を、美濃へ人質に取候ほどなれば、斎藤が弓矢が弾正忠とは、はる弓矢の位山城うへなり、信長斎藤山城弓矢の家風を取所に、いたすは尤なりしかも山城が孫龍興を信長おしちらし、美濃侍をあまたかゝへ候はゝ、父弾正代には小家中なりつるゆへ侍は何としても、大家中の家風をまねる者なるにより、をのづから信長衆大かたの儀は斎藤山城がごとく致べく候、それはあながちまぬるにてなく共、浄土寺へゆけば天然に念仏申度心有と同事なりと有て、又信玄公馬場に問給ふ、信長弓矢しまりたるとは、なにを証拠に犬山哲斎申候やと仰らるゝ、馬場申オープンアクセス NDLJP:149はある時犬山に油断仕り、侍を在々へみな返し候時分、信長七千の人数をもつて犬山の宿町まで、みだれ入候所を、哲斎方十八人にして見出し、其後跡をもとめ上方道一里余り追申候へ共返し合せず、にげちりて候へども、尾張中皆降参仕り犬山一人信長に、たてづく事巳来まで成がたければ、つゐに城を渡し牢人仕り候、信長七千の人数、十八騎にこみ出さるゝ事にはあらず候へども一国みな随ふうへは犬山もとかく手に入へき物をと存じ哲斎にさのみつよみをいださず候は分別ありてしまりたると、哲斎物語いたし候と申せば、信玄公被仰は、信長切々せつ便を越、音信仕り候間、去年秋山七兵衛を此方より越候へば信玄駿河出陣に、甲州下山通り甲府より駿府へ飛脚みち三日路しかも切所きりしよゆへ人数みな一騎うち七日におしたるをきゝ、信長しばらくあんじ、信玄の御人数は三万なれ共極月寒き時分にて小荷駄五千、本の人数は二万五千とつもり候彼信長は輝虎にさしつゞきたる弓取なり、もとより謙信一万五六千の人数を五人十人のやうにつかひさしかゝりたる、軍をまはさぬようにと仕れば、日本国に、むかしも今も、一本ニ武将なれ共分別薄き故輝虎弓矢は次第に細くみゆる信長は工夫を仕分別乃ある所は結句輝処より少し上也当十月病死せらるゝ氏康も強な将なれども上杉家乃無心懸なる云々トアリさのみおほくなき武将なれ共上杉家の無心懸なる大敵をせり付たる人なる故、弓矢をさばく取信玄と、みまぜ合戦にもおそくまいらるゝうちに先衆をきりくづされ、はたもとぜいをもつて、二番目の合戦なりがたき故小田原へにげこみ、勝利をうしなひ申され候老功の氏康よりも、猶以信長は、ましなり氏康子息氏政、義元子息氏真、我嫡子四年先自滅したる太郎義信戌年にて右の三人一ツ年也織田信長に四ツおとりて一ツ時代にとり候子細は侍のうい陣十四にて仕るものありおそくば十八の時之いたす、こゝをもつて武士は四ツおとりをば、おなじ時代にさたするなりさりながら義信氏真氏政三人を一ツにくゝりよせたりとも信長足の小指はども有まじく候、今はゝや我朝に輝虎信長両人なり、さて家康は海道一番といひながら日本に若手の武士なり、是におとらぬ人も有へく候へども国を一国ともたざれば大功なることなし然れば信長家康を一ツにおしからみ、五三年の内に信玄防戦をとげ仕様をもつて勝利を得べく候へども、信長信玄に出向まじき事口惜く候、あはれ信長対陣あれかしと被仰次に惣別侍は必ず、のぞみの有をよき武士と申す昔より近江の国を一国もち、天下を望まぬ侍をば近国の事は申に及ばず其身家中よりかろしめ江州をもたせぬと申伝たり信玄望ありといへども、若盛に信州強敵の我より老功なるに取あひ、村上へかゝれば小笠原長時いで諏訪へかゝれば村上出る伊奈の侍衆もみな剛の武士、故手間を取候、信長が大敵強敵は、今川義元、扨は美濃衆家康が強敵は同国三河侍、かやうの強敵斗りに信玄わかき時より、今までもたゝかひ候、上野簑輪、長野信濃守父子にも七年かゝりておさめ今は信長家康を敵に仕り候へば、信玄は強敵大敵にむまれつきたる、弓どりなりとて、御寝所に入らせ給へばをのも退出申なり

元亀二年辛未二月十六日卯刻に信玄甲府を御立なされ、富士の大宮に三日御逗留まし、駿河田中へ御馬をうつされ同月廿四日に、遠州こやまへ御馬を向られ能満寺の御普請、少の間被仰付大熊備前を指置給ひ三月初に遠州城東郡高天神へ御はたらきなり、さる程に高天神小笠原与八郎、国を一ツともたぬ少身なりといへども家中にさすが随分かくれなき衆を、あまた持たる武篇の家なる故物見に出て、馬足軽を懸たる体、信州の村上衆同国小笠原長時衆、諏訪伊奈の侍大将達、或は上野国簔輪の城主、長野信濃守衆のごとく利発に取まはし武田勢二万余りの大軍をもつて、しかも信玄公御馬をむけらるゝに高天神衆、二千余りの少人数にて、少もまくれたる色なく結句信玄の衆油断のもやうあるにつきてはすき間をかぞへ、きつてとるべき様子、一段すくやかなるを即時に信玄公御覧じ付られ、はじめてうちあわする敵にひとしほつけずは、いかゞなり然れ共あしくかゝり、みかたもうち死おほくある時は、小笠原小身ものといひ家康旗下の高天神へ信玄自身の、はたをむけ、小笠原ほどの侍を、いくたりも引つれて、よせかけ味方に手負死人沢山なれば同前に敵をうち取たるといふとも、それは互のことなり小笠原より、大身の被官、信玄はいくたりも、もちながら小身者とちに戦ては味方大なる御まけと思召、しばらく工夫あそばして、あのごとくなる利発にあまる敵をば、我家の侍大将には内藤修理よく、あへしらひて持たりと被仰即内藤をめし、あの出たる小笠原衆を、城内へ追入味方引とるにこみ出されざるやうに仕り候へ彼小笠原衆は去年夏江州姉川におひて信長家康勝利を得候事信長は、にげたるに家康手柄を仕り、大軍の朝倉をきりくづす、家康下にては小笠原家中の者共、初合戦によく仕る故、姉川合戦信長家康勝たる、奇特其手柄を、はなのさきへいだし、信玄馬のむきたるにも、武篇だてをするとみへ候間、かならず味方少もけがなきやうに城の内へ追入て帰り候へ敵をうち取にもかまはぬ儀なり、城内の小笠原衆を、おしつめおさへくればよきことなりと被仰付候ゆへ内藤委細畏り候と御請を申、種々武畧をもつて、敵オープンアクセス NDLJP:150のわきまへざるやうに、備をいだし候て手くばりして二三のいくさをさまでもち、よき物がしらをまことにいくたりも申つけ勝利のそんとくをいひふくめ、かち者までに其理究りくつを、がつてんさせ、智略をもつて敵をおほく引いだし、武略をよくしてそなへを敵にみせ、其後せりあひをはじめ候内藤同心、矢島かゝつて鑓をあはする、此矢島久左衛門は簔輪落城の時、長野衆なるが白き練をもつて、わつこのゝぼりはしを、差物にして一本ニ八ツ子乃梯を差物にしてトアリ城内よりつゐて出甲州はたもとの足軽大将城伊庵と鑓を合せ二度めには弓を持て城の伊庵額へ射付候時矢のゆがみたるを、ためなをして射候働らきを、信玄公御覧なされ敵の長野内にて、七貫取たるに簔輪御手に入、則彼矢島をめし出され百貫被下候高天神においても、のぼりはしのさし物にて、鑓を仕る、其後内藤がた衆をもつて人数かさみ、敵の立所なきやうにいたすにより、さすがに自慢の小笠原衆内藤修理衆にをしたてられ、城内まで追こまるゝ其後小笠原衆も門をひらき、ついていでんといゝつれ共、内藤修理弓矢功者の名人なれば門際へつめよする事、殊更になく、門前を二十杖ばかりあらけ弓鉄炮足軽を段々に形義をたてたれば、敵門をひらかんとすれば鉄炮弓をもつてうちすくめ、いとぢられ候故小笠原衆出る事ならず其後内藤、信玄流のくり引を仕、大あとは長蛇のそなへを用ひてたて全集ニ高天神表と引揚にたが松夫より柴が原夫より鷺坂夫より宮口迄燐働久野懸川へをしよせ御巡見の時久野の城ひよ鳥山にて小幡上総守兄弟名誉の殿なり城をおさへて引とき如此それより遠州乾へ御馬を云々トアリテ後ノさ候てヨリ久野の城御願見なさすマデヲ省キタリ勝利のつきいくさは惣がりゝの付いれと、合戦をもち候へば是をみとり武篇の家、小笠原衆のおぼへの者ども弓矢の色をさとり其後は出す候、信玄公被仰は、はじめてあふたる敵の、おしつけを武田侍にみせたり、心ちよしとて内藤に御褒美なり、さて次の日は高天神おもてを、ひきあげ給ひ、遠州いぬいへ御馬をよせられ三河御発向留守の事、駿河に武田上野助殿駿河先方小身直参衆、乾、天野宮内右衛門と一所に穴山殿を大将にして信州定番の千貫百騎、六貫壱疋づゝの侍大将衆十頭、半分あとに人を残し候へば是千五百、氏政より差こさるゝ、大藤組の人数五百合三千余り乾に指おかるゝ故、家康も浜松に留主居三千おかるべきとの、つもりにて如此、さ候て懸川の城御順見あそばし其上久野の城御順見なされ、信州伊奈へ御馬をよせられ、たかとうに逍遥計留主に被仰付北条氏政人質助五郎殿兄弟の番を、うへの原加藤にかたく仕候へと有て北条方への境日にさしをかるゝ人数又は信州海野、仁科衆、駿河先方半分惣合せて二万三千の人数をもつて信州伊奈郡に於て勢揃あり、殊史合戦のならし被仰含三月廿六日、信玄公たかとうを御立あり西三河へ御発向候て四月十五日に足助あすけの坡ととりつめなされ候処、城主鈴木城をわたし罷退候、預よき城なれば御かゝへあり信州侍、下条を指おかれ候其後落城は、あさかい、あすり、大沼、田代、八桑、六の城落て又東三河へ御馬を向られ候へば、野田の少しこなたにとりでを仕り、菅沼新八郎といふ侍大将罷有候、家康おさへには、秋山伯耆守、馬場美濃、保科弾正、はんざい、松田伊奈、伯耆組衆に武田典厩大将にて如此、さて新八郎とりでへは、山県三郎兵衛小笠原掃部太夫、相木市兵衛、三川先方衆、つくで、だみね、長篠此三頭案内者合六頭に、四郎勝頼公大将にて、取懸られ候に、新八郎とりでをあけすて罷退候、山県衆追懸、菅沼新八郎がものどもを、上下三十七人うち取申うち、山県家中、小菅五郎兵衛孕石はらみいし源石衛門一番に人を討つしかもよき高名故、信玄公小菅、孕石に御褒美被下候、扨又菅沼新八郎は居所へつぼみ候、それをばまづさしをかれ、吉田へ御馬をむけられ候へば、にれんぎといふ所にとりで仕、家康衆ふせぎぬる惣軍をもつて大手へよせられそのうへからめてへ、三河山家三方、小笠原掃部太夫、山県三郎兵衛尉、五頭はたらくをみて城をあけ引とるなり、すこしをそき故、敵を一人もうつ事なし、其後家康、五千ばかりの人数をつれ、出向ひ申され候処に、山県三郎兵衛御先を仕り、合戦をもつて四郎殿大将にて、都合八千五百、家康にうち向ひなされ候、信玄公惣軍は西三河落城の御番勢に、千五百残しおかれ家康への手あてありて、残る一万三千、山へとりあげ、御はたをたてられ候へば、全集ニ美濃の屋形土岐殿御牢人にて甲府に御座候が此御陣見物に立玉ひ件の迫合を御覧じ広瀬が白ほろはりき差物を見届られ信玄公へ御ほめなされ候により即召出され信玄の武具喉輪をはづし下され御言葉を以土岐殿へ引合せられ我軍秘蔵乃武士にて候甲州素性の武田譜代の者度々ケ様乃働仕る間山県に預置三郎兵衛に先を申付る依てあ乃ごとく成者を幾人も先衆にさしそへ持て候と語り玉ふ偖家康公は門構に扇子の馬印を立玉ひ折節御前に見事也名のれと呼ハりし御小姓は三宅弥次兵衛菅沼藤蔵両人なりて信玄公は日暮に及て引揚給ふトアリ家康さう吉田へ引いれ申され候されども徳川家の酒井左衛門尉衆と山県衆とせりあひて、山県衆広瀬江左衛門と、家康方戸田左衛門と云者鑓をあはする、二番に山県衆みしな肥前と、家康衆、大津土左衛門と云侍と鑓合る其節孕石源左衛門、小菅五郎兵衛、鑓下の高名仕る次の日のせりあひに吉田の宿城において追いれ追出され、三度せりあひあり広瀬江左衛門其日物見番にあたり、馬上にて家康一番の侍大将、しかも家康をばむこの酒井左衛門尉と、三度の内二度ことばをあはせ、追込追出され、武篇を仕り其時、みしな、小菅、孕石、曲淵、辻弥兵衛、和田加介、長坂十左衛門、こち、此八人馬よりおりたち高名仕り候、広瀬は馬上故人をうたず候なり、扨又其後、山どをり、うしくほ長沢まで御はたらきなされ、やがて引かへし、三河しだら郡、其外御仕置候て五月なかばに、御馬入申候仍如

別而御祈祷之奉公相勤候間、駿州洲走之浅間之宮同州岡宮社務之事被仰付候弥奉御武運長久就中祭礼等不怠慢者也仍如

オープンアクセス NDLJP:151 元亀二辛未年卯月廿一日              跡部大炊介

                          原隼人佐

                  △一本ニ富士北室小佐野越後守殿トアリ  小佐野越後守殿