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甲陽軍鑑/品第卅八

 
オープンアクセス NDLJP:151甲陽軍鑑品第卅八

一信長家康へ異見の事 一霊陽院殿より御使者の事 一霊陽院殿より御使者の事 一申酉両年御備書付御分国中江廻被成 十八ケ条 一信長より漆所望之事  一関東侍衆馬進上之事 一関東侍衆馬進上之事 一氏政より御音信之事 一信長より家康と御無事之儀被申事付御音信之事

元亀二辛未年七月又家康と御取合はじまり候へ共信長はいつものごとく御入魂ぶりなり然ば家康へ信長より異見に三河の吉田までつぼみ遠州浜松には家老をさしおかれ候へとあれども家康溜松の城を立退のくほどならばかたなをふみ折、武篇を捨候はんことは、いかにもあれ武士をたて候はゞ遠州の内を立のく事有まじくと内談を定め信長への返事にはいかさま御意次第に可仕候、先一日成共是に罷有べく候とて浜松を引いれず候儀遠州三河侍衆より書付進上申候、未九月山県三郎兵衛、信州伊奈より四千の人数を引つれ西三河東三河仕置に罷出候、山県手前の衆に信州諏訪衆伊奈の山県三郎兵衛同心組衆をつれて如此さありて家康家老本多百介と云剛の武士むすこを、未の九月もち候所に此子三ツ口なりとて家康山県と名を付候子細は、武田法性院信玄とて人の名をよぶ名大将の家老共の中に山県三郎兵衛大剛の侍大将成が山県も三ツ口なりと沙汰あれば家康が家老に三ツロの生るゝ事しかも甲州家の山県三河へはたらき出るにさし向ふて如此なれば山県が正体をこなたへとりたる心なりと、家康吉事を申されて如件


未の九月はじめに公方霊陽院義秋公義昭ナルベシより松原道友、尼子新左衛門、此両使を被差下信玄公へ御頼有、子細は織田信長、公方を天下へ御供中、二三年の間は馳走申上候へ共去年七月都をとりて三好を倒しをのが被官を天下の所司代に指置、五幾内或は丹波、播磨、若狭、丹後まで大方手に入候へば此比は公方を殊外あなどり奉り盃を始めては公方へさし、茶をたべ残しては、是を公方のましませなどゝ云、又公家近衛殿などをも、やい近衛などゝ、様々いたづらを仕り、異相をたて候間彼信長を倒なされ度と有其使也其上越後上杉入道謙信輝虎にも右之通被仰付候へば謙信委細畏たりと御請申上候間、信玄も輝虎と申合せられ両旗をもつて信長を退治申べしと公方より被仰信玄兼て分別あそばし候により毘沙門堂、金の坐敷にて、御使者に対面ありて信長無行儀の故、御成敗可仰付上意御尤に奉存候それに付輝虎たやすく、御受申候はゞ何か別儀御座有べく候輝虎は一段やさしく弓矢を取廻しすくやかに生れ付たるものにて候間やがて思召のごとく信長御誅罰疑ひなく候、さ候て我等も輝虎同前に御うけ申上度候へども各御覧ぜられ候通出家に罷成、弓箭をとり申すべきをはや失念仕候へば何方へも罷出、国ばしに於て少し鍛錬いたし其上御請申べく候、只今信玄が公儀へ御奉公には護摩を修し御祈念をいたし、御武運長久御息災延命の札を進上申べく候、能様に御披露奉頼候と有て都よりの両使を馳走なされ、御腰物馬つかはされやがてかへし給ひて後喜見寺仙海法印に、信玄公被仰は公方の両使に盃のうへ、さかなをはさみ候へば其肴をくふて後たゝみにて手をのごひ候程、無穿鑿なるは公方家悉くすへになりたるに輝虎、信長退治の御請申候謙信が状を公方より御越候、輝虎武道は如形すぐれたる者なれ共此の分別工夫の四文字なき故卒爾にうけおひ申候、国を持者の申事は一日の間に五日路十日路へきこゆるなればむさと物はいはぬ国主の法也と仙海法印へ信玄公御物語なり、仍如件

申酉両年の御備書付御分国中へ迴なされ候跡部大炊介、原隼人佐奉之辛未八月吉日

来年者無二至尾、濃、三、遠之間干戈当家興亡之一戦条累年之忠節此時候間或近年隠遁之輩或不知行故令蟄居族之内武勇之輩選出、分量之外催人数、令出陣忠節戦功之儀年内無油断支度肝要之事

向後於一戦場戦功者、依忠節之浅深貴賤所望所領之事

各家中之親類被官累年武勇名誉之人勤軍役輩以注文申達向後進退相当加恫意又随忠節戦功直恩

自今以後為厚板、薄板、繻子、段子、綾、上々島等之衣装、略無用之費畢竟武具之調在陣之支度専用意之事

オープンアクセス NDLJP:152頃諸軍共余、弓空穂見苦候之条、外見如何候、向後叶武勇他見可然様可申付候事

立物鑓験并朱四手等如累年相違肝要候、新調法尤候事

知行役之人数如先例武具等一様も無関所支度之事

身之分限乗馬嗜事

近年者、諸手共馬介具不足之様見及候間、堅有穿鑿分量相当嗜候様可申付

当時鉄炮肝要候間、向後略長柄噐量之足軽鉄炮持参併以着到鉄砲令糺明上、鉄炮可帯来様子〈[#「帯来」の返り点「一」は底本ではなし]〉、後日可下知之事

弓鉄炮無鍛錬之族一切不持参候事 付向後者於陣中節々以検使改弓鉄炮鍛錬之族可過怠

長柄持鑓共、可柄打柄之事 付此比長柄之実一段疎之間自今以後別而結搆支度之事

乗馬歩兵共、一統之指物申付、於戦場剛臆歴然之様可申付事 付指物小旗之儀者可随身之事

大小人共一手之内及一戦之砌可戦功手分手組等兼日被相定何時催促次第令出陣武勇仕置肝要之事 付各存寄てたて書付勝頼可披見之事

小旗差物新調之事

貴賤共分量之外鉄炮之玉薬支度可忠節

討死并忠節之人、遺跡幼少者至十八歳迄以武勇之人陣代可申付但於堪忍分者無不足之然而及十八歳之翌年者速知行被官以下、可還附之旨以誓詞相定之事

向後於陣中貴賤共振舞一切可停止_之然則定器之外、椀折敷以下無用之荷物帯来禁法之事巳上

元亀二年霜月下旬に織田信長より佐々権左衛門使者にて金具の鞍鐙五口進上申され候則ち其使に甲州漆所望有に付、高坂弾正に被仰付候へば弾正申上るは信長より一年に七度づゝ定て御使の外三度四度も参り候に此方よりは二年に一度斗りの御使者に候へば悉皆御はたした御旗下会釈に御状の文体まで被遊候それも喧狂けんけふなる信長少も気にかけず御入魂じゆこんぶり被仕候漆御所望申さるゝも、大身の信長天下を持ながらことかく儀も有間敷候へ共御縁者中、御心易ぶりをもつて如此候御手ぎれ候はゝ猶以少はいかゞに候と申上、高坂弾正分別いたし、甲斐国うるし三千はい佐々権左衛門に、青沼助兵衛方より渡す也以上

元亀二年霜月下旬に関東下総とうがね、両酒井、こがね、高木、終に音信不申上衆、三人ながら能馬を進上申候其外関東侍衆日来御入魂申さるゝ人々、多賀谷、宇都宮をはじめ皆馬を進上申也

北条氏政より白鳥十、江川酒樽一本ニ江州酒樽トアリ一対、八丈縞二十端、にた山絹百疋御音信なり

極月中旬に、織田信長より織田掃部をもつて家康御無事之儀其御状に態と奉啓上候仍遠州参州両国之守護徳川家康事貴国御近所に罷有慮外仕相違之儀候者御返事次第此方江召寄差置異見可申候委細者此使者口上可言上候間紙面早々如此候恐惶謹言 織田上総守

 極月朔日 信長

 法性院殿  人々御中

其時信長公より御音信は信玄公めしの御小袖一重いつものごとく蒔絵の箱に入、御わたぼうし御頭巾まで例のごとくうつくしき箱に入て此外繻子、段子、合三十巻、又御料人様へも御小袖いつものごとく、此外厚板五十端、薄板五十端、島五十端、片色五十端、せんじ百疋、以上 信玄公家康と御無事の信長へ御返事の御書は、度々来意珍々重々候然者遠三両国之境目居住仕逆侍躍倒赦免之儀、翁更不相心得候委細者後音可申述者也

 極月廿三日 大僧正信玄

 織田上総守殿

 御報