【 NDLJP:117】甲陽軍鑑品第卅二 巻第十下
一謙信と和睦不㆑調又対陣事 一河中島出陣謙信対陣事 一飛弾国へ御手遣之事 一西上野江御働之事 一氏康信玄公頼候事 一小田原江加勢入事 一謙信小田原押詰事付飯富兵部信玄公江異見事 景虎敗軍並信玄公さげすみの事 一景虎上洛之事 一小幡尾張守甲府江参る事 一信州先方衆御成敗之事 一河中島合戦之事 一あまかず近江守退口之事 一法師信玄に紛る事 一信玄氏康松山城攻事付竹たば鉄炮之事並輝虎後詰山根城攻落す事 一松山城に上田暗礫斎被㆑置事 一北条氏政麦飯之事付上杉と氏康合戦物語之事 一知行割之事 一信玄公義信中悪く成事
永禄元戊午年二月、越後景虎入道謙信より、信玄公へ手を入申さるゝは景虎信玄へ少も子細は無㆑之候村上義清に頼まれての儀是迄なり所詮信玄公と面談申、無事に仕り我等は越中能登加賀を伐とり、父為景への奉公にいたし、扨は上杉則政を東上野平井へ帰参なさるゝ様にと存るに、信玄公と取合候へば何事も成就申さず候間、ちくまの川を隔、諸礼仕以来は、ともかくもと景虎申越さるゝに付其年五月十五日に景虎公と信玄公と御無事の儀越後信濃各々悦ひ候事限なし扨五月十五日に両大将御対面の時筑摩川を隔て両方の川のはたに牀机を置き両大将ながら馬にめし牀机の際にて馬よりおり、互に御供は五人づゝ、あたりに人を払てと定、其ごとくなされ既に川端まで乗よせ両方馬よりおり給ふ時、景虎公手がるき大将なれば、信玄公に手遅くみられじと思召し候故早く馬よりおりて牀机に腰を懸給ふ、信玄公そこにて、馬氈を直すふりをなされ馬の上においてくるしからぬ景虎、馬にのられ候へと被㆑仰候間景虎おほきに腹を立て頓而馬に乗もどりて、信玄公へ使を立、我等の家は鎌倉の権五郎景政から梶原平三景時迄五代、それより代々続き来りて為景景虎と申候、武田は頼朝右大将富士山まきがりの時分も御所の次梶原、其次に武田といふ事歴然無㆑之其上八年以降は上杉に成、管領職を請取て候と、謙信申され候、信玄公御返事には梶原は頼朝の取立の被官なり武田は公方の御相伴也時にいたりて出頭なれば何様のいやしき者も、君辺へ近付事昔が今に至る迄珍しからず候それが家の系図には成がたきなり、又管領職の事、上杉則政侍の忠不忠もしらず、譜代旧功新参本参のせんさくもなく、民百姓の困窮もしら【 NDLJP:118】ずむだと所領を取くれ、逆に物ごと執行ひ、人罰を以て天道に放たれ奉り、氏康に負て、嫡子龍若迄捨て越後へ迯入り名利の尽たる管領を譲られて、景虎の管領と申さるゝは一段若気なり、殊更信玄に慮外せられたりと腹を立らるゝ景虎無分別なり、信玄は緩怠するとは努々思はず候、只有様の会釈なれば堪忍の二字を、分別せられよと、御返事に付、謙信大形なく見興にて又取あいをおこし、五月より閏六月半迄七十日余対陣、其後は景虎退散故、信玄公も七月十一日甲府へ御帰陣なり仍如㆑件
永禄二年、巳未二月十二日に信玄公甲府を御立あり、川中島へ御馬を出され候へは【川中島信玄謙信対陣】、十三年以前に村上義清と越後へ退たる四人の内、清野と云侍大将御詑言申候、弟西条【西条治郎】、忠節人の故、御免あり抱へ置き給ふなり、其時分村上と立退たる侍大将は清野、高梨、井上、須田是四人成るが、清野は帰参申候、須田跡をば、弟須田甚八郎に被㆑下候故、甚八郎一門をあつめ、高坂弾正さきを仕るなり、高梨、井上したにて武篇よき侍を、七十騎召出され馬場民部助に預下さるゝ、馬場民部始め五十騎と合せ百廿騎の侍大将也又信州にて武篇少もよかるべき一両度も心ばせの有侍を三十騎召し出され、下会禰に預け被㆑下、むろ【むろハ小室ナルヘシ】の城代に指おかるゝなり、扨信玄公かいづに御座候を、謙信きゝ、陣ぶれをいたし候以上
永禄二年、巳未三月中旬に、越後の謙信川中島へ出る十五日、信玄公と対陣ありて四月二日越後、加賀能登へ出陣いたすと、景虎申され四月三日に早々引入謙信五月は越中へ出、越中、加賀、能登の侍衆と景虎より無事を仕り候へば右三国の侍衆申は、謙信公より御取合なくは此方は少も搆申さす候とて、無事に仕り、景虎六月中に越後へ帰陣也、信玄公は四月十日に御帰陣也、六月半信州松本迄御馬を出され、六月すへに飯冨三郎兵衛、甘利左衛門尉、馬場民部助三人の侍大将に被㆓仰付㆒飛弾の国へ御手づかひなされ飛弾侍、しらや【白屋】筑前守、江間常陸守両人弓箭の家風をひきみる時せりあひに、飯富三郎兵衛我同心被官をこし、自身鑓を合する其後彼の境目にとりでを拵へ、木会衆に長坂長閑入道指添、飛弾国押へ、諏訪には小宮山丹後を陣代に被成七月末に御帰陣也
永禄二年九月初めに、信玄公甲府を御立あり、上野簑輪、長野信濃守をおさへ、西上野の毛作をふり給ひ候へ共、長野信濃守地戦には千騎と申て堅く八百騎程持、弓矢功者の侍大将にて其上西上野を大形縁類に仕候へば五度や六度の御働有分にては中々よはけをみせ信玄公御被官にも成難くみゆる故、十月半に信玄公御馬を入給ふ仍如㆑件
永禄三年庚申二月朔日に北条氏康公より御使甲府へ遣せらる信玄公を頼給ふ【氏康信玄ヲ頼ム】子細は、越国の謙信去年十月末より上野の平井へ参り居候て、関八州の侍大将共を、太田三楽才覚を以て悉く謙信旗本に引附申候、氏康は久我〈[#ルビ「くが」は底本では「しが」]〉の公方と組候へ共其儀をも不㆑用誠やらん、都より近衛殿を申下し、公方と名付奉り、氏康を倒すべきと申げに候若し此事つのり候はゞ、信玄公の加勢を頼入候由被㆓仰越㆒に付信玄公いかにも相心得被㆑成候と御返事なり
永禄三年庚申二月十三日に、相州小田原北条氏康公より甲府へ飛札を以て仰らるゝ、其趣きは景虎近日小田原表へ働由に候、兼て約束申ごとく加勢を可㆑給の由御頼有に付、初鹿の源五郎と申足軽大将と青沼助兵衛是も馬乗十六騎かち足軽卅持たる人なり、此助兵衛は損徳の考へ能して山川迄も、所務の勘弁上手の人なれば、信玄公御分国中諸代官の算用奉行両人の内なり、氏康公御蔵、何程富貴成か加勢に参たる次でに、能見て帰れと被㆓仰付㆒候初鹿の源五郎は其年廿七歳なれとも十六歳より武篇度々の誉ありて信玄公御感六ツまで取て持、しかも弓矢に一入賢き人なれは、此度加勢の次でに氏康公の衆大敵を引請て其様子誰は如何様成、よく見て帰れと被㆓仰付㆒候源五郎も歩足軽卅人の大将なり、右両人二月十六日に甲府を立て同月十九日に小田原の城にこもるなり
永禄三年申の二月十八日に、信玄公甲府を御立あり、信州上野の境吹笛峠のこなたに御馬を立られ候扨又越後の景虎は関八州の侍大将衆大小合七十六備、此人数九万六千、謙信譜代衆一万七千と合て雑兵ともに十一万三千の軍兵を将て北条氏康の居城の国相州へ押詰る先衆は大磯小磯、後備、脇備は藤沢、田村、大かみ、八幡或はあつきなどゝ云ふ所に陣取候、景虎は古今にまれなる、つよき大将にて御座候なれば先衆の次に何時もまします故、此度も高麗寺山のふもと、山下といふ所に陣を取、一のさき衆、太田三楽小磯に陣をはる小磯より謙信の旗本陣場山下へたゞ十八町あり、景虎公の威光関東の事は申に及ばず奥、北国海道七ケ国迄も、刹那が間に聞へまことに武勇の誉れ、日本国中にならぶ方なしと、上下万民ともに、景虎公を讃ざるはなし、此事信州かる井沢において信玄公へ飯富兵部少輔申上、景虎ケ様に候はゞ此度北条氏康公、御切腹疑なし、さありて其後は、駿河今川義元公と、扨は信玄公両大将滅亡と存候【 NDLJP:119】間氏康公堅固の間に笛吹を引いれ、甲州よりみませ到下をかゝり花水川へ打出関東勢をば指置、景虎と有無の防戦あそばし候はゞ勝ても負ても、信玄公の御名は末代迄申伝ふべく候、殊更当方の身にかゝる事にてもなし、北条氏康公に頼まれて義理の一戦は弓矢をとつての面目かと、飯富兵部信玄へ諫申上る、信玄公被㆑仰は長尾景虎働き出或は引取武篇の形義を十四年以来みるに、弓矢の儀は生つきて健に其身が得ものゝ様に候へ共、臆意にねれたる工夫なき者にて此度の義は結句、氏康のため以来吉事なる其子細は、上杉則政うつけたる人の故、関東の侍共うへには則政をおづる様にて、底井あなづり、藤田左衛門をはじめ、上杉家の侍逆心して、上杉を押出す、氏康の一段神妙成人を主にいたし、各むつかしく存知景虎よかるべきかと思ひ、今は渇仰する共年若き三十歳に成る謙信が無分別と云ひ、然も短気者なれば手あらに仕置を仕、今年来年の間に、関東の諸侍、謙信をうとみ、独り立ならず氏康を頼より外有まじきと被㆑仰候へ共、飯富兵部は一円合点申さず候以上
景虎三月中旬に、相模の小田原へ押込既に蓮池迄乱入に心も知らぬ関東侍大将衆に、少も機遣なく甲を脱白布の手拭をもつて、桂包と云ふ物に頭を包み、朱さいはいをとりて諸手へ乗わり下知し人をいきたる虫程共思はざる景虎のふりをみて関東の諸侍大小共に舌をふるひ此大将を頼候はゞゆく〳〵大事也と面々身の上を思ふ人多き也、扨て其後景虎、鎌倉鶴岡八幡宮へ社参の時近衛殿を都より申下し公方に作りたて景虎は山の内より大石、小幡、長尾、白倉四人の侍大将を近辺につれ、中にも上野国鷹巣の城主小幡三河守に太刀を持せ、景虎管領に成威勢東卅三ケ国に双ぶ方なし行々都迄も、かつがう【かつがうハ発向ノ誤ナルヘシ】有に誰有てたてをつく人あらんや、子細は先年は卅歳の時なり越後大国に東上野をそへて持、下地の家は長尾代々大国の越後持来り、然も武篇の家なれば、弓矢功者の家老、景虎をもどく程成る衆百騎二百騎の侍大将三十人に余り持給ふ、景虎関東中を従へ管領に成、十万余の人数引まはし、三年の内日本の主に成給ふべき事疑なし、果報の大将かなと、諸人批判する所に、社参の帰に、忍の成田ながやす【長康】と云ふ五百騎の大将畏りゐたるによの者より頭少し高きとて景虎大きに怒て、持たる扇を取まはし、成田か顔を三ツまてうち給ふ、成田、宿へもどり我も五百騎と申して、地戦には千騎の侍を引まはす所に、景虎に如㆑此せらるゝ事口惜とて、景虎に暇乞なくて、忍へ帰るそれをみて悉く引払ひ景虎手勢一万七千の人数さへみだりになり、こにだを地の百姓にとられ、小者中間をころされ、敗軍にて漸々上野平井まで景虎なればこそ、相違なく引とり給ふ、上野平井に逗留まし〳〵五月始めに、景虎越後へ帰陣なり、武田の家の諸人大小上下ともに、信玄公御さげずみ、少もちがはず候と感じ奉る
永禄三年庚申年、五月中旬には、越後の景虎より、甲府へ使を被㆑遣候其子細は景虎都へ上り【景虎上洛
全集ニハ永禄四年トス】、公方光源院殿へ御礼申上候、但信玄我等持の内へ働き給ひ候はゞ、景虎上洛思ひとゞまり申べく候、公方への儀私事に非す候へは、信玄も公方へ対し奉られ我留主へ働きなされざるは本意なりと景虎申越さるゝ故、信玄公御返事に尤も其方上洛留主中に、景虎の持中へ手づかひ申まじきと有御返札就㆑其景虎上洛有て【全集ニハ景号上洛ノ下ニヿ此時太田三楽分別に此留守中に信玄越後へ働なく心易田原働の時鎌倉にて謙信へ心を放したる衆と無事を作り則政を大将にして二万余は人を引卒し相州酒勾迄押詰る安房の里見正木大膳は佐倉へ押詰北条方の千葉を働かせず又里に正木左近を差副相州金沢を乗取此時信玄公越後へ御働を氏康公より頼み駿河氏真へ仰せらるゝ御使は一ノ宮随波斎なり信玄公景虎と約束也とて両度迄御承引なき御返事也三度目に随波申ハ謙信は他人也氏政は御聟なれバ御変替して不㆑苦北条を絶されては信玄公乃義理相違也と達て申候に付高坂越後へ働入たへ酒勾或ハ忍、川越へ押寄たる越後勢退散は悉皆信玄公の鋒先故氏康氏政滅亡なき事隠なしトアリ】公方光源院義輝公へ、景虎御礼申上猶以て管領職を申請け然かも義輝の輝と云ふ字を被㆑下其上網代輿文の裏書、公方様より、ゆるされ候て、上杉輝虎と此比は申候如㆑件
上野侍大将、小幡尾張守、相聟小幡図書助と申、侍大将に行をせられ牢人して甲府へ参り、信玄公を頼奉る故則ち信玄公御抱へなされ、信州大日向と云ふ所五千貫の所領を堪忍分とありて小幡尾張守に被㆑下事、庚申五月也然ば小幡尾張守、小幡図書両人は、上野簑輪の、長野信濃守聟なれども、小幡尾張をば、信濃守悪む子細は、小幡尾張は千騎斗持たる故、聟にても長野信濃守手に廻ざると心得、今一人の聟図書は尾張よりは、少身者成故、信濃守被官に候間、図書と信濃守談合して小幡尾張を押出すを以て如㆑此庚申九月中に、信州上州の境なんもくと云ふ所に、要害を拵へ右尾張守を指おかる尾張守才覚を以て西上州の城三箇所信玄公御手に入、其外其年三月越後の謙信をそむきたる侍衆、其年中に、又氏康へ降参いたす西上野衆は、信玄公へ御礼申、但安中、松枝、簔輪三箇所ばかり、信玄公御手にいらす候なり
永禄四辛酉年五月七日に、信玄公中府を御立あり、川中島に御馬を立られ、信州先方侍大将に、仁科殿、海野殿、高坂、三人を御成敗也此高坂は春日弾正に名字くれたる高坂也、然れとも右三人の衆思案に前申の年景虎小田原発向の時小田原陣にては有まじき、定而大軍を以て信玄公を倒申べく候、子細は、十四年の間、景虎度々信玄にうちあはせ、軍の支配をとられ、勝時をあげられ候へ共、景虎一度も、軍場をふまへ勝時の執行無㆑之を口惜きと被申候間、必ず小田原発向とありて、景虎大軍を以て甲斐国へ打いらるべきと考へ其節、ふりを仕たる科により、三人の侍大将御成敗なり然れとも海野殿跡をば、侍八十騎【 NDLJP:120】其儘召をかれ、奥座の若狭に被㆓仰付㆒信玄公二番目の御曹司其年十八歳に成給へど盲目にて御座候故、龍宝と申に、海野の跡をつがせまいらせらるゝなり、仁科の跡五十騎をも召おかれ、是は甲州あふら川原【一本ニ甲州油川腹の御子八歳に成給ふを被仰付仁科の五郎是なりトアリ】の五郎殿と申て、其年五歳に成給ふを、仁科殿に被㆑成、仁科の五郎是なり、如㆑此の仕置被㆑成、同年六月信州わりが岳の城をせめおとし、六月末に信玄公御帰陣なり
永禄四辛酉年八月十六日に、信州川中島より飛脚参りて申上る、輝虎出てかいづの向、西条山に陣取候て是非かいづの城を攻おとし申べしとあり、其勢一万三千斗なりと申上るより、信玄公同月十八日に甲府を御立なされ同二十四日に川中島へ御着あり、謙信の陣所西条山のこなた、雨の宮の渡りを取切、御陣を取給ふ、謙信の衆は越後への通路をとめられ縦は袋へ入られたるごとく也と、うれふれ共輝虎少も愁たる色なく候、かくて信玄公五日それに御馬を立られ六日目二十九日に、広瀬の渡をかゝり、かいづの城へ引入給へど、謙信家老の異見もきかず、西条山にいつものごとくゐらるゝ、扨又信玄公へは飯富兵部いさめ申は、有無の御一戦尤と申上る、信玄公馬場民部助を召して御談合候へバ馬場も御一戦あれと申上る、信玄公仰らるゝは、我家の足軽大将弓矢功者の者共、小幡山城此六月病死原美濃も当夏わりか岳城において十三箇所の手負未た疵直らす候故召つれず候とありて山本勘介を召し、馬場民部助と両人談合にて、明日の合戦備を定よと被㆓仰付㆒山本勘介申は二万の御人数を一万二千、謙信の陣とり西条山へ仕懸、明日卯の刻に合戦を始め越後勢負候ても、勝候ても、川を越退申べく候間そこにて御旗本組二の備衆をもつて跡先より押しはさみ討取様になさるべく候と、山本勘介申上る故、高坂弾正、飯富兵部少輔、馬場民部、小山田備中、甘利左衛門尉、真田一徳斉、あい木、蘆田下野、郡内の小山田弥三郎、小幡尾張守此拾頭は、西条山へ懸て卯の刻の合戦をはじむべきなり就㆑中御旗本組は飯富三郎兵衛、中左は典厩、穴山殿、右は内藤修理、諸角豊後、御旗本、脇備は一左、原隼人佐、逍遥軒、右脇備は太郎義信公其時廿四歳なり、義信公右望月殿、御旗本後備は、跡部大炊助、今福善九郎、浅利式部丞、此十二備、御旗本共に八千有、今夜七ツ寅の刻に打立ち広瀬をこして備をたつるに敵の退をみて一戦をはじむると定、先衆旗本衆したゝめのじんぎを西条山において、謙信見給ひ我家の侍大将を悉くよびあつめ輝虎申さるゝは、十五年以前、未の秋、信玄廿七歳謙信十八歳の時、とりあひを始め度々合戦仕候へとも信玄の備ちがふ事なくしておさまる所に軍場を信玄にとられ、みな謙信がをくれの様也明日は合戦と見るが、信玄の武略に人数を二手にわけ、此陣場へ懸つて合戦をはじめ謙信が旗本川をこし引のく所を、半分の人数を以て討取へきとの合戦定め、鏡にうつろふごとくにみへたり、爰は謙信もぢう手を一ツ仕り、やがて川を引こしそこにて夜をあかし、日出ではかゝつて合戦を始め、信玄の先衆かけつけざる以前に、武田勢を切くづし信玄の旗本と、我旗本と一戦をとげ信玄と、我と手に手をとり合、組ふせて指違ふか、摸様により無事にするか、いづれに明日は、二ツに一ツの合戦なりと、輝虎物の具をして、九月九日の亥の刻に、西条山を打立て雨の宮の渡をこし向へうつらるゝに、一万三千の人数なれとも、音も聞へざる子細は越後衆陣の時一人に三人あてがひに朝食を調させをき候軍法故人馬の食物を調へざるにより、火を焼く色みへずして如㆑此、左有て九月十日明ぼのに、信玄公広瀬の渡りをこし八千余りの人数にて備をたて、先衆の一左右を待給ふ所に、日出て霧悉く消ければ輝虎一万三千の人数にて、いかにも近々と備たり、謙信強敵の故、対々の人数にてさへ、あやうき合戦なるに、まして信玄公は八千、輝虎は一万三千なり、勝と云ふとも討死あまた可㆑在㆑之と武田の各々存ずるは理なり信玄公信州先方浦野と云ふ弓矢功者の侍を召し物見にこし給ふ浦野見て帰り御前に畏り輝虎はのき候と由上る、信玄公積のよき大将故被㆑仰は、謙信程の者が、よひより川をこし、そこにおいて夜をあかす程にてむなしく引取べきか、但退やうはいかんと問給ふ、浦野申は謙信我味方の備をまはりてたてきり、いく度も如㆑此候て、さい川の方へおもむき候と申上る、信玄公聞召し、さすが浦野ともおぼへぬ事を申物かな、それは車がかりとていくまはりめに旗本と、敵の旗本とうちあはせて、一戦をする時の軍法是なり、謙信は今日を限りとみへたりと有て備を立なをし給ふ、謙信はあまかず近江守と云ふ大剛の侍大将雑兵千の備をはる〳〵次にたて直江二千の侍大将に小荷駄奉行を申付、謙信は一万の人数をおしまはし、柿崎と云ふ侍大将を一のさきにして、二の手に輝虎指つゝみ旗をうつぶけて無二無三にかゝりて、ひとてぎりに合戦をはじむる其間に謙信旗本にて、信玄公味方の右のかたへまはり、義信公の旗本五十騎雑兵四百余の備を追立、信玄公の旗本へ、謙信の旗本敵味方三千六七百の人数入乱て、ついつ、つかれつ、きりつ、きられつ、互に具足のわたがみを取あひ、くんでころぶもあり首をとつ【 NDLJP:121】て立あがれば其首を我主なりと名乗て鑓を持てつきふせ候をみては、又その者を切ふせ候、甲州勢も手前に取紛れ信玄公いづかたに御座候も存ぜず、越後勢も其通りなり、然ば萌黄の胴肩衣きたる武者白手拭にて、つふりをつゝみ月毛の馬に乗り、三尺斗の刀を抜持て、信玄公牀机の上に御座候所へ、一文字に乗よせ、きつさきはづしに、三刀伐奉る、信玄公立て軍配団扇にてうけなさる、後みればうちはに八刀瑕あり、御中間衆頭、二十人衆頭、都合廿騎の者共、大がうのつわものゆへたちまはり、敵味方にしられざる様に、信玄公をとりつゝみ、よる者共を伐払ひ申候中に原大隅と申御中間頭青貝の柄の御鑓を持月毛の馬に乗たる萌黄の段子の胴肩衣武者をつけば、つきはづしたるにより具足のわたがみをかけうちつれば、馬のさんづをたゝき、馬さうたつてはしり出候、後聞けば其武者輝虎也と申候、然ば旗本組の内飯富三郎兵衛人数にて、越後方、一の先手柿崎衆を追崩し、三町程追討にする穴山殿衆も謙信の内柴田を四町程追うちにする、信玄公御牀机立られたる場を【全集ニ信玄公ハ御中間頭二十人其外十七八歳の御小姓に土屋平八真田喜兵衛(此次切まて見へず)計にて御末几立られたる場を云々トアリ
又殊に典厩夜明て二度目乃物見より敵乃勢を見定覘じて信玄公の御前へ来り此御一戦御利運たるべきや御思案可㆑有也と云て我八百乃備へ帰母衣をだににあげ馬上にて下知せらるゝ敵方にハ村上須田安田三備合二千の人数かゝり来りて相戦ふに終に押付を敵にミせず退口を棄相さゝへて討死なりトアリ】、少も立退給はず、其外九頭は悉く敗軍してちぐま、広瀬の渡り迄追討にうたれ、太郎義信公を始めしさり給ふ、殊に典厩御討死、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人は山本勘介入道道鬼討死、初鹿源五郎討死、信玄公御腕にうす手二ケ所、太郎義信公も二ケ所御手おはれ、此合戦大方は信玄公御まけとみる所に、西条山へかゝりたる先衆十頭、謙信にだしぬかれ鉄砲の音、ときのこゑをきゝ、我いちましにちくまをこし、越後勢の跡より合戦をはじめ追うちにうつ、さすがの謙信も和田喜兵衛と申侍只一人つれ【一本ニ和田喜兵衛と宇野左馬只二人主従三騎にて三牧畠乃瀬をわたり高梨山へかゝりトアリ】、名誉の放生月毛を乗はなし家老の乗かへにのり主従二騎にて、高梨山へかゝり退給ふ、典厩御頸をば御内の山寺【山寺妙之助】と云ふ侍取かへして、然も其者を討て典厩の御しるしにそへて帰る、諸角豊後首をば諸角同心の石黒五郎兵衛、三河牢人成瀬【成瀬吉右衛門】と云ふ侍と両人にて取かへし、越後衆の頸をとり帰る、其合戦卯の刻に始りたるは大かた越後輝虎のかち、巳の刻に始まりたるは甲州信玄公の御かち越後衆を討取其数雑兵共に三千百十七の首帳をもつて、其日申の刻にかち時を執行給ふ御太刀は馬場民部助、弓矢は信州先方の侍、もろがなり、永禄四年辛酉九月十日信州川中島合戦とは是なり、此合戦以後輝虎信州へ出ず候、諏訪頼茂、伊奈衆、木曽義高は降参、ふかしの小笠原長時葛尾の村上義清、此衆と輝虎をそへ、年々の弓矢ありて都合二十四年に信州おさまる信玄公武篇のなされやうは、信濃衆にてこうしやになり給ふなり仍如㆑件
輝虎の後備あまかず近江守雑兵共に千の備を、少もちらさず、敵味方の勝負にも搆はず、越後勢総人数のくずれにげる道を、殊に静々と通り退くこと廿町斗なり、是を謙信とみる者多し、高坂弾正衆に伐くづされ二十町程過ては、甘数衆も皆乱るれ共、近江守は崩れず、六七騎にて雑兵四五十つれて、さい川をこしさい川のあなたに、三日逗留仕敗軍の越後勢をあつめ帰陣仕る甘数近江守近国他国に誉ざるはなし謙信秘蔵の侍大将の甘数近江守は、かしらなり、甘数近江守備において、白羽織着たる侍、三騎乗さがつて殿仕所を小幡又兵衛乗もつて二町斗の間に二騎引落して腕に薄手負候間、争か人をうつべきと申候へば、熊江孫四郎と申忰者、三人目の白羽織をつき落して主の又兵衛にうたせ候を飯富、甘利、馬場みられ、信玄公へ申上られ候故又兵衛其年二十八歳にて父小幡山城ごとくにさいはいをゆるし被㆑成其時の御褒美に御感状に添御長刀を一枝下さるゝなり仍如㆑件
川中島合戦の様体を後に謙信家老衆と、せんさく被㆑仕申さるゝは、信玄と大方見つれとも信玄謀有人にて法師武者を大勢仕立をかれ候ときく若し只の侍と組いけどられては如何と思ひ、馬よりたりて信玄と手を取あはせ、組ふせさる事口惜きと申され候也【全集に法師武者を大勢仕立置と聞く其上功ある勇士共二十人余長身の鎖を面々持突或は打て能足紅の糸毛羽織は白地に金銀の桐の頭割菱しげく付る若き出立なれば舎弟逍遥軒か子息太郎かと疑ひ常の侍と組生捕られては如何と思ふ虞に長身乃鎗を以馬の三頭を打れ馬走出て一町半程広瀬乃渡涯へ乗入をば黒き馬に金乃馬鎧懸たるにのり武田太郎義信と名のりて互に馬上にて伐結ぶ某甲へも綿噛脇立十一ケ所伐または跡有太郎にも血を引所腕の中程にありつると覚る兎角の間に信玄先手跡より懸り来り壱万余にて其の惣人数を追討小荷駄崩ちり武者共の中へ入交り立直す事成間敷と思ひ直に馬を早むる所に宇野左馬助和田喜兵衛三騎にて高梨山へ懸り退たり左馬助は軍配を繰損じたるに付犀川乃渡れり此力にて自害仕偖又馬より下立信玄〈[#「玄」は底本では空白]〉と手を取合組打ふせざる事口惜と申さる也トアリ】
永禄五年壬戌正月七日に、相州小田原の北条氏康・同氏政御父子より甲府へ使を被㆑遣信玄公を頼み給ふ子細は武州松山の城を太田三楽支配仕り、彼の城には則政庶子上杉友貞をこめ巳は中武蔵江戸の城に罷在近辺の侍大将をだまし付、氏康松山の城をせめ候はゞ、三楽後詰いたすべき様子にみへ候間、太田三楽後詰斗は不㆑苦候へとも三楽越後の輝虎を頼候はゞいかゞにて候其為に信玄公御馬を出され松山の城を氏康せめ取申候警固をあそばされ給ひ候はゞ、松山の城氏康手に入候に付ては武蔵国大方おさめ其後は信玄公へむつかしき無心申まじく候、此春は是非御手前の用をかゝれ、信玄公の御出張所㆑希に候と頼給ふ故信玄公同年戌の二月二十八日に甲府を御立あり、よぢ、なんもくごへをかゝり、三月北条氏康千息氏政武田信玄公子息太郎義信公両家合て、四万六千余にて松山の城をせめ給ふに、武田勢の先衆甘利左衛門尉、よりくちから城ちかく取よせ、城の内より降参仕る子細は、甘利殿同心がしら、米倉丹後守と云、弓矢功者の武士、よき工夫の故、天文二十一年王子に信州かりや原の城を信玄公せめ取給ふ時、甘利左衛門尉、より口にて、竹をたばね持てたて置、城ぎはへより跡をくづしては、くりよりに仕【 NDLJP:122】り、甘利家中よきはたらき、諸手にすぐれ候て此城をせめおとす事、悉皆米倉丹後武略の故如㆑此今度松山においても、米倉丹後を武田の諸人まね、竹斗りにもかぎらず、杭柱までからげあつめ武田の諸勢、是を竹たばと名付け、城ちかく付よするは、根本信州かりや原の城において、竹をたばねて、米倉丹後付よりて、味方の手負すくなく、利運にしたる故なり、米倉丹後、信玄公の二十人衆頭とて、悴者頭なれ共いくさの時、御使にありき武篇度々の覚ありて、弓矢にはたばり有故所領を被㆑下甘利同心頭に定めあづけ被㆑下、件の竹たばにて松山の城よはり、あけて北条へ渡し、氏康公の利運になるは、城のはやくおつる事米倉が武略竹たばの故なり、但武田の侍大将日向大和が子息藤九郎、松山の城水の手をとるとて、竹たばのそとへ出、鉄砲にあたり日向藤九郎討死す、此鉄砲は大永五年信玄公五歳の御年信虎公三十二歳の御時、但二丁はじめて甲府へ来る、又甘利左衛門尉同心頭米倉丹後惣領子彦二郎、鉄砲にて腹を後へうちぬかれ胴の内へ血入て、腹はつしてすでに死するに、蘆毛馬の糞水にたてゝのみ候へは血をくだすと申てあたへ候所に、父丹後におとらぬ武者故、彦二郎申は此手前から、うしろへうちぬかれ助かるべきにあらず、さありていのちおしきとて牛馬の糞までのみたるとあれば、武道をかせぎてかばねのうへのはぢなりとてのまず、甘利左衛門来りて申さるゝは、さすがに武き米倉彦二郎ともおぼへぬ事を申物かな、かほどの深手にてたすかりがたけれ共、もし能事もあれば又信玄公の御用に立べき物を無心懸の侍は何共いへ、能武士は命をまたう、高名をきはめてとありて、馬の糞を立たるを、左衛門尉とりて二口のみ、一段味よきとほめ、左衛門尉手より彦二郎にくれらるゝそこにては彦二郎飲候へば、不思儀なり胴の血一桶ほどくだり彦二郎其深手平癒なり、甘利左衛門尉、其歳二十九歳なれ共、父備前におとらぬ名誉の人かなと彦二郎に懇を見きゝて諸人ほめ、甘利下の同心被官涙をながして、左衛門尉になじみ候これを信玄公聞召一入甘利左衛門尉御秘蔵なさるゝ侍大将なり以上
越後の輝虎、松山落城の二日めに、後詰とありて八千の人数をひきゐて前橋へ着、太田三楽に向つて大きにいかり謙信が後詰と有て呼出し、かほどに臆病なる侍に城をもたせ候事、謙信に瑕をつくべきとの儀ならば、三楽と打果申べきとて、すでに謙信刀に手をかけ、太田三楽を場中にて手討にいたすべき様子にみゆる、三楽もかねてかやうと覚悟仕り、松山にこめたる友貞が子と弟両人をつれ如㆑此人質をとり其上人数兵糧玉薬弓矢鉄砲薪までの書立を謙信へ指上候、是をみて謙信今の友貞人質ふたりの頭の毛を左の手に一ツに握り、右の手に刀をぬき、けさがけに二人を四ツにきりはなし、機嫌をなをし盃をいたし一ツひかへて輝虎三楽を呼出し、中をなをり被㆑仰は氏康と信玄と両旗ならば敵五万か四万より、内にては有まじく候とあれば、三楽氏康は子息氏政其弟源蔵信玄も子息太郎、合て大将分五人か六人ありと申謙信あざらへわらふて被㆑仰信玄と氏康斗り、子共がつれは、義信も氏政も謙信が刀のむねうちに一打づゝにもたらぬ事なり、内々謙信分別するは大軍にあふて味方も多勢は其手柄成かたしと思ひ、人数を残し只八千つれて来る信玄と氏康と両旗本に謙信一万を以て勝ては日本国中の誉無勢なれば負てくるしからず、但し陣場へかゝり候はゞ信玄弓矢に工夫つよき人にて謙信がはたらき自由なるまじく候此あたりに氏康要害はなきかと尋給へば、三楽申は山の根の要害と申て三十里候て是より日帰りに仕候と申、謙信刀ね川二本木の渡に舟橋をかけさせ、武田北条両家へ使をたて輝虎松山の後詰いたし候へとも、友貞かなはず落城の後前橋へ着候事定めて氏康公信玄公謙信がたぎらぬ後詰と思召し候はん処、はづかしく候さりながら輝虎が是迄参りむなしく帰る事氏康信去へ対し弓矢の慮外に相似たり然ば氏康の御領分山の根の要害を輝虎攻申候間無用と思召候はゞ北条武田両家を以てさまたげられ候へ、其時輝虎城をまきほぐして退参申か、いづれに明日卯の刻に罷立と申されて二本木を打渡り舟橋の綱をきらせて氏康信玄の御陣どりの向ひを、とをり山のねへおしよせ一日一夜に彼要害を責くづし籠りたる女童迄三千斗りなでぎりして次の日はもとの道をかへり三日の内に越後へ帰陣ある輝虎の弓矢古今まれなり前橋の城ぬし長尾弾正入道謙忠、山の根城へ案内者に三楽如くに参らざる科にて謙信かたなをぬきて、ことばをかけて長尾謙忠をせいばいし謙忠がうちの者まで雑兵共に二千ばかりころし、前橋の城には北城丹後【一本ニ北庄丹後トアリ】をさしおかれ帰陣なり、是は輝虎入道謙信三十三歳の時なり以上
謙信引とりて後氏康公合戦を可㆑被㆑成物をと、くやみ給ふ信玄公仰らるゝは北条武田両家を以て若き輝虎にかちて、はぢなりとある氏康公尤と被㆑仰扨て松山の城には誰をか置申べきと談合まします、信【 NDLJP:123】玄公上田又二郎に被㆓仰付㆒候へとありて上田又二郎松山へ安堵の事、信玄公御肝煎をもつて如㆑此、此又二郎を後上田暗礫斎是なり、八百騎といへどもかたく侍五百騎持たる侍大将なり此時氏康四十八歳信玄公は四十二歳なり
其御陣とかくありて四月すへになり麦をかりて馬の持とふるを北条氏政御覧して仰らるゝは松田あれを麦飯に仕り早々是へ出せと御申候、信玄公聞召しさすがに氏政は大身にて候故御存知なきは道理なりあれはまづこき候て、こなしてほしてつきて又ほして其後まづきと云ふを仕りさるゑましと申に成て水を入よく煮候て麦飯に成申と信玄公被㆑仰北条家の松田大道寺を始め信玄公の氏政をさげすみ給ふとせうしく存ずるなり【せうしく存るハ笑止と存る也ナルヘシ】、其次の日信玄公氏康へ川越の夜軍の様子を所望被㆑成候氏康公信玄公の御前にていかゞと御斟酌なり信玄公仰らるゝは我等氏康公に六ツの年おとりなれば学問に御雑談を承度候又義信にきかせ申べしと、しきりに御所望なりそこにて氏康公仰らるゝは川越の夜軍は天文七年七月十五夜と覚へ候氏康が廿四歳の時なり、敵は両上杉人数八万六千程有、氏康は伊豆相模両国にて一万の人数を駿河甲州境房州を機遣ひ三浦にも置候へは、残て八千の人数を引ぐし入間川まで罷出みれば敵三万斗りこなたへ趣むくを見て早々小田原へにけ入て候、物きゝをさしこしてきけば敵のさたに氏康は遁たりと、わらひごとに仕ると聞ゆる能きさたと存五六日有て又出て候最前のごとく敵のかゝるを見て早々小田原へ引いれ敵のさたを聞に氏康は出ること有まじきと申、又出てありともいつもの如くにげいらんとの取さたなりそこにて疑をきり入間川の端まで出、人をつけて聞候へば氏康は又遁候はんかまはずして其まゝをけと敵方申に付て八千の人数に白きかみにて胴肩衣をきせ首とるべからず斬捨にして敵なりと云ふとも白き物きたるをばきるべからず人をきりかけたりともうしろにて貝の音聞へば其所へきたれと三ケ条申ふくめ夜るの子の刻に両上杉旗本の、かしは原と云ふ所へきりてかゝり八過迄敵をうつに味方百人損せず後聞申に上杉家の者共雑兵合せて一万六千程打死する一万余り手負候て敗軍なり、両上杉は我家中の者に用心致され人さきにをちたる故合戦氏康が利運に仕りて候へども氏康が手柄にあらず、北条上総守と、ためと申者の剛なる故也子細は中武蔵にて氏康が少しきり取候所を上総守にくれ候へば其所領を其身の欲にいたさず、上杉家をそむきたる侍共を五百人ばかりかへ置能人質取小田原へ指こし川越の城を手づよに持たる故なりさて又ためは軍の時五十人の足軽を引まはし脇へより身搆への如くにして夜明て氏康を守護し此松山の城へのきて本城へこもり候川越をまきたる上杉家の侍大将ども弓矢功者の衆なれば、氏康が人数をつもり草臥たる所へかゝつて氏康をうたんとて合戦場をおしよすれども氏康は松山の城へ堅固にこもられたるときゝ流石の功者なる侍大将どもなりといへども上杉敗軍して大将なき故、僉義区々なる所へ北条の上総守川越の城を払つて出て上杉家をおひくずしすぐに松山へ来りて氏康を守護し此辺の仕置を仕、川越の城に大道寺をおき上総守は、たまなは【玉縄】にゐてあはの国を機遣ひ氏康がためを能く存候と、信玄公に語り給ふ信玄公御陣屋へかへらせ給ひ、馬場民部を召して氏康の弓矢、てだて大方しれてありと被㆑仰扨又前年上野国作毛違候て信玄の諸軍不自由に御座有べきとて氏康より三千駄の兵糧を信玄公へ送りなさる信玄公此俵子を武田の諸勢に国へもどり一倍の利足にてかり候へと被㆓仰出㆒此御陣やがて帰陣とつもり借り申侍、百人の少し上此八木【八木ハ米ナルヘシ】かりたる衆ありて残りは上野城主ども、信玄公御扶持の衆に被㆑下やがて甲府へ御帰陣なり以上
甲府にて此度松山御陣において米借用仕たる侍衆せんさくありて能々身上ならざると信玄公御分別あそばし寄親衆に仰付られ侍衆取所領の悪き所を取あげ上納の所にて被㆑下或は其後忠節忠功により、所領すくなければ御加恩もなされ候信玄公を諸人忝く存し所領取者もとらざる者もいさみ賢き大将かなと感じ奉る如㆑件
永禄五年壬戌六月吉日に太郎義信公へ信玄公より飯富兵部殿、跡部大炊助、長坂長閑三人を御使になされ四郎勝頼を諏訪の頼茂跡目と号し信州伊奈の郡代になされ、たかとうに置申へきとあれば義信公尤と被
㆓仰付
㆒四郎勝頼公たかとう城代なり勝頼公に付らるゝ衆、跡部右衛門、向山出雲、小田桐孫右衛門、安部五郎左衛門、竹内与五左衛門、小原下総、弟丹後、秋山紀伊守此八人勝頼公へ付らるゝ儀と川中島合戦の様子と二ケ条を以て信玄公義信御父子御中あしくなるなり以上