甲陽軍鑑/品第卅二

一謙信と和睦不㆑調又対陣事 一河中島出陣謙信対陣事 一飛弾国へ御手遣之事 一西上野江御働之事 一氏康信玄公頼候事 一小田原江加勢入事 一謙信小田原押詰事付飯富兵部信玄公江異見事 景虎敗軍並信玄公さげすみの事 一景虎上洛之事 一小幡尾張守甲府江参る事 一信州先方衆御成敗之事 一河中島合戦之事 一あまかず近江守退口之事 一法師信玄に紛る事 一信玄氏康松山城攻事付竹たば鉄炮之事並輝虎後詰山根城攻落す事 一松山城に上田暗礫斎被㆑置事 一北条氏政麦飯之事付上杉と氏康合戦物語之事 一知行割之事 一信玄公義信中悪く成事
永禄元戊午年二月、越後景虎入道謙信より、信玄公へ手を入申さるゝは景虎信玄へ少も子細は無㆑之候村上義清に頼まれての儀是迄なり所詮信玄公と面談申、無事に仕り我等は越中能登加賀を伐とり、父為景への奉公にいたし、扨は上杉則政を東上野平井へ帰参なさるゝ様にと存るに、信玄公と取合候へば何事も成就申さず候間、ちくまの川を隔、諸礼仕以来は、ともかくもと景虎申越さるゝに付其年五月十五日に景虎公と信玄公と御無事の儀越後信濃各々悦ひ候事限なし扨五月十五日に両大将御対面の時筑摩川を隔て両方の川のはたに牀机を置き両大将ながら馬にめし牀机の NDLJP:118】ずむだと所領を取くれ、逆に物ごと執行ひ、人罰を以て天道に放たれ奉り、氏康に負て、嫡子龍若迄捨て越後へ迯入り名利の尽たる管領を譲られて、景虎の管領と申さるゝは一段若気なり、殊更信玄に慮外せられたりと腹を立らるゝ景虎無分別なり、信玄は緩怠するとは努々思はず候、只
永禄二年、巳未二月十二日に信玄公甲府を御立あり、川中島へ御馬を出され候へは【川中島信玄謙信対陣】、十三年以前に村上義清と越後へ退たる四人の内、清野と云侍大将御
永禄二年、巳未三月中旬に、越後の謙信川中島へ出る十五日、信玄公と対陣ありて四月二日越後、加賀能登へ出陣いたすと、景虎申され四月三日に早々引入謙信五月は越中へ出、越中、加賀、能登の侍衆と景虎より無事を仕り候へば右三国の侍衆申は、謙信公より御取合なくは此方は少も搆申さす候とて、無事に仕り、景虎六月中に越後へ帰陣也、信玄公は四月十日に御帰陣也、六月
永禄二年九月初めに、信玄公甲府を御立あり、上野簑輪、長野信濃守をおさへ、西上野の毛作をふり給ひ候へ共、長野信濃守地戦には千騎と申て堅く八百騎程持、弓矢功者の侍大将にて其上西上野を大形縁類に仕候へば五度や六度の御働有分にては中々よはけをみせ信玄公御被官にも成難くみゆる故、十月半に信玄公御馬を入給ふ仍如㆑件
永禄三年庚申二月朔日に北条氏康公より御使甲府へ遣せらる信玄公を頼給ふ【氏康信玄ヲ頼ム】子細は、越国の謙信去年十月末より上野の平井へ参り居候て、関八州の侍大将共を、太田三楽才覚を以て悉く謙信旗本に引附申候、氏康は
永禄三年庚申二月十三日に、相州小田原北条氏康公より甲府へ飛札を以て仰らるゝ、其趣きは景虎近日小田原表へ働由に候、兼て約束申ごとく加勢を可㆑給の由御頼有に付、初鹿の源五郎と申足軽大将と青沼助兵衛是も馬乗十六騎かち足軽卅持たる人なり、此助兵衛は損徳の考へ能して山川迄も、所務の勘弁上手の人なれば、信玄公御分国中諸代官の算用奉行両人の内なり、氏康公御蔵、何程富貴成か加勢に参たる
永禄三年申の二月十八日に、信玄公甲府を御立あり、信州上野の境吹笛峠のこなたに御馬を立られ候扨又越後の景虎は関八州の侍大将衆大小合七十六備、此人数九万六千、謙信譜代衆一万七千と合て雑兵ともに十一万三千の軍兵を NDLJP:119】間氏康公堅固の間に笛吹を引いれ、甲州よりみませ到下をかゝり花水川へ打出関東勢をば指置、景虎と有無の防戦あそばし候はゞ勝ても負ても、信玄公の御名は末代迄申伝ふべく候、殊更当方の身にかゝる事にてもなし、北条氏康公に頼まれて義理の一戦は弓矢をとつての面目かと、飯富兵部信玄へ諫申上る、信玄公被㆑仰は長尾景虎働き出或は引取武篇の形義を十四年以来みるに、弓矢の儀は生つきて健に其身が得ものゝ様に候へ共、臆意にねれたる工夫なき者にて此度の義は結句、氏康のため以来吉事なる其子細は、上杉則政うつけたる人の故、関東の侍共うへには則政をおづる様にて、底井あなづり、藤田左衛門をはじめ、上杉家の侍逆心して、上杉を押出す、氏康の一段神妙成人を主にいたし、各むつかしく存知景虎よかるべきかと思ひ、今は渇仰する共年若き三十歳に成る謙信が無分別と云ひ、然も短気者なれば手あらに仕置を仕、今年来年の間に、関東の諸侍、謙信をうとみ、独り立ならず氏康を頼より外有まじきと被㆑仰候へ共、飯富兵部は一円合点申さず候以上
景虎三月中旬に、相模の小田原へ押込既に蓮池迄乱入に心も知らぬ関東侍大将衆に、少も機遣なく
永禄三年庚申年、五月中旬には、越後の景虎より、甲府へ使を被㆑遣候其子細は景虎都へ上り【景虎上洛
全集ニハ永禄四年トス】、公方光源院殿へ御礼申上候、但信玄我等持の内へ働き給ひ候はゞ、景虎上洛思ひとゞまり申べく候、公方への儀私事に非す候へは、信玄も公方へ対し奉られ我留主へ働きなされざるは本意なりと景虎申越さるゝ故、信玄公御返事に尤も其方上洛留主中に、景虎の持中へ手づかひ申まじきと有御返札就㆑其景虎上洛有て【全集ニハ景号上洛ノ下ニヿ此時太田三楽分別に此留守中に信玄越後へ働なく心易田原働の時鎌倉にて謙信へ心を放したる衆と無事を作り則政を大将にして二万余は人を引卒し相州酒
上野侍大将、小幡尾張守、相聟小幡図書助と申、侍大将に
永禄四辛酉年五月七日に、信玄公中府を御立あり、川中島に御馬を立られ、信州先方侍大将に、仁科殿、海野殿、高坂、三人を御成敗也此高坂は春日弾正に名字くれたる高坂也、然れとも右三人の衆思案に前申の年景虎小田原発向の時小田原陣にては有まじき、定而大軍を以て信玄公を NDLJP:120】其儘召をかれ、奥座の若狭に被㆓仰付㆒信玄公二番目の御曹司其年十八歳に成給へど盲目にて御座候故、龍宝と申に、海野の跡をつがせまいらせらるゝなり、仁科の跡五十騎をも召おかれ、是は甲州あふら川原【一本ニ甲州油川腹の御子八歳に成給ふを被仰付仁科の五郎是なりトアリ】の五郎殿と申て、其年五歳に成給ふを、仁科殿に被㆑成、仁科の五郎是なり、如㆑此の仕置被㆑成、同年六月信州わりが岳の城をせめおとし、六月末に信玄公御帰陣なり
永禄四辛酉年八月十六日に、信州川中島より飛脚参りて申上る、輝虎出てかいづの向、西条山に陣取候て是非かいづの城を攻おとし申べしとあり、其勢一万三千斗なりと申上るより、信玄公同月十八日に甲府を御立なされ同二十四日に川中島へ御着あり、謙信の陣所西条山のこなた、雨の宮の渡りを取切、御陣を取給ふ、謙信の衆は越後への通路をとめられ NDLJP:121】て立あがれば其首を我主なりと名乗て鑓を持てつきふせ候をみては、又その者を切ふせ候、甲州勢も手前に取紛れ信玄公いづかたに御座候も存ぜず、越後勢も其通りなり、然ば萌黄の胴肩衣きたる武者白手拭にて、つふりをつゝみ月毛の馬に乗り、三尺斗の刀を抜持て、信玄公牀机の上に御座候所へ、一文字に乗よせ、きつさきはづしに、三刀伐奉る、信玄公立て軍配団扇にてうけなさる、後みればうちはに八刀瑕あり、御中間衆頭、二十人衆頭、都合廿騎の者共、大がうのつわものゆへたちまはり、敵味方にしられざる様に、信玄公をとりつゝみ、よる者共を伐払ひ申候中に原大隅と申御中間頭青貝の柄の御鑓を持月毛の馬に乗たる萌黄の段子の胴肩衣武者をつけば、つきはづしたるにより具足のわたがみをかけうちつれば、馬のさんづをたゝき、馬さうたつてはしり出候、後聞けば其武者輝虎也と申候、然ば旗本組の内飯富三郎兵衛人数にて、越後方、一の先手柿崎衆を追崩し、三町程追討にする穴山殿衆も謙信の内柴田を四町程追うちにする、信玄公御牀机立られたる場を【全集ニ信玄公ハ御中間頭二十人其外十七八歳の御小姓に土屋平八真田喜兵衛(此次切まて見へず)計にて御末几立られたる場を云々トアリ
又殊に典厩夜明て二度目乃物見より敵乃勢を見定覘じて信玄公の御前へ来り此御一戦御利運たるべきや御思案可㆑有也と云て我八百乃備へ帰母衣をだににあげ馬上にて下知せらるゝ敵方にハ村上須田安田三備合二千の人数かゝり来りて相戦ふに終に押付を敵にミせず退口を棄相さゝへて討死なりトアリ】、少も立退給はず、其外九頭は悉く敗軍してちぐま、広瀬の渡り迄追討にうたれ、太郎義信公を始めしさり給ふ、殊に典厩御討死、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人は山本勘介入道道鬼討死、初鹿源五郎討死、信玄公御腕にうす手二ケ所、太郎義信公も二ケ所御手おはれ、此合戦大方は信玄公御まけとみる所に、西条山へかゝりたる先衆十頭、謙信にだしぬかれ鉄砲の音、ときのこゑをきゝ、我いちましにちくまをこし、越後勢の跡より合戦をはじめ追うちにうつ、さすがの謙信も和田喜兵衛と申侍只一人つれ【一本ニ和田喜兵衛と宇野左馬只二人主従三騎にて三牧畠乃瀬をわたり高梨山へかゝりトアリ】、名誉の放生月毛を乗はなし家老の乗かへにのり主従二騎にて、高梨山へかゝり退給ふ、典厩御頸をば御内の
輝虎の後備あまかず近江守雑兵共に千の備を、少もちらさず、敵味方の勝負にも搆はず、越後勢総人数のくずれにげる道を、殊に静々と通り退くこと廿町斗なり、是を謙信とみる者多し、高坂弾正衆に伐くづされ二十町程過ては、甘数衆も皆乱るれ共、近江守は崩れず、六七騎にて雑兵四五十つれて、さい川をこしさい川のあなたに、三日逗留仕敗軍の越後勢をあつめ帰陣仕る甘数近江守近国他国に誉ざるはなし謙信秘蔵の侍大将の甘数近江守は、かしらなり、甘数近江守備において、白羽織着たる侍、三騎乗さがつて
川中島合戦の様体を後に謙信家老衆と、せんさく被㆑仕申さるゝは、信玄と大方見つれとも信玄謀有人にて法師武者を大勢仕立をかれ候ときく若し只の侍と組いけどられては如何と思ひ、馬よりたりて信玄と手を取あはせ、組ふせさる事口惜きと申され候也【全集に法師武者を大勢仕立置と聞く其上功ある勇士共二十人余長身の鎖を面々持突或は打て能足紅の糸毛羽織は白地に金銀の桐の頭割菱しげく付る若き出立なれば舎弟逍遥軒か子息太郎かと疑ひ常の侍と組生捕られては如何と思ふ虞に長身乃鎗を以馬の三頭を打れ馬走出て一町半程広瀬乃渡涯へ乗入をば黒き馬に金乃馬鎧懸たるにのり武田太郎義信と名のりて互に馬上にて伐結ぶ某甲へも綿噛脇立十一ケ所伐または跡有太郎にも血を引所腕の中程にありつると覚る兎角の間に信玄先手跡より懸り来り壱万余にて其の惣人数を追討小荷駄崩ちり武者共の中へ入交り立直す事成間敷と思ひ直に馬を早むる所に宇野左馬助和田喜兵衛三騎にて高梨山へ懸り退たり左馬助は軍配を繰損じたるに付犀川乃渡れり此力にて自害仕偖又馬より下立信玄〈[#「玄」は底本では空白]〉と手を取合組打ふせざる事口惜と申さる也トアリ】
永禄五年壬戌正月七日に、相州小田原の北条氏康・同氏政御父子より甲府へ使を被㆑遣信玄公を頼み給ふ子細は武州松山の城を太田三楽支配仕り、彼の城には則政庶子上杉友貞をこめ NDLJP:122】り、甘利家中よきはたらき、諸手にすぐれ候て此城をせめおとす事、悉皆米倉丹後武略の故如㆑此今度松山においても、米倉丹後を武田の諸人まね、竹斗りにもかぎらず、杭柱までからげあつめ武田の諸勢、是を竹たばと名付け、城ちかく付よするは、根本信州かりや原の城において、竹をたばねて、米倉丹後付よりて、味方の手負すくなく、利運にしたる故なり、米倉丹後、信玄公の二十人衆頭とて、悴者頭なれ共いくさの時、御使にありき武篇度々の覚ありて、弓矢にはたばり有故所領を被㆑下甘利同心頭に定めあづけ被㆑下、件の竹たばにて松山の城よはり、あけて北条へ渡し、氏康公の利運になるは、城のはやくおつる事米倉が武略竹たばの故なり、但武田の侍大将日向大和が子息藤九郎、松山の城水の手をとるとて、竹たばのそとへ出、鉄砲にあたり日向藤九郎討死す、此鉄砲は大永五年信玄公五歳の御年信虎公三十二歳の御時、但二丁はじめて甲府へ来る、又甘利左衛門尉同心頭米倉丹後惣領子彦二郎、鉄砲にて腹を後へうちぬかれ胴の内へ血入て、腹はつしてすでに死するに、蘆毛馬の糞水にたてゝのみ候へは血をくだすと申てあたへ候所に、父丹後におとらぬ武者故、彦二郎申は此手前から、うしろへうちぬかれ助かるべきにあらず、さありていのちおしきとて牛馬の糞までのみたるとあれば、武道をかせぎてかばねのうへのはぢなりとてのまず、甘利左衛門来りて申さるゝは、さすがに武き米倉彦二郎ともおぼへぬ事を申物かな、かほどの深手にてたすかりがたけれ共、もし能事もあれば又信玄公の御用に立べき物を無心懸の侍は何共いへ、能武士は命をまたう、高名をきはめてとありて、馬の糞を立たるを、左衛門尉とりて二口のみ、一段味よきとほめ、左衛門尉手より彦二郎にくれらるゝそこにては彦二郎飲候へば、不思儀なり胴の血一桶ほどくだり彦二郎其深手平癒なり、甘利左衛門尉、其歳二十九歳なれ共、父備前におとらぬ名誉の人かなと彦二郎に
越後の輝虎、松山落城の二日めに、後詰とありて八千の人数をひきゐて前橋へ着、太田三楽に向つて大きにいかり謙信が後詰と有て呼出し、かほどに臆病なる侍に城をもたせ候事、謙信に瑕をつくべきとの儀ならば、三楽と打果申べきとて、すでに謙信刀に手をかけ、太田三楽を場中にて手討にいたすべき様子にみゆる、三楽もかねてかやうと覚悟仕り、松山にこめたる友貞が子と弟両人をつれ如㆑此人質をとり其上人数兵糧玉薬弓矢鉄砲薪までの書立を謙信へ指上候、是をみて謙信今の友貞人質ふたりの頭の毛を左の手に一ツに握り、右の手に刀をぬき、けさがけに二人を四ツにきりはなし、機嫌をなをし盃をいたし一ツひかへて輝虎三楽を呼出し、中をなをり被㆑仰は氏康と信玄と両旗ならば敵五万か四万より、内にては有まじく候とあれば、三楽氏康は子息氏政其弟源蔵信玄も子息太郎、合て大将分五人か六人ありと申謙信あざらへわらふて被㆑仰信玄と氏康斗り、子共がつれは、義信も氏政も謙信が刀のむねうちに一打づゝにもたらぬ事なり、内々謙信分別するは大軍にあふて味方も多勢は其手柄成かたしと思ひ、人数を残し只八千つれて来る信玄と氏康と両旗本に謙信一万を以て勝ては日本国中の誉無勢なれば負てくるしからず、但し陣場へかゝり候はゞ信玄弓矢に工夫つよき人にて謙信がはたらき自由なるまじく候此あたりに氏康要害はなきかと尋給へば、三楽申は山の根の要害と申て三十里候て是より日帰りに仕候と申、謙信刀ね川二本木の渡に舟橋をかけさせ、武田北条両家へ使をたて輝虎松山の後詰いたし候へとも、友貞かなはず落城の後前橋へ着候事定めて氏康公信玄公謙信がたぎらぬ後詰と思召し候はん処、はづかしく候さりながら輝虎が是迄参りむなしく帰る事氏康信去へ対し弓矢の慮外に相似たり然ば氏康の御領分山の根の要害を輝虎攻申候間無用と思召候はゞ北条武田両家を以てさまたげられ候へ、其時輝虎城をまきほぐして退参申か、いづれに明日卯の刻に罷立と申されて二本木を打渡り舟橋の綱をきらせて氏康信玄の御陣どりの向ひを、とをり山のねへおしよせ一日一夜に彼要害を責くづし籠りたる女童迄三千斗りなでぎりして次の日はもとの道をかへり三日の内に越後へ帰陣ある輝虎の弓矢古今まれなり前橋の城ぬし長尾弾正入道謙忠、山の根城へ案内者に三楽如くに参らざる科にて謙信かたなをぬきて、ことばをかけて長尾謙忠をせいばいし謙忠がうちの者まで雑兵共に二千ばかりころし、前橋の城には北城丹後【一本ニ北庄丹後トアリ】をさしおかれ帰陣なり、是は輝虎入道謙信三十三歳の時なり以上
謙信引とりて後氏康公合戦を可㆑被㆑成物をと、くやみ給ふ信玄公仰らるゝは北条武田両家を以て若き輝虎にかちて、はぢなりとある氏康公尤と被㆑仰扨て松山の城には誰をか置申べきと談合まします、信【 NDLJP:123】玄公上田又二郎に被㆓仰付㆒候へとありて上田又二郎松山へ安堵の事、信玄公御肝煎をもつて如㆑此、此又二郎を後上田暗礫斎是なり、八百騎といへどもかたく侍五百騎持たる侍大将なり此時氏康四十八歳信玄公は四十二歳なり
其御陣とかくありて四月すへになり麦をかりて馬の持とふるを北条氏政御覧して仰らるゝは松田あれを麦飯に仕り早々是へ出せと御申候、信玄公聞召しさすがに氏政は大身にて候故御存知なきは道理なりあれはまづこき候て、こなしてほしてつきて又ほして其後まづきと云ふを仕りさるゑましと申に成て水を入よく煮候て麦飯に成申と信玄公被㆑仰北条家の松田大道寺を始め信玄公の氏政をさげすみ給ふとせうしく存ずるなり【せうしく存るハ笑止と存る也ナルヘシ】、其次の日信玄公氏康へ川越の夜軍の様子を所望被㆑成候氏康公信玄公の御前にていかゞと御斟酌なり信玄公仰らるゝは我等氏康公に六ツの年おとりなれば学問に御雑談を承度候又義信にきかせ申べしと、しきりに御所望なりそこにて氏康公仰らるゝは川越の夜軍は天文七年七月十五夜と覚へ候氏康が廿四歳の時なり、敵は両上杉人数八万六千程有、氏康は伊豆相模両国にて一万の人数を駿河甲州境房州を機遣ひ三浦にも置候へは、残て八千の人数を引ぐし入間川まで罷出みれば敵三万斗りこなたへ趣むくを見て早々小田原へにけ入て候、物きゝをさしこしてきけば敵のさたに氏康は遁たりと、わらひごとに仕ると聞ゆる能きさたと存五六日有て又出て候最前のごとく敵のかゝるを見て早々小田原へ引いれ敵のさたを聞に氏康は出ること有まじきと申、又出てありともいつもの如くにげいらんとの取さたなりそこにて疑をきり入間川の端まで出、人をつけて聞候へば氏康は又遁候はんかまはずして其まゝをけと敵方申に付て八千の人数に白きかみにて胴肩衣をきせ
甲府にて此度松山御陣において米借用仕たる侍衆せんさくありて能々身上ならざると信玄公御分別あそばし寄親衆に仰付られ侍衆取所領の悪き所を取あげ上納の所にて被㆑下或は其後忠節忠功により、所領すくなければ御加恩もなされ候信玄公を諸人忝く存し所領取者もとらざる者もいさみ賢き大将かなと感じ奉る如㆑件
永禄五年壬戌六月吉日に太郎義信公へ信玄公より飯富兵部殿、跡部大炊助、長坂長閑三人を御使になされ四郎勝頼を諏訪の頼茂跡目と号し信州伊奈の郡代になされ、たかとうに置申へきとあれば義信公尤と被㆓仰付㆒四郎勝頼公たかとう城代なり勝頼公に付らるゝ衆、跡部右衛門、向山出雲、小田桐孫右衛門、安部五郎左衛門、竹内与五左衛門、小原下総、弟丹後、秋山紀伊守此八人勝頼公へ付らるゝ儀と川中島合戦の様子と二ケ条を以て信玄公義信御父子御中あしくなるなり以上