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甲陽軍鑑/品第卅一

 
オープンアクセス NDLJP:109甲陽軍鑑品第卅一

一粟原小山田死去之事  一板垣弥次郎御勘気之事  一桔梗が原合戦之事  一川中島城取并小室之事  一景虎関東発向之事  一上杉則政無分別之事  一浄土宗法花宗々論之事  一北条氏康とせり合之事  一織田弾正と義元和睦之事付竹千代殿之事  一信州先方衆成敗之事  一瀬場御成敗之事  一木曽降参之事  一於河中島謙信対陣之事  一氏実噂之事  一秋山伯耆守高遠に被置事  一飯富三郎兵衛事  一関東上野御発向之事付上野合戦之事并河中島にて景虎と対陣之事

栗原左衛門佐、とき田合戦に深手負四十五日いきて死す、子息左近二百騎の同心指上らるゝ、然れとも取上給はず、左近しきりに御詑言申故百騎預けて残る百騎を春日源五郎に預け被下栗原左近神妙に申上候とて一だん褒美あり、左兵衛尉に被成候也

小山田左兵衛尉も、其合戦にて手負二十一日目に死す、是も弥三郎斟酌申上候へ共、武田御先祖より御誓にて被下る都留郡なれば少も相違無之と被仰出子息弥三郎に被下る

板垣弥二郎御旗本前備四手の内にて候へ共、時田合戦にて手に合さる故信玄公御 立まして御書立てを被成板垣弥二郎方へ指下され候其子細は

先手法福寺合戦刻虚病小山田左兵衛尉人数弥二郎手前人数空く日を送小笠原方へ働かず候事諏訪の郡代は、堺目なるに、楽狂にふけり無行義の事

同心被官の者共にあしくあたり候事

オープンアクセス NDLJP:110今度馬場民部、内藤修理、弥二郎より時代先の者共一戦仕るにわかきもの見所けんしよする事

甘利左衛門尉当年十九歳にて、抜群年おとりの者にこされ候、其上左衛門尉は、はや度々の手柄仕り晴信証文いくつも取て持候に其方能き同心被官を持ながら武篇の場一度もなきは信形子にて候へば定て未練にはあるまじく候へ共、信玄を大切に不存と見へ候事

信玄噂あしく申候事

諸傍輩に緩怠仕る事   と、七ケ条あそはされ、原隼人佐、市川宮内助両人を以て被仰、同心召上られ候甲州に有八十騎の同心に、信濃に有百二十騎の同心の内七十騎と合せ百五十騎飯富源四郎に預け被下則飯富三郎兵衛になさるゝなり

信濃に在る板垣同心残て五十騎は春日源五郎に預られ初め栗原同心百騎是を添へ百五十騎の侍大将に源五郎成て然も春日弾正になさる、飯富三郎兵衛に預られ候者の内に、曲淵勝左衛門と申者板垣被官なれ共武篇すぐれて場数多きつはものの故信玄公取あげ給ひ弥二郎同心に被仰付候へば此度同心なみに三郎兵衛に付らるゝ処に、勝左衛門申は我は板垣信形恩を見申候間子息弥二郎破家者にて候共五十騎の被官並に罷成、弥二郎に付申べきと申候て、三郎兵衛につかず、弥二郎長禅寺に在之内つきそひ居申候其の後弥二郎御成敗ありてより三郎兵衛に付く、其儀を猶は以て信玄公感じなされ曲淵勝左衛門を御秘蔵なさるゝなり、又板垣直の被官五十騎、其の後は飯富三郎兵衛同心に、預下さるゝ也、然は同年八月小笠原方へ信玄公御働かり田を被仰付て小笠原長時持の城、かりや原を同月十三日に御旗本備衆を以てせめおとし然も城主を討ち九月中も作をふり御帰陣也

天文二十二年癸丑五月六日、信州桔梗原において小笠原長時衆三千余騎出て合戦あり信玄公の侍大将衆に甘利左衛門尉、飯富二郎兵衛、馬場民部、春日弾正、内藤修理此五頭を以て御旗本は未た塩尻到下を越し給ふ時分己の刻に一戦をはじめ、然かも勝利を得敵をうちとる其数六百七十九、雑兵共に頸を取る次の日七日に長時四千五百の着到にて家中をはらつて出合戦あり五月七日卯の刻に合戦はじまり、同己の刻におはる、甘利左衛門尉侍大将の内に抜出たる働きは、小笠原長時旗本へきつてかゝり伐くつし、此合戦信玄勝利を得給ひ敵を討取り、其数雑兵共に千四百九十三頸帳を以て同午の時に勝時を執行ひ同十日にふかしへ取つめ長時とあつかひ有て、小笠原長時降参の故誓紙を取かはし、城を渡し長時牢人也、小笠原長時いづ方にても他所において少の所領につき、武田の家に堪忍と、信玄公被仰出候へ共長時申さるゝは元来武田小笠原兄弟の事武田は兄なれ共甲州に居る、小笠原は弟なれ共都につめ公方様御下に近く罷在候間、武田より万事手うへなりつると申来り長時か代になり武田の被官になる事中々申に及ばず候とて上方へ牢人なり其跡はしの小侍衆皆信玄公御被官になり長時居城ふかしには、日向大和をさしをかるゝ扨小笠原長時かのつよき弓矢功者の大将故治まりかねたる事道理かなと甲州方にも長時公をほめざるはなし仍如

天文二十二年丑の八月吉日に川中島の内、清野殿屋敷を召上られ山本勘介入道道鬼に縄ばりをさせなされかいづの城と名付本城に小山田後の備中二のくるはに市川梅印原与左衛門指置かるゝ

小室には春日弾正さしをかるゝ是は天文二十二年丑の十月如

景虎定て一年に一度づゝ、川中島へ働かるゝは村上義清への志しにて如此越後雪国の故二月のすへより十月半ば迄合せて八月の間、景虎働也殊更天文二十年辛亥に関東の管領上杉殿相州小田原の北条氏康にまけ越後へ迯入景虎を頼み給ふにより景虎則政に頼まれ関東へ出おさめんとせられ候へ共上杉家の侍大将衆則政公牢人を悦び主なしになり、去年景虎にしたがふては今年随かはずしてひとり立ならねば次の年は北条氏康へ成候故景虎と氏康と取あひ天文二十一壬子年三月より始る但東上野は三分一始より景虎に随ひ景虎も信州川中島へ出て、信玄公と取あひ越中能登へ出て椎名神保其外各々と取あひ関東へ出て氏康とゝりあひ雪のふらざる間、三月より十月迄三方へはたらかるゝ如

去天文廿年辛亥に上杉家破るゝ子細は上杉殿北条氏康に負け国を捨越後へ迯入長尾景虎を頼上杉の名字と管領職を景虎に譲関東国をも景虎に宛行はれ上杉殿は隠居管領に成上野一国にて世を送申へきと長尾景虎に管領被仰候故、景虎尤とあり上杉に成管領職を給はりて来年子の暮より関東へ発向有オープンアクセス NDLJP:111へきとて上野の平井まいばしなどへは其年天文廿年に景虎の家老を差越則政公を主君にも、親にもと馳走あれ共、関東奥北国越後衆迄も上杉則政を物笑にする謂はれは上杉殿世が世の時御分別あしくしてよろつぶせんさく故、越後へ御牢人の時御曹司龍若殿を捨置則政公斗り、にげ給へば御曹司御局の子めかた新介弟長三郎其弟三郎介其伯父九里采女同与左衛門局共に六人其外縁類親類迄合せて廿人組み談合して御曹司龍若殿を、北条氏康へつれて出て忠節に仕る氏康公其年三十七歳なれ共よその五十六十の大将より弓矢せんさくを能被成候間忠節の上杉衆を皆からめ取殺し給ふ、扨又御曹司も御生害也太刀取は氏康の小番衆神尾と申侍也神尾即時に管領上杉の御罰忽ちあたり癩に成、是程高家の上杉管領なれ共御分別違御曹司を尋常に物言ものいひよろ香車きやしやに育て参らする様にとて上方より御つぼねをよび被成候所に遠国へ参るましきと申に付おち局の親類残らずひろいあつめ呼越五百貫千貫の所領を給はる何としても遠国へ能者来らざれば其親類共、しろかねし、畳さし、絵かき、鍛冶番匠などの職人共、所領を取とて何も商ひと心得悦び作り名字をして大き成名を付来りて所領を過分に取うはもる子細は巳が日比職人の時奉公人の馬に乗り人つれ道具を持たせありくを、地下町にて見ておほへいに思る所領をとれば人に慮外するをおもてと存候惣別上方衆は本の侍さへ国がらにて少し無礼成にまして作法しらぬ、職人共上杉家の久敷弓矢覚の衆をも、蹴越踏越緩怠仕候、又則政公の御前の能き、すがの大膳上原兵庫、両人殊の外むさばりたる侍を、則政公崇敬あるにより、両出頭人をまねて在々所々無仕置さたの限りなり、縦へば銘々の取所領の内百姓の内能むすめ子など持ち候をば科のなきに其親を籠ひつへ入、子共を取て譜代にいたされ候間、侍も地下も上杉殿にあきはて越後へ牢人の時も侍五十人と供仕つる者なく、殊更すがの、上原両人意地のきたなき人といふは、ゑりもとに付奉公衆に屋敷を出すにも、則政公の御意と申て米銭持たる分限者には能き屋敷を渡し不弁なる者には造作の入る所をくれ何に付てもさかさまに事を仕置則政公越後へ退き給ふ時は菅の大膳、上原兵庫、人さきにはづす、此みなもとは管領則政のしわざなりと、近国他国よりも結句上杉家の衆一入あしく存ずる也、是は天文二十年辛亥の歳の義なり仍如

天文二十二年癸丑十一一月二日に浄土宗と日蓮宗と法論浄土法花宗論有に、原美濃守虎種入道法度をそむき法花寺へ見舞申候に付御成敗有へく候へ共、大剛の侍にて度々の忠功忠節の故、馬場民部助、内藤修理飯富三郎兵衛三人の侍大将心をそへ相摸小田原へ送る、氏康事の外よろこび原入道を馳走ましますなり

天文二十三年甲寅二月中旬に小田原北条氏康と駿河今川義元と取合おこりて義元公より甲州信玄を頼み給ふ故、信玄公富士の大宮へ御馬を出され氏康と、度々のせりあひ都合十六日在之中に信玄公足軽大将小幡山城入道子息又兵衛はしり廻り諸手にすぐれたる様子は敵三百計りの中より六人すゝみ出て細道のちいさきつかへ上りひかへたり又味方甲州勢は馬場民部五十騎の侍大将に小幡入道同心馬乗十五騎足軽七十五人と惣合て四百余りのそなへにて、かちまと云ふ所におひて三月三日辰の刻に足軽始まり候に小幡又兵衛其年二十一歳なれども十六歳よりはじめ走り回り仕付候へば敵の色心をしつて六人ひかへ居たる敵へちかく乗りよせ馬よりおりたち鑓を取て敵六人と又兵衛一人と鑓を以てつきあひ六人の敵を三人場にてつきころす、父山城入道は敵三百余三十間程跡にひかへたる同備へかゝつて切くづす馬場民部、惣かゝりにしかくるを見て北条衆敗軍なり但中にて相州衆の能き武士二騎返して、さいはいを取て味方を勇め各返して一勝負と申武者と山城入道川中にてくみておち三ケ所手負候へども馬場民部かちいくさの故山城入道其武者を討取り、さひはいをそへての高名なり、子息又兵衛重ねて乗来つて今一騎の武士、引とる所を川の渡あがりにて是も父山城のごとく馬上より組でおち勝軍のゆへ相摸衆をうちとり、さいはいをそへて親子ながち高名仕る、手二ケ所又兵衛もおはれ候始鑓づつけたる時の数三人をも藤右衛門熊井孫四郎と申又兵衛中間かせ者両人して首をとり又兵衛乗たる馬の塩手四所に首を付る其働きゆゝしく手柄の故後駿河の国信玄公御手に入りて、かちまと申す所に於て百貫の所領小幡又兵衛に下され候扨又其日のせりあひいくさに馬場民部うち勝ち申す、相州氏康衆を雑兵共に百九十一うち取御目に懸られ候へば信玄公御機嫌能く候就夫其年五月駿河義元公より馬場民部方へ御礼の御状を下さるゝなり右のせり合に相摸方より、原オープンアクセス NDLJP:112美濃守入道例式のほそき金の半月、一方へ一間の中づゝ出したる、立物の甲をきて乗出し、物見の時、小幡山城入道に詞をかはし馬場民部備へはかゝらず、西の方小山田弥三郎備へ乗かけ候へ共小山田は原美濃守を、甲の立物にてみしり、美濃守殿敵にあひ、馬の乗様をよくみよと云て、小山田衆一切取あはず、然所に近藤と申牢人名乗つて、原美濃守近所へ刀をぬき持つて乗よる、原美濃守刀をぬきはづしみね打に近藤の甲のしころのはづれ首のほねをたゝき馬よりたゝきおとし候へば、原美濃に乗り続たる、相摸武者近藤が首をとらんとする、原美濃、甲州にて我等方へ出入たる者にて候、ゆるしてくれられよと云ふて引とらるゝ原美濃を、北条家武田の家、今川家各々ほめざるはなし、さありて此取あひ其せり合四日目に無事になり、駿府臨済寺雪斎の扱にて、駿河今川義元公の子息氏真公は相州氏康公の聟に、氏康の子息氏政公は甲州武田信玄公の聟に、信玄公子息太郎義信公先年より義元公の聟に約束有故、弘治二年丙辰に三方へ御輿入、今川、北条、武田、無事也此無事調て頓て小田原氏康公へ信玄公、原美濃守入道を御所望にて甲府へ美濃、三月中に帰参也

天文廿三年甲寅の春駿河義元、相州の氏康取あひの時義元より信玄公を頼み給ふ子細は尾州の侍大将織田弾正忠死して其子息今の信長也、義元公の旗下にならず結句義元公の持の国三河の内、きらの城へ取かけ、つけ城をして是をせむる、義元公は御馬出し給へ共跡 を機づかひ遠州ひきまに逗留まし先衆を以て弾正忠が子息の調居こしらへたるとりでをまき、既にせめころす所に、織田降参して父のごとく義元公へ逆儀有まじきと、起請を書き佗言申すに付、義元公と弾正忠子息と無事有るは、尾州侍、笠寺の新左衛門義元公を大切に存じ、取りあつかひ候上義元公より被仰は、三州岡崎の城主松平広忠が子竹千代当年十三歳になるを一両年以前より盗み取り、熱田にかくし置くと有る、それをも早々こなたへ渡せと被仰、義元公松平竹千代を駿府へ召しおかる、今の遠州浜松までとりて、則ち浜松に居らる、家康は右の竹千代なり仍如

天文廿三年甲寅の六月十日に信州河中島、清野の宿を焼き申すべきと、長尾景虎前九日に、信玄公へ使をたて其ごとく長尾謙信一万三千の人数にて清野へ心指して、備をたてむけられ候、馬場民部雑兵ともに三百五十斗りの人数にて、清野の宿に居て、景虎に清野へ少しも手を付けさせず結句景虎早々引き取る様に仕らるゝ、馬場民部武功中々申すに及ばず候此時長尾謙信前の日の広言程もなく合戦をまはし申され候、又同月十二日に此比働かざる虚空蔵山の城へ働き申すべきとことはり、景虎切所を打ち越し鼠宿迄、焼働きいたさるゝ、信玄公の侍大将衆飯富殿をはじめ跡より押し詰め一騎も残さず景虎ともに討ちとり申すべきといさみければ、足軽大将の小幡山城弓矢功者の故、馬場民部を以て信玄公へ申上け跡より押しつむることをとゞめ申す、謙信やがて引き取り其後飛札を此方御味方、信州先方衆四人へ越し候、馬場民部助同心を付、人を待ちかけ道にてうばひとり、信玄公へ御目に懸け候へば、うらぎりの事あらはれて景虎同月六日に越後へ引き入りて後同廿八日に信州先方衆の景虎とくみたる四人御成敗なり

一がくかんじ   一より   一布下   一和田

是四人はがくがんじを飯富三郎兵衛に被仰付、よりを甘利左衛門尉に被仰付布下を春日源五郎に被仰付和田は御旗本廿人衆頭三ツ沢四郎兵衛に被仰付家中へは武篇よき者の、わかく心のきゝたる侍を撰て此介錯をいたさせ候へと被仰出三郎兵衛内より広瀬郷左衛門、春日弾正内より、飯島長左衛門、甘利左衛門尉内より、井上文左衛門介錯なり四人の侍大将さすがに信州弓矢国の故腹をよく切るなり

天文廿三年寅の八月廿六日に、信玄公木曽口へ御馬を出され候へば、其砌信州衆瀬場といふ侍降参いたし九月すへに甲府へ召つれられ次の年典厩甘利左衛門尉、両侍大将に被仰付甲府一蓮寺と申時宗寺にて、瀬場を御成敗なり、此瀬場少身なりといへども、大剛の者其上信州弓矢つよき事大形ならざるに付き、かせ者中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して雑兵ともに二百十三人、瀬場殿と一度に切り死する、典厩甘利衆にも手負死人あり以上

天文廿四年乙卯三月七日に信玄公甲府を御立有り同十八日に木曽の内、屋ご原へ御馬をよせられ木曽降参四月三日まで御逗留ある内則やご原にとりでを一ツ拵らへ、木曽殿居城へ取り懸らるべきとある所にオープンアクセス NDLJP:113同月五日に越後の謙信川中島へ出でたると申し来る、此一左右を聞し召し、やご原のとりでには粟原左兵衛に足軽大将多田淡路をさしそへ木曽義高をおさへ、信玄公六日にやご原を御立あり長尾謙信にむかひ給ふ、五日対陣ありて謙信早々引き取り候、謙信も関東上野の国へ出て、北条氏康と対陣して日々夜々の足軽せりあひあり其後景虎七月は越中へ出、椎名、神保、遊佐、土肥、土屋其外おほき侍の中に椎名、神保両人大身なり、此侍衆とせりあひ、せめつけ又謙信信州へ出ては信玄と戦、関東へ出ては氏康と戦ひ、或は越中衆に威光をみせ三方と取合有、是は越後謙信の噂也、扨又信玄公其年八月二十一日に鳥居峠を越し、やご原に御馬を立てられ、同廿二日に甘利左衛門尉其年二十二歳にて御先を被仰附候其次に原隼人介馬場民部助内藤修理少輔春日弾正此五頭を以つてやご原のむかひ、いねこきといふ所へうつり、おきそと云ふ所へとりつき、見おと云ふ所へをし出、おんだけの城へ取つむる是は山道なれ共原隼人佐父の代より、ケ様なる山道人数をさるべきさげすみ、得ものにて如此勿論所の者案内申といへ共備おす道のなる、ならざる、つもりは、道をしりてもならず原隼人名誉の侍太将也、殊に福島筋へは栗原左兵衛、飯富三郎兵衛、長坂長閑、典厩、市川宮内助此五頭働く故、木曽殿其日に降参有、我所領を悉くあげ甲府につめて御奉公申すべきと申され、分に付、信玄公仰らるゝは、小笠原長時にちがひ木会申分一段能とて、持来る所領相違なく被下木会殿家高なれば、信玄公御聟になされ御息女のおとなに、千村備前、山村新左衛門両人を木会に指置木曽殿と殿文字を附、穴山殿同前に武田の家中各々申べき由、信玄公仰せ出さるゝなり然れば始の御陣三月中に木曽の儀、ケ様にたやすく随ひ給ふべきに、やご原にとりでを一ツ取御普請あそばす事信玄公御分別如何と各不審を立る所に、川中島へ景虎働く由を聞召、木曽に懸て御座候はゞ景虎に御持の小城一ツも責落され可被成候さ有ても景虎に向ひ給はゞ、木会義高より鳥居峠に取出の一ツもきつき候て持申に付ては是程早く、木曽落着有まじきに、三月やご原に取出を被成により如此、左右とかく信玄公の御工夫不浅して御備へ少も違はず候と、各々取さたなり、其年弘治元年霜月中に、木曽殿父子、長坂長閑奏者にて甲府へ出仕なり、天文廿四乙卯年はじめの十月年号かはり、弘治になる仍如

弘治二年、丙辰三月朔日に信玄公信州伊奈へ御出陣あり、伊奈の郡悉く御手にしたがふ所に、三月廿八日に河中島へ越後の景虎入道謙信、働き出るよし申し来るにつき信玄公又景虎にむかひ給ひ、四月中対陣なされ、五月朔日に景虎引き取る其年六月中旬には又景虎も関東へ出てられ、七月迄北条氏康と景虎と対陣なりときく以上

信玄公弘治二年六月中旬に又伊奈へ御出馬あり、七月、八月、九月都合四月の間に伊奈を伐り従がへ給ひ則ち伊奈侍御成敗の衆

黒河内 一みぞぐち殿 一松島殿 一くろかうぢ殿 一はぶ殿 一こたぎり殿 一いなべ殿 一との島殿 一宮田殿

此外ありといへども書くに及ばず又たやし成さる中に、弟、伯父、従弟などに所領半分、或は三分一など被下、名字をつがせなさるゝことあり、去る程に此年迄に相州北条氏康公は亥の年にて四十二歳、駿河今川義元公は卯の年にて卅八歳、甲州武田晴信入道信玄公は巳の年にて卅六歳、越後長尾景虎入道謙信公は廿七歳也何れも三人の大将衆は氏康をはじめ、爰かしこへ働きとりあひ給ふに駿河今川義元公は駿河遠州。三州三箇国を持ちなされ、しかもよき家老数多あり其の上子息氏真公も戌の年にて十九歳になり給まひ就中氏康と信玄公と無事なれば、尾州へうち出て成さる共よき人数二万か扨は一万八千、固く有るべき処に氏康公信玄公景虎公十分一に、御苦労なさるゝ事なくたゞ家を高く能、さるがく、歌の会、茶の湯がゝり、扨は振舞料理よきあしきのせんさくつよければ氏真の御代になつては、猶以此模様こくなり申候はゞ今川の御家も少し、あぶなく候と山本勘介入道道鬼、弓矢功者分別して、伊奈の郡高遠の城にて信玄公へ申上る、信玄公被仰は徳は一代名聞は時の問におはる名は末代なりとの上意を承り、大小老若共に武士を心がくる程の人は悴者中間小者までも感じ奉る

弘治二年十月下旬に秋山伯耆守相ぞなへとありて、はたもとに附らるゝ、伊奈の侍大将衆は

オープンアクセス NDLJP:114一ばんざい   一いちのせ万西、市野瀬   一ちへ一本ニチヘヲ千久トス   一はるちか衆

合せて弐百騎、秋山伯耆与力なり、伯耆守手前の騎馬五十騎共に引合せて弐百五十騎人数をもつて伊奈の郡代に仰附られ、伯耆居城は高遠の城にさし置かるゝ以上

飯富三郎兵衛相備とありて、よりき附らるゝ伊奈衆

一松尾  百騎   一下条  百五十騎   一松岡  五十騎

合三百騎、飯富三郎兵衛に附下され、其上伊奈侍御成敗の衆のしたにて武篇覚の有侍を五十騎召出され是も飯富三郎兵衛に預下さる、三郎兵衛手前弐百騎と与力衆と合五百騎預られ御さき衆の二の手を、飯富三郎兵衛仕る以上

小山田備中守、あまかざりの城へ在城也、其跡かいづの城には春日弾正被仰付指置かるゝ二のくるわには足軽大将小幡山城守子息又兵衛馬乗十五騎、かち足軽七十五人持てゐる、是は春日弾正を景虎と云強敵のおさへに被仰付故春日弾正望て小幡山城を、弓矢のかいぞへのために如此なり扨又春日弾正手前へは、和田より布下、がくがんじ、四人の信濃侍御成敗其下にて武篇覚へ有る少身者を三百騎召し出され、春日弾正に預け下さるゝ始めの百五十騎と合せ弾正手勢四百五十騎持ちて、信州侍高坂が名字を乞ひ請け弾正に被下春日をやめて高坂弾正と申候、此高坂弾正相備へとありて与力衆、西条、清野、いも川をはじめ川中島衆後には皆高坂弾正に被付なり

弘治三丁己年正月七日に相州小田原の北条氏康公より、信玄公へ御使に大藤きんこくをもつて仰せらるゝは十ケ年以前に武田殿上野国へ御発向無之様にと駿河今川義元を頼み御詫言申候へども上杉則政方越国の景虎を頼みて、越後へ行きてゐられ候に付景虎年々関東へ働き候へば、それにたより独り立ちならざる上杉家の侍大将ともに上杉を返すこともいや、又氏康に従ふ事もきらい敵になり、みかたになり候て関東治り兼申候、上杉家各おほき中に武州にて太田のさんらくと申す侍大将と上野に長野信濃守と申す侍大将、大きなるいたづらものにて景虎を後あてにいたし、氏康に楯をつき末々は両人のもやうを相みるに、三楽は武州をみな巳れが望み信濃は上野を望み候と聞へ申候間三楽をバ氏康伐り従へ申すべく候、信濃守をば信玄公より御成敗なされ上野を甲州より御支配あそばし候へとある事にて、弘治三年丁己三月中旬より信玄公上野へ御発向なり如

弘治三年四月九日に上野みかじり上州三日尻合戦において、北武蔵、西上州侍十頭あつまり其勢二万斗りの人数にて長野信濃守大将になりやさしくも信玄公に楯をつき奉る、甘利左衛門尉其年廿四歳にて老功の飯富兵部殿をもこしてかゝつて合戦をはじむる、飯富三郎兵衛、馬場民部助、内藤修理、原隼人諸角豊後守、小宮山丹後守飯富兵部少輔此八頭を先として大郎義信公大将にて甲州方よりかゝつて一戦をなされ悉く追ひ崩し勝時を取おこなひ給ふ、其後長野信濃守居城簑輪へ信玄公おしよせ給へば同月十二日に川中島へ越後の景虎働出たると申来るに付上野を捨て又川中島へ御馬をよせられ五月の末まで景虎と御対陣あり帰陣なされて同年八月又信玄公上野簑輪へ御働あり西上野の毛作をふり焼はたらきあそばし候へ共各々居舘へこもり田頭てんどうへいでゝたてをつき申事はいたさす候故十月中旬に信玄公御馬いれ給ふ仍如件

 
甲陽軍鑑巻之十上終