甲陽軍鑑/品第卅一
一粟原小山田死去之事 一板垣弥次郎御勘気之事 一桔梗が原合戦之事 一川中島城取并小室之事 一景虎関東発向之事 一上杉則政無分別之事 一浄土宗法花宗々論之事 一北条氏康とせり合之事 一織田弾正と義元和睦之事付竹千代殿之事 一信州先方衆成敗之事 一瀬場御成敗之事 一木曽降参之事 一於㆓河中島㆒与㆓謙信㆒対陣之事 一氏実噂之事 一秋山伯耆守高遠に被㆑置事 一飯富三郎兵衛事 一関東上野御発向之事付上野合戦之事并河中島にて景虎と対陣之事
栗原左衛門佐、とき田合戦に深手負四十五日いきて死す、子息左近二百騎の同心指上らるゝ、然れとも取上給はず、左近しきりに御詑言申故百騎預けて残る百騎を春日源五郎に預け被㆑下栗原左近神妙に申上候とて一だん褒美あり、左兵衛尉に被㆑成候也
小山田左兵衛尉も、其合戦にて手負二十一日目に死す、是も弥三郎斟酌申上候へ共、武田御先祖より御誓にて被㆑下る都留郡なれば少も相違無㆑之と被㆓仰出㆒子息弥三郎に被㆑下る
板垣弥二郎御旗本前備四手の内にて候へ共、時田合戦にて手に合さる故信玄公御 立まし〳〵て御書立てを被㆑成板垣弥二郎方へ指下され候其子細は
先手法福寺合戦
【 NDLJP:110】今度馬場民部、内藤修理、弥二郎より時代先の者共一戦仕るにわかきもの
甘利左衛門尉当年十九歳にて、抜群年おとりの者にこされ候、其上左衛門尉は、はや度々の手柄仕り晴信証文いくつも取て持候に其方能き同心被官を持ながら武篇の場一度もなきは信形子にて候へば定て未練にはあるまじく候へ共、信玄を大切に不㆑存と見へ候事
信玄噂あしく申候事
諸傍輩に緩怠仕る事 と、七ケ条あそはされ、原隼人佐、市川宮内助両人を以て被㆑仰、同心召上られ候甲州に有八十騎の同心に、信濃に有百二十騎の同心の内七十騎と合せ百五十騎飯富源四郎に預け被㆑下則飯富三郎兵衛になさるゝなり
信濃に在る板垣同心残て五十騎は春日源五郎に預られ初め栗原同心百騎是を添へ百五十騎の侍大将に源五郎成て然も春日弾正になさる、飯富三郎兵衛に預られ候者の内に、曲淵勝左衛門と申者板垣被官なれ共武篇すぐれて場数多き
天文二十二年癸丑五月六日、信州桔梗
天文二十二年丑の八月吉日に川中島の内、清野殿屋敷を召上られ山本勘介入道道鬼に縄ばりをさせなされかいづの城と名付本城に小山田後の備中二のくるはに市川梅印原与左衛門指置かるゝ
小室には春日弾正さしをかるゝ是は天文二十二年丑の十月如㆑件
景虎定て一年に一度づゝ、川中島へ働かるゝは村上義清への志しにて如㆑此越後雪国の故二月のすへより十月半ば迄合せて八月の間、景虎働也殊更天文二十年辛亥に関東の管領上杉殿相州小田原の北条氏康にまけ越後へ迯入景虎を頼み給ふにより景虎則政に頼まれ関東へ出おさめんとせられ候へ共上杉家の侍大将衆則政公牢人を悦び主なしになり、去年景虎にしたがふては今年随かはずしてひとり立ならねば次の年は北条氏康へ成候故景虎と氏康と取あひ天文二十一壬子年三月より始る但東上野は三分一始より景虎に随ひ景虎も信州川中島へ出て、信玄公と取あひ越中能登へ出て椎名神保其外各々と取あひ関東へ出て氏康とゝりあひ雪のふらざる間、三月より十月迄三方へはたらかるゝ如㆑件
去天文廿年辛亥に上杉家破るゝ子細は上杉殿北条氏康に負け国を捨越後へ迯入長尾景虎を頼上杉の名字と管領職を景虎に譲関東国をも景虎に宛行はれ上杉殿は隠居管領に成上野一国にて世を送申へきと長尾景虎に管領被㆑仰候故、景虎尤とあり上杉に成管領職を給はりて来年子の暮より関東へ発向有【 NDLJP:111】へきとて上野の平井まいばしなどへは其年天文廿年に景虎の家老を差越則政公を主君にも、親にもと馳走あれ共、関東奥北国越後衆迄も上杉則政を物笑にする謂はれは上杉殿世が世の時御分別あしくしてよろつぶせんさく故、越後へ御牢人の時御曹司龍若殿を捨置則政公斗り、にげ給へば御曹司御局の子めかた新介弟長三郎其弟三郎介其伯父九里采女同与左衛門局共に六人其外縁類親類迄合せて廿人組み談合して御曹司龍若殿を、北条氏康へつれて出て忠節に仕る氏康公其年三十七歳なれ共よその五十六十の大将より弓矢せんさくを能被㆑成候間忠節の上杉衆を皆からめ取殺し給ふ、扨又御曹司も御生害也太刀取は氏康の小番衆神尾と申侍也神尾即時に管領上杉の御罰忽ちあたり癩に成、是程高家の上杉管領なれ共御分別違御曹司を尋常に
天文二十二年癸丑十一一月二日に浄土宗と日蓮宗と法論【浄土法花宗論】有に、原美濃守虎種入道法度をそむき法花寺へ見舞申候に付御成敗有へく候へ共、大剛の侍にて度々の忠功忠節の故、馬場民部助、内藤修理飯富三郎兵衛三人の侍大将心をそへ相摸小田原へ送る、氏康事の外よろこび原入道を馳走ましますなり
天文二十三年甲寅二月中旬に小田原北条氏康と駿河今川義元と取合おこりて義元公より甲州信玄を頼み給ふ故、信玄公富士の大宮へ御馬を出され氏康と、度々のせりあひ都合十六日在㆑之中に信玄公足軽大将小幡山城入道子息又兵衛はしり廻り諸手にすぐれたる様子は敵三百計りの中より六人すゝみ出て細道のちいさきつかへ上りひかへたり又味方甲州勢は馬場民部五十騎の侍大将に小幡入道同心馬乗十五騎足軽七十五人と惣合て四百余りのそなへにて、かちまと云ふ所におひて三月三日辰の刻に足軽始まり候に小幡又兵衛其年二十一歳なれども十六歳よりはじめ走り回り仕付候へば敵の色心をしつて六人ひかへ居たる敵へちかく乗りよせ馬よりおりたち鑓を取て敵六人と又兵衛一人と鑓を以てつきあひ六人の敵を三人場にてつきころす、父山城入道は敵三百余三十間程跡にひかへたる同備へかゝつて切くづす馬場民部、惣かゝりにしかくるを見て北条衆敗軍なり但中にて相州衆の能き武士二騎返して、さいはいを取て味方を勇め各返して一勝負と申武者と山城入道川中にてくみておち三ケ所手負候へども馬場民部かちいくさの故山城入道其武者を討取り、さひはいをそへての高名なり、子息又兵衛重ねて乗来つて今一騎の武士、引とる所を川の渡あがりにて是も父山城のごとく馬上より組でおち勝軍のゆへ相摸衆をうちとり、さいはいをそへて親子ながち高名仕る、手二ケ所又兵衛もおはれ候始鑓づつけたる時の数三人をも藤右衛門熊井孫四郎と申又兵衛中間
天文廿三年甲寅の春駿河義元、相州の氏康取あひの時義元より信玄公を頼み給ふ子細は尾州の侍大将織田弾正忠死して其子息今の信長也、義元公の旗下にならず結句義元公の持の国三河の内、きらの城へ取かけ、つけ城をして是をせむる、義元公は御馬出し給へ共跡 を機づかひ遠州ひきまに逗留まし〳〵先衆を以て弾正忠が子息の
天文廿三年甲寅の六月十日に信州河中島、清野の宿を焼き申すべきと、長尾景虎前九日に、信玄公へ使をたて其ごとく長尾謙信一万三千の人数にて清野へ心指して、備をたてむけられ候、馬場民部雑兵ともに三百五十斗りの人数にて、清野の宿に居て、景虎に清野へ少しも手を付けさせず結句景虎早々引き取る様に仕らるゝ、馬場民部武功中々申すに及ばず候此時長尾謙信前の日の広言程もなく合戦をまはし申され候、又同月十二日に此比働かざる虚空蔵山の城へ働き申すべきと
一がくかんじ 一より 一布下 一和田
是四人はがくがんじを飯富三郎兵衛に被㆓仰付㆒、よりを甘利左衛門尉に被㆓仰付㆒布下を春日源五郎に被㆓仰付㆒和田は御旗本廿人衆頭三ツ沢四郎兵衛に被㆓仰付㆒家中へは武篇よき者の、わかく心のきゝたる侍を撰て此介錯をいたさせ候へと被㆓仰出㆒三郎兵衛内より広瀬郷左衛門、春日弾正内より、飯島長左衛門、甘利左衛門尉内より、井上文左衛門介錯なり四人の侍大将さすがに信州弓矢国の故腹をよく切るなり
天文廿三年寅の八月廿六日に、信玄公木曽口へ御馬を出され候へば、其砌信州衆瀬場といふ侍降参いたし九月すへに甲府へ召つれられ次の年典厩甘利左衛門尉、両侍大将に被㆓仰付㆒甲府一蓮寺と申時宗寺にて、瀬場を御成敗なり、此瀬場少身なりといへども、大剛の者其上信州弓矢つよき事大形ならざるに付き、
天文廿四年乙卯三月七日に信玄公甲府を御立有り同十八日に木曽の内、屋ご原へ御馬をよせられ【木曽降参】四月三日まで御逗留ある内則やご原にとりでを一ツ拵らへ、木曽殿居城へ取り懸らるべきとある所に【 NDLJP:113】同月五日に越後の謙信川中島へ出でたると申し来る、此一左右を聞し召し、やご原のとりでには粟原左兵衛に足軽大将多田淡路をさしそへ木曽義高をおさへ、信玄公六日にやご原を御立あり長尾謙信にむかひ給ふ、五日対陣ありて謙信早々引き取り候、謙信も関東上野の国へ出て、北条氏康と対陣して日々夜々の足軽せりあひあり其後景虎七月は越中へ出、椎名、神保、遊佐、土肥、土屋其外おほき侍の中に椎名、神保両人大身なり、此侍衆とせりあひ、せめつけ又謙信信州へ出ては信玄と戦、関東へ出ては氏康と戦ひ、或は越中衆に威光をみせ三方と取合有、是は越後謙信の噂也、扨又信玄公其年八月二十一日に鳥居峠を越し、やご原に御馬を立てられ、同廿二日に甘利左衛門尉其年二十二歳にて御先を被㆓仰附㆒候其次に原隼人介馬場民部助内藤修理少輔春日弾正此五頭を以つてやご原のむかひ、いねこきといふ所へうつり、おきそと云ふ所へとりつき、見おと云ふ所へをし出、おんだけの城へ取つむる是は山道なれ共原隼人佐父の代より、ケ様なる山道人数をさるべきさげすみ、得ものにて如㆑此勿論所の者案内申といへ共備おす道のなる、ならざる、つもりは、道をしりてもならず原隼人名誉の侍太将也、殊に福島筋へは栗原左兵衛、飯富三郎兵衛、長坂長閑、典厩、市川宮内助此五頭働く故、木曽殿其日に降参有、我所領を悉くあげ甲府につめて御奉公申すべきと申され、分に付、信玄公仰らるゝは、小笠原長時にちがひ木会申分一段能とて、持来る所領相違なく被㆑下木会殿家高なれば、信玄公御聟になされ御息女のおとなに、千村備前、山村新左衛門両人を木会に指置木曽殿と殿文字を附、穴山殿同前に武田の家中各々申べき由、信玄公仰せ出さるゝなり然れば始の御陣三月中に木曽の儀、ケ様にたやすく随ひ給ふべきに、やご原にとりでを一ツ取御普請あそばす事信玄公御分別如何と各不審を立る所に、川中島へ景虎働く由を聞召、木曽に懸て御座候はゞ景虎に御持の小城一ツも責落され可㆑被成候さ有ても景虎に向ひ給はゞ、木会義高より鳥居峠に取出の一ツもきつき候て持申に付ては是程早く、木曽落着有まじきに、三月やご原に取出を被㆑成により如㆑此、
弘治二年、丙辰三月朔日に信玄公信州伊奈へ御出陣あり、伊奈の郡悉く御手にしたがふ所に、三月廿八日に河中島へ越後の景虎入道謙信、働き出るよし申し来るにつき信玄公又景虎にむかひ給ひ、四月中対陣なされ、五月朔日に景虎引き取る其年六月中旬には又景虎も関東へ出てられ、七月迄北条氏康と景虎と対陣なりときく以上
信玄公弘治二年六月中旬に又伊奈へ御出馬あり、七月、八月、九月都合四月の間に伊奈を伐り従がへ給ひ則ち伊奈侍御成敗の衆
【黒河内】 一みぞぐち殿 一松島殿 一くろかうぢ殿 一はぶ殿 一こたぎり殿 一いなべ殿 一との島殿 一宮田殿
此外ありといへども書くに及ばず又たやし成さる中に、弟、伯父、従弟などに所領半分、或は三分一など被下、名字をつがせなさるゝことあり、去る程に此年迄に相州北条氏康公は亥の年にて四十二歳、駿河今川義元公は卯の年にて卅八歳、甲州武田晴信入道信玄公は巳の年にて卅六歳、越後長尾景虎入道謙信公は廿七歳也何れも三人の大将衆は氏康をはじめ、爰かしこへ働きとりあひ給ふに駿河今川義元公は駿河遠州。三州三箇国を持ちなされ、しかもよき家老数多あり其の上子息氏真公も戌の年にて十九歳になり給まひ就㆑中氏康と信玄公と無事なれば、尾州へうち出て成さる共よき人数二万か扨は一万八千、固く有るべき処に氏康公信玄公景虎公十分一に、御苦労なさるゝ事なくたゞ家を高く能、さるがく、歌の会、茶の湯がゝり、扨は振舞料理よきあしきのせんさくつよければ氏真の御代になつては、猶以此模様こくなり申候はゞ今川の御家も少し、あぶなく候と山本勘介入道道鬼、弓矢功者分別して、伊奈の郡高遠の城にて信玄公へ申上る、信玄公被㆑仰は徳は一代名聞は時の問におはる名は末代なりとの上意を承り、大小老若共に武士を心がくる程の人は悴者中間小者までも感じ奉る
弘治二年十月下旬に秋山伯耆守相ぞなへとありて、はたもとに附らるゝ、伊奈の侍大将衆は【 NDLJP:114】一ばんざい 一いちのせ【万西、市野瀬】 一ちへ【一本ニチヘヲ千久トス】 一はるちか衆
合せて弐百騎、秋山伯耆与力なり、伯耆守手前の騎馬五十騎共に引合せて弐百五十騎人数をもつて伊奈の郡代に仰附られ、伯耆居城は高遠の城にさし置かるゝ以上
飯富三郎兵衛相備とありて、よりき附らるゝ伊奈衆
一松尾 百騎 一下条 百五十騎 一松岡 五十騎
合三百騎、飯富三郎兵衛に附下され、其上伊奈侍御成敗の衆のしたにて武篇覚の有侍を五十騎召出され是も飯富三郎兵衛に預下さる、三郎兵衛手前弐百騎と与力衆と合五百騎預られ御さき衆の二の手を、飯富三郎兵衛仕る以上
小山田備中守、あまかざりの城へ在城也、其跡かいづの城には春日弾正被㆓仰付㆒指置かるゝ二のくるわには足軽大将小幡山城守子息又兵衛馬乗十五騎、かち足軽七十五人持てゐる、是は春日弾正を景虎と云強敵のおさへに被㆓仰付㆒故春日弾正望て小幡山城を、弓矢のかいぞへのために如㆑此なり扨又春日弾正手前へは、和田より布下、がくがんじ、四人の信濃侍御成敗其下にて武篇覚へ有る少身者を三百騎召し出され、春日弾正に預け下さるゝ始めの百五十騎と合せ弾正手勢四百五十騎持ちて、信州侍高坂が名字を乞ひ請け弾正に被㆑下春日をやめて高坂弾正と申候、此高坂弾正相備へとありて与力衆、西条、清野、いも川をはじめ川中島衆後には皆高坂弾正に被㆑付なり
弘治三丁己年正月七日に相州小田原の北条氏康公より、信玄公へ御使に大藤きんこくをもつて仰せらるゝは十ケ年以前に武田殿上野国へ御発向無之様にと駿河今川義元を頼み御詫言申候へども上杉則政方越国の景虎を頼みて、越後へ行きてゐられ候に付景虎年々関東へ働き候へば、それにたより独り立ちならざる上杉家の侍大将ともに上杉を返すこともいや、又氏康に従ふ事もきらい敵になり、みかたになり候て関東治り兼申候、上杉家各おほき中に武州にて太田のさんらくと申す侍大将と上野に長野信濃守と申す侍大将、大きなるいたづらものにて景虎を後あてにいたし、氏康に楯をつき末々は両人のもやうを相みるに、三楽は武州をみな巳れが望み信濃は上野を望み候と聞へ申候間三楽をバ氏康伐り従へ申すべく候、信濃守をば信玄公より御成敗なされ上野を甲州より御支配あそばし候へとある事にて、弘治三年丁己三月中旬より信玄公上野へ御発向なり如㆑件
弘治三年四月九日に上野みかじり【上州三日尻合戦】において、北武蔵、西上州侍十頭あつまり其勢二万斗りの人数にて長野信濃守大将になりやさしくも信玄公に楯をつき奉る、甘利左衛門尉其年廿四歳にて老功の飯富兵部殿をもこしてかゝつて合戦をはじむる、飯富三郎兵衛、馬場民部助、内藤修理、原隼人諸角豊後守、小宮山丹後守飯富兵部少輔此八頭を先として大郎義信公大将にて甲州方よりかゝつて一戦をなされ悉く追ひ崩し勝時を取おこなひ給ふ、其後長野信濃守居城簑輪へ信玄公おしよせ給へば同月十二日に川中島へ越後の景虎働出たると申来るに付上野を捨て又川中島へ御馬をよせられ五月の末まで景虎と御対陣あり帰陣なされて同年八月又信玄公上野簑輪へ御働あり西上野の毛作をふり焼はたらきあそばし候へ共各々居舘へこもり