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甲陽軍鑑/品第四十上

 
オープンアクセス NDLJP:163甲陽軍鑑品第四十上 巻第十三
信玄公を始奉り家老衆大身・小身善悪の儀分別の事
付物の時宜作法手本に成事
 

偽のなき世なりせば世の間にたが誠をもうれしからましとある歌を人にならふて高坂弾正が爰に記し申は此書置若し落ちりて人々見給ふ共盛なる家にて奉公衆の大小上下共に心いたりたる武士の御覧候はゝ大にわらひ給はんずれ共是は又左様の能き人へは深くかくして衰る家の無穿鑿成る奉公衆に心を付参らせんが為にいかにもぐち成書物也以上高坂弾正が申す誠に我等文盲第一にてすでに一文字を引事もならざれ共傍輩の中にふかう分別達したる大剛の名人にしたしく雑談をつねに聞て百に一ツばかり覚へ候て少心も付たる故か又余の傍輩衆よき程の人々申されたる義迄聞書仕り只今紙面に顕はし候は当年長篠にて勝頼公後れを取給ふゆへよき武士百人は九十八人うち死してみな生れかはりにて候間其為にかき置まいらする、長坂長閑、跡部大炊助殿かならず人にはみせ給ふべからす若し又みせ給ふ共当御家に二代も奉公いたし候子共あまたの人にはみせ給ふとも、牢人衆にみせ給はゞ中々高坂が現世未来までもはぢなれば且は御家のきずになり候ふかくつゝしめ如件

高坂弾正が申、物よみ衆の中にて定て此さた聞事に有べけれ共それは文盲成者の心にて心至らねばきゝしらず聞しらねば事をわけて物いふこともならず候間愚人の中にてもそれに名を付ていはねば物の、はかゆかずして、大きに悪しさる程に、はづかしながら高坂弾正が愚痴の心を以て又た心しんを三ツにわけて申候聞給へ長坂長閑、跡部大炊介殿、先一ツに遠慮は志、二ツ工夫は分別、三ツに才覚は気なり、扨いかに志しても分別にて工夫して其躰を見付ねば志しの詮なし、いかに見付ても気をきひても才覚をもつてことをすまさずんば其かひなし、たとへば道を行時大河のはた迄参り水のましたるに、瀬をしらずしてわたらばもしながれやせんと、遠慮する是志し也さやうに心ざしても、渡るべき手だてなければ是又詮なし、是に付分別にて河の案内者を頼みてよしと、工夫し出す、され共案内能く存知たる者共を人が雇てなければ種々はしり廻りてよのかたへ行を、物など沢山にあたへんと云て案内者の此方へ、すゝむ様に仕る是才覚なり

高坂弾正申す、右三色ながら分別と申さんも遠慮才覚と申さんも尤にて有べし、但しそれにては文盲成る高坂がつれの合点おそし縦へば禅宗の祖師達は一そくづゝにて悟り給へと末世の衆生愚痴にて悟りおそければ各祖師の大悟のきをあつめて千七百則とありて此頃人々修行させ給ふも元は愚痴の人間よりおこりたる事なりと、推量申て候以上是より次に信玄公の御出語有り

一本ニ山本大林斎ヲ加フ 或夜の事成に信玄公御放衆小笠原慶安斎、板坂法印、寺島甫安斎、岡田堅桃斎、長遠寺、一花堂、新藤金額斎、小俣清甫、其外各へ尋給ふ工夫と思案は別か、同じかと仰らるれば、もろの中に長坂長閑一ツ事なりと申上る信玄公御諚には別なり古語に工夫乾坤通幽微思案唯心在好望所と云ふときんば工夫と思案は少し違ふ事也

又分別と才覚とは別ならんか分別有之才覚なき有才覚有之分別なきも有されバ無知の若者に知恵つけんか為に名付て云分別の心にてその才覚ハ気乃すいたる者のくざ也分別者には越度稀にして才覚有之分別なきハ過ち多しと宣ふトアリ 或夜又信玄公各御咄し衆へ仰下さるゝ人間は大小によらず身をもつ事一ツあり旁是にあたりてみよとの御諚に候各暫く有て申上る何と思案いたしても更に分別に及ばずと申せバ、信玄公そこにて仰出さるゝ、人は只我したき事せずして、いやと思ふことを仕るならば、分々躰々全身をもつべしとのたもふなり

或夜信玄公宣ふは渋柿をきりて木練こねりをつぐは小身成者のことわざなり、中身よりうへの侍殊に国持人オープンアクセス NDLJP:164は猶以て渋柿にて其用所達すること多し但し徳多しと申てつぎてある木練をきるにはあらず一切の仕置かくの分なるべきかとのたまふなり

或時信玄公仰らるゝ古人のいふ馬多しといへ共、能馬を見知る者なうしてよき馬共さたなく、うづもれていたづらに日を送ると申も大略は国持大将に人をよくみしれと申儀にてもあらん然ば小身成侍の知行百貫の内外取者なり共百姓の所をさらず其知行に物も残らぬごとく、〈[#この傍注と似た内容が後文にあるが、傍注の位置を底本のままとした]〉全集ニ古語を引給ふに陳孔障謂魏文帝曰逢人只説三分話全抛一片心人鎮不我相好花鎮無与春盛開昨友今日寃讎昨花今日塵埃とて七分残して三分云も皆耻に遠かるを無分別者は卒爾に物云と悪しとて無言し万づ大事と計り致すハ渋柿を伐て木練を継はあしきと人の言を聞久き木の能実のなるを伐て渋柿をつぐ如し是又能事をせんとて悪くしなす者の仕形也古語曰金屑雖貴落眼成翳とは右の様子を云歟トアリしかも我損物もなく仕る者は一郡をも能推はからん其者は一国をも仕置宜しくいたすべし、縦は一万貫取侍の事不弁に取まはすは十万貫取ても大方其者の一代物に事かくこと多からん武士は大小によらず武道を心がくる事第一也武道を心がくる共不弁にて事たらずは心に存じても万つ成がたし、事かなはねば武具馬くら見苦敷く似合のよき被官も、つるゝ事ならず去程に男をたて頼もしう奉公の忠節もすりきりては成まじ、人は分々相当に身分を持分限成者をば主の方へ一忠節と思しケ様の侍に目を付て取立ツ事肝要也但分限の有者に物をためて、おく引こまんと思ふか、扨は息女子などに能聟をとらんと存候者、物をたむる侍を見そこなふて加恩すれば下劣のたとへに盗人においをうつと申儀にならん是には目付の入所也、其目付も盗人の心ならばいひきかすまじそれには横目の入所、横目申かぬるをば、定まりなうして童か同朋か、いかにも少分成分別なき者に聞て物かくす目付横目を逆心の科に申付べしと宣ふ也、訴人岩間大蔵左衛門事はのたまはず童に心あり

信玄公宣ふ世間に侍の事は申に及ばず奉父人下々迄も、其生付たる形義有べし右の人をみそこなひの事あらん、一ツには分別有者を侫人と見る、二には遠慮の深き者を臆病とみん、三にはがさつ成人をつはものとみん是大成るあやまり成べし、分別の有人は十を七分残して三分申す遠慮深き者は跡先をふみ常に万事を大事にするそれはいひ出る程にて勝負をつくるにより妻子の思案前に仕る故物云ふ程なれば実否をつくる是を遠慮と云ふ此遠慮をしらずして臆病と見ん左様に見る人は皆未練ならん扨又がさつ仁は分別も遠慮もなく無理に物を申遠慮者分別者の詞少なきを未練と思へ共勝負を付る所にてはじめて妻子を思ひいたすによりはたしぎはにてがさつ者は必最期随分になし扨こそがさつは臆病のはな也

信玄公宣ふ右がさつ者は分別も遠慮なき故恥をもあまりしらずして縦ひ親兄弟不慮に殺害にて死し敵きあり共其敵きをうたんと思ふ事もなく常のかさつにちがふて、合戦せりあひの時もかならず、かさつ者は人なみより結句内にしてしかも又それに付ても種々のことはりをいひたがる事、偏に分別なくして、遠慮なきゆへなり

又或る夜信玄公仰せらるゝは、工夫と思案のかはるごとく分別と、才覚とは別ならん子細は世間にありて才覚のなき人もあり才覚ありて又分別なき者もありされば手を付ていはねば若き者知恵つかざる間、かれが為になづけて申さば、分別は心にてする、才覚は気のきいたる者のわざなり、分別者には越度まれなり才覚ばかりで分別なきはあやまりおほし、物しりたる人の上には此批判いかほども有べしそれは無学の若者合点まれなり

或る時信玄公仰らるゝ人は遠慮の二字肝要なり、遠慮さへあれば分別にも成る子細は遠慮して我分別に及ばざる所をば大身は能き家老に尋、少身は親類か扨は友傍輩のよき近付に談合して理をすますなれば越度すくなし去る程に分別のもとは遠慮なりと、いやしくも信玄は存ずるに、惣別は存ずるぞ惣別人間は遠慮深ふして才覚ありて、分別あるならば何にても仕り出し後の世までもとゞめおかん、其いはれは大職冠の分別才覚にて、うみのそこなる方八寸の水精すいせうの玉を取返したりと語り伝ふる是も分別にてあま人を、くゞらせとらんと工夫し、才覚を以て右の海士人かまびとにちぎりをこめ、其後彼女を頼まるゝは大職冠の気のきいたる人の故如此但し此段は詐はりにしても、又人の分別才覚褒たる事は日月の火をとり水を取事水精をもつていたすは眼前なれば是もゝとは人間の工夫思案する才覚なり、然ば人のうへに分別才覚にて工夫思案に及ばぬこと唯一ツ有ぞ、各是にあたりてみよと有時諸々の御咄の衆一人もかなはずそこにて信玄公のたまふは人間命の縮まりたる義は何にても及がたしと仰られわらひ給ふなり

或る夜信玄公古語をひきて仰らるゝ、陣孔障謂魏文帝曰逢人只説三分話全抛一片心人鎮不我相好花鎮無春盛開昨友今日寃讎、昨花今日塵埃と云ふて、人の奥深く物いふ事七分残して三分申も皆其身の恥に遠き儀成を分別なき人は物を卒爾に申事悪しとて一円物いはず万づ大事とばかりといたす人はだい渋柿きりて木練こねりにつぐはあしき儀なりと人の云ふをきゝいたらぬ心より賢オープンアクセス NDLJP:165だてのことはざは久つぎてあるきざはしのしかも能実のなるをきりて渋柿につぐごとし是又よき事をせんとてあしうしなす分別なき者の仕形しかたかくのごとし古語曰金屑雖貴落眼成翳とは右の様子をいはんか巳上

或る年一二月の間打続き雨降て一日の内も空晴れつ曇りつ有つる日に信玄公へ駿河今川殿より送り参らせらるゝ定家の伊勢物語りを取出させ給ひ御看経所の次の座にて是をよみ給ふ時、長坂長閑短冊を二枚持て参り一ツは駿河氏真公の御作にてしかも御自筆なり、一ツは関東氏政公のよみて書給ふなれバ長坂長閑存ずる、北条氏政公はむこにて御座おはします此自作自筆を信玄公御覧なさるゝに付ては定て御機嫌一入よくましますべしと思案仕り、右短冊を取出し信玄公へ御目に懸候へば則よみて御覧あり是は両人ながら自作自筆かと有時、長坂長閑其通にて候と申せば信玄公とかくの御諚もなく稍や有て仰らるゝ、長坂長閑尋べき事あり三河の国岡崎家康と云ふ若者は当年は、いくつばかりの侍ときゝつると尋給ふ、長坂長閑申は寅の歳にて当年二十五歳と承り及び候、信玄公仰らるゝ義元討死の時節より当年まで七年なるが件の家康十九歳より今までに三河国一国をおさめ候に付、しかも彼国日本六十余州にて人のかぞゆる侍の武篇挊く国なれば合戦の儀年に二度はあれ共一度なき事なし既に家康或時浄土寺へ行き知識にあひ念仏の十念と云ふ物をとり疑がひをきつて、敵三千ばかりを我人数二百の内外にて家康勝利を得たる共きゝつるぞ、是は歌をよむか物を書か家康つはさを長閑存知たらば申せとある長閑承り此家康事は一文不通の人にて少も花車なる事なくして一段無道なると申ならはし候と申せば信玄公御諚には国もちの武功なくして花車成は結句賤しきにたとへたり又国もちの武篇して無能なるはいたりて花車なると、これをいふ子細は、信玄は若き時鷹野へ出て在郷の家を見つるに石臼と云ふ物は種々の用にたて共百姓さへ座敷へはあげぬなり、扨又茶臼と云ふ物は茶を引一種なれ共是は又侍の所にて一入馳走いたす、信玄が見立は家康が無能は茶臼氏政氏真手跡の能と歌の作は只石臼のごとしと信玄公の御批判也

或時信玄公仰らるゝ人の学ある木の枝葉あるが如し只人はもつて学なくんば有べからずと、いひつべし学と云ふは物をよむ斗りにあらず、おのれが道々に付てまなぶを学とは申也、先弓矢の家にうまるゝ人は大小上下共に、武功忠功の人に近付一日に一様聞共一月には三十ケ条の事ありいはんや年中を申さば三百六十ケ条のすへをしらば去年の我等に今年は又はる増ならん去程に人は我心を三ツにわけてあしき思案のいづるをばすて、若も、よき工夫あらば、そこを取てをのれが分別の友に仕て、あらば恥有事すくなかるべし縦ば、一文不通の者なりとも此理に徹したる人は、信玄は智者といひて馳走に存ずる也但しよそにて物識人の上には何程も能せんさく有共其所へは信玄及ばずして、少智短才の法性院如此と宣ふ也

或る時信玄公御はなし衆に尋給ふ、奉公人の上に大身小身の侍は申に及ばず下々の者迄相手におそろしき人有是は何人ぞ見いだし候へと御諚なり、各不叶そこにて信玄公仰らるゝ無分別の人の事也、子細は彼無分別人跡先をふまず口にまかせ手に任せ法外の仕形あり左様の人はかならずつばぎはにてをくるゝといへどもよき分別有人は、かねせんさくをよくいたすにより無分別者のがれたがる共申いだしてからはのがさず、勝負を付るよき分別者があしき無分別の者と相手になりいたづらに身を果すなれば是を思案してみられよ分別なき者はおそろしき人にてはなきかと宣ふ也

或る時内藤修理に武田典厩問ひ給ふは、奉公人大小上下共に付あふて悪き者ありや、願くは修理正批判をきいて我めしつかふ者其の後学にさせんと有時、内藤修理申は先二人是也、一人はいさかひ数寄の坊主同座頭にて候子細はおのこ子の寄合ふて何ぞ様子の時合により雑言あらば、はれ、はられ、きらば双方きりあふ時死たる方をまけと申す然らば人の口論とはりあひには坊主も座頭も雑人も侍も力次第口次第或は贔負次第に勝負はあり、成敗いづれも甲乙なき物にて後はぶつきるより外の儀はなし其上坊主座頭は負てもくるしからず男は雑言の上にて少し義理のちがひてもはぢなれば爰を以てきるにきわまるは武士のわざと申さだむる、さればきりて理をうるは其人平生たしなみ又は冥加さては時の仕合にて勝負にかちて以て此人世間よりほめらるゝ事武士の行義是にて候さるにつき坊主座頭をきりては仕りすまして、はぢなり所詮いたづら坊主座頭には、つきあはぬが秘事にてありといひて内藤修理、典厩様はさすがに信玄公の甥子にてましますに、しかも古典厩信繁の筆法ありて御嗜みゆへ如此のせんさく迄なさるゝとて典厩を内藤ほめ申なり

オープンアクセス NDLJP:166或る時信玄公御舎弟一条右衛門太夫殿、山県三郎兵衛に問ひ給ふ、武士の大身小身共にほまれある人に終に越度なき侍は、かせぐやうの奥義別にありやと尋らるゝ時、山県申すは定てある事なりと云一条殿願くは是をきかんと有、山県申すは侍度々の心ばせあり共、陣の度々に、はつの陣と存して跡の覚をすてゝこそ弓矢まつたきほまれの武士とは申べけれと山県三郎兵衛一条殿へをしへ申也

或る時小山田弥三郎、馬場美濃守に問ふ既に貴殿は、当屋形信玄公に七歳さきの人にて候へば信虎公の御代にも其方十七歳より陣をなされ八年の功瑳の上、信玄公の御代にも七八年は小身にてしかも、時により先衆の中へもまじり給ひ、右二代の間に廿一度武篇場数の御証文の中に諸手にすぐれたるとある儀九ツ御座候御感状を信虎公、信玄公御父子より 馬場美濃殿に被下たりと云ふ儀承り及びたるがたゞ事ならぬ冥加の人にてことに手疵を一ケ所もおひ給はず候、貴殿にくらべて申には努々なし、喩にて申今井九兵衛はせりあひ合戦の初まると即時手を負ふて此時代の衆の中にて覚になる誉れ一度もなし是も形のごとくの人なれど冥加ゆへならんと云人も有執々のさたなれど今井九兵衛もあまりあしき人にてはあるまじきが、何とぞかせぐよう御座候や此ことはりを仰せきかせ被下べしと小山田弥三郎申せば馬場美濃申さるゝは別に手負ざるはたらきとては何と功者武士も有まじげれ共、さてこざかしく眼をきゝたらばさだめてよかるべし、大身小身共にある事也ときこゆる子細は古人曰善陣者不戦、善戦者不死と言程にと申さるれば、小山田弥三郎又問ふよく戦のやうは如何といへば、そこにて馬場申さるゝは小幡山城の雑談にせりあひの時は、敵よりまづ味方をよく見合候て其上にて一命を捨かせぐときんば犬死もなし、人にもさのみこされずして其手柄まつたしと有つるを、此馬場美濃も其まねを仕り戦ひ、やうすの相色を以て如此其あいろとは先味方ふか入の時手がらをやめて其備中に口を聞衆と相談申早々引とる時、しんがりをいたせば、はやそれが手柄なり又敵方味方の地へ深く来らば敵のかぶとの吹返しに目をつくる事是秘事なり、扨は敵さし物ゆるぎやうを二ツをよくかんがへて盛なるをひかへ衰ふるをかゝると小山田に馬場をしゆるなり但し是は一騎にて奉公する侍のかせぐかくのごとしと馬場美濃守申され候如

或る時信玄公宣ふ世中の人は色々あり既に分別ありて才覚なき人もあり、才覚ありて慈悲のなき人もあり慈悲ありて人をみしらぬも有人をみしらぬ者は大身は崇敬する者共十人の内八人役にたゝぬ者多し小身は其熟根する傍輩のあしきつれに近付なり如此色々様々かわりてみゆれどもそれはたゞ分別のいたらぬ心なり、分別さへ能々すぐれてある人は才覚にも遠慮にも人をしるにも功をなすにも何事に付てもよからんさる程に人間は分別の二字諸色のもとゝ存知朝に心ざし、ゆふべに思ふても分別をよくせよと信玄公のたまふなり

内藤修理正いはく信玄公御錠に人は分別肝要と仰らるゝ是尤に候然れば分別の儀ならひにて智恵つかんと内藤申に小山田弥三郎ねがはくはこれをきかんと、しきりにとふそこにて内藤修理いはく気遣といふことあれば分別にもちかよらん右の気遣から万へ心つき候て我いたらぬ事を分別ある人にならひ事をすますに付て如此の様子度々かさなりて、後自分の心得も出来り猶以工夫分別広才の智ある人に近づき候へば、扨気遣は分別のいろはにてはなきかと内藤小山田にをしへ候なり

小山田弥三郎、内藤修理に問、心のいたらぬ若者に、機遣と訓候はゞ何方へも出ず物もいわず万事機遣をして、武士道も一返よはくならん事いかゞといへば内藤修理申侍が左様の様子にて其人智恵つかん扨こそ気遣は分別の花なり此花に実なれば是分別共申さんと内藤修理小山田弥三郎にをしゆるなり

信玄公宣ふ、侍をわらんべの時めしつかふに見知様子大方四ツあり一人 武士道におぼへの者、二人 かひしき者、三人 はしりめぐり一かど仕べき利口者三人寄合武者雑談いたす所にて童らべ四人其座敷にあり、一人は口をあきかたるものゝかほばかりみてきゝ、二人めは、耳をすましちとうつふきて是を聞、三人めは、かたる人の顔をみて少しづゝ笑ひゑみがほし退く、かやうに色々有先始のうかと聞童べ後迄も其心とをり、いかに武篇場数ありても跡さきのわきまへもなく形義取ひろげつゞかぬ作法なれば似あはしき内の者の然るべきをももたずよき友傍輩の異見うくる近づきもなきもの也、二番に耳をすまして武士雑談きくわらんべは後に別はなきぞ、信虎より我等まで二代へかけはしり廻る横田備中、原美濃守、小幡山城、多田淡路、我代に尋得たる山本勘介、北条氏康のため、大藤金谷、かよう武篇おぼへの者になるなり、三番に此雑談を聞候てにことわらひておもしろがる童は後に武辺ほまれの者にかならずなるといへどもあまりすぎて権だかうして人にゝくみをうる者なり、四番に武者雑談オープンアクセス NDLJP:167の時其座をたつわらんべは後に十人の中八人九人は臆病者なり、縦へ一二人未練になくとも人の跡につき合戦せりあひの時、追頸の人なみに逃る敵をうちても鑓下の本の高名と存知医験をいひまはりよき武士本の手柄を仕る儀あればをのれが心にあてがふて是も我ごとくにうちよき人をうちてこそ人のこりなるをもつて、大剛にいはれぞするらんと思て人間にあまりちがふたる人は、世の中にあるまじきと能武士をそねみ口にまかせて申事右のおさなき時武篇雑談の座敷を立つ童べおとなに成ての仕形如此と信玄公宣ふなり

或る時信玄公宣ふ国持大将人をつかふにひとむきの侍をすき候て其崇敬する者共おなじ行義作法の人ばかり念比ねんころしてめしつかふこと信玄は大に嫌たり、子細は先大身小身共に然るべき侍は作法にて庭に四本がゝりを仕る就中春は桜の色めき柳は緑とくすむ春過て両木の争そひおはるとかくと夏を送り秋になればちらんとかなしむ、かえでが紅葉して、暮煙秋雨に経ると吟ぜらるゝ事様々の仕形ありといへども冬にいたりては是又一ツもなし去る程に常住かはらぬ松の色今こそすがたをあらはすなれ其ごとくある世間の体をも、ちがへひとむき一ツかたぎをこのむはかならず国持の非儀ならん但しよき大将の上には一ツやうなるもほめてこそあるらめ、三四十二或は三四七ツともいはんと信玄公御錠あり

或る時馬場美濃守申す、信玄公の人召つかひ給ふ事何共分別に及申さず子細は職をもち公事さたのさばきは物をよみ物をしりていかにも慈悲やはらかなる人のわざかと思へば一年原美濃守と云ふ大剛強のあら人に職を仰付らるゝ、是は不思儀と申事我等ばかりにかぎらず各取沙汰なるに、結句この原美濃殿何共ならぬよき仕置也、然といへ共此人公事にかゝりてはもろの境目、武士道の御用かくるとて奉行を上らるゝに其後暫く二三ケ月も職定まり候はぬ事美濃殿程公事の理篇批判致す人なきとの儀は信玄公御工夫あさからず候へばこそ如此、さる間何方へ御馬を向られ、然も敵国へふかく働き有時も諸々の武士大小共に侍衆の事は不申候誠に雑人迄定て是はかつ事にてこそ御座あらめと思ひ少もまくべきと存ぜざるは信玄公の智略賢くまします故如此扨又馬場美濃守がいやしき分別に大身小身の武士を朝夕下さるゝ供御ぐごにたとへて候、下々の者共飯を上手にこしらへたるは、こはきもさらりとして一段賞翫なり、ましてやはらかなるわ、いかにも然るべし又下の者下手にこしらへたる供御はやはらかなるかと思へば、ぶきめく、こはきかと思へば、ぐしやつく、是中のにへぬ飯也、されば又人にこはきも近づきてよし、やわらかなるは猶以ておくふかく縦へば綿にはりを包みたるごとくにてよき人なり扨人によつてこはきかと思へば、うそをつきよき武士をそねみ、よろづ無案内にてゑりに、付さやうありて又其人うでだてをし、いかにもきすくを立らるゝ此人をさして中のにへぬ人と申べきなり、去程に爰をよく信玄公思召付られ原美濃など職をさせ給ふと、推量申て候此原美濃殿信玄家のすぐれたる武士故存生のうち武田の家にて美濃と名乗者なし、永禄七甲子年に原入道死去ありてより馬場民部も屋形の御意を得奉りて、馬場美濃に罷成其上我等の指物、おんべいは又小幡入道日意の指物乞取さし申は我等一入小幡山城殿を信仰仕り人数あつかひ少もさほう存ずる様なるも右小幡入道のたんをなめ扨又城取の少わきまへあるは、山本勘介入道道鬼の雑談にて如此馬場美濃守物語なり

南部下野殿改易信玄公廿八歳の時山本助介と申大剛の兵武道の手柄ばかりにあらず兵法上手にて或る時信州諏訪において南部殿内の者石井藤三郎と云ふ男を南部殿成敗しはづし切てまはるに折節勘介其近所に居あたり候座数へ右の藤三郎きつておしこむ勘介刀をとりあわせずそこにしんざつほうのあるを取て向ひうけて組ころばし、縄をかけて南部殿へわたす少つゝ手、三ケ所おい候、手と申程の儀にてもなし子細は三十日の内に平愈候惣別勘介は武篇の時もはなしうちの時も数度少づゝ手負八十六ケ所の疵数なりそれを右の南部殿あしう、さたなさるゝも、いわれず候此南部下野殿も甘利備前、板垣駿河、小山田備中、飯富兵部少輔四人の衆につゞき少は武篇の覚もありといへ共うわきにて常に無穿鑿なる事ばかりいひ遠慮もなく明暮過言を申され、うそをつき給ふ無分別人にて山本勘介をにくみ国郡をもたぬ者の城取陣取又外科医者もふかき事あるましきと思ふにまして兵法つかひにて手を負たるなどゝいふて山本勘介をことく悪口せらるゝ、目付衆横目衆頓而御耳に立る、信玄公きこしめし長坂長閑石黒豊前、ごみ新右衛門を御使になされ則ち書立をもつて仰下さるゝ其御書の趣き南部下野、山本勘介と云ふ大剛の兵を悪口の事ぶせんさくなる儀なり

山本勘介小身成者の城取陣取まことしからぬとある儀、物をしらぬ申されやうにてあり唐国周の文王崇敬の太公望儀大身にては有まじき事

オープンアクセス NDLJP:168兵法つかひの手を負たると申は一入武士道無案内なり兵法の儀手をおはぬと云ふ事にてはあるまじ手をおふて相手を仕ほすが本の兵法也、殊更其方被官の石井藤三郎しらはの所へ棒にてむかひくみたをしたらんには勘介死ても、かばねのうへまでほまれあるをそねむはぶせんさくなる事

其方南部手柄は内の者笠井と、春日と両人して仕るを我手柄のやうに申さるゝと聞及びたる事

是三ケ条をもつて成敗仕るべく候へ共左有ては山本勘介も定めてめいわくに思はん爰を勘介に免じて命をたすくる間、遠き国へまいれとありて改易いたされ奥州会津へ行き南部下野うへ死をれ候なり、七十騎足軽旗本其外方々へわかち春日左衛門、笠井備後は右南部両おとなの子なり巳上

或る年武田の一家勝沼五郎殿、訴人岩間大蔵左衛門と別して入魂有て人の取やりなされ彼大蔵左衛門に年々合力なとしたまふに付て目付衆やがて申上る信玄公聞召、訴人とさだむる者にちかづき殊にしたしき儀不審のたつ様子なりとて御せんさく候へば案のごとく五郎殿、関東武蔵の大石一党と内通にて逆心の企顕はれて其年中に勝沼五郎殿を信玄公御成敗被成候也、

或る時穴山殿馬場美濃にとはるゝ既に織田信長今天下を意見する程ならば聞及て人の手本に仕るへき軍法一ツもなき事是如何とあれば、馬場美濃こたへていはく信長の敵は美濃衆に七年手間取斗り、残りはみな信長におづる、人々なる故軍法もいらす候其上信玄公輝虎と大かた世間に有程の手だて、はかりごと被成に付他国の弓矢を当御家にてさのみおもしろふ存せず候、殊更信長も当年三十八歳天下も三吉殿をおしのけ都の義、誠に我意見仕らるゝは去年七月からの事なり、軍法も大敵強敵に逢てのてだてにて候へば信長国へだち信玄輝虎と終に武篇の参会無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御聟にとある縁辺なりさるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戦の刻信長二十七歳にて無類の手柄是なり、其比信長少身にて若ければ大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり謀行の軍法なき弓矢は縦へば下手のあつまりてする能見物のごとし仕そこなはんと思ひ見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の国と七年の間取合て武功の分別定まるなり、信玄公の弓矢は、むらかみ殿と取合にて武功の分別をさためらるゝ、村上殿信州のうち四郡越後一郡ほど合五郡なれ共広き国なる故、甲州一ケ国半程の位なり其上強敵にて候、又家康は此比日本国にて氏康、信玄、謙信、信長四大将につゞき名をよぶ大将十三頭の中に大方家康一の人にてあるに付今明年の間に右の家康と一戦なうてかなふまじ、さあるに付ては信長も、後をかんがへ今こそ当家と糸辺の無事なり共、家康へ信長加勢あらば両家を相手になされ信玄公合戦をとげられ、都までほまれのためなれば是には猶以て軍法のいる所なりと穴山殿に馬場美濃守申きかす也、

穴山伊豆守殿、馬場美濃守に又とはるゝ然れば三河の家康は人にすぐれて利根なる仁かとあれば馬場美濃守、穴山殿は信玄公御従弟、しかも惣領むこにてましますが、緩怠ながらさやうの御詞を他国の家中にきゝてわらひ候はんずるなり抑も武士が武士をほむるに作法定まりたり、第一に謡、舞或は物をよむにうけとりのはやき人を利根なると云ふ其所作がら又は品のよき人を器用なると申、扨性発せいはつとも才智とも名づくなり、第二に座配よく大身小身にうらあひ取成となり少もあぐまず軽薄にもなく、じゆつにもなくいかにも見事に、しあはするを、利発人公界者と申、第三に芸つきも無器用に座配もし得ずして、武辺の方にかしこきは、利口者と申此人を心懸者すね者仕さう成者と名付てよび候、大身小身共に如此なりかやうに分てそれになつけていはねは、国持大将の合点ましまさず候大将には能々出頭人なり共傍輩に物云ふやうにならねば、殊に一ツ二ツにてはやえつうあそばす事は国持の専ら也、一入信玄公十八歳よりそれがし廿五歳の時より奉公申奉るに御わかき時分せんさくなされ此儀をよそのやうに語給ひて、定めらるゝ今曽根内匠、真田喜兵衛、三技勘解由左衛門三人にケ様の定めを仰せきかされてこそ牢人衆の参るに右三人、先其侍を見とゞけそれに披露いたすと大方みへまいらせ候と穴山殿に馬場美濃守〈[#「濃」は底本では「渡」]〉をしへまいらするなり

馬場美濃又おのこゞの利口者とさたするははなしうちの成敗者一二度或は少の足軽又はせりあひにかたき弓鉄炮などにて人なみに少しすぐれて味方の鑓あはする剛の者の一二間後につゞきて罷有が殊更大合戦にもすぐれたる、武士の鑓を始むる二三人の手柄にて敵味方五百六百のうちに也追くつす時其かちたる方にて若者の初陣などいたしにぐる敵といへ共切あふて辛労仕り取たる頸は追付頸とは申せ共少しふりよくして是を利口者と申ものなり、小身にても本の兵一番鑓二番鍵をほうして三番鑓もこは敵又は太敵ならば自然にあらんそれにつゞきて鑓わき、かたなにてこたゆる人ひとつなり、弓にてこオープンアクセス NDLJP:169たゆる人二なり、鉄炮にてこたゆる人三なり、就中鑓下の高名は一番の人にさしつゞきての武功なり扨又大将をうつ人は大略十が九ツ追頸とおほしめせ然れ共国もつ大将をうつ人は国五ケ国十ケ国の家にもおほうして二人三人ならでなし、扨其冥加を感じて是又はまれの武士と云ふ是れは小身なる侍の事大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事是は又国半国とも、もつ大将の御手柄是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大鷹の覚へ全集ニ△永禄六年三河設楽の郡一の宮の城に本多百助を籠置氏真公二万の人数内八千信虎公に頂け徳川を押へとして遠州元目に置一乃宮へ取詰らるゝに家康公廿二歳後詰とありて二千の人数を将の敵の中を突わり城へ籠り百助を岡崎へ連帰らるゝに石川日向守下知を以人数と少しも不散図ぐ備早足になく二千乃味方にて八千の敷を左右へなし跡乃氏真公一万二千をあひしらず静に備を沈む同かんだ じ乃合戦云々トアリ三河国一の宮の後詰同かんだいじの合戦吉良にての合戦山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき遠州懸川にて、今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に、大方七度の合戦有りと聞く又武道無案内の衆は、五千一万人数もたぬうちの合戦は、小合戦と申、それ大きなる、僻事也一万二万よりての太将のなきは執々ひいきにて上中下の手柄、上が下になり、下が上になり其せんさく更にまことしからねば是は何程多勢にても小合戦といふ者也、先分別して御覧せよ、尾州おけはさまにて十二年以前に今川義元公二万の勢を信長の千より内の人数にてかち、義元を討とり給ふ是人数すくなきとて小合戦とは申がたし、氏康公河越の夜軍も一万より内八千なれ共大合戦と申、国郡もつ武士の主なしにて一ケ国或は二ケ国をもうごかして仕る合戦はたとへば二百三百にても大合戦と是をいふ右のごとく三河一国持て遠州まで手をかけたる家康を利根と云ふはおろかなり、利口とほむるもすべをしらぬ仰られ様にて候家康の儀是は日本に若手の甚しき弓取と申者にて候ぞ必らず穴山殿御心得なされよと馬場美濃守申せば穴山伊豆守殿あやまりてそつじに問たるゆるし給へ馬場美濃殿とて其後どつとわらふてたがひに座敷をたち給ふなり

土屋右衛門尉所へ山県三郎兵衛尉振舞に参らるゝは其時土屋、山県にとふ若き者共に色々の様子これあるをそれがし心ざしては候へ共、其かたぎをみつけぬ事、我等いたらぬ故如此然れば御さきをなさるゝ侍大将衆いづれもなれど、山県殿には若き衆に仕出の兵、一入際限なし、何とぞ目利あそばす証拠候やと土屋右衛門尉とへば、山県こたへて曰く其方ばかりにかきらず舎弟助六殿、惣蔵殿幸ひこゝにいられ候兄弟三人へ語つてきかせ申さんとて、山県三郎兵衛いはるゝは若者に三人あり第一に異相者第二にだて者、第三にゑち者是れ三人なり先一番に異相者はひとかたぎにて武士道のやくに立事すぐれて心清く縦へば刀脇指のかわりて出来たる様なり御家に、穴山殿など夷大黒にて紙子を作りきてありかるゝ此穴山殿異相人也、又小身にては、名和無理介異相者也国持の異相人は織田信長なり、二番にだて者と云ふも武道の役にたつ人にて候それをたとへば、一条右衛門太夫殿馬鞍武具諸道具、是程陣しげきにいつもあたらしうして、しかも諸国の牢人によき者をあつめ、ざゝめきわたらるゝ此やうなる人、だて者なり三番にゑち者と申は小袖諸道具をもいつくしくはかり思案して女の好やうに仕り微若ひじやくなる奴をゑち者とて何の役にもたゝぬ臆病者にて廿に余り卅に成てもよき事なくはぢを恥と思はず殊更其人は口たけて明暮はかにもたゝぬ、はをぬき所躰をよくしたがり、たけき兵のけんだかなるをまねそこなひ、ざとうのすねるごとくに、所ごとにて大口を聞武篇の時は人なみより内のしらみ頸のつれをも漸拾ひ親兄弟の敵ありてもねらはずぶせんさくなる事を遠慮なしに申戯げ者をば我等の同心に仕らず候と土屋右衛門尉弟金丸助六同惣蔵三人に、山県三郎兵衛おしゆるなり、右衛門本名は金丸なれ共武田の老に信玄公なされ土屋右衛門尉と申候

土屋右衛門尉、山県三郎兵衛に云ふいつそや穴山殿、馬場美濃殿にとひ給ふ遠州浜松の徳川家康うはさに付て馬場美濃守殿談儀に芸能はやく請取人利根者座配よき人利発者武辺仕さうなる人利口者と美濃殿おしへ給ふと聞く、扨て諸侍の中に利根にて利発にてしかも利口なる人ありやと、土屋申せば山県いはく信玄公の御家には侍大将内藤修理正あしがる大将横出十郎兵衛是二人、此外侍大将の中に若手には小山田弥三郎にてあり就中河中島合戦の時うち死なさるゝ古典既様など物ごとあひとゝのひたり副将軍是也と、山県三郎兵衛申され候以上

此折柄山県三郎兵衛、土屋に語りて言く侍が武士道のさたに大身小身のうはさ申時、詞大方定まりたり、先第一に国持をば弓矢取と申、第二に一郡一城斗りの侍大将をば武篇者と申、第三に小身なる人をば兵と申さる程に国持度々合戦に勝、数ケ所城をせめとり覇ありて、文をたしなみ能人をみしる大将を文武二道の弓取とほめて名大将と申者也、扨一郡一城或は一ケ国をもちても小身なる者が主に取立られ主の恩にて下され国主に成をば本の大将とはいわず郡代城代又は侍大将共申さん此人の手柄あり共、よオープンアクセス NDLJP:170き武篇者と誉て其君へおそれなれば右郡代の分など分などハ文などノ誤ナラン有をも、たしなみの武士と申なり、さりながら小身なる侍の分別工夫をもつてよき大将へ奉公致し小身を仕上げ其後かはりめに、主なしになり我手柄にて半国一国も切取に付ては是又大将と申さん其人五ケ国十ケ国もつ大将と無事にして互にすけあふ共小身成方を旗下と云ふて被官とはいはず候間縦へ人の旗下にてもそれは当座の政ごと成故我手柄にて一郡もちてもそれをば弓矢取と申ても大事なし、もし又文をたしなまば文武二道とほめ候はん、子細は伊豆の宗雲公今川殿へたより、後我手柄にて伊豆相摸を取、浜松の家康是も今川殿へたより今如此就中小身成る若者一二度はなしうちの科人をよく切、或は合戦せりあひ、足軽場にて追頸の一ツ二ツをもふりよく取たるをば利口者と云ひさて又右の場にて鎗をあはする人につゞき鎗下の高名をいたし此両人につゞき鑓わきをつめてほまれ有人をば一度二度三度まではかひしき人と云ふ右の仕合かさなりて四番めからは剛の兵とて是をおぼへの者と云ふおほへかさなり十度に余るを場数有て名高き侍をさして大剛の人と云ふ其人に分別工夫あれば何と小身にても名人と名付る、殊更おのこゞの武篇走廻る事老若によらず五百千ある一備の中より二人三人すぐれてせり合の場或ひは城へ取よするにもふりのみごとにこたへたる侍は一度にても剛の兵と名つげておぼへの人と申さん子細はせりあひに勝負なくしての儀城へ取よするに、まきたる城をせめずしてまきほぐすは、大将ひとりの下知故なれば小身なる各はからひにならず各ハ者ノ字ノ誤ナルヘシ候然る所にのくにもかゝるにも五百千にぬきいづる人は英雄と申してむかしからほめたるげに候抜出る侍の意地は、敵あひ十間廿間又一町にても勝負のはじまる、すこしまへがおのこごの善悪のみゆる所なり抽る人子細は矢鉄炮のせりあひさかりの事は、廿間卅間一町の内にてあるそれをちかくよれば鑓の戦なり然ば一番鑓を一度ほむるも人のすゝまぬにすぐれて抜出る覚悟をこそ、ほまれの鑓下の高名も右すゝむ人より敵のちかくへよりての勝負成故、一番鑓にさしつゞきてほむるさりながら敵ちかく行共一番鑓におとりたるは其高名と申も鑓にて敵をおさへてさするいはれを以て右の通りなり二番鑓三番鑓までは敵によりくづれかぬるつよき敵はあり何と強き敵にても四番めには、はや追頸にてあり、さるほどに信玄公御家にて鑓はおほうしてふたり三人三番鍵と云ふ事は終にきかず一番をあはする一人につゞきて二人ばかり鑓とよばるゝ、其二番鎗をつく人と余下の高名は対々の手がらならん侍は軍法にそむかすして矢鉄砲のふるほどきたるところにかいて十間廿間卅間一町の間に手負死人かさなる場にてぬき出る人敵みかたうちあはゞ一番鎗の棟梁たるべし、其人をほめてこそおぼへの者はおほく出来申さんずれ、右にかたる五百千ある一備の中に、一二人ぬき出たる侍のかゝる時と、のく時とを、くらぶるならばのく時跡にさがるは、かゝる時のつよめに大方六双倍ほど、のく時さがりたる人の武き事、意地すぐれたり、それも深手をかうふるか、なにぞの摸様を聞届けて穿鑿なされ弓矢の批判よく分別して侍を引まはし給へ、土屋右衛門尉と、山県三郎兵衛申され候なり、右のついでに山県三郎兵衛曰く一ツ場所にて侍一二人走り廻りの中に類親おほき方をましのやうに申それは信玄公大きにきらひ給ふは、上かろければひいきの沙汰にて、悉皆大将もなく縦へ大将ありても未練なる君の下にて弓矢のせんさく女人のいさかひにおほき方の申かつ様子に相似たり、大将よければ、ましはまし、おとり対々なるは同じ事とわくるがよき大将のわざなり、かならずおほき人の中には、せんさくなしにむざと我ひいきをほむる女侍沢山なり、去に付かたましき侍とは女を三人よせてかくげに候、就中よき武士他国より来る類親なき者手がらの儀ひいきに申につき信玄公度々御諚におのれがぬき出たる手がらをして大略にいはるゝは何程口惜からんと分別してみよ、そこの程をかんがうる者はかならず、中悪き人の事をもありように云ふを、其手柄をそしらぬ侍の我身にかけて大きなる武篇をいたす儀と又よし贔負おほうして種々つくりことをいひ我もよりの大略のはたらきを一といひてよき手柄専らにする人をおとりに申者おのれが身にかけて、あしうしなす女侍をも、両方善悪共に信玄が書付て置たりと仰られ候定て其方土屋殿は見給はぬかと、山県申さるれば、右衛門尉当年も両度見申候御家中つよき事浅からず廿ケ年こなたへは左様の者一人もなし、信虎の御代に信玄公十六歳よりあそばし置る卅の御歳迄十五年の間に九人左様のあしき人有て各よの事によそへて改易なれば其親類衆へのために、むさと申さず候若き衆にかたり候はゞやがて彼一類をも女侍のよし贔負也といはゞ、土屋右衛門尉がいはすると馬場殿、山県殿はじめおほしめさんと存知今ならではいはぬと有て弟の助六惣蔵口をもかためられけるなり

阿部加賀守、山県三郎兵衛相伴に、土屋右衛門尉所へよばれ、山県よろづ武道せんさく仕らるゝ挨拶のオープンアクセス NDLJP:171あとをとり後阿部申は右衛門尉殿の御事はかたのごとく若き功者にてまします、舎弟助六郎殿、惣蔵殿聞せられよ、惣別若き衆は何事もなされざる間が奥深き物にて候、大略の事をなされ五百千の中にも一二人にすぐれたるごとくに仰らるゝ衆はゆくふかき事は、なきものにて候間、其心へあそばし、常に山県殿をはじめ各ほまれの大身衆又は小身にてもおほへをとりたる者の、雑談をきゝ、万事せんさくさたなされ尤なり、子細は、信玄公わかうまします時より、諸侍のことばをよくきゝ分別あるもなきもつよからんも、よはからんも其人の物いふ儀にてつもり被成たるが、今日にいたるまでもそれがしむけんならくへ堕罪仕らん少もあひちがはず候、さるほどによき事をもほめ所を見いだし、聞付穿鑿の取さたをもつて善をば善と定め、悪をば悪とさだめ道理をつめてほめそしる武士の作法なり、さなくしてかたはし聞て我贔負の者を虚空によきとばかり批判する事、女にあひにたる侍と信玄公の常々御諚これなり、如此有様にせんさくあそばす故、若手によき武士出くるなりと阿部加賀守申て金丸助六郎同惣蔵に教ゆる也

山県三郎兵衛土屋にかたりていはく、兵にもぶせんさくなる侍は家中さだちてあしゝ、其いはれは平野久助といふ我等同心大略の者なりしが、上州みのわにてそれがしそなへを二ツにわけ、小菅五郎兵衛を将にして侍七十騎のうちに右平野久助も入て搦手をおさへ、又一方は、ほうばう寺の一の門へおしよせ、我等下知仕る敵剛の武士共にて追手からめ手共について出勝負の時、はたもと城、意安加勢にまいられ城内のやしまと鎗を合せ手をおい引とらるゝ此方ちとめてくちの時、越後牢人大熊備前、我等同心の時敵に指物をとられ、おしこみ、指物とりたる敵をうち、指物に敵のしるしをそへて帰る、むるいのはたらき是なりと、信玄公はめなさるゝ時右申平野久助もからめ手にては此者一人鎗をあはせ是も信玄公御褒美被下候へ共場所のかわりたるに、大熊備前をたゞ物そねみ種々の事を申て大熊をそしれば、我手前あかると、無案内なるせんさく故彼久助を追出し候へば、目安をかきて信玄公へ申上る、件の様子それがしも言上いたせば信玄公さやうの者はかならずぶせんさくにて縦へ手がらあり共、めてくちなる侍にも同前なりとて御内儀を得、扶持をはなせば我等むこにて候、信州あひき相木所へはしりこみ、山県三郎兵衛に侘言ありて給はれとて、備をかりて居ながら、あひきうちの丸田と云侍の手がらしたるを右の通りに様々いひて後、喧嘩をいたし、しかもさんふりあしうて在郷のかぶあなへにげいり、殊外最後わるく相果候とかくぶせんさくなる者は、一段よきようにても終に仕形あしく候へば、武士はせんさくにきわまりたり、山県土屋に物語り申され候なり

山県いはるゝ右衛門尉は知り給はん、助六郎殿、惣蔵殿此阿部加賀守は若き時五郎左衛門と申て覚の人なり子細はせりあひ合戦城攻の時先手へ旗本より一二人こされ敵味方の様子見きるに加藤駿河守は老功にて働の謙退を定むる其仁に指そへ御使には、阿部五郎左衛門を大略信玄公つかはされ候、今わはや弓矢の功者右の武士奉行加藤駿河守殿におとらぬ阿部加賀守にてあり、能彼人物云ふを、助六惣蔵聞ならはれ候へとて、山県阿部にとはるゝ貴方功者故四郎殿へかひぞへになされ信州伊奈、たかとふにゐらるゝが四郎勝頼の御作法は立入て見奉るに何様に御座候ぞと、山県尋る阿部則ち四郎殿武篇揚数を指折てかそふる

去る永禄六年上州みのわ椿山にて四郎殿十八歳の時初陣に長野が内にて覚へ有藤井豊後物見に出て帰るを追懸組討になさるゝ其儀御屋形信玄公へ深く隠し申候飯富兵部殿見給ひて我等に腹をきらせんと御呵り候事

上州むさしのさかい、鬼のつらと云ふ所にて敵馬上五騎のところへ四郎殿と秋山紀伊守と二騎の中に四郎殿はやくのりつけなされ河中にて五騎のうち一騎きりおとし給ふ事

去々年信玄公小田原御発向の時武州滝山、三のくるはをせめおとしなさるゝ刻、北条奥州家老、諸岡山城と鑓をあはせらるゝ事

小田原のき口の時、しんがりをなさるゝに松田が家老酒井と云ふ侍と、たがひに馬上にて手と手をとりあふほどの事小田原より佐川の間にて四度御座候事佐川一本ニ酒匂ニ作ル

右の翌日に、みまぜにて馬場美濃殿小勢故敵ともみあひ勝負つかざる所を勝頼公自身鑓とつてよこ鑓に入くづし給ふは、信玄公御眼前にて候その翌日に、そりはたけにおひて馬場美濃内藤、此義をさたして信玄公御前において四郎殿をほめ奉り、感涙をながし候へば信玄公とかくの御挨拶もなく仰らるゝそうふの涙と云ふて武き武士はいづれも涙もろし大唐の韓信樊噲物を感じて涙をながす事はやし又我オープンアクセス NDLJP:172家にてもむかし荻原常陸涙もろかりつると聞く旁も同前なりと、御意なされ四郎殿の御さた何共仰られず候

去年の正月駿州花沢にて門脇の左の方ひきみへ五人つゝそれも四郎殿、名和無理介、長閑、諏訪越中初鹿伝右衛門、五人なり我等は朝、もこを少し、鉄砲にさへられ其場へ参らず候事

去年四月廿八日に越後国の輝虎、小田原北条殿に頼まれ信州のくにばし、長沼へほこさきを出す時、信玄公御馬出ざるさきに伊奈より四郎殿、夜がけになされ、謙信一万五千あまりの人数に、四郎殿八百の備にて合戦をかけらるゝ所に謙信、四郎殿と聞、ほめてなみだをながし無類の若者かなとて、けんをまはし引とらるゝ但し殿にさがりて物見する侍二騎残りたるを四郎殿乗つけ一騎切ておとしなさる其刻我等もやうつゞき申、今一人の者を切おとし候へばさすがの謙信衆も、のき口早々にて右両人をすてゝ引とらるゝ我等の切おとしたる者は元来逍遥軒の被官に落合彦介と申各御舎兄金丸平三郎殿と喧嘩相手にて候四郎殿十八から当年廿六歳まで九年の間に大方先つよきはたらき是程なされ候へどもた 強過て今明年の内にうち死なさるべきかと存る、此程御陣ぶれの上は今から廿日の間に定めて参河遠州へ御発向ならん、家康と御手ぎれなるにつき、如此陣の時は帰りてこそいきたると存ずれ、武土は何もなれと四郎殿をば一入あぶなく思ひ候と、阿部加賀守語れば山県三郎兵衛聞て扨は四郎殿にも強過たるが一ツの瑕にてましますしかも是は大将の大き成瑕にてよはきよりは結句おとりなりと、山県三郎兵衛申されて座敷を立なり

或時御舎弟一条殿、高坂弾正にとはるゝ関東の上杉則政は我下手の衆へ三年に一度つゝ知行わりありて加恩をあたへ給へと各のぞみたらばくる日もゆく、日も所領とらんことを思ひ父管領の代より子息則政の代に三双倍四双倍に身上成たる人もかたじけなく思はずして内々には則政衆、北条氏康へ心をよせたる様子は則政の知行くれられたるも、やうありや、このことはりを高坂弾正いひ給へ、きかんと一条右衛門太夫殿いはるれば、高坂こたへていはく信玄公の人取立給ふに、真田一徳斎、村上におしたをされ牢々なるをとり立本知を下され或は小幡上総、謙信に背きて是も牢々して甲州へ参りたるをかゝへ置上野をおさめ取立本知を下され候へば辱なく存知御譜代の衆にも同前に其身も存知上様も左様思召殊に大熊、輝虎の機にちがひ甲州へ参候て山県同心に也数度の手柄故出頭小宰相の聟に仰付られ取立給ふ故是も御譜代のごとくなり、それを上杉扇谷をとな四人の内、見田一本ニ出頭女房小宰相トアリ仝見田ヲ三田ニ作ルと申侍聞候て甲州へ参り長坂長閑、跡部大炊介を頼御家へ奉公に罷出る信玄公かゝへ置給へど切符少づゝにて召置るゝ長坂長閑、信玄公へ申上る越後牢人大熊なみに見田をも御取立あれかしと言上いたせば、そこにて信玄公御諚に一年某北条氏康氏政父子に頼まれ松山発向の時輝虎を引出したるは大田三楽と彼見田なり其節悉皆某分別を以て北条家理にせられ終には件の見田如此牢々仕る、さ有て侍は侍を頼むならひにてかゝへ置但し一度敵したる者を取立大身にするならば真田、小幡大熊存分に敵仕たる見田さへ如此なれば我等式御恩も、さのみ恭なき事にてなしと思はん義道理也、さあるとて又小幡、真田、大熊に知行の上に知行を重ね候はゞ譜代の衆にも加恩せずして成まじ其如く知行を只ものくれては少身成者可取立〈[#底本では返り点「一」と「二」が逆]〉所領無之縦国かさ多共善悪のわかりもなく人の誉に乗、こくうに知行をあたふれば上杉則政知行割のごとくにて家中の侍大身小身共に奉公の忠節なき者共明暮知行をほしがり、結句後には則政に恨を言、敵をするは則政無分別にて人の誉を面白がり、忠節人にも一度敵したる者にも善悪同前に、ばかぐれと云物にむさと知行くれたる故なれば見田が様成侍をば命を助け少の扶持かたあたゆるは大成恩賞也、但し敵をしても己が身上つぶれずして降参仕る侍をばかたのごとく念比して置は国持大将の専ら工夫の上致す義降参の侍是も忠節の中也と、信玄公仰出され長坂長閑、跡部大炊介不覚をかきたるほどの者にて候つると一条殿に、高坂弾正申きかせ候なり

  天正三乙亥年六月日 高坂弾正書之者也