甲陽軍鑑/品第十二

 
オープンアクセス NDLJP:33甲陽軍鑑命期巻品第十二 巻第四
利根りこんすぎたる大将の事 北条家上杉家 川中島合戦物語之事 

第二番には利根過たる大将なり此大将の様子は大畧がさつなるをもつてをごりやすうしてめりやすしよき武士は大身小身に寄らず能事あれども侮ことなし悪き仕合の時もさのみめらず是は賢にして心剛成る故如此不肖は無分別にて心愚痴成る間大身中身小身共にあやまり多く殊更利根過たる大将は邪欲深ければ内の者に知行を出すにも悪しき所をゑらび出して士卒につかはす其上諸侍をせばめ知行百貫取る者をば課役を申し懸け五十貫はへつらふて取り五十貫のさむらいをば廿五貫諂らい取り給ふ故かみをまねぶ下なれば諸侍衆百姓をも又末々に至り困窮のわきまへもなく取り尽す利根りこん過ぎたる太将しかもひとかは利根にしてよのつねの人に似ず心ね大地震にもくつれず候と聞き及びたり惣別能き大将はあらくみゆれども慈悲深かし利根の過ぎたる悪大将口にてはよき様に被仰にも臆意無慈悲なり必ず利根過ぎれば身に自慢有るにより何をしても我することにひたちうたるまじと思召すに付き古今において名大将或は小身にても名人のことは又仕形しかたをも用ゐずなにもかもぬしの一分にて仕出たすべきと斗り思案あり適ま物知りを近付け物をきかんよまんと有ると云へども利根をさきへ立て片端かたはしを少し聞き其儘合点がつてんと仰せらるゝ仏経曰、未得謂得未証謂証と在るごとく能くも相心得ずして心得たりと被仰昔しも今もよき人の旨は悉く同前なりなどゝ宣まひふるき人ごとを適ま手本にし給へは早や合点成る義はひだちうたれぬ様にと思召し武具、馬具、弓、鎗、諸道具とも悉くきらびやかにこしらへ給へども皆町人百姓に借物の利鉄或は諸侍しよさむらい過怠銭くわたいせんなどにてし給ひもし又堂宮など建立あれどもぢひ結縁けつゑんの心ざしましまさねば人みせの善根成るにより人民を悩ます温気、寒天風雨の嫌いもなく打擲ちやうちやくしてふしんを申し付くるにより天道仏神は正直しやうじき慈悲のかうべにやどり給へば左様の悪善根をにくみ給ひ其堂宮成就せず十に二ツ出来しても一本十ニ一ツトス地震火事大風大水などにやがて損すべし伝へ聞くみことの三十三間堂を後白川の法皇ほうわう建てさせ給ふに諸細工人日用の者申す一倍宛に賃を出し土をも十両と申す土をば廿両に買ひて地形をつきあげ建て給ふにより法皇しつし思召し候全集ニ「建給ふにより応仁乱や大地震にもくづれずとなん」云々トアリ七十ケ年以前に伊豆の宗雲そううん三略をきかんとあり物知りの僧をよびそれ主将法務擥英雄之心と有る所迄きゝはや合点したるぞをけと有りしを能きことゝ思召しなさるべしそれはあしき義也家表公なとは定あて一仏一社の化身けしんにて候へし子細は伊勢より七人云ひ合せ、あらき、山中、ため、あら河、ありたけ、大道寺、宗雲、荒木、多米、荒川、有竹共に七人武者修行と談合あり駿河の今川義元公祖父子おぢごの御代に牢人分にて今川殿に堪忍有り才覚を以て駿河屋形の縁者に成り給ひ則ち駿河の内かたの郷と云ふ所に暫くまし義元公御親父しんふの代に今川殿の威勢をかりて伊豆へ移り大場北条あたりの百姓どもに物をかし給へば後は伊豆半国の侍百姓共宗雲公へ出入を仕り物をかり候故朔日ついたち十五日の礼に参り其間にも切々せつ参る者にはかし銭を指置き給ふに付て我ましに宗雲公の御屋敷のあたりに家を作り皆被官ひくわんに成り右の六人のあらき、山中、ため、あら川、ありたけ、大道寺も宗雲の被官に成此衆を首として宗雲公共に七手に作り伊豆一国をおさめ給ひたへて久敷き北条をつがんとて三島みしまの明神へぐわんを立て給ふ翌年正月二日の夜宗雲夢を見給ふは大杉の二本有りしを鼠一つ出て食折くひおりたり其後彼の鼠猪に成りてありと夢をみて夢は覚めぬ其如く両上杉中悪く成るを聞き宗雲是非共時刻を見合せ関東へ発向の工夫二六時中隙なし或時扇谷の上杉家こそ末に成つらめ邪臣のいさめを崇敬して家老の太田道官だうくわんを誅せらる其後上杉殿家老悉く身搆をしてさだつ此時宗雲公出て小田原を乗取相州過半手に入れ子息氏縄公代に相州を皆治め給へば弥々氏康公の代に伊豆相摸二ケ国にて一万の人数を二千所々の堺目に指置き八千の軍兵を以て両上杉家と取オープンアクセス NDLJP:34合あり殊更山内上杉公上野の平井居城なれば武蔵下総安房常陸下野出羽奥州越後佐渡信濃飛弾上野ともに十三ケ国の諸侍平井へ出仕しゆつしして囲遶ゐによう渇仰是非に及ばす既に大森のきせいあん奇庵斉が書付にも上杉殿人数二十万とあり定て堅く十万余り有べし此上杉殿と氏康公十六歳上杉殿二十七歳享禄三年庚寅より取合はじめ二十二年の戦に十三度の大合戦有て氏康公の皆勝利を得芝居をふまへ給へど氏康は八千の人数上杉殿方は二万三万すくなき時も一万五千より内の人数にてなき故一度に国郡を氏康取給ふことかたし中にも河越の夜軍よいくさには両上杉殿八万の人数を氏康公八千にて伐かち氏康手にかけ十四人長刀をもつてきりおとし給ふケ様の手柄故氏康卅七歳と申に天文二十年辛亥に上杉殿を追くづし北条氏康おほき成勝と成て則ち上杉家の藤田右衛門の助武蔵の天神山に城あり此者を始め小幡三河成田等氏康方に成てより上杉殿の家老悉くかはり一本ニ悉ク心がはりトアリ終に上杉殿を追出す上杉殿御曹司龍若殿と申て十三に成り給ふを六人の乳母めのとの子共談合していざや此若を土産みやげにして北条殿へ罷出んとて氏康公へ龍若たつわか殿を具足し申し小番衆の神尾かんのをと申す侍に申し付けられ彼の龍若殿の頸をきり奉つる不思儀なり神尾今まで二代三病さんみやうをわづらう氏康にて小番衆こはんしゆ信玄にて近習のことなりさて関東氏康公の御仕置き中々能きこと是非に及ばすして九年の間関東大方北条殿手に付く但し安房常陸は敵なり其余五かしら上杉管領公を贔負いづれ管領十六万の人数七万余まり北条へしたがふ殊更久我の公方を氏康聟にし給ふ故一入ひとしほ能く治まり安房佐竹も終には氏康公にほろほされんと申す時又永禄二年庚申二年ハ三年ノ誤ナルベシ
一本ニ前未年トアリ
の三月に越後の景虎上杉殿に頼まれ小田原はす池迄押籠む子細は未の年八月より上野半井へ来りて関東八州へ触状をまはし申し含めらるゝは既に関東の公方くほう持氏公天運尽き永享十二庚申に都の公方より誅罰し給ひ御子の賢王丸けんわうまらう殿春王丸殿泰王丸殿此の三人の若君迄ころしまいらせ候を氏康取り立てらるゝこと非義の至りなり都より近衛このゑ殿を申し請け公方くほうに取り立てまいらせ上杉管領を仕すへ申さんため御守りに長尾謙信景虎是れ迄参りたり氏康は北条なり北条は平家なり各これにしたがひ給ふこと勿体なしと申すに付き関八州尤もと同じける故氏康また元の伊豆相摸はかりに成るに付き蓮池はすいけ迄をしこまるゝ但し又謙信管領に経上へあがり諸大名衆を俄かに被官のごとくに被仕あらき仕置き故へ謙信へ心をはなしもとの氏康へ大方帰参する中にも成田長康は鎌倉より謙信社参の祝にもあはず引きはらふ景虎上野の平井迄やう曳き取り給ふこにだは皆な地の郷人等うばひとるそこにてざれごとながら一しゆかくのごとし

     みかたにもてきにもはやく成田殿なりたどのながやすかたなきれもはなれす

と読て謙信公は越後へ帰陣なり其跡にてはじめ程こそなけれ共上杉家の衆都合六万余の北条へ降参する故伊豆相摸の人数をそへ今氏政公迄も北条けの惣着到そうちやくたう七万五百なり近国のおさへを丈夫ぢやうぶに置給へども今に至て氏政公出張の時は四万或は三万五千よりすこしくはなし此もとをたゞすに偏に宗雲公に濫觴らんしやうす此宗雲のまねは中々思ひもよるまじ惣別人間は大小によらずふの能き人のまねはせぬ者也まづ仕合しあはせ悪者あしきもの仕形しかたを穿鑿ありそのうへ吉事きつじの人のしわざを分別候て其間よりいかにもあぶなげもなき働を専らにまもるべし殊更一代にて仕出しいでたる大身の真似まねを二代三代五代十代の大将衆十が九ツまねべからず子細は我一代に仕出る大名は天道の恵み深かるべし其大将にはあやうき働き有物なれども是は天道よければ死するきは迄は大畧理運になる其弁へもなく代々ゆづられきたる大将あぶなき働きし給ひては必しぞこなふなりけが有こそ尤なれ天道も代々恵はなき者にて候此善悪をしらず利根りこんすぎたる大将は、はなもとに分別有て何ごとも一かは分別になさるゝをたとへば刀の鋒はかりにやへばありもとは皆ぢがねにて縦へきるといへども鍔ぎはまがり押なをせば彼方かなた此方こなたへ成ごとくきのふの事けふかはる其談合明日あすは変じ明暮あけくれあたらしう物を仕出しいださんとかゝり賢人の語をきゝても貪りたる意地へあてがひて昼はかやかれ夜は縄なへと百姓に申付け町人寺方迄も障子折りて出せ竹釘けづりてげよなどゝ云ひ給へばそれに付地下ぢげ分限者ぶんげんしや町人のごとき人共諸奉行へ取入物をつかふて気に入るか又は女人などを引かけ奉行に能く思はれ樹木の役竹の年貢塩役布役を諸在郷へあてられ然べしと蔵法師くらほうし役者共に地下の福祐の者共告る尤と悦びやがて出頭人に云ふ其大将の好むことなれば則時そくじ申上候利根の過ぎたる大将邪慾深けれは不ナラに悦び給ひ町人地下人の口を大将直に聞き給ひ後は彼地下人共大きに出頭して家に旧功の諸侍をも踏付くれば大事なくしぐみ終に地下人町人共に知行オープンアクセス NDLJP:35を給はるさるに付右のことくの人共二番目か三番目の子共を奉公に出せば彼の奉公人有徳なる者なる故知行五十貫百貫取てもほんの奉公人千貫二千貫取る人程きらを能くいたすなかんづく諸傍輩中に度々近付て徳になる人をえらび明暮あけくれ振舞など仕る又左様の家中は諸侍百人の者九十五人はへつらいよく深けれはふるまひに付元来をもたゝさす町人地下人の子共をもおのしつしてほめたつる故其家のおとな出頭衆と右申す有徳うとく人の子共縁者ゑんぢやに成る町人百姓は少事にさへおごりやすければ此仕合の上は猶以て大きにおごる扨てその様成る家にて諸侍存するは件の者町人百姓なれ共利発者にて仕出しいでたりとて殊の外浦山敷うらやましく思ふにより古来のほん侍ども大小老若ともに十人の内九人はおごりおほへいになり諸傍輩への時宜作法さほうをも取り失ひ寄合ての雑談にも五ツかたれば四ツは売買慾徳うりかひよくとくのことばかりいふて行義真なる様にてばしなり分別有る様にて無分別なりきやしやなる様にて意地きたなし次第に其家の諸奉公人様子あしうなる儀偏へに地下人町人のはびこる故ぞかし古語水流レテ月落チテと有るごとく時により町人侍の真似を仕つりても商人の意地失せずしてケ様の威勢の時物をしため奥々按ニ「しため奥々」ハ認め往々ナルヘシ引つこまんと思ふて武士道の役に立つこと聊かもなし無分別にて口たけてもとより町人なれば商利銭のことには金言妙句を申し武道はしらねども時のはゞに任せ無案内成る男道の穿鑿中々おかしき事なれども金銀を以て万を宜しういたし家のおとな出頭衆其の外皆歴々の人々に付き合ひ能く思はるべき傍輩ほうばい百人は九十五人此の町人の形儀かたぎになる残て五人斗り男を立てる人あれ共其者をば各々悪しういひかうべも上げさせずしてをしかすむかすめらるまじきとて一と言いへバ前に口たけ驕りたるに違い挨拶はめてぐちにてかげへまはり狂気人に申し立て候へば能き人物もいひ得ずそこにては能き五人の内も三人は分別をかへ命をなげうち武辺をかせぐも所領を取り立身りつしんせんと云ふことなれば時に至りて仕合せよき人の機にあはんなりいかに元来町人にてち家の老衆おとな出頭衆彼の者共を能く思ひ給へは我心さへ違はすは付き合ひ取りなしをいはれ徳にせんとて件の町人方へ能き人も出入する古語スレバ月在バヽ香、満といふ心に細々さい付き合ぬれは能人も後は其形義になり能々の賢人一両人ありて各と付きあはねは其人終に其家を出る三畧ルト亡国之位貧不乱邦之禄といふ義理にて立ち出つれども残りたる愚人は善悪をしらずして出てたる跡にて其能き人を散々にあしう申者なりされども作りこと成るにより愚人の能き人を誹ること五所にては五様と申す口のちがうは必ず空言そらごとをいふてそねむと思召し候へ其のごとくなる家中にては老衆出頭衆又かせ者小者こもの迄意地きたなくなり人をぬかんと存するに付しゆは被官に物も給はらずしてつかはんと思ひ被官は、主に忠節、忠功、番、普請、供使の奉公もせずしていつはりをもつて扶持給を取らんと思ふ故かせ者小者給を取ため引こみ候間奉公人多く塩肴など売商人に成ものなり能き大将の下にては町人も奉公人に成たがるといへども諸侍しよさむらい町人をつかはす又百姓は意地すねたる物にて奉公しても後は覚の者に成こと多し町人はかざる者なれば武士には成兼申候必ず能き大将の下には侍衆先第一は大小共に慇懃いんぎんおもてにする縦へそゝけたる様にても伝解ニ真なりノ下「いやしき事申体にてもきやしやなり」トアリ真なり芸なき様にても身ののふあり馬を乗り弓を射兵法をつかひ鉄炮を打乱舞をも存じ花を立仕付方何事もそれに恥をかゝず殊に弓矢の義は心懸け強ければ祖父親兄弟親類近付の覚有人に立入り雑談をこまかに聞き能く心に治むるに付十五六歳にて一度も陣をいたさずとも悪き家にて覚の衆よりは心至つて物のすべを能しり一言申ことも手首尾てしゆひ逢て残べし残べしハ然べしナルヘシ惣別能き大将は武辺の儀は不申文有て慈悲深く行義能して常はやはらかなれどもいかり給ふ時は殿中のことはさて置ぬ一国の内にて泣子なくこなきさす程威光つよし就中国持たる大将をはじめ奉り大身中身小身共に侍の名高き衆は行義能物よきものなり物をよくたとへてみるに世間にある一たいのはだか虫は草木のはをくふて食付て食付てハ食尽てナルヘシ巣を作り変じて後は蝶になり子をうみて明る年又元のごとく虫になり其中にかいこといふ虫が桑のはばかりくふて余の草木を一切くはす行義よけれは自余の虫ともと生起なりたち仕形しかたは一なれ共此蚕斗り人界にてたからになり候去る程に末代迄も名大将と名をよぶ国主に無行義なるは一人もましまさす能き大将は行義よけれは義理ぎりふかし義理深けれは分別有り分別あれは慈悲有り慈悲深ければ縦へ生付候て様子はそゝけても静かにしてそれに人をみしりてつかひ給へは一人として恨み申すべき様なし自然町人地下人をめしよせらるゝことあれどもさし定りて台所だいどころのかたはらなどに置き用の時召しよせられ町人には売買うりかいなどの事たづね給ひ地下人には其筋のオープンアクセス NDLJP:36様子か又は百姓のうはさ何にても不審有ることを尋ね有り隙あけば本の所へ帰りて罷在る作法なる故侍衆のことは是非に及ばず小者中間又若党迄も奉公人とみては町人百姓共畏まり或はへり道をいたし通すなり蔵法師くらほうし衆も百姓をのたて郷を賑はし公儀の物を盗ず侍衆をしつする事是れ能く大将の能き人を召しつかひ給ふ故なり右申す利根りこんすぎたる大将は無行儀にて第一に色を好むそれに付ても諸人にうらみをうけ褒貶ほうへんせられ給ふ扨て又大身中身小身によらず色を好むとてもくるしからざる伝解ニハ苦しからざるノ下「道理あり」トアリ女人にたよるはひがことにあらず子細は侍か立身して身に随ての楽是れ也其上子共繁昌のために然るべし狼藉の色好いろこのみをさして無行儀と申候行儀のあしき大将は義理を不無慈悲にして無分別なればかざりて虚言を宣ふ間自然軍などに勝ても五里十里跡にゐて能く家老の我より先にて勝ちたるを我自身手をくだきてし給ふやうに過言くわこんを被仰候其老衆をそねみ後には必ず家老を追出すか大方は誅せらる是只利根の過ぎたる大将作法如此よき大将は軍の時悉く皆我ざいをもつて一本ニハ「さいはいを以て勝利を得」云々トシ
伝解ニハ我さいかくを以て云々トセリ
勝利を得給ひても主の手柄とはなくして近習小姓こしやう小殿原ことのはら若党わかとう小人こひと中間衆迄も誉たて皆あれらが働きをもつて合戦に勝たりと被仰故如此の大将の下には大名小名足軽歩若党小人中間衆迄武辺おぼへの者多く出る者なり然は信玄公宜ふは大将の馬に乗てよりは歩若党かちわかとう中間小者は身近き者也とて廿人衆小人中間衆に一しほ念を入給ひ御目利めきゝを以つて二十衆をめつけ伝解めつけの下中間衆をノ四字アリよこめと名付先手へ指越心はせをいたせば褒美をあそばし候故後には此者ども場をひきたる武辺の手柄七八度宛いたず夫を二十人衆頭に小人中間は則ち小人がしらと名付知行を下され馬に乗二十人頭は歩若党かちわかとう十人二十人宛預り小人かしらは小人中間を二十人三十人ばかりり廿人衆の次十騎小人頭十騎あり是に依て信玄公かち若党小人こひと中間ちうげん衆は望を存知心懸故はなしうちの成敗物迄五六度ばかり仕らざるはあまり是なしさる程に今迄もめつけは二十人衆頭其横目は小人頭なり歩若党を上杉家にて身わき衆信玄家にて廿人衆氏康にて手脇てわき衆家康は、はしり衆と名付てよぶげに候甘利あまり寄子の米倉丹後鑓を十三度あはせ頸数の多き中に手柄の高名八ツあり其上敵味方の到着をみはからひ勝負のかんがへを信玄公まします時分より申上つるにさのみ違はずさる故始二十人衆なれども取立し甘利左衛門尉同心に預けをかるゝ兎角二十人衆小人中間衆に念をいるゝは能大将の道理を以てのわざなり扨又利根の過たる大将は下劣の喩へにさいたら畠と申ごとく本図にてましまさねば物をならへど末とをらす半分知ては然も開山にならんと思召し仮名の本を真名にし真名に書きたるをかなになをし在郷ざいがうをみては田をはたにし畠を田にし人民のついへをあそばす是れを喩へば大工するすべもしらざる百姓が番匠道具じやうだうぐしちに取り此道具只をかんよりは細工さいくに家をたてんとてのみにてほる所をきりにてもむは下手へたなる仕様しやうと申すといへどもしたへ深きを存ずれば少しは相似たるやうなるが一円なにも不者どもはかんなにてけづる所をのこぎりにてひきのみにてほる所をさい槌にて打つ様に利根過ぎたる大将国の仕置如此ぞとさくげん策彦さくげん和尚おしやう信玄公へ座興に咄し給ふ必ず利根の過ぎたる大将は無分別にて無穿鑿成る故手柄をも知り給はねば無手柄をも御存知なし不所につよみありて家につたふる家老などを科もなきに悪み親不孝にして父とも中あしうなり非業に身を破ぶり給ふ伝解ニハ「破り給ふものにて候間御曹子御幼少の内は御もり肝要なりとさくげん和尚仰られ候其ごとくに太郎義信」云々トアリ 其ごとくに太郎義信公亡び給ふ元来は永禄四辛酉年に河中島にて合戦巳刻の末に終る同午の刻に輝虎後ろ備へ甘数あまかず近江守と申す者干計りの人数を謙信龍謙信龍の丸備へは謙信流ノ誤ナルへシの丸備へに作り少しも噪がず如何にも静かにのく追くづされたる越後勢又直江がこにだ奉行の人数信玄方の先発にうちまされたる者も大略此甘敷あまかずに付き越後の方へのく信玄公旗本組は越後への道を取り切り備へ給へば迯る程の越後勢旗本のきへ行きかゝらざるはなしさて旗本組の諸勢手を砕いて敵を追ひちらし人を打つもありくびを取りて我旦那だんなを尋ね小幡こはた小幡ハ拠幡ナルヘシを目付け我備々へよるもあり又敵は旗本組の備へ左へにぐるはすくなし右の方さい川の渡りを心懸げたる故輝虎方の諸勢三ケ二に余り此筋をのく人うちはぐれたる味方は皆此敵を追ふて行く旗本に人少しある者は手負ひ或ひは勝負を仕くたびれたる伝解ニハ「仕くたびれたる者共なり然る所へ敵乃」云々トアリ所へ敵の荒手しかも千に余りたるそなへ来る輝虎の後備へ甘数近江守と申事は後にこそ聞きつれ其節は定めて輝虎にて有るべし輝虎かねて信玄公と是非とも手と手を取合ひ組度きと有る義を日来ひごろ望み給ふ由連々取沙汰有れば若し左様の義にて輝虎かしこ武畧ぶりやくを以て合戦の終る迄跡に謙信はのこる只今乱たる時旗本へかゝるかと思召し信玄公宣ふば勝ちたる軍にけがし給ふまじきと有る義にて筑摩川をこし引きこみて備へを立てよと信玄公下知し給ふそこにて義信公へ先へ川をこせとあり義信公は信玄公へ先越し給へと父子オープンアクセス NDLJP:37辞退まします敵近付くとて信玄公川をはやく越し給ふそれは信玄公武勇のかけ引き達者の故なり子細は御父子ながら初合戦に二ケ所宛手負ひ給へば旗本の各過半手負死人なり信玄公先衆は敵より後にてあり荒手三百来らば大将の討死疑有るまじまして况んや千に余りたる荒手に機遣きづかひなきは国持ち給ふ大将衆小身にても弓矢を存する人は信玄公悪しきとは申すまじ此節内藤修理正原隼人佐跡部大炊助此衆脇備へ後備への衆にて有りつるが信玄公上意を承はりて味方の勢敵をうつとて散りたる人数をあつめ川向或は川中にも備へを立て敵の様子かからずしてのくを見届け候て今の甘数近江守を追ひ懸け東道四十四里を射討ちにいたすを射討にいたすハ追打ノ誤ナルへシ敵二方へ敗軍なれば此筋はさい河、追ひどめなり件の甘数近江守川を越す時は只十三人にうちなされさい河を越へ敗軍の勢を二三百揃へさい河のあなたのはたに一両日逗留とうりうす合戦有て十日ばかりは彼甘数あまかずを輝虎旗本なりとさたも有つるぞ扨又右の荒手の来を見て信玄公筑摩川をこへ三町程引籠ひきこみ御族本を備へ給ふに嫡子義信公詮なきつよみを思召引入まじき備を引たるとて信玄公を誹り給ひ候義信利根過ぎ給ひたる若殿なりそれ故永禄五年戌の歳の八月二十日に御使を被両方の御存分被仰御中あしく成給ふ亥の歳二月曹洞宗の知識ちしき信州岩村田ほつこう和尚おしやう甲州大善寺高天かうてん両和尚御父子ふし法興和尚
高天ハ甲天ニ作ルヘシ
の御中直し給はんと有し時両方種々被仰分御座候に猶以て不和なりそこにて義信公は長坂源五郎と談合し給ひせんなき悪事をたくみ出して飯富兵部少輔を頼み謀反むほんの企をし給ふ信玄公も父信虎を追出し給ふ我も信玄公を討ち奉らんと有る事なれ共信虎公は次男典厩てんきうを取立まいらせ晴信公を他国へ追失おひうしなひ給はんとの儀にて如此是は信玄公御道理千万なれどもそれさへ信玄公恥敷はづかしく思召し論語を終に手に取給はず論語には一入ひとしを親孝行のこと多し殊更義信公御元服げんぷくの時菊亭殿を以て勅意をうけられ光源院殿へ披露し給ひ某し万松院義晴公より晴と云字を下され晴信に罷成〻せがれの太郎にはあはれよしを下され候へかし末代迄の名聞、又は武田の家へ後代の例に苟くも信玄が利口に仕らんとて御訴訟ありて義信になさるれば我より太郎は果報も何もうへなりとて殊外ことのほか大切に思召し候御父をうち奉らんと思召たち、義信公天道に違ふ事顕れ候故父信玄公の御意に深くちが子歳ねのとしよりしきらうに入れまいらせられ候まへ亥の歳四郎勝頼公をよび出し信州伊奈をつかわされ則ちたかとうの城主と有る時も義信公へ家老衆を以て信玄公より訴訟の様に仰せ入れられ殊更武道の異見はあま五郎左衛門伝解ニハ阿部五郎左衛門トアリ自余じよのことは小原下総しもをさ同丹後守秋山紀伊守是の四人を書き立て是れも義信公へうかゞい給ひ四郎殿へ付けそへ給ふ其以前四郎勝頼公信州諏訪頼茂そく女の腹なればべつ腹と有りてさたもなされず候へ共酉戌の年に至りては河中島合戦の義に付てあしくもなきことに義信公利根りこんだてをあそばし信玄公をそしり給ふ故父子ふしの御中あしう成御中あしゝといへ共嫡子なれば義信公へ信玄公は種々の時宜をし給ひたるにそれになんぞ謀反むほんくはだて有ることあられて永禄八年乙丑の年此逆心ぎやくしん故飯富兵部少輔長坂源五郎誅せらる義信公も三十五の御歳永禄十丁卯年御自害候病死とも申す也又駿河氏真公へ其年の暮に義信の御前方送り給ふ此御前は今川義元公の御息女氏真公の御妹なり翌年永禄十一年辰の暮に信玄公駿河へ発向まします扨て右申す利根の過ぎたる大将大方義信公にて御座候子細は地下へも種々貪りたることを仰せられ古屋惣二郎と申す者を惣算用聞きになされさまの事有りて百姓町人のよめ子共まで在々所々へ隠し置き無行義千万の儀共有りて古屋惣二郎を始め義信公の衆廿八人首をきらる其外は皆他国へはらはるゝ是れも永禄八年飯富兵部少輔切腹の時如此信玄公御道理千万にて候爰に釈迦仏の説き給ふ如犛牛愛_と是れは尾に劒の有る牛なり尾の劒をねぶれば舌きれて血出づる血のあぢはすくして甘し爰を以て明暮あけくれねぶり終に舌破れて死す其ごとくに当座おもしろきことを止ずして悪儀あしきゞなり善悪のわきまへもなく一本ニ止めずして好むは悪き儀トアリ我利根を先へ立て専らに守り給ふ大将をば利根過たるとは申ぞケ様の大将父にも敵対或はとがもなき家老を切たがり終には我身ほろひ給へばはたしてはうつけ真只中まつたゝなかなり然れば此四品を合て一巻とし君子命期の巻とは名付たり全集伝解等ニハ君子犛牛の巻とは名付たりトアリ此書き置長坂長閑老跡部大炊助殿能々分別あるべし両人御取成をもつて信濃の茶売商人なんど繁昌いたさんと相見ゑ候信玄公御代には御弓の番所へやう来るは八田村はつたむら新左衛門信玄公他界し給ふ伝解ニハ新左衛門ノ下信州ふかしの宗瀉なり云々トアリ三年このかた御くつろぎ所迄でねり入とていたはしや三枝さいぐさ勘解由かけゆ左衛門正月十六日に腹を立て我等に物語り申され候つる当家の侍衆やがて作法乱れ申べしと相見へ候者なり仍て如

  天正三乙亥年六月吉日 高坂弾正忠記之