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甲陽軍鑑/品第十三

 
オープンアクセス NDLJP:38甲陽軍鑑命期巻品第十三 巻第五
よは過たる大将の事 両上杉 北条家生起なりたち合厳物語事 

第三番に臆病なる大将は心愚痴ぐちにして女に似たる故人をそねみとめる者を好みへつらへるを愛し物ごと無穿鑿に分別なく無慈悲にして心至らねば人を見しり給はず機のはしりたるなくこほり堅まりたるやうなれ共異相いそうなり是ひとへに弱大将の女のごとくにありて心愚痴ぐち成るをもつて如此ケ様の人も大将といへばしかも大名だいみやうにて二万三万或は五万六万の人数を持てもかたじけなく存ずる者は百人の内外うぢそどならでなし定まりて未練なる大将は心せばく意地むさけれと器用立をして知行所領金銀米銭を善悪のわかちもなく人につかわし工夫なけれども分別有るふりをして殊の外遅怠にて万事捻挫ねちみやく又能く強よき大将に物を蓄へ手のはなれざるも有るべし是れをたとへば杖つき虫の身をつゞむる様にて身をのぶるごとくなにぞ行々大儀成る望み有りて重ねては子孫のためか是れは何れに臆意ありて貪る様にしたまふを愚人共は不知して意地きたなしと取りさたするを聞き給へど強き大将はふまへ所有るに付き下劣げれつの口におかされず生れ付きたるごとくにありて俄かに器用も立てずしてまします是れも強成る故ぞかし必ず心のがうなる大将はぬしの意地にあてがふて目きし給ふにより少しも崇敬有る侍に柔弱なるはなし縦へば十人の中に一二人よわき者あれどもそれは又何ぞ取り得の有ること一二ケ条も在之とかくとしてむてなるはさのみなしそれの得物を目きし給びて召しつかはるゝは是れ心の剛なる大将のわざなり心剛なれば義理深かしぎり深ければ行儀よし行儀よければ時にあたりて色を好む遊山ゆさんなどし給ふと人の恨み申す様なる儀も不当もし給はず義理を専らまもり給ふなれば我等忠節の者には大綱をば多く細心はせをば少しつゞも宛て行はゝ不足なる人一人も候はで縦へ常には器用立なし共意地いぢきたなしとは申しがたしさて又臆病なる大将は義理をばわきになし外聞ぐわいぶんを本にし給へばゑりもとかへもなく心のいさまざる是れは弱大将の仕形なり此の大将の下にて諸奉公人の様子悉く無心けにて臆意はにぶくていかにも口たけ無穿鑿にて贔負々々に物をいひ一段がさつにてきれたる意地少しもなく何事もひとかは斗りに分別し巳れが弱きむねを人にたくらべ相手はこらへんと斗り存ずるに付き世間に人の能く沙汰する者に適々たま寄合て此人に一言なり共いひかち我友達への利口にせんと思ひ見るたびにあてことを申といへども能き者は臆意定りたるにより少々のことはりあはず詮なきにことを申出し勝負しやうぶ付きおや妻子に物を思はせていらぬことゝ堪忍かんにんするを彼の弱者共は我に怖れて物いはぬと覚悟かくごいたすを以て猶々すりかけてかさむそこにてはつはものも一言いへど弱者づれおほければ面々口々に徒党ととうたて口論にはよわきつよきも同事なれば件の弱者共我中にてよりあふ衆にあふて人の名を呼ぶ者に、はをぬきて思さまかちたると語それよりは後能人こらへまじきと分別きはめて果すなれば徒党結びたる弱者とも鍮鉐ちうじやく〈[#「鉐」は底本では「𨥰」]〉になりそこにて思案しいだし親兄叔父などにしからるゝと事よせ日来ひごろは無奉公なれども俄に御前につめ或は毎日出仕す無嗜ぶたしなみの者なれど芸能に取かゝり経廻すさて本人よはしといへ共相手、本ンのつはものにて申かゝりてより必打をかねば了簡れうけんなくがさつ者出て勝負の時き連々の様子には大きに違ひ悉にげて後などきられてころびまはる諸傍輩ありあひて取さゆれば諸傍輩しよほうばいの扱にて当意は落延おちのびれ共相手つはものにて思定てきるに付いきる様にはきらざる故へ終には死るといへ共最期さいごあしうして中々批判に及はぬなりさてあひては何とぞ仕合しあはせ能くして立のく事あれは又跡にて弱者の親類近付より合候て是非とも敵討んといへど口斗りにて皆偽なり是偏へに臆病なる大将の下にて奉公人の行儀上をまねて如此能き人も此大将の家中にて後には弱者程こそなくとも少しは悪しくなる爰を以て三畧にも善悪同則功臣倦云云然ば近代において右さたする大将に少しも違はずして家中の大身小身ともに諸侍形義あしうなり終に其家滅却する是れをそと申に関東の管領上杉義縄公の嫡子則政のりまさ公にてとゝめたり先つ此上杉殿由来をくはしくたゝせば事長し畧して荒々爰にしるす抑も源頼朝公代々の公方末には絶へて北条家久しく天下を持つといへども後代の相摸入道高時悪逆無道の故足利あしかゝ治部太輔尊氏たかうぢ新田につた義貞公両源君として相摸入道を亡し其後尊氏義貞取りあひ有りさて義貞公武勇の誉れ誠に日本国始まりてさのみおほくまします事なしと上下ともにさた仕つる名人なり如此大将なれども果報すくなうして亡び失せ給ふ是れによつて尊氏公天下を取りて静オープンアクセス NDLJP:39謐に治めなかんづく源家げんけ専らの世となるしかも右大将より以後公方家代々の式法を取り立てまつりごとを能くおこない給ふこと中興ちうこう尊氏たかうぢ公よりあそばすいかにも事を全く仕置きをし給へば両公方と定めらるゝの儀尤なり既にみやこの公方に義詮よしあきら公御下に武衛ぶゑい、細川、畠山是れ三管領なり一式、山名、京極、赤松是れ又四職なり扨て鎌倉の公方に持氏もちうぢ公をしすへ参らせられ御下に両上杉もとは藤原内大臣冬次ふゆつぐの子孫にて御兄弟なり舎兄は鎌倉にて山内やまのうちに屋形有りて則ら山内と申し舎弟は扇谷に屋敷有る故扇谷と云ふ然に京鎌倉ともに代々の後様子ありて都の公方より鎌倉の公方を誅罰し給ふ事永享十二年庚申の歳なり去る程に鎌倉の公方を守護し奉る国々は相摸、武蔵、上野、下野、安房、上総、出羽、奥州、佐渡、越後、信濃、飛弾、此国々の侍衆大身小身ともに悉く守護豊饒の様子なりしかしながら公方世が世にてましますときより上杉諸侍の棟梁とうりやうと有る上意を承はつて推量おしはかり候へば諸国の侍大小皆此管領一人のさいはいを守る両上杉とは申せどもまづ山内殿を肝要に用ゆる故結句後には公方をわきへなし奉り十人は七人山内殿二人扇谷へと申公方様へは漸々一人も出仕いたさずしてゐたるにより公方の御仕合せ如此に候へども山内殿にたてをつく侍一人としてなき故少しも子細なく治る扨て持氏公子孫御座候とはいへ共久家こが久家一本久我ニ作ルのあたりに指置さしおき奉り用ゆることさのみなしさなくして山内、扇谷、両上杉君を仰ぎ申に付ては都より事故なく持氏対治たいぢはし給ひ兼たまはん物を鎌倉公方の御切腹も旦は両上杉殿、上見ぬ鷲とおごり給ふ故ぞかしされども果報いみしく国治り一段と安泰あんたいにて二代なり就中両上杉家中作法の儀山内殿は上野平井に居城ゐじやう有て大石、小幡、長尾、白倉是四人のおとななり扇谷にては上田、太田、見田、荻谷と申て是も又四人のおとなありて居城は相州大場と云ふ所なり殊更両上杉根本こんぽん兄弟の筋なれば中能なかよく候て山内をあしう仕る者は扇か谷をかね扇谷に敵たはんと存する人も猶以て山内を怖ぢ両旗なれば右公方御代より一入ひとしほ物云もなく各々平井へ出仕して囲繞渇仰する程に其勢二十万騎とは申せども国を持て積れば十六万は是有べし是程なる大身日本国中に三人と在さねば国の静まることこそ尤にて候へ国静なれば遊山、見物、乱舞、歌、連歌、花奢、風流に模様共うちあかり上下共にさゞめきわたり縦へば万年過ても此世みだれんことかたし第一に管領へ、敵申べき者北東に一人としてなければ末々は海道七ケ国も上杉殿へ随身ならんさありて終には都の仕置もひらゐよりし給ふべしなどゝ各申はことはりなり国のよく治まりたる所に大事になるみなもと一ツ出来いできたる子細は扇谷にちうじ彦四郎中次彦四郎曽我伝吉とて両人の殿ばらあり此者ふたりながら中よくしていひあはせ分別もあれば奉公能くして扇谷殿の心を取うけ後には扇谷へいさめを申程に仕る運の末の諫臣かんしんにて後両人申す事打続き吉事の故其後は両人に官途させちうじ主の助曽我右衛門すけになされ悉皆しつかい扇谷殿は会我ちうじ申次第なりある時両人談合して己々が所領を沢山にとらんと思ひ扇谷殿へ申けるは御台所入り是なくして事不弁にましますに家老衆は江戸河越かはごへの国中に徘徊の儀伝解ニ徘徊乃儀これを考え候へバトアリ、末の御代にはあの衆の子共扇谷御子孫へ敵対申、御子孫は公方のごとく成給ひ家老衆は両上杉殿御仕合に少もたがひ申まじ御分別有べき由申上処に扇谷殿武州江戸太田道管だうくわん前ニハ道官ニ作リ爰ニ作レルガ皆道灌ナルヘシ召寄めしよせ殺し給ふ是を聞て残る上田、見田、荻谷を始め道管が一類城主共のことは申に及ばず少しも身を持たる衆大形身がまへをいたし舘々たちへ引籠るしかうして後此義に付て山内殿と扇谷殿と其年中に取あひおこつて羽入の峯、岩との峯、ふく田の郷、ならのはしなどゝ申す所におひて大きなる合戦ありて味方も敵もみへわかず日来ひごろ無心懸の奉公人共働くすべもしらずしてこねつ返しつうろつきまはる小旗をすて或ひは鎗をきりおり杖につきぐる者は跡をみず主を捨てゝ大場方も平井衆も敵味方共におの在所ざいしよ々々へ長北ながにげいたしたる者一そなへに二人三人づゝ在之勿論関東奥州北国にても度々の覚へを取りたる大剛者とも数多ありといへ共世末になるしるしやらん若武者のことにもあはぬ、しかも十人の中に八人九人は無心懸けの弱者どもにこねかへされ年来としごろ事を仕付しつけたる衆も自から身搆へをして何の手柄もならさる子細は味方討ちを仕つる故なり此時節伊豆の宗雲出て小田原をのつ取る事明応四年乙卯の歳と承り及び候前代の義なりしかも他国の事人の雑談にて書き記し候へば定めて相違なる事はかり多きは必定ひつじやうなれどもたゞ此の理究を取りて今勝頼公御代のたくらべになさるべし長坂長閑老跡部大炊介殿されば世間に能き大将と名を取給ふそれに生れつきの様子替ること大方四あり君子は千里同風とて御心中はいづれもひとつ所へまいらせ給ひ候を縦へば人間の小袖色々を着して各ゝ寄り合ふ時みては面々様々なれども其寒きを防ぐことは同意なり必ずよきオープンアクセス NDLJP:40大将は道理を能く別けらるゝを以て名大将とは申し奉つる名大将は道理非のわかること敵も味方も同風なり又道理のわかたざるは心のいたらざればなり心の至らぬ大将をさしてあしき大将と申す先づ一番によくこころしづかなる大将の度々どゞいくさに勝ち威光強よければ一入おも敷くみへ候君子のおもきは奥深おくふかく候て少しも越度おちどなし其下の侍大小上下共に念をつかひ義を全ふする故邪慾なうして私くしなる意地なければ善悪のさた敵味方のことなり共有る様に申す事は一ツも首尾のちがはざる様にと心がくるにつき侍衆大小共に越度おちどなることまれ也右の静かなる大将を心のいたらざるあしき大将のまね給へば一段と遅怠候此遅怠の大将の下にては侍大小共に分別なくして分別だてを仕り万事長々ながしくて埓あかず又諸侍老若共に大事なきことを深く取成し耳談合などをしてやうがましき人の分別をはなへ出すは無分別のみの時なり二番によくつよき大将の度々軍にかち賞罰天地のごとく明らかなるは異相に見へて人のおづるを心のいたらざる大将のまね給へバ短気に成り給ひとがもなき家老をねめつけ其外の侍衆をば少しの儀に誅し給ふ明暮あけくれ機嫌わろくおとなの異見も聞ずむざと宮社頭の木などをきり或はあら馬にすいて一本「すいて」ノ下乗ノ字アリ落てはあやまちをし久敷煩ひ親類家老各内衆に機つかいさせじやのすむ池などゝきゝてはかへてみたがり又人にくゞらせ我もくゞりて詮なきうでだてなされ候へば其下の奉公人朝夕いひ事をして少のことにもはらを立て近付き知音ちいんに、はをぬきて勝負もつかぬ喧嘩ずきいたしせいで叶はぬ武辺などの時は人なみよりは内にしてそれを苦にせぬ奉公人多し三番によく平なる大将の慈悲ふかうしてしかも度々軍にかち仏法に立入り文武二道をあそばすを心のいたらぬ大将の真似給へば物よみ坊主の如くにて其下の奉公人公家衆の形義形義ハ行義ナルヘシになり男道無嗜むゝたしあみにて武辺無案内なり全集ニハ四番に熊手がるき大将右火事乃未だ大に不燃塀のおほのなどへ少付たる時静成能とてしづまりて内乃下知すれバ大火事に成る故いかにも手かるく打ちけし又大地震乃時一入軽く出或は狂気者なと俄に刀を抜き伐り廻るに静成能とて悠々として切るゝには非すちらとすれバはや飛違へ捕へ剰へ度々乃軍にかち給へバ其下乃人々も上をまね敵城塀際へ付早く立退悪所をば人より跡に残るごとく軽きが却て重し加様の事を心乃至らぬ大将まね給へば云々トアリ
一本ニ牛角に直らるヲ家督に直らるトス
論義
菅野
四番によく手がるき大将の度々の軍にかち人のほむるを心のいたらぬ大将まね給ふ人は異相になり敵の国などへ深入をし敵かさめば大きに噪ぎくちあきてにげ給ふ其下の奉公人善悪もしらずふせんさくにて少しの喧嘩口論にもとばつく物なり就中右に申す両上杉取り合ひの義山内のからう扇谷の家老うちより両大将へ異見して昔しのごとくぶじになり年月つもり両上杉ながら父は他界まし山内は則政のりまさ公扇谷は朝義もとよしの代になる山内則政は永正元年甲子の誕生なれば享禄三年庚寅に廿七歳にて牛角になをらる扇谷朝義も此時代なり是れは歳不承候扨て又北条家は宗雲公氏縄公二代にて伊豆相摸両国おさめしかも其年享禄三年庚寅には氏縄公子息氏康公十六歳にて初陣ういぢんに武蔵の府中へ出でらるゝ敵は両上杉なり北条家の果報いみじきゆへか上杉家めつきやくの瑞相か両上杉又中わろくなり北条家と取り合ひの義たと〈[#ルビ「たと」は底本では「たへ」]〉へば三方ろんぎのごとしされ共北条家をば小身とていやしみ氏康公出で給へ共上杉家の人数二万三万むかい神奈川品川武蔵の府中たかいど、ところ沢、せたがや、などゝいふ所にて氏康と両上杉とつがう八年の取り合ひに則政公一度も出で給はず少敵とていやしめど上杉家大将出でざる故大合戦にもこぜりあひにも上杉衆皆負けて氏康一度かたずと云ふ事なし誠に北条家弓矢巳の時とかゝやきばんじまつりごと宜しければ上杉家の功者共さてあぶなしとつぶやくされども管領則政公には両出頭のすがの大膳上原兵庫是を聞て申しけるは北条宗雲元来伊豆のいかにもちいさき所より出でたる族の氏康かなにの深きことあるべき伊豆相摸両国持ても北条二人三人合たる程の大身衆越後関東奥両国へかけては則政公御旗下に五六人も在之上杉家に伝る衆にも北条程の者は有まじ、げにはびこるに付ては則政公旗を出されたゞ一陣に北条家を誅罰し給はんとすがの上原両人の口にてわか侍共則政公御馬出ば北条家を誅罰今明日の様に各さたあれど則政未練ぎあひにてちと臆病にましますか今年ことし来年らいねんと申せとも以上に山内殿馬出し給ふこと更になけれバ管領の御馬にて出かぬると申は此時代より始まれり扨こそ上杉公はわろく思ひければゆだん成大将と是をいふ扨伊豆の小国より出たる北条といやしむるは一段あしきさたなりさあらば奥州の大将は皆よからんか非義なり一本ニ意玄入道とて弓矢巧者上杉家に双ぶ者少なしトアリ爰に長尾いげん入道とて上杉家の功者にて北条家のこと則政公へ度々諫を申し則政公合点ありて又崇敬有るすがの上原に相尋ね給へば上原兵庫すがの大膳両人申上るいげん入道さすがの者にて候へ共老耄らうもう仕り功者こうしやも跡になる分別にて候子細は北条小敵にて候へば誅罰せんこと何時にも罷成べし夫は余り安きことなりさるに付てはたゞ御手前の大身衆によくしみられしみられハ親しまれナルヘシ給ふやう成を我々は肝要に分別仕り候大身衆の思ひつき申ことは先関東中の久しき家にて其大将の幼少成には其家の覚有おとなともに則ち主の知行を分て下され守たてよと仰付らるゝに付ては主も被官もいぎなく管領公の御オープンアクセス NDLJP:41為大切に存ずること日々に新なるべしなとゝ申す是も一理は尤もなれば管領則政公大きに合点まします故関東にて結城ゆうきにたがや千葉ちばに原はらに高木両さかゐなどとて主より大きなる知行取の有は此時代より始まる其知行取る者ども扨て則政公は名大将にて管領始まりてなき御仕置きと誉め奉つるにより則政公思し召すは面白おもしろき分別をして我に名を取するとてすがの上原次第に何事も則政公し給ふ故よの家老衆のいさめ少しも許容を加へ給はず候然れ共長尾いげん入道工夫を以て井又左近太夫、本間江州、両人を北条家へたばかり奉公にさしこす本間は其歳四十一井又左近さこんは卅九歳此両人は父上杉公の代にも北条氏縄と取合ひのさかひ平井より検使に行き十八十九の歳より度々の手柄をあらはしたる者どもにて父山内殿旗本足軽大将の中に若手の覚への者なり去りながら本間、井又、四年巳来このかた則政公御意に背く子細は則政公かとくに右より一本則政家督の砌よりトアリ鹿狩りをいましめて法度はつとにし給ひ両出頭のすがの大膳上原兵庫奉行に仰せ付けられ候然ば本間ほんま、井又、両出頭衆と知行所近し又すがの上原内の者共奉行の被官なればとてたれとがむる人もなきにより法度をやぶつて鹿狩りをする本間、井又、すがの殿上原殿が内衆に頼み一ツになりて狩りをするめつけ衆すがの上原事はかくして本間、井又がことばかり言上する其時則政大きに立腹し給ひ本間井又生害におよぶ所に漸にげのび在地の体なり一本在寺の体なりトアリ家老衆わびこと申さるれ共只はならず彼の両人奉行衆内の者共に理はりを致したると申せば両出頭衆の前へ如何がにて年月さつて四年の間閑居也其内に北条家と取り合ひの境目にて度々心操あれと更らに取り次ぐ人なし前へに申す長尾いげん入道上杉家にて弓矢の功者ならぶかたなし此いげんは諸人の批判にかはり北条家の弓矢を上杉の大癪の虫と見届け右の本間井又をいげん入道所へ呼び則政公御前へかた両人出仕の儀うたがひ有べからずといげん入道自筆にて誓言を入れ一札をかき本間、江州、井又左こん両人方へ渡し此人々の妻子をば長尾いげん入道の領分にかくしおき上杉家をば沽却したると内々披露あり本間、井又は北条家へうつる此本間井又を北条衆も一入しりてため大藤近石ちかいし近石ハキンゴクナルベシ伝解ニハ金獄ニ作ル
又はだを付給はずヲゆるし給はずトス
二人肝煎きもいりをもつて大道寺殿奏者にて氏康公へ礼を申上る氏康公其御年十九二十なれ共政道かしこくまして少しもはだを付給はず働き有時は本間、井又を大事の処へ指越あしく取まはし候はゞ心のそまぬかり主のために討死しつべしとおぼゆるされども四年の間堪忍大方様子をきゝ届くれば大身の分に北条家へ心をそへざる衆両上杉家に長尾いげん入道をはじめたゞ九人ならでなししかうして氏康の躰を能く見に先静に心剛にして罰利生ばちりしやうあきらかに善にも上中下をたゞして伝解ニハたゞしてノ下「褒美有り悪をも上中下を糺して」ノ十四字アリ折檻まし軽き大将かと思へばおもんじうたをよみ花奢にしていかにもいつくしきかと思へばいかり給ふ時は自身太刀たち長刀なぎなたを取て異国の韓信かんしん樊噲はんかいもたゞ是れ程ぞ有らんと思ふほと威光つよし人をも能くみしり給へばこそ崇敬有人々のどゞ手柄をあらはし手きずをかうふる若手の衆は氏縄の代より名を取たる老功の人に先はさすまじと仕るもとより老功の衆若手を誉めて何様ふみとめたる手柄は我々なりと心に自慢ありとみゆれ共若き衆をば取立て又わか手は心につよみを存ずれども一年増としまししつして中々見事聞事成儀言語に及ばず就中御座をなをし給ふ、くしまくしま一本ニ福島トス殿氏康公と同年なるを当年廿二歳にて御そば奉公をゆるしあり北条左衛門太夫と申す此じんは四十五十の人より弓矢の鍛錬甚だし其舎弟しやていくしま弁千世殿と申し当年十六歳になり給ふが此人また氏康公の御座をなをさるゝ是もまして只人ならずと相みゆる此家中いづ相摸二ケ国と申せ共祖父宗雲公の代に蓄へ給ふ金銀米銭をもつて諸牢人をふちし給ひ国郡のほか奉公人多し果しては上杉家の大事なりと見届け又きくことあり北条家三代さき宗雲公兼々いひ置くに金銀米銭も我より三代目までのこと三代目には上杉めつきやくして必ず予が子孫関東仕置きうたがふべからずさありて四代目には国かずの余慶をもつて支配する者なれば至りて金銀をさのみたくはゆるに及はず然ば宗雲彼の地彼の地二代ハ「が後二代」ノ誤ナルベシ二代の間侍扶助のこと二十はたち以前七十以後は大小ともに我蓄へ置く金銀米銭をもつて切符にあつべし老若ともにそこつに知行をあたへ隠居し死して後ち其知行を孫子の有るにつかわさずして取りあぐればなにと能き様にいふても心中は恨み有りさて又心もしれねわか者は後ちになにたる耄者ほれものやらんも不知してせんさくなしに知行を宛行ない度々越度おちど有るに其の所領をとりあぐれば本人斗りに不親類部類のしかも用に立つ物迄恨みに思ふなりそれを勘がへて戯け者に知行つかわし其まゝおけば此家中には何たる馬嫁もむざと知行を取るぞと心得て若者ども行儀無嗜ぶたしなみになる物なりさりとては又我家中の侍衆を老若らうにやくともに他所へこすべからずとかくとして切オープンアクセス NDLJP:42符に本領なければ老若には切符なり伝解ニ老たるには本領若きには切符なり云々トアリ中上杉家の重畳して今より後ちは家の能き作法を一代に五ケ条十ケ条づゝ取り失ひ上杉家此指し次ぎに全く皆取り失ふべし我相摸へ発向の時は今の山内廿二歳なればわかげにて両上杉と地取り合を始むる其時刻を見合せて某小田原へ立入り、のつ取り其後数年彼の家をかんがへみるに次第にさほう衰ろへく作法衰ろゆるとてもあの様なる大家の則時そくじには破れぬものなり小き家はけがあれば其まゝ破るゝぞ縦へを取りて申すに癰疔と云ふ腫物は廿年も催さねば出ぬ者なりさるに付き人間の四十をこさねばやまぬ腫物と是れを云ふ左様に催ほす故破れてよりは癒かぬるぞたゝ其ごとく上杉家よき作法衰へ催しきはまりて後家破るゝこと大方某三代目とかんがへ候殊に以て両上杉なかさへあしくば又宗雲が子孫はながら繁昌すると宗雲申しをかるゝを本間、江州、井又左近太夫両人能く聞き届くるきいて届けナルベシ、さる程に本間井又北条家のこと見てみ届けきいて届け一ツ書にしてもつて右の本間井又は北条家にて少しの作り悪をいたし出入四年にして小田原をのき上野平井へ参り長尾いけん入道方へ書き付けを渡す其ケ条は両上杉家の大身中身衆九人の外悉く九十人にあまり北条へたよること一ツ宗雲いひをかるゝ上杉家破るゝの時刻見はからうこと二ツ氏康始め家老各侍ども行儀作法能きこと三ツ両上杉中のあしきを北条家にてよろこびの事四ツ氏康譜代衆老若をあはれみ隠居の者をも大小ともにそれに扶持しまして若者ども家に久しき侍達ち二番目三番目の子をもよび出しきりふにて召し遣ひてがら有をば人にとり立てられ候間此家中老たるも若きも望を存知心がけつよくしてしかも氏康にしみしみハ親ミナルベシ此君の用にたち討死仕る命少しも惜からずと思ひ候によりて法度はつとなけれどむさと喧嘩などさのみなくて一段奥深く見へ候事五ツと此五ケ条をもつて長尾いげん入道に申渡すいげん入道是を請取よろこび則時そくじに則政公へ申上る故各々大身衆の次男三男或はおとゝをい悉く平井へつめて奉公申せとふれらるゝに付き皆平井へつむるなり其後又いげん入道思案して管領則政公旗本に三ケ条の法度を立る

一武具其外侍に入道具ふたへに一本ニ「ふたへに」ヲ不断にトス
又  乱舞遊山云々トアリ
調こしるふべき事 一饗応ふるまい大身小身ともに一じうさいのこと并衣裳紬より上きるべからず 一みだりに遊山見物無用の事 と書て諸侍へふれ渡す仕置わかやぎて則政公旗本宜敷相みゆる扨長尾いげん入道詫言申され右の本間江州井又左近太夫則政公召出さるゝ此両人上杉家の重宝なりと管領宣まへば平井の諸侍本間井又を羨むこと限りなし羨も道理かな、よの国に伝へ聞く上杉家をおくふかくぞんずるは此本間井又が武略にて北条家の様子を見てみ届けきゝて聞き届け上杉家の勝利を全く談合させ奉る両人を秘蔵と有こそ尤なれ惣別ぶりやくよくする侍は久しき家にならでなき物なり子細は久しき家の奉公人大小上下ともに其君を大切に存知て如新敷家あたらしきいへは皆新参しんざんなるにより其君をあまり大事に思はず候あたらしき家にも似あはしく譜代衆は有べけれども計策する者は有れども武畧能くする人は侍千人の中にやう一二人有るものなり又武略と計策は別成るべし計策とは長遠寺など大坂堺衆近江の浅井、伊勢の長島、越中の侍衆右の各へ信玄公よりの御書などもちて参ることなりあなたよりも五度申し入れば四度は長遠寺ごときの出家なれば是は武辺なうても成ることなり是をさして計策と云ふ扨て武畧は武辺をする人の武功より分別し出すをもつて敵の強弱其外一切の見る所聞く所見聞き、はからふてみかたの大事なきやうに仕るを武畧といふ但物知りの上には計策も武畧も一ツにさたあるとも物をしらざる人はそれに名を附けていはねば重ねて用の時事みだりになりてかくすこと広まる物にて候武畧の時は武辺者計策の時は出家百姓町人も然るべし昔より語り伝へ聞く奥州の四郎兵衛忠信賢き謀ごとをもつて吉野山にて義経公大事をのがれ給ふ是れを武略と申すべし富樫とがしが舘にて弁慶法師おそれおほくもみなもとの義経公を打擲申し奉るも同じく勧進帳の真似まねをよむも武略なり伊勢三郎駿河次郎是の両人は計策なり当時にも尾州織田弾正忠子息信長二代の家成る故能く家老森の三左衛門と申す者信長よりたばかりの文を駿河今川家へ持て行く時商人と出立て武略をしすまし笠寺の新左衛門を義元公に誅させ申も是れは又状を持ち行ても一入大事の武略なり無案内成る各は書物を持ち行けば皆計策と云ふ武略の状に七仏あり一字あり信長信長は信玄ノ誤ナルベシ伝ニ云計策文ニ一字七仏ト云アリイロハ七クダリヲ変ジ用ユルヲ七仏ト云亦一字ハ信玄家ノ秘事ナリト云フ皆隠語ナルベシ家の秘書口伝くでん有り又武略なうして不叶敵三所あり先づ一番に大敵二番にみかたの大将より敵の大将覚えなうして大身なるに武略然るべし其子細はおほへの人が覚えなき人に対々にもすれば前の覚えをにして敵方へ名をとらするましてくれば勿躰なし此理をもつて武略尤もなり三番に強敵は殊更オープンアクセス NDLJP:43みかたへてだたき事なれば是れによつての武略なり武略には見たる斗りも首尾とゝのはずきいたばかりもあやうし其品々に心つけること肝要なり扨てこそ上杉家の本間井又をは近国迄ひ きわたり信玄公十六歳にて聞き給ひ両人を絵にかきても我内の者どもにおがませんと被仰ける由を甘利備前守度々雑談申され候就中此次ぎからして能くよみわけ給へ長坂長閑老跡部大炊助殿さる程に上杉家にて長尾いげん入道長野信濃守其外四五人寄り合ひ談合して上杉則政公万事能き様に仕置き有る所に又すがの大膳上原兵庫以則政公旗本にてはじめく親類傍輩どもの中に分別有る者四五十人あつまり談合仕り此五ケ条を書き付け両人して則政公へ申上る

一北条宗雲は古来伊勢国より乞食こつじきをいたし駿河今川殿被官になり今川家かげをもつて伊豆へうつりたゞ今かくのごとくに候へば元来伊豆のせばき所より出でたる宗雲が子孫少しも深き事なく候宗雲北条氏縄は甲州の武田信虎に大きにしまけ申す是れは駿河あしたか山下、東さほの原にての事其きほひをもつて氏縄手にいれたる富士川の北悉く信虎に取らるゝ此時かうこく寺興国寺一本ニハ興福寺トシ又青池ヲ青沼トスの城主青池飛弾、人より先に信虎被官になるに付きて青池むすこ与十郎と申す者を信虎家中足軽大将の小幡入道にちぢやう日浄と申す侍のむこに信虎下知をもつて仕るた唯今は駿河今川義元信虎聟になる故息女の仮粧田けはひでんとして信虎より今川殿へわたすこれとても父宗雲が今川のかげをもつて小田原迄も発向する其恩を子息氏縄が代に成つて忘て替り目を見合て今川のもちを取つれとも氏縄義理違ひ申に付ておもしろふまはり此所今川へ帰るは天道より北条家をにくむにて候殊更此程我々両人小田原へよき者を指越し承候へば北条家には何のさたもなく上杉則政公御旗を出さればめつぽうに究まりたり其意趣は氏縄が子氏康当年二十二歳に罷成るが武辺のこと一円心がけずたゞ歌斗りよみて罷在り扨は若衆ずきをいたし若衆一本ニ男色トス何の役にも立つべき者にて無之内の者ためと申す侍を大藤近石ちかいしと申す根来法師たゞ二人ならでは武辺仕さうなる侍なく候処に当家の家老衆北条家をこともなのめにおぞみ給ふこと一段聞へぬ儀なり又本間江州井又左近両人武略をよく仕たるとのこと彼両人上杉家へ帰参申度とて皆偽りの作りごとゝ聞へ候縦へ能く仕ても武略は大敵にこそ用る者にて候へ上杉家の被官よりはちいさき者に何の機遣きづかいにて武略なさるべき当家の各おかしきことを申され候国主の武略と申は我より大敵へのことなり右に申す甲州武田信虎家老萩原常陸と申す侍武略を致し遠州のくしまくしま一本福島トスを討取る是はくしま遠州駿河の人数一万五千引卒して既に甲府迄押つむる信虎が内の者とも大方身搆いたす故武田の人数二千斗なれば扨こそ武略の入所是なり昔も源義経内衆度々武略を仕るそれは舎兄頼朝機に違ひての時なり是は猶もつて大敵なり小敵北条に武略なさるれば結句あなたをよき者に取立る様に相似たり又時々境目さかいめへ氏康が出申は御当家を殊の外おぢ奉て身がまへに罷出るを各大事と存ぜらる近国にても前に申甲斐の武田信虎などは信濃の平賀成頼と一日に八度の合戦仕り終に信虎かち候武田が内にて横田備中多田三八両人八度ながら鑓を入始たると承はる又信州かつら尾葛尾かつらおの村上頼平よりひらも越後長尾為景と日中に十一度の合戦をして終に村上が勝利を得候此時村上内にて丸田市右衛門、石黒弥五之丞、かない原弾正是三人弥五之丞ニ弥五蔵又かない原ヲ軽井沢トス十一度ながら仕りすぐるゝ箇様の合戦致す人は日本国中にも五かしらとは御座有るまじく候小身なれども武田村上などならば自然何かと存することも有るべし氏康のせがれに武略計策と有ること甲信両国に於て侍とも批判もいかゝに候西国に大内殿東国に上杉殿とて忝くも日本に両殿の大将にてましますに小身の北条などをば只今迄のごとく家老衆に仰付けられげにはびこり候はばそこにては御馬を出され誅罰尤の事

一前代に御一家の扇谷殿豪老太田道官を誅し給ひてより此家中大きにさだち今にいたる迄十人に八人は御当家山内殿へ出仕申処に夫を御存知有りながら本間、井又が作りことにまかせ各御家の大身ども人じちを召しをかれ恐怖をいだかせ給ふこと無勿体存じ候以来此衆表裡においては我々両人に堅く御かゝり可成候既に大身衆は則政公御代を千年と願ひ申す子細は御家督つぐ年より六年以降詰奉公をゆるし給ひ一年中に正月元日ばかり出仕して残る月日は面々が居城に罷有り楽を致し平井へ三十里の間にてもたゞの時は出仕御免の儀上杉家始まりて則政公御恩一入過分と小幡、大石、藤田、白倉各口をそろへいつも我等両人に申す事

一三ケ条御法度の事は堅く被仰付是尤の事

オープンアクセス NDLJP:44一平井において手柄の者をば又被官なりとも取上られ此沢山なる御知行被下べし北条家にては北条家にては根来法師が一二をあらそう物なれ何様の者をも御扶持尤もの事

一本間井又七年御意にそむき罷り有り候者を当年よりはや御ねんごろに候へは上杉家に人なきやうにて候間十年とは存ずれどもせめて七八年も遠々とぼしく被成尤の事付扇谷と御無事にて御損多く候事と書き付てすがの上原両人にてじきに則政公へ上る則政公披見有り北条家をいやしむ儀其外なにもかも機に入りて長尾いげん入道をはじめ四五人のこと少しも則政貧着なし結句後には四五人の衆上杉殿御前十分になし、まして本間井又をも則政公病者の偽り病者の偽りは表裏ノ偽ナルベシ
一本ニ界せず公界せずトアリ
いひとてあしく仰られ候間平井衆悉く本間井又をそねみてあしう取り沙汰するにより両人の者男せず北条家へ内通したる大身衆この儀をよろこびすがの大膳上原兵庫両人へ使者をつめさせてをき両出頭衆の門外に駒のたてどもなしそれよりして平井の旗本侍衆大小ともに行儀悪くなり武具の支度もやめ乱舞法度はつとあれどもおもてむきは小謡こうたいを一ツうたはねども屋敷のうちに座敷を立て日々夜々に乱舞を張行す又其比とうぎり、しやうぎり、松ぎり、藤ぎり、桜ぎりとて五人の白拍子しらひやうしあり此下にいたいけ美人しづさと美人などゝて七八人もあり其中桜ぎりはすがの大膳、藤ぎりは上原兵庫、両人が二人の白拍子にちなみ内々にて日夜の遊山故諸侍悉く両人をまねび行儀わろき事中々申すに絶へたり爰をひとつ高坂弾正が口すさびに申し置くをきゝ給へ長坂長閑跡部大炊助殿喩ば勝れてみめのよき女一人中の女一人みめのあしき女一人此外はかたわ也中の女は批判は我よりましのみめをばよその美人を引かき悪く取なす是をそねみと申すなり我よりをとりのみめの女をは散々手くぼに会釈あいしらいかさをかけてあしういふ是をいやしむとは申なりさる程に女人に似たる男が人を猜み人をいやしむと聞へ候そねみいやしむは女のわざ扨又人をそしりけすは男のわざなり其そしりけすと申は先よく剛強にたけたる男一人それにあまりおとらぬ男一人右二人の跡に付男人此外は人なみの男なり別して本の未練者は千人の中にもさのみなし扨右申す大剛の人数度々の手柄のこと申に及ばず其人に続き中の男も如形の手柄有を贔負の衆多ければ上の男よりましの様に申シなすそこにてよく剛強なる人、中にすこやかなる人の手柄をかたらせてきく我こはくつよきより少シおとりなれば我むねにあて余りそれ程にもなきことをこともなゝめに申は其人の主が贔負の人の前にて何程もつよくこそかたるらめそれ程の儀は大略の人々みな致さんに聞き及たる程の人にて有まじと云ふをそしるとは申なり又人なみの男が少しぬき出たることをして千人の中にもふたり三人にすぐれたる程自慢するを上と中の男がきゝあのつれをこそ大きなる事と思ふらめと申て笑をけすとは名付て申なり此なる故名大将のたけき誉おほき君子の下にては人をそしるとけす侍は有といへ共人をそねみいやしむ武士一人もなしさる程にわかき衆まで作法よくして人をそねみいやしまずたけきぶしは我むねにあてがひつはものどしが寄り合ひて一言申して双方堆忍なけれバさてはたすなり詮なき事に打ちたししゆの用にはたゝずしてしかも妻子を路頭ろとうに立てかばねの上の恥辱と跡さきを分別してむざと人をあしういはず道理がつまりて申せば我とわが身をくわんじて敵の云ふは尤もなりと合点するにより能き武士は先づ慇懃いんきんに惣別人の腹立はらたつつ事を我方よりはせずそしるもけすも無案内なる者ども己れが贔負の人をほむれば能き事と存知むざとほめ世間にたぐいまれなる男をもそしれば我贔負の人は威光あがると思ふ人は是れも女人の穿鑿なりそしるもけすも無穿鑿の近付き衆が分別なき取りさたより出来しゆつらいするさなくは又よき人の各ひとつ道理に参るに付き一段中能き物にて候ぞ近代我等式身にかけて多く候敵味方なれども越後謙信は信玄をほむる信玄家にては輝虎をそしらずましてそねむ事はなしちかき間のわか手なれども弓矢たけからんと思へば家康も信玄をほむると聞くもとより信玄公も若手わかてをやさしく思召し輝虎におとらぬ弓取と家康を誉め給ふ越後のさたは木熊こくまの城の意あん布施ふせ其外来りてかたる三河侍も多き中に山形三郎兵衛同心に小崎三四郎かは山村伝兵衛一条殿一本ニ木熊ヲ大熊トス
かは山村ヲ河原村トス
にほり無手むて右衛門中根七右衛門あさ見清太夫是れ等は若手に利口者なりと聞く虚言なく三河のさたにも信玄公を誉め奉ると申し某関東の侍だちに馬の目利をとふたれば東西伝解ニハ東西にてヲ当歳にてトスにて母に離れぬもよき馬になる離なれて草をくうはなを能馬に成つきつ離れつする馬は後馬に成てもおもき荷持事ならず遠き路もならずやす馬と是をいふ如此畜生さへ機の展転するはあしきにいはんや日本六十余州において西国に大内殿関東に上杉殿とてみやこを持つ人よりは人数持の大身がよき家老のよき諫を聞しらでしかも我にオープンアクセス NDLJP:45忠節したる本間江州、井又左近を、すがの上原両人に讒言せられて始め誉たる口を引かへ又あしう仰らるゝはたゝ二ツ三ツのわらべのごとし世中に親の子を思ふはめづらしからず但し男女のあはれむ事各別なり子細はおさなき者虫気なるに男はきうを仕るわらべはなきて父をおぢてよりつかずされども後は薬となり母は童なくをいたはりてきうをせず候よつて当時母にはしみつくといへ共後は病つのりてまなこつぶれあしく取まはせば死する時、はゝ後にくゆる其ごとく則政わらはべの如くにてすがの上原が当座に機にいるとて北条家をそしるをまことゝ思ひ給ふ則政公陣をいやがる臆意は臆病なる故なり始はいげん入道が諫を合点ありてすがの上原にいはれのちの変改は馬畜生にもおとりてあしき夫馬ぶむまのごとし是も至て臆病の故なり北条家をあしくいふとて武田信虎公平賀成頼にかち村上頼平公長尾為景にかつ合戦のこと迄申出し氏縄をわろくいふは全体女が我とひとつ位の美人をあしういはんとては又我よりみめのましなる女を引出しあれがあれほどみめよく共そんぢやうそれにはをとりたるといふてそねむ心は則政の北条家悪口するをよろこび一本ニよろこび給ふ道理に等しトアリ給ふ是もいたりて臆病なる心なり扨こそ未練なる大将は女に似たるとは申すなりそれによつて上杉家諸侍百人の内九十五人は人をそねみいやしむ男おほし今より廿年さきに都妙心寺に大休和尚だいきうおしやうとて名知識めいちしきまします此和尚の前にて人が人をほむれバそれはしゝたるかと問ひ給ふ今に存生そんじやうなると申せバそこにて大休だいきう申し給ふはほむる事無用何たるしぞこなひあらんことも存ぜずと宣ふ又或人の人をあしういへば大休だいきう問ひ給ふ其人は死したるかと仰せらるゝ今にいきてゐると申せば大休宣ふは譏る事無用又何たる手柄あらんもしらず人の善悪は死後にならで申さぬものと大休和尚の常の言葉なりと策諺和尚信玄公へ物語りし給ふ武士は猶以て其心ありけがある者は重ねて是非と存ずるによりいやしむるに及ばずけがなき人はとてもいく世一本ニいく世ヲ一世トスに少しもけが有る間敷とて嗜めば是れもつていやしむることなかれ左様に存じて人はいやしまねばきはまりて我心にあてがふによりたけき武士は人の腹立様にし給はずしていか様成る小者中間にもそれに慇懃なり扨て此則政の家中には何たる手柄人をも小身なるをばいやしみ小身にてもよき分別有るべきをばそねみ又出頭の上原すがの親類共大身衆の由贔負をば何たるほれ者をもそねまずわかき人々いんげんに名を取りたる者ならば是非ともすりかけんとうでだてを申せども是も小身にして人の名をよぶ者へは自然日比ひころ申すごとく一言もいへども仕合せよくして手柄有る人にはかげにてはいへども向いては陣防癈忘はいぼうするとかく意地きたなふて身上の大なるにおそるゝば臆病の色斗り古語に曰一善則衆善衰一悪則衆悪帰と有るごとく上杉家すがの上原五人の白拍子を愛するによりすがの上原ふるまふ者共はまず此白拍子をよび公界くがいは法度なりとて裏座敷にて乱舞あり左様に馳走する者は則政公御ため思ふ人なりとて大方加恩をうくるそれを見きいて平井の諸侍老若ともにさだちうきそゞろに一じうさいの法度をも破り右五人の白拍子のこでわき共に菊夜叉きくやしや桔梗きゝやう、花をしまなどゝいふ女どもをかなたこなたへ引まはる平井の侍悉く不弁して召遣ふ者共に無足をさすれば上杉家に盗人ぬすひとはやる或時高野聖かうやひじり半弓にて盗人をひとり射ころしたれば手柄者とて則政公へ呼出し千貫の知行を給はりしかも足軽大将に被成悪しき諸人則政公を武辺ずきにてかくのごとしとほめたつる臆意は北条家にて大藤近石ちかいしといふ根来ねごろ法師におぼへの者あしがる大将のあるにまけまじといふ左様に知行取あたらしく際限さいげんなきにより則政公台所入た 二千貫ならでなし扨こそ右に申臆病なる大将の器用だて是なり又北条家へ武略に行く両人其内井又左近太夫酉の三月毒害にて死する則政公仰せには我下の大身ども北条家へ心もよせぬ者どもを偽を申かけたる罰にて頓死仕たりと仰出され候間諸人悉く井又左近をにくまぬ者はさのみなし扨上杉家の能き家老一両人寄合よりあひ管領家是ほどには末に成たりとて忍て井又左近太夫が跡をとふらひてなけども更にかひぞなき然ば北条家民康廿三歳にては扇谷の城河越をのつとるそこにて行あたり右にいやしみたる事は一両年の間に忘すれ両上杉殿八万伝解ニハ両上杉ノ下俄に和談して一ツになり川越の城を取返さんとノ廿字アリあまりの着到をしるす北条家にて実否一定の合戦なれば此方には氏康が罷在合戦は疑べからずさありて城をよくもたねば後詰うしろづめはならぬ者なり後詰ならねば運の合戦は仕がたし氏康ほどの者こもらせてこそとて北条左衛門太夫を河越にこめらるゝ扨て両管領旗本は武蔵の柏原と云ふ所に両上杉なから同座あり八万余りの人数をもつて河越を取りまく氏康衆にはかり事ありて四度目に疑かひを散じて合戦と定めらるゝ敵大軍なれば旗本を伐りくづすともさき衆はまきつめべし必ず城よりつゐて出べからずとオープンアクセス NDLJP:46云ふ儀を城内へしらせ度と宣まいければ北条左衛門太夫か弟くしま弁千世とて其年十八歳に成りつるが氏康へ申上るは是れは大事の御使なり書状をこし給はゝ道にてとらへられ今夜の合戦なるまじ今夜合戦なくして又いつの世に大敵をよき場所へ曳き請け給はん十が九ツあらはるゝは必定よ顕はるゝ事あやうしとて口上に仰せ付けらるゝに付ては拷問せられて落つべしそれは状にて顕はるゝとも問ひ落されて顕はるゝも道理は一ツ所へ参り候乍恐弁千世を指越し給はゝ被捕て糺明にあひ縦へばかうべをばさいほどにすらるゝとも落ち申す事有るまじ是れに罷り在り御前にて心ばせを仕りたけれどもそれは両上杉を一度に討取りたるより今夜のてだてを城内へあぶなげもなくしらせ申すか屋形の御為にはましかと存候とて能き馬にのつて舎人とねりをもつれず一駿河越城内へ何の造作さうさもなく敵のやうにたばかりて乗り籠む氏康公寵愛の若衆なれば一入ひとしほ名残りをおしみ給ふもことわりなりさても其夜の夜半やはんに合戦ありて氏康公りかち給ふ上杉家悉くしまけ敗軍して一万余り討ち死する右に北条家といひ合せたる大石、小幡、白倉、藤田、由良、荻谷、筑日、一本筑日ヲ翌日トス悉く氏康へ礼を仕るされども氏康少敵なり殊に夜軍なれば両上杉なから討ち死なく則政公平井へ帰陣なるを武略する本間江州全集ニハ本間江州兼て用意し朱の九ツちゃうちんに九ツながら火を立眼のあかぬ君の為に今夜の軍の目あかし云々トアリは今夜夜軍の目あかしなりと名乗て大道寺と出合ふ本間江州をうつて此さし物を北条家のあらん限りはさし給へと申してうたるゝ時のいひ置きなり敵なれども大剛の者の詞なれば今にいたるまで北条家の大道寺九ツ挑灯をきんにしてもたする是によつてこまといは北条家よりはじまる其後上杉殿本間江州井又左近か申したる事あたりたりと則政公宣へば諸人又両人をほむるさてすがの大膳上原兵庫則政公よりさきへ北て帰れども能き人は討死する残る者は皆逃たる侍なれば別にあしきさたもなし此合戦天文七年戊戌七月十五日の夜伝解ニハ廿日の夜トスなり山の内管領上杉則政公臆病にまします故無穿鑿にてあしき上原兵庫すがの大膳次第にし給ふ故かくのごとし三略に曰シテシテ上下カラシテ高官又曰賢臣内ナル邪臣外ナリ邪臣内ナル賢臣斃内外失ヘハ禍乱伝大臣疑ヰハ衆姦集とあるに入道意見をきかず時の軽薄によきやうに申す者の事を用ひ給ふほどに此ほん命期めいごまきと名づく依て如

  天正三乙亥年六月吉日 高坂弾正書

          長坂長閑老

          跡部大炊助殿参