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甲陽軍鑑/品第十一

 
オープンアクセス NDLJP:30甲陽軍鑑命期巻品第十一 巻第三
命期巻ヲ他書ニハ犛牛ノ巻トナス
どんすぎたる大将の事 駿州今川家并山本勘介の事 
伝ニ云此犛牛ノ巻(三四五六)ノ四巻ハ勝頼ヘ対シ諫言第一ノ書ナリ此四品ノアシキ品々ヲ務メ去テ正法正知ニ至ルトキハ名大将ナリ因テ弾正四時ノ妙道ヲ表シテ此巻ヲ書記シタリト云フ此巻ヲ犛牛ノ巻ト名ツクルコト次巻ノ本文ニ見ユ

我国をほろぼし我家をやぶる大将四人まします第一番には馬鹿成る大将第二番に利根過たる大将第三番に臆病成る大将第四番につよ過たる大将是れをさたして二大将と成る先つ第一に馬鹿ばかなる大将是れを所によりてうつけたはけほれもの者共申なり此馬鹿大将の仕形しかたたはけても必ず心は大略がう成る者にて我儘成る故に我身を忘れ遊山見物月見花見朝夕奇物をもてあそぶことにすぎ又は芸能を専らにし給ひたま武芸の弓兵法、馬鉄炮、稽古けいこあれ共其心たはけ成る故弓矢の道へはおとさず芸者の様になし何れ宜しく我は国持ちたりと思給弓矢の道無心懸ぶこゝろがけにて我することをば何れをもきことゝばかり思ひ給ふによつて其被官衆ひくわんしゆは大将得給ふことも得ぬこともみな能と誉る者なり誉るは尤も道理にて有り抑も大名の智恵をば下のもの偸盗ぬすむぬすまれざるをよき大将と云ふ盗まるゝは是ればか大将といふ其ぬすむと申は主君のあそばすことをば上に被成をもあしう下手へたに被成をも被官ひくわんと成てはさて見事聞くこと哉と各ほめ候能き大将は分別まして我し給ふ義にもし得たる事をほむるは道理と思ひしうけざることをほむるは「しうけ」ハ仕受けナルベシ我への馳走に時の挨拶と心得らるゝを盗まれぬとはいふぞ人々の誉るにのり我てまへの善悪をもわきまへざるをさして智恵をぬすまるゝと申す又善悪を弁へたるといふて我をはむる人を軽薄者とていかり給ふ大将も有るべしそれも悪しき分別なり何たる大名とても異見申上る家老はおほうして五人さては三人ならでなき者なり其余は皆主君に軽薄甲さずんば有るべからずそれをいかるも馬鹿ばか大将なりかく馬鹿成る大将の下にて奉公人上中下共に様子を見聞くに前代よりの家老にはよき人はあれ共当時の出頭人に若しやさゝへられやせんとてよきことを存じ出し候てあれども物いはず大将たはけ給ふにより人を見知り給はずして分別なき不賢どもを召集めて崇敬有故、其衆善悪の弁もなく只手柄成る分別有りて如仕合しあはせよく立身すると証拠もなきほまれを思ひ我身に高慢の意地は二六時中に専なり惣別そうべつ小身成者のうつけたるは其ともなみたはけなり殊に大名の馬鹿成は其下にて出頭仕る衆戯なり虚はかならず先分別たて有ても一切分別は少もなし下臈げらうたとへに牛は牛つれ馬は馬連と申す如く我にひとしき者に諸役を申付るにより馳り廻る程の人皆たはけなり其者どもをも其家にては健人分別者哉利発人などゝ云て誉る子細は其下にすめば先其大将をよく云とてはかならず出頭人をほむる出頭人を誉れば出頭人目利めきゝの者どもをも各々誉めてまはる悪き人をも能き人哉と邪慾の諸人申と云へども其家中斗りにてのこと余所よそにては人が笑ふなり中にも其家やぶれれて後末代迄もあしきたとへには其家のさはう其大将を申ならはし候しきとてもくだんの家中にて諸人其出頭人馳廻はしりまはりの者をほむるは是又道理たとへば朱をいらふふて指の赤くなり墨を綺ふ人手の黒く成心に十年と左様の家中にあれば大方家のふりに成なり其ふりにならずして利発なる賢人は分別有る故其家に堪忍の間善悪のさた少もいはず殊に其人は右の家を出てよその主君を頼みても義理を用て始めの家中善悪を猶以ていはず扨て又不賢はあしき作法をも知らずして時にあたり時めく衆を軽薄に誉たる者どもは無分別にて義理なき故余所へ行きて若し能き作法の主を頼みそこにては酒に酔てめたる様に跡のことを忠ひ出し始めて悪きと知り利根だてを仕つり口にまかせて前の主をしういふ此人々は分別なふして義理をもしらず何の役にも立たぬ侍どもならん右のたはけたる大将の下には十人の者九人へつらうて悪き様子の人斗り多し多きも是れ尤も成るべし其主君の家風にて万事ぎやく成る故悪き者仕合しあはせよければ是れは慾を起してのことなり大小によらず人間と成て慾のなき者一人も有るまじ但し邪慾の義は勿体なし邪慾を家中の諸侍にもたするは下々のしわざにあらず其家にて主君のおこない政ことの悪き故ならん定まりてばか成る大将は慢気有り我めの違ひて悪き人を取立給ふことをばしらず主の目利し給ふ人は皆能者と思し召し我扶助の者を悉く当時崇敬ある人のかたぎになさんと思召すこと是れあしき義なり仏経曰人々如面各各不同と有る時は心も又々如此ならん諸人ひとつ形儀かたぎに成るべきこと聊有るまじたとへば庭に木をうゆるに色々をうへ給ふと思召せ当時崇敬の衆能人とても一手には成りがたし况んや不賢成人々は分別なし分別なければ義理に遠し義理に遠ければ恩を請け奉つる主君のためも思はず私しなる意地あり私しなる意地あればもとよりばかなる大将へ無窮自在に申上げ皆巳々がまゝにする我贔負のオープンアクセス NDLJP:31人をば余の出頭人に取なさせ余の出頭人の身よりをば我能く申なす賊は是小人智過君子を古人の如由邦等忠ふかうして善無の差別と我身よりの者を肝要に取立る扨は我に引物いんぶつ持来るの人斗りをり持て馳走ちそうする若し右の人公事沙汰なとあれども「あれ共」ハあればナルベシ理非もたゞさすか我贔負の人の理に致す箇様の家は上より下に至る迄悉く不直なり不直とても相手道理に究れば俄に非におとすこともならすして諸奉行目と目を見あはせかなたこなたへぬりまはりことをながうして相手に退窟さする相手も機根つようして諸奉行へ廻れば今日は余所よそへの饗応ふるまい今日は又御大将にて大事の御談合といふて其人を推かへたま内に有時も機嫌あしうて臥られたるなどゝ内の者申して終に相手のことの理を持てもくたびれて無事にいたすか若しは彼人公事理なる故各々仕形に腹を立て雑言など申せばそこにて負にさばく是只出頭人の不直成故ぞかし扨其出頭人親類共の仕形しかたは親や兄や舅や伯父おぢ従弟いとこなどの出頭を笠にきていかにも慮外をおもてへたておごり上の御用に立も御為思ふも我々斗りと分別がほをして親類出頭のかげにより我も出頭する体に仕りなし人に被我を用ゆる者をバ悪き人をも能く申す我を用ゐざる人をばよき人をも悪しういひたとい覚のばを引たる手柄の人をも口にまかせて悪口せしめおのれは卅に余り四十に及び或は四十に余るといへ共終に一ども手柄もなし然れ共虚言をいひ手柄だてを申て廻る其身の所へ出入する者は是れを鬼や神の様に申すを能く糺して聞けば巳が内の小者などを被官に云ひ付けころさせ又は合戦せり合ひにあふて被官の取りたるくびなどを高名帳かうみやうちやうにのせ一本鑓をつきたるほどに云ひまはれどもいつぞの種に其被官をおい出せば下せつの者の浅間敷あさましきは其主につかはるゝ内はかくせども出て後幾年いくとし過ても主の悪き義恐くばけを顕はすものなり左様に親類の出頭に自慢してよき人をそしおのれが身にかけてはあしくしなす人をば馬糞ばふんつかみと云ふ鳥にたとへたり此馬糞つかみは鷹の自然によりきるを笑ひ又鷹の鳥取るをみても笑ひよりをきるは勿体なしあの様に取るはあしき取り様と批判仕り巳れがいでとらんといふてはるかの野へまいおり鳥の立ちたる跡にばふんのあればそれをやうつかむと申し伝へたれば手柄の侍を誹る人の二十四十に成る迄も何の手柄もなき人をばふんつかみ侍とは申し習はすなり其根元は是れ只偏へにバかなる大将のさせ給ふ義なり此大将の下にては百人の内九十五人は作法あしゝ其中に能き者四五人ありとても衆力功をなすとて百人ばかりの内に五人斗りをば物もいはせぬ者なりさありて其四五人は公界くがいもせず大勢の人は威光つよし其四五人は賢人なり大勢は不賢なり賢人は正法不賢は邪道正法邪道のわかちを申すに賢人たる人は其主君或は家老のまつりごと行ひ能ければ縦ひ我等は悪き擬作あてがいなりといへども其君家老をそしることなし或は我を愛する君家老と云へどもあしきさほうならばよくは申さすあしきさたもいはす論語曰不其政是をもつて物いはず賢なり但ぶじの時は人知らす若は見知たる者自然ありといへ共不賢の判じ様には心むさくて其賢人をほめざる故しれす如此賢人は手柄なしといふてもよきこと二度も三度も有るべし其外五度六度手柄をいたしても賢人なる意地にて我心に先づ等分一本ニ等分ヲ十分トスに思はねば我と我身を穿鑿仕り是は誉にて有まじとみがきたてゝ申さるれば愚人共は是を聞きよき心へいたらねばあの人も手柄斗りもなし無手柄もあると批判申せ共さいふ愚人だちの一本鑓の手柄より此賢人無手柄は十双倍まし成るべし箇様に賢なる人手柄なる忠功をいたしてみせ申せ共其主君たはけ給ひて賢人をみしり給はすして崇敬なければ述懐ありとても其君越度おちどの時も心をはなさずそこにて全く賢人と知るへし不賢は必らすはり程の事をば柱程に申者なればあしきことをもかくすにより賢人の心きれいにあまりて申すを能々無手柄なればこそ我事を我身より申すと存じ賢も不賢も同事に贔負ひいき々々にさた有る事是馬鹿ばか成る大将の家中にて無穿鑿の故なりぶせんさくも道理哉バか大将の家老は不賢成る故家老よりして手柄もなくかざること斗りなれば結句日来はよはき不賢の威勢なれども主君牢籠らうらうの時はやがてはづしてにげかくるゝそこにて全く不賢としるゝなり一年前代駿河にて今川義元公の時山本勘介三河国牛くほより今川殿へ奉公の望に参るといへども彼山本勘介散々男にて其上一眼指も不叶足はちんばなり然れども大剛の者なれバ義元公へめしおかるゝ様にと広原勘介が宿成る故伝解ニハ「庵原といふ人勘助が宿なる故」云々トアリおとなの朝比奈兵衛の尉をもつて申上げるは彼の山本勘介大剛の者なり殊更城とり陣取り一切の軍法を能く鍛練いたす京流の兵法も上手なり軍配をも存知仕つりたる者なりと申せとも義元公かゝへましまさず駿河にて諸人の取沙汰に彼の山本勘介は第一片輪者かたわもの城取り陣取りのオープンアクセス NDLJP:32軍法は其身城をも終にもたす人数もゝたずして何とて左様の義存ぜん今川殿へ奉公に出て度きとて虚言を云ふなりと各申すにより勘介九年駿河に罷り在れども今川殿へかゝへ給はず九年の内に兵法にて手柄二三度仕まつるといへども新当流しんたうりうの兵法こそもとのことなれと皆人のさたなり就中なかんづく勘介は牢人にて草履取さへ一人つれねばそしる人こそ多けれども能く申立る人もなし是れは今川殿御家にてよろ執失とりうしない御家すえに成り武士の道無案内ゆへ山本勘介身上の批判散々あしきさたならん既に臨済寺雪山せつざん和尚おしやうもろこしの物の本にて義元公へ異見の間は駿河遠州三河三ケ国のまつりごとよろしく行はれて尾州織田弾正忠なども駿府へ出仕しゆつしす雪山和尚異見なくして後義元公結句与力よりきの弾正忠子息信長にわづかの少人数をもつてはかりごとをせられて義元公討ら死し給ふ其上大とうにては二万二千五百の人数にて五万の敵に勝ち或は五万の勢にて億万をきつてとることも有り吾朝にても北条氏康は八千の人数にて管領公八万の人数をりくづす是皆弓矢の取り様武略の故なり惣じていくさは十の物九ツかつこと有るともそれをバのけ一ツのあやうき方へ付談合すれば全くかたん又人数は大軍をあつかいつけたる大将少人数はあつかいよからんそなへの義は少人数を能く立し覚へたらば大軍は立よからん子細は三万の人数を持たる大将の家老五人に五千づゝ預け本大将共に六人にて三万の人数を支配する大将も有るべし其段をさほうしらざる者は能きことと存る事もあらん是は何に付てもあやうき事多し三万の大将の下には人数二百三百五百千或は三千持たるも有るべし扨大軍斗りの備へ立様をもつて全集伝解トモニもつてノ下ニ心ノ字アリかけ少人数をさし遣ふ時の様子も有べし其節に其大将に成て行人は必ず手くばりまはりかぬるものなり縦ばきる物ひとつをさむき夜に三人してきてねる様にて何共迷惑成る義多からんさるに付少勢を能く備へ立覚へ其上大人数はしよき物ならんそれによつて信玄公の備は卅五人より立始め給ふ縦へば番匠ばんじやう大和やまと国ならの大仏殿を立るに二尺三尺のかねをもつて立て二間四方のちいさき堂をも右のかねにて仕るすこしき備を立て大人数には組合せよからん大備へに組み其陣にて用有るとて人数をわくれば其備りたるとて上下力をおとす者なり其所に当る敵も大にきほふ者なり惣じて大備への崩れ立ちたるは何たる名大将とても其下の剛の者共も支配成るまじきぞ又山本勘介兵法の義も新当流にてあらさるとてそしるは勿体なし新当流にも皆上斗りは有るまじ京流にも皆下手へた斗りも有るまじ此勘介は白刃しらはにても木刀ぼくとうにても数度手柄有るにおいてはそれは上手なり何の道にも上手をこそほむる者なれそれをわきまへずして山本勘介をそしり給ふは今州殿家運尽きて無穿鑿の故なりいかに山本勘介うしくぼの小身成る家より出ても軍法を能く鍛錬仕るにおいてはぶしのちしきなりとて武田信玄公勘介を聞き及ひ給ひ百貫の知行にてめし寄せらるゝ小者こものを一人つかわぬ勘介に百貫下さるゝと譜代の小身衆申すへきとて板垣信形に仰せ付けられ馬、弓、鑓、小袖、小者を道迄指し越し給ひ山本勘介甲府へよろしきていにて参り礼を申上ると其座にて二百貫の知行を下さるゝ子細はあれほどの小男一本小男ヲ男トスにて名の高き勘介は能々手柄こそ有らめ約束にても百貫は比興ひけうなり二百貫と有る義にて武田信玄公家のたからにし給ふ義元公永禄三年庚申に討死し給ふ子息氏真公代になり猶以てさほう悪くして家に伝はる家老朝比奈兵衛太夫其外能者よきもの四五人ありといへども氏真うぢさね公其四五人の者を崇敬ましまさず三浦右衛門といふ愚者の申すまゝに成り給ひ三浦右衛門が身よりの者或は三浦右衛門が気にあふたる者ばかり仕合せよく左様なる仕義き故三河国大方敵と成る然は永禄六年癸亥に氏真公馬を出し三河の吉田に陣取り給ふ時遠州に於て井伊野一本ニ井伊野ヲ井伊トシ伝解ニハ飯尾トス、心がわりにてしらすかのあたりを焼きければさすがに氏真公心は剛にてまします故少しもさはぎ給はず一万四千ばかりの人数九千余まり右申す作法悪き者共なれば周章あはてさはぐこと大方ならず井伊野ゐいのも又根のなき俄かの逆心ぎやくしんによつてやがて降参仕まつる氏真公分別しあて給ふとても未練にてはならず氏真公心の剛にまします故に如此なり扨て其後ち永禄十一年辰の極月に子細有りて武田信玄公駿河へ出張の時氏真公駿府の城をあけ遠州かけ川の城へつほみ給ふ時三浦有衛門と申す出頭人やがてはづす右衛門が親類寄子よりこのもの一人も付申さず駿河にも剛のつはもの多しといえとも三浦の右衛門が累年侫人ゆへ悉く氏真公をうらみ奉り供仕る者すくなし結句氏真公世が世の時は威勢なき人々に供いたす者あまたあり一番にいせい者の三浦右衛門はづして遠州高天神の小笠原を頼みて行に冥加尽はて三浦右衛門小笠原に誅せらる氏真公心は剛にましませど我まゝにおはします故目きゝし給ふ各々皆不賢とははじめよりみへつれども後に全くしらるゝなり 三畧軍識オープンアクセス NDLJP:33宗聚メテ、無シテ位而尊トク、威無ト云ヿ、葛藟相連ナツテ、奪在位トル下民国内譁諠、臣蔽シテと有時は我なき跡にて此かきをき両人よく分別ものなり

  天正三年乙亥六月吉日 高坂弾正記

           長坂長閑老

           跡部大炊助殿参