甲陽軍鑑/品第十九

 
オープンアクセス NDLJP:73信玄無行儀付詩作並板垣諫言〈[#底本に見出しなし。甲陽軍鑑品第十九に相当]〉

  天文八年己亥正月大元日庚午

右亥の年中は晴信公無行儀にてましますこと中々其時代の衆物語り仕ながらも不残申す事は成難き程の様子と相聞へ候其子細は若き小殿原衆或は若き女房達を集め給ひ日中にも御座敷の戸を立て廻し昼といへども蠟燭を立て一切昼夜の弁もなく夜るは乱れ鳥迄の狂ひ昼は九ツ時分迄おより候へば御前衆許り奉公申す様にて其余は夜昼つめても大将の御目にかゝることなしことさら日出仕の近習などの年来の侍は夜々に乱鳥迄罷有さて又夜をあかし腹中もちがひ迷惑さたのかぎりなり適おもてへ御出の時分は出家衆をあつめ詩を作り給ふ御会あれは猶以てしみこほりたる模様にて諸オープンアクセス NDLJP:74侍御目にかゝること少もならず家老衆いさめの御異見も申得ざるは晴信公父信虎公鬼神の如くに近国迄も申しならはす大将をなにの造作もなく押し出し給ひ其上其年中に信州の大将衆晴信公より老功なるがしかも味方の人数一倍にて甲州の内へ乱入たるに四度迄合戦をとげ四度ながら御旗本にて勝利を得給ふ故誰にても推参申す人なくて既に武田の家廿七代目にめつきやくせんとすと風聞はことはりなり此儀信州衆伝へ聞てこそ甲信両国の境日にとりでを仕り行末甲州中へみだれ入るべきとの覚悟にて候へば村上義清方はわかみこ筋若神子筋ハ佐久口の境諏訪衆はだいが原筋台ケ原筋ハ諏訪口両方より人数を千四五百づゝ差し越し晴信公よりはわかみこ筋へ飯富兵部八百余騎にて打ち出し村上衆にさしむかふ諏訪口へは板垣信形是も七百余騎にて打むかふ天文八年己亥閏六月廿日辰の刻に飯富兵部防戦をとげ村上衆を討ちとる其数雑兵九十七人なりねんばのべ山と申す処にて如此さて又板垣信形は同月廿三日巳の刻につたきにおいて防戦をとげ諏訪衆を討ち取る其数雑兵百十五人なりケ様に家老衆手がらのはたらき仕られ候へども晴信公夜の狂止み給はずあそばす物は詩作計り一本ニハ日夜乃狂トアリなされ候かゝりける処に板垣信形詩をよく作る出家を近付り其身のやどに二十日あまり右の出家をおき奉り御前の出仕は虚病をかまへ万事をさし置昼夜はげみて廿五六日の間に板垣信形詩作る様をならひさて其後御城において詩の短冊ありし時板垣椽に畏り罷有り我等にも一首仰付られ候へと申す晴信公は是をまことゝおぼしめさず候其子細は少し物を読たる分にても詩聯句などはならざる事なりまして文盲なる板垣が詩作るべしと晴信公夢々おほしめさず然れども宿老の申さるゝ儀なれば十度にあまりて訴訟の上、題を渡給ふ板垣信形詩の題を申し請け則座にて詩を作る信玄公不審に思召し又一首作れと宣へば板垣則作る晴信公仰せらるゝは内々題を人にきゝならひて如此かと宜へば別の題を下され候へと望みてよの題にて則ち三首迄板垣信形詩を作り申候晴信公宣ふそくざにて詩五ツ作りたるはいつの間に作り習ひたるぞ累年聞き及ばざる板垣信形が詩作なりと晴信公宣へば板垣此程廿日あまりの稽古なりと申すそこにて晴信公不思儀なり左様に精を出し俄に詩を作り習ふ事何としてかくの分ぞと問ひ給へば板垣申すは御屋形様あそばす儀を我等式なまじひに御家の宿老のまねにて仕らざるはいかゞと存奉りてかくの通りに候と申さるれば晴信公大きによろこび給ひ板垣晴信ためを思ふ事是にて存知しろしめされたりと御褒美なのめならざる儀なり、板垣信形申すは是より能く作り候事は今から幾年許りにて罷成るべく候やと申し上る晴信公宣ふは是からは能く作らん事連々に少しも苦労有るまじと仰せらるゝそこにて板垣申上る晴信公詩を作り給ふ事大方になされ候へ国持ち給ふ大将は国の仕置き諸侍をいさめ他国をせめ取て父信虎公十双倍名を取給はゞ信虎公と対々たいにて御座候子細は信虎公の御無行義にて婬乱いんらん無道まし或はふかき科有る者をも大方の科人をも同前に御成敗あり御身の腹さへ立給へば善も悪も弁へなしに仰付られ御機に入たる者には一度逆心の族にも卒爾に所領を下され忠節忠功の武士をも科なきに頭をあげさせぬ様に遊ばし万事逆なる御仕置を信虎公の非道と御覧あり父にてましませど追出し給ふ晴信公三年もたゝざるに御身のすき給ふ事をすごして心のまゝにあそばすは信虎公の百双倍も悪大将にて御座候といさめ申事御立腹にて板垣を御成敗に付ては尤御馬のさきにて討死仕ると存ずるなりと申上れば晴信公そこにて会得ゑどくまし板垣信形を御寝所へめしつれられ涙をながし誓紙をあそばし無行儀をなをしなさるゝ儀天文八年巳亥十一月朔日晴信公十九歳の御時也其時分晴信公作りなさるゝ詩廿首ばかり本にあらはし都名知識の序をあそばしたる本在之なり如

甲州賢太守武田晴信公者本朝射騎之名家シテ而不トサ箕裘武勇才芸之誉聞于世〈[#「世」の返り点「一」は底本ではなし]〉者久矣雪蛍之学火牛之策今ノ車胤田単也可謂名下無虚焉遠近望風服其威一矣爰禅衲深受太守之知今春一錫出寿於邦君遅留有日窃賢守之佳什一編以帰意在スルニ于洛下風騒諸客者可知也盖到処説項斯之比歟介于其人予之序以称賞焉雖不能請而不允矣凡詩道之興ルヿ也旧矣周詩三百五篇モトツイテヨリ二南二雅以来浸タリ乎漢晋唐宋焉吟風弄月約花媒葉之徒滔々皆是也其余波溢帰吾東海而作詩韵之淵海文字之江河矣於是緇素之流倒詞源於三峡之水文光於一天之斗以至蝉噪蛩吟峰腰鶴県之衆躰輩出騰紀独歩スル[「歩」の返り点「二」は底本ではなし]作者之閫域者古来李杜蘇黄而巳此四君者詩壇無敵之騒将也今十有七紀之佳作移以為ルニ述作則十五之国風二雅之正風オープンアクセス NDLJP:75以加焉又比スレハ老杜菱𢂓十絶歌老蘇濠𢂓七絶則足工部之袂翰林之肩焉豈不奇乎且又用武事文事也六花偃月者文陣也筆陣也紫潭清シテ兮湯池深玄烟凝兮烽燧挙一揮之間智淬白刃詞森ナリ霜鋒百万甲兵発於自胸中則武庫韓白為之巻戦国曹劉為之棄甲寸鉄不シテ施千里决者在武田氏一将之戦功而巳也謾土草雅藁之首

万年葉巣野拙妙安子


 新正口号

淑気未春尚遅 霜辛雪苦豈言 此情愧被東風 吟断江南梅一技

風送鶯意結加 梅辺吟履月横斜 香雪斎前 春若ラハ情吾約セン


 鳥語花中管絃

シテ繁花管弦 共留連 一曲芳春調 数囀黄鶯古寺前


 春山如

簷外風光分外新 簾山色悩吟身 孱顔亦有蛾眉 一笑靄然シテ美人


 古寺看

紺藍無シテ深紅ナル 花下吟遊勝会 身上従教サモアレバアレ詩ノ破戒 盃終日酔春風一


 落花

檐外紅残三四峯 蜂狂蝶酔景猶濃カナリ 遊人亦借漁翁 シテ飛花シム晩鐘


 新緑

春去夏来新樹 緑陰深処此留連 尋常性癖耽閑談 黄鶯杜鵑


 薔薇

庭下暁露濃 浅紅染出又深紅 清香疑自昆明国 吹送薔薇院落

満院薔薇香露新 雨余紅色別留 風流謝傅今猶在 花似東山縹紗


 旅舘聴

空山緑樹雨晴辰 残月杜鵑呼 旅舘一声帰思切ナリ 天涯瞻恋蜀城


 閏月花

妖艶紅花出寿安 風光閏月興猶残 騒人要十三葉 姚家黄牡丹


 便面蘆間有

山色水光烟接 漁翁江上棹蘆辺 丹青若写得得景 万里風波一釣船


 便面有

水緑山青欲雨初シテ 数行鴻鴈度長虚 天涯高処要 蘇卿胡地ナル


 便面水仙梅花

風送清香寂寞浜 諸公携又逡巡 梅胡弟兄約 黄玉花開一様春 オープンアクセス NDLJP:76  便面半月照梅花

昏月横斜欲夜時 梅花秀色似臙脂 湖山踈影茂陵藁 凉水風標元祐枝


 便面蘆間白鷺

蘆葦清風埀頂糸 魚白鷺水生涯 江南記得会遊 梨花院落時


 濃州僧

岐陽九月寒 三冬六出酒朱欄 多情尚遇風流客 士峯雪看

龍宝山宗佐首座予忘年友也一日過シテ一詩巻是吾檀越甲州 賢使君也葉巣老師序其首翁跋分不亦幸乎予狗尾難又昧其素再三辞焉使君家譜公且記一二其先新羅氏奉 朝命旗冑以討貞任宗任之凶賊矣重賞之下勇夫者也以兵器為家伝至宝也爾来以武為家業宜哉武田之為名也今賢守晴信公政事暇崇禅教詩文課西域最勝王経晨拝北野自在神像国家清平故提封益固人民弥康沛然徳教溢乎四境矣然詩也為伝家称許云公之志気不峻拒予於吟玩シテ 止也鳴呼近世儒流决シテ図形名之家復覩此佳篇奇夫詩者以唐為盛詩法源流自李杜張孟十七家各有一体此十七首擬作之一者乎又建安能者惟七大暦才子惟十並以者乎盖十者陰数之極也終而又始七者陽数一変而為陰陽合シテ万物生十七篇而後千章万句積成累篇鉅軸者拭竢焉可謂今代風騒将也孔子曰文事武備武事〈[#「事」の返り点「一」は底本ではなし]〉〈[#「有」の返り点「二」は底本では「一」]〉文備亦云今亦云嘉尚

  文充林鐘日 前龍山睡足叟集尭書