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甲陽軍鑑/品第十八

 
オープンアクセス NDLJP:72甲陽軍鑑巻第九上 品第十八
武田信玄公、御一代の弓矢小合戦、或は城を攻、或は種々武畧なされたる日記なり 
全集ニハ信玄衆生の事ト標目アリ

それれ信玄公おさなき時の御名を勝千代かつちよ殿と申す子細は御ちゝ信虎公二十八歳の時駿河くしま武田三代軍紀ニハ久嶋ヲ福島トスといふ武士今川殿をかろしめ結句甲州を取て巳が国に仕らんとて遠駿の人数を引きぐして甲州飯田河原迄来り、しかも六十五日あまり陣をはり居る其時甲州御一家のしゆこと身搆みかまへをして武田御家既に滅却せんと仕る所に信虎公の家老荻原常陸守と申す大がうの武土武畧をもつて信虎公勝利を得給ふ敵の大将くしまを討取り給ふたる其日の其時誕生有る故勝千代殿と信玄公稚名をつけ申す則ち其時の合戦は勝千代殿の合戦に仕る武田信虎公家老の沙汰なり勝千代殿誕生前に種々の不思儀信州諏訪明神より告げ来ると云々

一勝千代殿十六歳の三月甲府へ勅使立て甲州武田源信濃守大膳太夫と被成させ給ふ又公方万松院義晴公より上野中務少輔御使者として晴と云ふ字を被下晴信公と云々

晴信公三十一歳天文廿辛酉二月出家し給ひ是又勅命をかうぶり法性院信玄公と申候十六歳より弓矢を取てほまれ有りて天正元年癸酉四月十二日五十三歳にて御他界たかいまで終に敵に押付けをみせず御存生の間領内の城一ツを取られず郡を一ツ取られ給ふことなし甲州より八日九日路他国を取り他国の大将の人質をとり給ふよそへは家老の子の一人も不出なり勝頼公御代にも信玄公の御威光にて甲戌、迄二年の間前のごとく有りつるが長篠にて勝頼公をくれを取り給ひてより甲州武田御持の城郡をとられ候さりながら四郎勝頼公長篠をくれの以後もよその強きより少しまし成るは是れ信玄公のあたゝまり少し残りて如此なり一取りそこなひたる城の仕様奥義此書にあり

天文五年丙申十一月廿一日信虎公甲府を打ち立ち信州へ御働きの時信虎公まきほぐし給ふ信州海野口海野口城攻付信虎牢浪の事ト標目アリといふ城を三十四日まきつれども大雪故信虎勢彼の城を責め落す事ならずして同十二月廿六日に甲府へ信虎公御馬を入れ給ふ子息晴信公しんがりとありて跡にさがり甲府へは、ゆかずして本の海野口へもどり其勢三百計りにて御父信虎公八千の人数にて叶はざる城をのつとり給ふこれ信玄公十六歳にて信濃守大膳太夫と申す時しかも初陣の御てがら如此但し名乗りは晴信公と申すなり

天文七年戊戌正月元日に信虎公子息晴信公へ御盃をつかはされず次男次郎殿へ御杯をつかはさるゝさありて正月廿日に板垣信形をもつて信虎公より嫡子晴信公へ仰せつかはさる其旨は太郎殿事駿河義元の肝入きもいりりをもつて信濃守大膳太夫晴信はるのぶと名乗り申され候間此上ながら義元へ付きそひ万事異見をうけ心の至る者の作法さほうもしろしめされ候様にとの義なり晴信公御返事にはともかくも信虎公御意次第と仰せらるゝ重而飯富兵部両使一本ニ飯富板垣両使トセリにて信虎公仰らるゝ趣は当三月より駿河へ晴信御越しありて一両年も駿府にをいてよろづがくもんし給へとあればゆく次郎殿を惣領にして嫡子太郎殿をながく甲府へかへしなさるまじとの模様なり是れ晴信公十八歳の御時也

同年戌の三月九日に信虎駿河へ御座候晴信は三月末に駿河より一左右次第越し給へとて晴信公を甘利備前所に預け二郎殿を御館の御留主に置き給ふ信虎公駿河へ御座故晴信衆内々支度也然る処に板オープンアクセス NDLJP:73垣信形飯富兵部両人を晴信公御頼あり信虎公甲府を御立有て九日目十七日に逆心なり殊に駿河義元と内通し給ふ故少も手間取ことなし信虎公御供の侍衆皆妻子を人質に取り給へは信虎公をすて申御供の侍衆皆甲州へ帰る

甲州にら崎合戦 天文七年戌六月信州の大将衆諏訪頼茂同国ふかしの小笠原長時談合しけるは近国の甲州太郎晴信を父信虎、みかぎりて次男を惣領に仕らんと有故親子中悪して晴信智略をめぐらしあねむこ義元を頼み信虎をば駿河へ追出したると聞ゆる然れ共甲州には父信虎がた、子息晴信方二ツに成て候其上信虎信州のうちを少しおさめ取つれとも今程は甲州さへ晴信手につかずまして信濃のことは思ひもよらさる故村上義清にしたがふ、村上に随はさる者は皆追ちらされたりと申此時甲州へ打入て小笠原殿甲州一国を支配し給はゞ跡をば頼茂とわけにとの談合おはりて諏訪頼茂伊奈侍衆をかたらひ小笠原長時両旗にて都合九千六百の着到を付、甲州にらざき迄打入七月十九日に信州衆荒手を入替日の中に四度の合戦なり先づはじめは諏訪衆を以て一合戦旗本をもつて両度の軍なり小笠原衆先勢をもつて一合戦旗本をもつて一合戦両どの軍なり一日に四度の合戦なり又甲州勢殊に信虎公御追出の砌の成る故かれこれ人数ちり六千余計りなり六千の人数飯富兵部一番合戦晴信公旗本二の勝二番合戦甘利備前是れも晴信公御旗本にて二の勝なり三番合戦小山田古備中なり二の勝は是れも御旗本四番合戦板垣信形是も御旗本にて二の勝なり二の勝といふに口伝あり右四人の侍大将一二三四の鬮取りをもつて如此なり但し御旗本の後そなへ今井伊勢日向大和両人雑兵三百計り一手に作りにらざきたかき処に備を立て是は少しも働かず味方甲州、地戦たりといへども時分がら信虎追出の砌りしかも大将晴信公十八歳にて若くまします敵は多勢なり四度目の合戦には各草臥れあやうかりつるなれども原加賀守といふ侍大将甲府の御留主に有りつるが西郡東郡の地下人或は甲府町人二十歳をきりて五十四五歳までの者どもに古具足をあつめさせ紙小旗をさゝせ古き鑓、または竹の柄に長柄のみを指しこみ目釘をうつてつがう五千ばかりにてさゞめきわたつてにら崎の合戦場へおし来るをみてさすがにたけき信州勢他国へ来りての戦其上前三度の合戦に三度ながらをくれをとりたる故終には晴信公の旗本にて入くづされそれより後かへして戦ふ事もなく晴信公勝利を得給ひ信州勢を討取る其数二千七百四十八、天文七年七月十九日辰の刻より未の半迄の合戦なりにらざき合戦と是を云此軍の勝ちは畢竟して原加賀武畧の故なり是れ信玄公信濃守大膳太夫と申て十八歳の七月なり右の合戦にて晴信公御旗本にてすぐれて走りまはりたる衆は原美濃横田備中安満あんま三石衛門鎌田五郎左衛門多田三八小幡山城六人なり又今井一郎是は其比信玄公御座をなをしたる人にてその年二十歳晴信公に二ツ年ましなり飯富兵部こじうとにて信虎公追出の御談合此今井市郎分別よき故少しも大事なし但にらざき合戦四度目に討死なり又勝れたる中に小幡山城一入大剛のはたらきをいたし候様子は三度の合戦に三度ながら一番に鑓を入れはじめ高名をして四度めには馬を敵中へ乗入れ敵と馬上より組ておち高名を仕り其身七ケ所手負、馬にも六ケ所手を負せ高名のしるしを馬の四のしほ手につけ信玄公の御前へ参り候故諸手にすぐれたりとの御感状をば小幡山城に下さる其身の手負ひたる血馬の疵の血しるし四ツの血にて月毛の馬栗毛のごとくにみへたる故其時分上下共に若き衆ざれごとに月毛の馬の栗毛に成る程武篇をせよと取沙汰あるは此小幡山城の事なり其時分小幡織部と申候小幡山城永禄四年酉の六月病死す子息小幡又兵衛父山城におとらぬ武士なり河中島合戦の武功につきて廿八歳にて父山城ごとくに本のさいばいゆるし下さるなり以上

  天三年乙亥六月廿二日 高坂弾正記之